北奥法律事務所

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書評

稼げない町弁が地方の司法を変える?~裁判を活かす10の覚悟~

今年の7月頃、まちづくりに関する事業を手掛けている木下斉氏の「稼ぐまちが地方を変える」を読みました。

著者は、高校時代から早稲田商店街の活性化事業などに取り組んできた方で、その中で様々な利害対立の渦中に放り込まれて辛酸を嘗めた経験なども踏まえて、「地域の特性はもちろん全国的・世界的な「ピンホールマーケティング」までも視野に入れた魅力あるコンテンツを地域内に揃えることで、小さくとも確実に稼ぎながら地域に再投資し「公」を主導する企業を育てて、そのことを通じて地域づくりの取り組みを再構築すべきだ」という主張と、それを実現していく上での要諦に関する事柄が述べられています。

本書で取り上げられている「まちづくりを成功させる10の鉄則」は、零細事業者たる町弁の事務所経営にも当てはまる点が多く、色々と参考になります。顧客にとって「これ(問題の状況把握と解決の方法)は自分の生活に足らなかったもの」と思わせる強烈な個性(と熱意)が必要だと述べられている点などは、生存競争を迎えた町弁業界にこそ、向けられている言葉というべきでしょう。

本書でも代表例として取り上げられている「オガール紫波」で一躍時の人となった岡崎正信さんは、私も「同時期に盛岡JCに所属していた多数の会員の一人」としてfacebook上で「友達」とさせていただいており、硬軟様々なメッセージ性の強い投稿を日常的になさっているので、興味深く拝見しているのですが、以前から、岡崎さんのFB投稿への木下氏のコメントなどを拝見して同氏の活動に関心を持っていたので、発売後、すぐに購入して一気に読みました。

また、同じくJC繋がりのFB友達で、私をFBに誘因した張本人でもある、肴町のプリンスことS・Mさんから、7月に木下氏の講演会を盛岡で行うとの告知をいただいたので、歌手のコンサートの類は全く行かない私も久々にミーハー根性が刺激され、拝聴してきました。

残念ながら、その際は、少し遅れたところ席がびっしりと埋まっていたので、一番奥の隅にポツンと座らざるを得ず、聴き取り等に難儀した面がややありましたが、それでも、色々と興味深いお話を伺うことができました。

9月に書いておりメモもほとんど取らなかったので勘違いしている面もあるでしょうが、「人口減少は結果としての現象に過ぎないのだから、地域経済の低迷など、原因を形成している個々の事象に目を向けて、それに応じた対策を取るべき」とか「行政の運営で一番大事なことは、破綻しない、させない(夕張市や、巨額赤字=維持の税負担を強いる公共施設を作った各自治体のような愚を犯すことを防止する)ための仕組みを構築することだ」といったお話があったように思います。

また、そうした問題を克服していくため、己の才覚と責任で稼ぐ力を持った民間の経営者やそうした方に理解を持った公務員の方が、地域内で存在感を発揮すべきだという趣旨のエールがあり、参加された方には公民様々な立場の方がおられたようですが、大変好評のまま閉幕したように見えました。

ただ、自治体が法の趣旨に反する違法ないし無益な公金使用をした場合には、住民は、違法行為に関与した者の責任を問うための法的手続(住民監査請求、住民訴訟)を取ることができるわけですが、裁判沙汰はさすがに専門外?のせいか、そこまでの言及はなかったように思います。

とりわけ、住民訴訟などは、従前は、いわゆる市民運動に従事する左派系の関係者の方が行うものが多く(あとは、私怨などが絡んだ本人訴訟も拝見したことがあります)、個人的な印象としては、行政が推進する特定の政策の当否を住民訴訟というツールを通じて争うというケースは、一部の環境系訴訟(脱ダム訴訟など)以外には、ほとんど見られないのではと思われます。

「まちづくり系の訴訟」の前例として私が存じているものを挙げるとすれば、大分県日田市で企画された競輪のサテライト施設の反対運動(住民側代理人の先生が執筆された著作によれば、左右の勢力を問わず地域の諸勢力が結束して取り組んだものだったようです)に絡んだ行政訴訟が挙げられるとは思いますが、これは、国(中央官庁)の許認可の当否が問われた事件で、自治体による公金支出(開発行為)の当否が問われた事件ではありません。

