北奥法律事務所

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二戸地域など

漆産業の復興は、シン・あまちゃんと宇宙科学から

ロータリークラブのIMと呼ばれる行事(講演会等)が二戸パークホテルで行われ、諸般の理由から、盛岡北RCの会員として参加してきました。

現在、二戸・岩手は浄法寺地区を漆文化などを中心に「奥南部・漆物語」と名付けて売り出しており(文化庁の「日本遺産」に認定とのこと)、今回はその話を取り上げたものとなっていました。

ただ、南部一族は頼朝征服に伴い甲斐国からやってきて300年以上も三戸を拠点とし、九戸戦役(本家断絶後の承継紛争に始まる豊臣徳川東北諸侯軍との戦争)後、短期間だけ二戸(九戸城改め福岡城)を本拠としたものの、南部信直が浅野長政の勧めで盛岡に移転するという歴史を辿っています。

盛岡はもともと紫波を本拠とする斯波氏側の領土で、戦国末期(九戸戦役直前)に南部氏の支配下に入ったと理解しています。

ですので、岩手県北や青森東南部こそが南部一族の本来の領土(実家)であり、三戸などと組んで「奥南部」ではなく「本南部」とか「元南部」と称していただければと思わないでもありません。

まあ、他ならぬ柳田国男が作った言葉だそうですし、浄法寺(や安代)自体は盛岡と三戸(や二戸=福岡)のどちらからも「奥」と言えそうなので、案外、ケチが付かないネーミングなのかもしれませんが・・

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ところで、講演では、戦前に作られた「漆の生産量の激減に危機感を持った人々が、担い手(漆掻き職人)の勧誘目的で製作した(らしい)ミニ映画」が上映されたのですが、主人公である、漆掻き職人に志願した若い女性の作業着姿が

ほぼ、あまちゃん

という格好でした。

漆掻き職人(担い手)は現在も困難な状態が続き、パネルディスカッションでも地域おこし協力隊の方が登壇されていましたが、その映画を拝見して、

あまちゃんに倣い、若い女性が漆掻き職人に挑むドラマ(朝ドラ?)をクドカン氏などに頼み作ってはどうか

と思わざるを得ませんでした。

ドラマのタイトル(主人公の愛称)は、ズバリ、

カッキー

で、どうでしょう(新垣氏にも出演いただければベスト)。例えば、

最初はイケていない主人公を周囲の面々が地域おこし目的で、あまちゃんの真似で作業着を着せてヘッポコWeb映像(恋ダンス風の漆掻き作業動画とか?)を出したところ、バズって世界の脚光を浴び、やがては第一人者の導きのもと世界遺産級の建築物の修復や超高級工芸品などに絡んでいく・・

といった企画案で売り込んでいただいても良いかもしれません。

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ちなみに、5年ほど前に盛岡北RCで周年行事を行った際、何か記念事業をやるべきではという話が出たので、県境不法投棄事件の跡地に漆の木を植樹するのはどうでしょう、と提案したことがあります。

残念ながら盛岡から遠く離れているとの理由で却下されましたが、県境事件は二戸だけの問題ではなくオール岩手(と青森)で取り組むべき問題ですので、本来は岩手や青森のRCなど諸団体が力を合わせて取り組んでも良いのでは、と今も思っています。

もう一つ余談になりますが、宇宙科学の世界に「ウルシ」と呼ばれる世界規模の学術団体があり、田中舘愛橘博士との繋がりという意味でも、岩手(盛岡)にウルシの総会を誘致すべきではと述べたことがあります

漆と二戸に関心を持っていただける方には、こうしたことも視野に、お力添えをいただければ幸いです。

以上、設営等いただいた二戸RCの方々に感謝しつつ、現場からのレポートとさせていただきました。

地域の大物達が去って行く光景と託された課題

半年も前の話ですが、当事務所の最初の顧問先になっていただいた会社さんの経営者の方(以下、Aさん)が亡くなられ、葬儀(お別れ会)に伺いました。

この会社さんは二戸を代表する企業の一つであり、Aさんは私の亡父とも大変親しくさせていただいた関係で、開業祝い?として顧問契約をしていただき、以来、良好なお付き合いをさせていただいています。

