北奥法律事務所

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二戸地域など

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

帰ってきた?田中舘秀三物語と「街もりおか」

昔から私の投稿をご覧いただいている方なら、私が5年前に、

世界遺産・シンガポール植物園と同国の多数の学術資産を大戦の混乱から救った、田中舘秀三・東北帝大教授(二戸・盛岡出身)の物語(映画化を目指すあらすじ案)

を掲載したことを覚えておられるかもしれません。

この件では、盛岡北RCや二戸RCの卓話でお話しさせていただいたこともありますが、その後はWebの片隅に消えるだけの残念な状態が続いています。

数年前、某映画の制作時にプロデューサーの方が盛岡北RCで寄付募集をしていたので、せめてもの悪あがきということで、ささやかな(私には小さくない)額の寄付を行い、その代わり、「あらすじ案」を監督にお渡し下さいね、とお願いしたものの、当然ながら?何のレスポンスもなかった・・ということもあり(渡して下さったことは間違いないそうですが)、懐かしい思い出です。

私も、半ば忘却の彼方だったのですが、少し前、盛岡のご出身で長年、他県の大学で教鞭を執られていたという元大学教授(ご専門は東南アジア文化研究とのこと)の方から、

この話をこのまま埋もれさせるのは勿体ない、また運動してはどうか

との激励のメールを頂戴しました。

私も、このまま終わるのは残念という気持ちもあり、先日、タウン誌「街もりおか」の運営に関与されている方が執筆者募集をしているのを見かけたため、投稿させて欲しいと申し出たところ、了解を受け、先ほど、原稿を提出しました。

恐らく、7月か8月の「街もりおか」に、掲載されるのではと思います。

当時、作成した「あらすじ案」は、PDFで保存していますので、ご希望の方は、Eメール(当サイトの「お問い合わせ」コーナーからも送信可能)でお申し出があれば、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。

これが最後の悪あがきになるかもしれませんが、可能でしたら、メディア?等の業界関係者と面識のある方は、「こんなネタもある」と伝えていただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

 

遠野の水光園から二戸の水光苑への追憶とお尋ね

前回も投稿したGW中の遠野巡りの際、観光名所の一つ、たかむろ水光園に行きました。
https://www.tono-suikouen.jp/
https://tonojikan.jp/kanko/suikoen.php

昭和期に作られた人口池ですが、崖上の浄水場から大量の水が滝となって流れ込み、十分に風光明媚な場所と言えるでしょう。

ところで、水光園に関しては、二戸ゆかりの方々にぜひ伺いたいことがあります。

40年前の二戸をご存知の方ならお分かりかと思いますが、現在の二戸ロイヤルパレスが存在している(先般閉鎖されたそうですが)場所には、当時、「水光苑」と呼ばれた宴会施設がありました。

二戸RC(ロータリークラブ)の例会場などで利用されていたせいか、幼少期の私は何度かお邪魔しており、もし現在も存続していれば、昭和レトロ感満載として見直されていたと思える、味わいのある作りだったような記憶が微かにあります。

この二戸の水光苑ですが、その名のとおり敷地に大きな池があったような気がするのですが、幼少期の微かな記憶のため勘違いの可能性が高く、全く自信がありません。

また、たかむろ水光園が開設された時期は、二戸の水光苑の最盛期とさほど離れていないはずで、双方の接点があるのかも不明です(なお、水光園(苑)で検索すると、全国に幾つかの施設があることが分かりますが、互いの関係性は無さそうです)。

もし、在りし日の水光苑の姿をご存知の方がおられましたら、コメントを頂戴できれば幸いです。

ともあれ、たかむろ水光園の庭園施設自体は、現在はさほど注目されることもないせいか、寂れ感が目立っており、上部の温浴施設の収益でどうにか維持されているのだろうという印象は否めません。

イベントや映画撮影などで活用できそうな古民家群があり、少し傷んでいる雰囲気が、かえって味わいを醸し出しているので、どうにか活かしていただきたいものです。

 

薄く延ばした卵とじの「ひっつみ」が世に出る日を求めて

半年ほど前にFB投稿した記事の掲載も、ようやく最後です。この日(半年前のある日)は、昼に裁判所に所用があり、近くの北ホテルのレストラン窯で「ひっつみ定食」を美味しくいただきました。

