北奥法律事務所

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川柳

旗揚げの聖地で勝ちどきを願って

昨年末の話です。

私は駆け出しのイソ弁時代、大田区北部に住んでおり、自転車で行ける範囲の距離に洗足池がありましたが、諸事に追われ赴くことができずに終わってしまいました。

というわけで、20年前に行き損ねた近所の名所にようやく訪れ、余計なことも考えつつ一句

洗足池 ボクの専属どこへやら
風と雲 鏡に映す 先祖供養

洗足池には、源義家にゆかりがある千束八幡神社がありました。昨年は大河ドラマの関係で「武衛」が流行語になりましたが、佐藤浩市氏は「炎立つ」で源義家を演じていました。

旗揚げは今も昔も千束で

敷地内の神社の説明によれば、千束は、源平合戦の華の一つ、宇治川の先陣争い(名馬・池月と磨墨の物語)と深い繋がりがあるのだそうです(引用した、個人の方?のブログを参照)。
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/ikeduki-douzou/
https://www.yoritomo-japan.com/ikegami/senzoku-ikeduki.htm

年の瀬に勝ちどき願う池の月

ともあれ、今も昔も老いも若きも、何かと戦わなければならない社会ですが、お互い己にだけは負けないよう頑張っていきたいものです。

(R06.03追伸)

先日、とても喜ばしい知らせがありました。戦勝祈願の御利益をお求めの方は、千束八幡神社へぜひ。

建長寺には登山もリスもござんすよ

前回(日帰り出張に伴う北鎌倉プチ周遊編)の続きです

円覚寺を出た後、道沿いを歩いて建長寺に向かいました。

道路の反対側から、北鎌倉駅に向かう鎌倉学園(建長寺に隣接する学校で、桑田佳祐氏と堺正章氏の母校)の沢山の生徒さん達が下校してきたので、重い鞄を抱えた身で細い路地で何度もすれ違わなければならない羽目になりました。

ともあれ、その末にようやく建長寺に辿り着いた後、堺氏が若い頃に活躍された西遊記、そして仏道に人生を捧げた三蔵法師を演じられた不世出の女優さんのことなども思い出して一句。

堅調なみちに花咲く建長寺
サザンカにナツメを偲ぶ孫悟空

建長寺は蘭渓道隆により開山された鎌倉五山第一位の寺院です。

建長寺は鎌倉五山の筆頭に相応しい壮麗な仏殿を備えています。

釈迦苦行像。
思春期はシャキャも痩せたいバラモンで(某漫画より)。

建長寺は、総門や山門、仏殿、法堂、庫裏などが一直線に並んで建築されており、中国で成立した禅宗の本来の建築様式とのことですが、初めて見る者には、まるで艦隊が連なるような奇妙で不思議な印象を受けます。

私は平成11年の夏に中国に旅行したことがありますが、一直線に巨大宮殿が次々と現れる紫禁城の光景に似ているように感じました。

詳細は存じませんが、中国には建物を一直線に建築するのを好む文化ないし思想があるのかもしれません。

この寺院の敷地をはじめ、北鎌倉一帯が谷間の細長い土地なので、一直線に建物を建てることに馴染みやすいのでしょうが。

ちなみに円覚寺には「一直線感」はなく、むしろ谷の両側に建物群がへばりついている印象を受けましたが、創建時は建長寺と同様に一直線状になっていたそうです。

**

建物群の最後のあたりで、お江の方の廟所に用いられていたという壮麗なる門扉がありました。というわけで、大河ドラマで活躍された若き日の樹里氏が奏でる一句。

唐モンでジャズの代わりに数珠やるべ。


その後、まだ残された時間があるということで、寺院の裏の「奥の院」的なエリアを目指すことにしました。

沢山の階段を上らなければならず、疲労の末に一句。

登山やな北鎌倉の半僧坊

鎌倉市街を見下ろす光景は、旅に達成感や稀少体験を求める方に、至上のよろこびを与えてくれるでしょう。

ここを目指す方は、間違っても、ノートPCや使いもしない勉強道具(判例雑誌など)を大量に入れた鞄などの重い荷物を持つことなく、軽装でいらして下さい。

下山中に、よい子の皆さんを癒やすひとときを授かり一句。

五山にはリスもおいででござんすよ

かくして建長寺をあとにし、そのまま徒歩で鎌倉駅に向かいました。

裏側から立ち寄った夕暮れの八幡宮は平日おデートの皆さんがウジャウジャしていたのでツルッとスルーし、そのまま「おまけ」を経て新幹線ギリギリの時間でしたが、東京駅で猛ダッシュし、どうにか、遅れずに帰宅できました。

