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憲法

憲法記念日が来るたび、万物の尊厳を掲げる憲法を願って

本日は憲法記念日です。憲法のおかげで司法試験に合格できた私に限らず、皆さんも憲法について何か考えていただければと思っています。

平成後期から現在まで10年以上、世論調査では「憲法改正を経験してみたいが自民党案は支持しない」という状態が続いています。

現下の厳しい国際情勢から、自民党案(自衛隊や緊急事態条項)を諦めのように?受容する比率も増えたようにも見えますが、国民が積極的に望んでいるものとは到底言えず、安全保障であれ災害対策であれ、憲法ではなくまずは個別の政策や政治家等の努力での善処を期待するのが国民世論かと思います。

言い換えれば、国民が歓迎・希望し世界に誇れるような憲法改正案は、今も国民世論には示されていません。

私は、5年ほど前から「憲法の頂点である『尊厳』は、人類(憲法13条)だけのものではない、人にあらざる存在にも個々の特性に応じた尊厳が守られるべきとの規定(万物の尊厳。憲法13条の2)を創設すべきだ」と考え、1年前に述べたものをはじめ、時折、それに関する投稿をしています。

いつの日か、国民世論に改正案を呼びかける書籍を出版したいと思いつつ、毎年のように、今年も余力ありませんでしたと書く有様が続いてはいますが。

過去に何度も書いていますが、日本国憲法が辿った歴史に照らせば、我々が最初に経験すべき憲法改正は、

・日本や世界が希求すべきであるのに現行憲法には定められていない価値に関するものであること

・日本人や日本社会が辿った長い道のりに照らしても、違和感のない価値を掲げるものであること

・判例実務の単なる追認であるとか戦争の備えのような後ろ向きのものではなく、国民や世界人類に向かって日本がよりよい社会を築こうとする姿勢を表明するものであること

言い換えれば、皆が『いいね!』と歓迎し祝福できるような前向きな規定こそが最初に行われるべき憲法改正であり、それを実現するのが、曲がりなりにも戦争を経験せずに済む幸福な時代を生きることができた、我々の責務ではと思っています。

そして、現在の人類が置かれた状況や日本(列島)の歴史風土等に照らしても、万物の尊厳こそが、この付託に応えうる改正案だと確信しています。

宮澤賢治の言葉を殊更に真似ずとも、人類の幸福もまた万物の尊厳のもとでしか成り立たないというのは自明なのですから。

当方は限られた受任費用で膨大な作業を余儀なくされる仕事ばかりが続き、書籍出版など夢のまた夢となっていますが、この言葉を、日本そして世界に、いつの日か広く伝えることができればと願っています。

JCのための憲法学ともう一つの憲法改正論~H30.11講義の雑感

1年半も前の話で恐縮ですが、平成30年11月に、以前に投稿した「岩手のJCの方々(日本JC岩手ブロック協議会)向けに憲法についてお伝えする企画」があり、1時間弱ほど、岩手の現役JCの大物の皆さんに、私なりの考えをお話させていただきました。

以前にも書いたとおり、「いわゆる護憲でも改憲でもなく、ノンポリ無党派層の立場から、党派色のある方々とは全く異なるアプローチで、憲法及び憲法改正について私の考えをお伝えする」ことは、長年、自分がなすべきと思いながら実践できずにいましたので、ささやかながらも、ようやく宿題の一つを実現できたと、お声がけいただいたことに大変感謝しています。

ただ、JCIクリードと日本国憲法の類似性に関する話に時間と労力を使いすぎ、それ以外の話をあまりできなかった点は、悔やまれるところですが・・

こんな機会は二度と無いでしょうから、後日にレジュメを公表するつもりでしたが、諸事に追われ、1年半を経過した今も、まだ着手できていません。その代わりといっては何ですが、さしあたり、今回は当日の雑感を少々述べます。

①JCの卒業時にT君達から頂戴したネクタイを着用して行ったところ、運良く?T君をお見かけしたので、冒頭に「これ、T君にいただいたネクタイなんです。私、JCに入会したとき、『弁護士なのにしゃべりイマイチだね』と言われた輩なんで、本日も上手く話せないと思いますが、T君に免じてご容赦下さい」と軽妙なトークができればと思ったのですが、口下手なので、やっぱり言えませんでした・・

②久しぶりにお会いしたN理事長さんに「この人、こんなに美人だったっけ?」とびっくり。長年、盛岡JCに多大な尽力をされた方なので、しかるべき立場についたオーラの影響もあったのかもしれません。

昔々、東北ゼミナールに出向させていただいた際、東北地区の会長さんだった「秋田の女傑」と呼ばれた方が放っていたオーラに通じるものを感じました。

で、そのことも「ツカミ」で話そうかと一瞬思いましたが、純朴な岩手の田舎者には無理な注文でした・・

③こんな機会は二度とないと思い、クライマックスの場面で、昔から一度は言ってみたかった「皆さん岩手の人間は、何度も時の中央政府と戦い続けた蝦夷の末裔、戦闘民族なんです。○イヤ人みたいなもんですよ!」と興奮気味?に話しました。

が、ネタ的にぶっとび過ぎたのか、笑いはいただけず、ポカ~ンといった感じの反応でした。

ちなみに、コレも間違いなく「憲法の話」です。たぶん。

④盛岡JC次期理事長のIさんから(私がたった一人で提唱する憲法改正案である)「万物の尊厳について、もっと熱く語って欲しい」と大変有り難い言葉をいただきました。

で、本来であれば、持ちネタである「縄文と弥生の結節点としての岩手(が有する未来への役割)」について熱いトークをしたかったのですが、あがり症なので、「私、ケチで貧乏なので食事を残すのが食べ物に申し訳なくて、いつも盛岡北RCの例会でYさんと一緒に2~3人分食べてるんです」といったレベルの話しかできませんでした・・