Aさんは当事務所の開業時点で経営者としては息子さんに代替わりをされており、仕事上のお付き合いはありませんでしたが、二戸の慣行?として、

お盆に付き合いの深い方々の家々を廻って神棚・仏前にお参りする

というものがあり、以前はAさんも例年、私の実家にいらしていただき、留守番担当の私が亡父や兄に代わりAさんをはじめ実家にお越しいただいた方々にご挨拶していました。

その際に限らず、二戸RCの家族会など子供の頃から何度もお会いした方でもあり、祭壇できちんとお別れの挨拶ができたので、その点は何よりでした。

葬儀自体はトンボ返りで事務所に戻りましたが、折角ということで中学の同級生のご実家だと聞いている堀野の食事処に立ち寄り、引用のとおり、鶏丼を大変美味しくいただいて帰りました。

先般もお盆で帰省しましたが、ウイルス禍に加えて世代交代・慣習変化などの影響が重なり、地域の人々がお盆に親しい家々を廻る(拝みに行く)習慣は、十数年前と比べて大幅に減少しているようです。

それ自体は諸々の理由からやむを得ないのだろうとも思いますが、そうした慣行に支えられていた地域社会の相互扶助の精神(人々のつながり)までも大きく後退しているのではと、残念に感じる面もあります。

私は地域の相互扶助・交流等の再構築が現代社会の大きな課題の一つだと思っており、そのような目的のためWeb等が良好に活用されるべきだと感じています(が、社会内でさほど有意な取組がなさているとは感じていません)。

FBも有意義な投稿を拝見する機会が減り、広告や見ず知らずの外国のミニ動画ばかりが表示され、残念に感じていますが、可能なら、そうした精神を支えるツールとして活かされてくれればと願っています。

恐らく、そうした再構築の努力もAさんや亡父から我々の世代が託されたことの一つだと思って、ささやかながら、こうした投稿を細々と続けている次第です。

 

廃棄物の大量埋設事件たちが語る、大地の尊厳と回復負担の適正公平への道

先日(12月9日)、「岩手青森県境不法投棄事件を総括しつつ、現在も県内で生じている廃棄物大量埋設事件に関する訴訟(旧県立軽米病院事件)を紹介し、一連の問題への県民意識の喚起を図ること」を目的とした、NHKの特集番組(いわチャン「希望郷の廃棄物」)が放送されました。

次の日曜(12月18日)も再放送されるそうなので、見逃した県民の方などはご覧いただければ幸いです。

番組は著名声優さんの語りで県境事件の概要や費用負担を巡る論点及び県庁(環境生活部)の取り組みなどが紹介され、ドキュメンタリーとして綺麗に出来上がっていました。

が、県境事件の総括の途中で突如、軽米事件がニュースをそのまま入れ込んだような形で出てきたため、唐突感というか、番組編集的に若干苦笑する面はありました。

ちょうど放送の前日頃に訴訟の第1回期日があり、進行中の事件の取り上げ方(しかも、県庁vs地元自治体という異例訴訟)の難しさも相俟って、NHK内でも様々な議論や苦慮があったものと察しています。

ともあれ、当方の主張の核心部分(汚染者が責任を問われず原状回復を負担することなく、大地の浄化を引き受ける地元民がしわ寄せを受け虐げられる社会は、間違っていること)には共感いただいた内容だと認識しており、制作サイドの熱意を含め、そのメッセージが行間から伝わる番組になっていたと思います。

私は軽米事件の相談を受けたときから、県境事件との繋がりや落差を強く感じていたため、そのことは訴状に書いたほか、提訴時の記者会見でも記者クラブ向け説明資料で特に指摘し、訴訟での立場等に関係なく、県民の関心を高める報道をお願いしたいと伝えていました。

