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集団的自衛権

JCIクリードと日本国憲法の不思議な関係と、JCにこそ求められる憲法学

2年前、JC(青年会議所)の例会の際に必ず唱和している「JCIクリード」という綱領的なものが、日本国憲法の理念ないし構造と酷似していることを述べた投稿を、旧HPに掲載したことがあります。

現在、集団的自衛権に関する法案を巡って政争や反対運動が激化していますが、憲法改正を悲願の目標にしている安倍首相が長期政権化した場合、経済に一定の成果が生じた(とされた)時点で、ご自身が希望する改憲論議を拡げていこうという気持ちは強いと思われます。

日本JCは、以前から自民党以上に復古調・民族主義的な憲法改正案を掲げており、今後、そうした動きに同調した運動を各地JCに実施するよう求めてくることは十分考えられることだと思います(今年は、「国史」という言葉ないし概念を強調する活動をなさっているのだそうで、肯否云々の評価はさておき、その点も、その一環なのでしょう)。

もちろん、JCの会員マジョリティは、日本国憲法との関係では穏健(良くも悪くも無関心)な立場の方が圧倒的で、日本JCの議論を主導しているのは上記の国家観・憲法観を持つごく一部の方なのだろうとは思います(その意味では、これと反対方向のベクトルを持つ日弁連によく似た面があります)。

それだけに、JC会員の方々が、憲法の基本的な考え方、実務を含む過去に積み上げられた憲法学の一般的、平均的な物の見方を学ぶ機会を、もっと持っていただきたいと、JC在籍中にそうした営みに関わる機会に恵まれなかった身としては、残念に感じています。

というわけで、2年前(平成25年)に掲載した文章を再掲することにしましたので、当時ご覧になっていないJC関係者などの方は、お目通しいただければ幸いです(最後に少し加筆しています)。

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JC(青年会議所)には、「JCIクリード」という綱領的なものがあり、毎月1回の例会の場などで、全員で唱和することになっています。JC関係者には申すまでもないことですが、ご存じでない方は、全国各地のJCのWebサイトなどをご覧になれば、全文が載っています。

ご参考までに、福生JCのサイトが分かりやすいので、紹介します(同サイトに表示されている訳文は、JC手帳に載っているものです)。

この「JCIクリード」ですが、弁護士に限らず法についてそれなりに勉強した人間が読むと、日本国憲法の基本原理とよく似通っていると感じるはずです。今回は、この点について、少し書いてみたいと思います。

順番とは異なりますが、最初に「That government should be of laws rather than of man」という箇所をご覧下さい。

手帳(公式の訳)には「政治は人によって左右されず法によって運営さるべき」とありますが、日本国憲法の理念(基本原理)の一つに、これと同じような言葉が用いられています。

同業の方には申すまでもありませんが、今回は、そうでない方(主にJC関係者などでこの文章をご覧いただいている方)向けに書いていますので、少し丁寧に書きますと、その理念を「法の支配」と呼んでいます(76条、81条等)。

「法の支配」とは、憲法学上は、国家は個人の正しい権利を保障する正義の法に基づき運営されなければならず、法律上の根拠に基づかない恣意的な人の支配はもちろん、国会が多数決を濫用して人権を抑圧するような法律を制定した場合も無効にすべきという理念であり、憲法学ひいては法律学全体を勉強する際に、最初に勉強しなければならないことの一つです。

次に、「That earth’s great tresure lies in human personality」をご覧下さい。

手帳には「人間の個性はこの世の至宝」とありますが、日本国憲法では、個人の尊厳(13条。文言は「尊重」ですが、講学上は「尊厳」と表記)という言葉が用いられています。

憲法学上は、憲法に定める個々の人権保障の規定や統治機構のシステムはすべて、個々人の「人としての尊厳」を守ることを根本的な目的としており、個人(人間)の尊厳は日本国憲法の最高原理であると言われています。

次に、「That faith in God gives meaning and purpose to human life」をご覧下さい。

手帳には、「信仰は人生に意義と目的を与え」とありますが、日本国憲法も、信教の自由(20条)を定めるほか、これと隣接する個人の精神的な営みの自由を保障する権利として、思想良心の自由(19条)や表現の自由(21条)を定めており、これらは憲法上、特に保護されるべき自由ないし権利とされています。