ともあれ、JCの方々に、司法試験受験生が学ぶようなごくオーソドックスな憲法学、憲法観をベースとしてJC活動の意義やあり方をお伝えするのは、私にとって現役時代にやり残したことの一つでしたので、今回、参加いただいた皆さんに(一部、かなりぶっとんだ話だったにもかかわらず)好意的に対応していただいたことも含め、大変ありがたく思っているところです。

お声掛けいただいたB君をはじめ、日本JC東北地区岩手ブロック協議会の皆さんに御礼申し上げると共に、個人の尊厳と国民主権をはじめとする憲法の価値を実現するためのJCの地道な活動の更なる深化を、心より祈念する次第です。

ちなみに、曲がりなりにもOBですので講演料はありませんが(交通費のみ)、代わりに?岩手のワインと日本酒を有り難く頂戴しました。

万物の尊厳を掲げる憲法改正を岩手から(後編)

今回は、前回に掲載した記事(岩手日報への投稿)についての補足説明です。この話(人間の尊厳だけでなく、いのち、自然そして万物の尊厳を憲法改正のテーマとして提げること)は、数年前から考えていたことなのですが、この投稿を行った経緯は次のような事情に基づくものです。

きっかけですが、3年前に「JC(青年会議所)が掲げている理念(JCIクリード)は日本国憲法の基本原理にそっくりである」という趣旨のことを投稿したことがあります。

この投稿は今も「JC 憲法」などとネット検索すると日本JCのサイトと並んで筆頭ランクに登場しており、私自身ブログの中で最も気に入っている記事の一つです。

ただ、ツィッター上でこの投稿を好意的に取り上げていただいた方がおられるのを拝見した以外で誰かから感想などを告げられる機会もなく、このまま埋もれていくのだろうと思っていたところ、半年ほど前に盛岡JC仲間で今も現役会員であるB君から、この投稿への過分なお褒めをいただくと共に、「岩手のJCの面々にも伝えて欲しい」などと奇特?な要望を受けました。

引用記事でも述べたとおり、私は現役時代にJCの方々に憲法とJCの関係についてお話する機会に恵まれなかったこともあり(引用記事も、卒業する年に盛岡JCで「この話を例会でさせて欲しい」と関係者の方に頼んだもののボツにされた怨念?が発端になっています)、有り難くお引き受けし、今月下旬に今年の日本JC岩手ブロックの主要メンバーの方々?向けにミニ講義を行うことになりました。

折角なので、日本国憲法のオーソドックスな考え方やそれを前提とした現在の社会が取り組むべき課題などに関する私なりの考えをお伝えしたいと思いましたが、今も昔も大勢の方の前でお話をするのは全く不得手ですので、毎度ながら膨大なレジュメを作ってB君に送っており、当日は棒読みモードでご容赦いただこうと思っています。

弁護士が語る憲法といっても、いわゆる護憲派の弁護士さんが仰るようなネタではなく、もちろん右翼チックな話でもなく、引用記事をベースに、改めて憲法とJCの関係についてあれこれ考えつつ、それを踏まえて憲法とその重要な担い手としてのJCの現代のあるべき姿を考えていただくようなテーマ設定にしたつもりです。

こんな機会は二度と無いでしょうから、講義終了後のしかるべき時期にブログにレジュメを公表するつもりですが、要するに、

①JCが掲げる理念(と実践)に照らせば、世間的には右翼チックとも評されるJCは、実際には日本最大級の護憲団体と評しても過言ではないこと

②それにもかかわらず復古的な改正を日本JCが唱える根底にあるものとは

③その上で、岩手のJCに考えて欲しい憲法改正案(運動)とは何か

の三本立てになっています。

さほどの大人数でもないそうですが、現在の岩手のJCの大幹部の方々がお集まりになるようですので、君たちは護憲団体だ、などと言うと五体満足で帰れないなんてこともあるかもしれません(笑)。

このうち、①②は引用記事を掘り下げた内容に過ぎませんが、③はブログでそれとなく書いたことはあるものの明確に述べてはいなかったので、思うところあって約10年ぶりに岩手日報向けに投稿を書きたい、また、どうせなら講義の前に書いて公表してしまいたい、というのが今回の日報への奇行ならぬ寄稿のきっかけとなっています。

もとより、人間だけでなく人にあらざる存在の尊厳も憲法で定めよなどと奇特なこと?を言っている人がいるとの話は聞いたことはなく、それどころか「万物の尊厳」という言葉も、少なくとも日本語(現代の日本社会)では聞いたことがありません。

ネットで検索しても、私が過去に投稿したブログ記事しか発見できず、当然ながら、私のオリジナル(独創?)の言葉ということになるはずです。

しかし、この考え方は、要するに「社会は人間だけのものではない、自然、いのちそして万物(に通じている目に見えない力)に畏怖と感謝を抱くべき」という、日本人にとってはごく当たり前の、伝統的かつ違和感のないもので、そのことが憲法(日本人の最高法規)に掲げられていない方が間違った状態というべきではないかと思っています。

当日にお伝えする内容(レジュメ)では、そのこと及びそれを岩手の人々が率先して日本ひいては世界に呼びかけていく意義について、若干ながら触れており、いずれ本ブログにも掲載したいと考えていますので、関心をもっていただける方は、楽しみに?お待ちいただければ幸いです。