ただ、大事なことなので何度でも言いますが、私の実家では「卵とじ」のひっつみを長年、愛食してきましたので、市内等のどこにも卵とじのひっつみを提供して下さるお店がない光景は、とても残念に思っています。

盛岡の方々は卵とじに馴染みがないのかもしれませんが(津軽の貝焼き味噌のように、卵とじは青森の文化かもしれません)、ひっつみは卵とじをした方が何倍も美味しいので、市内の飲食店関係者の皆さんにおかれては、プラス100円等で「卵とじサービス」を前向きにご検討いただければ幸いです。

あと、欲を言えば、キノコも椎茸ではなくナラタケ(二戸等ではカックイ。盛岡ではボリと呼ぶそうですが、カックイの方が音がいいと思います)にしていただければ、なお有り難いです(ナラタケ+鶏肉の組み合わせは、ひっつみ・蕎麦・雑煮など、どれにも抜群に相性が良いです)。

関連して、昔々に書いたこちらの記事もご覧いただければ幸いです。
「ひっつみ」に関する照会とお願い | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

***

以上のFB投稿に、地元の先輩でもある二戸の著名人Kさんから「うちも昔は卵とじのひっつみだった(が、今は、見かけなくなった)」とのコメントをいただきました。

苦節四十数年、私の実家以外で、卵とじのひっつみを食べたことがあるという方に初めてお目にかかり、感動するばかりでした(笑)。やはり、二戸には、そのような食文化があるのかもしれません。

ともあれ、ぜひKさんの影響力で二戸や盛岡などの飲食店の方々に勧めていただければとお願いしました。

また、ひっつみは巨大な鍋に、ひっつみを可能な限り薄くのばし、グツグツした状態でひっつみを投入

→その後、グツグツ鍋に卵とじを投入

→共に極薄のひっつみと卵とじのハーモニーを、鶏肉等のダシの利いたツユで味わい至福のひととき、

というのが王道と認識しています。

というわけで、ウイルス禍明けにでも、Kさん?の仕切りで、パークホテルか馬淵川公園?等で

「南東北の芋煮に負けるな!北東北にはこれがある!」

とでも題して、自分たちで大鍋にひっつみ(と溶き卵)を入れて食べる一大パーティを開催いただき、それを皮切り?に、二戸の古くて新しい名物として売り出していただけないかと、願わずにはいられません。

過疎地自治体の空き家対策協議会の光景と残念なあれこれ

人徳も人望もありませんので「行政なんとか委員」を頼まれることはほぼ皆無の身ですが、地方の弁護士としては寂しいということで、弁護士会の募集に応じて「二戸市空き家対策協議会の委員」をしています。

で、半年ほど前、2年ぶりに会議があって出席してきました。まあ、2年に1回の会議で、多分に四方山話を聞いて終わり、という感じではありますが。

2年前の会議の際は11時半に終わり、駅のレストランで昼食をいただいて13時過ぎの新幹線で帰ったため、今回も同じパターンかと思い内職道具を持参したのですが、予想外に11時過ぎに終わったので、11時18分の新幹線で帰りました。

本当は、新規開店した「へのへの」で、あべどり・佐助豚・短角牛盛りだくさん定食をいただくのを楽しみにしていたのですが、2時間も書類仕事を放置するわけにはいかず、ということで、泣く泣く泣く泣く諦めて帰りました。

おまけに盛岡に戻った後も、昼食のことで、つまらない踏んだり蹴ったりが・・

というわけで、地元の方や二戸に昼間に行く機会のある方は、ぜひ、ご賞味下さい。

ところで、肝心の会議は市内の朽廃物件の幾つかを「特定空き家」と認定する旨の諮問をした程度で終わったせいか、市長さんから事務局の方々に「その先の作業(勧告等、代執行や求償その他)についてもっと具体的に考え、論点整理して会議で取り上げて欲しい」という趣旨の指示があり、私からも権利関係を整理する視点などについて若干補足させていただきました。

