北奥法律事務所

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02月

名もなき家事の詩

数年前、兼業主夫業に疲れ果てた暮らしの末に?Mr.Childrenの「名もなき詩」の替え歌を作ってfacebookに掲載したことがあります。

が、どういうわけか、ブログには載せておらず、せっかく作って勿体ないし、まあ、私なりの判断基準では、これも許容範囲でしょうということで、遅まきながら掲載することにしました。

**********

ちょっとぐらいの汚れ物ならば
何も言わずさっと洗っとく
Oh darlin 僕は何?
現実を握りしめる

君があれこれ やれと言うのなら
この腕を切ってくれてやる
Oh darlin 僕は手が足りん
仕事の時間が 消える oh

苛立つだけの事件で一杯になっちゃって
感情なんてとっくに
壊れかかっていそうだけど

こんな深刻な紛争の渦で
情緒不安定な人達に揉まれ
でも darlin 共に悩んだり
解決を夢に見てる

あるがままの心で生きられぬ家庭を
誰かのせいにして過ごしている
知らぬ間に築いていた
罵声ばかりの檻の中で
もがいているなら
僕だってそうなんだ

過ごした日々が増えていくほど
孤独な夜は深まっていくんだよ
Oh darlin このわだかまり
きっと消せはしないだろう oh

いろんな男女の破綻を目にしてきたから
見失っちゃいけないことが
多少は分かった気がする

荒んだ光景ばかり見てるから
優しい気持ちに飢えているのかも
Oh darlin 夢物語
帰る際に聞かせてくれ

「勝つ」はきっと奪うでも叶えるでもなくて
気が付けばそこにあるもの
弱い自分を見つめて
すべきこと考え一つずつ積み上げていけばいい
そこからはじまるさ

家事 民事 通教 説教
いつも疲れてんだ
夜、妻 朝、夫
ソファ見てごらんよきっと寝そべってるさ

成り行きまかせで泥沼となり
救いもとめて来たのだとしても
その度心乱せる様な仕事じゃない
仏心が仇になり
徹夜起案に明け暮れる だけど

あるがままの家族と生きようと願うから
今朝も洗濯物 干してる
知らぬ間に築いていた
自分達だけの檻の中で
もがいているなら 
誰だってそう 僕だってそうなんだ

愛情は法の根底にあるのに
伝えるのはいつも困難だね
だから darlin この「名もなき家事」を
いつまでも君に捧ぐ

******

Web上で替え歌について検索すると、お世辞にも品があるとは言い難いものが散見され、がっかりしてしまいます。

本物の香気を損なうことなく、その価値を活かしつつ新たな思想や社会風刺をセンス良く盛り込んだ、良質な替え歌に光が当てられてくれればと願っています。

 

10年ぶりの本人画像の差替について

すでにお気づきの方もおられるかもしれませんが、先日、当サイトの「弁護士紹介」欄に表示した私の写真を差し替えました。

これまで表示してきた写真は、平成23年2月頃(震災直前)に撮影したものですので、10年ぶりの差し替えとなります。

以前から「昔の写真を使い続けるのは、いかがなものか」と思っていたのですが、諸事に追われ放ったらかしになっていたところ、先般たまたま写真撮影の必要が生じたため、ついでに差し替えた次第です。

普段は常に眼鏡を着用していますが、諸々の理由から、公開する画像は眼鏡を外したものとさせていただいております。

私も40代後半となり、外貌に関しては、10年前と比べても老化の一途という感は否めず、今後は、10年後も20年後も、この写真を使い続けるかもしれません(笑)。

掲載したものは幾つか撮影した中ではベストとは言えないものの、掲載者(事務局長)の判断で、これが採用されました。

私個人のベストチョイスをご所望の方は、facebookをご覧ください(笑)。

ウイルス禍におけるRC運営や会員交流に関する意見~盛岡北RC卓話~

先日、盛岡北RCの卓話を担当する予定でしたが、ウイルス禍に伴う休会のため、やむなく以下の文章を会報に寄稿すると共に、折角なのでブログでも一部修正の上、掲載することにしました。

目新しい内容はありませんが、RC関係者の方々の参考にしていただき、他クラブの工夫例をご教示いただいたり、何らかの意見交換などができれば幸いです。

*****

【ウイルス禍による休会下における会運営や会員交流について】

1 はじめに

2月第1週の卓話担当の小保内です。今月は「平和と紛争予防・紛争解決月間」だそうで、国際奉仕委員長という立場で担当を拝命しています。

ですので、本来なら、海外RCの活動、はたまた国際的な法的紛争や解決に関する話(日産元会長事件とか、ハーグ条約に関する子の奪い合い訴訟とか)を取り上げる方が望ましいのかもしれませんが、外国語が関わる仕事はほぼ行っておらず、自分の経験としてお話できませんし、RCの海外交流などにも何ら関与したこともありませんので、それらを取り上げるのは止めておきます。

1年前に個人的な計画があり、本来はこれをネタにしたかったのですが、ご承知のとおり渡航不能となる憂き目に遭いました。風の噂では、他にも豪華客船に乗り損なった会員さんがおられた?と伺っています。

というわけで、今回は話題を変え、休会が延々と続く現在の状況下における会員交流や会運営、会報のあり方などについて、私見を述べたいと思います。

2 SNSなどの活用・活性化のお願い

ロータリークラブは「会員同士が現に交流し『友人(この地で研鑽を積み活躍する人生の先輩・後輩)としての信頼と相互扶助の関係』を形成できてナンボ」だと思います。

言い換えれば、そうした交流と関係の形成ができないのなら、会員として在籍する意味も必要もありません。

そのため、例会すら実施できない現状が危機的なものであることは申すまでもありませんが、現在のところ、当クラブであれ市内の他クラブであれ、代替の交流手段の発案・実践の光景を見かけることがなく、その点は大変残念に感じています。