自民党政権と鎌倉幕府の類似性を踏まえて日本国憲法の未来を論ぜよ

購読中の日経新聞が3ヶ月以上の積ん読状態になり、先日まで10月のものを読んでいました。10月19日の紙面には、安倍首相が党内の重鎮や若手の支持を集めてライバルを押さえ込み強固な政権基盤を形成しているという話の解説記事が出ていました。

最近は甘利経財相が突如失脚するという事態も起きましたが、こうした記事を気楽に読んでいると、今後の政権の担い手や政治の形はどうなるのだろうと、何となく考えてしまいます。

現在の社会について考える際、過去の歴史に学ぶというのは基本的な話ですが、戦後数十年の「自民党一党支配下の派閥政治→小選挙区制後の政権陥落と復活を通じた総裁・首相の権力強化」という流れについて、日本史の中で近いものがないかと考えると、鎌倉時代が割と近いのではと思いました。

鎌倉幕府の場合、成立時こそ源頼朝(源氏)の存在感が大きかったとはいえ、ほどなく有力御家人らの合議的な体制に移行し、激しい内部抗争に北条氏が勝ち残り、承久の乱と元寇を通じて得宗専制が確立するという流れを辿ったと一般的には言われています。

そのような流れが、派閥の抗争の上に短命首相の交代が繰り返されていた中選挙区時代から、有力派閥(経世会など)の影響力低下と党本部・内閣府の強化(総理・総裁の主導権)に至る現在の自民党政権の経過に多少とも通じる面があると感じました。

鎌倉幕府は大まかに言えば承久の乱までが御家人合議制で、その後は得宗専制への移行期になりますので、承久の乱と北条氏の勝利は民主党の政権交代と自民党復権に匹敵すると言えるかも知れません。

その上で、現在の「習近平の中国」の強大化やこれに伴う日本との摩擦は、あたかも現代の元寇のようなものと考えれば、中国への脅威への対抗のための結束や政治の安定のニーズという国民意識が安倍首相の支持率を相当部分を支えていることに鑑みても、類似性を感じる面があります。

そう考えた上で、「その後」がどうなるかを鎌倉幕府になぞらえて考えると、色々と興味深い点が出てくるのではないかと思います。

教科書的に言えば、鎌倉幕府は元寇の負担で生じた御家人の窮乏について、幕府が賢明な対応をとることができなかったので、御家人の支持を失い統制力が弱まった挙げ句、後醍醐天皇の倒幕軍に足利尊氏・新田義貞らが呼応し裏切ったので滅亡したと言われてます。

元寇は要するに国家防衛戦争ですが、軍役とこれに伴う出費を幕府が丸ごと負担するのではなく地域の封建領主である御家人各自の負担とされたので、御家人が生活に窮乏し借金が増大し、一旦は徳政令=借金の強制免除がなされたものの、その後は金融業者から追加借入ができなくなり?さらに窮乏したと言われることが多いと思います。

破産免責の実務に携わる者から見れば「一旦は借金免除を受けた者が、ほどなく追加借入をせずにはいられなくなる事態」は滅多に生じるものではないとの認識ですので、当時の御家人達(幕府を奉ずる武士)に追加借入を必要とするだけの事情があったのか、その点は興味深く感じますが、よく分かりません。現代も免責から7~10年もすれば追加借入をする方も出てきますので、中長期の視点では鎌倉末期と同じ問題が生じうるかもしれませんが。

ともあれ、近い将来そうした類の光景=自民党政権の混乱と滅亡という事態が現代でも生じるのか、そうであれば、どのような事態が生じた際に自民党政権が衰退するのか、また、その前提として、自民党の支持層が政府の政策とその前提となる事象により大きく窮乏するような事態が生じるのか、あるとすれば、どのような事態か、色々と想像を巡らせるのも面白いかもしれません。

財政上の理由で従前の支持層に手厚くしていた分野(公共工事=建設業界、福祉・医療=医療業界など)への税金配分や年金等の大幅減ということなら、近い未来に相応に生じそうな気もしますが、その際に時の総理が改革の必要性を説いてその判断を支持する層を新たな支持者として取り込むのであれば、政権転覆という事態は生じそうにありません。

元寇のように「政府が自らの責任・負担で行うのが望ましい分野」について、政府の支持層に無理な自己負担を強いて困窮させた挙げ句、杜撰な対策で混乱が生じて支持層をさらに追い詰めるという事態があれば、無為無策の責任が問われて転覆まで行き着くような気がしますが、現在それにあたる分野があるかと言われると、すぐには思いつきません。

ただ、自民党政治が、御恩と奉公に類する「戦後の経済成長で生じた正(プラスの資産)の分配」を基本として成り立ってきたことは確かでしょうから、今後に本格化すると言われる「負の分配」=既得権の剥奪や社会各層への負担・不利益の分配への説得・強制に耐えるような政治体制に刷新できなければ、政権の維持に脆弱さを抱えることは確かだと思います。

実際、小泉首相が専制政治家として公共事業削減などを断行したのに比べると、民主党政権前夜(第一次安倍政権~麻生政権)までは、専制色が乏しく合議的な色合いの強い政権だったように感じますし、そのことも、政権陥落に影響したのかもしれません。

民主党政権も公共事業削減や財政再建など様々な負の分配に取り組んだような気がするのですが、総理(党代表)が権力を掌握できず合議制のような様相を呈したことが、テーマ(負の分配)に耐えうる政治体制でない(要するに未熟である)と国民に審判されたのではという感じもします。