次に、「That the brotherhood of man transcends the sovereignty of nations」をご覧下さい。

手帳には「人類の同胞愛は国家の主権を超越し」とありますが、日本国憲法が前文で非常に理想主義的な国際平和協調主義を謳い、その象徴的な規定として憲法9条を掲げていることは、よくご存知だと思います。

次に、「That economic justice can best be won by free men through free enterprise」をご覧下さい。

手帳には「正しい経済の発展は自由経済社会を通じて最もよく達成され」とあるところ、日本国憲法も、財産権の保障に関する規定(29条)などを通じ、資本主義を基調とする自由主義経済体制を規定しているとされています。

そして、ここまでの説明で概ねお分かりのとおり、これらの部分は、日本国憲法の中でも、重要な原理に関わる肝の部分であり、JC会員の方々は、JCIクリードを唱えながら、実はある意味、日本国憲法の勉強もしているのだと考えていただければと思っています。

ところで、クリードの最後の部分、「That service to humanity is the best work of life」についての説明を敢えて飛ばしました。

手帳では「人類への奉仕が人生最善の仕事である」と記載されていますが、私の理解の範囲では、このような趣旨のことを定めた規定は、日本国憲法には存在しません。

どうしてか、その理由は分かりますか。

日本国憲法は、個人の自由と尊厳を根本原理とし、それを政府が国際社会の力を借りて守っていくという観点から作られています。そのため、個人がどのように生きるべきかという一人一人の生き方の問題について、敢えて道標となる規定を設けず、各人の判断に委ねています。

これに対し、JCは社会のリーダーたらんとする方々の集まりですので、リーダーたる者は人類社会全体に奉仕する者でなければならないという理念を最後に置いて締め括っているのです。

そのような観点から最後の文言以外の箇所を見れば、それらは、リーダーの必須条件たる奉仕の精神を発揮するための前提条件に関する考えを述べたものと言うことができると思います。

ところで、どうして、JCIクリードと日本国憲法がこんなにも似通っているのか、その正確な理由は私には分かりませんが、両者の成立過程に思いを致すと、そこには共通の基盤らしき不思議な関係があるように見えます。

ご存知のとおり、日本国憲法は、日本国民が自力で元の政府を倒して作り上げたものではなく、大日本帝国軍が米国を主力とする連合国軍に滅ぼされた後、GHQが主導する形で策定され、大日本帝国憲法の改正手続をとって1946年に制定されたものです。

ですので、これを征服者たる米国の押しつけと見るか、日本国民が旧帝国軍が幅を利かせた旧政府にうんざりしてGHQの勧めに応じ自ら選び取ったと見るか、見解が分かれるところでしょうが、かなりの部分が米国に由来するということ自体は間違いないと思います。

他方、JCIクリードが最初に策定されたのは奇しくも日本国憲法の成立と同じ1946年、日本JCのサイトでは、米国人ビル・ブラウンフィールド氏が立案したと紹介されています。この方と、日本国憲法立案の主要人物とされるGHQのケーディス大佐は、接点があるかは全く分かりませんが、少なくとも概ね同年代と言ってよいと思います。

ちなみに、ケーディス大佐は、wiki情報によればハーバード大法科大学院を卒業したエリート弁護士だそうですが、ブラウンフィールド氏については、炭坑実業家だと記載したサイトを発見したものの、その人物像はよく分かりません。

ともあれ、両者とも米国で同じ時代を生き、当時の米国の理想主義を強く育んでいたという事情が、双方の類似性の大きな原因となっているのではないかと私は考えています。

JCは様々な目標や課題などを掲げている団体ですが、日本国民たるJC会員の方々にとっては、それらの目標、課題に取り組む際に、上記で述べたJCIクリードや日本国憲法の原理、さらには両者の複雑な関係にも思いを致していただければと思っています。

以下、今回の再掲にあたり加筆した部分です。

ところで、日本JCも憲法改正案を公表していますが、その内容を見ると、上記で解説した「JCIクリードとよく似た、日本国憲法の特徴的な部分」の幾つかについては、相当に改変ないし後退している印象を受けます。

特に、改正案は現行憲法と比べて民族主義、国家主義(国家主権?)的な面を強調し現行憲法の国際協調主義や自然権思想(人権は国家が付与するものではなく人に当然に備わっているという考え方)が大きく後退しているため、その点は、JCIクリードとも異なる思想と言うべきでしょう。

