北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

社会全般

尋問の東京出張からキュビズム経由で縄文の思想と近代の超克を考える

昨年末、約20年ぶりに東京地裁で尋問のため出張してきました。本来は色々な意味で尋問などの重い手続には相応しくない親族間の少額の金銭問題に関する事案であり、当方は穏当な解決を目指してきましたが、相手方が強硬な対応に終始し、やむをえず尋問・結審となった事案です。

この件に限らず、ここ数年「親分肌(姉御肌)だが我が強く自分本位な御仁に振り回され、弱者いじめのような扱いを受けた人が、これ以上は耐えられないと思って私に相談し、その後も相手御仁が不当・強硬な要求を続けたため、やむなく訴訟等に至るケース」の受任が多いような感じがします。

その種の事案は受任の時点で何らかの不利な条件が生じていることが珍しくなく、相手方はそれをタテに因業な要求をしてくるのが通例で、絵に描いたような古証文事案も複数あります。

そのうちの一つは、テレビをご覧の岩手県民なら誰でも知っている著名企業の創業者が、子分格の小規模企業経営者を長年いじめていた事案で、都会の豪腕弁護士さんと死闘を繰り広げた末、当方勝訴の心証開示を前提に、ご本人の希望で手打ちのような形で譲歩した勝訴的和解をしています。

昨年は、因業な元街金業者に長年いじめられた「保証人の保証人」たる債務者の代理人として、古証文事案で時効が成立するか激しく争い、無事に当方主張が認められ勝訴確定した事案もありました。

が、私自身も似たような経験を昔も今も余儀なくされている?せいか、この種のご依頼は絶対に負けさせるわけにはいかぬと死に物狂いで取り組む結果、時間給換算で大赤字となるのが通例で、ぢっと手を見るばかりの日々です。

***

というわけで、今回も数年ぶりの東京に、「長時間出張でますます大赤字だ」と全く嬉しくもなく行ってきたわけですが、せめてもの悪あがきということで、国立西洋美術館のキュビズム展に立ち寄りました。

私は高校1年次にパリのオルセー美術館でミレーの晩鐘に感動して以来(ここだけ昔の自慢話・・)、モネとかコローなどの素朴で美しい印象派の風景画ばかりを好んで見てきたので、キュビズムに小利口なことを言える身分ではありませんが、それでも、私も年を取ったというか、昔よりも色々と考えたり感じたりできるものがあったように思います。

個人的に一番感銘を受けたのは、キュビズムの源流がアフリカやオセアニアなどのいわゆる未開文化が創り上げた、祝祭や呪術などに用いていたとみられる異形の木像などである、という冒頭の解説でした。

そこで展示されていた西アフリカの木像の目とピカソの「キュビズム直前期」の女性画の目が酷似しており、ああ、これが元ネタなんだと素人目にも分かるものがありました。

企画展の入口で、これまでの絵画は(被写体たる人物や風景の)模倣に過ぎないが、キュビズムとは創造を目指したものである、と書かれていました。

ピカソ達の作品は、当時の西欧社会内で、この木像などと同じ役割・機能を果たすことを目指していたのではないかと思いました。

アフリカやオセアニアなど(いわゆる第三世界)では、意味づけや役割などが判然としない異形の人物像などが多く作られていたことは現代では誰もが知っているところですが、これらの異形の像は、現地の何らかの儀式に使われたり、或いは部族支配者の権威付けに用いられるなど、何らかの呪術的なメッセージを伴っていると考えられていると言って良いと思われます。

ピカソ達は、「なんだこれは」と人々が驚くと共に、知性や悟性(思考能力)では捉えることができない、禍々しさも含むのかもしれない何らかの異形の価値を社会に見せつけることを狙って、ああした異形の作品を送り続けたのではと思いました。

やがて多くの人々がキュビズムに熱狂し、その後、それまでの宗教画や印象派絵画とも全く異なる様々な抽象絵画が生み出されたのは、その絵画等に、自分達がまだ言語化できない、呪具・呪物のような得体の知れぬ価値が宿っていると感じたからなのかもしれません。

そのため、キュビズムひいては現代芸術を理解しようと思うのなら、源流・発祥とも言えるアフリカなど第三世界(グローバルサウス)の呪術文化を理解することから始めなければならないのではないか、しかし、現代社会は、果たしてその努力をどこまでしているだろうか、どこまで成果を挙げているだろうか(それこそ、我々の方が発展途上なのではないか)とも感じました。

それと共に、日本で「なんだこれは」と言えば岡本太郎ですが、彼が「発見」した縄文の異形の諸像は、アフリカなどの異形の諸像に通じるものがある、だからこそ、欧州の芸術家は第三世界に惹かれ、同時代の欧州で育った岡本太郎は縄文に惹かれたのだろうと思いました。

第三世界のプリミティブな文化と縄文の思想。

双方の根底には何某か通じるものがあると共に、現代を今も覆っている近代欧州文明の閉塞感を打破する何かが潜んでいるのかもしれません。

本日は企画展の料金で常設展もOKと言われたので、常設展も20年以上ぶりに拝見しましたが、キュビズムのあとに16世紀の宗教画を見ると、あれもこれも同じ「絵」なのか、絵とは何なのか、何のためにあるのか、などと目眩を感じる面があり、そうした感覚にまどろむ意味でも、常設展も併せてご覧になって良いのではと思いました。