が、記者クラブの参加者からは全く反応がなく、地元紙などで取り上げた話も聞きませんでしたので、残念に思っていたところ、しばらく経って、その際に同席していなかったNHKの方から、二つの事件をテーマにした番組を作りたいとの申出を受けたため、私と同じ問題意識をもってくれる人がいるんだと感動し、感謝の気持ちで可能な限りの協力をさせていただきました。

裁判自体は裁判官が判断すべきものですので、世論誘導が目的ではありませんが(そんな力もありません)、この問題は広く関心が持たれるべきで、可能なら、県民世論からも適正・円満解決を求める後押しがあればと願っていますので、今後も、訴訟自体に限らず、できる限りのことはしていきたいと思っています。

皆さんも、こうした番組を通じて、口先だけではない「美しい県土を守る」とはどのようなことなのか、考えていただければ幸いです。

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

なお、お店や食事の写真は撮り損ねたため、代わりに、翌日に赴いた快晴の城岱牧場から望む函館弯・函館山の風景をご堪能下さい。バスク地方にも、似たような景色がありそうですし。

帰ってきた?田中舘秀三物語と「街もりおか」

昔から私の投稿をご覧いただいている方なら、私が5年前に、

世界遺産・シンガポール植物園と同国の多数の学術資産を大戦の混乱から救った、田中舘秀三・東北帝大教授(二戸・盛岡出身)の物語(映画化を目指すあらすじ案)

を掲載したことを覚えておられるかもしれません。

この件では、盛岡北RCや二戸RCの卓話でお話しさせていただいたこともありますが、その後はWebの片隅に消えるだけの残念な状態が続いています。

数年前、某映画の制作時にプロデューサーの方が盛岡北RCで寄付募集をしていたので、せめてもの悪あがきということで、ささやかな(私には小さくない)額の寄付を行い、その代わり、「あらすじ案」を監督にお渡し下さいね、とお願いしたものの、当然ながら?何のレスポンスもなかった・・ということもあり(渡して下さったことは間違いないそうですが)、懐かしい思い出です。

私も、半ば忘却の彼方だったのですが、少し前、盛岡のご出身で長年、他県の大学で教鞭を執られていたという元大学教授(ご専門は東南アジア文化研究とのこと)の方から、

この話をこのまま埋もれさせるのは勿体ない、また運動してはどうか

との激励のメールを頂戴しました。

私も、このまま終わるのは残念という気持ちもあり、先日、タウン誌「街もりおか」の運営に関与されている方が執筆者募集をしているのを見かけたため、投稿させて欲しいと申し出たところ、了解を受け、先ほど、原稿を提出しました。

恐らく、7月か8月の「街もりおか」に、掲載されるのではと思います。

当時、作成した「あらすじ案」は、PDFで保存していますので、ご希望の方は、Eメール(当サイトの「お問い合わせ」コーナーからも送信可能)でお申し出があれば、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。

これが最後の悪あがきになるかもしれませんが、可能でしたら、メディア?等の業界関係者と面識のある方は、「こんなネタもある」と伝えていただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

 

遠野の水光園から二戸の水光苑への追憶とお尋ね

前回も投稿したGW中の遠野巡りの際、観光名所の一つ、たかむろ水光園に行きました。
https://www.tono-suikouen.jp/
https://tonojikan.jp/kanko/suikoen.php

昭和期に作られた人口池ですが、崖上の浄水場から大量の水が滝となって流れ込み、十分に風光明媚な場所と言えるでしょう。

ところで、水光園に関しては、二戸ゆかりの方々にぜひ伺いたいことがあります。

40年前の二戸をご存知の方ならお分かりかと思いますが、現在の二戸ロイヤルパレスが存在している(先般閉鎖されたそうですが)場所には、当時、「水光苑」と呼ばれた宴会施設がありました。

二戸RC(ロータリークラブ)の例会場などで利用されていたせいか、幼少期の私は何度かお邪魔しており、もし現在も存続していれば、昭和レトロ感満載として見直されていたと思える、味わいのある作りだったような記憶が微かにあります。