***

以下、おまけ。

夕方に鎌倉駅前に辿り着いたので、某愛読者のクレームを覚悟しつつ、久方ぶりに孤食の居酒屋放浪記をすることにしました。

隣のボックスに耳障りなしゃべり口調のあんちゃんがいて、

「俺は弁護士ではないが本人訴訟の達人だ、少額訴訟ならお手のものだ」

云々と、同席者に自慢げに話し、交通事故?とか個別分野でも講釈を初める声が延々と聞こえてきたので、

隣にホンモノの弁護士がいるんだけど・・・

と言いに行きたい衝動に少しだけかられました。

が、急がないと新幹線に間に合わないこともあり、半ば耳を塞ぎつつ、日本でここでしか食べられない?黒酢黒ゴマ蕎麦と三浦半島名物の三崎マグロの輪切りテールオーブン焼き、そして特雌鳥の炭火焼きと鎌倉ビールを、大変美味しゅういただいて帰りました

次は、できれば一人ではなく一緒に食事を楽しめる方と来たいものです。

 

大船観音と円覚寺にて菩薩のご縁を祈願するの記

半年前の話で恐縮ですが、仕事で神奈川県に出張でき(日帰りですが)、折角の機会ということで前後の時間に近隣の寺院を見に行きました。年末年始にも鎌倉に日帰りで行きましたが、大河ドラマ効果?か、神奈川へのご縁が続いています。
マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(前編) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

まずは、東海道線からもよく見える大船観音にて、21年ぶりの機会を大観音に感謝しつつ更なる御利益を祈願して一首

大船に乗ったつもりで気がつけば 菩薩足りぬと南無阿弥陀仏

観音様というのは「世を観て」救う存在だそうですが、当方も社会の様々な問題の解決に関わりつつ、今なお修行僧というのが実情のようです。

幾とせも世を観て聞いて働けど なお苦しめと今も悶える

大船観音は、昭和初期に世相浄化と観音思想の普及を目的に着工されたものの、ほどなく中断され、大戦後の昭和30年代に再開・落慶され、戦没者の鎮魂と世界平和を祈って建立されたという経緯を辿ったようです。

ともあれ、観音像自体は、半身のみ地面から生えてきたような特異な容姿をしており、

戦災の涙を吸うた白筍が 平和願いて生え聳えたり

と形容するに相応しいのかもしれません。

***

その後、出張仕事を無事済ませ、北鎌倉の名刹に辿り着いて一句。

良き人に縁が来ればと円覚寺

国宝・円覚寺舎利殿は入口が閉じられ、普段は近づけないようです。全容を知りたい方は横浜市中心部の歴史博物館へどうぞ。

次に、北条時宗の廟所とされる佛日庵を訪ねました。円覚寺は、北条時宗が南宋の高僧・無学祖元を招聘し、創建した寺院です。

かつて外国の侵略から国を護った執権は、いま、同じ苦難に立ち向かう異国の人々に次のような一句を告げているかもしれません。

国難のときは気丈に胸を張り

敷地内には、夢窓疎石の作庭を今に伝えるのどかな光景なども広がっていました。

次世代に春を託して梅の花

・・・これが梅かどうかは私には分かりませんが(近くの建物で梅は咲き始めてました)

丘の上には国宝とされる梵鐘があり、表面には「国泰民安」なる碑文が刻まれているそうです。

「国民を二つに割るとはケシカラン。安泰を逆さまにしており、日本国民への呪詛だ!」などと言い出す人もいたりするのでしょうか?

