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E・J・H・コーナー

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第9回 元ネタ(参考文献)のご紹介

秀三博士の足跡に基づく「映画あらすじ案」に関する補足説明(前回は「あとがき」)の続きとして、この物語が詳細に述べられている文献を紹介します。

今回の「あらすじ案」は帰国直後に博士について触れたブログを検索して拝見した記事の幾つかをもとに一気に書いたもので、後記の文献を拝見したのはシナリオを考えた後になります。

参考にさせていただいた個人の方のブログ類は多数ありますが、ここでは少しだけ紹介させていただきます。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm
http://ameblo.jp/kakek/entry-10796147545.html

あらすじ案を書いているうちに、やはりブログ記事で引用されている下記の文献群を確認すべきと考え、先般、アマゾンで注文して購入しました。文献を読んで少し修正した部分もありますが、余力の関係で放置した部分もそれなりにあり、多少の「(文献記載の)史実」とのズレはご容赦をお願いします。

●E・J・H・コーナー「思い出の昭南博物館~占領下シンガポールと徳川候」中公新書 昭和57年刊 
https://www.asiax.biz/life/7498/

あらすじ案にも登場するコーナー博士が戦争から20年後に自ら執筆し、日本でも翻訳され出版されたもので、今回のテーマを学びたい方は真っ先に読むべき基本文献です。

身柄の安全が微塵も保証されていない、無条件降伏直後の敗残国の植物学者としての著者が、文化・学術資産の保護のため身の危険を顧みずにほとんど単身で立ち上がり、「昭南の奇跡」を支えた秀三博士や徳川侯爵らとの交流で実体験した事実を、日本占領の明暗を余すところなく格調ある文章で詳細に伝え、博士や侯爵らの功績を讃えたものです。

敗れた国(栄光ある大英帝国)の者の悔しさを語ったくだりなども含め、多くの点で心揺さぶらながら読むことができる、必見の一冊ですが、残念ながら現在は絶版らしく、アマゾン(古本)でしか手に入りません。

ただ、最近になってシンガポール紀伊國屋書店で復刊したそうで、同国内では復刻版が手に入るようです。が、私がネット注文しようとしたところ、海外搬送はしてませんとのことでしたので、「古本じゃなく綺麗な本を読みたい」という方は、シンガポールで購入するか、紀伊國屋書店に交渉するなどしていただければと思います。
https://www.asiax.biz/life/39075/

また、盛岡市内や二戸市内の書店の方々におかれては、ぜひ、シンガポール紀伊國屋書店からまとめ買いして、次の荒俣氏の本などと一緒に並べて「田中舘秀三フェア」と題して店頭販売していただきたいものです。

●荒俣宏「大東亜科学奇譚」ちくま文庫 平成8年刊(文庫版)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480032065/

日本近代(明治~大戦期)に科学の分野でユニークな業績を残した異形の奇人変人たちを紹介した本で、その中の一角に「昭南の奇跡」として秀三博士や徳川候爵などの活躍が記されています。

コーナー博士の著作以上に秀三博士の経歴などを詳細に説明しており、荒俣氏の博覧強記と徹底した調査ぶりに驚かされます(経歴を述べた箇所は、二戸や旧制盛岡中学にある程度は詳しくないとついて行けないハイレベルな知識のオンパレードになっています)。

また、本書で描かれている秀三博士の人物像は「風変わりな聖者」とでも言うべきコーナー博士の描く秀三像とは異なるもので、「あとがき」で記載したような壮大な野望を実行せんとした山師(怪人)のような様相を感じさせます。

これがまた独特の説得力があり、ぜひご覧いただきたい一作と言えます。

特に、秀三博士の経歴を見ると、世界的物理学者・愛橘博士の女婿(養子)というだけでなく、戦前の新聞で「日本一の同窓会」と謳われた旧制盛岡中学の全盛期の人材群(陸海軍の大将、衆院議長、著名企業(鹿島建設など)の社長、金田一京助、野村胡堂や石川啄木など愛橘博士のwikiに表示された「謝恩会の写真」を参照と同年代でもあり、他方で、東京帝大の出でありながら個性の強い性格が災いしてか?国際的には火山学などで活躍しつつも国内での出世(教授など)が遅れていたように見えます。

