北奥法律事務所

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岩手がっかりツーリズム宣言とビッグマウス名所たちの活かし方

東北を代表する大河・北上川。

岩手県北に端を発し、盛岡を経て岩手県南の主要都市を全て貫き宮城県石巻にて太平洋に注ぐこの川は、かつては奥州水運の大動脈であると共に、幾度も巨大な水害をもたらしてきた、慈母でもあり厳父でもある、この地の象徴の一つと呼ぶに相応しい存在です。

その源流と聞けば、深山幽谷の果てに辿り着く神々しい光景が待っているのではという思いを掻き立てる人もいるかもしれません。

が。

北上川源流と称される、この「弓弭の泉」は、国道4号線からチョロッと入ってすぐ、あまり手の行き届いてない小さなお堂の敷地内の鬱蒼とした森の中にあり、これが源流だと言われても、「ハァ?」という感覚しか起きません。

というわけで、認定します!

ここは、岩手がっかり名所・堂々たる第一位である、と。

いや、泉自体には、罪はないと思うんですよ。源氏云々の由緒や価値も否定したいわけじゃありません。

でも、ここを北上川源流(源泉)だなんて言わなくてもいいじゃないですか。

源流って言ったら、黒部川源頭部のように、大山脈の森林限界の先のような光景をイメージするのが当然じゃないかと思うんですよ。

まして、巨大ブランド・北上川の源流ですよ。

それが、国道4号線のすぐそば、小集落や農地から入ってすぐのところなんて、そんなのアリか・・

この「名称と実際のギャップの激しさ」こそが、がっかり名所たる所以に他なりません。

というわけで岩手がっかり名所ランキングも選定すべく、皆さんからの推薦募集中。

暫定案ですが、ダム建設等により全く見ることができなくなった「イギリス海岸」が第2位、沿岸からも1箇所ということで、景観自体は全然がっかりではないものの、名称のビックマウスぶりから「八戸穴」が第3位の候補になるかもしれません?

その上で、提唱しようじゃありませんか。

今流行りの何とかツーリズムに対抗し、敢えて、がっかり名所群を巡って、あるべき振興策を語り合う「がっかりツーリズム」を。

或いは、今は亡き「タモリ倶楽部」に企画書を出せば、全国のがっかり名所を面白おかしく紹介してくれ、日本がっかりツーリズム学会もできあがったのかもしれません。

ちなみに、その前日には、新・日本三大がっかり名所に選ばれるべき、自称・聖人の墓に行ってきました。

その件については、また後ほど。

(追伸)

弓弭の泉は御堂観音の敷地内にありますが、山門など観音堂の施設自体は、がっかり名所ではなく十分に見応えのあるものだと思います。

山門の直下にある親水公園も、見たことのなさそうなヤンマ類が飛び交い、癒やされる場所です。ただ、「川の駅」なる名称(と閑散とした光景の乖離)のがっかり感は否めず、いっそヤンマの駅と改名した方がよいかもしれません。

 

記憶の中の迷ヶ平を探して

先日、岩手から遠く離れたツーリングの聖地・迷ヶ平を訪ねました。
そんな場所は知らない、というバイカーの人は、キリストの呪いでも喰らって出直してきて下さい。

私は、たぶん4歳か5歳くらいの夏の日、この地を訪れたことがあります。
その日は何かのイベントがあったようで、沢山の人で賑わっていました。

私が覚えているのは、晴れやかな高原の眩しい木漏れ日と清々しさ。
そして、大量のカブトとクワガタが籠か何かに入れられてウジャウジャしていた光景だけです。

たぶん、子供向けに売っていたのかもしれませんが、それ以上のことは思い出せません。

以来、迷ヶ平に来ればきっとカブトとクワガタのウジャウジャに逢えるはずとの妄念に取り憑かれて幾年月。
いま、私の目の前に広がる夕方の光景は、まるで夢から覚めた後のよう。

