北奥法律事務所

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蝦夷

さんさ踊りを楽しむ人々と、里から消えてゆく者の今昔

盛岡市は1日から4日まで「さんさ踊り」が絶賛開催中ですが、当家は、地域に背を向けて生きる残念家族のせいか?何年も前から単なる平日と化しています。

ただ、10年以上前、盛岡青年会議所の会員(さんさ担当委員会のヒラ委員)として、一日だけパレードに参加したことがあります。

といっても、踊りも太鼓もできませんので、JCの山車の曳き手の一人として加わっただけですが、それでも雰囲気に圧倒され、大変楽しかったことを覚えています。

JC入会直後には(修習生のときは参加したくてもできなかったので)

これで今日から俺も、さんさメンバーだ!

といきり立って専用のオレンジ色の浴衣セットを購入したのですが、その年の7月に重大事件の受任でかかりきりになったのをはじめ、練習に参加する余裕もチラ見で習得するセンスもなく、9年も在籍したのに上記のたった1回だけ、袖を通すに止まりました。

それでもゼロ回よりは遙かにマシで、おかげさまで、ささやかながら心残りせずに卒業できましたが。

この浴衣セット、恥ずかしながら、現在も当事務所のロッカーの片隅に埋もれています。

卒業するとき、もったいないので欲しい後輩がいれば、売却・・・もとい贈与したいと思ったのですが、そうした話ができる方もなく、残念ながら上記の有様が続いており、どうしたものやらというのが正直なところです。

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ところで、先日、市内中心部で長年に亘りデザイナーズブランド衣料の販売に従事されていた方(盛岡市民の多くが、あれか!と分かるファッションビルの経営者だった方)から、刀折れ矢尽きたとして後始末のご依頼を受け、先般、一苦労の末に法的手続を行いました。

経営者の方に倒産に至る経緯の概略を伺いましたが、震災やウイルス禍などもさることながら、某地銀の勧めで多額の借入をしてビルを建てた矢先にイオンの進出で大ダメージを受け、それが命取りになったとのことでした。

私は市内中心部の著名物販店の破産申立をお引き受けしたこともありますが、このような話は、震災前に倒産事件や破産管財人を多数お引き受けしていた頃によく聞いた話です。

さんさのパレードの中で、沢山の人員を擁し、ひときわ大きな存在感をもって参加している団体としてイオンチームがありますが、上記のような話に多く接してきた身としては、イオンに限らず地元の大企業の方や学生さん達が参加者の中心になっている(反面、地元の小規模事業者などの参加は多くない?)さんさの光景に、複雑な印象を受けてしまう面もあります。

上記の社長さんは「儲かっていたときは借りてくれと頼んできたのに経営が傾いた途端に貸し剥がしのような対応や罵声を延々浴びせてきた地元銀行の担当者に、非常に悔しい思いをさせられた」と仰っていましたが、その銀行さんもパレードの主力団体の一つとして参加・活躍されています。

三ツ石神社の鬼の姿は見えなくなったかもしれませんが、今も街の片隅には様々な悲しみや怨嗟の声がどこかに吸い込まれ、やがて、パレードを楽しむ皆さんに復讐するかのように、幽鬼を呼び寄せることもあるのかもしれません。

・・・などという不穏な話はさておき、皆さんは、今のうちに祭りにいらして楽しんでいただければと思います。

***

私は、さんさ踊りの由来とされる「三ツ石神社の鬼の物語」とは、弥生人がこの地に進出した際、先住民たる縄文人(蝦夷の祖先たる山の民)と衝突した物語が原型なのでは?と想像しています。

そのように考えれば、現在のさんさを取り巻く光景も、ある意味、先住民が人里から排除され移住者に取って代わられていった残念な歴史の繰り返しが含まれているのかもしれません。

などとFBで書いたところ、地元の方から、時代が違う、三ツ石神社の手形はサイズが大きすぎるから、薬品を塗ったものか、昔々この地に辿り着いたロシア=北方大陸系住民じゃないかとのコメントを頂戴しました。

