北奥法律事務所

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憲法関係

尋問の東京出張からキュビズム経由で縄文の思想と近代の超克を考える

昨年末、約20年ぶりに東京地裁で尋問のため出張してきました。本来は色々な意味で尋問などの重い手続には相応しくない親族間の少額の金銭問題に関する事案であり、当方は穏当な解決を目指してきましたが、相手方が強硬な対応に終始し、やむをえず尋問・結審となった事案です。

この件に限らず、ここ数年「親分肌(姉御肌)だが我が強く自分本位な御仁に振り回され、弱者いじめのような扱いを受けた人が、これ以上は耐えられないと思って私に相談し、その後も相手御仁が不当・強硬な要求を続けたため、やむなく訴訟等に至るケース」の受任が多いような感じがします。

その種の事案は受任の時点で何らかの不利な条件が生じていることが珍しくなく、相手方はそれをタテに因業な要求をしてくるのが通例で、絵に描いたような古証文事案も複数あります。

そのうちの一つは、テレビをご覧の岩手県民なら誰でも知っている著名企業の創業者が、子分格の小規模企業経営者を長年いじめていた事案で、都会の豪腕弁護士さんと死闘を繰り広げた末、当方勝訴の心証開示を前提に、ご本人の希望で手打ちのような形で譲歩した勝訴的和解をしています。

昨年は、因業な元街金業者に長年いじめられた「保証人の保証人」たる債務者の代理人として、古証文事案で時効が成立するか激しく争い、無事に当方主張が認められ勝訴確定した事案もありました。

が、私自身も似たような経験を昔も今も余儀なくされている?せいか、この種のご依頼は絶対に負けさせるわけにはいかぬと死に物狂いで取り組む結果、時間給換算で大赤字となるのが通例で、ぢっと手を見るばかりの日々です。

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というわけで、今回も数年ぶりの東京に、「長時間出張でますます大赤字だ」と全く嬉しくもなく行ってきたわけですが、せめてもの悪あがきということで、国立西洋美術館のキュビズム展に立ち寄りました。

私は高校1年次にパリのオルセー美術館でミレーの晩鐘に感動して以来(ここだけ昔の自慢話・・)、モネとかコローなどの素朴で美しい印象派の風景画ばかりを好んで見てきたので、キュビズムに小利口なことを言える身分ではありませんが、それでも、私も年を取ったというか、昔よりも色々と考えたり感じたりできるものがあったように思います。

個人的に一番感銘を受けたのは、キュビズムの源流がアフリカやオセアニアなどのいわゆる未開文化が創り上げた、祝祭や呪術などに用いていたとみられる異形の木像などである、という冒頭の解説でした。

そこで展示されていた西アフリカの木像の目とピカソの「キュビズム直前期」の女性画の目が酷似しており、ああ、これが元ネタなんだと素人目にも分かるものがありました。

企画展の入口で、これまでの絵画は(被写体たる人物や風景の)模倣に過ぎないが、キュビズムとは創造を目指したものである、と書かれていました。

ピカソ達の作品は、当時の西欧社会内で、この木像などと同じ役割・機能を果たすことを目指していたのではないかと思いました。

アフリカやオセアニアなど(いわゆる第三世界)では、意味づけや役割などが判然としない異形の人物像などが多く作られていたことは現代では誰もが知っているところですが、これらの異形の像は、現地の何らかの儀式に使われたり、或いは部族支配者の権威付けに用いられるなど、何らかの呪術的なメッセージを伴っていると考えられていると言って良いと思われます。

ピカソ達は、「なんだこれは」と人々が驚くと共に、知性や悟性(思考能力)では捉えることができない、禍々しさも含むのかもしれない何らかの異形の価値を社会に見せつけることを狙って、ああした異形の作品を送り続けたのではと思いました。

やがて多くの人々がキュビズムに熱狂し、その後、それまでの宗教画や印象派絵画とも全く異なる様々な抽象絵画が生み出されたのは、その絵画等に、自分達がまだ言語化できない、呪具・呪物のような得体の知れぬ価値が宿っていると感じたからなのかもしれません。

そのため、キュビズムひいては現代芸術を理解しようと思うのなら、源流・発祥とも言えるアフリカなど第三世界(グローバルサウス)の呪術文化を理解することから始めなければならないのではないか、しかし、現代社会は、果たしてその努力をどこまでしているだろうか、どこまで成果を挙げているだろうか(それこそ、我々の方が発展途上なのではないか)とも感じました。

それと共に、日本で「なんだこれは」と言えば岡本太郎ですが、彼が「発見」した縄文の異形の諸像は、アフリカなどの異形の諸像に通じるものがある、だからこそ、欧州の芸術家は第三世界に惹かれ、同時代の欧州で育った岡本太郎は縄文に惹かれたのだろうと思いました。

第三世界のプリミティブな文化と縄文の思想。

双方の根底には何某か通じるものがあると共に、現代を今も覆っている近代欧州文明の閉塞感を打破する何かが潜んでいるのかもしれません。

本日は企画展の料金で常設展もOKと言われたので、常設展も20年以上ぶりに拝見しましたが、キュビズムのあとに16世紀の宗教画を見ると、あれもこれも同じ「絵」なのか、絵とは何なのか、何のためにあるのか、などと目眩を感じる面があり、そうした感覚にまどろむ意味でも、常設展も併せてご覧になって良いのではと思いました。

あと、地域限定ネタですが、個人的には、ゴンチャロワさんというロシアの画家さんに親近感を持ちました。

余談。

これまで家族で東京に立ち寄る際は、いつも家族の申入で駅のコインロッカーを利用していたので、今回もその習慣で400円を払ったのですが、美術館に入館した直後、ああしまった、ここならタダだった(しかも駅の目と鼻の先なのに)と後悔しました。

というわけで、帰りは贅沢駅弁を諦めて、戒めの500円ニューデイズ唐揚弁当を泣く泣く・・もとい美味しく頂戴しました。

小さなことにクヨクヨしろよ(見城徹語録集より)。

国会を少数精鋭の府に~歳出削減と定数不均衡の一挙解決策としての間接選挙制~

国会も地方議会も、議員数が多すぎるとか、国会議員の報酬などが(労働ないし人物の質に比して)高すぎるなどという議論がある一方、小選挙区制では一人一票の原則(投票価値の平等)を守るには、相応の議員数が必要だと言われています。

その是正策として、近時は中選挙区の復活論も耳にしますが、もっと抜本的な解決策を考えてもよいのではと思います。

例えば、盛岡選挙区では10人前後の選挙人を有権者が選び、当選した選挙人達(全国で2000人程度の規模)の互選で数十人~100人以内程度の議員を選ぶという方法(間接選挙型の国会議員選挙)はどうでしょう。

選挙人は基本的に議員の選出を行うだけの仕事とし、さほどの負担がないことから実費等を除けば原則として無給とします。

国会で討議を行うのは「議員」のみですので、「選挙人」のため新たに施設を作る必要もありません(投票=議員選挙はしかるべき場所で実施すれば足りるでしょう)。

これなら、①選挙人なら若者など就労中の者も立候補が容易、②選挙人を全国で2000人規模とすれば人口比で調整可能なので、定数(人口比)問題も一挙解決、③有給の議員数を大幅に減らすので、税負担も減り、人材の少数精鋭化にも資する、と考えます。

また、選挙人に選ばれる国会議員は、現在の金額に匹敵する相応の報酬を支払う代わりに原則として議員活動に専念させる(兼業禁止・許可制)ことで良いと思います。

現行制度は、大物歌手のような特別な経歴・知名度を有する若者しか立候補できないとか、逆に国民代表として相応しいと思えない残念な行状が露見している方でも有力政党の所属であるというだけで選出されてしまうバランスの悪さが否めません。

国民全体から「誰を代表にすべきか」の判断のみを託された2000人?程度の選挙人が、各人の見識や所属政党などに応じて国会議員を選ぶなら、知名度が極端に有利になることなく、能力や識見などを備えた御仁が選出される可能性は高まるように思われます。