しかし。いるじゃありませんか。
きっと、あの頃から、ここにいたんじゃないかとしか思えない、おばちゃんが。

本日最後の串餅1個。おでん1個。
そして、ニンニク味噌1個。

でも、聞けませんでした。
昔、ここに、カブトとクワガタがウジャウジャいましたよね?と。

それは記憶なのか白昼夢なのか、或いは、私ではない誰かの物語なのか。

分からないまま終わらせてもよいのだと、数十年も経たこの地に来て、私もようやく受け入れることができたのかもしれません。

この地を初めて訪れた同行者は、自分はかつてここに来たことがあるはずだ、と何度も述べていました。
それもまた、白昼夢なのか、自分ではない誰かの記憶なのか。

皆さんも、来てみませんか?迷ヶ平。
あなたの記憶の中の何かを探して。

(追伸)

ここは南十和田湖とでもいうべきエリアですが、誰でも知ってる奥入瀬渓流などと異なる観光客が誰も来ない方角であり、手垢のついた観光地だけでないディープな旅をしたい人には、良い場所なのかもしれません。

可能なら、十和田湖高原などと銘打って、新たな観光地開発ができても良いのではと思ったりもしますが。

旗揚げの聖地で勝ちどきを願って

昨年末の話です。

私は駆け出しのイソ弁時代、大田区北部に住んでおり、自転車で行ける範囲の距離に洗足池がありましたが、諸事に追われ赴くことができずに終わってしまいました。

というわけで、20年前に行き損ねた近所の名所にようやく訪れ、余計なことも考えつつ一句

洗足池 ボクの専属どこへやら
風と雲 鏡に映す 先祖供養

洗足池には、源義家にゆかりがある千束八幡神社がありました。昨年は大河ドラマの関係で「武衛」が流行語になりましたが、佐藤浩市氏は「炎立つ」で源義家を演じていました。

旗揚げは今も昔も千束で

敷地内の神社の説明によれば、千束は、源平合戦の華の一つ、宇治川の先陣争い(名馬・池月と磨墨の物語)と深い繋がりがあるのだそうです(引用した、個人の方?のブログを参照)。
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/ikeduki-douzou/
https://www.yoritomo-japan.com/ikegami/senzoku-ikeduki.htm

年の瀬に勝ちどき願う池の月

ともあれ、今も昔も老いも若きも、何かと戦わなければならない社会ですが、お互い己にだけは負けないよう頑張っていきたいものです。

(R06.03追伸)

先日、とても喜ばしい知らせがありました。戦勝祈願の御利益をお求めの方は、千束八幡神社へぜひ。

建長寺には登山もリスもござんすよ

前回(日帰り出張に伴う北鎌倉プチ周遊編)の続きです

円覚寺を出た後、道沿いを歩いて建長寺に向かいました。

道路の反対側から、北鎌倉駅に向かう鎌倉学園(建長寺に隣接する学校で、桑田佳祐氏と堺正章氏の母校)の沢山の生徒さん達が下校してきたので、重い鞄を抱えた身で細い路地で何度もすれ違わなければならない羽目になりました。

ともあれ、その末にようやく建長寺に辿り着いた後、堺氏が若い頃に活躍された西遊記、そして仏道に人生を捧げた三蔵法師を演じられた不世出の女優さんのことなども思い出して一句。

堅調なみちに花咲く建長寺
サザンカにナツメを偲ぶ孫悟空

建長寺は蘭渓道隆により開山された鎌倉五山第一位の寺院です。

建長寺は鎌倉五山の筆頭に相応しい壮麗な仏殿を備えています。

釈迦苦行像。
思春期はシャキャも痩せたいバラモンで(某漫画より)。

建長寺は、総門や山門、仏殿、法堂、庫裏などが一直線に並んで建築されており、中国で成立した禅宗の本来の建築様式とのことですが、初めて見る者には、まるで艦隊が連なるような奇妙で不思議な印象を受けます。

