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75年前のシンガポールに咲いた二戸と名古屋の不思議な縁~名古屋編③~

75年前のシンガポールに咲いた二戸と名古屋の不思議な縁~名古屋編③~


10月の名古屋出張(学童保育の全国大会の出張)に関する投稿の3回目です。今回は出張とは関係のない話題について少し触れておきたいと思います。

1回目(全国研の参加報告)の投稿で少し触れましたが、本当は、2日目の午後は分科会を途中でサボり、会場から電車で1本のところにある「徳川園」に行くつもりでした。これは単なる物見遊山だけではない徳川園へのちょっとしたこだわりがあったからなのです。
http://www.tokugawaen.city.nagoya.jp/

私の出身地である岩手県二戸市は何人かの著名人や学識者を輩出していますが、その中に、昭和新山の名付け親にもなった「戦前から戦後にかけて活躍していた博物学・地質学の第一人者」である田中舘秀三博士(東北帝大教授)がいます。
http://airinjuku.jp/kikou/kikou32.html

秀三博士(義父であり東大物理学部の礎を作った世界的物理学者・田中舘愛橘博士と区別するため、このように表示します)は、大日本帝国が戦争に突入しシンガポールを侵略した直後(どのような経緯等かは存じませんが)シンガポールに赴任し、すぐにシンガポール市内の植物園や博物館の貴重な文化財を強い熱意や私財を投じて保護する活動を行い、捕虜にされた英国人研究者の支援などもしていたのだそうです。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm

ただ、資産家でもない秀三博士が長期の支援活動を行うのは困難ですので、ほどなく、シンガポールの旧宗主国(ジョホール王国)と交流があり植物学などの学者でもあった、尾張徳川家の当主である徳川義親侯爵に支援を要請し、保護等の引き継ぎを受けることができた(これに伴い秀三博士は帰国)のだそうです。

ちなみに、徳川侯爵は多彩な活動で知られており、徳川園の創設などのほか「北海道みやげの定番・木彫りの熊の発案者」としても有名です。

かくして旧日本軍の侵略に伴う混乱や散逸から文化財は守られ、旧日本軍の撤退後は英国、そして独立したシンガポールへと引き継がれ、現在のシンガポール国立博物館及び植物園に至っています。ちなみに、シンガポール植物園は平成27年に登録された、同国では現在のところ唯一の世界遺産です。
http://singapore.navi.com/miru/6/

私の知識の範囲内では二戸の人間が名古屋の著名人と関わりを持ったという話はこれしか存じませんが、「二戸と名古屋の人間が協力し戦災から人類が後世に遺すべきものを守った」という物語を知るのと知らないのでは、二戸人が名古屋に訪れたり名古屋と関わりを持つ意味・価値も全く異なってくると思っています。

とりわけ、米国(小ブッシュ政権)主導で行われたイラク戦争では米国にもイラクにも現地の文化財保護に従事する者がおらず、フセイン政権の崩壊時に現地の無法者による略奪が横行したと言われており、最近は「IS」によるパルミラ遺跡の破壊など、文化財の戦災はいまなお続く深刻な問題です。

願わくば、徳川園の庭園や美術品などを鑑賞しながら、文化財や名勝などが暴力から守られることの意義や価値を再認識できればと思っていたのですが、その点は、「また、名古屋を訪れる口実ができた」と前向きに考えることにします。

先般「固有のアドバンテージ(アジア貿易の中心)と存続のリスクの双方を抱えながら、繁栄と生き残りのため血眼になって努力し続けてきた国」としてのシンガポールに関心を持つようになり、少し前には、岩崎育夫氏の「物語 シンガポールの歴史」(中公新書)も拝読し、色々と考えさせられました。

残念ながら二人の日本人の尽力は現代のシンガポールではほとんど忘れ去られているようですが、これらの文化財が「華人をはじめとする出稼ぎ寄せ集め移民を強引にまとめた国家」であるシンガポールの国民・国家の統合に生かされていることは間違いないはずで、そうした観点から「大戦時の日本は、シンガポールに迷惑をかけた(凄惨を極めた大陸戦争に起因する華人への報復としての虐殺等)だけでなく同国の役に立った日本人もおり、自分の地域の先人こそがその担い手であった」ことを知ることは、現代の日本と同国との交流のあり方を考える上でも、大いに意義のあることだと思います。

そんなことを思いつつ一首。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

私も、いつの日かシンガポール植物園などを訪れて先人の足跡を辿ると共に、その際はラッフルズ・ホテルのバーで「シンガポール・スリング」でもいただきながら、二戸と名古屋の先人が異国の文化を守り、それが同国の現代の繁栄にも通じていることの奥深さや有り難さなどに思いを馳せることができればなどと夢想しないこともありません。

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