北奥法律事務所

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石川啄木

啄木の未完の志とふるさとへの宿題

今年のGWは遠出ができなかったので、せめてものということで啄木記念館に行ってきました。

館内は啄木の生涯を簡潔に説明しつつ関連する様々な資料や写真を展示しており、啄木に十分な知識があり関心の深い人にとっては相応に見応えがあるのでしょうが、「啄木とは、どのような人間で、社会に対してどのように意義のある関わり(貢献)をしたのか」についての一般向けの説明(とりわけ、若年者向けのもの)をほとんど見かけません。

そのため「ほとんど何の予備知識もなく啄木の名前と歌人であること程度しか知らない人」にとっては、見ても何だかよく分からないものばかり展示しているだけの施設という印象しか受けないのではと感じました。

私の理解では、啄木の意義(功績)は、明治という曲がりなりにも四民平等(身分制とそれに伴う様々な社会的桎梏からの解放)の理念が掲げられた社会において、一般の人々が自分自身の様々な感情(心象風景)を自分の言葉で伝えることの意義・価値を社会に広めた、言い換えれば、そのような営みを、皆がしていこうじゃないかと働きかけたという点だと考えます。

そして、啄木の歌が今なお多くの人に愛されているとおり、啄木が、平易でありながらセンスのよい言葉(言い回し)を用いた短歌を多く残したことは、聞き手に対し、そのような言葉(表現)の心地よさを感じさせ「自分の言葉で自分の気持ちを語る」ことの意義や価値(人々の心の解放)を、社会に浸透させてきたと言えるのではないかと思います。

現代は短歌という文化自体は当時より廃れたかもしれませんが「自分の気持ちを平易な言葉でセンス良く語る」という文化は、この100年以上の期間においてポップミュージックの気の利いた歌詞など様々な形で社会に浸透したとも言えるわけで、そのような意味では、啄木の歌はそれらの源流の一つと位置づけても過言ではないのではと思われます。

記念館の敷地内には与謝野晶子の歌碑もあったのですが、現代人の感覚からみれば、いかにも古めかしいというか、啄木の歌ほどの「現代人から見てもセンスがいい感じ」を受けず、そうした意味でも「100年以上先に残る仕事」を啄木がしたことは間違いないと思います。

このように考えているのは私だけでなく、以前に少し調べたところ、NHK盛岡放送局が同趣旨のことを述べた番組を放送していたようです(引用の記事は、現在は閲覧できない状態になっており、NHKは引用記事を復活させて記念館に掲示するよう働きかけていただきたいものです)。
http://www.nhk.or.jp/morioka/obandesu/newsnohatena/130430/index.html

しかし、以上に述べたようなことを伝える掲示などはこの記念館には全く見受けられません。それゆえ、意地の悪いことを申せば、この施設を運営する人々(お役所?)は、啄木の意義や価値を社会に伝えよう、多くの人に知って貰おうという考えを本当に持っているのだろうかと疑念を感じざるを得ません。

振り返ると、啄木の人生自体、金田一京助や宮崎郁雨など幾人かの理解者に恵まれたものの、自身や父の生活上の至らなさもあって?故郷の人々に「石もて追はるる」ように渋民を去り流浪の人生を送ったわけで、その本質的な意義が地域の大多数の人々に理解されない状態にあるのは、今も昔も同じということなのかもしれません。

先駆者であると共に成功の果実に接することなく貧困の中で無念の死を遂げた啄木は、渋民そして盛岡に余人には代え難い不朽の香気を遺しつつ、自身は、「産まれてくるのが早すぎた、100年後に生まれたかった、そうすればイケメンの俺様はポップアーティスト(シンガーソングライター)として財を築くこともできたのに」などと、天上で不満を述べているのではとも感じます。

啄木鳥は秋の季語だそうですが、啄木の人生は、春の訪れを告げつつ暖かい春爛漫の頃までに散ってしまう、早咲きの桜に喩える方がよいのかもしれません。

ふるさとの桜となりし啄木鳥は 春を告げるも春生きられず

ご承知のとおり、私はこのブログで「短歌(や川柳)のまがいものらしきもの」を時々作って掲載しています。これは、静岡県富士市の「ふじのくに田子の浦みなと公園」で山部赤人の歌碑を見て、蝦夷の末裔として返歌を作ってみたくなったというのがきっかけなのですが、「岩手の県北に生まれて、盛岡・函館・東京の3ヶ所を転々とした人間」の一人として、前述した啄木の意義・価値を、私なりの悪あがきで現代の人々に問い続けたいという気持ちの表れかもしれません。

