北奥法律事務所

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岩手・北東北など

岩手県知事マニフェスト検証大会のレクイエム

旧ブログ投稿の再掲シリーズの最後に、平成25年に、岩手県知事マニフェスト検証大会について掲載した記事を微修正の上、再掲しました。

来年は岩手県知事選挙とのことで、恐らくは、すでに報道された有力県議さんと達増知事の一騎打ちになり、事実上「小沢氏勢力vs自民系」の最終?決戦としての意味合いも持つように思われます。

震災後、公約の検証(を通じた県政への民意の適切な反映や緊張感確保)という理想論を掲げる(旗を振る)方が全くいなくなり、数年に亘り「小沢氏勢力に飽きたか否か」だけが県政の実質的な争点になっているようにも見える光景に、大変残念に感じています。

当時は盛岡JCに親分肌の方がいて「俺は(主権者意識向上の活動を目的とした)任意団体を作りたい」と仰っていたので、できれば私も参画し、兵隊として汗をかきたいと思っていましたが、残念ながら、そうした話が結実することはなく、その方との接点も全く無くなってしまいました。

あまりにも多くのことが過ぎゆき、私も無残な老骨の一人に成り果ててしまったのかもしれませんが、かつて若者だった人々が曲がりなりにも掲げていた夢を、今どきなりの方法で次の世代にも引き継いでいただければと願っています。

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今回は、主として岩手県民の方、かつては一世を風靡した「マニフェスト選挙」に関心がある(あった)方、並びに盛岡JCの会員の方に向けて書いた投稿です。

皆さんは、10年以上前、「岩手県知事マニフェスト検証大会」というイベントが行われていたことをご存知でしょうか。

これは、平成19年に始まったイベントなのですが、当時、知事として三期目であった増田寛也氏が退任するにあたり、4年前の選挙の際に発表し県民の信を問うたマニフェスト(政権公約)について、その達成度を自己検証して県民に報告する場を設けたいとの意向が知事から盛岡JC側に伝えられて始まったものだそうです。

増田氏はマニフェスト選挙の先駆者とされており、知事人生の集大成として、このイベントを行うべくJCに動員をかけたというのが一つの実情なのかもしれません。

が、少なくとも当時の私は、小林正啓先生も引用の講演で指摘されるように、「地域住民の主権者意識の向上(国民主権原理の実質化)につながる地道な活動に寄与するのが、田舎のしがない弁護士の責任ではないか」と感じて、末端のスタッフとして、後記のアンケート調査など、若干のお手伝いをしてきました(なお、実働の大半は盛岡JCですが、公式の主催者はJCの岩手ブロック協議会=岩手のJCの連合体です)。

このイベントは、後任の達増知事の1期目の半ばである平成21年にも実施され、23年にも実施予定で準備を終えていたのですが、開催日直前に震災に見舞われ、中止の憂き目に遭っています。

2年おきに行っているのは、知事の任期は4年ですので、任期満了時である4年後に実施して達成度を県民に明らかにすることで、次の選挙での投票の判断材料とするというのが4年ごとの検証の目的であり、さらに、任期半ばの2年目にも中間検証を行い、残り半分の任期における県政向上に資することを目的としています。

検証大会の内容ですが、従前は、県知事による自己検証と行政分野をご専門とする県立大の先生による第三者検証の各講演のほか、知事やその年の盛岡JCの理事長さんを含めた識者によるパネルディスカッション、さらには、JCが県民に行った岩手県政に関するアンケート結果の発表も行ったことがあります。

アンケートについては、過去3回とも私が原案を作成しており、平成21年と23年には、長大な分析レポートも作成してJCのサイトで発表しています。

といっても、誰の注目も集めることなく、ケジメないし自己満足の類で終わっていますが。

アンケートは、盛岡JCだけでなく県内のJC全部の協力を得て、最盛期には1600通強の回答を集めました。

これは、県内紙や行政のアンケートにも引けをとらない回答数ですので、その集計結果等は、岩手県政を考える上で、大いに参考になるものだということは、特に強く述べておきたいと今も思っています。

ちなみに、ある年の大会で、私がアンケート分析の発表をした直後にパネルディスカッションになったのですが、冒頭で感想を聞かれた某知事が、ご自身の癇に障る内容でも含まれていたのか、アンケート結果について冷淡な感じのコメントをなさったことがありました(私の見る限り、集計結果も分析内容もそのような内容ではなかったのですが)。

その際は、パネリストである理事長さんから知事に「多くのJC会員が苦心して集めたアンケート結果に敬意を表しないとは何事だ」などと気概を見せていただければなぁと思ったりしたのも、懐かしい思い出です。

ところで、さきほどから書いているように、私は平成19年、21年、23年の3回に亘り、マニフェスト検証大会を担当する委員会に所属して、設営やアンケート調査に関わってきました。

最終年である今年も、2期目の達増県政の中間年として、平成21年と同様に検証大会が行われなければならない年であり、私自身はそれを最後の置き土産として卒業するつもりでいたのですが、どういうわけか、今年はこのイベントを行わないことになったそうです。