ですので、シンガポールの陥落に際し、自分が同窓のライバル達に負けない大きな物事を成し遂げる千載一遇のチャンスとの思いもあったのではと感じずにはいられないものがあります(荒又氏によれば、秀三博士は東北帝大法文学部で地政学=政・経・軍の基礎学問を教えていたのだそうで、なおのこと内に秘めた理想や野心を感じさせる面はあります)。

また、本書に掲載されている晩年期?の秀三博士のドアップ写真でも、大きな目を見開きながら茶目っ気と共に不敵な笑みを見せている様子があり、そうした人物像を印象づけるものとなっています(コーナー博士の著作では秀三博士に関しては小さな集合写真が1枚あるのみで、昭南島物語には写真が掲載されていません)。

●戸川幸夫「昭南島物語(上・下)」読売新聞社 平成2年刊
http://d.hatena.ne.jp/kmtbrmtnb/20041029

コーナー博士の著作に触発された筆者(当時は毎日新聞の記者で後年に小説家・児童文学作家)が、自身の従軍記者としての赴任経験も踏まえて日本軍によるシンガポールの占領時代を総合的に調査し、英軍降伏はもちろん秀三博士らによる学術資産・文化財の保護や華人虐殺などを含む様々なエピソードを詳細に説明しており、冒頭の2作品を補充すると共に「昭南島」時代の全貌を知る資料として、参照価値の高い作品だと思います。

なお、秀三博士についてさらに知りたい方のために「田中舘秀三 業績と追憶」という追悼論文集が出版されているのですが、さすがに古本だと相当に高額のようですので購入は諦めました。

岩手県立図書館に収蔵されているなら閲覧したいと思ったのですが、けしからんことに、岩手県、盛岡市、二戸市のいずれの図書館にも収蔵されていないようです。
http://157.1.42.1/ncid/BN02478818

地元出身の偉人に関する基本文献ですので、これら図書館には予算を獲得していただくなどして、古本の入手に努めていただきたいところです。せめて、岩手県内に1冊くらいは置くべきだと思いますので、同じ思いを共有いただいた方は、県や両市の関係者に働きかけていただければ幸いです。

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(H29.5追記)

上記の追悼論文集は、前記のとおり、1月にネットで調べたときは、岩手県の図書館に収蔵されていないのものと認識したのですが、5月に盛岡北RCのIさんから県立図書館に収蔵されていると教えていただき、先日、借りてざっと読みました(岩手では同図書館のみ)。

よって、次のとおり修正・加筆します。

●田中舘秀三業績刊行会「田中舘秀三 業績と追憶」 昭和50年刊

秀三博士と懇意にしていた学者さん達(山口弥一郎・創価大教授等)が中心になって出版した論文集で、博士自身が執筆した論文群と、シンガポールでの出来事を述べたエッセイである「南方文化施設の接収」、学者さん達による追悼文などで構成されています。火山学などの専門性の強い論文集なので、古本だと相当に高額であり、図書館で閲覧していただければと思います。

「南方文化施設の接収」は博士自身がシンガポールでの経験を綴ったもので、参照価値の高いものですが、若干の落丁があり、肝心?なコーナー博士との邂逅を書いたページなどが欠落しているのが残念です(印刷前の原文自体の散逸でしょうか)。

ところで、本書はコーナー博士の著作(中公新書)よりも7年前に刊行されているため、コーナー博士のことは(上記エッセイを別とすれば)一言も触れていませんし、英国人やシンガポール人などが寄稿しているわけでもありません。また、コーナー博士の著作にも、あとがきなどを含め、本書のことは一切触れられておらず、訳者の方の目に触れる機会が無かったのかもしれません。

現代で両者が同時期に出版された場合、双方の著者らが互いに博士を語り合うような企画などがあり得たのではと思われ、その点は残念に感じます。

ただ、本書で多くの方々により語られる博士の実像は、コーナー博士の描く「美しすぎる博士像」と荒俣氏が語る「山師のような博士像」を接ぎ木して博士の全体像を理解するのに大いに役立つもので、博士に関心を抱いた方は、ぜひご覧いただいてよいと思われます。