少なくとも、専制型の政権運営は、既得権の剥奪には役立つことは確かで、そうした事情が現在の「総理・総裁の権限強化」を支えているのでしょうが、一部の者への優遇が鮮明になるなど不公平感が目立つようなら、鎌倉幕府の滅亡がまさにそのようなものであったように、専制が崩壊して一気に混乱に陥るリスクも内包していると思います。

その場合、現体制を転覆させて新体制(建武の新政?)を作るための旗印となる理念や制度はどのようなものか、運動の象徴になる存在(後醍醐天皇)やそれを補佐する「現体制では疎外された存在」(楠木正成ら「悪党」)は誰か、転覆後の混乱に勝ち残って次の体制を担う存在(足利幕府)は誰・どのようなものになるのかといったことも考えてみたくなります。

ただ、現代でこれにあたるものが誰か・何かと言われれば、すぐに「これだ」と言えるものがあるか、私もピンと来ません。

在野で強烈な個性を持つ専制指向型のリーダーと言えば、誰しも引退?した橋下市長を思い浮かべるでしょうが、安倍首相と意気投合しているようにも見える橋下前市長が「後醍醐天皇」のようになるのかと言われれば、違和感を覚える方の方が多いと思います。

ただ、安倍首相や自民党が希望する改憲案が、安全保障(9条)と人権保障(個人主義)の修正を指向すると一般的には考えられているのに対し、橋下氏が指向する改憲論は大阪都構想に見られるように統治機構制度に向けられており、9条や人権規定に手を加えたがっているという印象は、私の感覚の範囲では、あまり受けません。

これに対し、自民党の改憲案は、私もきちんと勉強したわけではありませんが、国会・議院内閣制の分野については、さしたる改正を求めていないように思われ、少なくとも、現在の立法・行政の枠組みの大幅な変革を企図していないことは確かだと思いますから、安部首相ないし自民党の改憲案と橋下氏らの改憲?案は、関心のある分野が大きく異なっていると思います。

その上で、国会などを巡る現在のあり方に国民が満足しているかと言えば、現在の選挙や国会ひいては様々な議会や議員の制度(選挙と議会のシステム=立法府や代表民主制の全般)に不満や不信感・閉塞感を抱いている国民の割合は非常に多く、憲法も含めて「政治家」に関する制度を変えて欲しいというニーズは十分に高いのではないかと感じています。

現在、ちきりんさんのブログで勧められていた「フェルドマン博士の日本経済最新講義」を読んでいるのですが、同書でも、選挙制度改革は、現在の日本社会が改革を必要としていながら安倍政権の取り組みが最も手薄になっている分野だと厳しく批判されています。

現在の小選挙区制では従前以上に自民党の万年与党という流れが定着しそうなことや訴訟が繰り返されて「煮詰まった」状態にある定数是正の問題なども視野に入れれば、立法府(選挙・議会・政治家)の大改革は、程なく近未来の大きなテーマとして意識されるのではないか、だからこそ、それに率先して取り組む勢力があれば、アドバンテージを取ることができるのではないか(橋下氏はそれを見越して準備しているのではないか?)と感じています。

ちなみに、フェルドマン博士は、株主総会(資本多数決主義)に倣って「人口比で議決権を配分する制度を導入すべきだ」と提言していますが、私自身は、そのような制度は「生身の人間」たる議員の政治的意思決定権に関する平等の建前を重視する日本の国民感情に馴染まないので、議員を二段階に分け、1段目議員を大増員・廉価報酬とし、2段目議員を1段目議員の互選による少数精鋭(狭義の国会議員)とする間接選挙型の仕組みにすればよいとのではと考えています(この点は後日にまた書くつもりです)。

ともあれ、自民党政権が戦後の政治システム(現在の代表民主制)に非常に馴染んでいる政治権力だからこそ、そのあり方を大きく改変する提言をする政治勢力が国民から一定の支持を受けるようであれば、そのときが鎌倉幕府の滅亡ならぬ自民党政権の終焉に繋がるのではないかと妄想しているところです。

日本社会は、昔から源氏・陸軍・国内派(縄張り重視の封建的集団主義)と平家・海軍・国際派(市場経済・競争重視の個人主義)の路線対立があり、これまでの自民党政権が前者の面が強かった一方で、近時は後者的な性格を強めつつあることも、来るべき動乱?の前兆のような気もしないでもありません。

余談ながら、地方の弁護士業界もこれまでは前者の典型のような面がありましたが、急速に後者の面が強まっている感もあり、そうした身近な世界で生じている激動との関係も考えながら、遠くの他人はさておき我が身は滅ぼすことなく社会の成り行きを見て行ければと願っています。

それはさておき、鎌倉幕府の滅亡について大河ドラマで取り上げられたのは「太平記」だけだろうと思いますが、NHKも視聴率に臆せず蛮勇を奮ってまた取り上げていただきたいものです。

司法試験(憲法)の問題漏洩事件の雑感と余談

先日、司法試験の試験委員を長年つとめる法科大学院の教授の方が、あろうことか自身が中心となって考案した試験問題や模範解答を教え子の女子学生に伝え、さらに答案作成の指導までしていたという報道がありました。

このような「試験委員(特に、大学教授)による漏洩リスク」は、私が合格した時代を含め現在の司法試験制度には不可避と言わざるを得ない問題ですが、それだけに、絶対のタブーを犯したものとして民事上はもちろん、刑事上も厳しい対応が予測されます。