さらに欲を言えば、それらの物件が、どうして「朽廃状態が長期放置され、地域社会に負の影響を生じさせる空き家(特定空き家)になってしまったのか」という物件ごとの物語を調べて、背景にある人的な問題(地域社会の病巣)なども分析し、抜本的な解決や予防のあり方なども検討し市議会・市民などに還元できるような会議ができれば、なお良いのではと思いました。

まあ、それから半年経った現在でも市役所からこの件で何のご連絡もありませんので、結局、放置されているというか、言いっ放し・聞きっ放しという「会議あるある」になっているのかもしれませんが・・

私に関しては、事件受任をきっかけに継続的な相談対応などをさせていただいている小規模な基礎自治体さんが1つだけありますが、二戸市にも、空き家に限らず様々な課題が未解決のまま埋もれ続けているような気もしますので、本業の知見を生かして、もっとお役に立てることがあればと思っています。

「鶏とニンニクの聖地」岩手青森県境に、ブエノチキン・インスパイア系名物を

先日放送されたTV番組「ケンミンショー」で、沖縄で愛食される「ブエノチキン」という、鶏肉にニンニクを詰め酢に漬け込み丸焼きした商品が特集されていました

盛岡なら平船精肉店のローストチキンのイメージですが、ビールとの相性は、より高いように見えました。

鶏肉は沖縄県北の若鶏(他の原料の出所説明は無し)とのことですが、ニンニクと言えば青森県田子町(生産量も品質も日本一)、鶏肉も岩手県北が日本トップクラスの生産地だというのに、それを組み合わせた地域の名物を聞いたことがありません。

そこで、青岩県境の方々が次のような素材を持ち寄り、地域ならではの「ブエノ・インスパイア系チキン」を開発いただいてもよいのではと思われ、関係者のご尽力を期待したいものです。

・鶏→あべどり、菜彩鶏など(二戸及び周辺地域産)
・ニンニク→田子産
・醤油→ワダカン(十和田)?
・酢→ワダカンまたは津軽のりんご酢?

可能なら、現在、二戸ではホットな話題とされる「金田一温泉の再開発」の目玉商品にしていただいてもよいのかもしれません。ちょうどエリアのど真ん中ですし。

とりわけ、岩手青森県境(二戸と田子)は、かつて日本最大級の不法投棄被害に遭った場所ですので、それだけに両地域が協力して日本に明るい話題を提供することが期待されているのではと思っています。

余談ながら、盛岡北ロータリークラブでは、ホテルルイズが屋上バーベキューをはじめて以後、昨年まで毎回、8月例会はルイズで行っていたのですが、ルイズの廃業により、今年はレストランでの開催となりました。

今年は、私が8月例会の名目上の担当者だったので、あれこれ調べたのですが、市内(中心部など)でバーベキューが(平日夜に手ぶらで気軽に)できる商業施設というのは基本的に無いようで、残念に思います。

昔から「北上河畔や中津河畔に贅沢バーベキュー(今流行りのグランピング的な)ができる店舗があれば」と思っていますが、例えば、現在、工事中の木伏緑地などに、そうしたものを設けるのは難しいのでしょうか。

いっそ、盛南地区に移転し損なった市役所を盛岡駅南西に現在も広がるJRの敷地(盛岡中心部の最後の開発聖域?)に複合施設でも作って移転させ、跡地にそうしたものを作っても良いのでは?と思ったりもします。

久しぶりに再開した「京一郎とはるみシリーズ」で知多半島の大規模バーベキュー施設が取り上げられており、そうした余計なことばかり考えて拝見していました。

知られざる九戸城と白鳥川に還る魂

岩手に戻った翌年である平成17年から現在まで、毎年、お盆期間中の特定の日に「朝から来い」と言われ、晩まで滞在することを余儀なくされています。

これは、私の実家など(地域内で昔から生活する特定の人々?)に地元で親交の深い(神葬祭の関係で付き合いのある?)家々同士(15~20軒ほど?)が、お盆の特定の日に互いの家庭を訪問して神棚を拝んで廻るという習慣が古くからあり、兄(存命中は父も)が他のご家庭を訪問するため、その間、私に実家に滞在して訪問客に挨拶せよ、と命じられていることに基づくものです。

