北奥法律事務所

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芥川賞受賞作「影裏」の映画試写会の感想と、現代に甦る三島文学の世界?(改)

昨日、芥川賞受賞作を原作とする大友啓史監督の映画「影裏」の完成披露試写会が盛岡市内で行われ、とある事情により招待券をいただいたので、拝見してきました。司会の方によれば、一般向けの試写会はこれが初めてとのことです。
https://eiri-movie.com/

冒頭に主演のお二人と監督のご挨拶もあり、ご本人達のオーラもさることながら、職人気質の優等生的な綾野氏と不思議ちゃんキャラの龍平氏が対照的というか、作品とも通じる面があり、興味深く感じました。

作品の説明は省略しますが、純文学そのものという印象の原作を忠実に映画化した作品という感があり、(見たことがありませんので何となくですが)昔でいうところの小津映画のような作品なのだろうと思います。

言い換えれば、ブンガクの世界に浸ることができる人には見応えがあり、そうでない人にはとっつきにくい面はあるかもしれません。

ただ、(ネタバレは避けますが)冒頭の主人公の自宅の描写(映像)にやや面食らうところがあり(作品のテーマを暗示しているわけですが)、綾野氏ファンの方や「筋肉体操の方々よりも細身の男の生々しいカラダが見たい」という方(おばちゃんとか?)にとっては、必見の作品ということになるかもしれません。

全くそうではない私のような者には冒頭は少ししんどいですが、目のやり場に困ったときは、カルバンクラインの文字だけご覧ください。

この作品では主人公が抱えた特殊な事情が重要なテーマになっていますが(原作を読む前からWEB上で散々見ていたせいか、初稿では自明の話と思ってストレートに書きましたが、同行者から「それこそネタバレだ」とクレームを受けましたので、一応伏せることとしました)、小説よりもその点が生々しく描かれているというか、主人公のキャラクターや振る舞いは、流行りのアルファベットよりも、その点について日本で昔から使われている言葉に馴染むような気がしました。

と同時に、もう一つの軸は、震災というより、相方である龍平氏演じる男性の特異なキャラと生き様であり、それを一言で表現すれば、「虚無(又は滅びへの憧憬ないし回帰)」ということになるかと思われます(この点も書きたいことは山ほどありますが、一旦差し控えます)。

で、それらのテーマからは、かの三島由紀夫が思い浮かぶわけで、小説版ではその点を意識しませんでしたが(そもそも、私は三島作品を読んだことがほとんどありません)、映画の方が「三島文学ちっく」なものを感じました。

とりわけ、本作が「主人公たちが無邪気に楽しむ岩手の自然や街並みの風景」を美しく描くことにこだわっているだけに、「文学的な美」という観点も含めて、この映画は、意図的かそうでないか存じませんが、「生きにくさを抱えた美しいものたちと、それらが交錯する中で生まれる何か」といった?三島文学的な世界観を表現しようとしているのではないかと思う面はありました。

もちろん、「若者は、本当に好きな人とは結ばれず、折り合いがつく相手と一緒になるだけ」というオーソドックスな(ありふれた?)恋愛映画との見方も成り立つでしょうから、そうした感覚で気軽に楽しんでもよいのではと思います。

私は昨年に原作を読みましたので、原作との細かい異同を垣間見ながら拝見しましたが、同行者は全く原作を読んでおらず、「一回で理解しようとすると疲れる映画」と評していました。この御仁が「ここはカットしても(した方が)よい」と述べたシーンが幾つかあり、それが悉く原作にはない映画オリジナルのシーンでしたので、その点は、同行者の感性を含めて興味をそそられました。

個人的に1点だけ不満を感じた点を述べるとすれば、龍平氏(日浅)にとってのクライマックスシーンで、「あれ」を全面的に描かないのは、ストーリーの性質上やむを得ないとは思うのですが、できれば、直前ギリギリまで、言い換えれば、引き波が姿を現す光景までは、主人公の想像という形で構わないので、描いて欲しかったと思いました。

原作には、主人公が、日浅の根底にあるメンタリティ(倒木の場面で交わされた言葉と思索)を根拠に、日浅は「その瞬間を自らの目で見たいと思うはずだ」と語り、その瞬間を目にした(直に接したのかもしれない)日浅が浮かべたであろう恍惚の表情を想像したシーンがあったと記憶しています。

私は、巨大な虚無を抱えた日浅が圧倒的な光景の前で恍惚の表情を浮かべる光景(そこには虚無の救済という三島文学論で語られていたテーマが潜んでいるはずです)こそが本作のクライマックスではないかと思っていましたので、その点が映画の中でストレートに描かれていないように感じたことには、映像化に難しい面があるのだとしても、少し残念に思いました(日浅の思想自体は、映画のオリジナルシーンで、ある人物が代弁しています)。