Webでチラ見した限りでも、この点はきちんとした調査等がなされていないようでもあり、ぜひ本格的な識者による調査研究を期待したいものです。

オクラホマの若者が蝦夷の夢をみるとき

先日の盛岡北RCの例会は、米国オクラホマ州からの短期留学生(17~18歳の男女約10名)の歓迎会を兼ねるもので、盛岡西北RCと合同で、ホテル大観で行われました。

私は例会だけでお暇しましたが、直後には有志の方々により着付けとさんさ踊り体験指導がなされたとのことで、その他の盛り沢山のRC歓迎行事と併せて、留学生の方々は満足して帰途につくものと思われます。
岩手県盛岡市 米の高校生「さんさ踊り」を体験 (tvi.jp)

ただ、折角なら「どうしてオクラホマの若者が、盛岡(岩手)に来る理由があるのか」について、RC関係者の方々から一言頂戴できれば、なお良かったのではないかと思いました。

日本人なかんずく岩手人にとって、オクラホマは全く馴染みのないない場所ですが、米国大陸の「へそ」にあたる、ど真ん中やや下の位置(南はテキサス)で、ロッキー山脈西側の大平原(グレートプレーンズ)を構成する諸州の一つであり、誤解を恐れずに言えば、地形的にはウクライナによく似ていると言って良いかと思います。

この地は、かつてインディアンと呼ばれた先住民(ネイティブ・アメリカン。以下「NA」)の本拠地の一つであり、東海岸で英国移民(アングロサクソン)により建国された米国が版図を西側に急拡大していた1700年代に、利権を主張する他の西欧国家との抗争の勝利という形をとって米国に編入されています。

が、実際の統治ないし社会運営を巡っては、移民(侵略者)たる白人と先住民たるNAとの間で激しい抗争があり、最終的にNA側が敗北し、1800年代頃には、多くのNAが故郷を追われると共に、白人による入植や、それに伴う農園労働力たる黒人奴隷の大量移住が行われ、現在の人種構成に至っていると言われています。

ここまでご覧になって、それってどこかで聞いた話に似ている・・と感じませんか?

そう。

古代において列島の西から興り弥生人=大陸由来民を中心に形成されたヤマト王権が、縄文の暮らしを色濃く残す東のエミシの部族集団(日高見国)を制圧していった光景を。

アテルイ、安倍氏、奥州藤原氏、九戸戦役、戊辰戦争などに彩られた岩手の歴史を。

北海道(アイヌ)を含む北日本の人々が辿った長い長い物語を。

それが脳裏に浮かばなかった岩手ケンミンの貴方は岩手人を名乗る資格が危ういので、イチから郷土史を勉強し直して下さい。

このように、帝国(異民族征服・統合国家)としての米国などの建国史は、その観点からは、日本の建国史とさほど変わりありません(その点はロシア等も同様でしょう)。

そして、蝦夷≒縄文人であれ、米国のNAであれ、有史以後の被征服民の多くが、遠い遠い昔、世界各地を横断した古モンゴロイドと呼ばれる人々の末裔であることも、よく知られている話です。

だからこそ思うのです。

社会経済上、直接にはほとんど何のつながりも持っていないだろうオクラホマの若い短期留学生達を、岩手・宮城のRCが長年に亘り世話することになったのには、何らかの見えざる力が働いていないだろうか。

歴史の中に忘れ去られ、取り残された蝦夷≒縄文=古モンゴロイド=NAの血が、声が、双方の出逢いを促したのではないか。

ホテル大観にいらしていたオクラホマの若者達は多くが白人でしたが、黒人の方が1名、NA由来か東洋移民系かは不明ですが、いわゆる黄色人種(モンゴロイド)の血が入っているのではと感じる方も1~2名ほど?いました。

彼らが故郷の複雑な歴史を正しく学んだ上で、人種を巡る米国の厄介な問題を克服し、人類共通の福利のため力を合わせていける光景を願っています。

そうであればこそ、岩手の人々にも、彼らの姿から蝦夷の末裔としての誇りを、そして、自分達のあるべき道を考えていただければと思います。

もとより、私は「被征服民(蝦夷・NA)ばかり同情し、征服者(弥生人・白人)を非難したい」のではありません。前回の投稿(岩手県立病院物語)でも触れたとおり、科学的・合理的知見が伝播したことで、健康や富に限らず不合理・抑圧的な陋習から人々が解放された面はあるはずですし、何より、双方の文化・思想が交わることで新たに社会に生み出された価値あるものが数多あるずだと確信しています。