といっても、中学卒業と同時に実家を出て遠方で長く暮らした私には、地元の方々とのお付き合いは(子供の頃にお世話になり現在もご健在のごく僅かな方などを除いて)ほとんどなく、大半の来客が「すいません、どなたでしょうか(毎年この日だけ拝顔していますが、未だに貴方のお名前も素性も何も存じないんです)」状態で、その点は来訪される方々も同様でしょうから、互いに簡単に挨拶(お辞儀)をして終了、という程度のやりとりしかありません。

以前は実家に「来訪者チェックリスト(話題ネタ帳)を作って欲しい」と申し入れていたのですが、何年経っても行ってくれる気配がありませんでしたので「来訪の方々を把握しようとする努力」も諦めて、今は単なる挨拶ロボットになり果ててしまいました。

そんなこともあり「相方の実家にも行かなければならず、起案が山積みで仕事時間が1秒でも惜しい日々が続いているのに、こんな程度のことのために二戸くんだりまで丸一日来なければならないなんて」と無駄にイライラが募り、同行者とも無用の軋轢ばかり増してしまいます。

というわけで、子供の頃は「こんな家はイヤ」と思って飛び出した(近所を手短に放浪した)ことが珍しくありませんでしたので、今回も実家を少々家出することにしました。

で、まずは九戸城周辺に赴き、これまで歩いたことのないエリアを散策した後、穴牛大橋まで歩いて川又方面にUターンした後に実家まで戻ったので、約2時間半ほど、昼間の炎天下の中を散歩したことになりました。

久しぶりに訪ねた九戸城は、いつの間にか本丸の真下(盛岡地裁二戸支部から二の丸の入口までの地元民のための細い生活道路の付近)が整備されており、昔は畑だったところが遊歩道になっていました。ただ、それほどカッチリとした整備はされておらず、そばに少々の湧水が流れてヤンマ類の大型トンボも飛び交っていましたので、相応に爽やかな散歩道と言ってよいでしょう。

で、裁判所の建物のすぐ奥に整備(発掘?)された(昔は多分ありませんでした)道を通って正面部分(二の丸の中心エリア)に来たのですが、そのまま城を出るのも面白くないと思い、これまで立ち入ったことのない石沢館(北東の広場)エリアなどに立ち寄ってみました。

二の丸や本丸は、25年ほど前からの九戸城整備事業により「明るく爽やかな城址公園」になり、昔日の「荒城の月」そのものといった幽玄な様相がなくなってしまったのですが、石沢館はそのような整備(とりわけ地面の草刈りなど)がほとんどなされておらず、霊気あふれる雰囲気を残していたため、好ましく、また懐かしく感じました。

ただ、昔は、二の丸と石沢館の間にある細い道から白鳥川に下って川を渡り川又地区(福岡小学校や二戸市役所などの真下)に向かう小さな道があったのですが、残念なことに、この道が途中で途切れて白鳥川に下ることができなくなっていました。

小学3~4年の頃、人生に疲れたかどうかはさておき、何らかの理由で旧国道(通学路)に沿って帰宅するのが嫌で、この道を通って九戸城に行き、周辺を彷徨ってから帰宅する、ということが少なからずありました。

当時から「九戸城は、上方軍(秀吉・家康連合軍)に戦闘では負けなかったのに、謀略で騙されて城中皆殺しにされた怨念の宿る城」と認識しており、そうした特殊な空間に身を置くこと自体が自身の精神的な安定(回復)と何らかの形で結びついていたのではないかと思っています。

九戸城をざっと廻った後、山中に向かって穴牛大橋を目指しましたが、車ではあっという間に着く距離も歩くとさすがに長かったものの、久しく山登りから遠ざかっている身には「ジョギング好きの人がしばらく走らないと気分が悪くなる(ので、走るとスッキリする)」という感覚が分かるような気はしました。

途中には、田圃の道端にカモ(雁?)の群れが並んで座っている光景もあり、相応に癒やされました。

穴牛大橋を越えたあとは、割とあっという間に川又に戻ったのですが、折角なので白鳥川を見に行くことにしました。

最初に下りたところでは、対岸(川又側)に若干の護岸工事はあったものの、九戸城側は全く人の手が加えられておらず、森の中を渓流が音もなく静かに流れる姿を光がキラキラと包むような、幻想的な光景が広がっていました。