とはいえ、「性的な面が意識的に描かれる主人公と、全く性の臭いを感じない日浅」という点も含め、作品全体を通じて不穏・不調和な雰囲気が漂う本作は、通常の社会内では品行方正に生きているのであろう主人公が抱えた「本当はこの社会が自分には居心地の悪い世界だということ」、そして、主人公にとっての平穏ないし救いもまた、社会の側(映画を見る側の多数派)にとって、どこか居心地が悪く感じるものなのだろうということを、主人公のコインの裏側のような存在であるもう一人の人物(本当は社会と不調和を起こしている主人公の代弁者のような役割を担っているように見えます)にとってのそれも含めて映像として描いている作品であることは間違いなく、大人向けの純文学の映画としては、十分に見応えがあるのではないかと思います。

ちなみに、この映画は、とある理由で、中央大学法学部のご出身の方には、ぜひご覧いただきたいと思っています。そして、この大学(学部)のカラーが「やるべきことを地味に地道に積み上げて、あるべき場所に辿り着く職人」だということを知っている人には、この映画のあるシーンを見たとき、敢えてウチの看板が使われたことの記号的意味に想像を巡らせながら、苦笑せざるを得ないものを感じるのではと思います。

原作では、大学名が出ず法学部政治学科とだけ書かれていましたが(映画では学科の表示があったか覚えていません)、それだけに、中央大学法学部政治学科卒で、しかも心に何らかの虚無を抱えて生きるのを余儀なくされている?ホンモノの岩手人としては、余計なことをあれこれ考えさせられる面があったように思います。

あと、せっかくなので、ご覧になる際は、エンドロールを最後の方まで目を凝らしてご覧くださいね、というのが当事務所からのお願いです。

余談ながら、試写会なるものに参加したのは初めてですが、終了時に関係者の方から「これで終了です。ご来場ありがとうございました」のアナウンスがあった方がよいのでは?と思いました(終了後も何かあるのか、そうでないのか分からず、帰って良いかそうでないのか判別しかねますし、試写会なので、最後に関係者の一言で皆で拍手する?といったやりとりもあった方がよいでしょうから)。

最後に、私の密かな野望である「大戦の戦渦からシンガポール植物園等を救った田中舘秀三教授の物語」の映画化は、いつになったら実現できるのやらという有様ですが、大きな代償と引き換えに?、某プロデューサーさんによれば、企画案自体は監督にも伝わったとのことです。願わくば、「男達の熱い物語」の作り手として現代日本に並ぶ者がないであろう大友監督の作品として、いつか世に出る日が来ればと、今も岩手の片隅で願っています。

新天皇陛下のご即位と万歳三唱の現在

先日皇居で行われた即位礼正殿の儀は、私もTV中継を拝見していましたが、ある方が「万歳三唱に少し違和感がある。それよりは君が代を歌った方がまだよいのでは」と仰ったのを機に、あれこれ考えが頭をよぎりました。

私の場合、儀式内容そのものに特段意見があるというわけではないのですが、TVのコメント等で「高御座は古代から用いられていた」とか「平安絵巻云々の装束等」の説明ばかりが繰り返されているのを見ると、「おことばも総理の寿詩も万歳三唱も、幾ら何でも当時は無いでしょ(明治以前に太政大臣が祝辞を述べたなんて話があるのでしょうか?)、そちらの方(大日本帝国が始めたことや個々の行為の由来や意義など)や平安朝~明治までの話には、どうして触れないんですか(TVで扱えない理由でもあるんですか)」と、その点ばかり気になって、後で少し調べていました。

恥ずかしながら、万歳三唱の由来も存じなかったのですが、wikiによれば、もともと中華皇帝の寿命を「万歳(1万年)」と称したのが言葉の発祥で、日本では大日本帝国の草創期に練兵場で軍人が明治天皇に向かって歓呼したのがきっかけとなり、それまで天皇に対し群衆が歓呼する言葉(様式)がなかったため、明治政府の検討を経て定着したのだそうです。

で、万歳(三唱の歓呼)とは「天皇陛下の健康と長寿を(臣下が)祈念すること」とのことですので、括弧内の部分はさておき、(本質的には古代から中世、現代に至るまで)日本国統合の象徴的権威であり続けた天皇の役割に照らし、国民が万歳三唱をする(弥栄を言祝ぐ)こと自体が、直ちに間違っているという印象はありません(但し、天皇と中華皇帝は役割・本質が全く異なるため、その点はどうかとは思いますが)。

ただ、それでも「天皇陛下を人民(の代表たる総理)が仰いで万歳三唱する光景」に一定の違和感が生じざるを得ない(複雑な気持ちを抱く人がいる)のは、やはり15年戦争(大東亜戦争=日中・太平洋戦争)の出征風景やバンザイ突撃に象徴される、全体主義的な(「みんなの都合」で個人や他者に理不尽な犠牲を強いた挙げ句に敗亡した)悲惨で暗い時代の記憶が、今も国民に共有されているからなのだと思います。

言い換えれば、万歳三唱という言葉・儀式ないし意味自体に罪はないものの、あまりにも残念な使われ方をされてしまったため、「ケチがついた」と言わざるを得ない面があるのではと感じています。