現下の情勢では、Webを通じたコミュニケーションを活用せざるを得ないのですから、まずは、SNSなどの活用を試みるべきだと思います。

私の知る限り、当会ではHP(Webサイト)とは別に、facebookとLINEの双方に専用グループ(当会の会員・関係者のみが投稿できるもの)が設けられています。

FBは3~4年前に私が開設しましたが、1~2年前にYさんが開設したLINEの方が登録者数・投稿とも圧倒的で、FBは開店休業状態(新規登録も放置)になっています。

LINEも、若干の事務連絡と新年おめでとうメールの類を別とすれば、時折、Yさんが痺れを切らして下ネタを投下し、Hさんが「コラY!」と返答する程度で、さほど活用されているわけではありません。

できれば、皆さん全員にFB・LINEに登録し、当会グループに加入いただいた上で、下ネタに限らず、簡易な挨拶や写真だけの掲載であれ、本格的な近況報告であれ雑談の類であれ、皆さんが和んだり楽しんだり、盛り上がることができるような話題を、次々に投稿していただければと思っています。

なお、LINEは長文投稿に適さず過去の投稿がその後の雑多な投稿にかき消されやすいので、投稿の保存を重視するならFBグループに投稿いただいた方がよいと思います。

もちろん、RC会員として、ご自身が現下の状況で実践されている「ご自身なりの奉仕」を発言していただくことも、あるべきことだと思います。

ベテラン勢には「Webなんて分からんよ」という方もおられるかもしれませんが、ご家族・従業員さんに登録作業を行っていただければ、先日のAさんのように、加入直後に会員から歓迎メールが来たりします。

また、グループだけでなく、FBの個人フィードでの投稿も、リアルな交流の代替手段として、各自に活発に行っていただければと思っています。

私の投稿は、クセが強すぎるせいか?皆さんからなかなかコメントをいただけませんが、随時お待ちしているところです(笑)。

3 会報のあり方について(自己紹介、近況報告など)

休会中の会報の編成に関する議論は存じませんが、この間の会報は、従前の編成(会長挨拶、卓話、幹事報告など)の踏襲ではなく、何某か、例会での交流の代替手段としての活用を考えていただくべきだと思います。

例えば、ここ1~2年に入会された新入会員などに自己紹介いただいたり、既存会員も本業の成果であれ意外な趣味などの類であれ、様々な近況報告をいただくのが望ましいと思いますし、「過去の大物会員の列伝記事(昔話)の連載」も検討されてよいと思います。

現状ではスマイルボックスが不能になっていますので、これに代わる投稿を事務局にメール(DM)したり、会員で割当を決めて、「今回の会報ではスマイル投稿をすること」といった形でもよいのではと思います(大サービスで、スマイルゼロ円で投稿OKとしていただければ有り難いです・・と言ってみたりして)。

ちなみに「小保内って誰?」という新入会員の方は、当事務所のHPをご覧ください。

4 ズーム例会、スキー例会など

皆さんも、ズーム会議は相応に経験されていると思います(私はズーム飲み会は経験がありません)。直ちに「ズーム夜例会(宴会)」を行うかはさておき、何らかの形で例会など(会運営)に活かせればと考えます。

例えば、各人が事前に食事を済ませることを前提に、午後1時から1時半まで30分程度のズーム例会を行い、会長挨拶のあと、事前に割当を決めて5人前後が近況を報告し、簡易な質疑応答(雑談)を行って終了という方法も検討されてよいと思います。

先日、たまたま同じ日に家族で安比に行っていた、という複数の会員さんをFBで拝見したことがあります。大人数の参集は現状では無理でも、例えば「スキーができる人は、家族を連れてこの日に安比に来て下さい。昼食は(予約等が無理でも)可能な人は○○エリアに来て、挨拶だけでもやりましょう。可能なら、若干でも一緒に滑りましょう」といった試み(スキー例会?)も検討されてよいと思います。

例会という形式をとるかはともかく、現下の状況でも、適切な工夫を前提に、可能な限り会員交流の「あの手この手」が図られることが望ましいと思います。

5 代替措置と例会復活後について

先般の役員会で、休会長期化による伴う会費還元の手法として、夜例会の復活時に全額クラブ負担(自己負担なし)で行う方法を提案しました。一部返還も検討されているようですが、会費は会員の交流の原資というのが基本でしょうから、皆さんからも知恵を拝借できればと思います。

また、ウイルス禍と別の話として、ここ1~2年、当クラブに長年多大な貢献をいただいた方の退会や逝去が相次ぎましたが、クラブとしての「お別れの会」がほとんどできていないことを大変残念に感じています。

今後は、ベテラン会員や転勤族の方が「引退」的な形で退会される場合には、前後の夜例会を「お別れ会」を兼ねるものとし、引退のスピーチや会員による別れの挨拶をするような形をとるのが望ましいのではと思っています(転勤族の方は送別会がなされることもありますが、それはそれとして、例会の場でもお別れ会はあってよいと思います)。

また、逝去された方についても、同じように繋がりの深い方々に簡易なスピーチをしていただくなど、クラブとしての「お別れの会」があってよいのではと思いました。

ちなみに、私はN先生が亡くなられた際に、当ブログにN先生の追悼記事を掲載させていただきました。関心のある方は検索してご覧ください。

以上、大変な長文になり恐縮ですが、参考にしていただければ幸いです。

松茸の呼吸で、すっぽかしの術に立ち向かう

昨年秋の話で恐縮ですが、とある事件で、関係者(通常の依頼者とは異なる立場の方)のご自宅に伺うことになりました。

自動車で目的地到着

第一の型「すっぽかし(無断不在)の術」炸裂!