私にとって「日本で一番美しい渓流」は、山登りを始めたばかりの頃に渓谷途中で断念し引き返した、奥秩父の笛吹川東沢渓谷にある「千畳のナメ」だと思っているのですが、この日の白鳥川も水量が少なく川底がナメ状になっていたせいか、千畳のナメに少し通じるものがあるのではと感じました。

また、上述の「福岡小などから九戸城の二の丸に向かう道」も残っており(但し、橋を渡ってすぐに藪になり、そこから城には進めません)、周囲が鬱蒼としているため最初に下りた河岸ほどの美しさはありませんでしたが、相応に渓流美を感じることができる(少し整備すれば、できそうな)様相を呈していました。

九戸城は、四方(主に北面と西面)を断崖に囲まれているにもかかわらず、二戸市役所などには崖下の河川との繋がりを「景観形成(観光PR)としての城郭整備」に活かそうとする姿勢が感じられず、その点は残念に思います。

本丸や二の丸からは白鳥川は臨めませんが、石沢館からは白鳥川に真っ直ぐ落ちる断崖が藪の中に広がり、対岸(川又地区)に布陣した信直軍との在りし日の攻城戦などをイメージできそうな気もしました。

白鳥川は上流にダムもなく増水時には近寄ってはいけない川なのでしょうから、そうしたことも「廃道」の原因となっているのかもしれませんが、「川との繋がり(要害としての利用と、それに伴う中世末期の巨城としての壮観)があってこその九戸城」だと思いますので、二戸市役所などの関係者におかれては、白鳥川の景観を活かした九戸城の整備のあり方、という視点を大切にしていただければと思います。

というわけで、陳腐なキャッチコピーのような一首。

人生に疲れた貴方に九戸城 そして心を漱ぐ白鳥

九戸城は、近年盛んにPRされている「天下統一の最終戦」という位置づけだけでなく、岩手の人々にとっても「盛岡などはここから始まった」と言うべき場所であり、より多くの方に、その意義を理解していただければと思っています。

残念ながらカメラを持参せずに放浪したため写真を添付できませんが、ぜひ現地を訪れて体感していただければと思います。

天台寺に集う魂の華と金田一温泉に命水を求めて

5~10年ほど前から、毎年7月中旬に実家より「草刈りをしに来い」との出頭命令を受けるのが通例となっています。

実家の庭(のような場所)は相応に広さがあり、半日ほど時間をかけて従事しなければならず、しかも電動ではなく手動(剪定に用いる鋏)で延々と作業するせいか翌日から激しい筋肉痛に襲われるのがお約束で、心底迷惑というほかありません。

ともあれ、ただ二戸往復をするのもつまらぬということで、今回は、天台寺の「かつら庵」で蕎麦をいただき、ちょうど紫陽花のシーズンということで、境内を少し散策することとしました。

私自身は、紫陽花について青紫とピンクのイメージしかありませんでしたが、境内には白い紫陽花の群落がありました。

背丈の大きい杉林の下を埋め尽くすように咲いているのですが、木漏れ日を受けて白い紫陽花が輝いている姿は映画「もののけ姫」で森の妖精達が森を白く照らす光景にも似た、神秘的な何かをイメージさせます。

そんなわけで、亡くなった人々の魂が天台寺に集まり紫陽花の姿になって昇天しているのかもしれない、などと思って一首。

身が滅び心は白い紫陽花に集いて光り浄土へと往く

DSC06532

ともあれ、重労働のあとは兄から金田一温泉センター(「ゆうゆうゆーらく」という日帰施設)の回数券を供給され精神的な回復を果たした後、報酬代わり?に出前の寿司をいただいて帰宅しました。

「ゆうゆうゆーらく」は老朽化のため来年に建替を予定しており、「オガール」で一世を風靡した岡崎正信氏らの関与のもと大がかりな計画が策定中らしいと聞いています。

個人的には、露天風呂が無いことのほか、風呂上がりにタダで飲める冷たい水を楽しみにしている身には、既存施設にそれらがない(レストランの利用者でないと水が飲めない)現状を非常に残念に感じています。