少なくとも、私は、住民側であれ行政側であれ、地方行政等に役立つことができる弁護士になりたいと思って、数年前から「判例地方自治」という自治体絡みの裁判例を集めた雑誌を購読しているのですが、そうした政策の当否を問う訴訟をほとんど見たことがなく、その点は残念に感じています。

木下氏らの活動の中に、自治体が巨額の税金(自費や国の補助金)を投じて豪華な施設を作ったものの、維持費すら稼ぎ出すことができず自治体に重い負の遺産になっているケースを取り上げて警鐘を鳴らす(「墓標」シリーズ)というものがありますが、そうした問題についても、本来であれば住民監査請求や訴訟等が行われて、自治体の政策判断の当否(裁量逸脱の是非)が問われるべきではなかったかと思われます(すでに監査請求等の期間を途過しているのかもしれませんが)。

少なくとも、一般論として裁量違反のハードルが非常に高いことは確かですが、裁判を通じて、事実認定を含めて的を得た形で裁量論争が深められ、それに対し裁判所が法の趣旨を踏まえて緻密な検討をし、真っ当な判示がなされれば、訴訟の結果がどうあれ、対象となった政策分野を巡る行政裁量のあり方について一石を投じる(そのことで、行政を変える契機とする)ことができると言ってよいのではと思われます。

私は行政裁量が問題となる訴訟にほとんど関わったことがないので、大したことは申せませんが、私が少しだけ勉強している環境訴訟は行政裁量の当否が争われやすい分野であり、北村喜宣先生の「環境法」や越智敏裕先生の「環境訴訟法」などで行政裁量の争い方や最高裁の考え方などを論じた部分などが参考になるはずです。

また、先ほど述べたように、これまで、住民訴訟等に従事するのは、特定の政治的傾向を有する一部の運動家の方に限られていたという現実があるように思われ、木下氏らの文脈に合致した意味での「まちづくりに絡む公費濫用の予防や是正に関わる訴訟」に取り組む弁護士(や支援者)というのは、ほとんど聞いたことがないように思います。

そうであればこそ、合格者激増という「稼げない時代」を迎えた町弁業界にとっては、行政裁量との硬軟様々な関わりという問題は、今後、手掛けていきたいと考える弁護士が増えてくる分野であることは確かで、とりわけ、行政庁の任期付職員になるなどして裁量のボーダーラインを肌で感じる機会に恵まれた方などは、任期後に町弁として復帰した際、こうした訴訟を手掛けたい(いわば、ヤメ検が大物刑事弁護人になるように?古巣を相手に裁量論争を挑みたい)と希望するのかもしれません。

さらに言えば、そうした営みが活性化されてくれば、包括外部監査制度や内部職員としての従事(事業開始・執行段階からの関与)をはじめ、弁護士が地方行政(ひいては国家行政も)の内部で手掛けることが法律上(制度趣旨の面から)期待されている分野が広がり、そうした営みを通じて、法の支配の理念に合致し、かつ「税金の無益な浪費をさせない(本当に活性化させることにだけ使わせる)」など経営マインドにも合致するような行政の構築にも繋げることができるのではと期待したいところです。

ところで、本書の末尾は、「まちを変える10の覚悟」というキャッチフレーズ(とミニ解説)で締めくくられていますが、ここで取り上げられている言葉は、我が業界の需給の当事者にも、大いに当てはまる面があるように思います。

そんなわけで、これを拝借して、「裁判・司法を本当に役立つものにするための10の覚悟」とでも題して、少し、考えたことを書いてみたいと思います。こちらはありふれたことしか書いていないかもしれませんし、ここで書いたような理想どおりにいかない現実もありますが、元ネタ(本書の該当部分)と対比して参考にしていただければ幸いです。

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①弁護士や裁判(司法)に頼らない

裁判(法的手続)という営みは、弁護士や裁判所だけが行う仕事ではない。依頼者・当事者自身に、紛争の正しい姿や重要な事実、救済・解決の必要性を、裁判所(や代理人たる弁護士等)に真摯に伝える姿勢が必要。そのような姿勢に欠けると、結局、司法の側から熱意ある支援は得られない。

まして、個々の「紛争」の解決に関し弁護士や裁判所が実際に果たせる役割はごく限られている。紛争の原因・背景にあって司法が救済の役割を果たすことができるわけではない、当事者やそれを取り巻く環境にある様々な人的・物的問題とも、紛争解決への取り組みを通じてご自身が正面から向き合う姿勢を持つべき。