(以下、次号)

 

マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(後編)

昨年末の鎌倉来訪に関する記事の後編です。

源氏山を東側から下山し、寿福寺に立ち寄った後、しばらく南下して鶴岡八幡宮に着きました。

鶴岡八幡宮は今回の主要目的地ということで、宝物殿を含め、可能な範囲で神社内を色々と拝見しました(が、話題の大河館は2時間待ちで諦め、国宝館は休館中で残念でした)。

鎌倉の象徴であり武家の守り神とも称されるこの神社は、源頼義により創建され頼朝の手で現在の姿となったもので、蝦夷の末裔たる東北人にとって仇敵の神殿という面があることも、忘れてはいけません。

と同時に、源氏(河内源氏)宗家はこの地で無惨な最期を迎えたわけで、そのこともまた、この神社の業の深さを感じさせるものと言えます。

ともあれ、千年前に時代に翻弄された人々の鎮魂を祈って一句

しめなわに禍福あざなす鶴ヶ岡

また、源実朝が落命した八幡宮の階段にて、山形県鶴岡市で先日生じた雪害事故も脳裏をよぎって一句。

この坂はまさかの雪が仇となり


その後、私にとっては今回の主要目的地にあたる「頼朝と義時の墓所」(法華堂跡)に行きました。

事前に勉強せず行きましたので、最初に上った頼朝の墓の区画に義時の墓もあるのかと右往左往しましたが、ほどなく、双方は別の場所に設けられており、それぞれ別の階段から上る必要があることが分かりました。

鬱蒼とした頼朝の墓(江戸期に整備されたもの)に比べて義時の墓所(跡地)の方が広々としており、また、頼朝は狭い区画に一人だけの墓となっているのに対し、義時の墓所の奥は三浦一族の供養墓があり、区画上部にも大江広元らの供養墓があるなど様々な施設で賑わっており、ここでも「頼朝のドス黒い孤独」を感じざるをえませんでした。

ともあれ、大河ドラマの様々な場面を思いつつ、鎮魂の丘にて義時が義和に囁く一句

その時は義を以て為し報い待て

***

その後、丘を下りて、鎌倉幕府の終焉の地に向かいました。

北条氏の天下は頼朝の死と義時の権力闘争(勝利)から始まり、東勝寺での高時一族の自刃にて終わる。もって盛者必衰の理をあらはす。

近時の研究(中公新書・亀田俊和「観応の擾乱」など)によれば、鎌倉幕府の倒壊(主要武士群からの支持喪失)は、土地利権をはじめとする武士同士の紛争を解決する役割(訴訟処理機能)を幕府=鎌倉政権が果たしていない(ので政権担当能力がない)と評価された点が大きかったのだそうです。

翻って現代はどうか。

この仕事をしていると、現在の司法制度の残念な部分を否応なしに感じさせられ、当事者の不満や失望を垣間見ることは多々あります。

高時の自刃跡とされる光景は、或いは、裁判所や司法関係者、ひいては立法のための努力をしない国民全体の近未来の姿なのかもしれません。

***

最後に鶴岡八幡宮の小町通り商店街に戻り、通り奥のカフェ・ミルクホールにて名物のプリンを頂戴しながら一服した後、ほどなく帰宅しました。

商店街には「神社のあとはジンジャーで」なるキャッチコピーを付した幟があり、どうせなら、寅さんの口上のように、こんな感じで言葉を並べた方が面白いと思いました。

神社のあとはジンジャーで
お寺で御法度ジントニック
天ぷらアタればテンプルへ
モスクで食べたやモクズガニ

そしてプリンはプリンシプル。

24年前、私が所属していた司法修習52期6組では、地元ご出身のTさんによる「魅惑の日帰り鎌倉ツアー」が開催されました。

Tさんは、数年前から研修所の刑事弁護教官として熱血指導に邁進されつつ、オウム真理教の末端著名信者を巡る刑事事件で無罪判決(実行者との共謀関係を否定)を勝ち取るなどの輝かしい活躍をなさっています。

かたや、当方は今や田舎の片隅で数多の名も無い赤字仕事に追われつつ事務所の運転資金に喘ぐ日々。まさに日暮れて道遠しというほかありません。

湘南の海が眩しく見えるのは、或いは、誰もが可能性に満ちあふれていたのかもしれない、あの日々への執着への裏返しなのかもしれません。

あたかも、この街がかつて武士の都であったように。

皆さんは鎌倉で、何を感じましたか?