その原因が奈辺にあるのか、達増知事からクレームでも来たのか(たぶん違うでしょう)、もはやマニフェスト選挙が流行らないということで、JCの上層部の方々がやる気をなくしたのか、単に、当時を知る人が私を除き誰もいなくなってしまったというオチか、はたまた何らかの特殊事情でも生じたのか、万年下っ端会員の私には、真相は分かりません。

が、少なくとも、2年後の知事の任期満了の際には、公約の検証に関する何らかの事業を行っていただきたいことを、私を含むこの事業に携わってきた少なからぬ方々からの遺言として、JC関係者の方々に述べておきたいと思っています。

(2013年2月22日)

矢巾町と郡山市の共通点と蝦夷の怨霊

平成25年3月に、矢巾町の歴史民俗資料館に立ち寄ったところ、タイヤが雪道に嵌まり脱出に難儀した件に関する旧ブログの投稿を再掲しました。

岩手における矢巾町の歴史的特殊性(中央政権によって作られた街としての面)を福島県郡山市との類似性も交えて述べており、矢巾や郡山の方のほか、興味ある方はご覧いただければ幸いです。

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この日、久しぶりに紫波警察署に接見に行ったので、先日、「蝦夷の古代史」という本(平凡社新書)を読んでいたこともあり、帰りに矢巾町の歴史民俗資料館に立ち寄りました。

この施設は、大和朝廷の東北侵略事業(領土化)における最後の前線拠点とされる徳丹城跡(の隣)に建てられており、国道4号線からすぐ(100m位)のところにあります。

ただ、冬期は訪れる人もほとんどいないようで、管理人さんが1名のみ、しかも、どういう理由か、建物内ではなく、建物正面の駐車場に車両を駐車させて待機していた(外出先から戻ったばかりなのかもしれませんが…)という状態でした。

しかも、昨夜から本日にかけての大荒れの天気のせいか、国道から入る道も全然除雪されておらず、入館者向けの記帳をするように言われたので見てみると、最後の入館者は1月初旬とのことで、雪のない時期に来ればよかったのかも…と少し後悔しながら見学を開始しました。

ちなみに、本日の4号線は、「上空は晴天なのに、暴風で田畑の雪が強烈に舞い上がって地吹雪体験となり、時速某㎞(自粛)で走っているのにホワイトアウトが間断なく訪れる」という恐ろしい状態で、その上、後述のように、悲惨な目にも遭いました。

資料館そのものは、徳丹城と矢巾町の集落遺跡などを説明するコンパクトな施設ですので、すぐに見終わってしまうのですが、私が感じたのは、「この施設(展示)は、徳丹城を造営した大和朝廷の立場・視点から作っている」ということでした。

というのは、文章等もさることながら、徳丹城コーナーの最初のエリアに「蝦夷軍と戦う大和朝廷軍を描いた絵」というのがあるのですが、絵の目線が完全に朝廷側になっていて、「武具に身を包み勇ましく戦う朝廷の戦士」と「斬り殺されてムンクないしアベシ顔になっている蝦夷の賊徒」といった様相になっているのです。

ですので、蝦夷側の視点でこの地を見るのを好む私としては、けしからんと言いたくもなりましたが、それはさておき、数年前、福島県郡山市でこれと似たような感慨を抱いたことを思い出しました。

郡山市の中心部に「開成山公園」という名所があり、そのすぐ近くに「開成館」という郡山市の歴史を伝える施設(確か、昔の役所跡だったはずです)があるのですが、開成館の展示は、東北にありがちな「土着勢力と中央政府との抗争や苦闘の歴史」を描くものではなく、「郡山が、維新政府による大規模開拓(安積疎水)を礎として築かれた都市であることを確認し、開拓を推進した政府の元勲等を顕彰する」ことを目的とした内容となっており、東北の都市としては、異色さを感じずにはいられませんでした。

そして、矢巾町は、蝦夷をはじめ土着勢力の拠点となった歴史がない一方で、徳丹城という、大和朝廷(中央政府)の重要な出先機関(拠点都市)となった歴史があるため、郡山市と同様に、「中央政府寄り」のメンタリティを持ちやすい自治体であり、それが、「底流に流れるもの」として、上記のような展示にも反映されたのではないかと感じた次第です(矢巾という地名も、前九年の役=源氏侵略に由来するようです)。

余談ながら、矢巾町の吸収?合併は、盛岡市にとっては(ほぼ断念に追い込まれた)滝沢村(滝沢市)と並んで、長年の悲願の一つとされ、矢巾町がこれに応じてこなかった理由は、主として経済的なもの(巨額?税収の基盤となる流通センター)と言われることが多いと思います。

が、土着勢力の拠点都市としての長い歴史を持つ盛岡市(南部家は言うに及ばず、古くは安倍氏の本拠地とされています)と、中央政府の拠点都市としての歴史ないしアイデンティティを持つ矢巾町とでは、ある意味、相容れないというか、共感しあう土台づくりに工夫を要する面が隠されているのではないかと、妄想を逞しうせずにはいられないところがあります。

とまあ、そんなことを考えながら、資料館を後にしたのですが、すぐに、とんでもないハプニングに見舞われました。

前記のとおり、4号線から資料館に入る細い道は、冬期来訪者の少なさもあって分かりにくく、積雪も多い状態になっていたのですが、轍に沿って走っていたつもりが、あれよあれよという間に(氷に滑って?)、道路脇の積雪にはまって動けなくなってしまったのです。