それらを備えている「ユートランド姫神」や山梨県北杜市白州町の「べるが」を、建替に従事される方々も参考にしていただければ幸いです。

二戸に残された西郷隆盛?の写真と歴史の彼方に消えた弁護士のルーツ

以下は6年前に旧ブログに投稿した記事ですが、今年の大河ドラマ主人公が西郷隆盛とのことで、便乗目当て?で再掲することにしました。

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以前、日本中世史の研究で有名な網野善彦氏の「日本の歴史をよみなおす(全)」を読んだことがあります。

学生時代に浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」を読んでいたので網野史学なるものに昔から関心はありましたが、なかなか手が出ず、ようやく最初の1冊という体たらくです。読みながら色々なことを考えてはすぐに忘れてしまうのですが、少し考えたことを書いてみようと思います。

230頁あたりに、奥能登で江戸時代に大きな力を持っていた「時国家」という豪農兼商家のことが取り上げられており、その一族は、かつては農業経営者(豪農)として考えられていたが、実際には農業よりも日本海ルートの交易事業を中心に、製塩・製炭・山林・金融など当時の日本で行われていた様々な産業に携わっていた「地方の大物実業家(多角経営者)」として捉える方が正しいことが分かった、という趣旨の記載があります。

そして、それが決して例外的なものでないとの説明を踏まえ、「以前の歴史学は、江戸時代を農業(食料生産)中心に捉え、農業以外の事業に従事する人々の役割を過小評価していたが、実際は他の産業も盛んであり、そうした産業に従事した人々が社会や文化の維持・形成に果たした役割を再評価すべきだ」という趣旨のことが論じられています。

網野史学は、商業、金融、芸能さらには死や性に関連する仕事など、古代には聖的な位置づけを受けていたのに中世或いは近世以後に差別或いは卑賤視されることが多くなった諸産業或いはそれに従事する人々に光をあて、日本の歴史(社会形成に関する物の見方)を再構築することを目的としており、その一環として、上記の例が挙げられているようです。

その下りを読んでいて、我が国では明治維新後、政府や財閥、渋沢栄一などの実業家の力により、工業を中心とする産業が急激に発展したとされていますが、それは何ら素地のないところ(農業中心の社会)から突如として勃興したのではなく、相応に産業や商業を盛んにしていた社会の素地があり、それが社会構造の転換や欧米からの新技術の導入などという触媒を得たため、一気に花開いたのではないかと感じました。

まあ、その程度の認識は、今や陳腐というべきなのかもしれませんが。

ところで、私の実家は6~7代前に本家(一族の総本家である地元の神社)から分かれているのですが、本家は伝承(或いは父の戯言)によれば、戦国時代に秋田県田沢湖(旧・生保内町)の領主をしていたものの、秀吉の東北征服戦争(いわゆる奥州仕置に服従せず反抗した各勢力の討伐戦。代表例は九戸政実の乱こと九戸戦役)の際に所領を失い南部氏を頼って二戸に移転したのだそうで(それ以来?本家は代々、地元の由緒ある神社の神官職を継承しています)、歴史学者の方に調査研究していただければと思うだけの奥行きがあったりします。

で、何のために当方の話を持ち出したかと言えば、父によれば本家は明治の始め頃に現在の二戸市の西部に広がる広大な高原で日本でも珍しい牧羊事業に携わったものの、今や絶滅したニホンオオカミの襲撃などが災いして失敗し、破産寸前の憂き目に遭ったのだそうで(現在も本家は存続してますので、真偽はよく分かりません)、そうした本家の苦労も、網野史学の観点から何らかの再評価ができないのだろうかと思ったのでした。

その牧羊事業については、本家と共同で?事業を担った方が二戸の先人として顕彰されており、興味のある方は、岩手県庁の紙芝居もご覧いただければと思います。
http://www.pref.iwate.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/007/300/07bokuyou.pdf

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ところで、この文章の表題に挙げた「西郷隆盛の写真」について、そろそろ取り上げたいと思います。

西郷隆盛は本人のものと確定された写真が存在しない(ので、どのような顔立ちであったか現在も知ることができない)ことで有名ですが、その話題に当方の本家も登場してくることは、ほとんど知られていません。