ブログでは割愛した写真をご希望の方はFBへどうぞ。

マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(前編)

昨年末の話で恐縮ですが、大河ドラマで注目された鎌倉に帰省先から日帰りで行ってきました。

9時半頃に稲村ヶ崎の駐車場でパークアンドライドを利用し、最初に長谷駅で下車→鎌倉大仏と長谷寺(鎌倉長谷寺)に行きました。

私は司法修習生だった平成10年の夏に鎌倉に日帰り観光をしたことがあり、それ以来、24年ぶりに鎌倉大仏に来ましたが、街の雰囲気も含め、当時とあまり変化がなく古い街並みが保全されている様子に感心しました。

長谷寺は初めて来ましたが、多数の立派な仏像などを拝見しながら、仏教とキリスト教の異同などをあれこれ考えたので、この点は次回のブログに載せます。

その後、鎌倉駅に移動し、同行者の強い希望で西側の銭洗弁天に向かいました。駅から歩いて行ける距離ですが、相応に長い上り坂となっているため、運動不足で根性のない同行者は「タクシーで行きたかった」と不満顔を浮かべていました。

銭洗う前に銭取る弁財天
急坂で銭より手汗を洗う人
この道が嫌なら麓で芋洗え

その後、坂を上って源氏山公園に向かいました。

鎌倉の頂点たる源氏山公園の山頂には、鎌倉の創設者というべき源頼朝像が鎮座しています。

多くの武士達の力添えで偉業を成し遂げたにもかかわらず、ここには彼一人の銅像しかなく、その上、当時を偲ばせる構造物は何一つないため、かえって寒々しく、頼朝の悲哀を強調するような空間になっています。

引き替えに たったひとりの玉座かな
上に立つ者の孤独はドス黒く


源氏山の頼朝像は何年も前から一度は来てみたい場所でしたが、実際に来てみると、その空間ならではのものを感じることができるような気がします。

昨年の大河は北条家のホームドラマ(家族の物語)とも称されますが、その一方で、身内同士で疑い、憎み、殺し合い、そして血族が誰もいなくなった、頼朝すなわち河内源氏宗家の悲惨な家族の物語であることにも目を向けるべきかもしれません。

その後、源氏山を下山して鶴岡八幡宮に向かいました。

途中、実朝と政子が眠る、源氏山の麓の寿福寺に立ち寄り、修善寺の頼家にも思いを馳せつつ一首。

さむらいの魂喰らいて実る世に 寄る辺なき身の家いずこにか

以下、次回の後編に続きます。

庄内から善政の光景と庶民の魂を考える(象潟・庄内編4)

鶴岡の藩校致道館は、庄内藩の降伏協議の舞台にもなった重要な施設ですが、すぐ隣には、近未来的な外観を備えた鶴岡市民文化会館(荘銀タクト鶴岡)が聳えており、双方が並び立つ光景は、江戸と現代が鋭く交錯しているように見えます。

このような光景は、岩手・盛岡では見たことがなく、稀有なものであると共に、若い世代への教育的な効果という点でも、意義が大きいと感じました。

大戦争で連戦連勝を経て天下に降伏し、城下も藩も保全された庄内藩。
一進一退の中で降伏し、責任者は斬首され多くの辛酸を嘗めた南部藩。
城の包囲戦では負けることなく天下に降伏し、何もかも失った九戸城。

何が三者の運命を分けたのか。
本間家の財や最新の軍備、名将・鬼玄蕃、そして西郷隆盛の有無だけか。

答えの一つは、藩主が領民から強く支持されていた(根底に、善政で領民も相応に豊かに暮らしていた?)ことにあるかもしれません。

その企画展が、致道博物館で行われていました。

藩の転封を反対し既存の藩政を求める大規模な領民運動などというものは、飢饉と一揆が繰り返された南部藩では到底考えられません。

そうした事情も、庄内藩の戊辰の健闘を支える力になったのでしょう。

明治以後も領主(酒井公)が領民により神格化され祀られている荘内神社(鶴岡城址)も、その現れかもしれません。

酒井家よりも遙かに長い歴史を持つ南部藩(南部本家)には、藩主一門を領民が崇敬する思想はついに生じなかったと思います。

盛岡城址の桜山神社も信直公らを祭神としており、「四柱を祀る」という形式の共通性を含め、荘内神社に相当する施設と言えますが、住民の総意で創建されたと強調する荘内神社サイトの紹介文と桜山神社サイトの創建経緯に関する文章を見ると、住民との結びつきに温度差があるように感じます。