改正案(JC憲法案)を策定した日本JCの方々が、JCIクリードの破棄や改訂も求めて運動されているのかは存じませんが、そうした両者の関係性などについて、ご認識・ご意見を伺う機会があればとは思います。

ちなみに、「JC 憲法改正」などと検索すると、憲法意識の向上(改憲世論の高揚?)を目的とした運動に対する批判なども見つけることができます(引用したのは、いわゆる「市民派」の方のサイトのようにお見受けしますので、思想的にも真っ向対立という感じはありますが)。

余談ながら、JCも日弁連も、名実ともノンポリの方が中核をなす強制加入団体であるのに(JC会員の多くが、様々な人間関係などから半ば強引に入会に至ることは、笑い話ではありますが、必ず語られることです)、一部の人が団体の名前で先鋭化した活動をし、残りの大多数が関心を示さず放置、放任している(先鋭化している面々も、会員マジョリティと広く誠実な対話をして支持を得ようとする努力をあまり感じず、宣伝的な広報ばかり見かける)という点で、よく似た印象を受けます。

私自身は、大多数の国民(フツーのJC会員や弁護士を含め)は、党派的な主義主張を伴う極端な言説・現状変更ではなく、日常面の不具合を少しずつ改善するような穏健な議論・方法論を好んでいると思いますし、弁護士会もJCも、そうした中間派・ノンポリ層というべき大多数の国民のための憲法学、憲法論をこそ興すべきではないかと思っています。

残念ながら、そのような観点での有志による具体的な活動はほとんど(全く?)見られず、「憲法」を冠した小集団は、いずれも特定の党派的な主張を好む方々が、ご自身の見解を披瀝するための集まりになっているに止まっていると感じています。

本来であれば、異なる思想の持ち主と対話し、実務的、事務的な制度、慣行を中心に、穏健な方法での現状の改善を図る地道な営みが行われるべきではないか(それこそが、日本国憲法やJCIの理念、理想ではないのか)と思いますが、そのような光景を見かけることはほとんどありません。

法律実務家の集まりである弁護士会にも、様々な職業人の集まりであるJCにも、そうした各論的な地道な取り組みや意識の喚起を期待したいところですが、この種の問題に力不足の私には、高望みなのでしょうか。

私としては、JCIクリード(JCIの理想)は、米国で生まれたキリスト教の理想主義に基づく普遍的な人権思想に基づくもので、「それを組織の象徴として受容し掲げながら、それでもなお(或いは、そうであるがゆえに)民族主義的な思想信条を標榜せずにはいられないという矛盾」を抱えているように見える日本JCの姿こそ、とても人間的というか、日本ひいては戦後世界の姿を凝縮したような面があると思います。

そうであればこそ、JCの方々には、この矛盾と向き合い、苦しみながら、世界の人々が「個人の普遍的な尊厳と民族の矜持」(JC宣言に倣って個人の自立性と社会の公共性、と言い換えてもよいと思いますが)の双方を生き生きと協和させることができる姿を社会に示していただければと願っています。

政治過程の憲法不適合に関する官と民の役割と責任

平成25年7月に実施された参議院通常選挙に関する選挙無効訴訟の最高裁判決(最大判H26.11.26判時2242-23)が、直近の判例時報に掲載されていました。

参院選に関しては、平成22年7月に実施された参院選(議員定数配分規定が最大1:5.00)に関し投票価値の平等違反等が問われた最高裁判決(最大判H24.10.17)で、その選挙当時、本件定数配分規定の下で選挙区間の投票価値の不均衡は違憲の問題が生ずる程度の著しい不平等状態に至っていたが、本件選挙までの間に本件定数配分規定を改正しなかったことが国会の裁量権の限界を超えるとは言えない=配分規定が違憲とまでは言えない=違憲状態だが裁量違反なく違憲でない、とされています。

そして、当該判決を承けて、平成24年に公選法が改正されており、その改正法のもとで平成25年の参院選が行われたものの、議員定数配分は最大1:4.77の格差となっており、改めて、この論点に取り組んでいる弁護士の方々が、選挙無効を求めて提訴したものです。

最高裁は、今回も、違憲問題が生じる著しい不平等状態にあるものの、本件選挙までに定数配分改正がされなかったことをもって国会の裁量権の限界を超えるとは言えぬ=本条違反に至らずとして、原告の請求を棄却(違憲違法・事情判決とした2審を変更)しています。