また、選挙人は、選ぶだけでなく、個々の議員の解任権も持つ(その議員に投票した面々が過半数での解任権を有する)ものとすれば、国民の多くが望むであろう、任期中に重大な不祥事等を行った議員へのリコール制度を、間接選挙人の投票による議員の交代という形で、さほど高額な費用をかけずに実現できるでしょうし、国会議員側はもちろん選挙人自身も緊張感をもって仕事ができそうな気がします。

このような制度をとる以上、選挙人による議員選抜(間接選挙)は、秘密投票ではなく国民全員に投票行動が判明する公開(顕名)投票とします。

選挙人が選ぶ国会議員(専業議員)の出身地域は必ずしも人口比にこだわらなくとも良く、都市と地方・東西のバランスを確保すべきとの原則を定めた上で、基本的には選挙人の判断に委ねて良いと考えます。

人口比に応じて選ばれる選挙人が各人の判断で国会議員を選ぶ以上、「代表者の選出に関する国民一人一人の投票価値の平等」は担保されているとの認識に基づくものです。

このように考えれば、一人一票の原則を守りつつ国会議員の大幅減員による税金削減と質の確保の双方を実現できると思われるのですが、どうでしょう。

同様の試みは、国会だけでなく地方議会(県議会・市町村議会)でも行ってよいのではと考えます。例えば、間接選挙を前提に、専業議員は「地方自治のプロ」として辣腕を振るう力のある数人程度に大幅に絞り込み、その代わり、選任時に期待された実績が出せないと、選挙人の判断で相応の期間で任期終了・解任するなどの形で緊張感のある議会運営をさせてよいのではと思われます。

それこそ、地方自治法14条などを改正し、条例で独自の機関設計が一定程度できる制度ないし特区を設けてもよいのではないでしょうか。

現行法制度を詳細に検討した上で述べているわけではありませんが、案外、憲法改正をしなくとも公選法その他の改正で実現できそうな気もしますので、選挙制度の専門家などに試案として考えていただければと思っています。

 

盛岡市議との懇談会と「弁政連のあるべき活動」に関する幻の意見書(第3回) 

前回に引き続き、先日の盛岡市議さん達との懇談会のため用意した(ものの、ボツ扱いで葬られた)レジュメを載せます。

今回=資料2は、盛岡市議の方々に、地方議会・議員として弁護士という存在=インフラを、どのように活用いただきたいか、考えたことをあれこれ述べています。

標題のテーマ(地方で執務する弁護士が、地方における民主主義と人権保障の拡充の向上のため何を考え何をすべきか)に関心のある方は、ご覧いただければ幸いです。

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資料2 弁護士・弁政連と市町村議会議員の交流等のあり方に関する一考察

皆さんは、上川あや「変えてゆく勇気」(岩波新書)を読んだことはありますか?

これは、性同一性障害が社会に認知される以前の時代に、その「心」を持って生まれた筆者(MtF)が、艱難辛苦を乗り越え前向きに生きようとすると共に、区議会議員に立候補して当選し、性同一性障害性別取扱特例法(特定の要件のもと、戸籍上の性別を変更=人格に適合させることができる法律。先日、手術要件の違憲判決がなされた)の制定運動にも携わった方が、立法運動を含むご自身の半生を語った本(平成19年出版)です。

僭越ながら、私は、この本に、資料1で述べた「住民の民意反映と人権保障の担い手」としての地方議会議員の「あるべき姿」の一例を見る思いがしています。

と同時に、本書で描かれた上川議員の熱意と工夫溢れる立法活動を拝見すると、社会的的課題を立法(法律制定)によって解決するためには、立法化を強く希望する方が当事者として地方議会議員となり主要国会議員(政府を運営する関係者)に強く・賢く働きかけ理解を得る形をとらなければならない(そうでなければ実現は困難であろう)と感じます。

今や、盛岡をはじめ各自治体で「同姓パートナーシップ制度」の導入が盛んに行われていますが、本書が出版された平成19年当時には、現在の光景はほとんどの人が想像していなかったでしょう。

当事者でもある上川議員に限らず多くの方々の地道で熱心な活動の積み重ねと、それが(世界の潮流も含め)徐々に社会内で理解を得てきたことが、現在の光景に繋がったのだろうと思われます(某市長の当選もそれに似ているのかもしれません)。

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このような「小さい(ごく少数だ)けれど切実な声」は、LGBT等に限らず、社会に様々な形で存在しているのだろうと思います。自分達の地域社会に間違いなく存在するであろう、そうした声を拾い集め、専門家の力を得て、様々な艱難辛苦を受けつつも現実的に可能な解決に向けて努力していく。それこそが、皆さん(地方政治家)や我々(地方のフツーの弁護士)のあるべき仕事の一つであろうことは、申すまでもありません。

医療の世界では「かかりつけ医」が提唱されて久しいですが、地域の伝統的な相互扶助システムが崩壊し揉め事を仲間内で解決することが困難となった現在では、社会生活上の病の治療の担い手としての弁護士の果たすべき役割が飛躍的に増大しています。

そうであればこそ、地域住民の多くが、ご自身や大切な方に問題が生じたとき解決を真っ先に相談に行くべき「かかりつけ弁護士」を持つべきと言えるでしょうし、かつての「二割司法」の時代は弁護士大増員により終わりを告げ、それが可能な人的供給は十分に整えられた(整えられつつある)と言えます。

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とりわけ、支持者・支援者をはじめ多くの地域住民と関わりを持つはずの地方議会議員の方々は、様々な困りごと・悩みごとの相談等を通じて「これは(議員マターではなく)弁護士に相談して解決すべき」と感じる点があれば、地域内の弁護士への相談等を勧めていただきたいと思いますし、そのような意味で、地方政治家の方々こそ、そうした用途を含めた「かかりつけ弁護士」を(得意分野や年代別などに応じて)複数擁しておくことが望ましいと言えるでしょう。

何より、上記の理由(隣近所や親族との交流が絶え、勤務先の人間関係も希薄だなどという、かつて社会にあった地域相互扶助が崩壊したことに伴い、地域の相互扶助の再構築が求められていること)から、助けを求めている住民と、ニーズに応えられる専門家との媒介役(仲介者)としての地方政治家やその補助スタッフなどに求められる役割は、飛躍的に増大していると言えるはずです。

・・・が、盛岡で開業してはや20年。私(小保内)自身は、ただの一度も政治家の皆さんから、相談者のご紹介などを受けたことはありません・・

盛岡市議会や岩手県議会などでは、コイツに紹介するのだけはやめておけ、という悪評でも立っているのでしょうか?(笑?まあ、皆さん、重鎮の先生方や優秀な若手の方々を紹介され、しがない町弁は相手にされていないのでしょうが・・)

それはさておき、既述の理由から、地方政治家こそ「かかりつけ弁護士」を持つべきであり、多数の弁護士が参集する場で一人一人の顔や人となりを見ることができる「弁政連との懇談会」は、ご自身や支援者のための「かかりつけ弁護士」を選ぶ場(相性を含めたマッチング)としての機能も持ちうるものと言えます。

そのような観点から、この機会を積極的に生かしても良いのではないでしょうか。
(便乗して当方の営業活動をしているわけではありませんので、ご理解ご容赦のほどを)

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ちなみに、10年以上前、盛岡ではない某市役所の無料相談会を担当した際、地元の市議さんが、相談者に付き添って何度か来所されたことがありました。

私の知る限り当職への法律相談等の場に盛岡市議さんが同席されたことはありませんが(そもそも、どなたも紹介いただけないし・・)、とりわけご高齢の方などは、ご本人が当方の説明内容を十分にご理解いただけない場合もありますので、ご自身が同席されるかはさておき、そうしたことへの支援も地方議員さんの役割の一つとして考えていただいても良いかと思います。

盛岡市議との懇談会と「弁政連のあるべき活動」に関する幻の意見書(第2回)

前回に引き続き、先日の盛岡市議さん達との懇談会のため用意した(ものの、会場でボツ扱いになり闇に葬られた)レジュメ(資料1)です。

標題のテーマ(地方で執務する弁護士が、地方における民主主義と人権保障の拡充の向上のため、何を考え何をすべきか)に関心のある方は、ご覧いただければ幸いです。

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資料1 日本弁護士政治連盟や弁政連岩手支部の「きほんのき」と実情・課題の考察