あと、地域限定ネタですが、個人的には、ゴンチャロワさんというロシアの画家さんに親近感を持ちました。

余談。

これまで家族で東京に立ち寄る際は、いつも家族の申入で駅のコインロッカーを利用していたので、今回もその習慣で400円を払ったのですが、美術館に入館した直後、ああしまった、ここならタダだった(しかも駅の目と鼻の先なのに)と後悔しました。

というわけで、帰りは贅沢駅弁を諦めて、戒めの500円ニューデイズ唐揚弁当を泣く泣く・・もとい美味しく頂戴しました。

小さなことにクヨクヨしろよ(見城徹語録集より)。

フェイスブックと誕生日

今回は、旧ブログでH23.12.19に投稿した内容を修正して再掲します。

フェイスブック(FB)では、誕生日に「友達」として登録されている方から、祝意のメッセージをいただくことがあります。

FBでは、「友達」の誕生日になると、その旨が画面に表示等されるため、画面上で「友達」の方々が誕生日メッセージを交わし合う光景を垣間見ることがあります。

そうした光景は人気投票の論理で展開されるため、カリスマ性のある人気者の方の誕生日には多くの方から大量のメッセージが送信され、そうでない方にはそれなりに、となるのが自然の成り行きで、ひねくれ者の身には、なんだかなぁと思いながら拝見しています。

私は当然ながら後者の典型ですが、現在のFBは「友達A氏に対する、A氏の友達の方々がA氏のフィード上に送信したおめでとうメール」が、どういうわけか私のフィード上に根こそぎ?表示される設定になっているため、前者の方々の誕生日には、見ず知らずの人による他の方へのおめでとうメールが延々と表示され、FB画面を見るのも嫌、という感じになっています。

ただ、かくいう私も、FBに加入した最初の年は、予想外に、誕生日に少なからぬ方からメッセージを頂戴しましたので、せめてもの誠意として、お一人ずつ御礼の返信をお送りしました。

が、一人一人に気の利いた返事をしようとすれば、手書き年賀状のようにかなりの時間と労力を要し、それはそれでしんどいと思ったことをよく覚えています。

誕生日という概念ないし習俗に対しては色々な考え方があろうとは思いますが、私の場合、下記の理由から誕生日なるものを非常に苦手にしている一面があり、FBでは自分からは他人様に積極的に誕生日のメッセージを送ることは差し控えてきました。

メッセージを頂戴した方には当方もメッセージをお送りしないと不義理だとは思っていますが、もともとその種の習慣がない上、沢山の「友達」の一部にしかメッセージを送らないのも不公平ではとの感覚もあります(私は、人を選別するような営みは基本的に大嫌いです)。

そのため、現在は、私の誕生日の表示を抹消すると共に、「おめでとうメッセージ」は一切行わないとの方針とさせていただいており、ご容赦いただければと思っています。

***

恥ずかしながら、私は子供の頃、誕生日等を祝って貰うという経験をした記憶がほとんどありません。

両親とも朝から深夜まで働きずくめの零細企業(酒類卸売等)の子として育ち、私自身、子供の頃から自宅の小売店の店番や自宅の広間で開催される取引先との宴会の用意や片付け等に駆り出されるのが当たり前という生活をしていました。

そのため、小学生の頃の私にとって、誕生日は親に玩具代をせびるだけの日であり、中学くらいまではケーキを食べる習慣もなかったような記憶です。

ちなみに、子供の頃は、盆もクリスマスも大晦日も商売の日で、紅白の終了後に元朝参りの通行人向けに深夜3時まで店を開ける(店番は家族の交替制)といった記憶しかなく、親子全員揃っての旅行は年に1回、二戸ロータリークラブの家族会のときだけ(しかも父は別行動)、それ以外の遠出は母子のみで母の実家や八戸に遊びに行く程度でした。

中学生になると実家の商売が斜陽になり始めたせいか、良くも悪くも昔よりは両親が多忙でなくなり、実家への他人様の出入りも少なくなって、誕生日に家族でケーキを摂取する程度の「普通の家」になってきました。

ただ、それと入れ替わるように、私自身が高校から親元を離れて暮らすようになり、それ以後、誕生日に家族(親元)と一緒に過ごしたことも、特別な出来事を持った記憶もありません(母からは電話か手紙を頂戴したような気はしますが)。

私は、そうした生い立ちのせいか、自分の誕生日を誰かに祝って欲しいとか他人様の誕生日をお祝いしたい(すべきだ)という感覚が、平均水準と比べ極端に劣っているようです。

私の妻は、この点で私と真逆の育ち方をしてきたため、誕生日にイベントをしたくて仕方のないようで、一種の異文化交流になっていますが、私にその習慣や意欲が著しく欠けていることから、かつては妻の誕生日には毎年のように深刻な紛争が生じたりしました。

現在も、仕事の納期や事務所の運転資金に日々頭を抱える零細自営業者ということもあり、盆も正月も誕生日もクリスマスも要らないから仕事をさせて欲しいなどと、貧困の極みのような精神状態に陥りがちなのですが、妻に限らず異なる感性を育んだ方との接点を大切にすることで、バランス感覚を養っていきたいと思っています。