帰路の運転は怒りの全集中。水の呼吸で窒息しそう(今ココ)

それはさておき、その前日、とある依頼者の方から「山で採った」と仰る松茸数本を頂戴したことから、職員と山分けし、当方は自宅で土瓶蒸し風のお吸い物として美味しくいただきました。

その後に何も起きていませんので「実はヤバいタケだった」というオチはないと思いますし、それどころか、香りの凄さは過去最高レベルだったような気がします。

当方は毎年松茸を摂取できる身分ではありませんので、私の記憶では、松茸との再会は(永谷園のお吸い物の類を別とすれば)十年以上前に実家で「どなたかから頂戴した松茸」のお裾分けを1~2本、受け取り帰宅して以来かも、というのが実情です。

苦節20年以上の町弁人生ですが、恥ずかしながら?過去に依頼者の方から松茸を頂戴した記憶がなく、これが初めての経験と思われます(別に、皆さんにねだっているわけではありませんが・・)。

余談ながら、町弁をしていると来客の方(依頼者やご家族など)から焼き菓子などを有り難く頂戴することは珍しくありませんが、開業以来=盛岡では「オラの畑で採ったど~」的な生鮮品(野菜、魚など)を頂戴する機会は多くはなく、東京時代の方が、(ボスが山形出身で、上京して相談等される方が少なからずいたせいかもですが)佐藤錦やだだちゃ豆を筆頭に、生ものを頂戴する機会が多かったような気もします。

その点は、開業間もない頃は少し不思議に感じていたのですが、客層の所得水準(当然ながら法テラス利用者が多い)のせいか、東京よりも産地に近い場所(盛岡)の方がご自身にとって「商材(自身が生きるための糧=他者に贈答するものではない)」との意識になりやすいのか、それとも、単に、当方の客層に農業等に従事される方が多くはない、というだけのことなのか、今もよく分かりません。

ともあれ、前日にそうした「とてつもなく良い出来事」があったので、その代償として、翌日の不幸が生じたのかもしれません。

なお、繰り返しになりますが、皆さんねだっているわけではありませんので念のため・・(たぶん)

 

重たすぎるタイヤ交換に「メイドインジャパンの凄いサービス」を求めて叫んだ日

岩手ではタイヤ交換は11月中に行うのが常識でしょうが、何かと遅れがちの私は、毎年12月になってようやく交換しています。

私は3年前、不幸な追突事故の被害を機に、思い切ってRV車(国産SUV)を購入し、MD等が聞けないのを除けば満足して使用しているのですが、タイヤ交換の季節だけは大変気が重くなります。それは、

RV車のタイヤは、重たすぎて持てな~い!(byケン・ワタナベ)

という点に尽きます。

自宅(集合住宅)のタイヤ置場では下段なので収納時は何とかなりますが、車両のトランクルームに入れる際は持ち上げるのが非常にしんどく、数時間を経た今も、胸骨のあたりに鈍い痛みがあります。

恐らくあと5年もすれば一人で持ち上げるのは無理なのではと感じていますが、家族の協力は期待できませんので、果たしてどうなることやらです。

先代はミニバン(ステーションワゴン)だったので何とかなっていましたが、RV車のタイヤは、屈強な若者でないと持ち上げるのは無理ではと感じます。

女性や高齢者の方は一体どのようにしてタイヤ交換(店舗持ち込み)をなさっているのでしょうか?

それとも、私一人が貧弱貧弱ゥ~なだけでしょうか?

で、いつもタイヤ交換をお願いしているディーラーさん(車両購入元)に

自宅からお店までタイヤを運搬(往復)するサービス(交換全般に対応できるものを含め)は無いのでしょうか。相応の費用は負担しますよ

と相談したところ、

当店では存在しないし他店などでも聞いたこともない。ただ、営業担当が一部の顧客に泣きつかれ、事実上、無償対応するケースはある

とのことでした。そこで、

そのような仕事は無償で行われるべきではありません。御社自身が運送業務を行うのが難しいのであれば、ヤマトや佐川などと組むことはできませんか。

そして、顧客が運送会社に依頼し特定の日時に搬送して貰い、交換後に返却を受け、顧客は運送費用を含めた全費用を事前又は事後に御社に支払い、御社から運送会社側に運送料の支払をすれば、顧客は自分でタイヤを持ち運ぶ必要がなくなります。

中には、タイヤ交換(運搬)ができないというだけの理由で、RV車を諦めている人もいるかもしれません。

そうした人にとっては、御社がそのサービスを始めれば『さすがメイドインジャパン、凄いぜ○○ダ』と感謝し、RV車の販売促進につながるかもしれません。

顧客はもちろん、全てのディーラー・タイヤ販売会社・運送会社にとってビジネスチャンスになるのではないでしょうか。

と陳情してお店を後にしました。

Webで調べたところ、上記の「タイヤ搬送サービス」を見つけることはできませんでしたが、「タイヤ自体を店舗側で保管するので、持ち込みなどの負担が全く無い」というサービスが存在する(タイヤ館など)ことが分かりました。

そのため、上記のサービスが実現しなければ、そちらにお世話になるのかもしれません。

が、私の場合、曲がりなりにも自宅にタイヤラックが設置されているので保管料を負担してまで預けるニーズが薄く、ディーラーさんとのお付き合いも殊更にやめたいとは思わず、上記のサービスを始めていただけないかと願うばかりです。

