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私事など

函館ラ・サール中学・高校の入試説明会と「地方の子が中学受験や寮生活をする意義」

函館ラ・サール中学に子弟が通学する保護者の方から「学校側に宣伝の努力が足りず、このままでは、盛岡の入試説明会(11月1日。中学・高校共通)の来場者がゼロになりかねないので宣伝せよ」とのお達しを受けたので、勝手ながら以下のとおり告知させていただきます。
https://www.h-lasalle.ed.jp/admission/presentation/s_presentation/

すいませんが宣伝目的(拡散希望)の投稿ですので、賛同いただける方は「いいね」等なさっていただければ幸いです。

また、私は断片的にしか拝見していませんが、こちらの「女性ユーチューバーの方(札幌のタレントさん?)の潜入・赤裸々インタビュー」が、現在の様子を知る上では大いに参考になるそうです。
https://www.h-lasalle.ed.jp/news_gakuen/11502/

以下、蛇足ながら現役保護者兼OBより多少述べさせていただきます。

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我が国では、数十年前から「大都会の子は、学業で身を立てたいなら中学受験し(今や東京では小学生の4人に1人と言われます)、地方の子は、公立中(か国立大付属中)→学力に応じた地元の公立高に入る」というのが当たり前の光景となり、これが現在まで延々と続いています。

関西圏は、主要三都に限らず、奈良など隣接県も私立中進学が珍しくないと聞いていますので、双方の境目は曖昧なのかもしれませんが、東北と関東では、この二つの社会の断絶が際立っており、あたかも二つの国家が併存しているようにすら見えます。

当然、その二つの社会の分断は、「現在の高偏差値大学の入学者は著名な私立中高一貫校の卒業生ばかりだ」という類の言説を取り上げるまでもなく、それぞれの社会の出身者の人生に強い影響を生じさせやすいであろうことは、相応に強く予測されるところです。

もちろん、田舎(地方)の家庭は、中学受験の光景を「子供は伸び伸び遊ばせてあげればいいのに勉強漬けの生活を強要され気の毒だ」と否定的に評価するのが通例でしょうし、私自身それが間違いだとは思いません。

また、素質のある子が幼少時に伸び伸びと暮らした後、公立中で猛勉強し盛岡一高などに進学して自身の志を実現していく光景も、大いに価値のあるものと認識しています。

ただ、曲がりなりにも「お受験」を経験した家庭としては、親子(主に母子)が圧倒的な努力を重ねて栄冠を勝ち取っていく(勝ち取ろうとする)経験を得ることは、常に言えるわけでないとしても、双方(とりわけ子)が、その後「努力を重ねて自身の希望を実現する人生を歩んでいく」上で、非常に貴重な経験になりうるということは、強調しても良いのではと感じています。

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ビッグコミックスピリッツに連載され、本年夏にドラマ化予定だった(今冬に放送?)「二月の勝者」という人気漫画は、「中学受験とは父親の経済力と母親の狂気だ」の一言から始まります。

のんびりと過ごしたい、ゲームを好きなだけ遊びたい子に、母親が通信教材を片手に悪鬼の如く勉強を強いる光景には、時に目を背けたくなるときもありますが、そうした関門を突き抜けることで、努力する習慣を身につけて学業で身を立てる力を得ていく子もいるということ、また、そうした経験を通じ子供のうちから学業での成功体験を得ることの価値は、地方に住む方々も、理解いただいてよいのではと思われます。

当家の進学者も、母親の多年に亘る洗脳が奏功し、理系分野で身を立てる決意を固めているそうで、入学からかなり経た現在も理数科目では相応に良好な成績を修めているようです(反面、歴史等には関心がないようで、父子間には共通の趣味も話題も会話も微塵もありません。本人がスキーに興味をなくせば完全ゼロになりそうです・・)。

地方在住者も、運動関係であれば、いわゆる「アスリート・エリート」のご一家などが親子一丸となって特定のスポーツに凄まじい努力を重ねる光景を見聞することがあります。それとの比較からも、「お受験」だけが特異というわけではなく、勉強分野で幼少の子と親が一丸となって努力すること(その経験を得るものとしての中学受験)は、少なくとも適性がある家族なら経験する価値は相応にあるのではと思われます。

要は、地方で育児に従事するご家庭も、「伸び伸び育てて、公立中→公立高へ」という地方では当然の(ごくノーマルな)生き方だけでなく、小学4~5年生頃から上記の「モーレツ体験」という選択肢も視野に入れ、あとは、お子さんの適性やご家庭の事情などに応じて、どちらにするか決めていただければよいのでは、少なくとも、後者に適性を有する子から地方在住というだけでその選択肢を奪うのは間違っているのではないかという点は、皆さんにも考えていただきたいところです。

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その上で、次のテーマとして「函館ラ・サールという選択肢」について少し述べたいと思います。

ご存知の方も一定数おられるかと思いますが、この学校は、函館在住の子は自宅から通学しますが、それ以外の地域の出身者は、ほとんど全員(中学は必須)が寮生活を送ります。

以前に投稿したこともありますが、中学3年間(及び高校入学者の1年間)は二段ベッドとロッカーが並ぶ大部屋での寝泊まりが必要になり、他の寮生と両立して生活するため社会性(一定の社交性)の鍛錬を余儀なくされるという点でも、特異な面があります(このような手法は、全国でも同校だけかもしれません)。

親から見れば何かと気の毒に感じる面はありますが、子にとっては相応に大過なく生活できており、「物事は案外なるようになるものだ」と感じる面があります。

また、自分が親の立場になって改めて感じるのは、中学生になれば、もはや、身長に限らず自我のかなりの面で、大人と大差ないレベルになってくる、そうであれば、互いに一定の距離をとった方が、双方のため、とりわけ子にとっては自立心などの涵養の上で望ましいのではないか、という点です。

狭いマンションに住んでいると、子の帰省時に「家が狭くなった、一刻も早く函館に帰って欲しい」と感じるときもありますが(笑?)、それはさておき、中学の時点で離れて暮らすことが、子の成長にとって看過できない欠落などを生むという実感は現在のところ特にありません(反面、寮生活で成長したのかと聞かれると、それもよく分かりませんが・・)。

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以前読んだ橘玲氏の「言ってはいけない」(新潮新書)で、親が子に影響を与えることができるのは幼少期の限られた期間だけで、その後は主として同世代から影響を受ける面が大きいと述べているのを見た記憶があります。それが正しいのであれば、函館ラ・サールで、全道・全国から集まる「学業で身を立てたい同級生達」から良好な影響を受けることができれば、本人のその後に強い威力を発揮するのかもしれません。