万歳三唱は、平成(上皇)の即位式でも行われましたが、昭和は戦前も戦後も(たぶん右も左も)、良くも悪くも集団主義(悪く言えば全体主義)の時代ですから、その総括がなされていない状況で、海部首相が万歳三唱をすることに違和感を呈する人は、(反政府ないし反自民など、一定の立場のある方を別とすれば)あまりいなかった(そのような声は、戦争の記憶がまだ色濃く残っていた割に、ほとんど出なかった)のではと思います。

これに対し、平成は(個人主義とまで言うかは別として)良くも悪くも集団主義が解体されていった時代なので、それなのにまだ万歳三唱なのか(今もそれしかないのか)、と違和感(時代遅れ感?)を感じた国民は、少なくとも平成元年よりは多くいたのではないか、というのが私の印象でした。

私は万歳三唱の間の今上陛下の表情をずっと拝見していましたが、その際の表情は、TV解説者がしきりに強調していた「自然体」というよりは、ある種のぎこちなさというか、硬いものであった(少なくとも、万歳三唱されて喜んでいるという様子ではなかった)ように感じましたし、それが「重責を担う緊張感によるものだ(に過ぎない)」という理解だけで良いのか、「国民一人一人の喜怒哀楽に寄り添う」ことを象徴のつとめとして掲げた平成・令和の両天皇の姿勢などを踏まえて色々と考えさせられる面があったように思います。

そうであればこそ、昭和の時代はまだしも、平成の30年間(或いはこの1年間)に「次も万歳のままでいいのか、天皇制を言祝ぐ、ケチのつかない別な言葉(儀式)を考えるべきでは」という議論があって良かったのかもしれません。

それこそ、現在の即位式のあり方に批判的な左派勢力などから即位式のスタイルに関する新たな提案があっても(そうした形で議論の先鞭を付けても)良かったと思いますが、政治関係者がこのテーマで世論喚起するのは難しいでしょうから、いっそ社会派志向のあるお笑い芸人とか文化人の方々などが、万歳三唱に代わる現代の=新天皇に相応しい別な言葉(儀式)を考える試みなどがあってよいのではと思ったりもしました。

また、本当は、こうしたこともTVでは議論されるべきでしょうから、一局くらいは、せめて儀式の直後にでもそうした朝生的な討論番組を行ってもよいのでは、とも思ったりしました。

ともあれ、こうした儀式を拝見すると、改めて、天皇は現在もなお神の依代としての役割を期待されている(国家・国民により担わされている)のだろうと、その重責に対し、ある意味、気の毒に感じます。

見方によっては、天皇もまた、万歳のかけ声と共に、理不尽な役割を強いられている存在なのかもしれませんし、陛下の表情は「今も(社会統合のため)現人神(依代)を必要とし続けることに、皆さんは本当にいいのですか?」と語っていると解釈する余地もあるのかもしれません。

そして、そうした感想と共に、この制度(いわゆる国体)の数十年、数百年後の姿について色々と考えさせられたという点で、TV特番を拝見したこと自体は大いに意義があったと思います。

木伏緑地の華々しい新装開店と、歴史の彼方に消えた?先人達の魂

先日、所用のついでに、先日に全面改装された北上河畔にある「木伏緑地」に立ち寄ってきました。

木伏緑地は以前から小さな公園(後記参照)でしたが、Park-PFIという手法により、多数の民間店舗を公園内で営業させ、その営業利益を元手に公園の整備を行ったのだそうで、オープン時に盛んに報道されたとおり、横浜ベイエリアあたりから飛び出てきたようなお洒落な飲食店が立ち並び、江戸期(京文化移植)以来、都会が大好きな盛岡市民の方々には好評を得ているようです。

が、これから寒くなる一方なので、紺屋町あたりにありそうな、イケてないおじさんなども気軽に立ち寄れる「おでんと熱燗のお店」も配置した方がよいのでは、と余計なことも思ったりしました。

ところで、この界隈(緑地)の北側には「谷藤翁顕彰碑」なるものが建立されています。谷藤翁といっても現職の盛岡市長さんではありませんが、谷藤市長の直系のご先祖さんであることは間違いないはずです。

碑文によれば、明治の初期に盛岡駅が開設された際、当時は夕顔瀬橋以南に道路がなく、北側の往来は「盛岡駅→開運橋→材木町→夕顔瀬橋」という迂回を強いられるなどしていたため、盛岡駅北面の大地主で実業家でもある谷藤家の当主が、私費を投じて盛岡駅(開運橋西袂?)から夕顔瀬橋までの道路を開設したので、それを顕彰するのだと書いてありました。

そして、その際、その道路が「木伏街道」と呼ばれたのだそうで、これが木伏緑地の名称のもとになったようです。

この「木伏」という字、これまで、てっきり「きぶせ」だと思っており、今回初めて「きっぷし」という呼び方だと知ったのですが、聞いた瞬間、それってアイヌ語由来なのでは、と思って調べたところ、やっぱりそうだ(そして、このエリアの元々の地名だった)ということが分かりました(下記引用の「もりおか歴史散歩」の記事を参照)。
https://blogs.yahoo.co.jp/fiwayama/12270884.html