このニュースを巡っては、現在の法科大学院制度(特に、旧試験時代には受験界では聞いたこともないような大学を多数巻き込んだ粗製濫造の状態やそうした実情に起因する司法予算の「浪費」など)に批判的な考えを持つ同業の方々からは、現在、ロースクールが直面している生き残り競争が、こうした不祥事の背景にあるのではとの指摘もなされています。

報道では、教授の女子学生への一方的な恋愛感情(片思い?)が原因で、他の学生には漏洩等はしていないということですので、「法科大学院の生き残り」まで射程に入る話ではないかもしれませんが、少なくとも、制度の問題として、「試験の問題作成者等に法科大学院の教授が加入する」というスタイルは、そうした態様の事件も招くリスクを内在していることは確かだと思います。

ところで、私がこのニュースを見たときに最初に受けた印象(というか驚き)は、現在の憲法の司法試験委員の方に、個人的に存じている(お世話になった)方が二人、入っておられるという点でした。

一人は現職の司法研修所の教官の方(裁判官)で、司法研修所の同期の方であり、もう一人の方は、私が東京時代に就職した事務所に在籍されていた弁護士の方で、私の就職時に入れ替わりで独立された先生です(後者の先生も、現在は分かりませんが、数年前に研修所の教官をなさっていたはずです)。

今更申すのも何ですが、お二人とも、(前者の方は卒業以来、後者の先生も10年近くお会いしていませんが)法律家としての実力も人格的なことについても、本当に素晴らしい方々で、当時から、将来はぜひ研修所の教官になっていただきたいと思っていましたので(私に限らず、共通の知り合いの方々は、皆そのように思っているはずです)、そうした方々が教官や試験委員として重責を担っておられることに、とても嬉しく感じる面があります。

私自身は、しがない田舎の町弁として小さく生きていくのみですが、それでも、若い頃にお世話になった素晴らしい方々が、その実力や識見に相応しい道のりを進んでいかれる姿を拝見していると、自分なりにできることがないかと考える意欲というか、励みになるような気はします。

他方、問題の教授の方は、私が受験生だった時代(平成9年頃)には著名ではなく、今回の報道で初めてお名前を知りました。恐らく、受験生向けのものを含め、講義を受けたこともないと思いますし、論文等を拝見した記憶もありません。

事件そのものについて、部外者の立場でどうこう申すのは差し控えたいと思いますが、少なくとも、司法試験の制度のあり方(実務のディテールを含め)を巡る議論にこの件が結びついてくることは確かだと思います。

もちろん、設問作成にあたり、各科目の学会等を代表する教授の方々に近時の重要論点に関するご意見を伺うのは必要不可欠だと思いますが、設問は実務家委員のみで作成し、教授の方(類型的に受験生と接する機会のある者)には委員であっても採点開始まで開示しないという選択肢も、今後は議論されるのではないかと思われます。

JCIクリードと日本国憲法の不思議な関係と、JCにこそ求められる憲法学

2年前、JC(青年会議所)の例会の際に必ず唱和している「JCIクリード」という綱領的なものが、日本国憲法の理念ないし構造と酷似していることを述べた投稿を、旧HPに掲載したことがあります。

現在、集団的自衛権に関する法案を巡って政争や反対運動が激化していますが、憲法改正を悲願の目標にしている安倍首相が長期政権化した場合、経済に一定の成果が生じた(とされた)時点で、ご自身が希望する改憲論議を拡げていこうという気持ちは強いと思われます。

日本JCは、以前から自民党以上に復古調・民族主義的な憲法改正案を掲げており、今後、そうした動きに同調した運動を各地JCに実施するよう求めてくることは十分考えられることだと思います(今年は、「国史」という言葉ないし概念を強調する活動をなさっているのだそうで、肯否云々の評価はさておき、その点も、その一環なのでしょう)。

もちろん、JCの会員マジョリティは、日本国憲法との関係では穏健(良くも悪くも無関心)な立場の方が圧倒的で、日本JCの議論を主導しているのは上記の国家観・憲法観を持つごく一部の方なのだろうとは思います(その意味では、これと反対方向のベクトルを持つ日弁連によく似た面があります)。

それだけに、JC会員の方々が、憲法の基本的な考え方、実務を含む過去に積み上げられた憲法学の一般的、平均的な物の見方を学ぶ機会を、もっと持っていただきたいと、JC在籍中にそうした営みに関わる機会に恵まれなかった身としては、残念に感じています。

というわけで、2年前(平成25年)に掲載した文章を再掲することにしましたので、当時ご覧になっていないJC関係者などの方は、お目通しいただければ幸いです(最後に少し加筆しています)。

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JC(青年会議所)には、「JCIクリード」という綱領的なものがあり、毎月1回の例会の場などで、全員で唱和することになっています。JC関係者には申すまでもないことですが、ご存じでない方は、全国各地のJCのWebサイトなどをご覧になれば、全文が載っています。

ご参考までに、福生JCのサイトが分かりやすいので、紹介します(同サイトに表示されている訳文は、JC手帳に載っているものです)。

この「JCIクリード」ですが、弁護士に限らず法についてそれなりに勉強した人間が読むと、日本国憲法の基本原理とよく似通っていると感じるはずです。今回は、この点について、少し書いてみたいと思います。

順番とは異なりますが、最初に「That government should be of laws rather than of man」という箇所をご覧下さい。

手帳(公式の訳)には「政治は人によって左右されず法によって運営さるべき」とありますが、日本国憲法の理念(基本原理)の一つに、これと同じような言葉が用いられています。