幸い、資料館の管理人の方がスコップを持って救援に駆けつけて下さったので、2人であれこれ雪かきをしたのですが、それでも動きません。

しかたなく、6年強ぶりにJAFに出動をお願いしたところ、到着まで3時間半を要するとの返事。

ガーンということで、とりあえず要請はした上で、その後も管理人さんの支援を得つつ地道に鉄製のスコップで氷雪と闘い続けたところ、約40分ほどして、ようやく脱出できました。

終わりよければすべてよしで、雪国暮らしらしくない文明の恩恵に浴した生活を送っている身には、たまには肉体労働に勤しむのも良しと思ったものの、反面、「1200年以上も前に、この地で徳丹城造営に駆り出された蝦夷の人々の呪いだろうか」と思わずにはいられませんでした。

というわけで、矢巾町民の皆さんはもちろん、盛岡広域圏その他の皆さんも、徳丹城に末永いご愛顧をいただければと思います。

(2013年3月2日)

廃棄物の大量埋設事件たちが語る、大地の尊厳と回復負担の適正公平への道

先日(12月9日)、「岩手青森県境不法投棄事件を総括しつつ、現在も県内で生じている廃棄物大量埋設事件に関する訴訟(旧県立軽米病院事件)を紹介し、一連の問題への県民意識の喚起を図ること」を目的とした、NHKの特集番組(いわチャン「希望郷の廃棄物」)が放送されました。

次の日曜(12月18日)も再放送されるそうなので、見逃した県民の方などはご覧いただければ幸いです。

番組は著名声優さんの語りで県境事件の概要や費用負担を巡る論点及び県庁(環境生活部)の取り組みなどが紹介され、ドキュメンタリーとして綺麗に出来上がっていました。

が、県境事件の総括の途中で突如、軽米事件がニュースをそのまま入れ込んだような形で出てきたため、唐突感というか、番組編集的に若干苦笑する面はありました。

ちょうど放送の前日頃に訴訟の第1回期日があり、進行中の事件の取り上げ方(しかも、県庁vs地元自治体という異例訴訟)の難しさも相俟って、NHK内でも様々な議論や苦慮があったものと察しています。

ともあれ、当方の主張の核心部分(汚染者が責任を問われず原状回復を負担することなく、大地の浄化を引き受ける地元民がしわ寄せを受け虐げられる社会は、間違っていること)には共感いただいた内容だと認識しており、制作サイドの熱意を含め、そのメッセージが行間から伝わる番組になっていたと思います。

私は軽米事件の相談を受けたときから、県境事件との繋がりや落差を強く感じていたため、そのことは訴状に書いたほか、提訴時の記者会見でも記者クラブ向け説明資料で特に指摘し、訴訟での立場等に関係なく、県民の関心を高める報道をお願いしたいと伝えていました。

が、記者クラブの参加者からは全く反応がなく、地元紙などで取り上げた話も聞きませんでしたので、残念に思っていたところ、しばらく経って、その際に同席していなかったNHKの方から、二つの事件をテーマにした番組を作りたいとの申出を受けたため、私と同じ問題意識をもってくれる人がいるんだと感動し、感謝の気持ちで可能な限りの協力をさせていただきました。

裁判自体は裁判官が判断すべきものですので、世論誘導が目的ではありませんが(そんな力もありません)、この問題は広く関心が持たれるべきで、可能なら、県民世論からも適正・円満解決を求める後押しがあればと願っていますので、今後も、訴訟自体に限らず、できる限りのことはしていきたいと思っています。

皆さんも、こうした番組を通じて、口先だけではない「美しい県土を守る」とはどのようなことなのか、考えていただければ幸いです。

廃墟ホテル解決策としての「ジブリ・蝦夷の隠れ里とイケメンの湯」

先日のモーニングショーで、花巻・台温泉の入口にある、数十年放置された廃墟ホテルが取り上げられていたそうです。番組自体は見逃しましたが、少し前に現地に赴いたことがあり、この廃墟をチラ見して残念に思っていました。

番組では例の如く解決困難で話が終わっていたようですが、一つ、大逆転の知恵が無いわけではありません。

キーワードは「蝦夷とジブリ」です。以下、詳細を述べます。

番組によれば、撤去には数億円が必要で、跡地を観光目的に利用するなら1億円まで補助が出るものの、行政(花巻市)には数億ものカネは無理で、利用法も良い知恵が出ない、とされています。

ところで、台温泉は、坂上田村麻呂と関わりがある温泉なのだそうで(岩手でも最古級の温泉でしょうか)、田村麻呂といえば阿弖流為=蝦夷、蝦夷といえば縄文の末裔、ということになりますが、岩手でも東北でも、蝦夷や縄文を前面に打ち出した観光施設的なものは、私の知る限り、ほぼありません。

ただ、いくら世界遺産云々とはいえ、縄文=地味そのもの、蝦夷なんて知名度も全然ないのに・・・と思っている貴方は、大事なコンテンツを忘れています。

もののけ姫のアシタカです。
あのイケメンのアシタカです。

彼は蝦夷の末裔の隠れ里の出身で、製鉄事業に起因して猪神に生じた呪いを浴びたせいで里を離れ、呪いを解くための旅に出て製鉄の里に辿り着き、そこで自然と文明の対立と超克というテーマに立ち向かうことになります。