この二戸の水光苑ですが、その名のとおり敷地に大きな池があったような気がするのですが、幼少期の微かな記憶のため勘違いの可能性が高く、全く自信がありません。

また、たかむろ水光園が開設された時期は、二戸の水光苑の最盛期とさほど離れていないはずで、双方の接点があるのかも不明です(なお、水光園(苑)で検索すると、全国に幾つかの施設があることが分かりますが、互いの関係性は無さそうです)。

もし、在りし日の水光苑の姿をご存知の方がおられましたら、コメントを頂戴できれば幸いです。

ともあれ、たかむろ水光園の庭園施設自体は、現在はさほど注目されることもないせいか、寂れ感が目立っており、上部の温浴施設の収益でどうにか維持されているのだろうという印象は否めません。

イベントや映画撮影などで活用できそうな古民家群があり、少し傷んでいる雰囲気が、かえって味わいを醸し出しているので、どうにか活かしていただきたいものです。

 

薄く延ばした卵とじの「ひっつみ」が世に出る日を求めて

半年ほど前にFB投稿した記事の掲載も、ようやく最後です。この日(半年前のある日)は、昼に裁判所に所用があり、近くの北ホテルのレストラン窯で「ひっつみ定食」を美味しくいただきました。

ただ、大事なことなので何度でも言いますが、私の実家では「卵とじ」のひっつみを長年、愛食してきましたので、市内等のどこにも卵とじのひっつみを提供して下さるお店がない光景は、とても残念に思っています。

盛岡の方々は卵とじに馴染みがないのかもしれませんが(津軽の貝焼き味噌のように、卵とじは青森の文化かもしれません)、ひっつみは卵とじをした方が何倍も美味しいので、市内の飲食店関係者の皆さんにおかれては、プラス100円等で「卵とじサービス」を前向きにご検討いただければ幸いです。

あと、欲を言えば、キノコも椎茸ではなくナラタケ(二戸等ではカックイ。盛岡ではボリと呼ぶそうですが、カックイの方が音がいいと思います)にしていただければ、なお有り難いです(ナラタケ+鶏肉の組み合わせは、ひっつみ・蕎麦・雑煮など、どれにも抜群に相性が良いです)。

関連して、昔々に書いたこちらの記事もご覧いただければ幸いです。
「ひっつみ」に関する照会とお願い | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

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以上のFB投稿に、地元の先輩でもある二戸の著名人Kさんから「うちも昔は卵とじのひっつみだった(が、今は、見かけなくなった)」とのコメントをいただきました。

苦節四十数年、私の実家以外で、卵とじのひっつみを食べたことがあるという方に初めてお目にかかり、感動するばかりでした(笑)。やはり、二戸には、そのような食文化があるのかもしれません。

ともあれ、ぜひKさんの影響力で二戸や盛岡などの飲食店の方々に勧めていただければとお願いしました。

また、ひっつみは巨大な鍋に、ひっつみを可能な限り薄くのばし、グツグツした状態でひっつみを投入

→その後、グツグツ鍋に卵とじを投入

→共に極薄のひっつみと卵とじのハーモニーを、鶏肉等のダシの利いたツユで味わい至福のひととき、

というのが王道と認識しています。

というわけで、ウイルス禍明けにでも、Kさん?の仕切りで、パークホテルか馬淵川公園?等で

「南東北の芋煮に負けるな!北東北にはこれがある!」

とでも題して、自分たちで大鍋にひっつみ(と溶き卵)を入れて食べる一大パーティを開催いただき、それを皮切り?に、二戸の古くて新しい名物として売り出していただけないかと、願わずにはいられません。

過疎地自治体の空き家対策協議会の光景と残念なあれこれ

人徳も人望もありませんので「行政なんとか委員」を頼まれることはほぼ皆無の身ですが、地方の弁護士としては寂しいということで、弁護士会の募集に応じて「二戸市空き家対策協議会の委員」をしています。

