北奥法律事務所

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二戸地域など

天台寺に集う魂の華と金田一温泉に命水を求めて

5~10年ほど前から、毎年7月中旬に実家より「草刈りをしに来い」との出頭命令を受けるのが通例となっています。

実家の庭(のような場所)は相応に広さがあり、半日ほど時間をかけて従事しなければならず、しかも電動ではなく手動(剪定に用いる鋏)で延々と作業するせいか翌日から激しい筋肉痛に襲われるのがお約束で、心底迷惑というほかありません。

ともあれ、ただ二戸往復をするのもつまらぬということで、今回は、天台寺の「かつら庵」で蕎麦をいただき、ちょうど紫陽花のシーズンということで、境内を少し散策することとしました。

私自身は、紫陽花について青紫とピンクのイメージしかありませんでしたが、境内には白い紫陽花の群落がありました。

背丈の大きい杉林の下を埋め尽くすように咲いているのですが、木漏れ日を受けて白い紫陽花が輝いている姿は映画「もののけ姫」で森の妖精達が森を白く照らす光景にも似た、神秘的な何かをイメージさせます。

そんなわけで、亡くなった人々の魂が天台寺に集まり紫陽花の姿になって昇天しているのかもしれない、などと思って一首。

身が滅び心は白い紫陽花に集いて光り浄土へと往く

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ともあれ、重労働のあとは兄から金田一温泉センター(「ゆうゆうゆーらく」という日帰施設)の回数券を供給され精神的な回復を果たした後、報酬代わり?に出前の寿司をいただいて帰宅しました。

「ゆうゆうゆーらく」は老朽化のため来年に建替を予定しており、「オガール」で一世を風靡した岡崎正信氏らの関与のもと大がかりな計画が策定中らしいと聞いています。

個人的には、露天風呂が無いことのほか、風呂上がりにタダで飲める冷たい水を楽しみにしている身には、既存施設にそれらがない(レストランの利用者でないと水が飲めない)現状を非常に残念に感じています。

それらを備えている「ユートランド姫神」や山梨県北杜市白州町の「べるが」を、建替に従事される方々も参考にしていただければ幸いです。

二戸に残された西郷隆盛?の写真と歴史の彼方に消えた弁護士のルーツ

以下は6年前に旧ブログに投稿した記事ですが、今年の大河ドラマ主人公が西郷隆盛とのことで、便乗目当て?で再掲することにしました。

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以前、日本中世史の研究で有名な網野善彦氏の「日本の歴史をよみなおす(全)」を読んだことがあります。

学生時代に浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」を読んでいたので網野史学なるものに昔から関心はありましたが、なかなか手が出ず、ようやく最初の1冊という体たらくです。読みながら色々なことを考えてはすぐに忘れてしまうのですが、少し考えたことを書いてみようと思います。

230頁あたりに、奥能登で江戸時代に大きな力を持っていた「時国家」という豪農兼商家のことが取り上げられており、その一族は、かつては農業経営者(豪農)として考えられていたが、実際には農業よりも日本海ルートの交易事業を中心に、製塩・製炭・山林・金融など当時の日本で行われていた様々な産業に携わっていた「地方の大物実業家(多角経営者)」として捉える方が正しいことが分かった、という趣旨の記載があります。

そして、それが決して例外的なものでないとの説明を踏まえ、「以前の歴史学は、江戸時代を農業(食料生産)中心に捉え、農業以外の事業に従事する人々の役割を過小評価していたが、実際は他の産業も盛んであり、そうした産業に従事した人々が社会や文化の維持・形成に果たした役割を再評価すべきだ」という趣旨のことが論じられています。

網野史学は、商業、金融、芸能さらには死や性に関連する仕事など、古代には聖的な位置づけを受けていたのに中世或いは近世以後に差別或いは卑賤視されることが多くなった諸産業或いはそれに従事する人々に光をあて、日本の歴史(社会形成に関する物の見方)を再構築することを目的としており、その一環として、上記の例が挙げられているようです。

その下りを読んでいて、我が国では明治維新後、政府や財閥、渋沢栄一などの実業家の力により、工業を中心とする産業が急激に発展したとされていますが、それは何ら素地のないところ(農業中心の社会)から突如として勃興したのではなく、相応に産業や商業を盛んにしていた社会の素地があり、それが社会構造の転換や欧米からの新技術の導入などという触媒を得たため、一気に花開いたのではないかと感じました。

まあ、その程度の認識は、今や陳腐というべきなのかもしれませんが。

ところで、私の実家は6~7代前に本家(一族の総本家である地元の神社)から分かれているのですが、本家は伝承(或いは父の戯言)によれば、戦国時代に秋田県田沢湖(旧・生保内町)の領主をしていたものの、秀吉の東北征服戦争(いわゆる奥州仕置に服従せず反抗した各勢力の討伐戦。代表例は九戸政実の乱こと九戸戦役)の際に所領を失い南部氏を頼って二戸に移転したのだそうで(それ以来?本家は代々、地元の由緒ある神社の神官職を継承しています)、歴史学者の方に調査研究していただければと思うだけの奥行きがあったりします。

で、何のために当方の話を持ち出したかと言えば、父によれば本家は明治の始め頃に現在の二戸市の西部に広がる広大な高原で日本でも珍しい牧羊事業に携わったものの、今や絶滅したニホンオオカミの襲撃などが災いして失敗し、破産寸前の憂き目に遭ったのだそうで(現在も本家は存続してますので、真偽はよく分かりません)、そうした本家の苦労も、網野史学の観点から何らかの再評価ができないのだろうかと思ったのでした。

その牧羊事業については、本家と共同で?事業を担った方が二戸の先人として顕彰されており、興味のある方は、岩手県庁の紙芝居もご覧いただければと思います。
http://www.pref.iwate.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/007/300/07bokuyou.pdf

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ところで、この文章の表題に挙げた「西郷隆盛の写真」について、そろそろ取り上げたいと思います。

西郷隆盛は本人のものと確定された写真が存在しない(ので、どのような顔立ちであったか現在も知ることができない)ことで有名ですが、その話題に当方の本家も登場してくることは、ほとんど知られていません。

「西郷隆盛 写真 小保内」などと入力して検索してみて下さい。

敢えて特定のサイトを引用しませんが、「西郷隆盛?と(西郷の影武者を務めたとされる)永山弥一郎が二戸の神社の神主である小保内孫陸の子(定身又はその弟?)と一緒に撮影したと称する写真を郷土史家が紹介した」などと記載された記事を発見できると思います。

私には真偽のほどは分かりません(まあ「西郷が写真嫌いの人物だった」というのなら、そのときに限って撮影を了解する理由が分かりませんので、別人の可能性の方が高いとは思いますが)。

ただ、私は子供の頃、亡父から「本家は、(上記の)倒産の際に借金返済のため様々な家宝を手放したが、その中に日本で唯一とされる西郷隆盛が写っている写真があった」と聞いたことがあります。

その際は、そんな話はインチキに違いないと思っていたのですが、確実な話として、当時の本家は「会舗社」という郷土の子弟を教育するための私塾を開設し多数の蔵書を擁して尊皇攘夷的な教育活動をしていたため、当時はそれなりに名声があり、当時の本家の長男(小保内定身)が江戸に遊学した際、薩長などの攘夷の志士達と交遊を深めていたことは間違いないようです(この点は、平成27年に投稿したブログでも触れていますので、ご覧いただければ幸いです)。

