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小保内一族のルーツを求めて(前)~稲荷神社の公式記録から考える~

小保内一族のルーツを求めて(前)~稲荷神社の公式記録から考える~


皆さんはご自身の先祖を把握されていますか。中には数百年前まで分かるという方がおられるかもしれませんが、ごく少数かと思います。

私の実家は「江戸晩期に本家から別れた後、6代ほど続いた家」で、曾祖父が商家として身を興し、祖父の代に一旦は二戸でも著名な商家の一つとして最盛期を迎えたものの、祖父の晩年から斜陽気味になり、様々な方の支えで現在も何とか存続しています。

本家(総本家)は二戸市にある呑香稲荷神社ですが、本家は神社の正当な伝承に基づき、江戸初期(盛岡南部家2代・利直の時代)に「小保内源左衛門義信」なる御仁が、当時、浄法寺(稲庭岳の麓あたり?)にあった稲荷大神を現在の地(二戸市五日町)に遷座させたのが発祥とされ、以来、数百年も連綿と続いています。
http://tonkouinari.blog.jp/archives/1388136.html

本家は、私が聞いた話では発祥時から現在まで男子直系が続いているわけではないものの、血族(当主の姉妹の子)を養子に迎えるなどしており、血筋は絶えたことがないはずです。

ただ、この「小保内源左衛門義信」については、引用の稲荷神社のサイトをはじめ、Web上の多くのサイトで秋田城之介の家臣と書かれているものの、それ以上の情報が得られず、どこで何をしていた者か(そもそも「秋田城之介」自体、何者なのか)、突き止めることができていません。

上記のサイトでは、この人物(本家の始祖)は秋田出身で江戸初期に、主家没落に伴い南部家に移籍し盛岡市の仙北町(秋田の仙北郡出身者が移住した地)に身を置いたものの、不遇の身に憤慨し二戸に移住したなどと書かれており、他に同種の記載があるサイトも見かけましたが、Web上の情報は全てそこで終わっています。

もし、それ以上の話をご存知の方がおられれば、ぜひご教示をお願いしたいところです。

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で、今回の投稿は、この「小保内源左衛門義信」の出自・正体について、私なりに調べて推測したこと(現在の到達点)を記録に残しておきたい、との目的で書いたものです。

まず、この「秋田城之介」とは、秋田市中心部の千秋公園=久保田城(佐竹氏の居城)ではなく、大和朝廷により創建された古代の秋田城(秋田市北部に遺跡があります)の長官を指すことは間違いありません。

そして、当時=安土桃山~江戸草創期に「没落した秋田城之介」がいたのか調べてみると、以下の理由から、現在の秋田市周辺などに勢力を有していた「安東通季」だと推測されます。

そもそも、北東北は頼朝の平泉征服に伴い甲斐から移住した南部一族が席巻し、鎌倉後期には広い圏域を支配下に収めていましたが、室町期に退潮し、戦国期の秋田県は、安東一族が勢力を伸ばしていました。

安東一族は「奥六郡(狭義は岩手県、広義には北東北全域)の正当な支配者」たる安倍一族の末裔を自称し、かつて北東北随一の港湾と謳われた十三湊を領有していましたが、室町期に一旦没落した後、戦国期に復権し、秋田市のエリアに拠った湊安東氏と、能代市エリアに拠った檜山安東氏に分かれて覇を競っていました。

当初は湊安東氏の方が優勢で、最盛期は秋田県の大半を勢力下に収めていたのですが、戦国後期に檜山安東氏に有力武将が二代続けて出現し(安東愛季・実季父子)、織豊期には檜山安東氏が湊安東氏を併呑してしまいます。

で、その際、湊安東氏が「呑み込まれてなるものか」と秋田の覇権を賭けて檜山安東氏に戦いを挑むものの、敗亡するという出来事(湊合戦)があり、その最後の当主である安東通季のwiki情報を見ると、敗亡後は南部氏のもとへ逃れ、復権運動を行ったものの奏功せず、やがて南部氏の家臣となった、と記されています。

そして、安東通季=湊安東氏は秋田市周辺を本拠とし、一時は秋田県の大半を勢力下に置いたことなどから、秋田城介(旧秋田城の長官=秋田県域の正当な支配者)を自称していたと記されています。

以上から、小保内源左衛門義信が仕えていた(と称する)「秋田城之介」とは、安東通季に間違いないと考えられます(義信自身又は他者が創作したかどうかはさておき)。

ちなみに、安東氏ひいては秋田の覇者となった安東実季は、秋田制覇後には秋田氏と名乗るようになりましたが、関ヶ原後は天運に恵まれず、佐竹氏と入れ替わりで常陸の一角に移封された後、子の代には陸奥国三春=現在の福島県三春町に移封され、そのまま三春の小領主として明治を迎えています。

三春は言わずと知れた福島を代表する桜の名所の一つで、現在でも古い建物が点在する小京都的な街ですが、そうした歴史を踏まえて訪れていただければ、また違った光景が見えてくるかもしれません。

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それはさておき、没落した秋田城介こと安東通季については相応にWeb上で分かるものの、さすがに家来?の小保内源左衛門義信のことまでは、Web上で辿ることはできそうにありません。

ただ、私は子供の頃に亡父から「自分が秋田県の旧田沢湖町(現仙北市)の中心部(生保内地区=旧生保内村)に赴いた際、地元の人から『あなたの先祖は、ここの領主だった』と言われた」と聞かされたことがあります。

ここからは憶測になりますが、小保内源左衛門義信(の先祖)は、湊安東氏の最盛期に生保内村の領主をしており、その関係で「小保内」と名乗っていたのかもしれません。

漢字が違うじゃないかと言われそうですが、それこそ、秋田を去って南部(岩手)の人間となることを決めた際、旧領への未練を断ち切るため「生」を「小」に変えたのかもしれません。

ちなみに「内」はアイヌ語で「小さな沢」です。「小保」の由来は不明ですが、古代に東国の有力豪族と言われた「オホ氏」と関係があるかも、という独自説(笑?)もあります

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私は幼少期に亡父から「我が一族の先祖は、田沢湖(生保内村)の領主をしていたが、秀吉の東北征服(奥州仕置)により領地を失い、南部家の食客になった。そして、南部公から『二戸には九戸政実の残党が今も多数あって政情不安であるから、この地を鎮めて欲しい』と頼まれ、神官として二戸にやってきたものである」と聞かされたことがあります。

稲荷神社は、言わずと知れた九戸城(九戸戦争による政実公の敗亡=信直公の入城後は「福岡城」)の敷地内(旧三の丸及び松ノ丸)にあります。ですので、神社の敷地は、福岡城の城主たる南部氏が盛岡に移転した際に、何らかの理由で南部公から引き継いだ(託された)ものと考えるのが合理的だと思います。

ですので「小保内源左衛門義信が南部公の意を受け神官として二戸にやってきた」という父の説明(伝承?)には相応の信憑性があることは間違いないでしょう。

次回は、Web上で偶然見つけた「小保内源左衛門の出自を突き止めることができるかもしれない、もう一つのネタ」から考えたことを書きます。

(追記)
今、Webで少し調べたところ、「オボナイ(小保内、生保内等)」とは、アイヌ語で深い川、或いは深い谷を指すと書いてあるものを拝見しました。

 

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