であればこそ、歴史とその功罪、失われたものと生み出されたものの双方を適切に学び、自身の現場での役割へと昇華させる努力が各人に求められているのであり、異なる人種・文化・社会が激しく衝突した歴史を共有する岩手とオクラホマの人々は、互いの経験を知ることで、各人の実践に活かせる面が多々あるのではと考えます。

そうした話が岩手の人々とオクラホマの若者達との間で語られる光景を夢見つつ、大観の玄関で飲湯しながら「温泉入りたかった・・」と捨て台詞を残して、終わりなき日常に戻っていった次第です。

NYタイムズを巡る報道や反応と、見落とされた幾つもの視点

先般から、NYタイムズで盛岡市が紹介されたとの記事で報道やSNSが賑わっており、今後も観光等への波及効果が期待されます。
ニューヨーク・タイムズ「行くべきは盛岡」 世界2番目の旅先に: 日本経済新聞 (nikkei.com)

この記事では、「2位だ」と歓喜する文章を拝見することが多いですが、掲載直後にFBで紹介されていた本文(英文)をチラ見した限り、番号は紹介順であり順位を示したものではないのではと感じました。

もちろん、2番目に紹介されること自体、順位に匹敵するほど優先的に注目されることを意図して掲載したのだろうとは思いますが。

また、本文(英文)では盛岡城を紹介する下りが「ancient castle」になっており、これは適切ではない(medieval castle=中世の城が正しい)と思います。

鶴ヶ池の写真を用いながら志波城を推奨しているわけではないでしょうし。

記事賛美も結構ですが、地元民がそうした点をきちんと指摘し来訪者などに伝える力を持つ方が、記事自身が期待していることではと思います。

ともあれ、私自身は、盛岡は昔から、パリのような街だ(旧市街たる河南周辺=盛岡城以西と新市街たる大通など=盛岡城以東に分かれている)と思っており、双方(旧市街・新市街)の特色が際立つように整備・開発すれば良いのにと思ってきました。

が、市民は旧市街の保全や新市街への現代建築の集約にさほど熱心とはいえず、新市街側の開発がさほど進まない一方で、旧市街に次々とマンション等が立ち並んでいたのを残念に感じていました。

今回の件が、そうした傾向に歯止めをかけることができるなら、それ自体は望ましいとは思っています。

他にも、このブログでも過去に触れてきた「まつろわぬ者(蝦夷など)たちの本拠地」という歴史的な観点も含め、記事で言及されていない多くの特色が見直されるきっかけになればと願っています。

(R05.4.1追記)

先般、盛岡市の「みそ、つゆ・たれ、ホウレンソウ、ワカメ、中華麺」の購入額が全国1位だとのニュースがありましたが、豆腐が2位(昔は1位)などという話も踏まえて、盛岡駅の看板も、

大豆をダイズにスてます 緑あふれる麺都もりおか

などと書き換えた方が、NYタイムズに続き、さらに世間の注目を得られるかもしれません。

矢巾町と郡山市の共通点と蝦夷の怨霊

平成25年3月に、矢巾町の歴史民俗資料館に立ち寄ったところ、タイヤが雪道に嵌まり脱出に難儀した件に関する旧ブログの投稿を再掲しました。

岩手における矢巾町の歴史的特殊性(中央政権によって作られた街としての面)を福島県郡山市との類似性も交えて述べており、矢巾や郡山の方のほか、興味ある方はご覧いただければ幸いです。

***

この日、久しぶりに紫波警察署に接見に行ったので、先日、「蝦夷の古代史」という本(平凡社新書)を読んでいたこともあり、帰りに矢巾町の歴史民俗資料館に立ち寄りました。

この施設は、大和朝廷の東北侵略事業(領土化)における最後の前線拠点とされる徳丹城跡(の隣)に建てられており、国道4号線からすぐ(100m位)のところにあります。

ただ、冬期は訪れる人もほとんどいないようで、管理人さんが1名のみ、しかも、どういう理由か、建物内ではなく、建物正面の駐車場に車両を駐車させて待機していた(外出先から戻ったばかりなのかもしれませんが…)という状態でした。