当時、二戸市出身で対露防衛の必要などを説いていた「志士」の一人である相馬大作が、津軽藩主襲撃未遂事件を起こし江戸で捕縛・処刑されたものの、「みちのくの忠臣蔵」と呼ばれて一世を風靡し、藤田東湖・吉田松陰などに強い影響を与えたとされており、そのことも「志士たちとの交流を希望する二戸人」にとっては有利に働いたことは想像に難くありません。

そうした事情からは「本家には、かつて西郷隆盛(かもしれない御仁)の写真があった」という亡父の話も、あながちインチキとは言えないのかもしれません。

「小保内某と西郷隆盛?や永山弥一郎が写ったもの」とされる写真が、亡父が語った写真と同一なのかは全く分かりませんが、少なくとも、その写真で「小保内某」と表示された御仁の顔立ち(目元や口元)は、現在の本家のご当主(神主さん)に割と似ているように感じます。

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網野史学とは全然関係のなさそうな話ばかり書きましたので、少しそちらに戻ったことを書こうと思います。

我が弁護士業界は自分達のことを「サムライ業」と好んで称することが多く、「武士道」と相まって、弁護士という職業を、武士的なものになぞらえ、そのことを美点として強調することがよくあります。

弁護士の仕事は、ある意味、傭兵であることを本質とする面がありますし、「法の支配の担い手」という点や職業倫理的なことも含め、そうした見方が間違いだとは思いません。

ただ、武士という存在の捉え方にもよるでしょうが、幕藩体制下の武士は公権力を支える公務員であり、現代で言えば官僚に見立てる方が素直で、民間業者である弁護士と繋げて見ることには若干の違和感を覚えます。

ですので、弁護士の本質(或いはルーツ)を中世や近世の社会に求める際は、武士よりも(武士だけでなく)、公権力と一定の距離を置いた他の職業に(も)求める(光をあてる)方が適切でないかと思うのです。

ところで、我国における弁護士業界の萌芽として通常語られている事柄は、「明治時代は官僚国家なので弁護士の地位は低かった」とか、「弁護士の制度や各種法制が構築されるまでは、質の低い紛争介入業者がデタラメな仕事をしており、三百代言などと言われた」などといった否定的なものが多く、少なくとも明治より前の時代に、現代に連なる弁護士のルーツとして、輝かしい先人がいたという話を聞いたことがありません。

しかし、冒頭で記載した網野史学が描く中世や近世は、当時の技術水準を前提に、農業だけでなく様々な産業や交易が行われ、それなりに人や産物が自由に行き来されていた社会だそうなので、そうであれば、当時も人々の社会経済上の活動を巡って多様な紛争があり、紛争を解決する(欲する解決を得るよう支援する)ことについて、専門的技能を駆使して当事者を支援し正当な報酬を得て生活を営んでいた職能集団が存在していてもよいのではないか(存在しない方が変ではないか)という感じがしてくるのです。

さらに言えば、「かつて聖的な存在として特別視された職業(職能集団)の多くが、社会構造の変化に伴うパラダイムシフトにより卑賤視されていった(ので再評価すべき)」との網野史学の基本的な目線からすれば、「明治初期に、民間の紛争解決?業務従事者達が、まがい物として卑賤視されていた」という話は「そうした人々は、以前は社会内で相応の権威を与えられ活躍していたが、社会の価値変動に伴い卑賤視され不遇な立場に追いやられるようになったのではないか」という推論と、とても親和的であるように感じられます。

少なくとも、紛争解決という分野は、古代から中世であれば宗教的或いは神秘的権威の助けを大いに必要としたはずで、「かつては畏怖された職能」という網野史学の射程範囲に明らかに収まるように思われますし、争点に対する当否の判断(裁判)の機能は国家=時の公権力が独占したのだとしても、紛争当事者の支援という役割を武力以外の方法で担った職能集団が存在してもよいのではないかと思われます。

私が知らないだけで、相応に研究が進んでいるのかもしれませんが、古代から近世にかけての「その時代の社会のルールや社会通念に基づく紛争解決・処理業務に従事した人(特に、公権力から食い扶持を得るのではなく利用者から対価を取得し支援業務等に従事していた民間人)」の実像を明らかにし、そのことを通じて、現代の紛争解決(ひいては社会そのもの)のあり方にも生かしていただければと願っています。

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余談ですが、平成24年頃は、尊皇攘夷ならぬ大阪維新?の旋風が国内に吹き荒れていましたが、当時もその後も、東北の社会ないし政治の世界には、そうした時流に連動したり新たな社会革新の震源地になりそうな営みや蠢きは生じていません。

大阪維新の会に対する肯否や現在(H29~30年)の沈滞ムードはさておき、通信や交通が著しく不便であった150年も前に、二戸という辺境の地にも新時代を切り開いた西国の方々と価値観を共有し懇意にしていた人々がいた(ものの、天運などに恵まれず大きな存在感を発揮するには至らなかった)という事実は、北東北の人々に知っていただく機会があればと思っています。

帰ってきた二戸ロータリークラブと田中舘秀三物語、そして「あれから30年」

5月の話で恐縮ですが、盛岡地裁二戸支部に所用があり、ちょうど二戸ロータリークラブの例会日でもあったので、折角だからということで、例会に参加してきました。

ちょうど今年の会長さんが私の小中学時代の同級生のお母さんで子供の頃に大変お世話になった方だったため、予めご挨拶していたところ、折角なので卓話をしてはという話になりました。

そこで、簡単な自己紹介(30年前の二戸RCの思い出話)の後、今年の2月頃に引用のブログでも連載した「世界遺産シンガポール植物園と同国の文化学術資産群を戦災から守った二戸人(兼盛岡人)・田中舘秀三博士(東北帝大教授)の物語」について、お伝えしてきました。

幸い、田中舘愛橘会の会長さんもいらしていましたので「あらすじ案」を印刷したものをお渡しし、愛橘博士に続き秀三先生の物語も漫画化していただければとお願いしました。

会員さんには、この話を初めて知ったという方も多数おられたようですので、地元の「知られざる偉人」の顕彰としては意味があったのではと思われます。

今後も秀三博士(先生)の物語についてどこかでお伝えできる機会があればと思っていますので、関心のある方は、お気軽にお声がけいただければ幸いです。

また、以前にブログで連載した「あらすじ案」は、「あとがき集」と共にA4用紙25頁分にまとめており、ご希望の方から直メールいただければPDFでお送りすることは可能ですので、ご遠慮なくお問い合わせ下さい。

例会のあと裁判所の所用まで時間があったので、会長さんほか何人かの方にお付き合いいただき、しばらく雑談をさせていただいたのですが、久しぶりに「ふるさとの人は有り難きかな」と感じる暖かい時間を過ごすことができました。