私が訪問したときは、記念館では啄木が「一握の砂」の中で執筆した、「林中の譚」と題された寓話をもとに作られた紙芝居が上映されていました。

土木文明に狂奔し乱開発による富貴自慢に明け暮れる人類をサルが嘲笑うという類の話で、現代人にとってはさほどの新鮮味はありませんが、当時そうした問題意識を持っていたのは、足尾鉱山事件に関わった田中正造くらいでしょうから、晩年に見られた人民主権的(自由尊重)的な政治姿勢も含め、当時なら先駆的な知見ということになるのではと思われます。

と同時に、そのこと(自然尊重と畏敬)は、北東北の片田舎で育った我々にとって当たり前の事柄でもあり、そうであればこそ、それらの根底にあるもの=縄文あるいは蝦夷のアイデンティティを何らかの形で再興させていく責任を我々は負っているのではと思わずにはいられませんでした。

明治村と江戸東京たてもの園が伝える大日本帝国の光と影、そして水沢三偉人のメッセージ~愛知編②~

愛知旅行編の2日目ですが、本日は丸一日「博物館明治村」で過ごしました。明治村に来たのは初めてですが、かねてから帝国ホテル旧館などを拝見したいと考えていたので、もう一つのメイン目的地「サツキとメイの家」ともども、思い切って行くことにしたものです。明治村は丸一日歩いても足りないほど広大で学ぶものも多く、大いに満足させられました。
http://www.meijimura.com/

私自身、帝国ホテル旧館があることくらいしか事前知識がなかったので、パンフを片手に説明掲示を読みながら歩いていたのですが、石川啄木が東京時代に家族と共に住んだという「本郷喜之床」なる建物が移築されていたのには、少し驚きました。

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当事務所は「啄木新婚の家」の目と鼻の先にあるほか、私自身、大まかに言えば岩手県北(二戸)→函館→東京→盛岡という人生を辿っていますので、啄木とは人生航路が妙に近いものがあります(詩才には恵まれませんでしたが、カネにだらしない人間にもならずに済んだとは思います)。

啄木一家が住んだのはこの建物の二階だそうですが、残念ながら二階は立ち入ることができず、その代わり開け放たれた障子から啄木の等身大パネルが顔を出していました。村内には「啄木くん」が明治の文化?を開設する掲示もあり、盛岡や函館の各種施設での雄姿を含め、まるで生前の放蕩生活のツケを払っているかのように死後も半永久的に働かされている印象を受けないこともありません。

そんな「働き者の啄木くん」の姿に感じながら一句。

愛知まで 歌を詠まんと 出でにけり
とこしえに 出稼ぎせんとや 生まれけむ

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ところで、私は今年の6月に、「江戸東京たてもの園」を拝見したのですが、明治村と「たてもの園」は、共に「主に明治(或いは江戸末期)から大正期の本物の建物群を現地に移設して保存している施設」でありながら、その雰囲気はまるで逆と言って良いほど、対照的ではと感じました。
http://tatemonoen.jp/

少し具体的に述べると、明治村は、華やかな帝国ホテルを筆頭に、文明開化の象徴である鉄道(運行されているものの一つは、品川・横浜間で活躍していた車両なのだそうです)、郵便、学校や病院、軍事施設など、大日本帝国の威信を感じさせるものを中心に、キリスト教会などを含め明治文化の多様性や開放性を感じさせる様々な施設群があり、掲示されている説明文なども、大久保利通が推進した殖産興業に関するものを含め、明治の先人の「列強に追いつき、追い越せ」の努力を肯定的に描写しているものが中心になっているように思います。

これに対し「たてもの園」は、15年戦争(日中~太平洋戦争=大東亜戦争)や関東大震災を想起させる建物が多く、明治村に比べると、全体として何となく「暗い」雰囲気が随所に漂っているように感じます。

その象徴は何と言っても高橋是清邸であり、「2・26事件」で高橋蔵相が殺害された現場である二階の寝室は、今もそうした霊気ないし冷気を感じさせるものとなっています(携帯で撮影した写真がサイズオーバーとのことで、ご参考までに他の方のブログを貼り付けます)。
http://teitowalk.blog.jp/archives/24604881.html

また、大財閥・三井家の邸宅も移築されていますが、建物の雰囲気は、戦前の華族・財閥の栄華だけでなく戦後の彼らの没落を否応なく感じさせるものとなっており、明治村に比べると、「暗い」感じを強く受けます。