**

追伸。この投稿をWeb上に載せた直後、深夜にFBが繋がらなくなり、世界的に2時間ほど利用障害が生じていたようですが、最初は原因等が全く分からず、この投稿へのメタ社からの嫌がらせか?などと妄念を抱かずにはいられませんでした。

神も依代もやがて去りゆく社会の中で、君たちはどう生きるか。

先日、宮崎監督の最新(最後の?)映画を拝見してきました。

ラピュタのような爽快で分かりやすい冒険活劇を期待する方には不満が残るかもしれませんが、トトロ以降の宮崎作品の系譜に沿う文学的なメッセージを期待する方には満足できるもので、世間で広く言われる集大成としての演出表現や映像美なども含め、TVで見るよりも劇場でご覧になった方が良い作品だと思います。

以下、ネタバレを避けつつ、未見・既見の双方に向けた、「Web上、まだ誰も言っていない(かもしれない)考察」を含めた感想を書きます。

ここでは、小難しいことを色々と書きますが、最初に述べておくと、監督は、あくまで、この作品を

子供達が、自身の内的世界(子供心の空想等)を大事にしつつ、最終的には社会に前向きに向き合い、社会内で自分らしさを発揮し活躍すること

を願って作ったものである(そのメッセージがメインである)ことは間違いないと思います。

が、爽快な活劇ではなく全般的に不穏で文学的な空気が漂い、後記のとおり、現実社会での大きなテーマを様々な隠喩を用いて問うものとなっており、私自身は従前の作品より文学・思想としてのテーマ性が強調されているように感じました。

***

この作品が前半部分と中~後半部分に分かれている、という程度のことは、ここで書いても叱られないと思いますが、前半部分の多くが、よく言えば穏やかで落ち着いた、悪く言えば間延びした印象を受けるもの(あの映画の第三村のような感じ)となっています。

ただ、非常にセリフ・説明が少なく、言いたいことは映像表現で読み取って下さいと言わんばかりのシーンが続く上、全般的に不穏な空気が漂っているので、私は、この前半パートは

盛岡を舞台とする芥川賞作品の映画「影裏」

に、雰囲気が似ている感じがしましたし、「この作品は純文学です」と随所で述べているように思いました(なので、小さな子供はここで脱落するかも・・と少し思いましたが)。

そして、前半の最後、ある登場人物が、なぜそんなことをしてるの?という行動を始めてから(及び主人公があるモノに接してから)物語が一気に動き出すのですが、私は、これを見た瞬間

この作品の元ネタって、○○(仮称・古典A)なのでは

と思いましたし、その後(中盤~後半の展開)も、その印象どおりと言ってよい流れになりました。

(本文では名称を省略します。日本人なら誰もが知っているはずですが、ほとんど誰も読んだことがないアレです。知りたい方は、末尾を見て下さい)

ですので、事務所に戻ってから真っ先に映画名と古典Aで検索したところ、予想どおり、同種の感想を書いていた人が多数いました(他に、元ネタとされる外国小説?もあるようですが、私は全く存じません)。

***

ただ、古典Aが元ネタだと言うだけでは、この映画が詰まるところ何を言いたい作品だったのか、何の説明にもなりません。

この点、先日、小説「君たちはどう生きるか」について、思想家の浅羽通明氏が、

これは、近代から戦前までの世界を覆った二つの潮流のいずれを戦前日本が選択すべきかという思考実験を、知的エリートたる若者達に問うた作品である。

すなわち、仏革命思想に起因するボナパルティズム(中世ヒエラルキーを否定し、民衆の熱量で指導者を推戴し社会を再構築する思想=下からの支配)の延長又は変異体としてのファシズムと、共産主義(知的エリートの叡智を結集し、社会的不合理を是正する理想社会を構築しようとする思想=上からの支配)のどちらを世界が選択すべきかという知的闘争を描いた物語なのだ。

と論じていたことを、ブログでも紹介しました(引用記事)。
思想や情念が対立する社会の中で、君たちはどう生きるか | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

その話を宮崎監督がご存知だったか(原典たる吉野氏作品に対し、そのような解釈をしていたか)は全く不明ですが、私は、この映画の制作が発表されたときから、少なくとも、

君たちはどう生きるかというタイトルを冠する以上、監督は、原典に何らかの思想性があることを熟知した上で、ご自身なりの思想的テーマを必ず掲げようとするはずだ

と思っており、それを見抜きたい、というのが私の本作の鑑賞目的でした。

***

で、最後まで拝見した上で、私が結論として思ったのは

この作品は、国体すなわち天皇制の存続(象徴天皇制の終焉)をテーマとしているのでは?