私は平成11年の夏に中国に旅行したことがありますが、一直線に巨大宮殿が次々と現れる紫禁城の光景に似ているように感じました。

詳細は存じませんが、中国には建物を一直線に建築するのを好む文化ないし思想があるのかもしれません。

この寺院の敷地をはじめ、北鎌倉一帯が谷間の細長い土地なので、一直線に建物を建てることに馴染みやすいのでしょうが。

ちなみに円覚寺には「一直線感」はなく、むしろ谷の両側に建物群がへばりついている印象を受けましたが、創建時は建長寺と同様に一直線状になっていたそうです。

**

建物群の最後のあたりで、お江の方の廟所に用いられていたという壮麗なる門扉がありました。というわけで、大河ドラマで活躍された若き日の樹里氏が奏でる一句。

唐モンでジャズの代わりに数珠やるべ。


その後、まだ残された時間があるということで、寺院の裏の「奥の院」的なエリアを目指すことにしました。

沢山の階段を上らなければならず、疲労の末に一句。

登山やな北鎌倉の半僧坊

鎌倉市街を見下ろす光景は、旅に達成感や稀少体験を求める方に、至上のよろこびを与えてくれるでしょう。

ここを目指す方は、間違っても、ノートPCや使いもしない勉強道具(判例雑誌など)を大量に入れた鞄などの重い荷物を持つことなく、軽装でいらして下さい。

下山中に、よい子の皆さんを癒やすひとときを授かり一句。

五山にはリスもおいででござんすよ

かくして建長寺をあとにし、そのまま徒歩で鎌倉駅に向かいました。

裏側から立ち寄った夕暮れの八幡宮は平日おデートの皆さんがウジャウジャしていたのでツルッとスルーし、そのまま「おまけ」を経て新幹線ギリギリの時間でしたが、東京駅で猛ダッシュし、どうにか、遅れずに帰宅できました。

***

以下、おまけ。

夕方に鎌倉駅前に辿り着いたので、某愛読者のクレームを覚悟しつつ、久方ぶりに孤食の居酒屋放浪記をすることにしました。

隣のボックスに耳障りなしゃべり口調のあんちゃんがいて、

「俺は弁護士ではないが本人訴訟の達人だ、少額訴訟ならお手のものだ」

云々と、同席者に自慢げに話し、交通事故?とか個別分野でも講釈を初める声が延々と聞こえてきたので、

隣にホンモノの弁護士がいるんだけど・・・

と言いに行きたい衝動に少しだけかられました。

が、急がないと新幹線に間に合わないこともあり、半ば耳を塞ぎつつ、日本でここでしか食べられない?黒酢黒ゴマ蕎麦と三浦半島名物の三崎マグロの輪切りテールオーブン焼き、そして特雌鳥の炭火焼きと鎌倉ビールを、大変美味しゅういただいて帰りました

次は、できれば一人ではなく一緒に食事を楽しめる方と来たいものです。

 

大船観音と円覚寺にて菩薩のご縁を祈願するの記

半年前の話で恐縮ですが、仕事で神奈川県に出張でき(日帰りですが)、折角の機会ということで前後の時間に近隣の寺院を見に行きました。年末年始にも鎌倉に日帰りで行きましたが、大河ドラマ効果?か、神奈川へのご縁が続いています。
マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(前編) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

まずは、東海道線からもよく見える大船観音にて、21年ぶりの機会を大観音に感謝しつつ更なる御利益を祈願して一首

大船に乗ったつもりで気がつけば 菩薩足りぬと南無阿弥陀仏

観音様というのは「世を観て」救う存在だそうですが、当方も社会の様々な問題の解決に関わりつつ、今なお修行僧というのが実情のようです。

幾とせも世を観て聞いて働けど なお苦しめと今も悶える

大船観音は、昭和初期に世相浄化と観音思想の普及を目的に着工されたものの、ほどなく中断され、大戦後の昭和30年代に再開・落慶され、戦没者の鎮魂と世界平和を祈って建立されたという経緯を辿ったようです。

ともあれ、観音像自体は、半身のみ地面から生えてきたような特異な容姿をしており、

戦災の涙を吸うた白筍が 平和願いて生え聳えたり

と形容するに相応しいのかもしれません。

***

その後、出張仕事を無事済ませ、北鎌倉の名刹に辿り着いて一句。

良き人に縁が来ればと円覚寺

国宝・円覚寺舎利殿は入口が閉じられ、普段は近づけないようです。全容を知りたい方は横浜市中心部の歴史博物館へどうぞ。

次に、北条時宗の廟所とされる佛日庵を訪ねました。円覚寺は、北条時宗が南宋の高僧・無学祖元を招聘し、創建した寺院です。

かつて外国の侵略から国を護った執権は、いま、同じ苦難に立ち向かう異国の人々に次のような一句を告げているかもしれません。

国難のときは気丈に胸を張り

敷地内には、夢窓疎石の作庭を今に伝えるのどかな光景なども広がっていました。

次世代に春を託して梅の花

・・・これが梅かどうかは私には分かりませんが(近くの建物で梅は咲き始めてました)

丘の上には国宝とされる梵鐘があり、表面には「国泰民安」なる碑文が刻まれているそうです。

「国民を二つに割るとはケシカラン。安泰を逆さまにしており、日本国民への呪詛だ!」などと言い出す人もいたりするのでしょうか?