或いは、タイヤ交換(保管)のときだけタイヤを軽量化できる方法(空気を抜くとか?)が安全かつ低料金でできれば、それもよいのかもしれません。

昨年末にfacebookでこの投稿をした際は、電動リフト購入やベンリー社への打診などのアイディアをいただきましたが、皆さんのご経験や知恵も拝聴できれば幸いです。

マスク散らかる街角に身近な善意をもう一度

新型ウイルス禍の勃発以来、町中で道端にマスクが落ちている光景を目にすることが非常に多くなったような気がします。

マスクに限らず整備された歩道などにゴミが落ちていると、その光景を目にすること自体が嫌で、拾ってゴミ箱に捨てたいという欲求にかられます。

が、手に持って事務所まで延々と持ち歩く気にもなれず、仕方なく悲しそうな目をしながらやり過ごすことになりますが、いじめの光景を見て見ぬふりをしているような嫌な気分になり、ますます腹立たしい思いにかられてしまいます。

そういうとき、すぐそばにゴミ箱があれば(衛生上の問題がある場合を除き)拾って捨てるのにと思うこともありますし、昔は街角にゴミ箱があったような気もしますが、今はそうしたものもほぼ見かけません。

そこで、通りに面した各種店舗・オフィスなどが「近所のゴミ受け入れOK宣言」を出し(ステッカーなどを入口に貼り)、例えば、店舗の半径50~100m以内の路上に落ちていた小さなゴミを拾って届けると、お店のゴミ箱に捨てさせてくれるという仕組み(慣行)があれば、そうした光景を見過ごすのが嫌な人は拾ってすぐに捨てることができ、有り難いと思いました。

お店側も労せずして?店舗付近の環境美化に繋がり、有意義だと思います。

マスクなど衛生リスク品も、お店にゴミ拾い用のトングなどがあれば、それを借り、拾って返すこともできると思います。

また、スマートフォンを通じてゴミ拾い情報を送信すれば少額のポイントが付与され、それを各種の値引きに利用できる(マイナポイントのような)仕組みがあれば、情けは人のためならずということで、普及しやすいのではと思われます(不正防止の配慮も要るのでしょうが)。

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現在、町中に落ちているマスクの大半は、いわゆる不織布マスクですが、ご承知のとおり、これは紙(木製)ではなく精巧に作られたプラスチック繊維で出来ているそうです(詳しいことはWebでどうぞ)。

ですので、(焼却されなければ)自然に還るには莫大な年月を必要とするので、町中に放置→雨水(融雪等を含む)で河川流入、又は土壌混入となれば、生物の誤嚥やマイクロプラスチック問題など万物ひいては人類に様々な刃が向けられることになります。

というか、すでに将来の人類等に深刻な事態が作出されつつあることは皆さんご承知のとおりです。

マスクに限らず、圧倒的なプラゴミ等が河川・海洋に流出していることは、春先や台風等のあとに郊外のダムを見に行けば(或いは人があまり来ない海岸に行けば)岸辺に大量のゴミを見かけることで、誰でも理解できることだと思います。

盛岡市も、「サケが戻ってくる川」などと標榜するのであれば、プラゴミ宣言を通じて淀川への流出を阻止しようと熱心に取り組んでいる京都府亀岡市などに見習って、自ら行動すべき事柄が色々とあるのではと思われます。

大上段のことを申すつもりはありませんが、とりあえず、街角に落ちているゴミを、躊躇なく拾って、すぐにゴミ箱に捨てさせてくれる社会を、我々は取り戻すことができればと願っています。

昔なら、駄菓子屋のおばちゃんに「ごめんなさい、いいですか」の一言で足りたのでしょうし、その際、ささやかな善行(偽善?)の快感やおばちゃんへの感謝から、うまい棒の一本でも買っていったのでしょうから。

 

森会長の舌禍騒動に関する分かれ道と男社会の喫煙店で生きる女性達に思うこと

現在(木曜午後)、東京五輪の森会長(元首相)の辞任のニュースが流れていますが、私は火曜(2日前)の時点で、この件では発覚とバッシング開始の直後に組織委が

功績や今後の責任を踏まえて罪一等を減じ、女性選手や女性ボランティアの参加環境の向上と女性役員の参画促進のため懸命に奉仕する無期刑に処すことにしました

などと声明し、その実践となる具体策を直ちに提示すると共に、世間一般にも、いい知恵あれば出して下さいと募集していれば、世界中が大喜利状態になり、早期収拾もあり得たのでは、と思っていました。

具体策は、例えば、会長特別補佐として、田村亮子氏とか高橋尚子氏のような?世界的知名度のある著名業界人を選任して、役員修行をさせつつ顔役の仕事をして貰うとか、女性選手などの環境向上のための特別部会?を作り、論客女性を揃えて森会長は出席必須とする、などと発表すれば、災い転じて福となすことができたのかもしれません。

森会長の舌禍問題の本質は男女差別というより身内意識のあるファミリー的同胞のみで組織を運営し利権などを独占しようとする姿勢だと指摘する意見を拝見し、或いは、これが辞任要求まで燃えさかった根底にあるのかもしれないとも感じました。
https://bunshun.jp/articles/-/43398

ただ、そうであればこそ、ご本人の首を獲ること(で、一部の方々が快哉を挙げる一方、消極視する方々との社会的分断を深めていく)よりも、そうしたファミリー至上主義(マフィア的)体質の是正を自ら実践させる機会を付与する方が、今後の双方の立場の和解という点などに照らしてお互いにとって望ましいのではとも感じ、単なる「首のすげ替え」的な辞任の光景は残念なもののように思いました(以前、岡村隆史氏の舌禍事件が起きた際も、似たような投稿をしたことがあります)。

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ところで、火曜の昼に、2~3年ご無沙汰になっていた近所の定食屋さんに赴いたところ、ドアを開けた瞬間に、中年~熟年男性の愛煙家グループ客が数組陣取る光景が目と鼻を覆い、その瞬間「ああ、これのせいで、このお店に来なくなっていたのか」と思い出しました。