日本弁護士政治連盟は、日弁連の政策を立法等を通じ政治的に実現することを目的として昭和34年に設立され、昭和期はさしたる活動がみられなかったものの、平成期には、隣接他士業(司法書士・行政書士・税理士・弁理士など)の職域拡大に関するロビー活動に触発される形で全国の弁護士会ごとに支部設立が行われるようになり、岩手支部は平成23年(震災直前)に設立されています。

岩手支部は、発足以来、概ね年に1~2回の頻度で、県内選出の国会議員や岩手県議会議員の方々との懇談会を実施しており、基礎自治体(市町村議会など)との交流は前2者と比べて少ないものの、数年前には盛岡市議会議員の方々との懇談会を実施しています。

他方、首長(知事・市町村長)との懇談会等は、岩手では実施例がありません(他支部=他県等では実施例もあります)し、自治体行政部局との関係でも同様と思われます。

弁政連本部(日弁連会長OBなど重鎮の方々)は、定期的に主要各政党や政府(弁護士出身の政務三役、とりわけ法務省関係者など)との懇談会を行っているようです。

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冒頭のとおり、弁政連の趣旨・目的は「日弁連ないし弁護士業界が、社会正義や弁護士業務の適性確保などの見地から実現したい(すべき)政策(立法=法律・条例等の制定や行政による事業化・予算措置など)を政治部門を担う方々(議員や首長)にお伝えし実現を要請させていただく点にあります(他士業と違い?職域拡大への関心は低そうですが)。

そして、法律実務の専門家集団たる弁護士の団体である以上、単なる「陳情」に止まることなく、条例その他(政策実現のための各種文書)の起案であるとか、条例等の必要性を支える基礎事実(いわゆる立法事実)の収集・分析・報告等、政治部門(議員や首長、行政部局など)との折衝、さらには自分達の陳情だけでなく、政治部門の要請に基づく法律実務シンクタンクの受託者そしてロビー活動の従事者・補助者としての役割を果たすことが期待されていると言えます。

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が、いち末端窓際会員としての私が垣間見てきた限り、岩手支部は言うに及ばず弁政連本部や他県支部などが、その役割を現に果たしているのか判然とせず、実情としては各種議員さん達との単発的な(悪く言えば、その場限りの)懇談会等を続けているだけのように感じています。少なくとも、個別の陳情について、条例等であれ議会の決議等であれ、政策として実を結んだという話を聞いた記憶がありません。

また、岩手支部の過去の岩手県議さんとの懇談会では、関心をお持ちの議員さんが多いテーマ(震災対応、養育費など)を取り上げた際は、多くの質問等があって盛り上がったものの、その議論等が「その後に具体的な政策として生かされた」という話は存じません。

まして、多くの議員さん方に馴染みの薄いテーマ(ご自身の社会生活や議員活動で現に取り扱ったり接することが乏しい事柄。例えば、司法制度改革、刑事法制等)については、担当弁護士の資料に基づく説明を聴取等いただく以上のやりとりは無かったと思います。

所詮、相手(議員側)が強い関心を抱いているわけではない事柄の陳情(説明)ばかり繰り返しても、相手が関心のない(自分=話し手しか関心がない)話題で異性を口説こうとしているようなもので、上手くいくはずもありません。私が今回「内舘市長の政策を取り上げては」と話したのも、まずは聞き手が関心を持つテーマを懇談の対象とすべきでは(相手のニーズに適うサービスから始めるべきでは)と考えたからでした。

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また、弁政連のあるべき活動は、いわゆるロビー活動(ルール策定交渉)や「最近話題の法的論点」について政治家の方々と懇談等することに尽きるものではありません。

地方議会の主要な目的(活動原則)は、地方行政の運営者である首長及び自治体各部局に対し、適切な自治体運営がなされるよう監視や評価を行い働きかけることにありますが(盛岡市議会基本条例2条参照)、議会ないし各議員は、住民の代表者として選挙結果に基づく地域内の民意を適切に反映させる(民主主義)と共に、多数決の横暴・濫用にならぬよう、住民全員の権利擁護や福利(人権保障)も確保する(行政に確保させる)姿勢も強く求められている(それが憲法の地方自治制度に対する付託である)と言えます。

地方自治の本旨(憲法92条)は、団体自治(中央政府からの独立)と住民自治(民意反映)が強調されることが多いものの、根底には「多数決原理と人権保障の調整」という統治機構制度の全体に流れる基本思想を含んでいる=地方政治家はその担い手であることを銘じていただきたいと思います。

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そうであればこそ、地方政府の意思決定権者(首長及び地方議会議員)がご自身の職責を適切に果たすためには、人権保障の「もう一人の担い手」たる法律実務家(弁護士等)との協働(時には緊張関係)が不可欠なのであり、双方(地方政治家と地域内弁護士)は、様々な形で、「互いに関わる(刺激し合う)こと」が求められていると言えます。

米国では国会議員が議員立法などを行うため法律専門職たるスタッフを抱えることが珍しくないそうですが、それを直ちに模倣することは無理でも、例えば、市議会の委員会活動の充実化のため、弁護士会や個別弁護士に協力を求めること(そうしたものを通じて、日常的に業務上の関わりを持つこと)はあってよいはずです。

この機会を「単なる世間話と酒飲みの会」で終わらせないためにも、これを機に、皆さんの方から「よりよい市政のため、弁護士(会)にこうしたことをして(検討して)欲しい」と働きかけていただくことを、ぜひご検討下さい。

 

盛岡市議との懇談会と「弁政連のあるべき活動」に関する幻の意見書(第1回)

本日、弁政連岩手支部と、盛岡市議会の最大会派「盛友会」の議員の方々との懇談会があり、名ばかりですが支部の理事をしていることもあり、参加しました。

それに先立つ支部の会議で「内舘市長の公約や市政の課題に関し弁護士の観点から議論すべきことを取り上げることはできないか」と述べたところ、支部長の先生から、貴方が準備しなさいとの指示を受けたので、自分なりに考えたことをレジュメにまとめて用意しました。

が、当初から予定されていた他のテーマ(成年後見人の報酬助成等)のほか、直前に別のテーマが追加され、それらで時間切れだとの理由で、当方のレジュメ等には一切触れられることもなく、あたかも最初から存在しないものとして、終了が宣告されてしまいました。

私は、支部運営をされている他の同業の方々とは活動のあり方について多少異なる考え方を持っているほか、私よりも若い方々とは人間関係も希薄で疎遠になるばかりの有様で、その点も、そうした取り扱いに繋がったのかもしれません(心底嫌われているのかもしれませんが・・)。

ともあれ、いじめ被害だなどと嘆いても致し方ありませんし、もともと様々な方に考えていただきたいテーマでもありましたので、市議の方々にお伝えするのに代えて、こちらで掲載することとしました。

地方の弁護士と地方議会議員が関わりを持つ意味、或いは地方自治における民主主義(国民主権)と人権保障の実現・調整などという抽象的なテーマに関心のある方は、ご覧いただければ幸いです。

まあ、私にとっては日暮れて道遠しというほかなく、己の無力を嘆くばかりですが・・

今回は、レジュメ本文を載せ、第2回から第4回までは今回の末尾に資料1~資料3として表示(記載)した文章を載せることとしました。

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弁護士政治連盟・岩手支部 R05.11盛岡市議(盛友会)懇談会 担当資料
~弁護士と市議会議員との交流のあり方に関する考察と実践について~

文責 弁護士(弁政連岩手支部会員・理事) 小保内義和

はじめに(本稿の経緯及び趣旨について)