というものです。

これも、抽象的なことしか書けませんが、私は、ラストシーン(直前を含む)は、単に、

あの出来事が終わった

ことを示すだけでなく、現代を生きる我々にとって天皇制を続けることができるか(続けてよいのか)を問うメッセージが含まれているのではないか、というのが、私の解釈となります。

なぜなら、この物語では、

「世界の安定や安寧を守るための存在」

が登場しますが、これは、日本においては、天皇以外にはあり得ません。

そして、この物語では

「その立場を引き継がされるかもしれない人達」

が登場しますが(敢えて複数にしています。既見の方は、ぜひお考え下さい)、それって、将来、天皇の立場を引き継ぐことを宿命づけられた方々(現実の特定のどなたかではなく、一般名詞としての)の隠喩ではないでしょうか。

そして、現代を生きる我々は、天皇が、(敢えて戦前の言葉を使えば)崇高で神聖不可侵な権威(現人神)としての意味を持つ存在であると同時に、

社会(国民総意・国民統合)のため様々な役割を強いられる、気の毒な依代(人柱)

という面が否めないことを、よく分かっているはずです。

そのことと、本作の後半に描かれた主人公と主要人物を巡る葛藤ないし対決は、どことなく親和性があるように思われるのです。

そのような観点から本作を改めて思い返すと

我々日本人が、天皇制を続けることができるか・続けるべきなのかという、現代日本で最も重く、誰もが直視せず先送りしようとするテーマに取り組んだ作品なのではないか

という印象を受けますし、主人公が最後に行った選択も、現代日本人からは、当否云々はさておき非常に重いもののように感じる面もあります。

それゆえ、上記の浅羽氏の解釈に照らせば、本作は原典=吉野本に勝るとも劣らぬ、現代に相応しい重い思想的テーマを扱い、描ききった力作なのでは、ということができそうに感じました。

まあ、私がそう思いたいだけなのかもしれませんが。

***

ちなみに、本作では擬人化された生物による様々な醜悪ないし滑稽な場面が描かれていますが、これも、戦中(戦後も?)日本の隠喩だと捉えれば、

実社会パートで当時の美しい日本を描きつつ、背後にある(日本人の)醜悪さも擬人化の手法で描いた作品

と解釈することができるでしょう。

この文章では、主人公が前半で行った「彼はなんでそんなことしたの?」という場面についての解釈などは何も触れていませんし、あのシーンが上記の解釈と関係するのかそうでないのかも分かりません。

というわけで、上記の妄想とは異なる説得的な作品の解釈がありましたら、ぜひ伺ってみたいものです。

君たちはどう生きるか。

ご覧になった皆さんの心には、何が残りましたか?

ちなみに、我々が天皇制を続けることができるか、というテーマでは、昨年末に安倍首相の国葬を題材に大長文を投稿したこともあり、興味のある方は、こちらもご覧いただければ幸いです。
安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第4回) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

(追伸)
この投稿を掲載した後、旧ツィッターで「君たちはどう生きるか 天皇」と検索したところ、本作品と天皇(制)との関係性を指摘した投稿が幾つかあるのを拝見しました。映画を拝見した直後には、同じ文言で検索しても記事は全く出てこなかったので、Web上で誰も言っていないと書きましたが、案外そうではありませんでしたね・・

ただ、現代における天皇制の存続との関係性を論じた投稿は見当たりませんでしたので、その点は、私の解釈にオリジナリティがあるかも?です。

ともあれ、リアルな世界でこうした議論を交わせる相手に恵まれない日々を送っていますので、自分が考えたキーワードで検索し、同種のことを投稿されている方を発見したときは、多少とも嬉しくなりますね。

廃墟建物を作り出した金融機関の貸手責任による解体費用の負担の提言

先般、「日本のアマルフィ」と呼ばれる和歌山の風光明媚な海岸近くに長年放置されていた廃墟旅館の解体が、多額の公費を投じて開始されることになったとのニュースが流れていました。

【速報】『日本のアマルフィ』にある「廃旅館」長年放置…倒壊おそれで解体作業始まる 和歌山・雑賀崎漁港近く 費用約7000万円は国や県などが負担(MBSニュース) – Yahoo!ニュース

この種の問題では、自ら責任をとれない事業に融資をして公費負担の結果を生じさせた金融機関≒担保権者に、一定の範囲(最大5割とか)で、撤去の連帯責任(補償義務)を負わせる法制度があってよいのでは(それにより、金融機関は無謀な融資の回避や借主監督、早期適正譲渡などの努力を行うようになる)と考えます。

こういった「原状回復に関する融資者(金融機関)・出資者の監督責任」はメガソーラーなどでも用いられるべきだと思います。

平成の前期には、当時、米国で流行していた金融機関の貸手責任論が盛んに議論されていたのですが、今ではすっかり聞かなくなり、残念です。

我国では、代表者の家族とか、およそ責任を取れない者に巨額の負担を課して「連座させて潰す」ために保証制度が濫用されてきましたが、保証とは、本来「借主を監督できる後見役となりうる大物」こそが引き受けるべきものです

税金投入が強いられる「社会に生じた負の遺産」に関しては、その事業を開始させた金融機関や出資者などが、負の遺産の発生を防げなかったことへの責任を一定程度とるべきだ、という社会意識ないし政策の喚起が必要と考えますが、どうでしょう。

思想や情念が対立する社会の中で、君たちはどう生きるか

大学2~3年頃の私は、浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」シリーズを片手に、同書が薦める膨大な書籍群を古本屋に探しに行くような日々を送っていました。