このテーマは当然ながら現在も色あせたものではなく、むしろ深刻の度合いを深めていると言えるでしょう。

で、作品の性質上、「蝦夷の隠れ里」の推定所在地として、岩手が我こそはと立候補できる地域の一つであることは議論の余地がありません。

田村麻呂との繋がりという、誰も文句を言えない「候補者としての資格(ひいては責務)」が台温泉にはあると言ってよいでしょう。

そして、開園したばかりの「グッズ転売の里」ならぬ大盛況のジブリパークには、現時点では蝦夷の隠れ里はありません(但し後述)。そもそも、蝦夷の隠れ里を愛知県に設ける必然もありません。

そこで、「第2ジブリパーク」とまで銘打つかはさておき、この廃墟ホテルの跡地に蝦夷の隠れ里(ひいては縄文・蝦夷らしい生活空間)を再現し、本家ジブリパークとの何らかの連動性(コラボ云々)を目指せば、「解体費用のモトが取れる観光施設」も夢ではないように思われるのですが、どうでしょう。

温泉が出る場所なので、美人の湯ならぬ「君もアシタカになれる!イケメンの湯!」などと銘打った温泉ホテルを作って、朝晩は静謐なホンモノ感溢れる蝦夷の里の美しい景観を眺めながら贅沢なひとときを過ごせる・・などと構想すれば、もはや陳腐化したグランピングなどと異なる唯一無二の空間として、星のやグループなどの進出も得られるかもしれません。

ちなみに、現地(廃墟ホテル)は裏側に延々と低山が続いているので、ちょっとした開発なら困る要素はない(宅地取得のような苦労はない)ようにも思われます。

大規模な施設は無理でしょうが、北東北の縄文諸遺跡を活かすとか、「賢治と縄文」的な切り口も考えて適度に内部コンテンツの更新を行えば、永続的な集客力を備えることも、十分ありうるのではないでしょうか。

ただ、ジブリパークは第2期工事が予定されており、「もののけ」関連施設として蝦夷の隠れ里も候補になるのではと言われているようなので、そうしたこと(本家は製鉄村の方を作り、蝦夷はこっちに譲って貰う)も含め、ジブリ側との深い交渉が不可欠となります。

また、1億円までしか国の補助が出ないという現状の改善(補助額の増加)や各種カネ主との交渉に関しては、恐らく花巻市長だけでは手に余る話で、岩手県知事をはじめ様々な政治関係者・企業関係者の努力が必要になるでしょう。

で、ある意味、ここが本題?なのですが、来年の岩手県知事選で、この構想をぶち上げて推進を掲げる候補がおられれば、ぜひ応援してみたいように思うのですが、いかがでしょうか。

毎度の戯言として一笑に付されて終わりかもしれませんが、カネまみれ五輪の類よりも、よほど「縄文・蝦夷の末裔の地」たる岩手にとっては、地に足の付いた夢のある話であり、これに「廃墟ホテルで汚された大地を美しい姿に取り戻す」という、宮崎監督の好感触も得られそうな大義名分もありますので、ぜひ多くの方々に考えていただければ幸いです。

アシタカって誰とか、もう忘れたとか仰る残念な方々は、検索ですぐ出てくるこうしたサイトをどうぞ。

私と岩手県庁の20年、そしてその先にある事件

19年前、私は、岩手・青森両県庁などのご協力のもと、全国の廃棄物問題の凄腕弁護士さん達を連れて、岩手青森県境不法投棄事件の現場に行きました。第二の豊島事件になるかもしれないと思われたこの事件は、増田知事の全面撤去の決断を機に、弁護士の出番を必要とすることなく決着しました。

14年前、岩手・青森の海の境界紛争と呼ぶべき「なべ漁場事件」が勃発し、私は、岩手県庁(水産振興課)の全面支援のもと多数の岩手県漁業者の代理人として、青森県庁と闘いました。数十年前から続いていた漁業紛争にケリを付けるため始まった事件は、苦心惨憺の末、実質勝訴と言える和解で終了しました。

7年前、長年の岩手のサケ産業システムに不満を持つ一部の岩手県漁業者による「サケ刺網訴訟」が勃発し、私は岩手県庁(水産振興課)の代理人として原告漁業者らと闘いました。この件も苦心惨憺の末、3年後に全面勝訴で終了しました。

ただ、岩手のサケ産業の現状に照らせば、ある意味、勝者なき闘いだったのかもしれません。彼らが数十年続けた闘争を終わらせるために起こしたのではと感じた訴訟は、裁判で語られたことの意義が世間に伝わることもなく、些か不毛さを残すものでした。

あくまで単発的なご依頼であり「地元の大物センセイ」でもありませんので、県庁の顧問などにご縁はありませんでした。

そして今、数十年前に行われた廃棄物の大量埋設事件で、被害者代理人として、岩手県庁(医療局)を訴える側の代理人として訴訟を提起しました。

自治体と関わる地元弁護士は数多あれど、こうした形で地元県庁と様々な関わりを持った弁護士は、珍しい部類に入るかもしれません。

提訴自体は、当日は地元TVで全局一斉に取り上げられたほか、国内向けWeb記事でも表示されていました。
軽米町が県を提訴 病院跡の廃棄物めぐり 総額1億9000万円の損害賠償請求<岩手県>|FNNプライムオンライン