私は幼少期から同世代の子供達と一緒に過ごすよりも大人達に混ざって横で会話を聞いているのを好む変な子供だったせいか、少しばかりあの頃に戻ったような気もしました。

こうした機会に限らず、二戸の人々にも必要としていただける場を持つことができるよう、まずは研鑽に努めていきたいと思います。

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第11回(終) 田中舘父子と小保内家を巡る不思議な縁

シンガポール及び秀三博士をテーマとする一連の投稿の最後に、個人的なことを少し書かせていただきます。

以前にも書いたかもしれませんが、私の実家は、東大の物理学科の最初の卒業生(創設者である会津藩士・山川健次郎博士の一番弟子)にして日本の物理学の礎を作った人物の一人である世界的研究者・田中舘愛橘博士が、戦時の疎開先として二戸で生活していた自宅のすぐ近くにあります。

で、当時の私の実家は二戸では有数の商家だったそうで(今はすっかり没落しましたが)、自宅の風呂も、当時のご近所さん宅のそれとはグレードが大きく異なるものだったせいか(今も一応残ってますが、私に言わせれば広いだけで寒々とした場所です)、愛橘博士は、頻繁に私の実家に風呂を借りに来ていたのだそうです。

そのため、当時は小学生だった私の父(平成26年亡)は愛橘博士と一緒に風呂に入っていたのだそうで、そのことを生前によく自慢していました。少なくとも、私の実家は、愛橘博士を支援する熱心な二戸人の一人だったことは間違いないはずです(そのご縁で、父は愛橘博士を顕彰するため結成された地元団体の会長を務めたことがあります)

前置きが長くなりましたが、私が大学3年か4年の頃、司法試験に合格するまでは「この道」から下りられないとの思いで、父に卒業後も30歳くらいまでは援助を考えて貰えないかと頼んだ際、父から次のように言われた記憶があります。

「自分が旧制福岡中学(現・福岡高校)を卒業するとき、愛橘博士の親族で法政大の教授をしている方がいて、自分の父(私の祖父=先代)に自分(父)を法政大に進学させないかと誘ったのだが、父(先代)は商家の子に学問は無用であると述べて断った。そして、自分は父の命で簿記学校に進学し、短期間で東京から実家に戻り、その後は商売の道だけで生きてきたことは知ってのとおりである。だからこそ、貴方(私)には好きなだけ勉強をさせたい。司法試験をやりたいのなら、最後まで面倒を見るつもりである。」

私は卒業2年目(23歳頃)で運良く合格できましたが、浪人生活を続けることができたことはもちろん、学費(生活費)の不安を考えずに済んだことも勉強に集中できる生活を得たという点で大いに有り難いものでした。

その「法政大学の教授」が誰だったか明確な記憶がなく、愛橘博士の義理のお子さんと言われたような気もするのですが、第9回で紹介した荒俣宏氏の著作によれば、父が旧制中学を卒業する頃にちょうど、東北帝大を退官した秀三博士が法政大で地理学を教えていたとの記載があり、恐らく秀三博士のことを指していたのではないかと思われます。

父は、私に言わせれば、学問の世界に関心を持っている人とは到底思えませんでしたが、高校から実家を離れ、司法浪人までした私の人生に口を出さず、司法修習生になるまでの学費・生活費の面倒は全て見てくれたことは間違いありません。

その根底には、ひょっとしたら上記のような「大学に行きたかったけど行けなかった」という自己の経験があるのかもしれず、その意味では私も秀三博士に恩義を受けた者の一人なのかもしれません。

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もう一つ余談があるのですが、秀三博士が愛橘博士の娘・美稲氏との間に授かった一人娘さんは法政大学教授の松浦四郎博士と婚姻し、その末裔(お孫さん=愛橘博士の曾孫)である松浦明さんという方は、愛橘博士を顕彰する地元団体(愛橘会)などの要請に応じて愛橘博士の業績の紹介などを長年に亘り続けてこられたようです。

そのため、私も今回の一連の文献と共に、松浦氏の「田中舘愛橘ものがたり~ひ孫が語る「日本物理学の祖」~」という著作もアマゾン購入したのですが、この本には、どういうわけか秀三博士のことが一言も触れられていませんでした。
http://ginsuzu.shop-pro.jp/?pid=102657848

で、不思議に思っていたところ、荒俣氏の著作に秀三博士が「(美稲氏と)おそらく生活観の違いのため離婚し長い独身生活の後、52歳頃に再婚した」とあり、また、秀三博士の追悼論集にも秀三博士の娘さん(但し、美稲氏ではなく後妻さんとの子)が「父は家族を犠牲にして自分の生きたいように勝手に生きた人だ」と酷評した一文が掲載されており、そうした事情が関係しているのでは、などと想像しないこともありません。

ただ、美稲氏との離婚後も愛橘博士と離縁せずに養子関係を続けた(互いに離縁を求めなかった?)という点については、秀三博士の人生を見る限り、愛橘博士の威光を狩った栄達が目的ではなく、世界人類の平和と尊厳のための活動を続けた愛橘博士と同じ志を共有しているという「心の拠り所」として田中舘姓を名乗ることにこだわりや誇りがあったからなのではないか、それは、秀三博士のシンガポールでの獅子奮迅の働きや自身の栄達を求めず功績を誇ることもなく静かに世を去ったことと、よく整合するのではないかと感じられます。

少なくとも、愛橘博士のことを多少は勉強した二戸人はそれなりにいるでしょうが、秀三博士の物語を愛橘博士に置き換えても違和感ない(秀三博士も、山師かどうかはさておき、愛橘博士と同じく、欲がなく人間的魅力に溢れた方だったようです)と感じる方は少なくないと思います。

そうであればこそ、今回の無謀?な映画化企画が実現して、秀三博士や愛橘博士の業績や人柄などに日が当てられて欲しいと強く願わずにはいられません。

改めて、賛同いただける方のお力添えを心よりお願い申し上げます(H29.5に微修正)。

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第10回 映画化の実現構想と賛同者の募集について

今回は、これまで延々と述べてきた「あらすじ案」(を参考にした本職の方の原作や脚本など)を、どうすれば本当に映画化できるのかという観点で、思いつきレベルのことを少し書きたいと思います。

もちろん私自身には映画化できるだけの小説や脚本を作る力も実現する力もありませんので、やはり本職の方にこの物語に関心を持っていただき、映画の作り手達の目に耐えるだけのものを作っていただくほかありません。

というわけで、(FBを通じて)「このブログを読んで下さる可能性があり、かつ業界人との繋がりのある方」に、何かの機会に伝えていただくことをお願いする以外には思いつく方法がありませんので(自ら賛同者を募り団体を設立して運動云々などという「オルグする能力」は私には全くありません)、思いつくまま私の個人的な人脈を生かした幾つかのルートを考えてみました。

勝手に名前を出された皆さんは、お気を悪くなさらないようお願いします。なお、順番は「私が思いついた順」です。

①肴町の若大将SMさんを通じて、盛岡が輩出した作家・斎藤純氏や高橋克彦氏に小説版を依頼→高橋氏の強力な知名度を生かして映画化に持ち込む。

→高橋氏が「天を衝く」に続く二戸人小説第2弾の執筆に意欲を燃やしていただけるのなら、一挙に話が進むか?とりあえず、今回のシナリオ案を「街もりおか」に連載させて貰うようお願いするところからスタートし、映画化が無理でも盛岡・二戸合同文士劇上演を目指すか?