②自ら「適正」な労働力や資金を出す

司法(弁護士等)により良い仕事をさせるには、その事案・業務に相応しい人的、物的コストを負担する姿勢が必要。当事者が適正なコストを負担しない場合ほど、裁判等の進行や結果が「尻すぼみ」の結果になりやすい。

③「活動」ではなく「事業」としてやる

裁判は、余技のような「活動」でないことはもちろん、単に「弁護士に料金を払ってサービスの提供と結果を待つだけの営み」ではない。紛争の当事者=主体は自分自身であり、自らの活きるか死ぬかの闘い、人生の重大な岐路という認識を持って主体的に取り組むべき紛争が幾らでもある。

④論理的に考える

裁判の当事者は、自身の価値観に基づくバイアスのかかった主張や自身に都合の良い結論(願望)ありきの発想に陥りがち。そうした方に限って、判断の依って立つ基盤を崩されると過度に弱気になる例もある。

自分の立場的な価値観ありきで物を考えず、紛争を取り巻く様々な事実経過や原理原則、事案の特殊性や関係者の適正な利害などを論理的かつバランスよく考える姿勢が、当事者にも求められる。

⑤リスクを負う覚悟を持つ

裁判などの闘争の渦中に身を置かず、リスクとリターンのないところで願望や不満ばかり述べても何も変わらない。裁判等をしなければ事態の好転は望めない事案で、かつそれが相応しいタイミングであるにもかかわらず、面談した弁護士に不満や願望を述べるばかりで前に進もうとしない(闘おうとしない)方は珍しくない。

⑥「みんな病」から脱却する

裁判闘争を嫌がり、話し合いで解決したい(すべきだ)と強く希望する方は少なくないが、そうしたケースに限って、「関係者みんなの話し合い」では何も進まない(進めることができない)状況に陥っていることが通例である。法の力を借りて実現すべき適正な要望(解決方法)があるなら、たった一人でも闘う姿勢を示し自ら智恵と汗をかくことで、紛争の適切な解決のあり方について、他の関係者にも認識を共有させることができる。

⑦「楽しさ」と利益の両立を

裁判は、正義と悪の対決ではなく、正義と正義(エゴとエゴ、自我と自我)の衝突と調整が基本であり、長期戦が通常。だからこそ、適正な利益を実現するための智恵や熱意だけでなく、質の高い裁判闘争を通じて争点が整理され、紛争が適切に解決されていく過程を楽しむ姿勢があった方が、結果として得るものが大きい。

⑧「知識を入れて、事案を練って、主張立証を絞る」

より良く裁判を闘うには、法律はもちろん、その紛争の解決に必要な様々な分野の知識、理解を得て、それを前提に、事案の内容を適切に分析し、その上で、贅肉だらけの冗長な訴訟活動をするのでなく、可能な限り必要最小限のポイントを突いた主張立証で、裁判官の支持(と相手の納得)を得るよう努力するのが基本。

⑨裁判で学んだことを、次の人生、社会に生かす姿勢を

裁判は人生の岐路になりうるし学ぶところも多いが、あくまで人生の一つの過程に過ぎない。現在の法制度の限界や改正のあるべき姿を世に伝えることも含め、そこで学んだことや解決によって得た利益を次の人生ひいては社会全体に生かす姿勢を持っていただきたい。

⑩10年後を見通せ

裁判と戦争はよく似ており、望外の(過大な)利益を得るなど勝ちすぎると、後で反作用が生じることが少なくないと言われ、そうした観点から、勝訴する側が敢えて譲歩した和解を希望するのも珍しくない。そうした解決方法に限らず、裁判が終局してから10年後に、ご自身やその他の関係者が、裁判で行われた議論や生じた結論に恥じることのない、何より、笑顔で暮らすことができるような将来を見据えて、裁判という闘いの場に臨んでいただきたい。

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最後になりますが、前記の木下氏講演会では、本書の購入者にはあまり有り難くない話?ですが、参加者に本書が1冊ずつ配布されていました。

私は、自分が読んだ本を持参してサインしていただきたかったのですが、愚かにも忘れてしまったので、やむなく、当日配布された本にサインしていただきました(ので、結果的に、本書が配布されて助かりました)。