余談ながら、FB上で「盛岡駅に勤務する人達が住んでいたから、切符士が転じて木伏になったと聞いた」と投稿されている方を見かけたのですが、「切符士」で検索しても、そのような言葉自体が出ませんでしたので、恐らくは噂話の類かと思われます。

ともあれ「木伏緑地」なる名称を誰が付けたのか分かりませんが、アイヌ語(きっぷし)と漢語(りょくち)の相性が良くないというか、実に言いにくい(音のつながりが悪い)ので「きぶせ(りょくち)」に読み替えた方が楽だというのが正直なところではあります。

が、盛岡市内にはアイヌ語=古代からの地名がほとんど残存していないので「きっぷし」なる地名は貴重で、味気ない「緑地」の方を他の言葉に代えるべきと思われます。

「きっぷしひろば」など、和語とくっつけるのが手っ取り早そうですが、広場などというありふれた言葉では有り難みがないので、いっそ、アイヌ語で、この場所に相応しい名称(河畔の台地にあたるような言葉)があれば、それを拝借するのが良いのでは、と思ったりします。

wikiによれば小さな集落をアイヌ語で「ポンコタン」というのだそうで、例えば「キップシ・ポンコタン」などと改名?するのも良いかもしれません。

ところで、この場所は少し前まで「啄木であい道」と称され啄木とその関係者の歌碑群が設置されていましたが(引用サイト等を参照。検索すれば同種記事は多数出てきます)、現在それらは全て姿を消しているようで、「であい道」の面影は全くありません。
http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/takudeaimiti.html?fbclid=IwAR0FsQP_DkO4L3Nxe3G09ugrEQ_E-Uw1kZCOSF8GJCkyi9NZYXIKEhSfJaU

歌碑群はどこかに移設されたのか、それとも無残に廃棄されてしまったとでもいうのか、少し検索した限りでは該当記事が見つからず全く分かりませんが、これを撤去したのは、早計だったのではと感じます。

というのは、「緑地」の飲食店群はそれなりに「都会のオサレ感」が満載ではあるものの、その周囲には、悠々と流れる北上川や少し離れて望む開運橋などを別とすれば、殺伐というか、お店しかオサレ感を出すものがなく、芸術云々など他のオサレ装置がない(言い換えれば、空間全体のオサレ設計が足りない)ため、オサレ感目当てに来た人にとっては物足りないというか、実に寂しい感じがします。

例えば、飲食店群が並んでいる通り(緑地の本体)の下にある河川敷の草原部分に、それら石碑をセンスよく再配置(移設)すれば、階段を降りて歌碑を見に行かなくとも、店舗群(丘の上)から歌碑群を見てオサレ感を相応に満足させることができるのではないか(ちょっとした石碑公園=プチ石神の丘感が出るのでは)という感じがします。

もちろん、(増水時を別とすれば)時間のある人はついでに降りて歌碑群を見に行けばよいでしょうし、岩手公園まで行かなくとも、北を眺めさえすれば「ふるさとの山に向かいて言うこと無し」と勝手に呟いても様になりますので「ここでしか得られないナッタ鬼感」を味わえるのではと思われます。

さらに言えば、この草原(河川敷)部分は夜間は真っ暗ですので、土日など盛況の際はLEDで歌碑群や川面などを照らせば、夜も華やかな雰囲気が多少は出るのではと思います。

啄木であい道は、盛岡市内(中心部)には、啄木新婚の家(と盛岡城の歌碑)しか啄木遺産(ゆかりの場所)がないという点を踏まえて、住民と来訪者に「啄木ワールドをもっと伝えたい」との思いで作られたのではないかと思われます。

それだけに、緑地がオサレ改装すること自体には何の異議もないものの、「啄木であい道」の姿を抹殺してしまうことには疑問を感じざるを得ません。

啄木であれ、さらに古い先人達であれ、その息づかいを何らかの形で残しておくことが今回の改装の際に留意されるべきではなかったか(それが十分になさず、都会的なものの移植に止まっていることが、上記の「物足りなさ」の背景にあるのでは)などと感じないこともありません。

もし、今も歌碑が残っている(どこかに保管されている)のであれば、そのような「歌碑の生かし方」を関係者の方々には考えていただきたいところです。

英国首相とよく似た、広島の知られざる?大物弁護士

EU離脱の是非を巡って物議を醸している英国のジョンソン首相については、風貌などが何かと話題になると共に、率直な?キャラクターが人気を博しているようです。
https://www.asahi.com/articles/ASM9C4H4RM9CUHBI01Q.html

大学の同期で受験生仲間、しかも同じ年に合格した上に司法研修所のクラスまで同じ、という男が広島で弁護士をしているのですが、奴は、

「髪はボサボサ、いつも何か面白いことを言ってやろうと狙ってるお調子者で、クラスの人気者。孤高な一面もないわけではないが、気さくで話しやすく、服装や髪形には無頓着で憎めない。頭も育ちもそれなりに良く、案外、色々なことを考えたり蠢動したりもする(が、それをあまり生かし切れていない)」