近年、禁煙のお店が増えた結果として、喫煙可のお店は喫煙者ばかりが集まる傾向があるように思われます。

提供物(食事)には何の不満もないだけに、できれば(夜はまだしも)昼食は法令で全面禁煙にして欲しいと思っているのですが、それが無理なら「喫煙可」のシールを入口に貼っていただければ、ドアを開けた直後に後悔しなくとも済むのに・・と残念に感じたりもします。

冒頭の話に続けてこの話を書いたのは次の理由によるものです。

それら喫煙可のお店は、私の事務所の近所では熟年のご夫婦が二人三脚でなさっているものが多く、旦那さんは調理場に籠もっているのでさほど問題ないでしょうが、ホール担当の奥さんは毎日のように受動喫煙の被害に曝されているはずです。

飲食店の禁煙問題は、利用客の受動喫煙被害についてはよく聞いたことがあるように思いますが、店員側の被害とりわけ上記のようなお店の「恐らくご自身は喫煙をしないのであろう熟年のおばさん達」への負の影響の有無、程度などに論及があったか思い出せません。

この件に限らず、「喫煙男性ばかりの飲食店のような(男女差別を声高に叫ぶことができる場所で生きている女性達と異なり)スブズブの男社会の中に身を置かざるを得ず、そこで生じる負の側面を否応なしに引き受けている女性」の被害や環境向上に目を向けるなどという視点が、もっと社会内で大切にされてくれればよいのではと感じています。

ウイルス禍云々でストレスのはけ口を探している?方々が自身とあまり関係のないバッシングに精を出すのも結構ですが、女性の地位向上を本気で願うなら、そのような事柄にも何らかの尽力をしていただければいいのに、などと余計なことばかり思ったりもします。

ちょうど店内のTVで冒頭のワイドショー番組をやっていたので、そうした戯言が頭をよぎり、自身の無力を感じつつ、お店をあとにした次第です。

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なお、健康増進法の関係で、現在は飲食店は原則禁煙となっているはずで、岩手県の該当サイトを見る限り、全席喫煙OKとする小規模店は店頭に表示をするなどしなければダメと書いてあります。

上記のお店が掲示していなかったのか、それとも小さくて見落としたのか、すぐには分かりませんが、いずれにせよ、その点は行政や業界などによる更なる周知啓発が望ましいと思われます。

ともあれ、今回、強調したホールスタッフ(おばちゃん)の受動喫煙対策という点からは、全面喫煙OKとするためにはスタッフの同意書を必要とするとか肺癌などの検診を通常以上に義務づけるなど?の配慮があるべきかと思っています。

小保内一族のルーツを求めて(後)~南部藩の古文書から考える~

標題のテーマに関する前回の投稿の続きです。

Webで偶然見つけたのですが、盛岡市中央公民館で保管されている南部藩の古文書群に、前回の話とは違った形で、小保内源左衛門が登場しているのでは?との想像をかきたてるものが存在しているようです。

この古文書群の内容を整理して紹介するディープなサイトがあり、南部藩に仕えた諸氏の来歴などを説明しているのですが、その中に「生内(おぼない)賢一郎家」を紹介するページがあります。そこに「生保内源右衛門」なる御仁が登場し(左ではなく右なのが残念ですが)、同人又はその親族が秋田と二戸の双方と関わりがあると記載されているのです。
https://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=50624

古文書を紹介する内容のせいか、矢鱈に人名が登場し噛み応えのある文章ですが、本稿に関連する部分を要約すると、次のような事柄が書かれています。

①古文書Aによれば、秋田(角館)出身の高橋信真は福岡(二戸)で南部利直(信直の子で、南部藩では名君と謳われる初代盛岡藩主)に登用され、名字を変えて生内(おぼない)信真と名乗った。信真の直系は孫の代に家禄没収に遭ったが、庶子が明治まで家臣?として存続し、末裔が雫石に住んでいる。

②生内信真の先祖は四国の出身で、信濃を経て佐竹家や戸沢氏に士官していたが、信真の親の代?に角館城が落城し戸沢氏が没落したため岩手(南部家)に士官したものである。

③古文書Bによれば、信真の父方の叔父に「生保内源右衛門」がおり、同人の子も源右衛門と名乗っていた。源右衛門の素性の説明は無い。諱(名前)の記載もなく、通称の「源右衛門」しか記載されていない。なお、古文書Aには信真の父・信家の兄の信忠は角館落城後も角館に留まり佐竹家に仕官したとあり、信真の叔父で「秋田から岩手に移住した者」の記載はない。

④古文書Cによれば、南部信直は、秀吉の小田原征伐に参陣する途中に、仙北で小保内禅門の館に宿陣した(※この「仙北」は、仙北町=盛岡ではなく秋田の仙北郡を指すと考えられる)。その際、信直は禅門の子を召し抱えた。なお、小保内禅門と高橋(生内)信真一族との関係は不明(記載なし)。

*****

高橋信真が秋田出身とされることから、信真の叔父の「生保内源右衛門」も秋田にゆかりがあると思われますし、稲荷神社の記録に伝わる小保内源左衛門も、素直に考えれば南部信直・利直時代の人物であることは間違いありません。

わざわざ「(信真が)二戸で仕官した」とある点にも、本家(小保内一族)との何らかの繋がりを感じさせる面があります。

「盛岡で居場所を持てず二戸にやってきた小保内源左衛門」と「二戸で南部家に仕官し(恐らく)盛岡に移住したものの孫の代に家禄を失った生内信真」も、二戸との関わりや盛岡との相性の悪さ?などから、ビミョーな類似性を感じます。