反面、翌日の岩手日報では紙面の片隅に小さな記事が載っているだけでした。新聞には、訴訟の概要や事件の問題点などについて、提供資料などをもとにTVでは対応できない腰を据えた詳細な記事を書いていただければと願っていたのですが、その点は残念です。

ともあれ、この事件は数十年前に埋設された膨大な廃棄物の撤去費用などの賠償を埋設行為者に請求する事件ですが、以前に投稿した「あなたの街の森友学園事件」のとおり、全国に膨大な数の同種被害が潜在していると危惧されます。

とりわけ、数十年前とはいえ県庁が運営していた施設が起こした事件であることは関係証拠から間違いなく、県庁が県民から借りた土地に、現時点で1億強もの原状回復費用を要する投棄行為を行い放置し続けたことの当否を問うことは、県民にとっての県庁という存在の意味=信頼も問うことに他ならないと思っています。

本件自体の解決もさることながら、将来発覚する同種の事件で適切な対処がなされるようにするためにも、全力を尽くしていきたいと思います。

事件の適正解決のため、県民など多くの方々のご理解・ご協力も賜れれば幸いです。

次期岩手県知事選を巡る待望論と衆院選岩手選挙区への影響

前回、一世を風靡したオガール紫波の物語について感じたことを書きました。5年以上前に読んで、前段はすぐに書いたものの、後段部分をあとで書こうと思っていたら5年以上も経ってしまい、ようやく感想を書き終えることができました。

ところで、先日の参院選岩手選挙区の結果を受けて、来年に予定される岩手県知事選に誰が出馬するのか、様々な憶測が飛び交っているようですが(私は蚊帳の外なので何も存じません)、岡崎さんの待望論は間違いなくあるのだろうと思います。

私自身は、現時点で達増知事に確実に勝てる唯一の候補と思っていますし、岡崎さんが出馬となれば、達増知事の方が対決を避けて知事選ではなく国政選挙などに方向転換する展開もあるかもしれません。

・・などと書くと、ご本人にとっては迷惑千万かもしれませんが(ご覧になっていたら、すいません)、ともあれ、自民党岩手県連などの方々は今回のブログ記事も参考にしていただき三顧の礼を尽くすことも考えていただければと思っています。

まあ、無党派層としては、自民が別候補を擁立し三つ巴の闘いになるケースでも、新たな本格的地域政党の誕生に繋がりそうで、見応えがありそうな気もしますが。

それこそ、木下斉氏なども抜擢し庁内で様々な試みを行っていただけるのであれば、増田知事時代以上に、日本で一番注目される知事になることは間違いないと思います。

なお、近時(参院選=安倍首相の死去前後)の達増知事が反自民的な発言で繰り返し報道に取り上げられている光景を見ると、達増知事は知事再選よりも国政選挙に戻って国政の小沢氏勢力の承継を予定している(希望している)のかな、と感じないでもありません。

その場合、小沢氏から岩手3区を引き継いで「藤原議員への敵討ち」を目指すのか、岩手1区で階猛議員と「野党(岩手小沢党)内の裏切り者?への落とし前対決」をするのか、野次馬たる盛岡市民としては後者の方を期待していますが、いずれにせよ、全国から強い関心を集めることは間違いないでしょう。

知事選が本格化するのはちょうど1年後ですが、その頃、国政を含めてどのような動きが生じるのか、今から楽しみに待ちたいと思います。

 

RPG小説または出会いの熱量の物語としてのオガールと、その先にある私たちの出番

5年以上前の話で恐縮ですが、猪谷千香「町の未来をこの手でつくる 紫波町オガールプロジェクト」を読みました。

当時から一世を風靡し現在も進行中の「オガール紫波」を、立役者であり開設と運営の中核を担っている岡崎正信氏の軌跡を中心に物語風に描いた本ですが、私は岡崎さんの翌年に盛岡青年会議所に入会した関係で平成17~19年頃は何度かお会いする機会があり、いわば「オガール前史」時代の岡崎さんを若干は存じています。

その後は残念ながらお会いする機会がほぼなく、岡崎さんがJCを卒業する際の卒業式でご挨拶した程度の関わりに止まっていますが、幸い、facebookでは「友達」の承認をいただいたので、硬軟さまざまな投稿を日々興味深く拝見しています。

本書で描かれる「オガールの物語」は、紫波町の建設会社の子として高校まで地元で育ち、大卒後は都市再生機構で各地の開発事業で活躍していた岡崎さんが、必ずしもご自身の希望ではない形で帰郷し、地元での生き方を模索していたところから始まります。

そして、ほどなく、長年塩漬けにされていた町有地の開発について町役場の会合で相談を受け、その時点では誰にとっても「雲を掴む話」であった公民連携の手法による開発を提案し、町長の英断で推進に向けて様々な取組みか開始されるところから、一気に物語が進展していきます。