「西郷隆盛 写真 小保内」などと入力して検索してみて下さい。

敢えて特定のサイトを引用しませんが、「西郷隆盛?と(西郷の影武者を務めたとされる)永山弥一郎が二戸の神社の神主である小保内孫陸の子(定身又はその弟?)と一緒に撮影したと称する写真を郷土史家が紹介した」などと記載された記事を発見できると思います。

私には真偽のほどは分かりません(まあ「西郷が写真嫌いの人物だった」というのなら、そのときに限って撮影を了解する理由が分かりませんので、別人の可能性の方が高いとは思いますが)。

ただ、私は子供の頃、亡父から「本家は、(上記の)倒産の際に借金返済のため様々な家宝を手放したが、その中に日本で唯一とされる西郷隆盛が写っている写真があった」と聞いたことがあります。

その際は、そんな話はインチキに違いないと思っていたのですが、確実な話として、当時の本家は「会舗社」という郷土の子弟を教育するための私塾を開設し多数の蔵書を擁して尊皇攘夷的な教育活動をしていたため、当時はそれなりに名声があり、当時の本家の長男(小保内定身)が江戸に遊学した際、薩長などの攘夷の志士達と交遊を深めていたことは間違いないようです(この点は、平成27年に投稿したブログでも触れていますので、ご覧いただければ幸いです)。

当時、二戸市出身で対露防衛の必要などを説いていた「志士」の一人である相馬大作が、津軽藩主襲撃未遂事件を起こし江戸で捕縛・処刑されたものの、「みちのくの忠臣蔵」と呼ばれて一世を風靡し、藤田東湖・吉田松陰などに強い影響を与えたとされており、そのことも「志士たちとの交流を希望する二戸人」にとっては有利に働いたことは想像に難くありません。

そうした事情からは「本家には、かつて西郷隆盛(かもしれない御仁)の写真があった」という亡父の話も、あながちインチキとは言えないのかもしれません。

「小保内某と西郷隆盛?や永山弥一郎が写ったもの」とされる写真が、亡父が語った写真と同一なのかは全く分かりませんが、少なくとも、その写真で「小保内某」と表示された御仁の顔立ち(目元や口元)は、現在の本家のご当主(神主さん)に割と似ているように感じます。

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網野史学とは全然関係のなさそうな話ばかり書きましたので、少しそちらに戻ったことを書こうと思います。

我が弁護士業界は自分達のことを「サムライ業」と好んで称することが多く、「武士道」と相まって、弁護士という職業を、武士的なものになぞらえ、そのことを美点として強調することがよくあります。

弁護士の仕事は、ある意味、傭兵であることを本質とする面がありますし、「法の支配の担い手」という点や職業倫理的なことも含め、そうした見方が間違いだとは思いません。

ただ、武士という存在の捉え方にもよるでしょうが、幕藩体制下の武士は公権力を支える公務員であり、現代で言えば官僚に見立てる方が素直で、民間業者である弁護士と繋げて見ることには若干の違和感を覚えます。

ですので、弁護士の本質(或いはルーツ)を中世や近世の社会に求める際は、武士よりも(武士だけでなく)、公権力と一定の距離を置いた他の職業に(も)求める(光をあてる)方が適切でないかと思うのです。

ところで、我国における弁護士業界の萌芽として通常語られている事柄は、「明治時代は官僚国家なので弁護士の地位は低かった」とか、「弁護士の制度や各種法制が構築されるまでは、質の低い紛争介入業者がデタラメな仕事をしており、三百代言などと言われた」などといった否定的なものが多く、少なくとも明治より前の時代に、現代に連なる弁護士のルーツとして、輝かしい先人がいたという話を聞いたことがありません。

しかし、冒頭で記載した網野史学が描く中世や近世は、当時の技術水準を前提に、農業だけでなく様々な産業や交易が行われ、それなりに人や産物が自由に行き来されていた社会だそうなので、そうであれば、当時も人々の社会経済上の活動を巡って多様な紛争があり、紛争を解決する(欲する解決を得るよう支援する)ことについて、専門的技能を駆使して当事者を支援し正当な報酬を得て生活を営んでいた職能集団が存在していてもよいのではないか(存在しない方が変ではないか)という感じがしてくるのです。