今回、盛友会(盛岡市議)の方々との懇談会を行うにあたり、どのようなテーマ(市議の皆さんへの陳情対象)を取り上げるべきか、支部理事会で協議がありました。

その際、会内で長年の課題になっている「成年後見人の無報酬事案に対する公的助成」(身寄りのない方への公的支援その他の必要性から後見申立がされ、弁護士等が後見人に選任されることになったが、被後見人が資産ゼロで僅かな年金又は生活保護費しか収入がなく、施設費や生活費等で完全に使い切ってしまうなど、後見人への報酬原資が全く無いため、後見人がタダ働きせざるを得ない=自営業者たる弁護士には本来は受任不能の事案について自治体に報酬相当額の助成を陳情したいという件)を取り上げるべきとの意見が出ました。そして、後見等に関する他の問題の説明等も含め、Y弁護士に担当いただくことになりました。

が、それ以外に、どのようなテーマを扱うべきか、さしたる意見が出ませんでしたので、当職から次のような意見を述べました。

「内舘市長の当選に伴い、新市長が従前と異なる新たな政策等を打ち出してくると見込まれるが、推進の立場であれ批判の立場であれ、掲げられた政策を実現する上で取り扱わなければならない(直面する)であろう法的課題を検討・協議することが、市議会議員と弁護士の懇談のテーマとして相応しいのではないか。

いずれの立場であれ、市長・市役所(行政側)が承認を求めてきた政策について、実現する上で直面するはずの課題を抽出し、賛同側であれば解決の道筋を立て市長・担当部局に提言したり、反対側であれば、解決困難な法的論点を確認・指摘し市長らに軌道修正を求めることが、市議会議員に求められる主要な役割の一つというべきである。

ゆえに、その前提(議員が職責を全うするための補佐)として、政策のうち法的な事柄について、課題の抽出や検討、提言(多数の住民にとって利害関心のある事柄についての法的シンクタンク機能)を担うこと(そして、それを議員側が活かすこと)が、弁政連=地元弁護士集団と地方議会議員との交流のあるべき姿ではなかろうか」

・・結論として、「だったら、お前がやれ」ということで、担当のお鉢が回ってきました(余計なことを言うんじゃなかった?)。

ただ、その後、テーマが追加(生活保護、再審)され、私の担当は「その他」=オマケ扱い(時間切れならカット)となったので、長講釈は不要であることが分かりました。

また、事前情報によれば、今回の懇談会は谷藤前市長の慰労会と重なり、議員の方々の多くが懇親会(宴会)の途中で退席なさるとのことで、他の方々の報告・懇談のあとは、むしろ、フリートーク的な場にした上で、議員の方々に弁護士(弁政連)に期待すること(自分達=市議会・市政のため汗をかいて欲しいと思っていること)などを自由に語っていただいた方が望ましい(ので、私が下らない話をベラベラ喋って時間を浪費しない方がよい)とも思われました。

また、私の知る限り、これまで「何のために我々(弁政連岩手支部)は地方議会議員の方々との交流の機会を求めているのか(地方政治家と地方の弁護士との関わりは何のためにあるのか、何を目指すべきなのか)」について、原点・本質に立ち返った協議等をしたことが無く、一度はそうしたことを整理してお伝えすべきではないかと思っていました。
 
そこで、私の担当時間(せいぜい10分程度?)は、これらに関する基本的な考えや、内舘市長の掲げた公約等について、私なり「弁護士の立場から見た感想」、或いは、この機会に議員の方々にお伝えした方が良いと考えたことなどをレポートにまとめて、手短に口頭でお伝えし、あとは、それを踏まえて、感想であれ、ご自身のお考えであれ、議員の方々に(とりわけ懇親会に不参加又は途中退席される予定の方を中心に)、自由にご発言いただくこととしました。

交流の実を結びますよう、積極的なご意見・ご発言をよろしくお願いいたします。

なお、申すまでもありませんが、今回のレポートは全て、私(小保内)個人の意見等を述べたもので、弁政連や岩手支部としての見解等では微塵もありません(内部で取り上げられることもないので、折角の機会を活用し、これまで思ってきたことを書いてみました、というのが実情ですので、関心のある方は、後ほどチラ見いただければ十分です)。

【添付資料】
1 日本弁護士政治連盟や弁政連岩手支部の「きほんのき」と実情・課題の考察
2 弁護士(ないし弁政連)と市町村議会議員の交流等のあり方に関する一考察
3 内舘市長の公約等に関するノンポリ無党派弁護士からの一考察(雑駁なもの)
4 当事務所ブログ集(今回に関わりのあるもの)
①上川あや氏(世田谷区議)の著作書評、②前回市長選の投票日直前に掲載した論考

(以下、次号)

 

盛岡市長選の勝敗を決した分岐点と、夢が叶えられていく光景の役割

前回も投稿した盛岡市長選は、3度目の挑戦となった内舘茂氏が谷藤市長を破って悲願の初当選を果たしましたが、今回の件は、ウイルス禍の最中に内舘さんが大通の居酒屋救済の弁当祭りを企画し盛り上がったことが節目になったと思っています。

当時、谷藤市長が住民や地元企業などのため何か特別な尽力をしているという報道等はなされておらず、盛岡市は全国でもワクチン接種が非常に遅れているとのニュースと相俟って、

住民等が困っているときに、助けようと汗をかいているのはどちらなのか

という点で明暗が分かれたことが、勝敗を分けた最大の要因ではというのが、さしあたっての感想です。

少なくとも、あの光景がなければ、この結果は絶対になかったと思います。

ただ、それだけで勝敗が決まるとは私も思ってはおらず、むしろ、最近はあまり市長選が盛り上がっていない(住民の関心が高くない)ように感じたので(事実、投票率は低かった)、多数の市議さんや伝統勢力の支持を擁する谷藤市長が優位なのではとの印象もあり、私自身は最後まで結果が予測できず、大きな票差が付いたことにも驚かされました。

1年ほど前、若い世代の同業者の方から

「内舘さんは(かつて市長選に何度も立候補して落選を繰り返し、得票率等から泡沫候補扱いとなっていた)Aさんのようなものでしょ」

と言われたことがあり、その認識は絶対に間違いだ、次はいい勝負になると思う、と少し気色ばんで反論したことがありました。

彼は谷藤市長の支持者だったのかもしれませんが、改めて、弁護士には選挙のことは分からないものだと痛感しました。

市議選も、当然に当選されると思っていた方(色々考えた末、結論として、私はその方に投票しています)が当選できなかったこともあり、選挙とは、実に恐ろしいものだと改めて思いました。

私は祖父が岩手県議を1期つとめたものの、2期目で落選し、関係者の落武者狩りと実家存続の危機がオマケで付いてきたので、「政治に関わるな」が亡父の家訓ですが、反面、少し離れた距離から政治に関わる方々を拝見等するのが好きで、政治学を勉強したくて政治学科に進み、才能さえあれば、大学の政治学の先生になりたかったという気持ちも少しだけありました。

谷藤陣営の支援者の方々の中にも、この方が出ていれば内舘市長は誕生できなかったのでは?と感じている方もおり、次回の選挙がどうなるのか分かりませんが、まずは、今回、内舘さんが行動で示されたように、現に困っている住民や地元企業などを支援するような地道な活動とPRにつとめていただければと思います。

ともあれ、県政最大の大物である谷藤市長と闘い続け艱難辛苦の末に当選された内舘新市長の偉業は、多くの市民・県民にとって、

「自分も(各自の夢について)やればできるかも」

という形で非常に分かりやすい希望を示したことは間違いありませんし、それは政治に携わるリーダーに最も求められていることの一つである(とりわけ、現在の日本社会では)ことは議論の余地がないと思います。

恥ずかしながら、18年前のJCご卒業時には

内舘さんは、将来、市長選に出たいのだろうと思うけど、かなり難しいのでは?