かくして、オガールの誕生から現在(直近)までの全体像や今後の展開などを、プロジェクトに寄与した多数の関係者の証言を通じて描き切ったのが、本書の骨子です。

その物語は、岡崎さん個人の努力と成長に加えて、まちづくり・デザイン・金融など、様々な分野の第一人者が「旅の仲間」のように次々と登場しては重要な役割を果たす姿が日替わりヒーローのように描かれ、最後に次の世代の育成で締めくくられているため、ちょっとした英雄譚を見ている感覚になります。

本書をRPGゲーム風に要約すれば次のようなものになるでしょうし、そうした読みやすさや引き込み力が本書の特徴であり魅力とも言えるでしょう。

「旅の勇者が故郷の小さな町に帰ってきました。町を治める王様は、勇者にある頼みごとをしたところ、勇者はたった一人で町の皆が驚くほどの成果をあげました。

王様は勇者に、その町が抱えた深刻な問題を相談しました。勇者は、隣の大きな町で意気投合した吟遊詩人を皮切りに、旅を通じて培った知恵や度胸を武器に、強い力を持った魔法使いや賢者など次々に優れた仲間を集め、独自の構想でその問題に取り組みました。

王様は国を挙げて勇者と仲間たちの闘いを支え、それまで町を不安に陥れていた脅威は、彼らの努力により町の良さを国中に広めるチャンスへと大化けしました。

今、その町には、新たな勇者たちが活躍の機会を求めて集まってきています。勇者たちと町の挑戦の物語は、まだ始まったばかりなのです。」

そうした意味で、本書は、都会(国=全国組織)から「お金を引っ張る」方法ではなく、まっとうな稼ぎ方を学んで実践したい人にとっては教科書的な本と言えるのかもしれません。

また、都会で何かを学んで帰郷(或いはIターン)したけれど、それを地元(現在の居住地域)で必ずしも生かせてない、という人にとっては福音書のような面もありそうです(見果てぬ夢の物語というべきかもしれませんが)。

そんなわけで、田舎のしがない町弁としての私が本書で描かれているような「都会と地元を行き来する人が担う地方自治の新しい物語」に、どうすれば、また、どのように関わることができるのか考えつつ読みました(残念ながら、いまだ何らの関与も実践もできていませんが)。

もちろん、このような「田舎のスマートな施設」は、いつの日か地元民が「シャレオツ疲れ」を起こして飽きられるリスクもあるのかもしれず、今も行われている様々なイベントをはじめ、ディズニーのようなコンテンツ更新や話題作りのため不断の努力の宿命を負った施設でもあるのでしょう。

事実、以上の文章は数年前に書いたのですが、この数年間で紫波町には学校跡地に新たな技能教育施設を作るとか、町役場跡に温泉施設を作るなどの話が持ち上がっており、岡崎さんが関わった町外の他の案件(盛岡市動物公園やバスセンター、二戸の金田一温泉など)も含め話題に事欠かない状態が続いており、スポーツ指導者としての活動もなさっていることも含め、庶民から見れば驚愕するほかないと言ってよいと思います。

そうした意味も含め、今後もオガールの努力から何かを学んでいければと思います。

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ここからは、現在=掲載時に加筆した文章です(これを書くのが遅れ、ようやく掲載できました)。

本書には、岡崎さんが最終的に目指す道が何であるのか窺わせるような記載はありませんが、私は読了直後=5年以上前、岡崎さんには米国の「シティマネージャー」のような路線を目指していただければと思っていました。

シティマネージャーとは、増田寛也・前岩手県知事が平成22年に出版した「地域主権の近未来図」(朝日選書)で紹介されていた米国の制度で、要するに「市長」という制度を止め、代わりに議会が「自治体の経営者」を選任する制度です。

いわば、議会が、市長に代わり「会社の代表取締役=雇われ社長」のような存在を選任する制度だそうで、米国では、小規模な自治体を中心に、かなり普及しているのだそうです。

岡崎さんが従事した「PPPエージェント」は、シティマネージャー業務の一端ないし先取りという面があるようにも思われ、これが各地に広まり実績が認められれば、やがて、日本でもシティマネージャーを導入してみたい、との機運が高まるかもしれません(同書でも埼玉県内で導入提案がなされた例の紹介があります)。

ただ、そのためには地方自治法の大改正が必要でしょうから、まずはPPPエージェントなど現行制度でも実現可能な手法で実績や担い手を増やすことで制度改正の機運を作る必要があるのでしょう。

そうした営みを中心に運営されていく新しい「地方自治のカタチ」に地元の町弁もお役に立つことができればと願ったりもしますが、現状では夢のまた夢なのかもしれません。

ともあれ、「自民党の憲法改正案(で指摘されている事項)は別段支持しないが、憲法改正或いはそれに類する制度改革はぜひ行って欲しい」という現在の世論は、地方制度を含め、議会(立法)・役所(行政)の制度や文化の大改革を期待していることは、間違いないはずです(それらが良好に改善されることがあれば、やがて司法も追随するのでしょう)。

最近は聞かなくなりましたが、数年前には盛んに報道された「地方議員などのがっかりニュース群」に照らしても、地方自治制度には「我々のまちには、こんな無駄な制度はいらない」とか「自分たちの独自のやり方で町をつくりたい」として、会社法のように、ある程度、自由に(自主自立的に)機関設計できることを期待する声があるのではと思っており、岡崎さん達の営みも、その一助になればと願っています。