逆もまた然りで、多少存在するかもしれない残念な同級生に残念な影響を受けないよう願うばかりですが・・

余談ながら、この仕事をしていると、大人になっても長く同居する親子が残念な寄生関係に陥った結果、好ましくない事件が起きる例を拝見し、「この人達は何年も前から離れて暮らせば良かったのに」と感じることが多々あります。子が親と離れて暮らすことの意義や価値に、もっと光が当てられてもよいのかもしれません。

また、昔と今で生徒の出身地の比率に多少の違いがありますが(昔は道東など北海道の小都市や辺境の出身者が中心で今は東京などが多い)、全国の各地から子供達が集まってくる珍しい学校であることに変わりなく、その点=擬似的な上京体験という点でも、お子さんに得がたい体験をさせることができる面はあります。

そもそも、子を未熟なうちから外の世界に出して鍛錬させることは岩手でも昔から相応に存在した光景です。

明治=戊辰敗戦後の世で言えば、二戸出身の田中舘愛橘(日本物理諸科学の創設者の一人)は、若年時に親が自宅を売り払い一緒に上京してまで最先端の学問を習得させ、言わずと知れた原敬も、同時期に上京し司法省法学校などで研鑽し、その後の飛躍につなげています。

当家の少年がそれら偉人の足元に及ぶかはさておき、岩手の方々にも、函館ラ・サールという選択肢は、そうした先人が辿った道に通じるものがあるのかもしれないという視点を、持っていただければ幸いに思います。

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かくいう私も、30年以上前、盛岡一高と函館ラ・サール高校の双方に、どういうわけか(受験者の実感として双方とも間違いなく最下位ランクで)合格してしまい、一体どちらに進学すべきかという身の程を超えた悩みを抱えたことがあります。

その際、最後の決め手になったのは、一高にプールがあってラ・サールには無かったから・・・ではなく、また、運動できない「のび太」なので高校時代に男女交際できる自信はなかったから・・・でもなく、自分は将来、盛岡を拠点に、岩手の人と社会のため生きたいと思うのではないか、そうであれば今のうちに外の世界を見ておくべきだとの「うすうす感」があったことでした。

自身の高校時代に未熟さゆえに悔いる点は山ほどありますが、その判断自体については、私自身の問題として後悔する点は何一つありません(反面、一高には今も「最下位レベルで拾っていただいたかもしれないのに、すいません」という申し訳ない思いで一杯で、一高OBばかりの盛岡の社会では、いつも肩身の狭い思いをしています)。

皆さんも、私のようなケースに限らず「うちは子供に家業を継いで欲しい」などの事情のある方もおられるかと思いますが、そうした大人になれば岩手で人生を送る可能性の高い方ほど、若年時に外の空気を吸っておくことに、意味や価値があるのではと感じます。

また、函館ラ・サール中学にご子息を通学させる方の中には「若い頃から、外の空気を吸って、世界全体に目を向けることを考えて欲しい」という理由で送り出す方も少なくないようです(それが奏功して、お子さんも海外留学などの希望を持っておられるという話を聞いたことがあります)。

私が入学した当時は、科目全般なかんずく数学や理科が「田舎の公立中で教えている内容」との難度差があまりにも大きく(断崖絶壁のような落差でした)、私自身はそれに嵌まって入学直後から落伍してしまい、文系分野では若干の持ち直しはあったものの、全体的にパッとしない成績のまま高校を終えました。

ただ、一緒に寮生活(とりわけ、2、3年次の4人部屋)で過ごした仲間が、圧倒的かつ規則正しい勉強生活を続け、その結果、難関大(医学部・医科大)に現役合格していく光景をよく見ており、その背中を見続けていたことが、司法試験に(当時としては、あまりにも運良く)大卒2年目で合格できた、大きな原動力になりました。

もし、皆さんのお子さん・お孫さんも「地元の公立高もいいけど、敢えて、そんな環境に放り込んでみたい」とお考えになるのでしたら、函館ラ・サールという選択肢も考えていただければ幸いです。

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もちろん、私立中の寮生活ですので一定の経済的負担はありますが、カトリック系の学校だからか?昔(私の時代)から同校の学費や寮費はさほど高額でなく、三食・風呂・洗濯などが完備されていることも含め、東京の大学に通学し生活する学費などに比べると、金額はかなり低い(良心的)と思われます(反面、寮の食事に関しては・・以下、自粛)。

facebook等ではゴルフや会食など華やかな暮らしをなさっている方々の姿も拝見することがありますが、そうした皆さんが、若干でも、若い世代の学業のためにお金を投資していただければと思っています。

皆さんの子弟に、私たちの新たな仲間に加わっていただける日を心待ちにしつつ、最後までご覧いただいた方に御礼申し上げます。

西谷巌先生のご逝去に寄せて

先日、盛岡北RCの会員である西谷巌先生が急逝されたとのことで、通夜に伺いました。

西谷先生は苫小牧のご出身で(ご本人から聞きました)、北大医学部に進学し北大などで活躍された後、岩手医大の産婦人科の教授を長くお務めになり、定年後も盛岡の主要病院の院長などを歴任され、御年88歳となった現在も、滝沢市内の中規模病院で診療等に従事なさるなど、年齢を感じさせない若さで精力的に活動されていました。

亡くなられる10日ほど前も、いつもどおり当クラブ(盛岡北RC)の夜例会に参加され、その際も色々と話をさせていただきましたので、急なご病気によるものと聞いていますが、ただただ残念でなりません。

私にとって、西谷先生は、当クラブで最も親しくさせていただいた方の一人なのですが、それには2つの理由があると思っています。

私は函館ラ・サールの出身ですので、同級生には北大医学部に進学した方もおり(しかも、1年間、4人部屋で過ごした仲間でした)、そこに入学できる人というのが、どれほど凄まじい才覚を持ち圧倒的な努力を重ねているか、若干ながら体感として知っているつもりです。

私も、学力や業績などの程度は遙かに及びませんが、学問で身を立てた人間のはしくれであり、また、盛岡の出身ではない点でも共通点があることから、「先祖の代から盛岡で暮らし、代々或いは何十年もこの街で重責を担ったご一家の当主」の方が珍しくない当クラブでは、西谷先生にとっても地元出身ではない私に対し他の会員の方々とは違った親しみを感じていただいた面はあったかもしれません。