と感じていた「その他大勢」のJC関係者の1人として、不明を恥じ、内舘さんに心より祝意を申し上げ、新市政へのご尽力をお願いすると共に、当落に関係なく、恐ろしい世界に身を投じて民主政治を支えておられる全ての方に、改めて敬意と感謝を示したいと思います。

 

どっちつかずの私達は、明日の盛岡市長に何を求めて誰を選ぶか~無党派層のための羅針盤を目指して~

日曜に実施される盛岡市長選ですが、金曜の岩手日報に、谷藤・内舘両陣営とも支持が拮抗しており(日報の表現は「競っている」)で、有権者の4割が態度未定との記事が出ていました。

盛岡タイムズのWeb記事も概ね同旨と思われ、他の情報筋からの実感としても、かなりギリギリの?相当な激戦ではと思われます。

日報調査では、50代は内舘氏・20~30代は谷藤氏が優勢と述べられていました。

若い世代が現職優勢というのは、安倍首相と同じ現象(幼少時から在任していたので、見知らぬ新人より親近感を持つ)ではと感じましたが、ともあれ、記事からは40代の無党派層(私も?)の動向で決着すると言わんばかりですので、なおのこと一票の重みを感じて投票に行きたいと思います。

私自身は下記のとおり各陣営のご本人又は有力支援者の方と面識はあるものの、それ以上の関わりを持っていない完全無党派層(蚊帳の外とも言いますが)であり、そのような意味で「投票直前まで悩みたい人」の一人です。

というわけで、今回は、事実上の決定権を持つ無党派層の参考になるよう(投票率が少しでも上がるよう)、この件について少し書くこととします。

どちらかの応援演説の類ではなく、無党派=どっちつかず(どっちもつけず)の立場から、無党派層のための参考になればという形で書きます。

以下、候補者お二人を「谷藤市長」「内舘さん」と書きますが、現職には肩書を付して記載したいのと、内舘さんはJC在籍中にお世話になり面識があることが理由であり、それ以上の他意はありません。

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前置きとして、敢えて私自身と候補のお二人との接点(の有無)を書きます。

内舘さんは、私が盛岡JCに入会した平成17年に卒業された方(当時の肩書は、元理事長を指す「顧問」というものでした)で、当時、会員の1人として相応に親しくさせていただきましたが、その後は、JCやRC関係の行事でお会いする機会があればご挨拶する程度の関わりしかありません。

谷藤市長は、遠くから拝見した程度なら何度かありますが、面識はなくご挨拶できる機会にも恵まれず、相対して会話等した経験もありません。

いきさつは存じませんが、私が盛岡北RCに入会する以前からクラブの名誉会員となっているものの、私の入会後はクラブの例会等にいらしたことはないと思われ、その意味では内舘さんよりも遠い存在です。

反面、上記の理由から、私がRCで親しくさせていただいている方々は谷藤市長の支援者の方が多いと思われ、その点は、RCに限らずJC関係者でも、谷藤市長の支援者の方が多いのではとの印象を受けています。

内舘さんがこれまで出馬された過去の市長選の際、JCで同時代を過ごした「仲間」の方々は、ほとんど関わらなかったのではと思われますし、そのことと、従前、谷藤市長が自民系、内舘さんが野党系の候補者と目されてきたこととは、先後は分かりませんが、無関係ではないのだろうと思います。

ちなみに、お二人のどちらからも仕事をお世話(紹介等)いただいた経験は全くありません。

以下、本論です。

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今回の市長選ですが、報道等されている候補者お二人の言動から感じる限りでの対立構図は、敢えて失礼?な表現も一部用いれば、次のようなものと理解しています。

①谷藤市長に飽きたか(交代を求めるか)、継続を求めるか。長年の重鎮にお任せする安定の市政と、半素人の挑戦者による混乱リスクも覚悟する市政のどちらを求めるか。

②有産階級が推戴する市長と無産階級が推戴する市長のどちらを求めるか。今の暮らしに概ね満足・幸せか、閉塞感・生きづらさ等を感じるか

③税金の使い道はインフラ整備重視か、個人(ヒト)への給付・補助重視か

wikiなどを見れば、谷藤市長が平成15年の就任時に「それまで危機に瀕していた盛岡市の財政に大鉈を振るい(緊縮財政や市庁舎移転凍結など支出削減)、財政状況を改善させた」ことが詳述されており、恐らく、それは大筋として正しいのだろうと思います。

少なくとも、この十数年、盛岡で巨額の市費を投じた(が維持費で火の車になっている)残念施設ができたとか、バラマキ行政をしているという類の話は聞いたことがありません。

私は、行政(政治家)が無駄な公共事業や利権絡みのバラマキ政策で巨額の債務を作って将来の世代にツケを強いる類の話が大嫌いで、カネの無駄遣いをせず役所の財政を健全にする政治家は、そうでない方より遙かに良いと思っていますので、その意味では谷藤市政に不満はなく、大筋で良い仕事をしていただいたのだろうと思っています。

ただ、私は平成16年10月に盛岡に戻ってきましたが、当時から現在まで、

谷藤市長が財政を大幅改善させ、市民を危機から救った

などという報道を見た記憶が全くありません。ですので、谷藤陣営がこの点を強調されているのをFBなどで拝見しても、ピンと来ないというのが実感としてはあります。

それが、善政の報道・宣伝を怠った地元メディア等のせいなのか、それとも上記の「谷藤市政の説明」自体に不正確な部分があるのか、私には分かりません。

ともあれ、市長ご就任間もない頃から現在まで盛岡に在住してきたフツーの住民の立場からは、谷藤市政に対しては

殊更、悪政だとは思わないが、善政なのかもよく分からない。この間、盛南開発は進んだと思うが、その当否も一概に判断しにくい。他の地区はあまり代わり映えを感じない(それが無為無策か税金節約なのかもよく分からない)、市長はあまり身近に感じないし、市民への血の通ったメッセージ発信を感じたこともほとんどない(が、それが問題なのか否かもよく分からない)、そのような意味で、市長がどのようなリーダーシップを市政に発揮されているのかも、よくわからない(市政は安定しているので、まとめ上手なのだろうけれど、それを発揮している姿が見えない・伝わらず、善し悪しも判断できない)

というのが正直なところで、そういう意味で、谷藤市政を殊更否定したいとは思わないものの、何らかの飽き(退屈さ、或いは距離の遠さ)を感じていないといったら嘘になると思っています(それは、市長だけでなく市議会・市役所を含む市政全般に言えることなのでしょうが)。

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他方、内舘さんは(パンフ等に書かれているとおり)JC卒業直後(40歳頃)に一旦、家業を離れ?建設会社を起業し(具体的な事情は何も存じません)、相応の成功を収めた後、市長選の挑戦を続けてこられた方ですが、この間、市議など市政運営に従事された経験はないと思われ、そのような意味では、

政治的にはほとんど素人

と言って良いのではと思われますし、市役所のような大組織の運営に関与された経験もさほど無いのだろうと思います。

市議選がどうなるかは分かりませんが、概ね従前どおりの勢力図になるのであれば、谷藤市長支持派が多数になるのでしょうから、内舘市長誕生となれば、議会との対立や混乱という展開が生じる可能性は相応に高いのではと予測されます。

少なくとも、今回の市長選で内舘さんと連動する「内舘派市議候補」なるものはほとんど聞いたことがなく、市長選後に相応の会派がありうるのだとしても、まずは「ねじれ」になる可能性が濃厚と考えます。

当然、市民のカネを使う政策の多くは議会の承認がない限り無理ですから、議会で多数派を形成できない限り、目玉公約の幾つかは実現できないことになるでしょうし、多数派形成のための寝技的なことに内舘さんが長けているとは、失礼ながらあまり思えません(それは内舘さんの魅力でもあるというべきでしょうが)。

ですので、市政の混乱や停滞を望まない(現路線を粛々と続けて欲しい)方は、谷藤市長に投票するのでしょうし、多少の混乱が生じたとしても市政に新たな風を吹かせたい(或いは、多少の混乱自体を期待したい)という方は、内舘さんに投票するのだと思います。

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また、今回の市長選が接戦となった(そのように報道された)のは、谷藤市長の多選・高齢批判(仕事自体への批判はあまり聞きません)や膨大な辻立ちと大通弁当企画で内舘さんが知名度を上げたことなどもさることながら

現在の物価高などによる生活苦や格差拡大

が、どうしても現職にはマイナスになりやすく、とりわけ、市内でも有数の名門資産家(一族)と理解されている谷藤市長は、そのような状況下では投票面で不利になる(対立候補が批判票の受皿になる)面は否めない思います。