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日本の地方制度は、中央官僚による統制を主導した大久保利通に由来すると評して過言ではないと思います。

彼ら=明治政府の先駆者達は、民衆や地元自治体よりも中央官僚(英才集団)による統制の方が、公共の福祉=社会全体のしあわせを実現できるとの強い自負を持ち、曲がりなりにもその努力を積み重ねてきたことが、現在も連綿と続く「民」や地元自治体などの「官」への依存心の根底にあると思います。

それだけに、まちの未来を自分達で創ることを標榜するオガールのPRG物語にとって、最後の敵=ラスボス大魔王とは、人々の依存心を喰らい続けて巨大化した大久保利通の影法師(血の記憶)なのかもしれません

現下の社会情勢では、或いは、岡崎さんを選挙などの大舞台に担ごうとする動きも出てくるのかもしれませんが、そうしたことも含め、ぜひ、人々の範となる闘いを今後も硬軟交えつつ続けていただければ幸いに思っています。

 

菅田義経に与えられるべき「アイヌ王」の物語と、八重と清衡を巡る圧倒的なまでの共通点

話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も中盤となり、先日は義経の最期が描かれていました(後述のとおり、私はまだ見れてません)。

今回の義経は、性格に難があるものの天才的な軍略家として描かれていたので、どうせなら北行伝説を仄めかすシーンがあればよかったのに、と思っているところです。

この点については、以前にブログで

この時代の北方世界(北海道からサハリン広域)では、当時のアイヌ民族(擦文人)が勃興して大陸まで暴れ回っており、北の元寇と呼ばれる大戦争もあった。いっそ、義経はその指導者になって暴れ回っていたという物語を作った方がよいのでは

と書いたことがあり、今回の菅田義経には、その物語を与えてあげたかったように感じています。
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ところで、主人公・北条義時の妻として登場するガッキーこと八重は、史実では不明な点が多い御仁ですが、ドラマでは、最初の夫(頼朝)との間の子を実父(伊藤祐親)に殺され、実父や実兄も夫に殺された後、義時と結ばれ、嫡子・北条泰時を授かっています。

この八重の人生を見ていると、平泉の創始者こと藤原清衡に似ているのでは?という印象を強く受けます。

ご承知のとおり、清衡は幼少期に父(藤原経清)を殺され、母は父を殺した勢力(清原氏)に再嫁を強いられ、やがて、父違いの弟(清原家衡)との対決を余儀なくされ、その弟に本拠地を衝かれて妻子を殺され、最終的には弟(家衡)を倒し、東北に平和をもたらしました。

父・経清や父が属した勢力(安倍氏)を滅ぼしたのが源氏の棟梁・源頼義であり、当初は安倍氏の方が源氏(頼義)を圧倒していたのに、現地勢力たる清原氏(いわば北条氏ら反平家の板東武者)の力で逆転した点も、共通しています。

今作で描かれる頼朝の非情・非道さは、経清が頼義に残虐な方法で殺されたこととも通じるものがあるように見えます。

他にも、

・自分の身内の大半を殺されただけでなく、殺した側が源氏の棟梁又はその協力者であること、

・その後、源氏と入れ替わる大勢力(清原氏=北条氏)の主(の妻・母)となったこと、

・その大勢力は、源氏と正面から喧嘩せず、源氏と協力しながら現地を乗っ取ったような面があること、

・そして、後継者は相当の長期に亘り、平和な時代を築いた(が、遙か後年になって、新たな天下の主に滅ぼされた)こと

など、八重と清衡(或いはその母)を巡る物語に、あまりにも共通点が多いことに驚かされます。

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ただ、ここまで考えると、この二人(八重・清衡)とよく似た人生を余儀なくされた超大物が、もう一人いることに気づきます。

他ならぬ、源頼朝です。

言うまでもなく、頼朝こそ、幼くして父(源義朝)や兄など身内勢力を仇敵(清盛)に殺され(滅ぼされ)、若くして授かった我が子(八重との子)を、敵勢力(伊東祐親)に殺され、長じては身内(義経ら)と不和になり、いわば殺し合いを余儀なくされています。

また、親の敵を討つと共に、(その地域では)新たな時代の主となったという点も、三者共通すると言えるでしょう。

(清衡は源氏を倒したわけではないものの、直接の仇敵たる清原氏を倒すと共に、朝廷との政治交渉を通じて源氏を東北から追い出していますし、八重の家族としての北条氏が源氏を事実上滅ぼしたことは言うまでもありません)。

他方、清衡が築いた楽土(藤原四代)は、頼朝に滅ぼされるまで100年ほど続き、八重?の子孫たる鎌倉北条氏は、(同じく源氏の傍流たる)足利氏らに滅ぼされるまで、150年続いたのに対し、「頼朝の天下」は、事実上、彼一代(それも、ほんの数年)か、せいぜい二代(殺された2名の子)までしか続きませんでした。

頼朝が身内(同族)を次々と殺した(殺さざるを得なかった?)報いだからなのか、それに止まらない「業の深さ」が本人や源氏一門などにあったのか、軽々に申せませんが、この陰陽の鮮やかさもまた、色々と考えさせられる面があります。