②JC人脈の方々を通じて、盛岡が輩出した映画人・大友啓史監督に依頼し、映画化に持ち込む。

→大友監督が「旧制盛岡中学出身の知られざる傑物を主人公にした作品を撮りたい!」という意欲を燃やしていただけるのなら、一挙に話が進むか?

③司法研修所の同級生である現役作家・H先生に小説版を依頼→H先生の強力な知名度を生かして映画化に持ち込む。

→できあがったものが、なぜかハードボイルド法廷ミステリーサスペンスに入れ替わっているリスクあり?ともあれ、H先生が「ミステリー系だけでなく大戦を舞台にした歴史ロマン小説も作りたい」との意欲を燃やしていただけるのなら、一挙に話が進むか?

④司法研修所の同級生Oさんを通じ?九戸政実(九戸戦役)を描いた「冬を待つ城」の著者である作家・安部龍太郎氏に小説版を依頼→安部氏の強力な知名度を生かして映画化に持ち込む。

→安部氏が「冬を待つ城」に続く二戸人小説第2弾の執筆に意欲を燃やしていただけるのなら、一挙に話が進むか?

⑤函館ラ・サールの同期生で映画産業などにも従事する実業家弁護士・Y君に頼んで、本企画に賛同する大物映画人を探して貰い、映画化に持ち込む。

→Y君人脈を通じて、現役映画人に売り込むことができれば、松下村塾組と二戸との知られざる繋がりで共感を獲得し一挙に話が進むか?

⑥盛岡JCのOB女性起業家TMさんを通じ「のん」こと能年氏を主役(千代)に抜擢することを前提としたシナリオ案を「この世界の片隅に」の制作陣など関係者に売り込む。

→監督さんなどに「大戦を舞台とする泣ける物語をもう一度作りたい」とのお考えがあれば熱意が通じるかも。特に「光と影をきちんと描く」との観点から華人虐殺は必ず触れるべき話だが、実写化は悩ましい面があるので、アニメ併用とする作り方などもあってよいのでは。

⑦「街の本屋」業界の雄・さわや書店盛岡フェザン店など市内の書店に本企画を持ち込み、まずは前回紹介したコーナー博士の本の復刊本をシンガポール紀伊國屋書店から大量購入していただき、荒俣氏本や戸川氏本(復刊可能?)と共に秀三博士フェアを行うなどして話題として盛り上げ、最終的に同店などの人脈を通じて原作小説→映画化に持ち込む。

→この路線だと長期戦は必至かもしれませんが、のんこと能年氏を現代パートの主役で抜擢するなら多少遅くなっても大丈夫でしょう。

⑧その他(アイディア随時募集中)

と、思いつくままに私個人のツテで映画化(や小説化)が実現できるかもしれないルートをあれこれ考えてみました。もちろん、私にとっては、秀三博士の物語の映画化(による顕彰)が実現できればそれでよく、そうした意味では「早い者勝ち」だと思っていますので、関心を持っていただいた方は、それ以外のルートも含め、ぜひこの企画をしかるべき業界人の方に売り込んでいただければ幸いです。

まあ、こんなことを延々と書いていても、家族から「寝言と駄文の暇があれば家庭内労働に精励せよ」との上官命令が来るだけというのが、私の恥ずかしい現実ですが。

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第9回 元ネタ(参考文献)のご紹介

秀三博士の足跡に基づく「映画あらすじ案」に関する補足説明(前回は「あとがき」)の続きとして、この物語が詳細に述べられている文献を紹介します。

今回の「あらすじ案」は帰国直後に博士について触れたブログを検索して拝見した記事の幾つかをもとに一気に書いたもので、後記の文献を拝見したのはシナリオを考えた後になります。

参考にさせていただいた個人の方のブログ類は多数ありますが、ここでは少しだけ紹介させていただきます。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm
http://ameblo.jp/kakek/entry-10796147545.html

あらすじ案を書いているうちに、やはりブログ記事で引用されている下記の文献群を確認すべきと考え、先般、アマゾンで注文して購入しました。文献を読んで少し修正した部分もありますが、余力の関係で放置した部分もそれなりにあり、多少の「(文献記載の)史実」とのズレはご容赦をお願いします。

●E・J・H・コーナー「思い出の昭南博物館~占領下シンガポールと徳川候」中公新書 昭和57年刊 
https://www.asiax.biz/life/7498/

あらすじ案にも登場するコーナー博士が戦争から20年後に自ら執筆し、日本でも翻訳され出版されたもので、今回のテーマを学びたい方は真っ先に読むべき基本文献です。

身柄の安全が微塵も保証されていない、無条件降伏直後の敗残国の植物学者としての著者が、文化・学術資産の保護のため身の危険を顧みずにほとんど単身で立ち上がり、「昭南の奇跡」を支えた秀三博士や徳川侯爵らとの交流で実体験した事実を、日本占領の明暗を余すところなく格調ある文章で詳細に伝え、博士や侯爵らの功績を讃えたものです。

敗れた国(栄光ある大英帝国)の者の悔しさを語ったくだりなども含め、多くの点で心揺さぶらながら読むことができる、必見の一冊ですが、残念ながら現在は絶版らしく、アマゾン(古本)でしか手に入りません。

ただ、最近になってシンガポール紀伊國屋書店で復刊したそうで、同国内では復刻版が手に入るようです。が、私がネット注文しようとしたところ、海外搬送はしてませんとのことでしたので、「古本じゃなく綺麗な本を読みたい」という方は、シンガポールで購入するか、紀伊國屋書店に交渉するなどしていただければと思います。
https://www.asiax.biz/life/39075/

また、盛岡市内や二戸市内の書店の方々におかれては、ぜひ、シンガポール紀伊國屋書店からまとめ買いして、次の荒俣氏の本などと一緒に並べて「田中舘秀三フェア」と題して店頭販売していただきたいものです。

●荒俣宏「大東亜科学奇譚」ちくま文庫 平成8年刊(文庫版)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480032065/

日本近代(明治~大戦期)に科学の分野でユニークな業績を残した異形の奇人変人たちを紹介した本で、その中の一角に「昭南の奇跡」として秀三博士や徳川候爵などの活躍が記されています。

コーナー博士の著作以上に秀三博士の経歴などを詳細に説明しており、荒俣氏の博覧強記と徹底した調査ぶりに驚かされます(経歴を述べた箇所は、二戸や旧制盛岡中学にある程度は詳しくないとついて行けないハイレベルな知識のオンパレードになっています)。

また、本書で描かれている秀三博士の人物像は「風変わりな聖者」とでも言うべきコーナー博士の描く秀三像とは異なるもので、「あとがき」で記載したような壮大な野望を実行せんとした山師(怪人)のような様相を感じさせます。

これがまた独特の説得力があり、ぜひご覧いただきたい一作と言えます。

特に、秀三博士の経歴を見ると、世界的物理学者・愛橘博士の女婿(養子)というだけでなく、戦前の新聞で「日本一の同窓会」と謳われた旧制盛岡中学の全盛期の人材群(陸海軍の大将、衆院議長、著名企業(鹿島建設など)の社長、金田一京助、野村胡堂や石川啄木など愛橘博士のwikiに表示された「謝恩会の写真」を参照と同年代でもあり、他方で、東京帝大の出でありながら個性の強い性格が災いしてか?国際的には火山学などで活躍しつつも国内での出世(教授など)が遅れていたように見えます。