私自身はこの邸宅を歩きながら、幼少期にテレビで視た、横溝正史シリーズの「悪魔が来たりて笛を吹く」の微かな記憶(映像)を思わずにはいられないところがありました(同作品は、敗戦直後の子爵邸で生じた連続殺人事件とその原因たる旧華族のドロドロの人間模様を描いたものです)。

だからこそ、私自身は、「明治村」と「たてもの園」は、戦前の光と影をそれぞれ伝えるために生まれた、一連一体の施設ではないかという印象を抱かずにはいられませんでしたし、そうした「大日本帝国」期の日本の姿を体感できる2つの施設は、現代の日本人にとって、ワンセットで訪れるべきものではないかと強く感じました。

ただ、商売っ気がほとんど感じられない「たてもの園」は言うに及ばず、明治村も「テーマパーク」という見地からすれば、これに類するディズニーや日光江戸村(昨年のGWに初めて行きました)と比べると、入場者数はもちろん、コンテンツの充実度なども、観光客の立場から見ると大いに見劣りすると言わざるを得ません(飛騨牛の牛鍋を当時のままの店舗内で大変美味しくいただきましたが、それだけに知名度やPRの不足を残念に感じます)。

明治村内にも、明治期の和装姿の男性などが申し訳程度?に歩いておられるのを拝見しましたが、ディズニーらでは「キャスト」と呼ばれる仮装者らが園内を余すところなく闊歩し来場者に異世界に来たとの高揚感を盛り上げていることと比べると、せっかく「本物」の建物群を擁しているのに、ソフト面でそれを徹底活用するような試みがあまり見られないのは、残念なことではと感じました。

例えば、江戸村のように様々な明治人を物語風に造形して闊歩させたり、ディズニーのパレードや江戸村の花魁道中に対抗して鹿鳴館風の仮装パレードかバッキンガム宮殿風の壮麗な閲兵式なども考えてもよいのではと思うのですが、どうなのでしょうか(建物内でのパフォーマンスは、本物ゆえの制約があるのかもしれませんが)。

また、ぜんぜん「江戸」になっていない江戸東京たてもの園は言うに及ばず、「明治村」という名称も、集客(特に、海外向け)という点では、とてもセンスがないように感じてしまいます。

「明治」や「昭和」は所詮、日本国内でしか通用しない概念ですし、まして、明治どころか昭和すら遠くなりにけりの現代ですから、いっそ元号ではなく、この空間を象徴するキーワードである「大日本帝国」という言葉を全面に押し出してよいのではと思います。

例えば、明治村に「大日本帝国物語~栄光の明治編~」、たてもの園に「同~鎮魂の昭和編~」などというサブタイトル(キャッチフレーズ)でも付して世界に売り出してはいかがでしょうか。

大日本帝国などと称すると隣国から無用の反発を受けるなどと批判される向きもあるかもしれませんが、戦前の光と影の双方に向き合い、それを学ぶための施設だということを説明できれば特段の問題はないと思いますし、日本の近現代の足跡を世界に理解を求めるという意味でも、何より、未だに「大日本帝国」という存在を消化、清算できていない現代日本人がこれと向き合う契機にするという意味でも、「大日本帝国の光と影を学ぶ場所」というコンセプトを、両施設は全面的に打ち出して良いのではと思います。

その上で、単なる学習施設にすることなく、十分な集客力と感銘力のある学習と娯楽の双方の機能をセンスよく兼ね備えたコンテンツの構築を考えていただきたいところです。そうした意味では、オガール紫波に代表される民営による公共サービスの新たな形(稼ぐインフラ)が模索されていることが、そうした施設の運営のあり方を考える上で、参考になりそうな気がします。

ところで、岩手には「大日本帝国の光と影」を強く感じることができる施設があることを知っている人は、県民といえど多くはありません。

奥州市(旧・水沢市)は、地元で輩出した幕末の蘭学者・高野長英(蛮社の獄で死亡)、後藤新平(明治後期~大正期の政治家で台湾統治や関東大震災の復興政策の従事等が有名)、斎藤実(軍人、政治家。昭和初期の首相で親米軍縮派の巨頭)の3人を「水沢三偉人」として記念館を建てて顕彰しており、3つの記念館を順番に廻ると、幕府がどのようにして終わり、明治日本が何を築こうとし、どうして破綻したのかということが、それなりに分かるものとなっています(私は5年ほど前に一度だけですが訪れたことがあります)。