「よそ者」の酒井家は地の利(西回り航路)を活かし人の和(地元の豪商や藩士・領民の協力)を得て、天の時(戊辰戦争)にも屈指の足跡を残しました。

その姿は、数百年も北東北に君臨した南部家を擁しながら、平泉以後は、天下に轟く逸話に縁の薄い歴史を続けた岩手の民にとって、眩しく見える面はあるかもしれません。

反面、明治後、庄内からは天下を動かす政治家等がほとんど生じておらず(唯一の例外が石原莞爾でしょうか)、これに対し岩手は宰相など多くの人物を輩出してもいるわけで、そうした対比も興味深いものと言えるでしょう。

*****

これまで数回に亘り、象潟・鳥海の自然と酒田・鶴岡の栄華や軌跡について、取り上げてきました。

ただ、庄内は、貧困や苦難に生きた「おしん」の舞台でもあります。

私は、弁護士登録直前の平成12年3月、リマの街角で、地元の沢山のペルー人達と一台のテレビを囲んで、「おしん」の最終回を見ていました。

きっと、私の弁護士人生も試練の連続になるのだろうと思いました。

酒田随一のオサレ施設となった山居倉庫内には、今もあの曲が流れています。

私はおしんのテーマ曲を聴くと、身震いがして泣きそうになり、1週間以上、延々と口笛を吹きたくなる症状が生じます。

重度の「おしん病」患者であることは間違いないでしょう。

皆さんも象潟・鳥海や庄内(酒田・鶴岡など)に旅してはいかがでしょうか。

霊峰の麓には、おくりびとに限らず、意外な出逢いや発見があるかもしれません。

芭蕉の足跡から詩情を掻き立てられることもあるかもしれません。

以上をもちまして、象潟・庄内編は終幕です。

多数の投稿にお付き合い下さり、ありがとうございました。

最後に、帰路の川下り街道にて、同行者にもおしんの爪の垢を煎じて飲んで欲しいの一句

さあ勉強、寮へと急かす最上川

~完~

 

庄内でも懲りることなくエセ歌人(象潟・庄内編2)

象潟・庄内方面への旅行の続き(2日目・3日目)です。

にかほ市内の宿泊先を出発し、どしゃ降りの中、地元出身の英雄を顕彰した白瀬南極探検隊記念館を拝見し、その後、道の駅象潟を経由して、主要目的地の一つである酒田に向かいました。

白瀬中尉が南極点踏破を断念した後、数十年を経て初めて南極点に到達した日本人(村山雅美隊長)は、田中舘愛橘博士の孫弟子なのだそうで、先日の岩手日報では、二戸の田中舘愛橘記念科学館が、南極観測隊を顕彰する企画を行っている旨の記事が掲載されていました。

白瀬記念館と愛橘記念館も、南極繋がりで様々な交流や企画を行い、自然への挑戦と畏敬の精神の涵養に努めていただければと思いました。

***

酒田への途中、県境の名所「十六羅漢岩」に立ち寄りましたが、日本海の荒波に気を取られたせいか?勘違い(岩を仏像に見立てているのかと思っていました)で羅漢像を見ることなく海岸風景だけを堪能して立ち去りました。

荒磯に十六羅漢を見忘れる

名勝・二見岩付近も通過したのですが、道路から確認できることを知らず、見過ごしてばかりでトホホの連続です。

***

酒田市に到着後は、最初に本間美術館を訪問しました。

栄華を極めた本間一族の美術館に相応しく、江戸期を代表する名匠達の作品(いずれも国宝級?)が一人一点ずつ厳選され展示されていたほか、2階では江戸期に活躍した女性画家の作品も展示されていました。

庭園(鶴舞園)と邸宅(清遠閣)も、大変美しく、満足して拝見しました。

私が東京で大変お世話になった兄弁は独立直後に本間ゴルフの民事再生に関与し、当時は頻繁に酒田にも出張していたそうです。

当時、江戸時代に流行したと言われる「本間様には~」の名文句を4回くらい?聞かされた記憶があり、その都度「先生、その言葉、昔から知ってます・・」と言いたいのを我慢して聞いていました。

というわけで、その先生に敬意を表して一句ならぬ一節?