但し、都道府県を単位として各選挙区の定数を設定する現行方式を改めるなど、仕組みを見直す立法措置が必要だと指摘し、できるだけ速やかに、そのことを内容とする具体的な改正を行うなどして違憲状態を解消すべきだと述べており、国会がこれに応じずに違憲状態を放置した場合には、次回(平成28年)の参院選に対する訴訟では、より厳しい判断が予想されると言えます。

判文や解説をきちんと読み込んだ訳ではありませんが、平成24年最判との違いとして、平成24年は違憲を主張する反対意見が3名だったのに対し、今回は反対意見が4名となっています。また、4名のうち1名(山本裁判官)は、1票の格差は2割未満でなければ許容されない(0.8を下回れば違憲)とし、0.8を下回る選挙区から選出された議員はすべて身分を失わせるべきという徹底した投票価値平等論に立っていることが、特筆すべき点として挙げられます。

この山本裁判官ですが、経歴(出身)をネットで確認したところ、前内閣法制局長官で、最高裁判事の就任時の記者会見で、当時の安倍内閣が推進していた集団的自衛権に関する議論に関し、現在の憲法の解釈の限界を超えると発言して注目を浴びた方であることが分かりました(当然、そのニュースは私も見ていましたが、お名前はすっかり忘れていました)。

もちろん、当時の議論・定義を前提にした発言でしょうから、その後に行われた閣議決定に対する見解を述べたものではないということになるでしょうし、さすがに最高裁判事の就任後は、山本判事がその後の集団的自衛権を巡る閣議決定などのシーンで存在感を示すことは無かったと思います。

とはいえ、国会の存立の基本というべき選挙制度に関する訴訟で厳しい判断を示されているのを見ると、「政のあり方(国会が憲法の基本原則に従うべき身の正し方)」について、強い信念をお持ちなのだろうと感じられます。

ちなみに、反対意見4名のうち残りの3名(大橋・鬼丸・木内の3判事)は、いずれも弁護士出身で、「違憲・違法を宣言すべきだが事情判決の法理により選挙は無効としない」との判断を示しています。政治的な対立を含みやすい論点で最高裁判事の票が割れる場合には、弁護士出身の判事が「少数派寄りの憲法の理想重視の少数意見」に立つことが珍しくないのですが、ある意味、(議員と同じく憲法の尊重擁護義務を負う)行政官の頂点というべき内閣法制局長官の経験者が、弁護士出身判事達よりも厳しく、憲法(国家権力のあり方を定めた法)の解釈について、最も先鋭的と言える意見を示している光景には、官の矜持とでも言うべき、大いに示唆に富むものを感じずにはいられません。

以前に、最高裁判事の経験者の方の著作で、実際の合議では、表に出せないような生々しい議論が交わされることもあるという趣旨の記載を読んだ記憶がありますが、前回よりも反対意見が1票増えていることも含め、こうした経歴の方に最も厳しい反対意見を表明させていること自体が、最高裁自身の、組織としての何らかの意思を示すものではないかと感じたのは、私だけではないのではと思われます。

ところで、山本判事は安倍内閣により任命されており、当時は、集団的自衛権の閣議決定を目指す安倍首相が、山本氏を最高裁に厄介払いしたなどと評する報道もあったような記憶もありますが、私個人の漠たる感覚としては、恐らくそれは一面的な見方というべきで、現下の社会情勢を踏まえて、山本氏の良さは現在の政治過程の中枢(法制局)よりも一歩離れた場所(最高裁)の方が生きるという「高度な政治判断」があったのではないかと思いたいところです。

ですので、山本判事の先鋭的な反対意見についても、単純に「政治(国会)と官(最高裁)の対立」と捉えるのも正しい理解ではなく、「官の最高峰まで上り詰めた人が、現在の国会議員の選出の仕組みは憲法の理念に反し、選挙無効=一部の議員の地位を剥奪すべきだとまで言っている。だからこそ、民(政治家はもちろん、国民全体)がそのバトンを受け止めて、選挙制度改革の気運を高めるべき」という、国民的な議論や運動(選挙制度改革を旗印にした政治勢力の登場などを含め)が求められていると言うべきではないかと考えます。