また、私は幼少期に大人に囲まれて育ち、同世代の面々より両親の周囲にいた大人の人達と一緒に過ごす方が居心地がよかったせいか、今もその感覚をひきずっており、同世代よりも親子ほども年の離れた方々の方が、なぜか親しくなりやすい傾向があります。

恐らく、私にとって父が人生のロールモデルではなかった(実家を出ていくほかない身であり、幼少期の父との人間関係も希薄だった)ため、その役割を担って下さる様々な大人との関わりに飢えがあったからだと思っており、私が西谷先生と親しくさせていただいたのも、何某かの「父性」を西谷先生に求めた面があったからなのかもしれないと感じています。

ともあれ「つい先日まで一緒に酒杯を交わして盛り上がった方」が急逝してしまう経験自体、私にとってほとんど初めてではないかとも思われ、まだ現実を受け入れることができないというのが正直なところです。

ところで、以前は、どこの小社会にも「組織のあるべき姿や理念を大所高所から論ずるご意見番的な御大」がおられましたが(岩手弁護士会なら、故・菅原瞳先生でしょうか)、西谷先生は、当クラブでは、その代表格のお一人だと認識しています。

西谷先生と重鎮論客の双璧をなし、私にとってはもう一人の「当クラブでの父親代わり」と言うべきSさんも、ご病気を理由に先般、RCを引退されてしまうなど、盛岡北RCにとっては「一つの時代が終わった」と評さざるを得ない状態が、ここ半年~1年ほど続いているように感じます。

そうした「父親世代のご意見番」の喪失(ひいてはRC全体の退潮)の中、当クラブがどうなってしまうのか(単なる親睦団体の類としてしか存続できないのか、それとも世界とつながる・世界に通じる高邁な理念なるものを自分達の不可欠な要素として保持・実践できるのか)、今の私には全く分かりません。

ただ、折り返し地点を過ぎてかなり経過しながら、相変わらず社会全体との関係では無為の日々を送る私に「それでいいのか?」と何らかの問いかけがなされているのかもしれないと、そのことには絶えず向き合っていきたいと感じています。

西谷先生のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

多世代交流と家庭の葛藤を通じて学ぶリーガルマインド

もう終わってしまいましたが、夏休みにはご自身の実家に帰省し、三世代や四世代が揃って楽しい時間を過ごされた方も多かろうと思います。

私自身は父が実家の承継者のため帰省にはあまり縁がありませんでしたが、中学1年の冬まで曾祖母が存命で(享年99歳と聞いています)、最期まで自宅で暮らしていましたので、当時のことは相応に覚えています。

曾祖母は私の出生直後(当時90歳)に大怪我をして歩行不能になり寝たきりを余儀なくされたのですが、私の実家は曾祖父母が商人として人並み外れた努力をして作り上げた家なのだそうで、「二戸では相応の規模の商家」の象徴的存在として、地域の多くの方から敬われていました。

私が幼稚園か小学1~2年くらいの頃、ある程度は意思疎通が可能であった曾祖母は、私と兄(3歳上)をベッドの枕元に呼びつけることがしばしばありました。

その際は、私が隣室で待つように言われ、枕元には兄だけが立ち、曾祖母は「立派な人になりなさい」的な話(当時の兄談)を数分ほど何やらムニャムニャ宣った後、兄が小遣いを渡され、次いで、私が呼ばれて小遣いを渡される、というのがお決まりの光景でした。

小遣いは100円程度で、金額に違いがあったかは記憶にありません(たぶん、同じ額だったとは思います)。

ともあれ、私はこの「儀式」が子供心にあまり好きではありませんでした。言わずもがなですが、自分が差別されているように感じたからです。

裏を返せば、幼年期の私は、誰のどんな教育によるものかは分かりませんが「兄弟だろうと誰であろうと天地に人の上下無し」的な感覚(戦後民主主義思想?)を多少なりとも持っていたのだろうと思います。

ですので、幼い私一人だけが、家族はもちろん多くの方々に立派な人格者として尊敬されていた曾祖母を、若干のわだかまりを抱きながら、誰にも言うことなく小さく見つめていたような気がします。

で、何のためにこの話を書いたかと言えば、もちろん、曾祖母ないし実家の悪口を書きたかったわけではありません。

司法試験受験生(大学及び浪人)時代が典型ですが、私は実家から強い経済的庇護を受けて育っており、正直なところ司法試験に合格したその瞬間まで、ただの一度も「金に困った」経験をしたことがありません(後日、修習末期にペルー旅行で生活費を使い果たして本当に困ったことが一度だけありますが・・)。

ボーイスカウトや学習塾、域外の高校進学なども含め、二戸という片田舎で生まれた少年としては、かなり恵まれた育ち方をしたことは間違いないと言ってよいと思います。

但し、物心ついたときから「貴方と兄とでは役割や立場が全く違う、貴方は家から出て行かなければならない人間である」ということは、陰に陽に強く言われており、経済的庇護も、そのことと不可分一体のものだろうと感じて生きてきました。

ですので、感謝したくてもしきれない、わだかまりのようなものを絶えず抱いていたような気もします。

そして、曾祖母の件でも述べたとおり、そうした実家の論理に一定の合理性や必要やむを得ない事情を感じつつも、他方で、それと異なる論理(正義)も自分にはかけがえのないものとして感じており、その「相対立する二つの正義」に揺さぶられ、時に戸惑いながら育ってきたのだろうと思っています。

私は大学で憲法の勉強をはじめて間もなく、その年に司法試験に合格された非常に優秀な先輩に「憲法学とは、相対立する二つの正義について、どちらかが一方的に正しい、間違っているというのではなく、双方ともかけがえのないものだという前提に立って、現実に即した調和点を探る学問である」という趣旨のことを教わりました。

もとより、離婚訴訟であれ企業間紛争などの類であれ、多くの事件が「正義と悪の対決(悪い相手方を懲らしめろ、やっつけろ)」ではなく、互いに相応の正義(事情)があり、また、程度や濃淡の差はあれ互いに残念な事情も抱えており、それらを全て見据えた上で、自身の立場を踏まえつつも落としどころを探るのが望ましい仕事のあり方である、ということは、皆さんもご存知のところかと思います。