という御仁で、その点でジョンソン首相によく似ているような気がします。

大卒(浪人)1年目か2年目のS法会の夏合宿の際、次のような「忍者ハットリくんの歌」の替え歌(歌詞)を彼のテーマソングとして作ったのですが、それが私の記念すべき?替え歌第1号だったりします(○○部分は彼の名前がそのまま入るので、さすがに伏せました)。

*********

山を飛び 谷を越え
S法会へ やってきた
○○○○○ やってきた

怪しいまなこに 減らず口
ボサボサあたまに 中国人民帽

目もあてられぬ 屁理屈で
ボールが投げられストライク

おさる おさるだ ○○○○○
味方か敵か シンタでござる シンタでござる

********

もっと世に出て来て欲しい(それに値する)男なのですが、ネットで検索すると、商売っ気のない事務所サイトと地元での幾つかの仕事ぶりなど限られた情報しか表示されず、少し残念に思っています。

ぜひ、地元の方々は彼を表舞台に引きずり出していただければと思いますが、案外、フィクサーとして暗躍しているのかもしれません。

もしかすると、朝寝坊癖がまだ尾を引いているのかもしれませんが・・・

おっと、「それはお前のことだろう」と仰る方々が岩手弁護士会方面などから来たようです。

多世代交流と家庭の葛藤を通じて学ぶリーガルマインド

もう終わってしまいましたが、夏休みにはご自身の実家に帰省し、三世代や四世代が揃って楽しい時間を過ごされた方も多かろうと思います。

私自身は父が実家の承継者のため帰省にはあまり縁がありませんでしたが、中学1年の冬まで曾祖母が存命で(享年99歳と聞いています)、最期まで自宅で暮らしていましたので、当時のことは相応に覚えています。

曾祖母は私の出生直後(当時90歳)に大怪我をして歩行不能になり寝たきりを余儀なくされたのですが、私の実家は曾祖父母が商人として人並み外れた努力をして作り上げた家なのだそうで、「二戸では相応の規模の商家」の象徴的存在として、地域の多くの方から敬われていました。

私が幼稚園か小学1~2年くらいの頃、ある程度は意思疎通が可能であった曾祖母は、私と兄(3歳上)をベッドの枕元に呼びつけることがしばしばありました。

その際は、私が隣室で待つように言われ、枕元には兄だけが立ち、曾祖母は「立派な人になりなさい」的な話(当時の兄談)を数分ほど何やらムニャムニャ宣った後、兄が小遣いを渡され、次いで、私が呼ばれて小遣いを渡される、というのがお決まりの光景でした。

小遣いは100円程度で、金額に違いがあったかは記憶にありません(たぶん、同じ額だったとは思います)。

ともあれ、私はこの「儀式」が子供心にあまり好きではありませんでした。言わずもがなですが、自分が差別されているように感じたからです。

裏を返せば、幼年期の私は、誰のどんな教育によるものかは分かりませんが「兄弟だろうと誰であろうと天地に人の上下無し」的な感覚(戦後民主主義思想?)を多少なりとも持っていたのだろうと思います。

ですので、幼い私一人だけが、家族はもちろん多くの方々に立派な人格者として尊敬されていた曾祖母を、若干のわだかまりを抱きながら、誰にも言うことなく小さく見つめていたような気がします。

で、何のためにこの話を書いたかと言えば、もちろん、曾祖母ないし実家の悪口を書きたかったわけではありません。

司法試験受験生(大学及び浪人)時代が典型ですが、私は実家から強い経済的庇護を受けて育っており、正直なところ司法試験に合格したその瞬間まで、ただの一度も「金に困った」経験をしたことがありません(後日、修習末期にペルー旅行で生活費を使い果たして本当に困ったことが一度だけありますが・・)。

ボーイスカウトや学習塾、域外の高校進学なども含め、二戸という片田舎で生まれた少年としては、かなり恵まれた育ち方をしたことは間違いないと言ってよいと思います。

但し、物心ついたときから「貴方と兄とでは役割や立場が全く違う、貴方は家から出て行かなければならない人間である」ということは、陰に陽に強く言われており、経済的庇護も、そのことと不可分一体のものだろうと感じて生きてきました。

ですので、感謝したくてもしきれない、わだかまりのようなものを絶えず抱いていたような気もします。

そして、曾祖母の件でも述べたとおり、そうした実家の論理に一定の合理性や必要やむを得ない事情を感じつつも、他方で、それと異なる論理(正義)も自分にはかけがえのないものとして感じており、その「相対立する二つの正義」に揺さぶられ、時に戸惑いながら育ってきたのだろうと思っています。

私は大学で憲法の勉強をはじめて間もなく、その年に司法試験に合格された非常に優秀な先輩に「憲法学とは、相対立する二つの正義について、どちらかが一方的に正しい、間違っているというのではなく、双方ともかけがえのないものだという前提に立って、現実に即した調和点を探る学問である」という趣旨のことを教わりました。