(以下、次号)

 

マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(前編)

昨年末の話で恐縮ですが、大河ドラマで注目された鎌倉に帰省先から日帰りで行ってきました。

9時半頃に稲村ヶ崎の駐車場でパークアンドライドを利用し、最初に長谷駅で下車→鎌倉大仏と長谷寺(鎌倉長谷寺)に行きました。

私は司法修習生だった平成10年の夏に鎌倉に日帰り観光をしたことがあり、それ以来、24年ぶりに鎌倉大仏に来ましたが、街の雰囲気も含め、当時とあまり変化がなく古い街並みが保全されている様子に感心しました。

長谷寺は初めて来ましたが、多数の立派な仏像などを拝見しながら、仏教とキリスト教の異同などをあれこれ考えたので、この点は次回のブログに載せます。

その後、鎌倉駅に移動し、同行者の強い希望で西側の銭洗弁天に向かいました。駅から歩いて行ける距離ですが、相応に長い上り坂となっているため、運動不足で根性のない同行者は「タクシーで行きたかった」と不満顔を浮かべていました。

銭洗う前に銭取る弁財天
急坂で銭より手汗を洗う人
この道が嫌なら麓で芋洗え

その後、坂を上って源氏山公園に向かいました。

鎌倉の頂点たる源氏山公園の山頂には、鎌倉の創設者というべき源頼朝像が鎮座しています。

多くの武士達の力添えで偉業を成し遂げたにもかかわらず、ここには彼一人の銅像しかなく、その上、当時を偲ばせる構造物は何一つないため、かえって寒々しく、頼朝の悲哀を強調するような空間になっています。

引き替えに たったひとりの玉座かな
上に立つ者の孤独はドス黒く


源氏山の頼朝像は何年も前から一度は来てみたい場所でしたが、実際に来てみると、その空間ならではのものを感じることができるような気がします。

昨年の大河は北条家のホームドラマ(家族の物語)とも称されますが、その一方で、身内同士で疑い、憎み、殺し合い、そして血族が誰もいなくなった、頼朝すなわち河内源氏宗家の悲惨な家族の物語であることにも目を向けるべきかもしれません。

その後、源氏山を下山して鶴岡八幡宮に向かいました。

途中、実朝と政子が眠る、源氏山の麓の寿福寺に立ち寄り、修善寺の頼家にも思いを馳せつつ一首。

さむらいの魂喰らいて実る世に 寄る辺なき身の家いずこにか

以下、次回の後編に続きます。

あらえびすと利き酒の旅

先日、花巻の台温泉に宿泊に行きました。というわけで、とりあえず一首。

利き酒と「美味い!」が恋しくなったなら
おでんせ岩手、湯気香る宿

南部美人もあるよ(by田中要次氏)

宿では、南部美人をはじめ合計7種類の日本酒を1杯ずつ振る舞う利き酒セットが提供されていました。

酒自体の味の違いもさることながら、食べ物により個々の酒との相性が全く違うので、種類の豊富な利き酒セットは大変ありがたく、このようなスタイルは全国の温泉宿にもぜひ普及させていただければと思いました。

岩手に戻って20年近くになりますが、家族と県内の宿に宿泊するのは初めて、宿泊自体、JC入会直後からご無沙汰で、たぶん、15年以上ぶり。

これが田舎のしがない町弁の現実です。

県民割の終了?前に一度はと思って来ましたが、長期の深刻な家庭内債務を抱えていますので(婚費や養育費ではありません。念のため)、次はいつになることやらです。

そういうわけで、囲炉裏に落とした陶板焼のタマネギも、シャリシャリジャリジャリと、美味しくいただきました。ケチでビンボーって、そういうことさ。

まあ、美味しさも砂を噛む思いも経験する人生となったのかもしれませんが。

***

帰路は雨天のため遠出を避け、野村胡堂・あらえびす記念館に立ち寄り、帰宅しました。

私が平成16年に当事務所の名称を決めたとき、もう一つの有力候補は

あらえびす法律事務所

でした。

が、諸々の理由のほか、野村胡堂作品を読んだことがなく、私にとっての必然さも薄いと感じ、採用することなく終わりました。

もし、あのとき岩手に戻らず東京で生きることにしたなら、偉大な先人にあやかり、都会で蝦夷精神を打ち立てるとのコンセプトで、この名称を掲げたかもしれません。

その場合、銭形平次などに親しんだ世代の都会の方々に広くご依頼いただけるなどということも、ありえたのかもしれませんね。事前に「捕物帖」を必死で読まなければならないでしょうが・・