そのように考えれば、期せずして、私は弁護士としての適性を育みやすい環境にあった(広義の教育を受けた)ということも言えるのかもしれません。

果たして今、自分がそうした「いつかは深く考えることができるかもしれない環境」を次世代に提供できているのか、大変心許ないところではありますが、皆さんにおかれても、そうした観点も含めて、帰省或いは多世代交流の意義などというものを考えていただければ幸いに思っています。

冬の県北と今年のスキー

かなり前の話で恐縮ですが、2月上~中旬ころ、立て続けに二戸の裁判所に仕事がありました。当時、すでに盛岡は全く雪のない毎日晴天の日々でしたが、新幹線のトンネルを抜けて二戸に出ると、そこは地吹雪体験の世界でした。

ある期日の際は、帰りの新幹線に間に合わず、恐らく20年ぶりに銀河鉄道に乗りました。新幹線よりも遙かに秀逸な車窓風景を久しぶりに眺めながら、特急の車内で銀河英雄伝説を読み耽っていた高2の夏を懐かしく感じました。

君のせて銀河の歴史が一ページ

2月下旬になって急を要する仕事が片付き少し余裕ができたので、ようやくスキーに行くことができました。しかし、今年の盛岡圏は雪は降らず晴天ばかりの日々であったせいか、サラサラの粉雪には遠い状態で、

滑りぞめ今年もやっぱり春スキー

という有様でした。

今年は合計で3回のみのスキーで、1回目が岩手高原、2回目は雫石に行きましたが、現行のリフトの終点の先にある、昔のゴンドラ駅の跡のあたりは標高のせいか良質な雪が残っているようで、「ハイシーズンの週末だけでもゴンドラを運行し、そこまで行けるようにして欲しい」と思わずにはいられませんでした。

雫石には修習中に少しだけ行き、第1ゴンドラに乗ってメンズダウンヒルコースを若干滑走したことがありますが、第2ゴンドラ=レディスダウンヒルコースは行く機会がないまま終わってしまい、ゴンドラ自体も無くなってしまった今、あの頃に一度だけでも行っておくべきだったと悲しみを禁じ得ません。

山頂の粉雪恋し雫石  双頭龍も夢のまた夢

ともあれ、雪はグシャグシャ、地面も表出という絵に描いたような春スキー状態のゲレンデ下部を抜けて麓に戻ると、足元の雪まで陽光のため下山中に解けてしまったように見えました。そうした光景に春の訪れを感じつつ、某ジブリ映画にひっかけて一句。

雪しずく春の麓に着きし間に

その翌週(三週目)は、修習中に一度だけでも行きたいと思いながら、安比ばかり行きたがる修習仲間に引きずられ?一度も行けずに終わった夏油高原スキー場に、あれから20年を経て、ついに初めて行きました。

こちらの雪も、ほぼ春スキー状態にはなっていましたが、それでもまずまず快適に滑走でき、ようやく宿願を果たすことができました。

帰路には、思うところあって北上パル(イオン)の「ドムドムバーガー」に立ち寄りました。子供の頃の休日は盛岡には縁が薄く、映画などは八戸に来ることが多かったのですが、当時、本八戸駅にあったドムドムバーガーでマヨネーズたっぷりのテリヤキバーガーを食べて帰ることが何度かあったと記憶しており、久しぶりに食べてみたいと思って立ち寄ったのですが、30~35年ぶり?にいただいたテリヤキバーガーは、思ったほどマヨネーズたっぷりではないようにも感じ、「思い出の味」は追憶の彼方といったところです。

できれば、その次の週にも、修習以来ご無沙汰になっている下倉スキー場に行きたかったのですが、寝坊で行けず来年に持ち越しとなり、昼から仕事に明け暮れるいつもの日々となり、その点は残念でした。

私はゴルフやテニスその他の「大人の社交スポーツ」を全く嗜むことができず、無雪期の唯一の嗜み(生き甲斐?)である登山(トレッキング)も仕事に追われて15年ほどご無沙汰になっているため、せめて、スキーだけでも死ぬまで続けていきたいと思っていますが、残念ながら現在のところ、家族(の一部)以外に同行して下さる方がおらず、どうにかならないものかと思っています。

観応の擾乱と北の「バサラ猿」たちが追いかけた夢

昨年末ころ、亀田俊和「観応の擾乱」(中公新書)を読みました。

最初、この本を書店で見つけたときは、1年ほど前に一世を風靡した中公新書の「応仁の乱」の著者が次回作として書いたものと勘違いし、「二番煎じか、だったらいいや」などと思っていたのですが、よく見たところ著者は違う方だし、応仁の乱は買うかどうか迷っているうちに時間が経ったので古本屋で探そう、それよりも、応仁の乱以上に実情がよく分からないこっちを買ってみよう・・と思って購入したのですが、程なく、驚くべきことに気づきました。

この著者の名前に見覚えがあるような・・と思って末尾の経歴欄を眺めたところ、1973年秋田生まれ、平成9年に京大の文学部卒って、高校の仲間内に似たような奴がいたな・・・と思ってネットで検索したところ、

アアァァッッッ・・!!! と雄叫びを(自宅内で)あげてしまいましたよ。

著者の亀田俊和先生は、紛れもなく私の高校時代(函館ラ・サール)の同期生で、寮(1年生の100人部屋)のベッドも割と近い位置(オとカなので)に住んでおり、私と同じ「北東北の片田舎(彼は小坂町)から出てきたお上りさん?同士」ということで、それなりに仲良くさせてもらっていた方に間違いありません。

2~3年生の頃の彼の成績は記憶がありませんが、少なくとも1年生の頃に関しては、入学直後から数学と理科(化学)で撃沈した私ほどでないにせよ、「日本史は得意だが、他の教科の成績はパッとせず、運動もできない者同士」ということで、多少は連帯感があったような、逆に「鏡に映った自分のように見たくない感じ」もあって互いに敢えて接近しないようにしていたような、「付かず離れず」の微妙な関係性があったという記憶があります。

ただ、卒業のときか後日(大学生の頃?)かは覚えていませんが、彼が京大に合格(入学)したという話を人づてに聞き、高校1年の「どんぐり仲間」の一人だったことしか覚えていない身としては、カメって実はそんなに優秀だったのか、一体いつの間に勉強やってたんだと驚愕したことはよく覚えています。

とまあ、つまらない曝露話?はさておき、彼が、当時から中世史なかんずく南北朝時代に関心が強いことを公言し、歴史研究者志望だと語っていたこと、彼の机に置かれていた幾つかの本の中に、「ばさらの群れ」という本(童門冬二氏の小説)があり、「ばさら大名が好きだ、佐々木道誉とか」などと話していたことは今もはっきりと覚えています。