もとより、離婚訴訟であれ企業間紛争などの類であれ、多くの事件が「正義と悪の対決(悪い相手方を懲らしめろ、やっつけろ)」ではなく、互いに相応の正義(事情)があり、また、程度や濃淡の差はあれ互いに残念な事情も抱えており、それらを全て見据えた上で、自身の立場を踏まえつつも落としどころを探るのが望ましい仕事のあり方である、ということは、皆さんもご存知のところかと思います。

そのように考えれば、期せずして、私は弁護士としての適性を育みやすい環境にあった(広義の教育を受けた)ということも言えるのかもしれません。

果たして今、自分がそうした「いつかは深く考えることができるかもしれない環境」を次世代に提供できているのか、大変心許ないところではありますが、皆さんにおかれても、そうした観点も含めて、帰省或いは多世代交流の意義などというものを考えていただければ幸いに思っています。

「鶏とニンニクの聖地」岩手青森県境に、ブエノチキン・インスパイア系名物を

先日放送されたTV番組「ケンミンショー」で、沖縄で愛食される「ブエノチキン」という、鶏肉にニンニクを詰め酢に漬け込み丸焼きした商品が特集されていました

盛岡なら平船精肉店のローストチキンのイメージですが、ビールとの相性は、より高いように見えました。

鶏肉は沖縄県北の若鶏(他の原料の出所説明は無し)とのことですが、ニンニクと言えば青森県田子町(生産量も品質も日本一)、鶏肉も岩手県北が日本トップクラスの生産地だというのに、それを組み合わせた地域の名物を聞いたことがありません。

そこで、青岩県境の方々が次のような素材を持ち寄り、地域ならではの「ブエノ・インスパイア系チキン」を開発いただいてもよいのではと思われ、関係者のご尽力を期待したいものです。

・鶏→あべどり、菜彩鶏など(二戸及び周辺地域産)
・ニンニク→田子産
・醤油→ワダカン(十和田)?
・酢→ワダカンまたは津軽のりんご酢?

可能なら、現在、二戸ではホットな話題とされる「金田一温泉の再開発」の目玉商品にしていただいてもよいのかもしれません。ちょうどエリアのど真ん中ですし。

とりわけ、岩手青森県境(二戸と田子)は、かつて日本最大級の不法投棄被害に遭った場所ですので、それだけに両地域が協力して日本に明るい話題を提供することが期待されているのではと思っています。

余談ながら、盛岡北ロータリークラブでは、ホテルルイズが屋上バーベキューをはじめて以後、昨年まで毎回、8月例会はルイズで行っていたのですが、ルイズの廃業により、今年はレストランでの開催となりました。

今年は、私が8月例会の名目上の担当者だったので、あれこれ調べたのですが、市内(中心部など)でバーベキューが(平日夜に手ぶらで気軽に)できる商業施設というのは基本的に無いようで、残念に思います。

昔から「北上河畔や中津河畔に贅沢バーベキュー(今流行りのグランピング的な)ができる店舗があれば」と思っていますが、例えば、現在、工事中の木伏緑地などに、そうしたものを設けるのは難しいのでしょうか。

いっそ、盛南地区に移転し損なった市役所を盛岡駅南西に現在も広がるJRの敷地(盛岡中心部の最後の開発聖域?)に複合施設でも作って移転させ、跡地にそうしたものを作っても良いのでは?と思ったりもします。

久しぶりに再開した「京一郎とはるみシリーズ」で知多半島の大規模バーベキュー施設が取り上げられており、そうした余計なことばかり考えて拝見していました。

冬の県北と今年のスキー

かなり前の話で恐縮ですが、2月上~中旬ころ、立て続けに二戸の裁判所に仕事がありました。当時、すでに盛岡は全く雪のない毎日晴天の日々でしたが、新幹線のトンネルを抜けて二戸に出ると、そこは地吹雪体験の世界でした。

ある期日の際は、帰りの新幹線に間に合わず、恐らく20年ぶりに銀河鉄道に乗りました。新幹線よりも遙かに秀逸な車窓風景を久しぶりに眺めながら、特急の車内で銀河英雄伝説を読み耽っていた高2の夏を懐かしく感じました。

君のせて銀河の歴史が一ページ

2月下旬になって急を要する仕事が片付き少し余裕ができたので、ようやくスキーに行くことができました。しかし、今年の盛岡圏は雪は降らず晴天ばかりの日々であったせいか、サラサラの粉雪には遠い状態で、

滑りぞめ今年もやっぱり春スキー

という有様でした。

今年は合計で3回のみのスキーで、1回目が岩手高原、2回目は雫石に行きましたが、現行のリフトの終点の先にある、昔のゴンドラ駅の跡のあたりは標高のせいか良質な雪が残っているようで、「ハイシーズンの週末だけでもゴンドラを運行し、そこまで行けるようにして欲しい」と思わずにはいられませんでした。

雫石には修習中に少しだけ行き、第1ゴンドラに乗ってメンズダウンヒルコースを若干滑走したことがありますが、第2ゴンドラ=レディスダウンヒルコースは行く機会がないまま終わってしまい、ゴンドラ自体も無くなってしまった今、あの頃に一度だけでも行っておくべきだったと悲しみを禁じ得ません。