記念館の展示自体は、故人の生涯や遺品などの解説が中心の真面目な内容ですが、できれば、ギネス級の長編といわれる著名な娯楽作品を世に送り出した方にふさわしい、遊び心ある設営もあって良いのではと思いました。

例えば、がらっパチが「親分、てぇへんだ!」と叫びかける形で、作品で取り上げられた事件を来場者に向かって説明し謎解きなどを促して、インチキなしで正解した人には何か特典が出るとか、何らかのエンタメ要素があれば良いかもしれません。

今どきの人々は、銭形平次そのものに馴染みがないので、モンキーパンチ氏の協力を得て、警部にも登場して貰ってよいのではと思いますし。

ともあれ、紫波エリアにお立ち寄りの方は、こちらにも足を運んでいただければ幸いです。

あと、花巻の羅須地人協会は、現在の状況ではウイルス禍は休業の理由にならないように思いますので、速やかに再開いただければ幸いです。

***

余談ながら、本日の「盛岡どんぱ」なる大曲系ミニ花火大会がありました。

帰宅した直後に花火は終了し
事務所バガスカ 音だけドンパ

・・・と思ったら、30分後になって突如、再開し、遠くから若干は拝見できました。

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

なお、お店や食事の写真は撮り損ねたため、代わりに、翌日に赴いた快晴の城岱牧場から望む函館弯・函館山の風景をご堪能下さい。バスク地方にも、似たような景色がありそうですし。

函館の屋台村放浪記~函館R1.10往訪編①~

3年前の話ですが、とある所用で函館に行きました。不本意ながら前日入りせざるを得ず、夜の到着後、折角だからということで風呂上がりに大門横丁(屋台村)に晩酌に行きました。

もともと軽く一杯だけで宿に戻りすぐに寝ようとしか考えていなかった上、目当てのお店が満席だったため、投げやり気分で、店員女性(若いおねえさん)が客引きしていたお店(屋台)に入りました。

すると、コの字型のカウンターのど真ん中に、ホスト風?の威勢の良いあんちゃんが陣取っており、私が入店するまで客引きしていた店員と大声で延々と軽口トークを繰り広げていました。

屋台は延々とその喧騒に包まれ、温泉上がりにしみじみしようとしていたのが台無しとなり、「こんなあんちゃんが占拠する店に入るんじゃなかった・・」と憤慨していたところ、あんちゃんは店員との薄口トークに飽きたのか、こちらにしきりに話しかけてきました。

私も若い頃に夜の山小屋で見知らぬ健脚の方と熱い山トークを繰り広げたことはあるものの、人里の盛り場に出入りするのはほぼ皆無で、上記の経緯からも酔っ払いには関わりたくないと思って、半ば聞こえないふりをしていました。

が、あんちゃんのお世辞トークに屈したのか、同行者が会話を始めたので、やむなくお付き合いすることにしました。

あんちゃん(自称29歳)は、ホストではなく全国規模の専門商社の営業マンで、函館には出張で週末だけ時々来ているとのことでしたが、そんな御仁が、どうしてこの屋台の主のように振る舞っているのだろう・・と思いつつ、あんちゃんトークを聞き流していました。

すると、同行者の対応に気をよくしたあんちゃんは、突如、「どうすれば結婚できるんですか」などと、直球トークを繰り出してきました。

結局、あんちゃんトークを適当にやり過ごしているうちに盛会となり、ほどなく解散しました。

両親にも私自身にも、良くも悪くも様々な物語があり、この年まで生きながらえると、「歴史は繰り返す」という言葉を否応なく体感せずにいられないことは何度もあり、今もそうした日々を良くも悪くも余儀なくされています。