私自身は、特定の時代(まして、マイナー?な南北朝)に関心(こだわり)がなく、むしろ、歴史の全体をざっと見つつ現在の社会(特に北東北)との関わりを知ることに興味があった上、高校時代は、試験勉強を超えて、学問としての歴史に深い関心を抱くには至りませんでしたので、「佐々木道誉って誰だよ、こっちは足利直義と護良親王くらいまでしか分からんぞ」という体たらくで、亀田君と歴史談義をするなどという関係を築くことはできませんでした(今思えば、惜しいことをしたのかもしれません)。

ともあれ、本書を拝読しながら「~という出来事は興味深い」の言葉遣いが多すぎるぞ(見開きで3カ所くらい出てくる頁あり)とか「寮生(しかも受験期)なのに毎週、大河ドラマを見ていたのか?テレビが1台しかないのに取り合いはなかったのか?」などと余計なことを思いつつ、彼も高校時代に求めた道をこうして実現したのか、と感慨を抱かずにはいられませんでした。

すでに何冊も出版されている石川知裕君(もと衆院議員)も、著書によれば、高校時代から政治家を志していたとのことであり、また、この高校の性質上、医学部を目指して難関校を突破し現在も全国或いは世界で活躍されている(であろう)方々は何人も存じていますが、歴史学者になりたいと述べ、それを実現し、当時から関心を持っていたライフワークというべきテーマで中公新書の出版まで成し遂げたという方は、同期では亀田君だけかもしれませんし、亀田君もまさに「夢を現実とし、今もその過程を駆け抜けている真っ最中」なのだろうと思えば、胸が熱くなるものがあります。

それに対して我が身は・・となると、大卒2年で司法試験に合格できたまでは良かった?のかもしれませんが、今や、うだつのあがらないちっぽけな田舎の町弁として、雑多な仕事に従事しつつ事務所の存続(運転資金=売上確保)に追われるだけの日々という有様に堕してしまったように思わないでもありません。

私の高校のときの夢は、弁護士とか医師とか学者とか、具体的なイメージを抱くレベルには至っておらず、ただ、学力をはじめ、自分が到底及ばない強い力(オーラ)を持った凄い人達に会いたい、その背中を追いかけながら、いつしか「高校時代から外の凄い世界を見てきた人間」として、郷土に意義のある何らかの貢献をしなければならない(そうでなければ、岩手を離れて函館に来た意味がない)、という漠とした気持ちを持ちながら、現実には授業を追いかけるので精一杯という日々でした。

そうした初心に立ち返り、改めて自分ができること、すべきことを見つめ直すという意味では、今、亀田君の著作に出会えたことは、幸いなことというべきなのかもしれません。

ところで、ここまで書いてきて「書評」的なものを全然書いていないことに気づきましたので、一言触れておきますと、本書は、観応の擾乱の全体像(高師直の失脚を中心とする第1幕と、尊氏vs直義の決戦と南朝勢力などを巻き込んだ大混乱を中心とする第2幕)を様々な事象を紹介しつつ説明しており、その点は中公新書らしい?マイナー知識のオンパレードというか、中世史を相応に勉強した人でないと、スラスラ読むのはしんどい(また、末尾に人物や制度などの索引が欲しい)という面はあります。

ただ、擾乱の主要な原因について、単純な(師直と直義の)路線対立というより、幕府(足利勢力)が北条氏や建武政権の打倒に伴う論功行賞(恩賞)やそれに付随して生じた紛争(訴訟)の処理を円滑に進めることができなかった(紛争解決制度が未整備だった)ため、それを担当した責任者(最初は師直、次いで直義)が結果として多くの武士(御家人)の反感を買った(信望を失った)ことが、失脚(その前提としての混乱)の原因であり、擾乱の過程を経てそれが整備されたことが、義詮・義満期の室町幕府の安定・興隆の基盤となったと説明している(ように読み取れる)点は、紛争解決という観点からは、興味深いものを感じます。

本書は、冒頭から足利政権(発足直後の幕府)の紛争解決制度(訴訟など)に関する説明に大きな力点が割かれており、当時、土地を巡る紛争が多発して政権がその処理に負われていたこと、また、鎌倉幕府の訴訟は判決=宣言をするだけ(下文)で、執行力がない=自助努力を要求された(判決は自力執行を正当化する根拠として機能するに過ぎなかった)が、足利政権の発足後、徐々に、判決を強制執行する制度(執事施行状)が用いられるようになったことなどが説明されており、建武新政の破綻要因の一つが新政権が迅速・適正な紛争解決ができず多くの人々の失望を買ったためとされていることと相俟って、色々と考えさせられるものがあります。

また、師直は執行(執事施行状)を通じた迅速な紛争解決を優先したものの、不満も多く寄せられたため、長期の慎重審理=理非究明を重視して師直と対立した直義に支持が寄せられたことが擾乱第1幕の主因の一つであるとか、その後は逆に直義の手法が支持を失い、尊氏・義詮政権のもとで迅速解決型の手法が整備されて安定期に向かったという記載も見受けられ、そうした「紛争解決制度の未整備による混乱が政争の大きな要因になった」という指摘は、紛争解決の実務に携わる者にとっては学ぶところがあるように思います。

ともあれ、いつの日か亀田先生に再会し、私の手元に保管しているご著書にサインをおねだりできる日を楽しみにしています。

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冬がはじまると

昨年末のことですが、朝5時に徹夜仕事に目処が付いて一眠りしようと思った矢先、私事で急を要する出来事が勃発し、1週間ほど振り回される日々を過ごしました(配偶者に夜逃げされたという類の話ではありません)。

特に、初日には関係者の命令により丸一日の拘束を強いられたのですが、県民生活センターの相談担当日で珍しく7、8人の相談予定があったにもかかわらず、事柄の性質上、私事を優先せざるを得ず、急遽のキャンセルを余儀なくされました。

センターの方には、翌日以後に当事務所から個別連絡し対処したいとも申し入れたのですが、相談者が多いこともあり、センターと弁護士会の判断で、他の先生に交代となりました。