ですので、シンガポールの陥落に際し、自分が同窓のライバル達に負けない大きな物事を成し遂げる千載一遇のチャンスとの思いもあったのではと感じずにはいられないものがあります(荒又氏によれば、秀三博士は東北帝大法文学部で地政学=政・経・軍の基礎学問を教えていたのだそうで、なおのこと内に秘めた理想や野心を感じさせる面はあります)。

また、本書に掲載されている晩年期?の秀三博士のドアップ写真でも、大きな目を見開きながら茶目っ気と共に不敵な笑みを見せている様子があり、そうした人物像を印象づけるものとなっています(コーナー博士の著作では秀三博士に関しては小さな集合写真が1枚あるのみで、昭南島物語には写真が掲載されていません)。

●戸川幸夫「昭南島物語(上・下)」読売新聞社 平成2年刊
http://d.hatena.ne.jp/kmtbrmtnb/20041029

コーナー博士の著作に触発された筆者(当時は毎日新聞の記者で後年に小説家・児童文学作家)が、自身の従軍記者としての赴任経験も踏まえて日本軍によるシンガポールの占領時代を総合的に調査し、英軍降伏はもちろん秀三博士らによる学術資産・文化財の保護や華人虐殺などを含む様々なエピソードを詳細に説明しており、冒頭の2作品を補充すると共に「昭南島」時代の全貌を知る資料として、参照価値の高い作品だと思います。

なお、秀三博士についてさらに知りたい方のために「田中舘秀三 業績と追憶」という追悼論文集が出版されているのですが、さすがに古本だと相当に高額のようですので購入は諦めました。

岩手県立図書館に収蔵されているなら閲覧したいと思ったのですが、けしからんことに、岩手県、盛岡市、二戸市のいずれの図書館にも収蔵されていないようです。
http://157.1.42.1/ncid/BN02478818

地元出身の偉人に関する基本文献ですので、これら図書館には予算を獲得していただくなどして、古本の入手に努めていただきたいところです。せめて、岩手県内に1冊くらいは置くべきだと思いますので、同じ思いを共有いただいた方は、県や両市の関係者に働きかけていただければ幸いです。

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(H29.5追記)

上記の追悼論文集は、前記のとおり、1月にネットで調べたときは、岩手県の図書館に収蔵されていないのものと認識したのですが、5月に盛岡北RCのIさんから県立図書館に収蔵されていると教えていただき、先日、借りてざっと読みました(岩手では同図書館のみ)。

よって、次のとおり修正・加筆します。

●田中舘秀三業績刊行会「田中舘秀三 業績と追憶」 昭和50年刊

秀三博士と懇意にしていた学者さん達(山口弥一郎・創価大教授等)が中心になって出版した論文集で、博士自身が執筆した論文群と、シンガポールでの出来事を述べたエッセイである「南方文化施設の接収」、学者さん達による追悼文などで構成されています。火山学などの専門性の強い論文集なので、古本だと相当に高額であり、図書館で閲覧していただければと思います。

「南方文化施設の接収」は博士自身がシンガポールでの経験を綴ったもので、参照価値の高いものですが、若干の落丁があり、肝心?なコーナー博士との邂逅を書いたページなどが欠落しているのが残念です(印刷前の原文自体の散逸でしょうか)。

ところで、本書はコーナー博士の著作(中公新書)よりも7年前に刊行されているため、コーナー博士のことは(上記エッセイを別とすれば)一言も触れていませんし、英国人やシンガポール人などが寄稿しているわけでもありません。また、コーナー博士の著作にも、あとがきなどを含め、本書のことは一切触れられておらず、訳者の方の目に触れる機会が無かったのかもしれません。

現代で両者が同時期に出版された場合、双方の著者らが互いに博士を語り合うような企画などがあり得たのではと思われ、その点は残念に感じます。

ただ、本書で多くの方々により語られる博士の実像は、コーナー博士の描く「美しすぎる博士像」と荒俣氏が語る「山師のような博士像」を接ぎ木して博士の全体像を理解するのに大いに役立つもので、博士に関心を抱いた方は、ぜひご覧いただいてよいと思われます。

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(H30.1追記)

先ほど、匿名希望の方から当事務所宛てに、「『南方文化施設の接収』は『業績と追憶』掲載版では一部欠部があるらしいですが、(下記のサイトからリンクしている)国立国会図書館の電子文書では全文閲覧できると思います」とのメールをいただきました。

また、その方が執筆されたという下記のサイト(非常に詳細・網羅的な解説になっています)を紹介いただいたので、こちらでも引用させていただきます(ユアペディアというサイト自体も含め、今回初めて知りました)。
https://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A4%A8%E7%A7%80%E4%B8%89

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第8回 あとがき

前回まで「秀三博士の足跡を今、映画化した場合に想定されるシナリオ案」を6回に分けて連載してきました。すべてご覧いただいた皆さんには御礼申し上げます。

今回は「あとがき」を少し書き、次回に参考文献、その次に映画化に関する賛同者募集、最後に私自身のことについて少し書きますので、最後までお付き合いのほどお願いします。

ラストシーンを世界遺産登録の記念式典としたかったこと、博士の顕彰に留めずに現代の日本人とシンガポール人が良好な関係を築く姿も描きたかったことから、「男たちの大和」などを真似して現代編を追加したのですが(「永遠のゼロ」も現代編から始まると聞いていますが、映画も小説も見たことがありません)、現代パートは要らないとか、史実とかなりズレてるとか、色々とご批判はあろうかと思います。

もちろん、「元ネタ」であるコーナー博士の著作には、秀三博士がリー・クアンユー首相と接点があったなどという記載はありませんし(さすがにないでしょう)、本編の「ヤン」のような華人と深い交流を持ったとの話も出てきません。

当然ながら、秀三博士と辻政信・陸軍参謀の対決などという話も、史実とは乖離していると言わざるを得ないでしょう。もちろん、彼らの立場の相違などからは実際にあってもおかしくない話であり、大河ドラマ感覚で言えば許容範囲の脚色だとは思っていますが。

そうした点も含め、あくまで本職の方(作家さんや映画の脚本家など)に博士の物語について手っ取り早く関心を持っていただくための「叩き台の叩き台」に過ぎませんので、「こう書いた方が面白くなる」といった建設的なご意見(他のシナリオ案)がありましたら、ぜひお願いします。

現代パートを割愛するのであれば、端的に、コーナー博士の著作(次回に紹介します)を原作として脚本化するというのも一つの選択肢だとは思います。

ただ、その場合「コーナー博士の視点で秀三博士ら日本人学者や徳川侯爵らの尽力を描く」というも物語になりますが(著書によれば徳川侯爵は今回のあらすじ案のイメージよりもっと早い段階で登場しています)、侯爵ら他の日本人にも相応の力点を置かざるを得ず、「秀三博士の物語」として構成するのが困難になるという問題があります。

また、それ以上の難点として、コーナー博士を起点とする物語だと「旧支配者(英国人)と新支配者(日本人)との交流の物語」になってしまい、華人をはじめとする現地住民らの視点がぼやけてしまいます。