同業の方には申すまでもありませんが、今回は、そうでない方(主にJC関係者などでこの文章をご覧いただいている方)向けに書いていますので、少し丁寧に書きますと、その理念を「法の支配」と呼んでいます(76条、81条等)。

「法の支配」とは、憲法学上は、国家は個人の正しい権利を保障する正義の法に基づき運営されなければならず、法律上の根拠に基づかない恣意的な人の支配はもちろん、国会が多数決を濫用して人権を抑圧するような法律を制定した場合も無効にすべきという理念であり、憲法学ひいては法律学全体を勉強する際に、最初に勉強しなければならないことの一つです。

次に、「That earth’s great tresure lies in human personality」をご覧下さい。

手帳には「人間の個性はこの世の至宝」とありますが、日本国憲法では、個人の尊厳(13条。文言は「尊重」ですが、講学上は「尊厳」と表記)という言葉が用いられています。

憲法学上は、憲法に定める個々の人権保障の規定や統治機構のシステムはすべて、個々人の「人としての尊厳」を守ることを根本的な目的としており、個人(人間)の尊厳は日本国憲法の最高原理であると言われています。

次に、「That faith in God gives meaning and purpose to human life」をご覧下さい。

手帳には、「信仰は人生に意義と目的を与え」とありますが、日本国憲法も、信教の自由(20条)を定めるほか、これと隣接する個人の精神的な営みの自由を保障する権利として、思想良心の自由(19条)や表現の自由(21条)を定めており、これらは憲法上、特に保護されるべき自由ないし権利とされています。

次に、「That the brotherhood of man transcends the sovereignty of nations」をご覧下さい。

手帳には「人類の同胞愛は国家の主権を超越し」とありますが、日本国憲法が前文で非常に理想主義的な国際平和協調主義を謳い、その象徴的な規定として憲法9条を掲げていることは、よくご存知だと思います。

次に、「That economic justice can best be won by free men through free enterprise」をご覧下さい。

手帳には「正しい経済の発展は自由経済社会を通じて最もよく達成され」とあるところ、日本国憲法も、財産権の保障に関する規定(29条)などを通じ、資本主義を基調とする自由主義経済体制を規定しているとされています。

そして、ここまでの説明で概ねお分かりのとおり、これらの部分は、日本国憲法の中でも、重要な原理に関わる肝の部分であり、JC会員の方々は、JCIクリードを唱えながら、実はある意味、日本国憲法の勉強もしているのだと考えていただければと思っています。

ところで、クリードの最後の部分、「That service to humanity is the best work of life」についての説明を敢えて飛ばしました。

手帳では「人類への奉仕が人生最善の仕事である」と記載されていますが、私の理解の範囲では、このような趣旨のことを定めた規定は、日本国憲法には存在しません。

どうしてか、その理由は分かりますか。

日本国憲法は、個人の自由と尊厳を根本原理とし、それを政府が国際社会の力を借りて守っていくという観点から作られています。そのため、個人がどのように生きるべきかという一人一人の生き方の問題について、敢えて道標となる規定を設けず、各人の判断に委ねています。

これに対し、JCは社会のリーダーたらんとする方々の集まりですので、リーダーたる者は人類社会全体に奉仕する者でなければならないという理念を最後に置いて締め括っているのです。

そのような観点から最後の文言以外の箇所を見れば、それらは、リーダーの必須条件たる奉仕の精神を発揮するための前提条件に関する考えを述べたものと言うことができると思います。

ところで、どうして、JCIクリードと日本国憲法がこんなにも似通っているのか、その正確な理由は私には分かりませんが、両者の成立過程に思いを致すと、そこには共通の基盤らしき不思議な関係があるように見えます。

ご存知のとおり、日本国憲法は、日本国民が自力で元の政府を倒して作り上げたものではなく、大日本帝国軍が米国を主力とする連合国軍に滅ぼされた後、GHQが主導する形で策定され、大日本帝国憲法の改正手続をとって1946年に制定されたものです。

ですので、これを征服者たる米国の押しつけと見るか、日本国民が旧帝国軍が幅を利かせた旧政府にうんざりしてGHQの勧めに応じ自ら選び取ったと見るか、見解が分かれるところでしょうが、かなりの部分が米国に由来するということ自体は間違いないと思います。

他方、JCIクリードが最初に策定されたのは奇しくも日本国憲法の成立と同じ1946年、日本JCのサイトでは、米国人ビル・ブラウンフィールド氏が立案したと紹介されています。この方と、日本国憲法立案の主要人物とされるGHQのケーディス大佐は、接点があるかは全く分かりませんが、少なくとも概ね同年代と言ってよいと思います。

ちなみに、ケーディス大佐は、wiki情報によればハーバード大法科大学院を卒業したエリート弁護士だそうですが、ブラウンフィールド氏については、炭坑実業家だと記載したサイトを発見したものの、その人物像はよく分かりません。

ともあれ、両者とも米国で同じ時代を生き、当時の米国の理想主義を強く育んでいたという事情が、双方の類似性の大きな原因となっているのではないかと私は考えています。

JCは様々な目標や課題などを掲げている団体ですが、日本国民たるJC会員の方々にとっては、それらの目標、課題に取り組む際に、上記で述べたJCIクリードや日本国憲法の原理、さらには両者の複雑な関係にも思いを致していただければと思っています。

以下、今回の再掲にあたり加筆した部分です。

ところで、日本JCも憲法改正案を公表していますが、その内容を見ると、上記で解説した「JCIクリードとよく似た、日本国憲法の特徴的な部分」の幾つかについては、相当に改変ないし後退している印象を受けます。