交代していただいた先生には感謝申し上げるほかないのですが、自己破産又は個人再生の対象事案が3~4件あったようで、それらを受任し損なった当事務所の売上損失という点では被害は甚大というほかなく、もちろんそれが誰かに補填されることもありません(余談ながら、12月は売上ノルマ不達成+賞与支払のため、大赤字となっています。11月が好調だったので、それでなんとかカバーしていますが・・)。

なので、せめて日中の身柄拘束だけでも誰かに代わって欲しかったのですが、その日に限って他にインフル患者が生じるなど同時多発テロ状態になり、どうせ勃発するなら他の日にして欲しかったと一日中愚痴ばかり述べていたというのが正直なところで、

こんな日に身内が病の総攻撃 縁は切りたし悩みは深し

などと泣き言の一つも書きたくなりますが、幸い、勃発後は現在まで大きな問題は起きておらず、私自身は普段どおりの日常に戻っています(これまであまり関わらずに済んでいた介護問題に、ややこしい形で携わらざるを得ない状況になりましたが)。

ともあれ、残念ながら、今年の冬は御殿場詣で・・もとい妻の実家への帰省も不可能となったせいか、久しぶりに替え歌の神様が落ちてきました。

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去年の正月には  海外旅してたけど
今年の年の瀬は  行けるとこは何もない!

冬がはじまると 身内の病気ふえる
術後うれしそうに  生茶を飲む横顔がいいね

たくさんの人と  お別れしてきたけど
あなたがた 僕を 油断させていて 

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そんなところで、皆さんもご家族・ご親族とご自身を含めた全員のご健康を末永く大切になさっていただければと思います。

石川知裕・もと衆院議員の捲土重来と奥様のご健闘を願って

今年の4月頃、陸山会事件で一世を風靡した石川知裕・もと衆院議員が、現在携わっているお仕事の関係で盛岡に用事があるとのことで、少しばかり当事務所に立ち寄って行かれました(アポ無しだったので、たまたま在室し来客もなく幸いでした)。

隠すような話でもありませんが、彼は函館ラ・サール高校1学年の同級生で、入学時には(席替えの記憶がないので1年間ずっと?)、私の斜め少し前の席に座っており、相応に仲良くさせていただいていました。

やんちゃ者ではありましたが、当時から「人の心を掴むコーディネーター的なリーダーシップ」には格段に秀でており、同学年の中でも特に豊富な人脈と人望を築いていた方の一人だと認識しています。

1年次の学園祭にはクラスの有志5人くらいでバンド風のパフォーマンスでブルーハーツの替え歌を披露し、「女子校に向かって走る~あの列車に乗って行こう~」と歌って会場を沸かせていたのをよく覚えています。

同期内では2年次の妖怪人間の方が有名ですが、クラスが違ったせいか私は拝見し損ねたようで、ステージ終了後にベラ?の姿(全身緑色ながら割烹着姿だったような・・)でその辺を歩いていたのを見たかもしれないという記憶が微かにある程度です。

入学直後も、すぐに私が座っていた座席の周辺の男ども(6~7人くらい)のまとめ役的な感じになり、担任の先生の指示でクラスの「なんとか委員(係)」を決める際、何かの委員にすぐに立候補すると共に私を含むその面々にも「みんな何か一役やろうぜ」と声を掛け、隅っこで小さくなっていた私も彼のおかげで何かの係をやっていた記憶であり、そうした力を天性に持って生まれた人なのだろうと感じています。

私自身は高校卒業後は彼とは全く接点がなく、彼が初めて国会議員になった(繰り上げ当選)報道を見た際に、大変驚いたのを覚えています。その後も、残念ながらお会いできる機会はなく、陸山会事件で時の人になった際にも、報道でお名前を拝見するのみでした(この業界に身を置く者として、多忙を言い訳にせず、激励の手紙の1つでも出すべきだったのではと忸怩たるものがありますが)。

石川議員が在職中であった平成23年の春から夏の頃、彼が小沢一郎氏の秘書として平成10年前後に岩手に居住していたこともあってか、沿岸各地に視察に訪れ、そのついでに被災地支援に取り組む地元弁護士の取り組みを聞きたいということで当事務所にお立ち寄りいただいたことがあり、それが高校卒業以来の再会となりました。

はっきりとは覚えていませんが、同級生で新聞記者をしている方(岩手支局に赴任経験があり少しだけ話をしたことがありました)がいて、その方から私が岩手で弁護士をしていることを聞いたと、来訪を告げる電話で告げられたような記憶です。

その後、そのお礼とご挨拶(及びご著書へのサインのおねだり)を兼ねて、その年の秋に日弁連の関係で上京した際、1度、お言葉に甘えて議員会館を表敬訪問させていただいたことがあります。もちろん、議員会館なんて一生に1度も行く機会はないだろうから冥土のみやげにという下心があったことは申すまでもありません。

その後は、都内で行われた彼の結婚披露宴に呼んでいただいたことはあったものの(同期が在京の方を中心に30~40人ほど集まっていました。ご夫婦のスピーチも見事なものでしたが、小沢氏、鈴木宗男氏、佐藤優氏のスピーチや松山千春氏の歌声など、非常に中身の濃いエンターティナー性に溢れた式でした)、その後は接点もなく現在に至っていたというのが正直なところです。

今回は目的地に赴くついでに久しぶりに顔を見に来たとのことで、少しばかり雑談をした程度でしたが、捲土重来を期して努力を積み重ねている様子は伝わりましたし、高校時代のささやかな思い出に照らしても、然るべき形で多くの方の期待と信頼を集めて相応の舞台に戻ってくるのだろうと確信していますので、遠い岩手の地からではありますが今後も応援を続けていきたいと思います。

1年のときの国語の授業の際に、雑談好きで見識の深い担当の先生と彼が何か話をしている途中で、彼のご家族(お父さん?)が町議会議員など政治に関わる仕事をしていて、その関係で彼も政治の世界に思い入れがあるという話をしていたのを聞いた記憶があります。

私も祖父が1期のみとはいえ県議会議員をしていましたので、彼の話を覚えているのかもしれませんが、反面、私は亡父から祖父が政治(選挙)に関わったせいで実家は酷い目にあったという話を何度も聞かされ、私自身、その呪いのせいか?人望が全くなく集団内では常に小さく黙っている「政治家(リーダー)に適性がない人間の典型」というキャラに育ちましたので、政治の世界に挑んで頑張っている石川君には、憧憬という言葉だけでは表現し尽くせない特別な感慨を抱く面があるのかもしれません。