もし、この生保内源右衛門が実在するとして、この御仁が稲荷神社(本家)の始祖たる小保内源左衛門義信と同一人物(どちらかが誤記?)と言えるのであれば、これらの古文書からも、本家は秋田出身と裏付けられると共に、小保内と名乗る前は、高橋と名乗っていた(しかも四国に先祖がいた?)という話になります。

なお、本家の始祖の小保内源左衛門は秋田城介=安東通季?の家臣とされているのに対し、こちらの古文書では角館を拠点とする戸沢氏の家臣となっています。

ただ、前出の「湊合戦」の際には戸沢氏も安東通季に加担していたとwikiに表示されているため、「安東実季(檜山安東氏)に敗れて秋田の支配権を失った一派」と捉えれば、双方は共通することになり、その点は興味深く感じます。

ともあれ、このサイト記事のみを根拠に「源右衛門と源左衛門が同一人物だ」などと推測するのは無理があるでしょうから、現時点では妄想の域を出ません。

ちなみに、上記①~④のうち、②は史実ないし一般的な歴史認識に照らし誤った記載が多々含まれています。角館城をWebで調べると、戦国・織豊期に落城したとの記録は全くなく、角館城主たる戸沢氏は敗亡や没落はせず、関ヶ原(対上杉戦の北方戦線)での働きが不十分だとして常陸に減転封されたに過ぎず、その後、山形県新庄の藩主として存続しています(他にも、数世代に亘り生じた出来事の時系列に関する記載に不合理さを感じます)。

ただ、高橋(生内)一族が戸沢家の家臣だったなら、奥州仕置の際に失職して南部藩=仙北町に来た可能性はありうるのでしょうし、戸沢家臣時代に戸沢氏の勢力下にある田沢湖町(旧生保内村)の領主だったのなら、私の父が田沢湖町で聞いたという伝説にはピタリあてはまります。

余談?ながら、本家=稲荷神社の当主(神職)は、稲荷神社サイトによれば、源左衛門の子・定義を筆頭に、江戸時代には「定●」という名前を名乗る(2文字の最初に定の字を用いる)のが通例となっています(理由はわかりません)。他方、生内信真の子孫は、江戸末期頃から数代に亘り「定●」という名前を名乗っていたようで、不思議なものを感じます。
歴代宮司について(1) : 呑香稲荷神社ブログ (blog.jp)

ともあれ、本家の始祖たる小保内源左衛門義信の正体(出自)を考える上で、このサイトの文章が様々な示唆ないし想像をかきたてる面があることは言うまでもありません。

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以上で小保内源左衛門義信の出自を探る考察を一旦終えますが、もう一つ、純個人的に、大変興味深い事実に気づきました。

私の名前は「義和」で、兄も漢字2文字で「義」が名前の先の方に用いられている(漢字1文字違い)ので、兄弟そろって「義」の字が使われているのですが、私の実家(数代前に総本家から分かれた家)の家系には、そのような名前=名前に「義」の字が用いられている方は全くいません。

また、本家の家系図を見ても、始祖の源左衛門義信と子の定義以外に「義」の文字が用いられた者(当主たる神職)がおらず、不思議なほど「義」の字が使用されていません(まあ、特に理由もないのでしょうが・・)。

そのような中、私の父が自身の子供二人に、一族の始祖たる源左衛門義信と同じ「義から始まる漢字2文字の名前」を命名したことには、不思議というか、興味を掻き立てられずにはいられません。

残念ながら父は数年前に亡くなり、私は生前に聞きそびれましたので(兄も聞いていないとのこと)、この点に関する真相究明は困難です。

ただ、以上に述べたことを踏まえると、もしかすると、父は何らかの理由で、子供達に一族の始祖と同じ「義から始まる漢字2文字の名前」を定めたいと考えたのではないか、と妄想せずにはいられない面があります。

では、仮に、その「妄想」が本当だったとして、どうして父はそのようなことを考えついたのか。以下も全くの想像ですが、折角なので、とことん妄想してみようと思います。

私の実家は曾祖父が商家として身を立て(盛岡なら三田一族にあたるような、地元で最も著名な商家で奉公し独立したと聞きました)、祖父の代に最盛期を迎えたものの、頑張りすぎた反動?で祖父の晩年に斜陽となり存亡の危機に直面したこともあったそうです(私が物心ついた頃には、危機は去り緩やかな衰退期に向かっていました)。

そのような状況下で家業を継承する前後に我々を授かった父は「ここで家を潰してなるものか」という緊張感と闘っていたと思われ、本家=一族の始祖の加護を欲して「義」の字を子供達に付すことを思いついたのではないか。

これが、現時点では立証困難な妄想の終着点となります。

ただ、そのように妄想すれば、実家を離れ「新たな家を建てるべき立場」になった私にとって、一族の始祖と同じ「義」の一字を授けてくれたことは、相応に意味や価値があるように感じます。少なくとも、他の名前を授かった場合と比べ、親近感は全く異なると言ってよいでしょう。

故郷の秋田を不本意な形で離れ、第二の故郷となるはずだった?盛岡に馴染めず、何らかの理由で二戸に落ち着き、城跡の一角にある神社の神職として、大戦争で荒れ果てた地域の鎮守となった小保内源左衛門義信。

小さな商家の次男として生まれ、故郷(二戸)に身の置き場がなく、都会にも馴染めず、盛岡=主君を滅ぼした敵が作った都(二戸人は政実公が主君ですので信直公は主の敵です)で身を立てることにした小保内義和。