さらに言えば、「かつて聖的な存在として特別視された職業(職能集団)の多くが、社会構造の変化に伴うパラダイムシフトにより卑賤視されていった(ので再評価すべき)」との網野史学の基本的な目線からすれば、「明治初期に、民間の紛争解決?業務従事者達が、まがい物として卑賤視されていた」という話は「そうした人々は、以前は社会内で相応の権威を与えられ活躍していたが、社会の価値変動に伴い卑賤視され不遇な立場に追いやられるようになったのではないか」という推論と、とても親和的であるように感じられます。

少なくとも、紛争解決という分野は、古代から中世であれば宗教的或いは神秘的権威の助けを大いに必要としたはずで、「かつては畏怖された職能」という網野史学の射程範囲に明らかに収まるように思われますし、争点に対する当否の判断(裁判)の機能は国家=時の公権力が独占したのだとしても、紛争当事者の支援という役割を武力以外の方法で担った職能集団が存在してもよいのではないかと思われます。

私が知らないだけで、相応に研究が進んでいるのかもしれませんが、古代から近世にかけての「その時代の社会のルールや社会通念に基づく紛争解決・処理業務に従事した人(特に、公権力から食い扶持を得るのではなく利用者から対価を取得し支援業務等に従事していた民間人)」の実像を明らかにし、そのことを通じて、現代の紛争解決(ひいては社会そのもの)のあり方にも生かしていただければと願っています。

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余談ですが、平成24年頃は、尊皇攘夷ならぬ大阪維新?の旋風が国内に吹き荒れていましたが、当時もその後も、東北の社会ないし政治の世界には、そうした時流に連動したり新たな社会革新の震源地になりそうな営みや蠢きは生じていません。

大阪維新の会に対する肯否や現在(H29~30年)の沈滞ムードはさておき、通信や交通が著しく不便であった150年も前に、二戸という辺境の地にも新時代を切り開いた西国の方々と価値観を共有し懇意にしていた人々がいた(ものの、天運などに恵まれず大きな存在感を発揮するには至らなかった)という事実は、北東北の人々に知っていただく機会があればと思っています。

帰ってきた二戸ロータリークラブと田中舘秀三物語、そして「あれから30年」

5月の話で恐縮ですが、盛岡地裁二戸支部に所用があり、ちょうど二戸ロータリークラブの例会日でもあったので、折角だからということで、例会に参加してきました。

ちょうど今年の会長さんが私の小中学時代の同級生のお母さんで子供の頃に大変お世話になった方だったため、予めご挨拶していたところ、折角なので卓話をしてはという話になりました。

そこで、簡単な自己紹介(30年前の二戸RCの思い出話)の後、今年の2月頃に引用のブログでも連載した「世界遺産シンガポール植物園と同国の文化学術資産群を戦災から守った二戸人(兼盛岡人)・田中舘秀三博士(東北帝大教授)の物語」について、お伝えしてきました。

幸い、田中舘愛橘会の会長さんもいらしていましたので「あらすじ案」を印刷したものをお渡しし、愛橘博士に続き秀三先生の物語も漫画化していただければとお願いしました。

会員さんには、この話を初めて知ったという方も多数おられたようですので、地元の「知られざる偉人」の顕彰としては意味があったのではと思われます。

今後も秀三博士(先生)の物語についてどこかでお伝えできる機会があればと思っていますので、関心のある方は、お気軽にお声がけいただければ幸いです。

また、以前にブログで連載した「あらすじ案」は、「あとがき集」と共にA4用紙25頁分にまとめており、ご希望の方から直メールいただければPDFでお送りすることは可能ですので、ご遠慮なくお問い合わせ下さい。

例会のあと裁判所の所用まで時間があったので、会長さんほか何人かの方にお付き合いいただき、しばらく雑談をさせていただいたのですが、久しぶりに「ふるさとの人は有り難きかな」と感じる暖かい時間を過ごすことができました。

私は幼少期から同世代の子供達と一緒に過ごすよりも大人達に混ざって横で会話を聞いているのを好む変な子供だったせいか、少しばかりあの頃に戻ったような気もしました。

こうした機会に限らず、二戸の人々にも必要としていただける場を持つことができるよう、まずは研鑽に努めていきたいと思います。