私の仕事の関係でも、例えば、かつて膨大に受任していた債務整理の依頼者の方々の多くは、月収20万円以上(世帯で30万円以上)の方が多かったのですが、ここ5~10年ほどは、依頼者のかなりの割合が、生活保護受給者や低所得者の方ばかりとなり(当然、自己破産であり、中には50万円未満の債務しかないものの、返済の目処がなく破産するほかない方も珍しくありません)、また、メンタル面に何らかの問題を抱えている(ので、それに起因し低所得化等せざるを得なくなる)方の割合も増えている印象が否めません。

もちろん、それ(貧困や格差の拡大等)が谷藤市長のせいでないことは議論の余地がありませんが、そうした方にとっては(米国の貧困層がよく言われるように投票に行かない方も多いのでしょうが)、投票に赴くのであれば、投票行動が谷藤市長のような方への批判票(嫉妬票?)になりやすい面は否めないと思います。

他方、まがりなりにも現在の生活に相応の満足や希望を持って暮らしている方にとっては、谷藤市長は地方の成功者の鑑(目指すべき目標)といってよい存在であり、続投を希望される限りは支持する(引きずり下ろしたいとは思わない、対立候補は快く思わない)方向になりやすいと思います。

冒頭の日報記事には、太田・本宮・玉山地区が谷藤市長、松園・上田・中野地区は内舘さんを支持する住民が多い、と述べられていました。

太田・本宮は盛南開発の中心部であり、開発で潤った方もいるのかもしれませんが、新たに住宅を建てるなどして転居した方も多く、その方々は、新しく切り拓かれた街と共にご自身の明るい未来を感じているはずで、盛南開発の推進者でもある谷藤市長に支持が集まりやすいのだと思います。

他方、松園は、ニュータウン住民の高齢化等による課題先進地などと言われることが多く、中野も(内舘さんの膝元でもありますが)松園に似た昔々に開発された郊外で、課題状況は松園に似ているように思われ、お叱りを恐れずに言えば、

ラストベルト的な色合いを帯びている地域が、現職批判票として内舘さんに廻っているのでは、

という印象を受けます。

その意味で、今回の市長選は現在の盛岡が「(経済的に)豊かなまちか、そうでないか」を推し量るリトマス紙という面も持ちうるのかもしれません。

盛南地区や玉山は「合併の対価」として様々な公共事業が行われたと聞いたこともありますので、より多くの税金が投じられた地域とそうでない地域で支持が分かれただけの話かもしれませんが。

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内舘さんは(JC理事長などを歴任されていますので相応の資産等をお持ちなのでしょうが)谷藤市長に比べれば、色々な意味で「大物」とは言い難く、言い換えれば、名実ともに挑戦者と呼ぶに相応しいと言えます。

ですので「ジャイアント・キリングの物語を見たい」という住民からは支持を受けやすいことは確かだと思います。

18年前=JC卒業時の内舘さんは、JCに集まってくる、将来の地域のリーダー候補生達の1人という印象で、失礼ながら、同世代の仲間内の方々から、自分達を代表する傑出したリーダーだと目されていたわけでもないと感じています。

他方、配布物や各種メディア等で拝見する現在の内舘さんの顔立ちは、当時と比べて全然違う、僭越ながら、とても精悍な顔立ちになったと思います。

もちろん、政治は顔(だけ)でするものではありませんし、現時点での政治家としての力量(市政への全般的な視野云々)では、谷藤市長の方に遙かに軍配があがると見るべきでしょうが、それでも、政治に物語性を求める方にとっては、今回の選挙は、内舘さんに入れてみたいと感じる面はあるかもしれません。

反面、谷藤陣営の方々からは

政治はおとぎ話じゃない、地域で様々な役割を受け持った人達の地道な努力で築かれているもので、谷藤市政(支援者である自分達)はそれを長年積み重ねてきたのだ、それを軽々しく考えるな

ということになるのでしょうし、それもまた大きな重みがあることは間違いありません。

ともあれ、FBなどで、両陣営の方々がご本人を取り巻いて撮影している写真を拝見していますが、谷藤市長を取り巻く方々は、それこそ数世代に亘り盛岡の街を支えてきた「まちの重鎮」や、現在、市内の社会経済を様々な形で支えている経営者の方などが多く含まれているように感じました。

他方、内舘さんを取り巻く方々は(著名映画監督さんと、盛岡市民ではない某さんだけは一目で分かりましたが)JC関係者もあまりお見かけせず、私は全く存じない(JCやRCなどで拝見したことがない)方が多いように感じました。

それ自体の当否を論じたいわけではありませんが、そうしたものを見ても、

谷藤市長の続投なら、長年まちを支えてきた人々が、引き続きその役割を担って安定した(悪く言えば、変わらない)まちづくりがなされるのであろうし、内舘さんの勝利なら、そうした方々の協力が得られない(得られにくい)という意味でも、色々と混乱や頓挫・停滞などが生じるのかもしれない、反面、もし内舘さん達がその苦難を乗り越えることができれば、全く新しいまちの可能性が見えてくることもあるのかもしれない、とも思います。

その意味でも、谷藤市長と内舘さんの対決は、ご本人が望むと望まざるとに関わらず、

プロが運営する安定の盛岡か、素人が挑む盛岡の変革か

という面があることは確かなのだろうと思います。

そのため、内舘さん陣営に「変革の実現を現実に支える政策や実務のプロ集団」がいれば良いのではと思いますが、そうした方がいるのか選挙運動を拝見した限りではよく分かりません。悪く言えば、辻立ち等の運動を皆で頑張りましたねと励まし合っているだけのようにも見えます。

その点は、政治や政策はきちんとしたプロが行うべきものだと思っている方から見れば、怖くて投票できないと感じさせる面はあると思いますし、仮に、内舘さんが勝利するのであれば、この点を重大な課題として取り組んでいただきたいと思います。

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ところで、ここまで、公約の比較検討などを何も行ってきませんでした。

この点は、細かい話をする意味はあまりないのではと思っていますが(本稿をご覧になるエネルギーのある方なら、多少はご自身で比較検討されているでしょうし、市政の細かい様々な課題に関しては谷藤市長のサイト等の方が現実的かつ詳細で、内舘さんの公約等には実現可能性や実施する意義に疑問を感じるものも幾つかあると思っていますが、現職と新人の対決は、往々にしてそのようなものでしょう)、全体として、

谷藤市長は、割とインフラ整備を重視するのに対し、内舘さんは、割と個人(ヒト)への給付・補助を重視している

と思います。

例えば、前者が新興住宅地たる郊外地域への鉄道新駅整備を強調しているのに対し、後者が奨学金や高齢者・小規模事業者・起業者向けの各種支援を強調しているのが、その例ではと思います。

そのこと(インフラ重視かヒト重視か)は、往年の自民対民主の対決を見ているようであり、それこそ「民主党嫌い」の方にとっては、華々しい公約を多数掲げてほとんど実行できず短期間で混乱・失墜した鳩山由紀夫政権の影を、内舘さんに感じる面はあると思います。

そのリスクを忌避するか、敢えてリスクを求めるか、全て有権者次第ですが。

あまりにも長文になったので、そろそろ止めますが、前任の桑島市長のwikiを拝見したところ、谷藤市長の初当選時=平成15年のご年齢が53歳で、桑島市長が71歳であり、これは、現在の谷藤市長・内舘さんの年齢と酷似していることが分かりました。

だから同じ結果になるとは全く言えません(思いません)が、個人的には興味深い現象だと感じました。

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また、今回の選挙を通じて改めて残念に感じたことは、

地方には、中央政治(国)におけるマスメディアのような、地元行政・地域政治の様々な論点(公約検証などを含む)を掘り起こして発信し住民の議論等を呼びかける地域メディアがなく、Web等を通じて、そのような試みをしようとする人もほとんどいない

という点です。

私がJCで真面目に活動していた時期は、首長の公約検証という話が流行しており、私もお手伝いしたこともありますが、そうした話が根付くことはなく、何年も前に潰えてしまいました。