というわけで、私の手元には本書が2冊あり、サインをいただいたものは有り難く事務所に鎮座させますので、私の手垢と折り目がついたもう1冊を欲しいという方がおられれば、ご遠慮なくご来所下さい。

琉球王国と北奥政権の栄光と挫折、そして再起するものたち

以前の日記でご紹介した、JCC出版部「絵で解る琉球王国~歴史と人物~」という本について、琉球と北奥という2つの地域について考えたことを交えて、お伝えしたいと思います。
http://www.jcc-okinawa.net/books/

7月の那覇出張の際、夜の食事場所に困って国際通りを彷徨った挙げ句に、店先で案内をしていた民族衣装姿の美人女性の姿に惹かれて?、「首里天楼」という琉球舞踊を観覧できるお店に入りました。
http://www.suitenrou.com/

引用した運営企業のサイトでお分かりのとおり、店内が琉球王国時代の出来事や人物を描いた壁画で埋め尽くされていたのですが、会計の際、この本がカウンターに置いてあり、「今、沖縄で一番売れている本」といった宣伝文句が述べられていたので、ホンマかいなと思いつつ、琉球王国について少し勉強して見たいということで、深く考えずに購入しました。

本書は、琉球王国の歴史や文化に関するトピックを、素人向けに解りやすく絵柄付きで解説した本ですが、よく見ると、出版元が、このお店(首里天楼)の経営企業となっており、冒頭部分や同社のサイトで、沖縄(琉球)の歴史と文化の意義を伝えていくことが自社の理念であり、飲食店経営も出版事業も当該目的の達成のため行っているものである、という趣旨のことが述べられていました。

これを読んで、北奥(北東北)地域も、沖縄と同じく中央政府と異なる独自の歴史、文化を育み、「蝦夷の末裔」としての誇りを持って生きるべき「クニ」でありながら、そのような姿勢で、人々の心に広く訴えるような親しみやすい手法(飲食店であれ、一般向け書籍の出版であれ)で事業展開をしている企業が、当地に果たしてどれだけ存在するのだろうかと、感じずにはいられないものがありました。

伝統芸能舞踊付きの居酒屋なら、さんさであれ鬼剣舞であれ岩手でも幾らでもできそうですし(秋田では「なまはげ居酒屋」を都心などでやってますから、河童や座敷わらしが飛び入りしても良いでしょうし)、私自身は、以前から、「北東北の玄関」たる盛岡駅の付近に、そうした商業施設を作るべきではないかと思っています。

それこそ、三県の様々な郷土芸能などを集めて演目等を月替わりなどにすれば、毎月のように新幹線で訪れるリピーターも獲得できるかもしれませんし、郷土芸能に限定せず、「九戸政実武将隊のディナーショー」とかもあって良いと思います。いっそ、AKBに倣って、年末年始に月替わりの12チームの総選挙を行って、その結果をもとに入替をするなどというのも話題性があって良いと思います。

県内などで同種事業を営む(或いは、その志がある)方は、ぜひ、この会社さんにお話しを伺うなどして、岩手でも実践していただければと思っています。

ところで、本書を拝見して思ったのは、沖縄=縄文系の血が多く残っているというイメージが強いのですが、本書のイラストで載せられている歴代の琉球王の顔立ちが、必ずしも縄文系(彫りの深い濃い顔)ではなく、弥生系を思わせる平板な顔立ちの方も少なくないという点で、特に、琉球の基本原理というべき「万国清梁の鐘」を掲げた第一尚氏の尚泰久王や、第二尚氏の創始者・尚円王の絵は、弥生人そのものという感じがします。

そこで、自宅に戻ってからwikiなどで少し調べたところ、琉球王国の成立(第一尚氏による琉球統一)は1429年(足利義持~義教期)で、それに先立つ10世紀から12世紀頃(平安期)に農耕に従事する人々(弥生人)が沖縄に移住し、その後、ほどなく三山時代(3つの国家に分かれた時代)が生じ、琉球王国に統一されたという記載がありました。

それを読んで思ったのは、琉球(沖縄)に国家という概念をもたらし社会の規模(単位)を拡げたのは、平安期に九州から移住した弥生人たちで、その移住が無かったら、地元民というべき縄文系の琉球人は、北奥の蝦夷たちのように、国家を持たずに暮らしていたのかもしれない、言い換えれば、国家を作り組織(人々のまとまり)の単位を大きくしていく気質は、縄文系には乏しく弥生系にこそ富んでいるということなのかもしれないと思いました。