そのリスト群に「君たちはどう生きるか」も含まれており、当時購入していましたが、後回しにしたまま現在に至っています。

ただ、昨年頃、久しぶりに浅羽氏の著作が読みたくなり、

「君たちはどう生きるか」集中講義

なる本を見つけたので、購入して一気に読んでしまいました。

私は数年前に一世を風靡した「君たちは~」の漫画版も読んでおらず(子供に見せようと思って買ったものの誰も読んでない、がっかり家族・・・)、プレイ前に攻略本ばかり買いたがる、駄目ゲーマーのような人生というほかありません。

ともあれ、浅羽氏の本は、

「このマンガは、主人公にとって色々な意味で「萌え~」になる原作の憧れのヒロインを登場させなかった、ろくでなしのク○本だ!」

との一喝から始まり、諸々の理由から、

「君たちはどう生きるか」とは、子供のいじめや悔恨だけをテーマとするような、底の浅い(説教じみた)物語なんかじゃない、

ロマン溢れる革命思想(皇帝推戴を到達点とするボナパルティズム?)≒ナチス等に悪用される以前の善良?なファシズムの代弁者としてのヒロインと、人類社会全体の調和を目指す理性的な合理主義=ソ連等のインチキ共産主義ではない、本物のマルクス主義?の担い手としてのおじさんの二人が、主人公コペル君(戦前日本の進路)を取り合って争う、天才達の壮大な恋愛頭脳戦・・・もとい、思想対決の物語だ

(そして、それは、たぶん、今も形を変えて続いている)

という、独自?の解釈を展開したものとなっています。

このような話を聞いて興奮する人はどこにもおらず、大半はドン引きするか、珍獣として面白がるか、というのが世の常かとは思いますが。

ともあれ、先般公開された巨匠制作の同名タイトルの映画を今後ご覧になる方々も本書を一読されてみてはと思い、田舎の珍獣のはしくれとして、紹介させていただきました。

 

義理に生きる日本人と、正義に生きる偏屈者

私の名前は「義和」ですが、亡父から、祖父が「義勝」と名付けようとしていたのを父が「義和」案を推して決まったという話を聞いたことがあります。

どうして「勝」ではなく「和」にしたのかという肝心の点を聞きそびれてしまったのですが、私自身は自分の名前を非常に気に入っています。

というのは、私にとって、「義」とは正義の義、「和」とは平和の和を指し、2つの言葉=理念は相対立するものの、だからこそ私の人格や生き方に決定的な役割を果たしていると感じるからです。

もとより、争いは正義を主張する者同士の間に起こるものであり、平和とは、暴力・抑圧による欺瞞の平和を別とすれば、正義と正義の衝突の後の相克と調和・止揚の先にこそ存するものです。

よって、正義と正義(光と影の双方を背負う者同士)の対立と調和という問題(ひいては対決と調和の双方を創出する営み)は、正義や平和を扱う全ての職業人にとって、要諦というべき事柄だと思います。

それが弁護士という職業の本質に関わることは申すまでもないことでしょうし、そのことを弁えず自派の利害ばかりに目を向けて他方の正義や調和に視野が及ばない者は、法律家としては良質な仕事をしているとは言い難いと思います。

そんなわけで、私は、自分の名前を他人様に説明する際は、「正義の義と、平和の和」と必ず述べています。

ところが、これまで他の方が私の名前を説明するのを聞いていると、「義理の義と、平和の和」と仰ることが非常に多くありました。

それを聞くと、その方にとって「正義」よりも「義理」の方が身近な(親和性がある)言葉・概念なのだろうと思わずにはいられませんでしたし、そうした方が多いため、正義という言葉・概念は、まだまだ日本人には馴染めない面があるのだろうとも感じました。

感覚的な話になりますが、義理は、一対一であれ多数であれ、対人関係を前提とした言葉であり、多くの方には「世間」(最近は「空気」と呼ばれる)という日本的な概念と非常に親和性のあるものと言ってよいと思います。

言い換えれば、世間(空気)や義理の根底には自分に身近な者で形成されたコミュニティ(帰属集団)による集団的な明示・黙示の意思決定を重視する思想(広義の集団主義)が存するはずです(このような考え方は、「菊と刀」などでも触れられているようです)。

他方、「正義」という概念には、「千万人といえど我行かん」という、自分が信じる理念のためなら徹底した孤独にも耐えて闘う覚悟も要求する面があり、個人主義に馴染むことは間違いありません(だからこそ相対立する正義が殺し合いをせず共存・調和できるよう、裁判や選挙などを通じた対決・決着のための法制度があると言えます)。

そもそも、正義という言葉(概念)は、日本よりも、中国(関羽でおなじみ)や西洋(いわゆる法の正義)の方で確立した概念だと思いますが、双方とも、日本よりも遥かに個人主義思想の強い風土だと思います。

そう考えると、義理よりも正義という言葉に馴染んでいる私は、日本人的ではない偏屈さの持ち主ということになるのかもしれませんし、そうした面も含め、この名が授けられた瞬間から、法律家という生き方が天職になったのかもと思うところはあります。

ただ、名付け親である私の父は、日本的な親父の最たる御仁で、およそ西洋或いは中国的な個人主義にはほど遠い、世間様と共に生きる人でしたので、人の世は実に不思議なものだと感じないでもありません。