しかも、昨夜から本日にかけての大荒れの天気のせいか、国道から入る道も全然除雪されておらず、入館者向けの記帳をするように言われたので見てみると、最後の入館者は1月初旬とのことで、雪のない時期に来ればよかったのかも…と少し後悔しながら見学を開始しました。

ちなみに、本日の4号線は、「上空は晴天なのに、暴風で田畑の雪が強烈に舞い上がって地吹雪体験となり、時速某㎞(自粛)で走っているのにホワイトアウトが間断なく訪れる」という恐ろしい状態で、その上、後述のように、悲惨な目にも遭いました。

資料館そのものは、徳丹城と矢巾町の集落遺跡などを説明するコンパクトな施設ですので、すぐに見終わってしまうのですが、私が感じたのは、「この施設(展示)は、徳丹城を造営した大和朝廷の立場・視点から作っている」ということでした。

というのは、文章等もさることながら、徳丹城コーナーの最初のエリアに「蝦夷軍と戦う大和朝廷軍を描いた絵」というのがあるのですが、絵の目線が完全に朝廷側になっていて、「武具に身を包み勇ましく戦う朝廷の戦士」と「斬り殺されてムンクないしアベシ顔になっている蝦夷の賊徒」といった様相になっているのです。

ですので、蝦夷側の視点でこの地を見るのを好む私としては、けしからんと言いたくもなりましたが、それはさておき、数年前、福島県郡山市でこれと似たような感慨を抱いたことを思い出しました。

郡山市の中心部に「開成山公園」という名所があり、そのすぐ近くに「開成館」という郡山市の歴史を伝える施設(確か、昔の役所跡だったはずです)があるのですが、開成館の展示は、東北にありがちな「土着勢力と中央政府との抗争や苦闘の歴史」を描くものではなく、「郡山が、維新政府による大規模開拓(安積疎水)を礎として築かれた都市であることを確認し、開拓を推進した政府の元勲等を顕彰する」ことを目的とした内容となっており、東北の都市としては、異色さを感じずにはいられませんでした。

そして、矢巾町は、蝦夷をはじめ土着勢力の拠点となった歴史がない一方で、徳丹城という、大和朝廷(中央政府)の重要な出先機関(拠点都市)となった歴史があるため、郡山市と同様に、「中央政府寄り」のメンタリティを持ちやすい自治体であり、それが、「底流に流れるもの」として、上記のような展示にも反映されたのではないかと感じた次第です(矢巾という地名も、前九年の役=源氏侵略に由来するようです)。

余談ながら、矢巾町の吸収?合併は、盛岡市にとっては(ほぼ断念に追い込まれた)滝沢村(滝沢市)と並んで、長年の悲願の一つとされ、矢巾町がこれに応じてこなかった理由は、主として経済的なもの(巨額?税収の基盤となる流通センター)と言われることが多いと思います。

が、土着勢力の拠点都市としての長い歴史を持つ盛岡市(南部家は言うに及ばず、古くは安倍氏の本拠地とされています)と、中央政府の拠点都市としての歴史ないしアイデンティティを持つ矢巾町とでは、ある意味、相容れないというか、共感しあう土台づくりに工夫を要する面が隠されているのではないかと、妄想を逞しうせずにはいられないところがあります。

とまあ、そんなことを考えながら、資料館を後にしたのですが、すぐに、とんでもないハプニングに見舞われました。

前記のとおり、4号線から資料館に入る細い道は、冬期来訪者の少なさもあって分かりにくく、積雪も多い状態になっていたのですが、轍に沿って走っていたつもりが、あれよあれよという間に(氷に滑って?)、道路脇の積雪にはまって動けなくなってしまったのです。

幸い、資料館の管理人の方がスコップを持って救援に駆けつけて下さったので、2人であれこれ雪かきをしたのですが、それでも動きません。

しかたなく、6年強ぶりにJAFに出動をお願いしたところ、到着まで3時間半を要するとの返事。

ガーンということで、とりあえず要請はした上で、その後も管理人さんの支援を得つつ地道に鉄製のスコップで氷雪と闘い続けたところ、約40分ほどして、ようやく脱出できました。