山頂の粉雪恋し雫石  双頭龍も夢のまた夢

ともあれ、雪はグシャグシャ、地面も表出という絵に描いたような春スキー状態のゲレンデ下部を抜けて麓に戻ると、足元の雪まで陽光のため下山中に解けてしまったように見えました。そうした光景に春の訪れを感じつつ、某ジブリ映画にひっかけて一句。

雪しずく春の麓に着きし間に

その翌週(三週目)は、修習中に一度だけでも行きたいと思いながら、安比ばかり行きたがる修習仲間に引きずられ?一度も行けずに終わった夏油高原スキー場に、あれから20年を経て、ついに初めて行きました。

こちらの雪も、ほぼ春スキー状態にはなっていましたが、それでもまずまず快適に滑走でき、ようやく宿願を果たすことができました。

帰路には、思うところあって北上パル(イオン)の「ドムドムバーガー」に立ち寄りました。子供の頃の休日は盛岡には縁が薄く、映画などは八戸に来ることが多かったのですが、当時、本八戸駅にあったドムドムバーガーでマヨネーズたっぷりのテリヤキバーガーを食べて帰ることが何度かあったと記憶しており、久しぶりに食べてみたいと思って立ち寄ったのですが、30~35年ぶり?にいただいたテリヤキバーガーは、思ったほどマヨネーズたっぷりではないようにも感じ、「思い出の味」は追憶の彼方といったところです。

できれば、その次の週にも、修習以来ご無沙汰になっている下倉スキー場に行きたかったのですが、寝坊で行けず来年に持ち越しとなり、昼から仕事に明け暮れるいつもの日々となり、その点は残念でした。

私はゴルフやテニスその他の「大人の社交スポーツ」を全く嗜むことができず、無雪期の唯一の嗜み(生き甲斐?)である登山(トレッキング)も仕事に追われて15年ほどご無沙汰になっているため、せめて、スキーだけでも死ぬまで続けていきたいと思っていますが、残念ながら現在のところ、家族(の一部)以外に同行して下さる方がおらず、どうにかならないものかと思っています。

ふたつの「もりおか」と地域のアイデンティティ

盛岡には「杜稜」と称する施設や団体などが幾つかあり、この古めかしい中国語は訓読みで「もりおか」になるため、盛岡を表す雅語として古くから親しまれており、企業名などを含め、市内で多く使われています。

他方で、先日の地元のネット記事で初めて知ったのですが、中ノ橋・肴町周辺のエリアは「杜稜地区」と称されているのだそうで、その地区に杜稜小学校もありますので、定義が混乱しているというか(「河南地区」とどう違うのでしょう?)、遠方出身のヨソ者には内実が非常に分かりにくい言葉だと感じています。

肴町周辺エリアが杜稜なる名乗りの発祥だという歴史でもあるのでしたら、ぜひご教示いただきたいのですが、或いは、過去の一時期に、そうした「流行り雅語」に飛びついた方々が市内にいて、それぞれが勝手に「杜稜」を名乗った状態が続いて現在に至っただけなのではと想像しないこともありません。

ちなみに、岩手県庁の公務員の方など(外郭団体を含む)が住宅ローン等の際に利用する公務員の互助組織たる金融機関は「杜稜信用組合」というのですが、これは盛岡信用組合と名乗っているものに他ならないので、盛岡以外の出身の県職員等の方々は、名称変更運動をしなくてもよいのかなぁ(アイデンティティを考えれば、岩手公園などよりも遙かに名称変更の必要があるのでは?)と感じないでもありません。

個人的には、「岩手信用組合」だとつまらないので、当県が南部と伊達の混成県であることを踏まえて「ナンダ信用組合」とでも名乗っていただければ、全国の皆さんの関心を惹きつけることができそうな気がします。

かなり前のことですが「杜稜地区」に関する記事を見つけたので、毎度ながら下らないことを考えて投稿させていただいた次第です。
http://www.morioka-times.com/news/2018/1809/28/18092801.htm

負けるな牛丼の友

かなり前の話で恐縮ですが、歌人としての活躍を期待されながら、若くして命を絶ってしまった方を紹介する記事を読んだことがあります。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/480831/
https://www.hikipos.info/entry/2019/03/28/070000

一般企業で就労するのが難しい方とのことで、非正規従業員として就労しながら短歌を発表していたそうですが、拝見すると啄木っぽい雰囲気もあり、残念に思います。

私も、大学卒業後はS法会の先輩に紹介いただいた「公立中学校の警備員のバイト」を終えた朝方に、S家の豚汁牛丼セットでぜいたく気分を味わって帰宅するも、腹が・・・という生活をしていました。

ぼく浪人 今年も落ちる秋がきて
牛丼屋にて牛丼食べる

銀座のイソ弁時代の夕食は、新橋駅近くのY家が利用頻度の最も多い場所で、事務所に戻って書類を見返した途端に腹が・・・という有様は変わらずでした。イソ弁も非正規のようなものと言ったら怒られそうですが(当時は分不相応の給与をいただき、おかげさまで開業できましたので)、ネオン街に消えていく皆さんとはついにご縁がありませんでした。