映画を作るなら「現代のシンガポールに継承され国民統合のシンボルの一つにもなっている学術資産・文化財に対する日本との特別な絆の再確認」という形にするのが、現代日本人(及びシンガポール人)向けの映画を作る上では最善と思いますが、コーナー博士の著書のままの物語だと、そのコンセプトに沿ったシナリオを作るのは難しいと考えます。

このような観点から、現代パートを設けた上で、シンガポール侵略による最大の被害者であり建国の立役者となった華人達の中から架空?の「準主役」をもうけるべきだと考えたというのが、私のシナリオ案ということになります。

ただ、せっかく現代編を設けるなら、より社会的なメッセージ性の強い展開を考えるべきなのかもしれず、その辺はプロの方にお願いしたいところです。

また、今回のシナリオ案は、比較的、善良なイメージで博士を構築していますが、次回で紹介する荒俣氏の著作では、博士の姿を学問への真摯さと共に、奇人変人かつ特殊な野心(軍などの干渉を廃した、戦前の理化学研究所のような学者達のユートピア、さらには軍とは異なる別種の「大東亜共栄圏」を自らの政治的手腕で作ろうとしたというもの?)を抱いた山師であるとして描かれています。

そのような見方にも大いに共感する面があるだけに、博士の異形さにもっと焦点をあてたシナリオも考えてよいのではと思います。

いっそ、辻参謀も単純な悪役として描かずに彼なりの大東亜の夢を追い求める姿も示し、辻参謀と秀三博士の2つの理想が対決するような場面に焦点を当てれば、面白みが増すのかもしれません(しかし、彼が主導した華人大虐殺という巨罪も、決して忘れてはいけません)。

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(H29.5追記。博士の敬称について)

ところで、この「あらすじ案(及びあとがき)」では「秀三博士」という呼称で統一していますが、冒頭で述べたとおり、これは厳密には正しくないかもしれません。

というのは、博士号(現在は大学院卒で当然に取得されますが、戦前は「末は博士か大臣か」の言葉に象徴されるとおり、帝国大学の一部の教授にしか授与されず大臣なみに稀少なものです)を授与されたわけではないからです。

コーナー博士の著作(中公新書)で「田中舘教授」と表示されているのは、そのためだと思われますが、博士が実際に「教授」に就任したのはごく短期間であり、本件当時の肩書「講師」ですので、これ(教授)も便宜的な表現だと思います(後記の「業績と追憶」は「先生」で統一し「博士」は一切用いられません)。

ただ「先生」はあまりに一般化した敬称ですし、現代人の感覚からすれば正式名称としての「博士(はくし)」はともかく、学術面で高い業績を収めた人=賢者を顕彰する一般的な敬称としての「博士(はかせ)」が、秀三先生には相応しいと感じ、一連の文章では、これで統一させていただきました(「東方の三博士」などと同じ用語法としてご理解願います)。

或いは、敬称のあり方すら一筋縄でいかない点も、博士の天衣無縫さを示すのかもしれません。

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第7回 あらすじ案⑥現代編2(終章)~そして花々は今も咲き続ける

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の最終回です。

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そして、物話は現代に戻る。

現代の当事者である「孫のヤン」は、ここまで描かれたような詳細な話ではなく、自分が父を経由して断片的に聞いていた話を千代に説明した。

千代は、子供の頃に二戸出身である父が田中舘愛橘博士の話を矢鱈にしていた上、中学校の修学旅行で昭和新山や有珠山などに行ったことから、田中舘秀三博士が昭和新山の名付け親だということを知っていた。秀三博士がシンガポールの植物園や博物館を守ったという話は初めて知ったが、違和感なく了解できる話だった。

千代がヤンから見せられた3人の男を描いた線画の裏には、次の言葉が付されていた。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ
万国の民が集いし島に建つ 新しき世を目を閉じて見る

千代は、改めて、この会社(出向先の顧問企業)、そしてシンガポールの役に立ちたいと強く思った。そして、ヤンに、敵対的買収からこの会社を守りたい、自分にも手伝わせて欲しいと頼んだ。

ヤンは、先日、千代が提出したレポートを取り出し、評価できる点、的外れな部分などを講評した上で、今この闘いが直面している論点の幾つかについて説明した。

事務所に泊まり込み、大量の書類や文献などに埋もれながら解決について悩む千代。すると、この事件が日本で裁判に持ち込まれた場合、相手企業にとって、ある大きな手続上の問題が発生することに、日本での最近の判例や議論などを通じて気づいた。

ただ、この事件で適用される法律(準拠法)がどこの国のものになるのか、また、その国の法律や判例などでは敵対的買収に対し同じ制約が生じることになるのか、そこまで(特に後者)は千代にも分からない。

ともあれ、千代がそのことをヤンに報告すると、ヤンはその話が今回の件でも通用すると述べて、近日中に予定されている相手企業及び代理人との交渉に、千代も同行するようにと告げた。

そして交渉当日。圧倒的に有利な状況を作って得意満面の相手方陣営に対し、ヤンが針の一刺しのように千代が指摘した問題を指摘し千代も補足説明したところ、相手方陣営は狼狽し、その場は一旦解散となった。恐らく、当方の全面勝利は無理でも、悪くても痛み分けに止まる形での解決は期待できるだろう。

その後、千代は、ヤンの理解・支援のもと、出向先の社内で多くの良質な経験に恵まれた。シンガポール有数の法律事務所とも幾つか関わりを持ち、移籍を誘われたこともあった。

そして帰国。見送りの空港で、ヤンは、あのときに千代に見せた水彩画と鉛筆画を、盛岡の街を描いた1枚の絵だけを除いて千代に手渡した。

これらを生かすには、自分が持っているよりも君が持った方が良さそうだ。ただ、盛岡を描いた1枚は君の故郷でもあるので記念に残しておきたい、と。

帰国した千代を待っていたトーマスは、出向を命じた理由を説明した。一つは、事務所が来年にもアジアの中心拠点としてシンガポール支店の設置を予定しており、その下準備として若い弁護士を派遣して現地の業務に精通させると共に重要顧客である顧問先と強固な信頼関係を築くこと、もう一つは、千代の採用にも関わっていたトーマスが千代を選んだ特別の事情と、その証となる1枚の絵だった。

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物語は2015年にシンガポール植物園が世界遺産登録され、園内で記念式典が行われたところで幕を閉じる。

リー・シェンロン(李顯龍)首相は、ステージ上から居並ぶ要人・招待客たちに向けて登録の意義を語りつつ、次のように述べた。

この植物園はシンガポールの創設者・ラッフルズ卿が開設し、我国の独立後は国家と国民の力により守り育ててきたものである。そこに至るまでには、この植物園が戦争の被害により消滅する危機に直面したこともあった。

しかし、その際、身の危険を顧みず自身の利益を求めることもなく、この植物園をはじめシンガポールの多くの学術資産や文化財がアジア、そして世界人類にとってかけがえのない宝であり、後世に引き継がれるべきであるという純粋な思いから守り抜いた人々がいたことを、世界遺産登録という輝かしい時を迎えるにあたり、すべてのシンガポール人、そして人類全体が銘記すべきである・・・