数年前、父が亡くなり私が駆けつけた直後、病院から戻ってきた父の枕元に来た母が「おつかれさまでした」と深く一礼したのを見ましたが、果たして、そうした光景もまた繰り返されるのか、あれこれ考えされられた夜になりました。

庄内から善政の光景と庶民の魂を考える(象潟・庄内編4)

鶴岡の藩校致道館は、庄内藩の降伏協議の舞台にもなった重要な施設ですが、すぐ隣には、近未来的な外観を備えた鶴岡市民文化会館(荘銀タクト鶴岡)が聳えており、双方が並び立つ光景は、江戸と現代が鋭く交錯しているように見えます。

このような光景は、岩手・盛岡では見たことがなく、稀有なものであると共に、若い世代への教育的な効果という点でも、意義が大きいと感じました。

大戦争で連戦連勝を経て天下に降伏し、城下も藩も保全された庄内藩。
一進一退の中で降伏し、責任者は斬首され多くの辛酸を嘗めた南部藩。
城の包囲戦では負けることなく天下に降伏し、何もかも失った九戸城。

何が三者の運命を分けたのか。
本間家の財や最新の軍備、名将・鬼玄蕃、そして西郷隆盛の有無だけか。

答えの一つは、藩主が領民から強く支持されていた(根底に、善政で領民も相応に豊かに暮らしていた?)ことにあるかもしれません。

その企画展が、致道博物館で行われていました。

藩の転封を反対し既存の藩政を求める大規模な領民運動などというものは、飢饉と一揆が繰り返された南部藩では到底考えられません。

そうした事情も、庄内藩の戊辰の健闘を支える力になったのでしょう。

明治以後も領主(酒井公)が領民により神格化され祀られている荘内神社(鶴岡城址)も、その現れかもしれません。

酒井家よりも遙かに長い歴史を持つ南部藩(南部本家)には、藩主一門を領民が崇敬する思想はついに生じなかったと思います。

盛岡城址の桜山神社も信直公らを祭神としており、「四柱を祀る」という形式の共通性を含め、荘内神社に相当する施設と言えますが、住民の総意で創建されたと強調する荘内神社サイトの紹介文と桜山神社サイトの創建経緯に関する文章を見ると、住民との結びつきに温度差があるように感じます。

「よそ者」の酒井家は地の利(西回り航路)を活かし人の和(地元の豪商や藩士・領民の協力)を得て、天の時(戊辰戦争)にも屈指の足跡を残しました。

その姿は、数百年も北東北に君臨した南部家を擁しながら、平泉以後は、天下に轟く逸話に縁の薄い歴史を続けた岩手の民にとって、眩しく見える面はあるかもしれません。

反面、明治後、庄内からは天下を動かす政治家等がほとんど生じておらず(唯一の例外が石原莞爾でしょうか)、これに対し岩手は宰相など多くの人物を輩出してもいるわけで、そうした対比も興味深いものと言えるでしょう。

*****

これまで数回に亘り、象潟・鳥海の自然と酒田・鶴岡の栄華や軌跡について、取り上げてきました。

ただ、庄内は、貧困や苦難に生きた「おしん」の舞台でもあります。

私は、弁護士登録直前の平成12年3月、リマの街角で、地元の沢山のペルー人達と一台のテレビを囲んで、「おしん」の最終回を見ていました。

きっと、私の弁護士人生も試練の連続になるのだろうと思いました。

酒田随一のオサレ施設となった山居倉庫内には、今もあの曲が流れています。

私はおしんのテーマ曲を聴くと、身震いがして泣きそうになり、1週間以上、延々と口笛を吹きたくなる症状が生じます。

重度の「おしん病」患者であることは間違いないでしょう。

皆さんも象潟・鳥海や庄内(酒田・鶴岡など)に旅してはいかがでしょうか。

霊峰の麓には、おくりびとに限らず、意外な出逢いや発見があるかもしれません。

芭蕉の足跡から詩情を掻き立てられることもあるかもしれません。

以上をもちまして、象潟・庄内編は終幕です。

多数の投稿にお付き合い下さり、ありがとうございました。

最後に、帰路の川下り街道にて、同行者にもおしんの爪の垢を煎じて飲んで欲しいの一句

さあ勉強、寮へと急かす最上川

~完~