或いは、父にとっては「義理の義と平和の和」だったのかもしれませんが、作者の意図はどうあれ、私は頑なに「正義の義と平和の和」として生き続けたいと思っています。

 

追憶の沖縄と縄文の記憶

先日は、沖縄の慰霊の日(沖縄戦の実質終結日)とのことで、関連する行事のニュースが流れていました。

私は沖縄にはたった一度だけ平成27年に那覇地裁に仕事(尋問)で行ったことがあり、もともと、沖縄に行く本土人は、ひめゆりの塔と平和祈念公園に行かなきゃ駄目だろうと思っていた手前もあって、到着後、急遽、レンタカーを借りて行ってきました。

残念ながら、アウトレット大渋滞のため通常より大幅に到着が遅れ、ひめゆり平和祈念資料館の入館締切時刻には間に合いませんでしたが、平和記念公園の岩手の塔をはじめ、夕暮れ時に様々な戦争関連の慰霊碑を拝見することができました。
沖縄放浪記(那覇出張と「残念な小話」) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

子供の頃、私のすぐ近所には「りゅうちゃん」という、きっと蝦夷の直系の末裔なのだろうと感じる、縄文人のDNAが濃そうな歳上の男性が住んでいました。

とても善良な方で、少年期に色々とお世話になりましたが、沖縄には、りゅうちゃんとそっくりな顔立ちの人が街中に沢山いて、びっくりしました。

双方の土地で異なる時代に生じた戦災達から学ぶことに限らず、岩手と沖縄が縄文の血で繋がっていることに、もっと多くの人が関心を持ってよいのではと、今も感じています。

縄文を巡る岩手と沖縄の共通性については、出張後に書いたこの投稿もご覧いただければ幸いです。
琉球王国と北奥政権の栄光と挫折、そして再起するものたち | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

オクラホマの若者が蝦夷の夢をみるとき

先日の盛岡北RCの例会は、米国オクラホマ州からの短期留学生(17~18歳の男女約10名)の歓迎会を兼ねるもので、盛岡西北RCと合同で、ホテル大観で行われました。

私は例会だけでお暇しましたが、直後には有志の方々により着付けとさんさ踊り体験指導がなされたとのことで、その他の盛り沢山のRC歓迎行事と併せて、留学生の方々は満足して帰途につくものと思われます。
岩手県盛岡市 米の高校生「さんさ踊り」を体験 (tvi.jp)

ただ、折角なら「どうしてオクラホマの若者が、盛岡(岩手)に来る理由があるのか」について、RC関係者の方々から一言頂戴できれば、なお良かったのではないかと思いました。

日本人なかんずく岩手人にとって、オクラホマは全く馴染みのないない場所ですが、米国大陸の「へそ」にあたる、ど真ん中やや下の位置(南はテキサス)で、ロッキー山脈西側の大平原(グレートプレーンズ)を構成する諸州の一つであり、誤解を恐れずに言えば、地形的にはウクライナによく似ていると言って良いかと思います。

この地は、かつてインディアンと呼ばれた先住民(ネイティブ・アメリカン。以下「NA」)の本拠地の一つであり、東海岸で英国移民(アングロサクソン)により建国された米国が版図を西側に急拡大していた1700年代に、利権を主張する他の西欧国家との抗争の勝利という形をとって米国に編入されています。

が、実際の統治ないし社会運営を巡っては、移民(侵略者)たる白人と先住民たるNAとの間で激しい抗争があり、最終的にNA側が敗北し、1800年代頃には、多くのNAが故郷を追われると共に、白人による入植や、それに伴う農園労働力たる黒人奴隷の大量移住が行われ、現在の人種構成に至っていると言われています。

ここまでご覧になって、それってどこかで聞いた話に似ている・・と感じませんか?

そう。

古代において列島の西から興り弥生人=大陸由来民を中心に形成されたヤマト王権が、縄文の暮らしを色濃く残す東のエミシの部族集団(日高見国)を制圧していった光景を。

アテルイ、安倍氏、奥州藤原氏、九戸戦役、戊辰戦争などに彩られた岩手の歴史を。

北海道(アイヌ)を含む北日本の人々が辿った長い長い物語を。

それが脳裏に浮かばなかった岩手ケンミンの貴方は岩手人を名乗る資格が危ういので、イチから郷土史を勉強し直して下さい。

このように、帝国(異民族征服・統合国家)としての米国などの建国史は、その観点からは、日本の建国史とさほど変わりありません(その点はロシア等も同様でしょう)。

そして、蝦夷≒縄文人であれ、米国のNAであれ、有史以後の被征服民の多くが、遠い遠い昔、世界各地を横断した古モンゴロイドと呼ばれる人々の末裔であることも、よく知られている話です。

だからこそ思うのです。

社会経済上、直接にはほとんど何のつながりも持っていないだろうオクラホマの若い短期留学生達を、岩手・宮城のRCが長年に亘り世話することになったのには、何らかの見えざる力が働いていないだろうか。