シェンロン首相の視線の先には、千代の姿があった。

出向を終えて帰国した千代は、ヤンから聞いた話をもとに、自分なりにシンガポールの歴史や大戦時の出来事、秀三らの活躍などを勉強し、自分の経験も交えて秀三の物語を出版したところベストセラーになった。そして、ほどなくシンガポールにも伝わり、「植物園を守った恩人に縁のある者」として、世界遺産登録にあたり、この式典に招かれていたのだ。

千代の隣にはヤンがいた。

ヤンの祖父の戦後の苦闘なども千代の著作を通じてシンガポール国民に知られ、緩やかながらも民主化や国民の自由の拡大を進めるシェンロン首相の方針もあって再評価されるところとなり、政府からヤンも特別に招かれていたのだ。

スピーチを求められた千代は、シンガポールの人々への感謝を交えつつ、このように語る。

私が生まれ育った盛岡は、「我、太平洋の架け橋にならん」と述べて、世界の平和と人々の相互理解を目指し、国際連盟の事務次長まで務めた偉人を輩出した。

秀三博士と共に、その偉人(新渡戸稲造博士)を尊敬する自分も、ささやかながらでも、日本とシンガポール、アジア、ひいては世界全体の人々をつなぐ一人になれるよう、今後も努めていきたい、と。

式典の後のパーティの場で、リー・シェンロン首相が千代に「いいスピーチでしたね。ご存知だと思いますが、私の父も、もとは弁護士でした。貴方も、ぜひ我が父のように次の時代の日本を支えるような生き方を目指して頑張って下さいね。」と語りかけてきた。

千代は御礼を述べると共に首相に向かって「ご褒美をいただけるのでしたら、一つ、おねだりをさせて下さい」と述べた。

植物園の主要施設であるナショナル・オーキッド・ガーデン(国立ラン園)には世界中の著名人の名を冠した新種のランが展示されていますが、秀三博士の名を冠したランはあるのでしょうか?もし未だに存在しないのでしたら、ぜひ新たなランに博士の名を冠すると共に、末永く博士の顕彰をしていただけないか、と。

首相は少しばつの悪い苦笑を浮かべつつ、すぐに快諾し、世界遺産登録記念に相応しい、美しいランを開発し、秀三博士の名を冠して園内の一番立派なところに飾ろうと答えた。

これに対し千代は、いえ、美しい花も立派な場所に飾ることも博士には似合いません、素朴で目立たず道ばたに咲いているような花、でも、周囲の花々を引き立て風景全体を輝かせるような花、そんな花を開発したときに、ぜひ、博士の名を冠していただければ幸いです、と述べた。

千代が、いまどこで何を目指して生きているのか。そのことは劇中では語られず、皆の想像に委ねられている。(おしまい)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第6回 あらすじ案⑤大戦編4~学ぶ者たちの平等と誇り

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第5回です。

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秀三がヤンに渡した水彩画は5、6枚ほど。そこには幼少期を過ごした福岡町(現・岩手県二戸市)や旧制中学時代を過ごした盛岡、そして岩手山などの風景が描かれていた。

秀三はヤンに語り続ける。

君も華人なら杜甫の春望は知っているだろう。国破れて山河あり。今、イギリスが築き上げて君臨してきた植民地帝国は負け、間もなく日本も負ける。しかし、山河は残る。

70年前、日本では国家の進路を巡って国を二分する争いがあり、私の故郷はその闘いに負け、多くの人が辛酸を嘗めた。しかし、それを乗り越えて、今や国の舵取りに関わっている者も少なくない。

私も故郷の辛酸を忘れず、また、故郷の美しい風景が心の拠り所だと思って、こうして絵に描いて手元に置いていた。

君たちも、日本の占領による辛酸を乗り越えて、シンガポール人としての郷土愛を育み、アジア、そして世界に大輪の花を咲かせて欲しい。その志を共有する証として、この絵を受け取って欲しい。

秀三は続けて、三人の男を描いた鉛筆画について説明した。その線画は、日本人、アジア人、西洋人と思われる3人の男が談笑する姿を描いたものだった。

お分かりのとおり、これは、私、君、コーナー君を描いたものだ。この絵は、日本人も、イギリス人も、君たちシンガポール人も、皆が対等な関係を築いて仲良くやっていけるという、さほど遠くない未来を描いたものだ。

もちろん、これまで日本人やシンガポール人はイギリス人から多くのことを学んできた。しかし、いずれは逆になるときがくる。学問の前では皆が対等。一生懸命学ぶ者同士が互いに先生だ。ぜひ、そのつもりで君も学問を続けて欲しい。

秀三は、そのように述べた上で、ヤンに自分がこれまでどのようにして植物園や博物館の運営資金を調達したのかを教えた。それは、軍関係者が知れば絶対に許すことができないようなものだった。そして、秀三は続ける。

私が君たちの支援をしていることは、決して誰にも伝えてはいけない。残念ながら戦争が終わった後も、それを日本の社会が理解できるようになるまでは時間がかかり、それまでは、その話は誤った形で伝わり、徳川侯爵をはじめ、この植物園を守ってくれる他の人々にまで迷惑を掛けることもあるかもしれない。

だからこそ、そのことは後任の日本人学者にも伝えてはいけない。君がここ(植物園)に残るなら、抗日活動とは何の関係もない、私とも特別な関わりはない、何も知らない現地スタッフとして振る舞って欲しい。

そのためにも、私がここで成し遂げたことがあれば、それは徳川侯爵や後任の日本人、コーナー君ら英国人学者をはじめ、すべて他の人の手柄にして欲しい。

秀三はそのように告げ、清々しい笑みを浮かべていた。この戦争の題目として掲げられた「八紘一宇」すなわち諸民族の自立と世界の協和。戦争に利用された悲しい言葉。

自分こそが、陛下そして明治日本が目指した本当の「諸民族の自立と世界の協和」のために闘っているとの自負があったのだ。

ヤンは、それに対し「先生の言いたいことは分かりました。しかし、自分はいつの日か先生の真意を社会に伝えます。それが、私の後の世代になったとしても。」と述べた。秀三は何も答えず、静かに微笑むのみであった。

すると、そこにコーナーも現れた。コーナーは「さきほどの話の大半は聞こえていました。水くさいじゃないですか、自分も秘密は守りますから安心して帰国して下さい。ですが、私も本国に戻った後に、必ず先生の功績と変人ぶりだけは書きますよ。」と述べた。

その上で、コーナーは「先生は本当はこの地に止まり、自らの手で、新しいシンガポール、そしてアジアを作りたいのではありませんか?」と尋ねた。

秀三は一瞬ニヤリと不敵な笑みを浮かべつつ、その後、寂しそうな様子を見せながら、私はそんな身の程知らずなことを考えるような人間じゃないよ、まあ、もっと若いうちにここに来ることができれば、別の考えもあったかもしれないが・・・、とだけ語った。

***

徳川侯爵や同行した京大を代表する植物学者・郡場寛教授(青森市出身)らの到着後は秀三は目立つことは極力控え、侯爵や郡場教授らを支えて、まるで昼行灯になったように静かに過ごした。

侯爵や郡場教授らもシンガポールの貴重な文化財を守り植物園や博物館の研究環境を維持するとの志は共有しており、侯爵の資金力や政治力のもと、これまで以上に良好な待遇が得られた英国人学者らもヤンら現地スタッフらも安心して業務を続けることができた。