ぼくイソ弁 起案に追われる夜がきて
牛丼屋にて牛丼食べる

震災から数年経ち、昔と異なり胃は丈夫になりましたが、町弁冬の時代(或いは業界内格差)の影響で、1年ほど昼はスーパーの半額おにぎりとカップ麺に依存していました。現在は、某パスポートのお陰もあり、多少は食生活は改善しています。

ぼく町弁 運転資金がひもじくて
冷凍おにぎりチンして食べる

そんなわけで、この業界を目指す皆さんに向けて最後に一言。

法学の友よ、負けるな 
ぼくもいま事件に右往左往している

盛岡を舞台とした映画を制作する方々の光景と、その影裏で?盛岡出身の偉人の物語の映画化を目指す男

先日の盛岡北RCの例会は、当クラブきっての顔の広さ(社交力の凄さ)を誇るTさんのご紹介で、大友啓史監督とタッグを組み同監督の映画作品などのプロデューサーを務めておられる五十嵐真志さんという方(引用サイトの運営企業の役員さん)がゲストとして卓話をして下さいました。

主として、来年上映予定の芥川賞作品「影裏」(綾野剛・松田龍平の共演作品。沼田真佑原作)の制作過程や作り手の方針などに関する説明があり、若干のマル秘話のほか、市内各地のロケや大友監督の作品にかける思いなどを説明されていました。

昨年頃、盛岡の方が近所でロケが行われていたのを発見したとfacebookで投稿されていたのを拝見していますが、ロケ地の写真などもプロジェクターで紹介されていました。

で、スピーチの最後に、この映画は大企業のみがスポンサーとなっていた過去の大友作品と異なり協賛を広く募っており、とりわけ「オール岩手ロケで、岩手の作品として世に送り出したい」とのコンセプトから、盛岡をはじめ岩手県内の企業さんに対応可能な金額で協賛者になって欲しいとの呼びかけがありました。

基本となるコースは、相応の規模の企業や資産家の方でないと気軽にイエスと言える額ではないようですが、エンドロール等に出るだけでなく自社商品に「影裏」の文言を用いて販売等することも了解するほか(すでに県内の某著名酒造メーカーが特製日本酒を販売する方向で準備中とのこと)、大友監督との対談などの特典も付いてくるのだそうです。

そんな額は無理という方でも、多少無理をすればどうにか賄える程度?の協賛口があり、詳細は忘れましたが、そちらもエンドロールで名前が出るほか試写会招待などの特典もあると聞いたような気がします。

というわけで、同作品を応援したいとか、商品展開も含めた宣伝に乗り出したいという方は、ぜひ、五十嵐さんまでお問い合わせ下さい、というか、連絡先知らんぞという方は、名刺をいただきましたので、ご遠慮なく私にお申し出下さい。

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・・と、ここまで、どうして頼まれたわけでもないのに、協賛などの類にはご縁のない「運転資金の調達に日々追われる田舎町弁」の私がこんなことを書いているかというと、そこには一つ、重大な下心がありました。

皆さんお忘れかもしれませんが、3年ほど前「太平洋戦争下のシンガポールに二戸生まれで盛岡出身の変人学者さん(田中舘秀三・後の東北帝大教授)が突如現れ、世界遺産・シンガポール植物園と大英帝国が有する東南アジアの貴重な学術資産群を陥落に伴う戦火や略奪から守った物語(あらすじ案)」を本ブログで延々と連載し、いつか映画化を目指したい!などと恥も外聞もなく途方もないことを書いたことがありました。

もちろん、戦時下に重要な役割を果たした同郷の方を顕彰したいというだけの気持ちからのことでしたが、その後は、何をすることもなく(一度、本格的な研究者らしき方からDMをいただき大変驚いたことはあります)、無為のまま現在に至っていました。

そこで「このあらすじ案を大友監督に渡して映画化して下さい」などと馬鹿なことを申すつもりはありませんが、沼田氏であれどなたであれ、五十嵐さんの人脈に連なる方で、この秀三先生の物語に関心を持っていただける方がいれば、それをとっかかりに、本物の小説家による新たな小説完成→いつかは大友作品へ、という野望もありうるのでは・・との儚い夢を抱かないではありませんでした。

が、さすがに、手ぶらで「あらすじ案」を渡しただけでは「なんだこの変な奴は」の一言でおしまいというか、少年ジャンプの編集者に駄作を持ち込み封も開けてもらえず突っ返されてトボトボ田舎に帰る哀れな高校生並みの話になるでしょうから、せめて、誰か協賛金のお力になって下さる方がおられれば、それを手土産に・・という他力本願なことを思いついた、というのが本投稿の率直な動機です。

というわけで、(私のことはさておき)大友監督作品のエンドロールに載りたい、いや、対談もしたい(かなりお金はかかるけど・・)という方がおられば、ご遠慮なく私までご連絡下さるようお願い申し上げます。