歴史の中に忘れ去られ、取り残された蝦夷≒縄文=古モンゴロイド=NAの血が、声が、双方の出逢いを促したのではないか。

ホテル大観にいらしていたオクラホマの若者達は多くが白人でしたが、黒人の方が1名、NA由来か東洋移民系かは不明ですが、いわゆる黄色人種(モンゴロイド)の血が入っているのではと感じる方も1~2名ほど?いました。

彼らが故郷の複雑な歴史を正しく学んだ上で、人種を巡る米国の厄介な問題を克服し、人類共通の福利のため力を合わせていける光景を願っています。

そうであればこそ、岩手の人々にも、彼らの姿から蝦夷の末裔としての誇りを、そして、自分達のあるべき道を考えていただければと思います。

もとより、私は「被征服民(蝦夷・NA)ばかり同情し、征服者(弥生人・白人)を非難したい」のではありません。前回の投稿(岩手県立病院物語)でも触れたとおり、科学的・合理的知見が伝播したことで、健康や富に限らず不合理・抑圧的な陋習から人々が解放された面はあるはずですし、何より、双方の文化・思想が交わることで新たに社会に生み出された価値あるものが数多あるずだと確信しています。

であればこそ、歴史とその功罪、失われたものと生み出されたものの双方を適切に学び、自身の現場での役割へと昇華させる努力が各人に求められているのであり、異なる人種・文化・社会が激しく衝突した歴史を共有する岩手とオクラホマの人々は、互いの経験を知ることで、各人の実践に活かせる面が多々あるのではと考えます。

そうした話が岩手の人々とオクラホマの若者達との間で語られる光景を夢見つつ、大観の玄関で飲湯しながら「温泉入りたかった・・」と捨て台詞を残して、終わりなき日常に戻っていった次第です。

鎌倉長谷寺にて、カトリック的仏教とプロテスタント的仏教の歴史と異同に思いを馳せる

鎌倉編のおまけに、長谷寺に赴いた際に考えたことについて書きます。

鎌倉長谷寺は紫陽花の名所として有名であり、どうして文化財指定を受けていないのだろうと感じる、巨大な十一面観音像が本尊となっています。

御仏も鎌倉殿に馳せ参じ
競えど殺さぬ世を導けり

長谷寺の創建時期は不明(伝承では天平期)ですが、一般的理解では鎌倉期から幕府関係者を中心とする時の権力者・有力者の庇護のもとで発展した寺院であり、奈良・平安仏教などと共に、広義の「鎮護国家系仏教」と言えるでしょう。

建物や敷地内には多くの日本の寺院と同様に様々な種類の仏像・地蔵像などが多数入り乱れ、いかにも多神教的な印象を受けます。

ただ、有力者の庇護を受けた寺院に様々な「ランキング」化された仏像などが並べられるのは、それが、貴人(支配階級)の序列社会の光景に馴染む面があるからなのかもしれません。

カネ主たる有力者にとっては、色々な仏様から多様な御利益を受けたいとのニーズもさることながら、偉い仏が沢山いて序列化されている光景を眷属(配下・庶民)に見せて「それが当たり前」とすること(権威化)で、自分達=支配階級の序列社会への服属心を高める効果(ひいては自身の安心感)を期待できたでしょうから。

そう考えると、仏達の序列社会的な表現を伴う鎮護国家系仏教はカトリックに、阿弥陀仏とか妙法蓮華経など特定の如来等を唯一神化する一向宗や日蓮宗などは、プロテスタントに似ているように感じます。

日本のキリシタンも、渡来したのはカトリックですが、この文脈からは、プロテスタント的なものと位置づけられるでしょう。

一向宗などの「プロテスタント的仏教」は一神教的で拝む対象も限られ、排他的傾向がある(あった)のに対し、それ以外(以前)の「カトリック的仏教」の方が多様で寛容な傾向があるようにも感じますが、それは、既存の権威秩序を尊重することが条件である(そのような意味で保守的である)と言えるのかもしれません。

だからこそ、プロテスタント的仏教には、既存秩序を転覆する革命志向的な側面があり、それが一向一揆や同時期の法華宗、キリシタンの弾圧は、弾圧側の担い手たる武家勢力が基本的には旧教(カトリック的仏教)の庇護者であることに照らしても、日本版の宗教戦争にあたるようにも思われます。

日本では新教側が米国のような独立国を作ることはできず、武力闘争としては旧教側が勝利したものの、旧教側も比叡山焼討をはじめ固有武力や政治への制度的な影響力を失い、幕府に庇護された一定の利権を別とすれば、政教分離に近い光景が出現しました。

新教側も、あたかも敗戦後の日本のように、武力(主権)放棄と引き替えに宗教活動の自由を得て、江戸期には戦国期以上に発展したと言えるでしょう。

それらの光景は、基本的にカトリック国であるものの革命時に政教分離が極端に進んだフランスに、似ているようにも見えます(当時、暴力的な教会弾圧もあったのだそうで、宗教利権への反発を含んだ日本の廃仏毀釈や中国の文革に近い面があるかもしれません)。

他方で、かつてプロテスタント的仏教の人々が抱いたであろう「革命の夢」は、我が国では地下深く(人々の抑圧された深層)に眠り、ごく稀に、例えば、オウム真理教のような形で露出することになったのかもしれませんが。