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余談ながら、当家では、当初、歴史学習の意欲のカケラもないガッカリ同居家族が珍しく一緒に視聴していたものの、「上総介がかわいそうだ、もうイヤだ」などと、子供みたいなことを言い出して放棄したため深夜視聴が後回しになり、まだ屋島で録画が溜まっています。

急を要する書類仕事に一区切りがついたので、そろそろ深夜に消化をと思っているのですが、大物起案が一つ控えているほか、既存の仕事も益少なくして労多しの追加仕事が次々見えてきて、ため息の日々が続くばかりです。

遠野の水光園から二戸の水光苑への追憶とお尋ね

前回も投稿したGW中の遠野巡りの際、観光名所の一つ、たかむろ水光園に行きました。
https://www.tono-suikouen.jp/
https://tonojikan.jp/kanko/suikoen.php

昭和期に作られた人口池ですが、崖上の浄水場から大量の水が滝となって流れ込み、十分に風光明媚な場所と言えるでしょう。

ところで、水光園に関しては、二戸ゆかりの方々にぜひ伺いたいことがあります。

40年前の二戸をご存知の方ならお分かりかと思いますが、現在の二戸ロイヤルパレスが存在している(先般閉鎖されたそうですが)場所には、当時、「水光苑」と呼ばれた宴会施設がありました。

二戸RC(ロータリークラブ)の例会場などで利用されていたせいか、幼少期の私は何度かお邪魔しており、もし現在も存続していれば、昭和レトロ感満載として見直されていたと思える、味わいのある作りだったような記憶が微かにあります。

この二戸の水光苑ですが、その名のとおり敷地に大きな池があったような気がするのですが、幼少期の微かな記憶のため勘違いの可能性が高く、全く自信がありません。

また、たかむろ水光園が開設された時期は、二戸の水光苑の最盛期とさほど離れていないはずで、双方の接点があるのかも不明です(なお、水光園(苑)で検索すると、全国に幾つかの施設があることが分かりますが、互いの関係性は無さそうです)。

もし、在りし日の水光苑の姿をご存知の方がおられましたら、コメントを頂戴できれば幸いです。

ともあれ、たかむろ水光園の庭園施設自体は、現在はさほど注目されることもないせいか、寂れ感が目立っており、上部の温浴施設の収益でどうにか維持されているのだろうという印象は否めません。

イベントや映画撮影などで活用できそうな古民家群があり、少し傷んでいる雰囲気が、かえって味わいを醸し出しているので、どうにか活かしていただきたいものです。

 

薄く延ばした卵とじの「ひっつみ」が世に出る日を求めて

半年ほど前にFB投稿した記事の掲載も、ようやく最後です。この日(半年前のある日)は、昼に裁判所に所用があり、近くの北ホテルのレストラン窯で「ひっつみ定食」を美味しくいただきました。

ただ、大事なことなので何度でも言いますが、私の実家では「卵とじ」のひっつみを長年、愛食してきましたので、市内等のどこにも卵とじのひっつみを提供して下さるお店がない光景は、とても残念に思っています。

盛岡の方々は卵とじに馴染みがないのかもしれませんが(津軽の貝焼き味噌のように、卵とじは青森の文化かもしれません)、ひっつみは卵とじをした方が何倍も美味しいので、市内の飲食店関係者の皆さんにおかれては、プラス100円等で「卵とじサービス」を前向きにご検討いただければ幸いです。

あと、欲を言えば、キノコも椎茸ではなくナラタケ(二戸等ではカックイ。盛岡ではボリと呼ぶそうですが、カックイの方が音がいいと思います)にしていただければ、なお有り難いです(ナラタケ+鶏肉の組み合わせは、ひっつみ・蕎麦・雑煮など、どれにも抜群に相性が良いです)。

関連して、昔々に書いたこちらの記事もご覧いただければ幸いです。
「ひっつみ」に関する照会とお願い | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

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以上のFB投稿に、地元の先輩でもある二戸の著名人Kさんから「うちも昔は卵とじのひっつみだった(が、今は、見かけなくなった)」とのコメントをいただきました。

苦節四十数年、私の実家以外で、卵とじのひっつみを食べたことがあるという方に初めてお目にかかり、感動するばかりでした(笑)。やはり、二戸には、そのような食文化があるのかもしれません。

ともあれ、ぜひKさんの影響力で二戸や盛岡などの飲食店の方々に勧めていただければとお願いしました。

また、ひっつみは巨大な鍋に、ひっつみを可能な限り薄くのばし、グツグツした状態でひっつみを投入

→その後、グツグツ鍋に卵とじを投入

→共に極薄のひっつみと卵とじのハーモニーを、鶏肉等のダシの利いたツユで味わい至福のひととき、

というのが王道と認識しています。

というわけで、ウイルス禍明けにでも、Kさん?の仕切りで、パークホテルか馬淵川公園?等で

「南東北の芋煮に負けるな!北東北にはこれがある!」

とでも題して、自分たちで大鍋にひっつみ(と溶き卵)を入れて食べる一大パーティを開催いただき、それを皮切り?に、二戸の古くて新しい名物として売り出していただけないかと、願わずにはいられません。