特に、改正案は現行憲法と比べて民族主義、国家主義(国家主権?)的な面を強調し現行憲法の国際協調主義や自然権思想(人権は国家が付与するものではなく人に当然に備わっているという考え方)が大きく後退しているため、その点は、JCIクリードとも異なる思想と言うべきでしょう。

改正案(JC憲法案)を策定した日本JCの方々が、JCIクリードの破棄や改訂も求めて運動されているのかは存じませんが、そうした両者の関係性などについて、ご認識・ご意見を伺う機会があればとは思います。

ちなみに、「JC 憲法改正」などと検索すると、憲法意識の向上(改憲世論の高揚?)を目的とした運動に対する批判なども見つけることができます(引用したのは、いわゆる「市民派」の方のサイトのようにお見受けしますので、思想的にも真っ向対立という感じはありますが)。

余談ながら、JCも日弁連も、名実ともノンポリの方が中核をなす強制加入団体であるのに(JC会員の多くが、様々な人間関係などから半ば強引に入会に至ることは、笑い話ではありますが、必ず語られることです)、一部の人が団体の名前で先鋭化した活動をし、残りの大多数が関心を示さず放置、放任している(先鋭化している面々も、会員マジョリティと広く誠実な対話をして支持を得ようとする努力をあまり感じず、宣伝的な広報ばかり見かける)という点で、よく似た印象を受けます。

私自身は、大多数の国民(フツーのJC会員や弁護士を含め)は、党派的な主義主張を伴う極端な言説・現状変更ではなく、日常面の不具合を少しずつ改善するような穏健な議論・方法論を好んでいると思いますし、弁護士会もJCも、そうした中間派・ノンポリ層というべき大多数の国民のための憲法学、憲法論をこそ興すべきではないかと思っています。

残念ながら、そのような観点での有志による具体的な活動はほとんど(全く?)見られず、「憲法」を冠した小集団は、いずれも特定の党派的な主張を好む方々が、ご自身の見解を披瀝するための集まりになっているに止まっていると感じています。

本来であれば、異なる思想の持ち主と対話し、実務的、事務的な制度、慣行を中心に、穏健な方法での現状の改善を図る地道な営みが行われるべきではないか(それこそが、日本国憲法やJCIの理念、理想ではないのか)と思いますが、そのような光景を見かけることはほとんどありません。

法律実務家の集まりである弁護士会にも、様々な職業人の集まりであるJCにも、そうした各論的な地道な取り組みや意識の喚起を期待したいところですが、この種の問題に力不足の私には、高望みなのでしょうか。

私としては、JCIクリード(JCIの理想)は、米国で生まれたキリスト教の理想主義に基づく普遍的な人権思想に基づくもので、「それを組織の象徴として受容し掲げながら、それでもなお(或いは、そうであるがゆえに)民族主義的な思想信条を標榜せずにはいられないという矛盾」を抱えているように見える日本JCの姿こそ、とても人間的というか、日本ひいては戦後世界の姿を凝縮したような面があると思います。

そうであればこそ、JCの方々には、この矛盾と向き合い、苦しみながら、世界の人々が「個人の普遍的な尊厳と民族の矜持」(JC宣言に倣って個人の自立性と社会の公共性、と言い換えてもよいと思いますが)の双方を生き生きと協和させることができる姿を社会に示していただければと願っています。

政治過程の憲法不適合に関する官と民の役割と責任

平成25年7月に実施された参議院通常選挙に関する選挙無効訴訟の最高裁判決(最大判H26.11.26判時2242-23)が、直近の判例時報に掲載されていました。

参院選に関しては、平成22年7月に実施された参院選(議員定数配分規定が最大1:5.00)に関し投票価値の平等違反等が問われた最高裁判決(最大判H24.10.17)で、その選挙当時、本件定数配分規定の下で選挙区間の投票価値の不均衡は違憲の問題が生ずる程度の著しい不平等状態に至っていたが、本件選挙までの間に本件定数配分規定を改正しなかったことが国会の裁量権の限界を超えるとは言えない=配分規定が違憲とまでは言えない=違憲状態だが裁量違反なく違憲でない、とされています。

そして、当該判決を承けて、平成24年に公選法が改正されており、その改正法のもとで平成25年の参院選が行われたものの、議員定数配分は最大1:4.77の格差となっており、改めて、この論点に取り組んでいる弁護士の方々が、選挙無効を求めて提訴したものです。

最高裁は、今回も、違憲問題が生じる著しい不平等状態にあるものの、本件選挙までに定数配分改正がされなかったことをもって国会の裁量権の限界を超えるとは言えぬ=本条違反に至らずとして、原告の請求を棄却(違憲違法・事情判決とした2審を変更)しています。

但し、都道府県を単位として各選挙区の定数を設定する現行方式を改めるなど、仕組みを見直す立法措置が必要だと指摘し、できるだけ速やかに、そのことを内容とする具体的な改正を行うなどして違憲状態を解消すべきだと述べており、国会がこれに応じずに違憲状態を放置した場合には、次回(平成28年)の参院選に対する訴訟では、より厳しい判断が予想されると言えます。

判文や解説をきちんと読み込んだ訳ではありませんが、平成24年最判との違いとして、平成24年は違憲を主張する反対意見が3名だったのに対し、今回は反対意見が4名となっています。また、4名のうち1名(山本裁判官)は、1票の格差は2割未満でなければ許容されない(0.8を下回れば違憲)とし、0.8を下回る選挙区から選出された議員はすべて身分を失わせるべきという徹底した投票価値平等論に立っていることが、特筆すべき点として挙げられます。