私も、膨大な時間を投じて作成したレポートが、マニフェスト検証大会にお越しいただいた某知事に「ご苦労さん」の一言で片付けられ、残念な思いをしたこともありますので、他人に無理に勧めたいとは思いません。

が、例えば、谷藤市政に関しても、ウイルス禍の最中に

盛岡は全国の自治体でも、ワクチン接種の連絡(導入)が非常に遅れた

ことがあったはずで、そうしたことについて、検証等があっても良かったのではと残念に感じています。

ともあれ、色々なことを書きましたが、地方自治こそ民主政治(国民主権)の礎だと大学の憲法学で学んだ身としては、こうしたことも参考にしていただき、明日の投票に限らず、各人がそれぞれの持ち場で担っておられる地域社会の運営に活かしていただければ幸いです。

 

 

憲法記念日が来るたび、万物の尊厳を掲げる憲法を願って

本日は憲法記念日です。憲法のおかげで司法試験に合格できた私に限らず、皆さんも憲法について何か考えていただければと思っています。

平成後期から現在まで10年以上、世論調査では「憲法改正を経験してみたいが自民党案は支持しない」という状態が続いています。

現下の厳しい国際情勢から、自民党案(自衛隊や緊急事態条項)を諦めのように?受容する比率も増えたようにも見えますが、国民が積極的に望んでいるものとは到底言えず、安全保障であれ災害対策であれ、憲法ではなくまずは個別の政策や政治家等の努力での善処を期待するのが国民世論かと思います。

言い換えれば、国民が歓迎・希望し世界に誇れるような憲法改正案は、今も国民世論には示されていません。

私は、5年ほど前から「憲法の頂点である『尊厳』は、人類(憲法13条)だけのものではない、人にあらざる存在にも個々の特性に応じた尊厳が守られるべきとの規定(万物の尊厳。憲法13条の2)を創設すべきだ」と考え、1年前に述べたものをはじめ、時折、それに関する投稿をしています。

いつの日か、国民世論に改正案を呼びかける書籍を出版したいと思いつつ、毎年のように、今年も余力ありませんでしたと書く有様が続いてはいますが。

過去に何度も書いていますが、日本国憲法が辿った歴史に照らせば、我々が最初に経験すべき憲法改正は、

・日本や世界が希求すべきであるのに現行憲法には定められていない価値に関するものであること

・日本人や日本社会が辿った長い道のりに照らしても、違和感のない価値を掲げるものであること

・判例実務の単なる追認であるとか戦争の備えのような後ろ向きのものではなく、国民や世界人類に向かって日本がよりよい社会を築こうとする姿勢を表明するものであること

言い換えれば、皆が『いいね!』と歓迎し祝福できるような前向きな規定こそが最初に行われるべき憲法改正であり、それを実現するのが、曲がりなりにも戦争を経験せずに済む幸福な時代を生きることができた、我々の責務ではと思っています。

そして、現在の人類が置かれた状況や日本(列島)の歴史風土等に照らしても、万物の尊厳こそが、この付託に応えうる改正案だと確信しています。

宮澤賢治の言葉を殊更に真似ずとも、人類の幸福もまた万物の尊厳のもとでしか成り立たないというのは自明なのですから。

当方は限られた受任費用で膨大な作業を余儀なくされる仕事ばかりが続き、書籍出版など夢のまた夢となっていますが、この言葉を、日本そして世界に、いつの日か広く伝えることができればと願っています。

ガーシー議員問題で関係者に責任を取らせたい人が希望する法律案について、憲法適合性を論ぜよ

NHK党のガーシー議員問題については、いよいよ参議院で謝罪文読み上げ等を求める懲罰決議がされ、恐らくは不履行→除名決議という展開が濃厚になっています。
ガーシー議員の処分 3番目に重い「議場での陳謝」で決定 参院 | NHK | 参院選

この問題を巡っては「除名だけでは不十分だ、歳費を返納等させるべきだ」「NHK党や、投票した者の責任も問われるべきだ」という声がマスコミやWeb上を賑わせていますが、「ここまでやれば再発防止に繋がるのでは」と思わせるような具体的な提案(制裁案?)は拝見していません。

私は、こんな議員が誕生すること自体、国会(立法府)の様々な機能不全や政治不信が底流にあり、その解決(究極的には政治部門の憲法改正等?)こそが必要ではと思っているので、モンダイ議員個人の制裁にはさほど関心がないというのが正直なところです。

ただ、徹底した責任追及を求めるのであれば、どのような制度が考えうるのか・憲法上どこまで許されるか、という思考実験自体は関心が湧いたので、半ば戯言感覚で、次のような法律案?を考えてみました。

どうせなら、どこかのホンモノの政党で、真面目に検討いただいても良いかもしれません。

それ以前に、この御仁への投票のような「あらぬ方向」に陥らぬよう、真っ当な方法で庶民の政治不信を受け止め政治作用や諸制度の改善に活かしていく営みが、政治家にも国民にも求められているとは思いますが・・

【次年度司法試験・憲法予想問題集より】

国会への欠席を続けるG議員問題に対する国民の非難を受けて、国会に以下の内容を含む法律案が提出され、可決の見込みとなっている。以下の法律案に関する憲法上の問題について論じなさい。

(1) 各議院は、懲罰の対象となった議員を除名(憲法58条2項)する際、併せて、過去に支給した歳費の全部又は一部の返納を求めると共に、相当額の過料(秩序罰)の支払を命ずることができる。これらの金員には年利14.6%の延滞税を付すものとする。

(2) 対象議員が比例代表制により選出されているときは、前項の決議の際に、前項の支払を担保するため、選挙実施時の対象議員の所属政党及び選挙時の党代表者個人にも連帯支払責任を課すことができる。この場合、その履行がなければ今後の政党交付金から相殺できるものとする。

(3) 前項(比例代表)の場合には、各議院は第1項の決議にあたり、除名後に所属政党から繰上当選するのは不可とし、次回選挙まで欠員を続けるものとすることができる。

(4) 対象議員が除名決議に先立ち議員辞職した場合において、その議員が本条に定める処分を免れる目的で不相当な時期に辞職したと認めたときは、各議院は、対象議員及び政党などに対し、除名決議と同じ要件で本条に定めるものと同様の措置を講ずることができる。

(5) 各議院は、第1項の決議にあたり、選挙管理委員会に対し、対象議員を選出した選挙に関する各投票所での当該議員(選挙区)又は当該政党(比例代表)の得票率を公表すると共に、国に対し、特に得票率の高い地域には地方交付金の配分を減少させるなど、当該地域への施策に一定の考慮を行うよう求めることができる。

なお、本項については、附帯決議に「除名対象になることが当初から見込まれる候補者について投票した者の責任も問うべきだとの国民の強い声が寄せられたこと、他方、投票者を調査・特定し個人に不利益を課す制度が憲法では認められないことも踏まえ、許容される限界的な制度として、得票率の多い地域への一定の不利益措置を講ずるのが相当と判断したことに基づく」と記載されている。

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参考答案は、オボ塾刊行の「受験虚報」次回号に掲載予定・・・かも。

 

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第4回)

安倍首相の国葬について、前例との違いや天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の最終回であり、今回の国葬実施の背景に天皇制(現行憲法スキーム)の存続に関する国民の不安があり、それがオルタナティブな権威の渇望という形で具現化されたのでは、という仮説を述べて締めくくっています。

5 それでも今回、国葬が大過なく実施できた、もう一つの理由

今回、国葬が決定された理由は、死去直後には衝撃的な事件内容を理由に、自民党・政権中枢や支持者からの強い希望があり、その時点では統一教会を巡る一連の問題への世論の批判もさほど大きくなく、国民の支持が得られると岸田首相が判断したためとされています。

そして、その後、統一教会問題を巡る膨大な報道を通じて批判・反対の声が強くなりましたが、国民的な反対運動や倒閣運動などが生じることはなく、国葬の実施後、国民の関心も急速に萎んだと思います。

要するに、国民一般の多数派は「安倍首相への哀悼自体は当然でも、今回の件で国葬をするのは違和感あり」と感じつつ、「それは国家・国民への重大な背信とまでは言えない(政治家が行う数多の失策?の一つに過ぎない)」という感覚なのだろうと思います。