終わりよければすべてよしで、雪国暮らしらしくない文明の恩恵に浴した生活を送っている身には、たまには肉体労働に勤しむのも良しと思ったものの、反面、「1200年以上も前に、この地で徳丹城造営に駆り出された蝦夷の人々の呪いだろうか」と思わずにはいられませんでした。

というわけで、矢巾町民の皆さんはもちろん、盛岡広域圏その他の皆さんも、徳丹城に末永いご愛顧をいただければと思います。

(2013年3月2日)

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

なお、お店や食事の写真は撮り損ねたため、代わりに、翌日に赴いた快晴の城岱牧場から望む函館弯・函館山の風景をご堪能下さい。バスク地方にも、似たような景色がありそうですし。

本当は怖い?「サツキとメイの家」と縄文圏から吹く風~愛知編③~

愛知旅行編のラストです。毎度ながら大長文ですいません。

もともと、今回の旅行は、数年前に家族が「トトロ」をDVDで繰り返し見ている時間があったので、当時から一度はサツキとメイの家を見に行った方がよいのではという考えがあったからでした。

そして、同施設が保存されている「愛・地球博記念公園」に行き、実際に訪れたところ、幸い事前にコンビニでチケットを購入しなくとも無事に入館でき、最初の15分ほどを建物内、次の15分ほどを敷地周辺を巡る形で、つつがなく観覧を終了できました。

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私自身は「トトロ」ファンではありませんので(子供の頃はナウシカとラピュタは何度も見ましたが、トトロは女の子の見るものという偏見があり、大人になるまで見ませんでした)、淡々と中を拝見していましたが、お父さんの部屋の書棚を見ていると、不思議な光景に気付きました。

書棚には各県の民俗史や通史、考古学業界?関係の雑誌などが積み上がっていたのですが、埼玉県や同県などの市町村の歴史をまとめた本(自治体が編纂、出版しているもの)が並んでいる一角がありました。

で、そのコーナーを見ると、蕨市、大宮市や武蔵野市、武蔵村山市(旧・村山町)といった埼玉又は東京北部の自治体の史書が置いてあり、一般的にはこのエリア(狭義には狭山丘陵)が「トトロ」の舞台=本物の草壁家の所在地と言われていますので、そうしたことを考慮して選定されたものであろうことは、誰にでも分かることだと思います。

が、どういうわけか、その中に「北上市史」という本が含まれているのに気づきました。現在の埼玉県や東京都に「北上市」が存在しないことはもちろん、私の知る限り、このエリアにかつて北上市という自治体があったという話も聞いたことがなく、「北上市」とは、あの北上市、すなわち岩手県北上市しか思い当たりません。

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wikiで検索した限りでも、他に「北上市」という自治体は無いようですし、作品内でも北上市が何らかの関わりを持ったこともないはずですので、この棚の作り手(宮崎吾朗氏でしょうか)が、何らかの事情で東京・埼玉の自治体群の市史に混ぜる形で北上市の市史を差し込んだと考えるのが自然ではないかと思います。

誰がどのような理由でそれを決めたのか、私には分かりませんし、ネットで「サツキとメイの家 お父さんの本棚 北上市史」などと検索しても何の手がかりも見つけられませんでしたので、ここから先は完全に私の想像になりますが、私は、宮崎駿監督又は同氏の思想に共鳴する方が、次のような確固たる理由をもって意図的に北上市史を差し込んだものと考えます。

まず、「トトロ」は日本に昔から存在(居住)する化物(神)を指しているところ、このような異形の神を信奉する観念は、弥生文化(人間中心主義、科学的合理主義)ではなく縄文文化(アニミズム=自然崇拝)に属するものと理解しています。

そして、西から興り古代日本を制圧した大和朝廷は弥生文化を信奉する王朝であり、これと対峙した「蝦夷」の社会は、国家として統合されることなく集落(部族)ごとに集団生活を営むのを原則とするなど縄文文化の痕跡を色濃く残していた社会だと一般的には考えられていると思います。