この山本裁判官ですが、経歴(出身)をネットで確認したところ、前内閣法制局長官で、最高裁判事の就任時の記者会見で、当時の安倍内閣が推進していた集団的自衛権に関する議論に関し、現在の憲法の解釈の限界を超えると発言して注目を浴びた方であることが分かりました(当然、そのニュースは私も見ていましたが、お名前はすっかり忘れていました)。

もちろん、当時の議論・定義を前提にした発言でしょうから、その後に行われた閣議決定に対する見解を述べたものではないということになるでしょうし、さすがに最高裁判事の就任後は、山本判事がその後の集団的自衛権を巡る閣議決定などのシーンで存在感を示すことは無かったと思います。

とはいえ、国会の存立の基本というべき選挙制度に関する訴訟で厳しい判断を示されているのを見ると、「政のあり方(国会が憲法の基本原則に従うべき身の正し方)」について、強い信念をお持ちなのだろうと感じられます。

ちなみに、反対意見4名のうち残りの3名(大橋・鬼丸・木内の3判事)は、いずれも弁護士出身で、「違憲・違法を宣言すべきだが事情判決の法理により選挙は無効としない」との判断を示しています。政治的な対立を含みやすい論点で最高裁判事の票が割れる場合には、弁護士出身の判事が「少数派寄りの憲法の理想重視の少数意見」に立つことが珍しくないのですが、ある意味、(議員と同じく憲法の尊重擁護義務を負う)行政官の頂点というべき内閣法制局長官の経験者が、弁護士出身判事達よりも厳しく、憲法(国家権力のあり方を定めた法)の解釈について、最も先鋭的と言える意見を示している光景には、官の矜持とでも言うべき、大いに示唆に富むものを感じずにはいられません。

以前に、最高裁判事の経験者の方の著作で、実際の合議では、表に出せないような生々しい議論が交わされることもあるという趣旨の記載を読んだ記憶がありますが、前回よりも反対意見が1票増えていることも含め、こうした経歴の方に最も厳しい反対意見を表明させていること自体が、最高裁自身の、組織としての何らかの意思を示すものではないかと感じたのは、私だけではないのではと思われます。

ところで、山本判事は安倍内閣により任命されており、当時は、集団的自衛権の閣議決定を目指す安倍首相が、山本氏を最高裁に厄介払いしたなどと評する報道もあったような記憶もありますが、私個人の漠たる感覚としては、恐らくそれは一面的な見方というべきで、現下の社会情勢を踏まえて、山本氏の良さは現在の政治過程の中枢(法制局)よりも一歩離れた場所(最高裁)の方が生きるという「高度な政治判断」があったのではないかと思いたいところです。

ですので、山本判事の先鋭的な反対意見についても、単純に「政治(国会)と官(最高裁)の対立」と捉えるのも正しい理解ではなく、「官の最高峰まで上り詰めた人が、現在の国会議員の選出の仕組みは憲法の理念に反し、選挙無効=一部の議員の地位を剥奪すべきだとまで言っている。だからこそ、民(政治家はもちろん、国民全体)がそのバトンを受け止めて、選挙制度改革の気運を高めるべき」という、国民的な議論や運動(選挙制度改革を旗印にした政治勢力の登場などを含め)が求められていると言うべきではないかと考えます。

残念ながら、現在もなお、選挙制度改革を巡る議論等が国内で盛んに行われているとは到底言えず、このままでは、従前と同じく小手先だけの改正のみが行われ、平成28年の選挙では今度は反対意見がもう1、2名増えるだけ、といった展開になるのではと危惧されます。

集団的自衛権に関しては、選挙制度改革に比べれば、まだ議論のある方だとは思いますが、相変わらず、異なる政治的立場の持ち主が自分の価値観に基づく主張を繰り広げているだけの、価値観を異にする者同士の対話のない示威行動的な運動に止まっている感も否めません。

また、上記の観点からは、一票の価値の問題も、憲法9条に絡んだ問題も、根底の部分では相通じる面があるのに、それぞれに携わっている方々同士に何の連携も見られないという点も、憲法を深く考える上では、とても残念に感じます。

私自身は、異なる政治的価値観を有する者同士が、時に議論を交わし、時に妥協を重ねながら、平和的な手段・手続によって高次の政治的価値を実現していくべきだというのが、そうした社会を実現できなかった戦前の反省の上に立つ、日本国憲法の理念だと理解していますし、投票価値(政治的意思決定に対する終局的な影響力)の平等は、そうした社会を支える基本的な原則(インフラ)だと思いますので、そうした観点から、双方の論点を有機的に結びつけるような方向で、議論が深まればと思っています。

定数配分では往々にして有利な結果を享受している地方の立場からすると、定数不均衡問題では、ともすれば、現状肯定の発想に陥りやすいのではないかと思いますが、「国民一人一人の政治に対する影響力という価値が軽視されている表れなのだ」という視点に立ち、悪しきアファーマティブアクションとして断ち切るべき、地方の声を届けるのは別の手段によるべしとの姿勢も必要ではないかと思います。

なお、冒頭の訴訟は定数不均衡問題に取り組む2つの訴訟グループ(元祖派と升永弁護士派)のうち前者を当事者とするものですが、その主力メンバーとして携わっておられる方の中に、私が東京で勤務していた事務所に、私と入れ替わりで入所された先生がおられます。岩手県内に「定数不均衡問題に取り組んでいる弁護士さんから講演を聴きたい」との奇特?な方がおられれば、私までご一報いただければ、お役に立てることもあるかも知れません。