で、半年ほど前、2年ぶりに会議があって出席してきました。まあ、2年に1回の会議で、多分に四方山話を聞いて終わり、という感じではありますが。

2年前の会議の際は11時半に終わり、駅のレストランで昼食をいただいて13時過ぎの新幹線で帰ったため、今回も同じパターンかと思い内職道具を持参したのですが、予想外に11時過ぎに終わったので、11時18分の新幹線で帰りました。

本当は、新規開店した「へのへの」で、あべどり・佐助豚・短角牛盛りだくさん定食をいただくのを楽しみにしていたのですが、2時間も書類仕事を放置するわけにはいかず、ということで、泣く泣く泣く泣く諦めて帰りました。

おまけに盛岡に戻った後も、昼食のことで、つまらない踏んだり蹴ったりが・・

というわけで、地元の方や二戸に昼間に行く機会のある方は、ぜひ、ご賞味下さい。

ところで、肝心の会議は市内の朽廃物件の幾つかを「特定空き家」と認定する旨の諮問をした程度で終わったせいか、市長さんから事務局の方々に「その先の作業(勧告等、代執行や求償その他)についてもっと具体的に考え、論点整理して会議で取り上げて欲しい」という趣旨の指示があり、私からも権利関係を整理する視点などについて若干補足させていただきました。

さらに欲を言えば、それらの物件が、どうして「朽廃状態が長期放置され、地域社会に負の影響を生じさせる空き家(特定空き家)になってしまったのか」という物件ごとの物語を調べて、背景にある人的な問題(地域社会の病巣)なども分析し、抜本的な解決や予防のあり方なども検討し市議会・市民などに還元できるような会議ができれば、なお良いのではと思いました。

まあ、それから半年経った現在でも市役所からこの件で何のご連絡もありませんので、結局、放置されているというか、言いっ放し・聞きっ放しという「会議あるある」になっているのかもしれませんが・・

私に関しては、事件受任をきっかけに継続的な相談対応などをさせていただいている小規模な基礎自治体さんが1つだけありますが、二戸市にも、空き家に限らず様々な課題が未解決のまま埋もれ続けているような気もしますので、本業の知見を生かして、もっとお役に立てることがあればと思っています。

「鶏とニンニクの聖地」岩手青森県境に、ブエノチキン・インスパイア系名物を

先日放送されたTV番組「ケンミンショー」で、沖縄で愛食される「ブエノチキン」という、鶏肉にニンニクを詰め酢に漬け込み丸焼きした商品が特集されていました

盛岡なら平船精肉店のローストチキンのイメージですが、ビールとの相性は、より高いように見えました。

鶏肉は沖縄県北の若鶏(他の原料の出所説明は無し)とのことですが、ニンニクと言えば青森県田子町(生産量も品質も日本一)、鶏肉も岩手県北が日本トップクラスの生産地だというのに、それを組み合わせた地域の名物を聞いたことがありません。

そこで、青岩県境の方々が次のような素材を持ち寄り、地域ならではの「ブエノ・インスパイア系チキン」を開発いただいてもよいのではと思われ、関係者のご尽力を期待したいものです。

・鶏→あべどり、菜彩鶏など(二戸及び周辺地域産)
・ニンニク→田子産
・醤油→ワダカン(十和田)?
・酢→ワダカンまたは津軽のりんご酢?

可能なら、現在、二戸ではホットな話題とされる「金田一温泉の再開発」の目玉商品にしていただいてもよいのかもしれません。ちょうどエリアのど真ん中ですし。

とりわけ、岩手青森県境(二戸と田子)は、かつて日本最大級の不法投棄被害に遭った場所ですので、それだけに両地域が協力して日本に明るい話題を提供することが期待されているのではと思っています。

余談ながら、盛岡北ロータリークラブでは、ホテルルイズが屋上バーベキューをはじめて以後、昨年まで毎回、8月例会はルイズで行っていたのですが、ルイズの廃業により、今年はレストランでの開催となりました。