恥ずかしながら私にはオバマ大統領の当選を支えたルース大使のような貢献はできそうにありませんが(日本でも自民党の高村副総裁を地元で支えた中央大の大先輩がおられます)、せめて、自分より才能豊かな方が凄まじい努力をしているのに、それに匹敵する努力をしなければ我が身を嘆く資格もないという受験生時代の気持ちを忘れず、彼の圧倒的な努力に負けずに精進し続けたいと思っています。

今回は、陸山会事件に基づく立候補の制限期間の満了直前の選挙になり残念ですが、奥様も結婚式の際、ご自身のご家庭が辿った数奇な運命を交えつつ「東京地検特捜部が私たちを巡り合わせ、結婚させてくれたのだと(今は前向きに)考えています!」と情熱的なスピーチをなさっていましたので、来る選挙当日をはじめ、今後もご夫婦二人三脚での日本や十勝地方へのご貢献と大願成就を祈念しています。

懐かしき未来は名古屋城の礎石の中に~名古屋編②~

10月の名古屋出張(学童保育の全国大会の出張)に関する投稿の2回目です。今回は、全国学童保育研究会の開場前に名古屋城に行ってきましたという件を書きたいと思います(大至急の仕事が少し片付き、久しぶりに、ブログ書きたい病になっています)。

名古屋には花巻空港を朝の早い時間に出発し、午前中には市内に着きましたので、昼に始まる全国研の前に可能な限り城内を見ておきたいということで、すぐに名古屋城に行きました。

まずは二の丸庭園のパフォーマンス集団(武将隊の方々)をチラ見しつつ、一部復元に伴う公開がなされて間もない本丸御殿に向かい、次いで、天守に入城しました。当日は文句なしの晴天で、天守閣の展望台からは伊吹山をはじめ周囲の眺望を楽しむことができ、大満足でした。

恥ずかしながら、これまで名古屋城については不勉強で、消失や再建の時期などはほとんど把握していませんでしたが、戦時中も昔の雄姿を止めていたことや戦災(米軍の大空襲)で「落城」さながらに焼失したこと、戦後まもなく市民の熱意や募金を通じて再建されたことなどが、よく分かりました。

焼失前に撮影された写真も初めて見ましたが、白黒写真で垣間見た限りでも、現在のコンクリート製より遙かに風格があるように感じました。もちろん、現存していれば、姫路城と並んで(規模からは、姫路城以上に)日本を代表する城郭として世界に冠たる名声を得ていただろうと残念に思います。

我国は敗戦で多くのものを失い、それと引き換え?に多くのものを得ましたが、焼け落ちる名古屋城の写真が、まるで名古屋ひいては日本の戦後の復興のための人柱になったかのような、戦慄というか身震いするような感じがしました。

ところで、名古屋城(天守閣)の入口付近に、陸前高田の子供達を招待した企画に関する展示パネルが掲示されていました。

言うまでもなく、陸前高田は東日本大震災津波における最大の被災地の一つであり、市の中心部が津波により丸ごと壊滅させられるという、米軍の空襲と同等以上と言ってよいほどの凄まじい被害に遭いました。もちろん、街のシンボルである高田松原も完全に失われ、「一本松」のみを残すのみとなったことは皆さんご承知のとおりです。

それだけに、「あまりにも大きな外力(大国との総力戦や巨大災害)により、街の大切なものを多く失った者同士」という点で、名古屋と陸前高田は共通するところがあり、両市が交流などを深めていくことは大いに意義があるのではないかと思われます。

陸前高田には、市内の著名事業者の方々が従事する「なつかしい未来創造」という復興まちづくり企業があるとのことですが、自動車産業などを通じて戦後の「物づくりニッポン」を牽引すると共に、現在も本丸御殿を復元し、さらに天守閣の復元も構想している名古屋の地は、「なつかしい未来の創造」という点では、陸前高田をはじめとする三陸の被災地にとっては、ある種の先輩格というべきなのかもしれず、戦後の名古屋が辿った成功や反省などの体験の成果を、三陸にも還元するような営みが盛んになればと願っています。

そんなことを考えながら一首。

懐かしき未来は名古屋の城で待ち 努力と熱意の有無を見定む

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ところで、名古屋には、大学の先輩で同じ年に司法試験に合格し、その頃に大変お世話になったKさん(弁護士ではありませんが広義の同業である法律実務家)がおられるので、これ幸いとばかりに、夜にはKさんに十数年ぶりにお会いしてきました。

Kさんには、合格から修習開始までの期間に中央大の某団体(S法会)で答案練習会(司法試験の模試のようなもの)の内部スタッフ同士として奴隷労働?に明け暮れていた当時、一緒に呑みに誘っていただいたことがあるのですが、貧乏な合格者同士のはずなのに?なぜか、京王線の千歳烏山にある「純米大吟醸と高級酒肴ばかりの贅沢居酒屋」に連れて行かれ(しかも妙に盛り上がって2時間以上呑んでました)、「人生で行った居酒屋3本の指(ナンバーワン?)」といって良いほど大満足の反面、財布が空っぽになり、泣きそうな思いをして帰ったことがありました。

そのため、今度も凄いお店に連れて行かれるのだろうかとビクビクしていたのですが、最近は私がブログやfacebookで貧乏ぶりを吹聴しているのに気を遣っていただいたのか?B級グルメの名店と地元の庶民派居酒屋さんという組み合わせで、「懐に優しい食い倒れツアー」になりました。

ともあれ、Kさんが「現場の指揮官」として野武士のように奮闘されているお話などを伺っていると、懐かしさと共に、私も法律実務家のはしくれとして、私なりに地域の未来を切り開いていかなければならないとの思いを新たにしました。

そんな様々な「懐かしき未来」が交錯する名古屋の地にいつの日かまた訪れて、次代の様々な可能性や努力の種について考えを巡らせることができればと思います。

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奥多摩湖畔を彷徨った日のこと~都知事選に寄せて?