現代日本人が仏像群を拝見しながら宗教心をかき立てることは難しいかとは思いますが、こうした形で社会のありようを考える機会として活かしていただければと思います。

鎌倉殿の14番目の秘密と「禍々しい陽光」の正体

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が今度で最終回とのことで、先日は、オープニング映像に様々な仕掛けが含まれていることを説明した特集番組が放送されていました。

ただ、この映像の核心の一つである「主人公(北条義時)を指すのであろう、佇立する武士の背後から巨大な太陽?が照らす光景(冒頭部分)」については何も説明がなく、その点は不思議に思いました。

この部分は、少し検索すれば「これから武士の時代が到来することを陽光で表現しているのだ」といった評釈を見かけますが、私は、そのような見方をすることに違和感を抱いていました。

というのは、太陽が大きすぎ、陽光が強すぎる感じがする上に、照らされる武士も生身ではなく石像という「異様さ」もあって、なんとなく怖いというか気味が悪い感じがして「さぁ、俺たちの時代だ!」的な明るさがなく、むしろ否定的な印象を受けていたからです。

そのため、このオープニング映像や主題曲が(初見で気に入った「麒麟が来る」などと比べて)最初はあまり好きではありませんでした。

が、最近になって、これは意図的に「異様で嫌な感じのする強すぎる太陽」にしたのではないかと感じるようになり、今では映像も音楽も気に入っています。

ご承知のとおり、本作は、平家を倒し天下を取ってハッピーになったはずの鎌倉武士団が、主君(源氏嫡流)殺しをはじめとする陰惨な内部抗争に明け暮れる光景を描いた作品です。

その上、主人公は若い頃から様々な汚れ仕事を担わされた末、自分は社会のため誰よりもそれを引き受けざるを得ない存在だとの境地に至り、そして、最もなすべきこと(かつて朝廷・貴族=旧支配者に隷属を強いられた存在としての武士が、立場をひっくり返した出来事)を終えた直後に退場する人生となっています。

こうした骨格を踏まえると、この物語は「新たな時代を切り開いた武士達が、栄光の代償として激しい光に焼け尽くされる姿を描いた物語」であり、武士を照らす強すぎる光は、映像の最後に石像群が滅んでいく光景と相俟って、それまで田舎で安閑と暮らしていた関東武士達(や頼朝ら)が社会の中心に躍り出るのと引き替えに強烈な試練に晒される禍々しさを意味しているのではないかと感じるのです。

ただ、そのように「旧勢力から権力を奪取し新たな時代を劇的に切り開いた人々が、強烈な試練に晒され次々に命を落としていく光景」は源平時代に限った話ではなく、幕末維新期はもちろん、戦国時代も含め、日本の歴史の中では時折みられる話だと思われますし、それだけに、生身の殺し合い云々はさておき、社会では相応に普遍性のある事柄のようにも思われます。

そんな物語を送り出した三谷氏の意図は、現代社会にあっても、旧勢力(既得権益)を打破して新たな時代を切り開きたいなら、様々な汚れ仕事や恐るべき試練に己が焼け尽くされる覚悟と深慮遠謀をもって立ち向かえ、というメッセージを若者達に届けることなのかもしれません。

***

ところで、冒頭で紹介した「オープニング映像の解説番組」では、コーラスを担当しているのがハンガリーの方々だ(作曲家の判断で決まった)と説明する一幕がありましたが、ハンガリーと言えばフン族の末裔であり、フン族といえば「ゲルマン民族大移動とローマ帝国崩壊を引き起こしたアッティラ帝国」であり、謎に包まれた?フン族の正体は、モンゴル民族の祖先というべき匈奴だと推定する説が有力と言われています。

そうしたことを想起すれば、武士の時代を切り開いた主人公達と繋がる面があるように思われ(人種的にも、モンゴル人と日本人は近いと言われます)、ハンガリー人のコーラスが起用されたことが、そこまでの意図があったとは思えないだけに、不思議なものを感じざるを得ませんでした。

私自身は「天下の闘争の渦中に飛び込み汚れ仕事に明け暮れる」こととは無縁な、身近な社会(弁護士会とかJCとか)ですら権力闘争に関わることなく末端で小さくなっている「安閑と暮らすだけの村はずれの奇人」で終わる人生となりました。

せめて、こうしたドラマを拝見しつつ、次の時代を担う方々に何らかの役に立てるような最後のご奉公ができればと願うばかりです。

***

ところで、ここまで書いてきて、武士達を焼き尽くす「強烈な太陽」とは何を意味しているのか、取り上げるのを失念したことに気づきました。

ただ、この点は、皆さんも薄々感じているはずです。

日本国の存立に必要不可欠な存在と考えられる一方、近づき過ぎると(権威を笠に着て専横しようとすれば)身を滅ぼすことになりかねず、敬して遠ざけるのが賢明と考えられ、現に幾つもの武家政権などにはそのように扱われてきた存在。

「日出づる処の天子」こと天皇ないし天皇制という仕組みそのものが、もしかすると、今は野に埋もれている人々に、チャンスと強烈な試練を与え、世を作り替える原動力となる一方、そうした時代の転換を受け入れることができなければ、主要な担い手(後鳥羽上皇など)であっても転落を強いる、そうした側面を持っているのかもしれません。