しかし、侯爵らの到着以来、秀三とヤンは互いに知らん顔をしており、コーナーも研究の補助以外のことでヤンと関わることもなかった。

秀三の出国の日。今も表向きは日本軍の協力者を務めているリーが見送りに来た。

リーは、相変わらず鋭い目をしつつ、ヤンからすべて聞いている、先生のことは忘れないが、先生の頼みだから忘れたことにして頑張る、自分達が新しいシンガポールを作るので安心して帰国して欲しい、日本人はこの地で多くの悪行を重ねたが、先生のような人もいたということは、きっと両国の未来には大切な礎になるだろう、と告げた。

秀三は笑いつつ、リーに、きっと君は、将来のシンガポールを背負って立つ男になるだろう、こんな戦争で命を落とすことがないよう、我が身を大切にして、しっかり勉強して欲しいと告げた。

リーが後のシンガポールの初代首相にして現在の同国を作り上げた大功労者であることは言うまでもない。

日本に戻った秀三は、その後はシンガポールとは何の関わりも持たずに、本業である火山学、地質学の研究活動などに従事しつつ、癌のため67歳で死去した。昭和新山を世に知らしめた三松正夫を支援しその功績を世界に広めたことが、秀三の最後の仕事となった。

コーナー博士はその後も日本人学者らと共に現地で研究を続け、日本軍の降伏時には、英国軍に拘束された郡場教授らの釈放を嘆願するなど、日本人学者らとの友情は一貫して続いた。

帰国後はキノコ類の研究などで世界的権威に上り詰めたが、昭南島での経験を世に伝えるべきとの使命感から、しばしの時を経て秀三や徳川侯爵らの功績を顕彰した書籍を出版し、日本でも翻訳、紹介された。ただ、秀三がヤンたち抗日華人の支援をしていたことは伏せておいた。

ヤンは秀三の帰国後も植物園のスタッフとして従事しつつ目立たないように抗日運動への関わりも続けていた。

日本の敗戦後、リーに協力しシンガポールの国作りのための政治運動にも身を投じたが、多民族国家であるシンガポールにおいて、諸民族の自立と個人の自由を強く唱えたヤンは、強力な指導者による規律と統制を重視するリーと対立するようになり、リーの他の政敵との争いに巻き込まれるような形で政府に身柄を拘束され、社会の表舞台からは姿を消した。その後、植物研究を生かした薬学などの世界に身を投じたが、病を得て失意のうちに60歳ほどで世を去った。

ヤンが秀三から受け取った水彩画や鉛筆画は、ヤンの子や孫に引き継がれた。秀三と過ごした物語と共に。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第5回 あらすじ案④大戦編3~引継ぎの時

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第4回です。

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間一髪、辻の部下による狙撃は失敗に終わり、秀三は軽傷に止まったが、治療が遅れたことなどが原因で高熱を発し、一時は生命も危ぶまれる事態になった。

そんなとき、ヤンが植物園内に自生していたある植物をもとに薬を煎じて飲ませたところ、熱が一気に引いて、急速に体調が回復した。

その薬草はまだコーナーら英国人学者にも知られておらず、一部の地元民しか知らなかった。ヤンの父は漢方の造詣の深い華人医師で、マレー系の地元民との交流を通じ、その薬草を生かすことを知っていたのだ。

その頃、秀三の負傷を知った山下司令官は「陛下の名代」が軍人に狙撃されたことに狼狽し、黒幕と目される辻を転出させることにした

辻は「そんなのは虚言でしょう。陛下の言葉を偽ることこそ許し難い大罪」と抗議するも、山下は「私は陛下が生物学に造詣が深いことを知っている。田中舘が私心なく文化財などの保全に奔走する姿も見た。だから、私はあの男の言うことを信じる。たとえ、順番が逆だったとしても、だ。」と告げた。

辻は転出が決まり、それと共に華人の弾圧は以前より多少は緩和されるようになった。

他方、軍に遺恨を生じさせた状態を続けるのは秀三の本意でなく、秀三と違って豊富な財力を持ち、危うい方法ではない形で資金提供をして施設や人材の維持ができ、かつ軍と融和できるだけの人物に後任を委ねるべきだと当初から考えていた。

その人物として白羽の矢を立てたのが「虎狩りの殿様」こと尾張徳川家の当主・徳川義親侯爵である。

秀三は、銃撃の少し前に一時帰国した際、義父である貴族院議員・田中舘愛橘(もと東京帝大教授にして、地球物理学の権威であり、日本の物理学の創始者の一人。二戸市出身)に、シンガポールの学術・文化資産の保全を託す政界の大物を動かすことができないかと相談していた。

そして、愛橘博士が推薦したのが、博士と同じ貴族院議員仲間で、ジョホール王国のスルタン(マラッカ海峡の本来の領主)とも懇意にするなどマレー社会への造詣も深いと聞いていた徳川侯爵であり、秀三にとっても意中の人であった。

かくして、秀三は愛橘博士の斡旋で徳川侯爵と面談し、かねてより同じ思いを共有していた侯爵の快諾を得て、あとは侯爵が相応の人材を選抜し派遣するのを待つばかりとなっていた。

やがて、秀三の回復後、侯爵が自ら植物学・博物学の権威である学者らを引き連れてシンガポールに赴任するとの連絡が届いた。

秀三の役割は終わった。シンガポールを去るべきときが来たのだ。また、辻が軍関係者を通じて学会にまで手を回し、秀三をシンガポールから駆逐しようとしているとの噂も秀三には聞こえてきた。これ以上、軍と表だって事を構えるのは得策ではない。

侯爵が到着する直前のある夜、秀三は、植物園内にある執務室のバルコニーにヤンを呼び、ヤンに語りかける。

この戦争は間違いなく負ける。植民地の解放を謳うこと自体は間違っていないが、言っていることとやっていることが全く合っていない。シンガポールでマレー人やインド人を優遇し華人を弾圧しているのも、詰まるところ軍の都合で行っているに過ぎず、植民地の主が入れ替わっただけの話に過ぎない。

こんな状態は長くは続かない。きっと、あと3年もすれば日本は負ける。その際、シンガポールもマレー半島も一旦はイギリスの植民地に戻るかもしれないが、日本に惨めに負けたイギリスにもはや威光はなく、それも長くは続かない。すぐにアジア人の自立の時代が来る。

その上、この街は華人やインド人など移民だらけの特殊な都市で、マレー半島など周辺地域と一緒にやっていくのも難しいだろう。間違いなく、この街の人々が、シンガポール人として自立して国を営んでいかなければならない時が、あっという間に訪れる。

だからこそ、君達は「シンガポール人とは何か、どうして自分達は周辺国から独立・自立し、多民族が力を合わせて国を運営していかなければならないのか」という国家・国民のアイデンティティと統合の問題に直面せざるを得ず、それを解決しなければならない。

この植物園や博物館に保存されている貴重な文化財や学術資産、美しい花々は、間違いなく、その解決に役立つはずだ。日本人学者やコーナー君達が去った後も、君達はこの志を忘れることなくこれらを保全し、国づくりに生かして欲しい。

そう述べて、秀三は、幾つかの水彩画と三人の男を描いた鉛筆画をヤンに渡した。

(以下、次号)

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