本間様には及びもないが いつかなりたしプチブル弁

***

その後、本間旧邸山居倉庫日和山公園を経て土門拳記念館に赴き、最後に2日目の宿泊地(湯野浜温泉)に向かいました。

土門拳記念館では、絵画と見まがうような印象的な構図で撮影された写真群に感銘を受けましたが、さっさと宿に行きゲームをやりたいなどと宣う同行者には、巨大な丸いものでもぶつけてやりたいと思わずにはいられませんでした。

魂と感性の刺激には、土門拳を
ゲーム中毒の輩には、怒モンケーンを
暑さで弛んだ身にも、怒モンケーンを

モンケーンが何のことか分からない方は、鋼鉄参謀や浅間山荘事件をお調べ下さい。

***

翌日(3日目)は、最初に、加茂水族館を訪問しました。

同館をもって、ついに東北の主要水族館を踏破できましたので、記念の一句。

カモられる暗げな家族 列をなし

館内は決して大きくありませんが、日本随一とも言われるクラゲの展示が圧倒的な存在感を有しており、詳細な解説コーナーなども含め、オガールの遙か以前から、ここはピンホールマーケティングの聖地なのかもしれません。

個人的には、小粒のクラゲの大群が隊列をとっているように見えた展示が、

巨大な敵を~(撃てよ~撃てよ~撃てよ~)

というガンダムのオープニングテーマの画面(シャアザクが大量のザク群を率いている画面)によく似ていると感じて、印象に残りました。

また、目玉焼きに酷似したクラゲの展示もありましたが、私の実家にあった、「肩凝りなどを治すための吸引カップ(を身体に設置して装置を作動させたときの光景)」に似ているように感じました。

しびれるぜ 凝りに吸い付く目玉焼

あと、オマケに前夜の湯野浜温泉にて一句。

カニ喰えば疲れ花火を見忘れる

**

その後は、鶴岡市内に移動し、致道博物館藩校致道館荘内神社(鶴岡城址)などを拝見した後、最後に、羽黒山五重塔と羽黒山神社(出羽三山神社)を拝見し、帰途につきました。

盛り沢山の旅行でしたが、時間の都合で断念した箇所も多く、再訪の機会を楽しみに待ちたいと思います。

鶴岡などを歩いて感じたことは、次回の投稿で述べることとします。

 

象潟に町弁来たりてエセ歌人(象潟・庄内編1)

先般、庄内(酒田・鶴岡)方面を初めて旅しました。秋田の日本海方面から入ることとし、折角なので、1日目は鳥海山の麓のエリアを廻りました。

最初に、出羽の名瀑・奈曽の白滝にて一句。

太古より轟く その名その白滝

続いて、元滝伏流水にて、次世代の飛躍を願って一句。

伏龍の世に湧く日を待つ岩清水

周辺は、湧水の冷気(温度差?)で霧に包まれる幻想的な雰囲気です。

霊峰の息吹 涼しく厳かに

この日は、天気予報では昼から豪雨のはずでしたが、秋田県南は全く雨に遭わずに済みました。ただ、津軽・秋田県北に豪雨をもたらした分厚い雲に覆われ、鳥海山までは望むことができず、その点は次回に持ち越しとなりました。

というわけで、鉾立駐車場の奈曽渓谷展望台にて、全国のしがない町弁の皆さんに捧げる一句

喰らはずに仰ぎ生きたし ちょうかいさん

懲戒・・・もとい鳥海ラインの出入り口付近で、対向車が猛スピードで下山し、激しくセンターラインオーバーをしている光景を目の当たりにし、あと少しタイミングがずれていれば・・と恐怖すると共に、安全運転の大切さを感じずにはいられませんでした。

その後、下山し、九十九島・坩満寺に赴き、芭蕉を偲んで緩慢な一句。

行く末を案ずる間もなく象潟に

この日(時間)は当方以外に人影はありませんでしたが、人間以外の来訪者がありましたので、寂しさは感じませんでした。

象潟で我も詠まんと鳥一羽
警察は歌わぬ鳥をサギといい

さすがに、私が近づくと飛び立っていきました。

というわけで、この日の最後に、句心のない同行者に一喝もとい一句

ゲームに病んで夢が枯野に散るなかれ

現在ブログでは写真の掲載はすべて割愛していますので、ご覧になりたい方は、FB投稿にてご確認ください(今後の投稿も同じ。反面、公式サイトなどを引用しています)。

 