都知事選絡みの投稿が続いて恐縮ですが、折角なので、少し前にfacebookの方に載せた投稿を再掲させていただきます。

大学1年の終わり頃、突然、奥多摩湖に行きたくなり、昼過ぎに当時の自宅(東京都日野市の百草園)を出て、夕方4時頃に湖(小河内ダム)に到着し、南岸のほとんど整備されていない踏み跡程度の遊歩道を、日が沈もうとしていた時間に何も考えずに延々と歩き出したということがありました。

何を考えていたのか思い出せませんが、誰もいない森の中に入っていけば、そのまま自分が消えて無くなってくれるんじゃないかなどと、自殺とまではいかなくとも、厭世的な願望があったのだと思います(失恋とかが理由ではありませんので念のため。ある意味、「それ以前」の大学生活でした)。

当時はまだ山登りに目覚める前だったので、ヘッドランプなどの用意がないことはもちろん、靴も普段用のもので、ほぼ手ぶらで出かけたことや、「ここから先は落石等があるので立入禁止」の看板(ネットで少し調べたら今もあるようですね・・)があるのを見て、そのまま石にぶつかって死んでくれてもいいや、などとみっともない感傷に浸っていたことはよく覚えています。

2月か3月頃の話ですので(11月だったかもしれません)、5時半頃には周囲一帯は暗くなり、仕舞いには遊歩道がどこかも分からなくなって、暗闇の中、沢沿いの砂防ダムのようなところをよじ登ったりもしました。

湖畔に沿って行けば何とかなるだろうと思って歩いているうちに、6時過ぎ頃、明かりが見えたので山中をよじ登ったところ、キャンプ場らしき場所(南岸の真ん中過ぎ。今もグーグル地図に載っています)に出て、そこから車道をトボトボ歩いていたところ、通りがかりの自動車の方に拾っていただき、奥多摩駅まで送っていただきました。

湖畔を歩いていたときのことはあまり思い出せませんが、明かりを見つけて無我夢中で走ったことと、ドライバーの方(おじさん)から「この辺は熊が出るぞ」と言われたことは、今もよく覚えています。

その後、ほどなくして、大学生協で見つけた奥多摩地域の登山ガイドを手にとって、大学2年の秋頃には毎週のように未明から自宅を出て、京王線百草園駅から立川駅5時25分発の電車に乗り、日帰り登山に出かけていました。

大学時代は、誰が見てもどこから見ても、近寄るなと言われてもやむを得ないような陰気で救いのない学生でしたが、そうした時間を持つことで、辛うじて自分を持ち堪えることができたと思っています。

退任間際の舛添知事が湯河原通いを批判された際、奥多摩を軽視しているかのように受け取られかねない発言をしたことが話題になったせいか、知事選の候補者の方々が演説等に訪れたとの記事が取り上げられていましたが、私自身は奥多摩に特別の思い出や恩義のようなものがあり、今も、奥多摩の良さや大切さを都知事に限らず多くの方に知っていただければと感じています。

余談ながら、先週の土曜には中央大岩手支部の総会があり、遅参の身で恐縮ですが参加させていただきました。参加者の多くは大先輩の世代の方々なのですが、先輩方に暖かい言葉をいただくことを有り難く感じるのも、そうした学生生活を過ごしたことが関係しているのかもしれません。

震災1年目に考えたこと(H24.3再掲)

先日、震災5年目の日を迎えて考えたことについて書きましたが、震災からちょうど1年目の平成24年3月に書いた文章を再掲することにしました。

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それぞれの1年目

震災から1年を経過したこの日(平成24年3月11日)、私自身は当番弁護士の担当日で遠方を含む複数の警察署に接見に向かったり、家族が通っているピアノ教室の発表会の付添を余儀なくされるなど、震災とは何の関係もない一日を過ごすことになりました。

ただ、地震発生時刻がピアノ教室の発表会の最中でしたので、その際は参加者全員で黙祷を捧げることができ、その点は良かったと思っています。

遠方の警察署から帰宅した後、facebookやブログなどで様々な方がこの日にどのように過ごしたり、どのような情報を発信しているのか、興味深く拝見しました。

沿岸の方々は言うに及ばず、盛岡の方も日本JCによる被災者追悼などを目的とする大きなイベントがあったこともあり、震災絡みの多くの投稿を拝見しました。

私のfacebookでの「友達」は、東北地方の他県の方はごく少数しかいませんが、その方々も被災地の方か否かに限らず震災関連の投稿をしておられました。

他方、東北以外の地にお住まいの方からは震災関連の投稿はほとんどなく、何人かの方が、普段どおりの日常に関する投稿をなさっていました。

そのことを非難するつもりもなければ非難する立場でも勿論ないのですが、そうした光景は、やはり一種の風化というか、温度差なのかなぁと思わずにはいられないものはありました。

もちろん、私自身を含め、身内などが犠牲者になったわけでもない立場では、いつも通りの日常を送ること自体が震災に負けないことの表明だというスタンスも当然正しいと思いますので、何一つ間違っていないとは思うのですが、盛岡の方が次から次へとfacebookに震災関連の投稿をしているのに対し、他の地域からそうした声が出ないのは、ある意味、不思議な感じもしたことは事実です。

私の盛岡の「友達」は、同県人としての同胞意識もさることながら、JC関係者など被災地支援に関わってきた方が非常に多く、私がこうした投稿を書いているように、何か言わずにはいられない方々という面がありますので、そうしたことも割り引かなければとは思います。

ただ、「地震の揺れの程度」では盛岡も東京もほとんど差がなく、帰宅難民という点では首都圏の方が苦労された方も多いと思いますが、不思議なほど震災について何かを語ろうとする投稿を見かけませんでした。

或いは、津波や原発に直面した本当の被災者の方に遠慮して、ご自身の経験については投稿を差し控えたのかも知れません。

それに対し盛岡の方々が次々に投稿をされていたのは、実際に支援活動などに携わる中で、心理的なものを含めた被災地との距離が近くなってきたことによるのではないかと思います。

実際、盛岡の方の投稿も、ご自身のことではなく被災地=沿岸についてのものばかりであったことは言うまでもありません。

私自身も、はじめて被災地を訪れた頃、津波でズタズタにされた街並みを見て、在りし日の姿を思い出し悔しくてたまらなくなったり、その後、何度も被災地の避難所などを通って相談に従事し様々な方のお話を伺ったことなどが、走馬燈のように思い出されました。

これまで、私自身が当事者として経験していない終戦記念日や原爆投下日、阪神大震災の発生日などについて、敢えて何かを記すに値するだけの特段の感慨を抱くことは無いに等しかったと思います。

これに対し、3月11日については同時代の当事者に準じる立場として、これからも特別な日として心に残っていくのだと思います。

3月11日という日に対する受け止め方は様々だと思いますが、大自然に対する人間の小ささ、儚さと、犠牲者への哀悼の念や被害に挫けず努力を続ける必要性を感じさせる日として、多くの方に生き続けていけばと感じています。