ただ、相応の反対の声が出た一方で、つつがなく国葬が行われ、批判の声が続いているわけでもない、という現象を見ると、国民の多くは、国葬に違和感を持ちつつも、敢えて、それを許容せざるを得ない理由・事情も感じているのではないか、という気もするのです。

それも、安倍政権への評価や統一協会問題などという、今回だけの、誤解を恐れずに言えば表層的な話だけではなく、国葬という儀式・制度・システムの本質に関わる問題として、天皇以外の存在への国葬を模索せざるを得ないと感じる国民が一定程度存在するのではないか、そのことが違和感を感じながらも今回の国葬を国民が受け入れたもう一つの理由なのではないか、というのが本項の主題です。

すなわち、皇室の権威力(国民統合を実現する力)が以前より弱まり、天皇家・天皇制自体の継続の危機すらも語られるようになった社会で、国民の側も、国体存続への不安から天皇に代わりうる国民統合の象徴的存在(大統領など)を無意識下?で模索する希望があるのではないか、そのことも、本来なら国葬の対象にならなかったかもしれない安倍首相を「国葬される地位」=権威的存在に押し上げた理由の一つではないか、というのが私の見解です。

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既述のとおり、国葬には、対象者を特別な存在・みだりに批判すべきでない偉い存在として祀るための儀式・装置たる機能があります。戦前のような「軍神○○神社」が創建されるかはともかく、被葬者は一般の国民とは違う特別な存在(身分)なのだと位置づける機能があることは否定し難いはずです。

それは、本来の対象者たる天皇が、まさに特別な存在(現人神=神の依代)だと認識されていることに基づくもので、日本では、上記3=連載第2回の第2・第3類型としての国葬は、本来は天皇に対して行われる儀式(第1類型たる国葬)に連なる儀式を特別に付与するもので、いわば、天皇が独占する国家の権威を多少とも対象者に分けてあげるような性質を持つと言えます(だからこそ、国葬の濫用は、天皇に専属する国家の権威の濫用に該当することになります)。

ただ、肝心の天皇の権威(国民の統合力)そのものが低下した場合はどうか。

国家(という人民の統合装置)を存続させるために、天皇の代わりになる新たな権威(統合の象徴的存在)を求める動きが生じるはずであり、すでにそれは「現行天皇家が皇統を引き継げなくなった場合の旧皇族の皇籍復帰(養子ほか)の議論」などの形で、すでに始まっていると言えます。

今上天皇陛下の人徳や権威力(国民統合の力)に対し疑義を挟む国民はほとんどいないでしょうが、次世代の天皇家はどうなってしまうのだろう、という不安もまた、女性・女系天皇などを巡る議論の賛否に関係なく、多くの国民が感じていることは否定できないでしょう。

今上天皇の即位式の実況中継を拝見した際、天皇とは現人神(神の依代)であり、敢えて誤解を恐れずに言えば人柱でもあるのだろうと、神々しさと気の毒さを強く感じましたが、日本国民が、そのような存在としての天皇を必要としなくなる(天皇に頼らなくとも国家としてやっていける)には、まだ数百年以上の時間を必要とするのでは?と感じないでもありません。

私自身は、天皇承継などを巡る議論に関しては、現行天皇家(現皇室一門)の方々の気持ちや尊厳がなるべく尊重されるべきとのスタンスですが、ともあれ、仮に、現皇室一門で天皇制を維持することが困難となり皇籍離脱した旧皇族が養子などの方法で新たな天皇・皇族を形成する展開になった場合には、果たしてその方々が「国民統合の象徴」の認知を国民から受けることができるか等、天皇制ひいては国家体制の存続に重大な危機が生じることは間違いありません。

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仮に、天皇制が継続できないのであれば(天皇の担い手が現れず、或いは旧皇族を含めた一族全体が国家運営からの総撤退を希望する事態になれば)、大統領制などの検討もしなければならないのでしょうが、それこそ二千年も続いた国家体制の抜本的変更になり、国民的議論などという生易しいものではない、長期内乱や国家消滅(他国併呑)なども含む、凄まじいリスクが避けて通れないでしょう。

そのため、これからの数十年間の日本では、大きな変化・動きが生じるのに先立ち、天皇など権威部門(国民統合部門)に関する、幾つかの実験的な試みが生じるかもしれないと感じています。

大統領制はさておき、例えば、首相公選制に関する議論は復活するかもしれませんし、議院内閣制や国会など統治機構の主要部門も、一定の影響を受けて改革すべきとの議論も力を持ちそうな気もします。

今回の安倍首相の事件で、国葬の議論を最初に目にしたとき私が抱いた感想は「国葬って大統領に対して行うもんじゃないのか、それって天皇制をとる日本では大丈夫なのか」というものでした。

安倍首相に「国葬」という儀式が選ばれたのは、或いは、現皇室(天皇制も?)終焉の可能性を人々が感じているから、それに代わる権威を求める国家・国民の不安感や依存心が、安倍首相の国葬(国家の威光を用いた顕彰)へと人々(支持者)を駆り立てた面もあるのでは(今回の国葬は、ある種の実験だったのでは)と述べたら、それは言い過ぎでしょうか。

私は、生前の安倍首相を一部の「ネトウヨ」などが礼賛する光景は彼らの政治家への依存心のようなもので、それを引き受けていた安倍首相・自民党側にも共依存のような関係性があると感じていました。

が、国家(人民統合装置)自体への依存心は、天皇であれ五輪やW杯などの類であれ、私を含む他の人々も、さほど違いはないのかもしれません。

6 天皇制(権威・権力分立社会)の終わりの始まりか、再構築の入口か

安倍首相の「国葬」は、最高権力者であった同氏に国家による権威を付与するという意味で、あたかも大統領に祭り上げるような面があります。皇室の藩屏という役割がなくなった戦後日本では、なおのこと、国葬を通じた有力政治家の権威化は大統領制に通じる道というニュアンスを帯びそうな気がします。

権威と権力を分立する社会を望むなら、権力者の権威化は避ける(天皇の名のもとですらない国葬はしない)のでしょうし、権威と権力が一体化となる社会(戦前日本や大統領制)では、権力者の権威化(それに国民が信服し統合=団結させる)装置としての国葬は活用されやすい、と言えます。

このような「権威と権力を分立させる社会・させない社会」という視点で今回の国葬問題を語る視点・議論は、あって良いのではと思います。

ともあれ「国葬とは原則として天皇にしか許されないというのが戦後日本人の感覚ではないか」との私の見解(推論)からは、有力政治家の国葬が多用され、それを国民が支持するようになった場合、天皇に専属していたはずの国家の権威者たる地位が分散・分属されるようになり、やがて天皇制の終焉(国民が天皇を必要としない社会)にも繋がりうるのではないか、という印象を受けます。

別な観点で言えば、現行皇室の(男系?)血筋が存続できず、国民が直ちに権威を認めることが難しいかもしれない皇籍離脱者などが「新たな天皇家」になった場合、国民は、有力な首相などを天皇(国民統合の象徴)の代替として権威化しようと欲するのではと思いますし、その傾向が強くなると、やがて国家組織(国民統合装置)としての天皇制の不要論に行き着くこともありうるように思います。

そして、象徴天皇を奉じつつ有力政治家などにも国家存立・統合のシンボルとしての権威性を認めていく社会になれば、それは権威の分属・分立であり、それこそ内乱の火種になるか、そうでなくとも日本の国家制度・統治機構のあり方を大きく変える端緒になりうるような気がします。

日本国は、天皇のもと権威と権力が分立する社会を続けるのか、続けることができるのか。それとも、双方の分立(役割分担)を定めた天皇制を廃し、国家の権威と権力の双方を具有する大統領を国民の支持などにより擁立する社会に切り替えるのか。

それとも、第三の道があるのか。それは良好な道か、悲惨な道か。

今回の安倍首相の国葬は、いつの日か、そのプロローグとして歴史家に語られる日もあるかもしれません。