じっと手を見るカソ弁の悲哀と漆妻

3年ほど前の話です。

とある日曜に浄法寺の里山で出張仕事があり、折角なら旅行を兼ねてということで、仕事を昼までに終えて、岩手青森県境不法投棄事件の現場視察→田子の名瀑「みろくの滝」→感動の十和田湖ゴール、という計画を立て、不在者投票など万全の準備をしていました。

が、土曜になって家族にドタキャンされ、一人寂しく浄法寺ICそばのドライブインで「漆の実コーヒー」をいただき、事務所に戻って仕事(とゴロ寝)してました。

その日は司法修習52期の方々の20周年大会があったそうですが、そうしたイベントに参加する力もなく、今となっては運転資金の捻出に追われるだけの過疎地の下層弁護士(略してカソ弁、訛ってカス弁?)というのが正直なところです。

ともあれ、めげずに毎度の一句。

カソ弁の悲哀を知るは漆のみ

などと書くと「もののけ姫」のテーマ曲が脳内を駆け巡ってしまいます。

というわけで?さらに余計な一句。

かぶれたのは皮膚か心か うるし妻

残念ながら、ご本人にはこの句の大意(愛情表現?)がご理解いただけなかったようです。

なお、この事件では、裁判所との関係で想定外の塗炭の苦しみを強いられましたが、最近になって、ようやく大きな峠を越える目処が立ちそうになっています。

その峠を越えた後も、まだまだ完全決着までの道のりが長い(むしろ、それからが本番)のですが、数十年間放置された辺境の大事件を決着させ、当方依頼者が背負うことを余儀なくされた重荷を解き放つため、大赤字仕事に背中で泣きながら、最後までやり抜きたいと思っています。

遠野からの薫風

今年の連休は山積する仕事や有り難くない雑事に追われて終わりましたが、家族1名の要望で、遠野に日帰りでぶらり旅しました。

最初に、高速を下りてほど近い場所にある、あまり観光客が来ることのない名所に行きました。

周囲はありふれた樹林帯ですが、この谷間だけ、羅漢像が彫られた多数の花崗岩に埋め尽くされています。

花崗岩はいずれも深く苔生した状態なので、羅漢像はほとんど確認できませんが、かえって神秘的な印象を高めていると言えるでしょう。

さしずめ、遠くの苔寺より遠野の五百羅漢、といったところでしょうか。

次に、中心部に赴き、最近オープンした「こども本の森」に行きました。

書籍が整然と本棚に並ぶ光景は、スーパーカミオカンデを彷彿とさせますが、建物の外からは、内部の光景は到底想像できず、古民家活用の新たな可能性を示したものと言えるかもしれません。

この日の遠野の国道沿いのジンギスカン等の著名店はすべて大渋滞で、当方は、ごはん屋「花りん」にて唐揚げカレーをいただきました。ボリュームが多く、盛岡の「とんかつ熊さん」の遠野版という印象です。

その後は、定番の淵で観光客に叫んだカラスの鳴き声を訳して一首。

昨晩に俺達キュウリをかっぱらい やった!カッパ!と闊歩する君

そして、隣接する遠野伝承園。

最深部の部屋は何も怖くありませせんが、部屋に続く通路の蛍光灯の回りには、この時期に限り大量に現れる禍々しい奴らが飛び交っており、恐怖体験に飢えた皆さんにオススメです。

門番のカメムシ怖い オシラサマ

その後、たかむろ水光園(次回に取り上げます)を経て、遠野物語の実質的な作者というべき佐々木喜善の実家や著名な水車などがある山口地区を散策しました。

こちらにも伝承を謳った河童淵がありましたが、近くには帽子が落ちており、河童の襲撃による被害者の遺留品かもしれません。

そして、遠野編の最後に、名勝・続石にて家族の未来を願って一句

少年の大志は続き 風薫る

巨石の下はゲートのようになっており、隙間を通ると異世界に行ける人もいるかもしれません。

この道も 花の入口 裏の道

異世界だけではく、若くして周囲の人々と違う人生を歩んでいる少年達にとっても、花の道が開けてくれればと願っているところです。

というわけで、今回も、どんどはりぇ。
写真をご覧になりたい方はFBをどうぞ。