残念ながら、現在もなお、選挙制度改革を巡る議論等が国内で盛んに行われているとは到底言えず、このままでは、従前と同じく小手先だけの改正のみが行われ、平成28年の選挙では今度は反対意見がもう1、2名増えるだけ、といった展開になるのではと危惧されます。

集団的自衛権に関しては、選挙制度改革に比べれば、まだ議論のある方だとは思いますが、相変わらず、異なる政治的立場の持ち主が自分の価値観に基づく主張を繰り広げているだけの、価値観を異にする者同士の対話のない示威行動的な運動に止まっている感も否めません。

また、上記の観点からは、一票の価値の問題も、憲法9条に絡んだ問題も、根底の部分では相通じる面があるのに、それぞれに携わっている方々同士に何の連携も見られないという点も、憲法を深く考える上では、とても残念に感じます。

私自身は、異なる政治的価値観を有する者同士が、時に議論を交わし、時に妥協を重ねながら、平和的な手段・手続によって高次の政治的価値を実現していくべきだというのが、そうした社会を実現できなかった戦前の反省の上に立つ、日本国憲法の理念だと理解していますし、投票価値(政治的意思決定に対する終局的な影響力)の平等は、そうした社会を支える基本的な原則(インフラ)だと思いますので、そうした観点から、双方の論点を有機的に結びつけるような方向で、議論が深まればと思っています。

定数配分では往々にして有利な結果を享受している地方の立場からすると、定数不均衡問題では、ともすれば、現状肯定の発想に陥りやすいのではないかと思いますが、「国民一人一人の政治に対する影響力という価値が軽視されている表れなのだ」という視点に立ち、悪しきアファーマティブアクションとして断ち切るべき、地方の声を届けるのは別の手段によるべしとの姿勢も必要ではないかと思います。

なお、冒頭の訴訟は定数不均衡問題に取り組む2つの訴訟グループ(元祖派と升永弁護士派)のうち前者を当事者とするものですが、その主力メンバーとして携わっておられる方の中に、私が東京で勤務していた事務所に、私と入れ替わりで入所された先生がおられます。岩手県内に「定数不均衡問題に取り組んでいる弁護士さんから講演を聴きたい」との奇特?な方がおられれば、私までご一報いただければ、お役に立てることもあるかも知れません。

集団的自衛権を巡る、逃げる自由と戦略的思考

盛岡駅構内(フェザン南館)のさわや書店では、しばらく前から「今でしょ」で有名な林修氏が強く推薦する書籍として、岡崎久彦氏の「戦略的思考とは何か」(中公新書)が山積みで販売されています。

冷戦時代真っ只中の昭和58年頃に刊行された本ですが、日露戦争前後の極東諸国の情勢や国情を論じた冒頭部分などは古さを感じさせない内容となっており、そうした話は15年前に「坂の上の雲」を読んだ後はほとんど勉強していませんでしたので、先日、購入して少しずつ読んでいます。

日本を取り巻く諸外国の近現代の動向に関する基本的な知識やそれを前提とする安全保障に関する理解を得たい方にとっては、学ぶところが多い本だと思いますし、「戦略的思考」を学ぶ教材としても著名人が推薦するだけのことはあるのだろうと思います。

ところで、著者(元外交官)のことは殆ど存じませんでしたが、ネットで少し調べたところ、情報分析を専門とする親米保守派の論客として著名な方で、最近では集団的自衛権の行使容認に関する閣議決定にも強い影響を与えたという趣旨の記事が多く出ていました。

上記の書籍でもその話は取り上げられており、「米国民はフェアネスを問題にするから、日本が犠牲を払わないで自由民主主義の恩恵にだけ浴そうとすると、アメリカから見捨てられるおそれがある」、「大事なときにアメリカを不利にするかたちで日本が非協力、中立の態度をとると、米国民は怒り、米国のコミットメントがなくなり中立をした瞬間に、その中立がいつソ連に侵されるかわからないという事態が生まれる」などという米国の学者の発言に触れるなどして、日米同盟堅持・強化の観点から集団的自衛権の必要性が示唆されています。

この点は、尖閣諸島問題で、1、2年前に「日米安保条約が尖閣に適用される」ことについて日本政府(ひいては日本国民)が米国高官から言質を取ることに腐心していたことなどを思い起こすと、諸外国の事情(中国の国力の違いなど)はともかく、日本の置かれた立場については、30年前とほとんど変わらないという感じがしてきます。