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(H30.1追記)

先ほど、匿名希望の方から当事務所宛てに、「『南方文化施設の接収』は『業績と追憶』掲載版では一部欠部があるらしいですが、(下記のサイトからリンクしている)国立国会図書館の電子文書では全文閲覧できると思います」とのメールをいただきました。

また、その方が執筆されたという下記のサイト(非常に詳細・網羅的な解説になっています)を紹介いただいたので、こちらでも引用させていただきます(ユアペディアというサイト自体も含め、今回初めて知りました)。
https://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A4%A8%E7%A7%80%E4%B8%89

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第3回 あらすじ案②大戦編1~舞い降りた男と英国人学者

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第2回です。

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ここで、物語は太平洋戦争(大東亜戦争、15年戦争などと称される一連の戦争の後半戦)の開始から間もないシンガポールに移る。

1942年2月15日、英国領(植民地)であるシンガポールは、マレー半島に上陸した日本軍(大日本帝国軍)の電撃的な侵攻により敢えなく陥落・無条件降伏。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文中将の、英国軍司令官に対する「イエスかノーか」の決め台詞と相俟って、日本国民は熱狂に酔いしれ、戦争の大義や勝利を疑わない者がほとんどという有様だった。

占領を開始した日本軍は、東南アジア最大級の植民都市であるこの街を「昭和に得た南の島」こと昭南島と名付けて日本の領土とする旨を世界に宣言。いわば、島全体を大英帝国から分捕った戦利品のように扱った。

この敗戦は、チャーチル首相をして「英国軍の歴史上最悪の惨事であり最大の降伏」と言わしめたが、現地では続々と軍人が街の主要拠点を占拠する一方、現地住民や一部の軍人などによる様々な問題行動も生じており、混乱の極みにあった。

また、東南アジア侵攻の作戦計画で辣腕を振るった陸軍参謀・辻政信は、この街の繁栄を支える華僑(華人)が中国戦線の抗日活動を多大に支援し、そのことで日本軍の進撃が滞っているとして、華僑の大規模な摘発・処分(殺戮)を提案し、今まさにそれを実行に移そうとしていた。

ノモンハン事件で関東軍がソ連軍に大敗する原因を作りながらも巧みに責任追及を免れた辻は、そのことを知る一部の軍関係者を見返すため、マレー侵攻と華僑粛清を通じて名誉挽回や自身の影響力拡大、ひいては「日本民族による大東亜共栄圏(アジア・太平洋全体)の建国を成し遂げ、自分がその指導者となる」という野望の実現を求めていたのだ。

そのような中、降伏の3日後にシンガポールに現れた、風采はあがらないものの力強い目をした57歳の日本人学者がいた。現在の二戸市(岩手県二戸郡福岡町)出身で東京帝大卒、当時は東北帝大の講師に過ぎなかった、田中舘秀三である。

秀三は、変わり者の地質・火山学者として業界では知られ、直前までベトナムのサイゴン(ホーチミン)で調査研究活動をしていた。そんな秀三がどうしてやってきたのか、その理由かはよく分からないが、突然、シンガポールに訪れたのだ。

秀三は市内に到着してすぐに、軍の指示で行政を統括する者らが詰めている庁舎を訪問した。秀三は、サイゴンを飛び立つ前に「自分は日本学術会議から派遣されてサイゴンにいたが、シンガポール陥落の際に当地の貴重な学術資産や文化財が毀損されるおそれがあり、これを防ぎ保全すべしとの陛下の意向を受け、当地に派遣されることとなった」との電報を打っていた。

そして、行政担当者と面談して現地の様子を確認したところ、担当者から、「植物園の副園長をしていた英国人学者が植物園や博物館、収蔵品や書籍類などの保護を求めているが、対処できる者が誰もおらず困っていた。早速、引き受けて貰えないか」と頼んできた。

実際、シンガポール植物園や博物館、附属図書館などは、この街を無人に近い孤島からアジア有数の都市に作り替えた大英帝国による、長年に亘る東南アジア全域の学術研究拠点であり、植物園はいわゆる観光施設の類ではなく、自然文化資産の保護・保全に加えてゴム産業を初めとする諸産業の支援なども目的とする研究施設でもあった