今年は、私が8月例会の名目上の担当者だったので、あれこれ調べたのですが、市内(中心部など)でバーベキューが(平日夜に手ぶらで気軽に)できる商業施設というのは基本的に無いようで、残念に思います。

昔から「北上河畔や中津河畔に贅沢バーベキュー(今流行りのグランピング的な)ができる店舗があれば」と思っていますが、例えば、現在、工事中の木伏緑地などに、そうしたものを設けるのは難しいのでしょうか。

いっそ、盛南地区に移転し損なった市役所を盛岡駅南西に現在も広がるJRの敷地(盛岡中心部の最後の開発聖域?)に複合施設でも作って移転させ、跡地にそうしたものを作っても良いのでは?と思ったりもします。

久しぶりに再開した「京一郎とはるみシリーズ」で知多半島の大規模バーベキュー施設が取り上げられており、そうした余計なことばかり考えて拝見していました。

知られざる九戸城と白鳥川に還る魂

岩手に戻った翌年である平成17年から現在まで、毎年、お盆期間中の特定の日に「朝から来い」と言われ、晩まで滞在することを余儀なくされています。

これは、私の実家など(地域内で昔から生活する特定の人々?)に地元で親交の深い(神葬祭の関係で付き合いのある?)家々同士(15~20軒ほど?)が、お盆の特定の日に互いの家庭を訪問して神棚を拝んで廻るという習慣が古くからあり、兄(存命中は父も)が他のご家庭を訪問するため、その間、私に実家に滞在して訪問客に挨拶せよ、と命じられていることに基づくものです。

といっても、中学卒業と同時に実家を出て遠方で長く暮らした私には、地元の方々とのお付き合いは(子供の頃にお世話になり現在もご健在のごく僅かな方などを除いて)ほとんどなく、大半の来客が「すいません、どなたでしょうか(毎年この日だけ拝顔していますが、未だに貴方のお名前も素性も何も存じないんです)」状態で、その点は来訪される方々も同様でしょうから、互いに簡単に挨拶(お辞儀)をして終了、という程度のやりとりしかありません。

以前は実家に「来訪者チェックリスト(話題ネタ帳)を作って欲しい」と申し入れていたのですが、何年経っても行ってくれる気配がありませんでしたので「来訪の方々を把握しようとする努力」も諦めて、今は単なる挨拶ロボットになり果ててしまいました。

そんなこともあり「相方の実家にも行かなければならず、起案が山積みで仕事時間が1秒でも惜しい日々が続いているのに、こんな程度のことのために二戸くんだりまで丸一日来なければならないなんて」と無駄にイライラが募り、同行者とも無用の軋轢ばかり増してしまいます。

というわけで、子供の頃は「こんな家はイヤ」と思って飛び出した(近所を手短に放浪した)ことが珍しくありませんでしたので、今回も実家を少々家出することにしました。

で、まずは九戸城周辺に赴き、これまで歩いたことのないエリアを散策した後、穴牛大橋まで歩いて川又方面にUターンした後に実家まで戻ったので、約2時間半ほど、昼間の炎天下の中を散歩したことになりました。

久しぶりに訪ねた九戸城は、いつの間にか本丸の真下(盛岡地裁二戸支部から二の丸の入口までの地元民のための細い生活道路の付近)が整備されており、昔は畑だったところが遊歩道になっていました。ただ、それほどカッチリとした整備はされておらず、そばに少々の湧水が流れてヤンマ類の大型トンボも飛び交っていましたので、相応に爽やかな散歩道と言ってよいでしょう。

で、裁判所の建物のすぐ奥に整備(発掘?)された(昔は多分ありませんでした)道を通って正面部分(二の丸の中心エリア)に来たのですが、そのまま城を出るのも面白くないと思い、これまで立ち入ったことのない石沢館(北東の広場)エリアなどに立ち寄ってみました。

二の丸や本丸は、25年ほど前からの九戸城整備事業により「明るく爽やかな城址公園」になり、昔日の「荒城の月」そのものといった幽玄な様相がなくなってしまったのですが、石沢館はそのような整備(とりわけ地面の草刈りなど)がほとんどなされておらず、霊気あふれる雰囲気を残していたため、好ましく、また懐かしく感じました。