また、イデオロギーを排したパワーポリティクスの観点から見た現実として、黒船来航以来、日本は世界で最強の力を持ち続けてきた英米と連携しているときは上手く行き、英米と疎遠、険悪になると賢明な政治的判断能力を失い迷走する、それは、「クラスの中で最優秀のグループに入っていれば、的外れの勉強をしたり怪しい情報に振り回されずに済むのと同じことだ」という点が強調され、その延長線として、日米同盟が強固なもので、対立国(当時はソ連、現在なら露・中・北朝鮮でしょうか)に付け入る隙がないことを内外に示すべきだといったことなどが書かれています。

ところで、集団的自衛権を巡っては、当然のことながら?日弁連(の憲法委員会)は、「現行の憲法9条が集団的自衛権を容認していると解釈すること」について、憲法の解釈の限界を超える=9条に反する公権行使だとして強く反対しており、改憲による集団的自衛権の明記にも反対している(要するに、手段を問わず、集団的自衛権という結論に反対)と思われます。

私も名ばかり委員となっている岩手弁護士会憲法委員会も、日弁連の方針に強く賛同する方々が集まっており、先日、集団的自衛権に反対する立場を鮮明にした学者の方(早稲田大の水島朝穂教授)の講演会を企画、実施しています。

私自身は、9条問題に関してはガチガチの護憲派・改憲派いずれにも親近感を持つことができないため、企画が「運動」の様相を呈してくると、汗もかかずに身を引く傍観者的対応になってしまうのですが、委員会でタダ飯(会費に基づく会議の弁当)に与かっている以上、不義理をするわけにもいかず、参加して拝聴してきました。

講演では、①憲法は権力(日本政府)を拘束する制度だから、改憲はそれに拘束されない国民に許されるもので、政府自身が憲法の改変を行おうとするのは断じて許されない、②憲法の基本理念に属する規定の改変は、国民にも許されない(9条の改正否定を含むかは不明)、③米軍の空襲の際、多くの人が、逃げるのを禁じられて実現可能性のない無用の消火活動を強いられ焼死を余儀なくされた。これは敵前逃亡を禁じてその場で上官が銃殺するのと同じである。集団的自衛権を容認すれば、次に導入されるのは軍法会議であり、それは「上役の命令に従わない者はその場で殺される」社会に逆戻りする道で、そうした点(庶民の逃げる自由の確保)からも集団的自衛権は断固反対すべきである、といったことなどが論じられていました。

私の聞き落としかもしれませんが、「反対の根拠」として主張されているのは、上記のとおり、専ら「国家権力(及びその追従者)による暴走抑制の必要」であり、前掲書籍で論じられているような、隣接国の軍事行動のリスク(米国と共同した潜在敵国に対する軍事的プレゼンスによる戦争抑止の必要や、その立論を排斥するのであれば、その代替となるリスク対策の手法)といったこと(いわば、自国の権力者ではなく外国の軍隊などから逃げる自由)には、触れていなかったと思います。

上記の講演に限らないと思いますが、自衛隊(軍事力)や国民統制の強化に反対する立場の主張は、「国内向けの主張(権力抑止)」という意味では、外国の攻撃もさることながら、自国の権力行使に晒される一般庶民の立場としては、傾聴すべき点は多々あるのですが推進派の主張する「必要性を基礎付ける国外事情(中国の軍拡や対外的膨張、北朝鮮の不安定さや米軍の規模縮小など)」に対し、集団的自衛権(自衛隊の活動領域の拡張)以外の方法で、どのように立ち向かっていくのか(或いは、必要性を基礎付ける事実が存在しないというのであれば、その根拠を含め)については説得的な解説を伴わないのが通例で、その点は残念に感じてしまいます。

反面、上記の点(軍事力強化等)を推進すべき立場の方々も、私は講演等の類は聞いたことはありませんし不勉強なので偉そうなことは言えないと思いますが、必要性(外国の脅威)の説明に力点が割かれ、反対派の方々が主張する「権力暴走の抑止策」について、国民性(集団主義など)も視野に入れた十分な配慮が論じられることは、あまり無いようにも思われます。