そうした実情を以前から知り、すべて任せて欲しいと告げた秀三は、すぐに、本来は拘束されるはずの身ながら「シンガポール総督の特別な要請」として危険を顧みず単身で日本側に嘆願し文化財の保護を求めていた、E・J・H・コーナーという若い気骨ある英国人学者と面談した。

そして、コーナーに対して「私が来たからにはもう大丈夫だ」と告げて不思議な安心感を持たせると共に、混乱に乗じて建物や敷地に侵入してきた現地人を怒鳴って追い出した上、山下司令官にも直談判し、「自分は生物学者でもある天皇陛下の名代として、学術資産や文化財の保護のために派遣されたのだ」と啖呵を切って自分を臨時の館長に任命させ、植物園や博物館など貴重な文物の略奪等は軍民問わず一切を許さず、憲兵の護衛を付けると共に、軍人など日本人もみだりに立ち入らせない旨を確約させた。

但し、施設の維持などは軍(国)から一切の費用は出ず、すべては秀三が自己責任で行うとの条件付きで。

かくして、秀三は、コーナーら同じ志のある関係者と協力し、時には軍人や現地住民らと衝突するリスクなども背負いながら、植物園や博物館、図書館の保全をはじめ他の施設などに遺棄された書籍などを含め、多くの学術資産・文化財の保護に奔走した。

秀三は当初こそ金策に窮していたが、東北の寒村の出身で個人的な資産は微塵もないはずなのに、時折どこからともなく大金を調達し、コーナーら仮釈放させた英国人学者を含む現地スタッフの生活費、さらには文化財や施設の修復、研究費用まで賄うようになった。

もちろん、運営に必要な資金や物資はそれだけで賄えるものではなく、時には、英国人建物などから書籍などを収集、保護した際に食糧を発見し、それで急場を凌いだこともあった。

軍政下の市内では、高級軍人や一部の官吏は支配者気分で贅沢を謳歌していたが、秀三は到着以来、一度も着替えることなくボロ服のままで、コーナーらが恐縮したまには着替えをして欲しいと頼むような有様だった。

他方、秀三らのそうした努力が成果を上げつつある姿のすぐ隣では、日本軍が、ナチスのユダヤ人狩りのように、犠牲者は数千人から数万人とも呼ばれるシンガポール市内の華僑の大規模な連行と虐殺を、流れ作業のような冷酷さで実行していた

シンガポール陥落は日本軍にとっても楽な戦争ではなく、戦術的奇策により兵站が尽きる寸前で降伏に追い込んだ薄氷の勝利であり、直前には華僑義勇軍の激烈な抵抗により多数の戦死者も生じていたことなどから、兵士達の中には報復感情などから蛮行への抵抗感が麻痺していた者も少なからずいたのだ。

そうした光景を何もできずに見て見ぬふりをするしかないコーナーや秀三ら。無辜の犠牲者達の中には日本の侵略前にコーナーが世話になっていた人々もおり、コーナーは憤怒と悔しさと無力感で打ちひしがれずにはいられなかったが、秀三もコーナーにかけてやれる言葉もなく、「こんなことをして、国が続くものか」と英語で呟くのが精一杯だった。

もちろん、コーナーは日本軍の侵略や占領を歓迎するはずもなく、できることなら自らも抗日ゲリラに身を投じて同胞の無念を晴らしたいとの思いを時に抑えながら、自らの信念であり総督からの要請でもあった学術・文化資産の保護を最後まで貫きたいとの思いだけを自分の支えに、辛く悲しい気持ちを堪えて、孤独な作業に従事し続けていたに過ぎない。

秀三も、そうしたコーナーの心中を察し、軍などが関係する難しい折衝には関与させず、現地に残された英国の学術資産の確保や保全などに専念できるよう、また、時には気が紛れるような経験もできるよう配慮していた。

そうして2週間ほどが経過し、植物園や博物館などへの不正な侵入や略奪の防止の措置も概ね目処が立ち、当初の混乱も落ち着きを見せつつあったある日の晩、ずば抜けた何かを感じさせる、厳しく鋭い眼光をした一人の若い華人青年が秀三のもとを訪ねてきた。

(以下、次号)

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