ただ、昔は、二の丸と石沢館の間にある細い道から白鳥川に下って川を渡り川又地区(福岡小学校や二戸市役所などの真下)に向かう小さな道があったのですが、残念なことに、この道が途中で途切れて白鳥川に下ることができなくなっていました。

小学3~4年の頃、人生に疲れたかどうかはさておき、何らかの理由で旧国道(通学路)に沿って帰宅するのが嫌で、この道を通って九戸城に行き、周辺を彷徨ってから帰宅する、ということが少なからずありました。

当時から「九戸城は、上方軍(秀吉・家康連合軍)に戦闘では負けなかったのに、謀略で騙されて城中皆殺しにされた怨念の宿る城」と認識しており、そうした特殊な空間に身を置くこと自体が自身の精神的な安定(回復)と何らかの形で結びついていたのではないかと思っています。

九戸城をざっと廻った後、山中に向かって穴牛大橋を目指しましたが、車ではあっという間に着く距離も歩くとさすがに長かったものの、久しく山登りから遠ざかっている身には「ジョギング好きの人がしばらく走らないと気分が悪くなる(ので、走るとスッキリする)」という感覚が分かるような気はしました。

途中には、田圃の道端にカモ(雁?)の群れが並んで座っている光景もあり、相応に癒やされました。

穴牛大橋を越えたあとは、割とあっという間に川又に戻ったのですが、折角なので白鳥川を見に行くことにしました。

最初に下りたところでは、対岸(川又側)に若干の護岸工事はあったものの、九戸城側は全く人の手が加えられておらず、森の中を渓流が音もなく静かに流れる姿を光がキラキラと包むような、幻想的な光景が広がっていました。

私にとって「日本で一番美しい渓流」は、山登りを始めたばかりの頃に渓谷途中で断念し引き返した、奥秩父の笛吹川東沢渓谷にある「千畳のナメ」だと思っているのですが、この日の白鳥川も水量が少なく川底がナメ状になっていたせいか、千畳のナメに少し通じるものがあるのではと感じました。

また、上述の「福岡小などから九戸城の二の丸に向かう道」も残っており(但し、橋を渡ってすぐに藪になり、そこから城には進めません)、周囲が鬱蒼としているため最初に下りた河岸ほどの美しさはありませんでしたが、相応に渓流美を感じることができる(少し整備すれば、できそうな)様相を呈していました。

九戸城は、四方(主に北面と西面)を断崖に囲まれているにもかかわらず、二戸市役所などには崖下の河川との繋がりを「景観形成(観光PR)としての城郭整備」に活かそうとする姿勢が感じられず、その点は残念に思います。

本丸や二の丸からは白鳥川は臨めませんが、石沢館からは白鳥川に真っ直ぐ落ちる断崖が藪の中に広がり、対岸(川又地区)に布陣した信直軍との在りし日の攻城戦などをイメージできそうな気もしました。

白鳥川は上流にダムもなく増水時には近寄ってはいけない川なのでしょうから、そうしたことも「廃道」の原因となっているのかもしれませんが、「川との繋がり(要害としての利用と、それに伴う中世末期の巨城としての壮観)があってこその九戸城」だと思いますので、二戸市役所などの関係者におかれては、白鳥川の景観を活かした九戸城の整備のあり方、という視点を大切にしていただければと思います。

というわけで、陳腐なキャッチコピーのような一首。

人生に疲れた貴方に九戸城 そして心を漱ぐ白鳥

九戸城は、近年盛んにPRされている「天下統一の最終戦」という位置づけだけでなく、岩手の人々にとっても「盛岡などはここから始まった」と言うべき場所であり、より多くの方に、その意義を理解していただければと思っています。

残念ながらカメラを持参せずに放浪したため写真を添付できませんが、ぜひ現地を訪れて体感していただければと思います。