そのため、結局、双方とも、それぞれの正義を論じるに止まり、主張が噛み合わないと感じることが多く、ノンポリ無党派の庶民としては、双方の主張ともそれなりにざっと拝見し、社会全体の視野から自分の周辺までを考えて、そうした論点に関する判断をしていくほかないのかなと思っています。

ただ、上記書籍を読んでいる最中だからかもしれませんが、安全保障は相手(外国)のある話なのだから、国内問題だけを論じられても違和感は拭えず、隣接諸国の軍事的脅威にどのように向き合い、国家や領土の維持存立と国民の安全を守るのかという点は、きちんとした説明やその前提としての実践をお願いしたいところです。

個人的には、国民の多くが周辺諸国に軍事的脅威を感じる事態になれば、軍事力等の強化を国民が支持するのは不可避なのだから、それに反対したいのであれば、国内であれこれ言うだけでなく、自ら対象国の人々と様々な形で接触し、その国と我が国との相互依存関係=その国にとっても戦争等の手段を取ることが他の選択肢よりも明らかに損になるような関係を構築するための努力をすべきでないのかと常に感じています。

そうした意味では、盛岡の人々がロシアにさんさ踊りに行くなどというのは、言葉であれこれ言うよりも遥かに価値のあることだと思いますし、そうした営みに参加できる方々を羨ましく感じる面があります(もちろん、敗戦時のソ連参戦で満州などで国民の多くが悲惨な目に遭ったという歴史も学んだ上での交流という視点は持っていただきたいですが)。

日弁連(弁護士会)でも、アジア諸国の法律家団体と交流しているという話は伺っていますが、現在のところ、ごく一部の方々の小規模な営みに止まっているようです。仮に、各地の弁護士会が、アジア諸国の法律家団体などと交流を盛んにし、「立憲主義のインフラ輸出」的な営みにつなげることができたり、協力関係にある団体(中国の弁護士会など?)がその国の軍部などの強硬派を抑える力を持つこと(それを支援すること)を通じ、周辺諸国の内部で安全保障(平和)に絡む問題にプラスの影響力を行使できるようになれば、それこそ、「俺達(文民)がアジアの安全保障を守るから、軍人やその追従者に出番はないよ」と、国民に説得的に言えるようになるのではないかと思われ、そうした営みがなされないことを残念に思っています。

講演でも、自民党のハト派の重鎮や(維新等を除く)各野党が結集して安倍政権を倒して欲しいとのお話もありましたが、民主党政権が倒れた理由は、(原発事故を含め)国家的・対外的危機に立ち向かえない(託せない)政権だと国民に見なされたという点が最も大きいはずで、自民政権を倒し安定的な別の政権を構築したい(させたい)なら、安全保障等に関する代替手段を説明すると共に、権力を託すに足る信頼と実績を支援者自身が積み上げるほかないのではないかと思われます。

それがなされず、国内問題としての「権力の抑止」のみを主張するに止まるのであれば、国民一般としては、そうした主張をする方々は、国策そのものに反対する(代替手段を実践する)のが真意なのではなく、追認を前提に弊害の抑止と現体制下の平和による果実の配当を求めることを目的とした補完勢力に止まるものと理解するのが適切なのだろうと思います。

そうした意味では、弁護士会がそのような営みに関わっている本当の理由・意義は、反体制派の暴走の抑止を通じた体制の補完(大きな論点では意見表明などの場を与えて不満を解消させ、小さな論点では地道に得点を稼ぐことを通じ、体制の維持を前提とした緩やかな変革を目指す?)という見方もできるのかもしれませんし、案外、それこそが、弁護士業界の伝統的な戦略的思考なのかもしれません(それが今後も続くかはさておき)。

ところで、講演を拝聴しながらそんなことを考えていた矢先、前掲書籍の著者である岡崎氏が亡くなられたと報道されていました。ご冥福をお祈りすると共に、「権力の不安を感じつつ、現在のところは米国との同盟を基調とする安全保障に依存する見地から、政府の適切な権限行使に期待するほかないと考える一般庶民」の立場としては、本書で記されているように、戦略的思考を一部の限られた国策の決定権者だけに委ねる(庶民が戦略的白痴の惰眠に陥る)のではなく、広く国民一般が共有し、そのことで、軍事・外交について国家が誤った選択をしないことに資することができるよう、多少なりとも学んだり考えたりしていきたいと思っています。