また、日本書紀などでは大和朝廷に征服される以前の多くの蝦夷らの部族によって形成されていた社会を、総体として「日高見国」と呼んでおり、この日高見国(の本拠地)がどこにあったのかという歴史論争も過去にはあったように聞いたことがありますが、少なくともヤマトタケルの時代であれば、大和朝廷と戦っていた蝦夷の本拠地は、まさに武蔵国のあたりになるのではないかと思います。

このように考えると、あの本棚の制作者はトトロの棲家たる狭山丘陵周辺を「トトロを神として敬ってきた蝦夷のクニ(日高見国)の本拠地」と考え、その思想を表現するため、日高見国の名を継ぐ唯一の自治体である北上市の市史を敢えて本棚に差し込んだのではないかというのが、私なりの想像です。

ちなみに、北上にも、三内丸山や大湯環状列石ほどメジャーではありませんが、樺山遺跡という縄文時代の面影を残すエリアがあり、なかなか良い味わいがあります。
http://www.kitakami-kanko.jp/kanko.php?itemid=193

なお、wikiによれば、トトロの元ネタは宮沢賢治の「どんぐりと山猫」なのだそうで、その線も考えられなくもないのですが、そうであれば、賢治自身とほとんど関わりの無い北上市ではなく花巻市史か盛岡市史を差し込んだはずで、やはり「日高見国」がキーワードではないかと考えます。

もちろん、以上は私の想像に過ぎませんので、本当の理由をズバリご存知の方がおられれば、ぜひご教示いただければ幸いです。

ところで、縄文文化に光を当てた芸術家といえば何と言っても岡本太郎氏が有名ですし、私自身は、宮崎監督の作品群からはアニミズム(縄文的な感性)との親和性を感じ、岡本氏と同じ系譜に属する方ではないかと思っています。

そうした「縄文的な感性」を今に伝える巨匠が現在もいるのか(誰か)と考えると、ちょっと思い当たりません(先日に投稿した「シン・ゴジラ」考で述べた印象からは、庵野監督はこの系譜とは少し違うような気がしています。庵野監督がこの系譜に属する方なのであれば、次回作ではゴジラに変わる現代の異形の怪物を造形していただければと願わないでもありません)。

考えすぎかもしれませんが、縄文文化(アニミズム)の精神を現代に伝える巨匠の不在が続くと、やがては我国における縄文文化(多様性や異形の存在への畏敬)と弥生文化(社会・人民の統合と科学的姿勢)のバランスを危うくし、後者が勝ちすぎた挙げ句、仕舞いには画一的、統制的で驕慢な社会を生み出すことに繋がらないかという危惧がないわけではありません。

「トトロ」に関しては物語の内容をホラー的に解説する都市伝説を拝見することもありますが、上記のような文化的衰退が生じることこそが本当の意味での「恐ろしさ」というべきで、そのような事態にならないよう、現代人としての気概が求められるというべきではないかと思っています。

そんなことを考えつつ、サツキとメイの家の周辺の森を散策しながら一首。

巨匠らの夢に宿りし いにしえの森と風の精 いまはいずこに

その日の午後は、名古屋港水族館に行きました。凄まじい大混雑で、じっくりと生物を見ることができませんでしたが、沢山の魚介類などに混じって、ザラブ星人とケムール人を思わせる方々を発見しました(未見の方のネタバレ防止のため、写真の引用はしませんが、知りたい方は「名古屋港水族館 怖い」などと検索してお調べになって下さい)。

そんなわけで、愛知の旅を無事に終えることができましたが、今回の旅は、これまで述べてきたとおり、最初の東京編も含め、サツキとメイの家(古代)、犬山城(中世)、明治村(近代)、ジブリ展(現代)といった形で、様々な時代を幅広くかつバランスよく感じながら進めることができたように思います。

非日常の体験を通じて様々な時代に思いを馳せつつ現代人としての生き方を考える機会を与えられるということこそ旅の醍醐味でしょうから、同行する家族に感謝しつつ、今後も、こうした経験を享受できるよう、まずは日々の軍資金づくりに地道に勤しみたいと思います。