この二つの物語が交差する有様を眺めつつ自分のなすべきことを考えてみるというのも、多少はおもしろいのではと思います。

この物語をみていただければ、どうして私が北奥法律事務所(北東北のために働く弁護士)と名乗ったのかという理由も、若干はご理解いただけるかもしれません(もちろん、以上の理由で考案したのではなく、直感で思いついただけですが)。

余談ながら、私の実家の親族には盛岡に定住した方がほとんどおらず、実家以外で本家から分かれた他の方々を含め、この一族には「盛岡で身を立てた方」がいるのか知りません(本家にこれほどの歴史があるだけに、些か不思議に感じます)。

そのことも、私が盛岡で生きることに何らかの意味や価値を与えてくれるのかもしれません。

皆さんも、ご自身のルーツを探る旅に出かけると共に、その果てに、自身のあり方を深める物語に辿り着いていただくことを願っています。

 

小保内一族のルーツを求めて(前)~稲荷神社の公式記録から考える~

皆さんはご自身の先祖を把握されていますか。中には数百年前まで分かるという方がおられるかもしれませんが、ごく少数かと思います。

私の実家は「江戸晩期に本家から別れた後、6代ほど続いた家」で、曾祖父が商家として身を興し、祖父の代に一旦は二戸でも著名な商家の一つとして最盛期を迎えたものの、祖父の晩年から斜陽気味になり、様々な方の支えで現在も何とか存続しています。

本家(総本家)は二戸市にある呑香稲荷神社ですが、本家は神社の正当な伝承に基づき、江戸初期(盛岡南部家2代・利直の時代)に「小保内源左衛門義信」なる御仁が、当時、浄法寺(稲庭岳の麓あたり?)にあった稲荷大神を現在の地(二戸市五日町)に遷座させたのが発祥とされ、以来、数百年も連綿と続いています。
http://tonkouinari.blog.jp/archives/1388136.html

本家は、私が聞いた話では発祥時から現在まで男子直系が続いているわけではないものの、血族(当主の姉妹の子)を養子に迎えるなどしており、血筋は絶えたことがないはずです。

ただ、この「小保内源左衛門義信」については、引用の稲荷神社のサイトをはじめ、Web上の多くのサイトで秋田城之介の家臣と書かれているものの、それ以上の情報が得られず、どこで何をしていた者か(そもそも「秋田城之介」自体、何者なのか)、突き止めることができていません。

上記のサイトでは、この人物(本家の始祖)は秋田出身で江戸初期に、主家没落に伴い南部家に移籍し盛岡市の仙北町(秋田の仙北郡出身者が移住した地)に身を置いたものの、不遇の身に憤慨し二戸に移住したなどと書かれており、他に同種の記載があるサイトも見かけましたが、Web上の情報は全てそこで終わっています。

もし、それ以上の話をご存知の方がおられれば、ぜひご教示をお願いしたいところです。

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で、今回の投稿は、この「小保内源左衛門義信」の出自・正体について、私なりに調べて推測したこと(現在の到達点)を記録に残しておきたい、との目的で書いたものです。

まず、この「秋田城之介」とは、秋田市中心部の千秋公園=久保田城(佐竹氏の居城)ではなく、大和朝廷により創建された古代の秋田城(秋田市北部に遺跡があります)の長官を指すことは間違いありません。

そして、当時=安土桃山~江戸草創期に「没落した秋田城之介」がいたのか調べてみると、以下の理由から、現在の秋田市周辺などに勢力を有していた「安東通季」だと推測されます。

そもそも、北東北は頼朝の平泉征服に伴い甲斐から移住した南部一族が席巻し、鎌倉後期には広い圏域を支配下に収めていましたが、室町期に退潮し、戦国期の秋田県は、安東一族が勢力を伸ばしていました。

安東一族は「奥六郡(狭義は岩手県、広義には北東北全域)の正当な支配者」たる安倍一族の末裔を自称し、かつて北東北随一の港湾と謳われた十三湊を領有していましたが、室町期に一旦没落した後、戦国期に復権し、秋田市のエリアに拠った湊安東氏と、能代市エリアに拠った檜山安東氏に分かれて覇を競っていました。

当初は湊安東氏の方が優勢で、最盛期は秋田県の大半を勢力下に収めていたのですが、戦国後期に檜山安東氏に有力武将が二代続けて出現し(安東愛季・実季父子)、織豊期には檜山安東氏が湊安東氏を併呑してしまいます。

で、その際、湊安東氏が「呑み込まれてなるものか」と秋田の覇権を賭けて檜山安東氏に戦いを挑むものの、敗亡するという出来事(湊合戦)があり、その最後の当主である安東通季のwiki情報を見ると、敗亡後は南部氏のもとへ逃れ、復権運動を行ったものの奏功せず、やがて南部氏の家臣となった、と記されています。

そして、安東通季=湊安東氏は秋田市周辺を本拠とし、一時は秋田県の大半を勢力下に置いたことなどから、秋田城介(旧秋田城の長官=秋田県域の正当な支配者)を自称していたと記されています。

以上から、小保内源左衛門義信が仕えていた(と称する)「秋田城之介」とは、安東通季に間違いないと考えられます(義信自身又は他者が創作したかどうかはさておき)。

ちなみに、安東氏ひいては秋田の覇者となった安東実季は、秋田制覇後には秋田氏と名乗るようになりましたが、関ヶ原後は天運に恵まれず、佐竹氏と入れ替わりで常陸の一角に移封された後、子の代には陸奥国三春=現在の福島県三春町に移封され、そのまま三春の小領主として明治を迎えています。

三春は言わずと知れた福島を代表する桜の名所の一つで、現在でも古い建物が点在する小京都的な街ですが、そうした歴史を踏まえて訪れていただければ、また違った光景が見えてくるかもしれません。