だからこそ、後藤新平記念館は「明治村」に、斎藤実記念館は「たてもの園」に似ており、特に、高橋是清邸を訪れた岩手人は、斎藤実(内大臣)が高橋蔵相と共に2・26事件で凶弾に倒れたことも想起せずにはいられないのではないかと思います。後藤記念館の「華やかさ」と斎藤記念館の「暗さ」という点でも、両者のパラレルさを感じずにはいられないところがあります。

「たてもの園」のハイライトが高橋是清邸であるように、斎藤記念館も、2・26事件の原因(軍部台頭の背景の一つとなった昭和恐慌と東北の困窮)と顛末を描いたところで終わっています。

そのことを踏まえて、「そのあと」すなわち大戦で国家・国民・海外に生じた惨禍と教訓を現代人に伝える施設等がどれほど存するのかと考えると、靖国神社の遊就館(5年ほど前に拝見しました)や広島・長崎の原爆資料館など(残念ながら未見です)が思いつく程度で、国民や外国人観光客から広く「一生に一度は行くべきだ」と共通認識を得られているような著名なものはあまり存在していないのではないか(少なくとも、「体感」できるものは原爆ドームなど広島・長崎の現存施設くらいでは)と、残念に感じました。

また、「明治の前(幕府の終焉)」という点でも、水沢の高野長英記念館に匹敵する学習施設が国内にどれだけあるのだろうと考えると、私の知識不足かもしれませんが、あまり思いつくものがなく(萩はまだ来訪の機会に恵まれていません)、その点も寂しいような気がします。

大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰を指して「維新はこの男から始まった」というキャッチフレーズが使われていましたが、高野長英記念館を一通り廻れば「維新(幕府の終焉)は、本当はこの男から始まった」と思わずにはいられなくなる面はあります。

そうしたことも含め、近現代の光と影や来し方・行く末、教訓などを、現代人が正しく(欲を言えば、広義に「楽しく」)学ぶことができる営みがもっと盛んになされればよいのではという思いを、明治村を拝見しながら新たにした次第です。

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南部人たちの桜

平成25年1月に盛岡の先人(明治~戦前に活躍した方々)について少し書いたものを再掲します。

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平成25年に放送された大河ドラマ「八重の桜」で、明治維新期における東北の苦闘の歴史に光があてられていますが、旧南部藩に身を置く者としては、岩手方面も取り上げていただきたいと思っているところです。

岩手県二戸市は、八重から少し遅れて出生し、東京帝大物理学科の第1期生となり、日本の物理学、地震学等の父と言われた田中舘愛橘博士を輩出しているのですが、現在(※この投稿の掲載時)、盛岡市中ノ橋通の「盛岡てがみ館」では、愛橘博士の業績や親交などをとりあげて展示をしています。

本日、弁護士会の相談担当日だったので、遅まきながら、昼食の合間に見に行ってきました。

盛岡市の事業という性質もあり、盛岡の同時代人と博士との親交に関する展示が多いのですが、その中に、「博士と親交があった旧制盛岡中学(現・盛岡一高)の先生(既に高齢の方)を教え子達が祝う会の写真」というのがありました。

で、そこに写っている面々なのですが、愛橘博士とその先生を真ん中に、蒼々たるという言葉を超えて、物凄い面々が取り囲んでいました。

まず、両隣を板垣征四郎(大戦当時の陸軍大将でA級戦犯として刑死)と米内光政(海軍大将から首相となり、海軍の対米穏健・戦争回避派の筆頭格)が座っており、その横には、鹿島(岩手発祥の日本最大の建設会社)の社長や三井物産?の役員(社長?)、金田一京助(国文学者)などが並んでおり、解説には、既に亡き石川啄木も彼らの同級生(又はその前後)であった旨の記載がありました。

恐らくは、大戦の数年前に撮影された写真と思われますが、当時の陸海軍、財界、学界に大きな力を持っていた人々が一堂に会した場と評して差し支えなく、もし、原敬(旧盛岡藩家老職の家柄に生まれた元首相。愛橘博士と同世代で仲も良かったものの、暗殺で死亡)も存命でその席に加わっていたなら、改めて、「南部にとっての明治維新は、この場をもって完全に終わったのだ」と高らかに述べたのかもしれません。

いずれ、大河ドラマなどで、「南部人たちの桜」とでも題して、こうした人々の群像劇を取り上げていただければと思っています。

余談ながら、ネットで色々見ているうちに、こんな本も見つけたので、読んでみたいと思いました。