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それはさておき、没落した秋田城介こと安東通季については相応にWeb上で分かるものの、さすがに家来?の小保内源左衛門義信のことまでは、Web上で辿ることはできそうにありません。

ただ、私は子供の頃に亡父から「自分が秋田県の旧田沢湖町(現仙北市)の中心部(生保内地区=旧生保内村)に赴いた際、地元の人から『あなたの先祖は、ここの領主だった』と言われた」と聞かされたことがあります。

ここからは憶測になりますが、小保内源左衛門義信(の先祖)は、湊安東氏の最盛期に生保内村の領主をしており、その関係で「小保内」と名乗っていたのかもしれません。

漢字が違うじゃないかと言われそうですが、それこそ、秋田を去って南部(岩手)の人間となることを決めた際、旧領への未練を断ち切るため「生」を「小」に変えたのかもしれません。

ちなみに「内」はアイヌ語で「小さな沢」です。「小保」の由来は不明ですが、古代に東国の有力豪族と言われた「オホ氏」と関係があるかも、という独自説(笑?)もあります

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私は幼少期に亡父から「我が一族の先祖は、田沢湖(生保内村)の領主をしていたが、秀吉の東北征服(奥州仕置)により領地を失い、南部家の食客になった。そして、南部公から『二戸には九戸政実の残党が今も多数あって政情不安であるから、この地を鎮めて欲しい』と頼まれ、神官として二戸にやってきたものである」と聞かされたことがあります。

稲荷神社は、言わずと知れた九戸城(九戸戦争による政実公の敗亡=信直公の入城後は「福岡城」)の敷地内(旧三の丸及び松ノ丸)にあります。ですので、神社の敷地は、福岡城の城主たる南部氏が盛岡に移転した際に、何らかの理由で南部公から引き継いだ(託された)ものと考えるのが合理的だと思います。

ですので「小保内源左衛門義信が南部公の意を受け神官として二戸にやってきた」という父の説明(伝承?)には相応の信憑性があることは間違いないでしょう。

次回は、Web上で偶然見つけた「小保内源左衛門の出自を突き止めることができるかもしれない、もう一つのネタ」から考えたことを書きます。

(追記)
今、Webで少し調べたところ、「オボナイ(小保内、生保内等)」とは、アイヌ語で深い川、或いは深い谷を指すと書いてあるものを拝見しました。

 

中央通三丁目の黄金樹(ゴールデンバウム)は倒れた

啄木新婚の家やバス停に立ち寄ったことのある方なら、その北側(岩手山側)に、スギの一種とみられる一本の巨木が屹立する光景をご覧になったことがあるかもしれません。

この巨木は、啄木新婚の家と岩手山の間で両者の光景を引き締める役割を担っており、私は、当事務所を開設した直後から、この威風堂々たる巨木が好きで、「中央通三丁目のマザーツリー」と呼んできました。

この巨木が生えている場所は、中央通三丁目から長田町界隈の中では、最も古い歴史のある(らしい)邸宅であり、啄木新婚の家の往時の貸主だった(現在は同所は盛岡市が所有しているはずです)ほか、昔々は、この界隈の大半の土地を所有する大地主であり名家だったとも聞いています。

しかし、数年前、この邸宅の最後のご当主が亡くなり、相続人もなく家が絶えてしまい、様々な経過を経て、先般、ついに邸宅は人手(不動産業者)に渡りました。

そして、この巨木も、昨年末に邸宅と共に歴史の彼方に消えてしまいました。

どうして、そのようなこと(この木の持ち主のこと)を私が知っているかと言えば、その話に本業で少しだけ関わったことによるものです。

ですので、あまりペラペラと書いてよい話でもないのですが、この巨木へのレクイエムとして、ご容赦いただければと思います。

長寿の末に老衰で亡くなられた最後のご当主は、某英伝の(実質)最後の皇帝と異なり、放蕩には全くご縁のない生き方を何十年も続けていましたが、様々な残念な事情が重なり、後継者を得ることなく旅立たれたそうです。

私は、何年も前、ご当主が亡くなられた直後に、ご当主と一定の関わりがあり、この邸宅を何とか残したいという気持ちを持った方(現在は遠方にお住まいの方)から相談を受け、少しだけその件に関わりました。

その方は、何年ないし何十年も前に、ご当主などと相応の協議をなさっていれば、或いは、邸宅などの管理を引き継ぐこともあり得たのではと思われましたが(相応の事情のある方でした)、現行法の壁が大きく、その方のご希望に沿うことはできませんでした(或いは、旧民法なら、私の主張が認められる余地がありえたかもしれません)。

私自身、当事務所を開設した(盛岡に戻ってきた)ばかりの頃=15年ほど前、最後のご当主に一度だけお目にかかったことがあり(一時的な駐車場として短期間借りた区画が、ご当主が所有する土地だったようで、玄関で挨拶させていただきました)、そうしたことも含め、この界隈を代表する一族が、後継者を得られずこの地から絶えてしまったことに、寂しさを禁じ得ない面があります。

そうしたこともあり、この巨木の最期を垣間見た際、銀英伝を訳も無く思い出し、「あぁ、この地の黄金樹(ゴールデンバウム)がついに倒れた」と思わざるを得ませんでした。

もしかすると、この巨木は、この一族と共に当地の守り神のような役割を果たしていたのかもしれません。

別に、呪詛を唱えたいわけではありませんが、半月ほど前に撮影した在りし日の巨木の最期の姿を眺めつつ、せめて、このマザーツリーが成仏してくれることを願わずにはいられません。

今冬、盛岡は数年以上ぶりに、度重なる大寒波の猛吹雪を浴びています。降雪は、この巨木の死後間もない頃から始まりました。

或いは、この雪は、この巨木と一族の涙が、形を変えた姿なのかもしれません。