この本の登場人物達の肖像画は、出版企業の関係者の方が独自に描いたもののようで、その元ネタ(昔から伝わる肖像画など)があるのか分かりませんが、ざっと見た印象として、歴代の王族は弥生系のすっきりした顔立ちの方が多く、家臣の方が、沖縄っぽい縄文系の濃い顔立ちの方が多いような印象も受けました。

そうしたことも、弥生と縄文の関係や特質などを考える上で、参考になるかもしれません。

ところで、私が中学生くらいの頃、大河ドラマで、1年を半分に分けて、奥州藤原氏の興亡などを描いた「炎立つ」と、琉球王国が島津氏の侵攻を受けた時代を描いた「琉球の風」を連続して放送したことがありました。

恥ずかしながら、当時は沖縄に関心が薄く、受験期ということもあり、琉球の風はほとんど視なかったのですが、今にして思えば、どちらも、弥生人の子孫(の本流)が作った大和国家とは別の政体を我が国の辺境(但し、見方によっては東アジアの要というべき地)に作ったもので、しかも、北奥政権(安倍氏・清原氏から奥州藤原氏まで)も琉球王国も、土着勢力(縄文の血が濃い人々)と移住した弥生系人種とが混血ないし一体化する形で作られた勢力であること、双方とも、最初は勢力分立(安倍氏と清原氏、三山時代など)から始まり、やがて統一国家が形成されたことなど、類似点が多いことに気付かされます。

敢えて違いを言えば、奥州藤原氏の成立には大和政権が深く関わっているのに対し、琉球王国の成立には全く?関与していないこと、前者には他国との緊張関係は全くない(渤海やオホーツク方面との交易はあったようですが)のに対し、後者は中華帝国との強い関わり(大和政権との二重服属)が必要になった(反面、大和政権からの侵略には江戸幕府の成立まで無縁で済んだ)ことという点が、挙げられるかもしれません。

こうした違いを踏まえつつ、2つの政体が共に「大和政権に侵略される姿と時代に翻弄された人々の様々な想い」を描いたという点で、炎立つと琉球の風を同じ年に制作、放送した意義は大いにあったのだと想いますし、改めて、時間があれば琉球の風を視てみたいと思っています。

あと、余談ですが、私が訪れた那覇の居酒屋さんは、たかが2件とはいえ、いずれも日本酒が無く、泡盛や焼酎などしか提供していませんでした。私は、刺身などのお供には、日本酒(なるべく、端麗辛口の冷えた大吟醸。典型は南部美人です)が最適と感じており、その点は大いに残念に感じました。

ぜひ、岩手の酒造メーカーさん達も、「縄文つながり」などと称して積極的に沖縄に売り込んでいただければと思いますし、達増知事におかれても、ちょうど、知事さん同士が反自民路線?で共闘できる関係にもあるでしょうから、そうした観点も交えて、日本酒に限らず、首里城の修復に使用するための漆を浄法寺から調達して持参いただくなどして、岩手と沖縄の繋がりを深めるようご尽力いただければと思います。

海軍兵学校・陸軍士官学校の失敗と法曹界

以前の日記で触れた、半藤一利ほか「昭和陸海軍の失敗」(文春新書)について、紹介がてら取り上げます。

本書は、昭和史に関する著作で有名な半藤一利氏をはじめ、先の大戦(15年戦争)の研究者として著名な方や自衛隊の幹部を務めた方が、陸海の様々な旧軍指導者の人物像を掘り下げると共に、彼らが戦前や戦中の重用局面でどのような決断をして国家に何をもたらしたかを、対談形式で詳細に論じた本です。

私は少年時代は歴史マンガばかり読んでいた裏返しで、近現代史に疎い面があり、特に、大戦の経過についてはさほど知識がありませんので、色々と勉強になりました。

個人的に興味深く感じたのが、「昭和9年頃までは、海軍兵学校は毎年約130人を採用し、陸軍士官学校のそれは約370人だった」と書いてある部分(129頁)で、これを足すと500人となり、平成2年頃までの旧司法試験の合格者数と合致します(私が合格した平成9年は約750人と聞いています)。

少し調べてみたところ、Web上で流れていた情報では(個人のサイト等ですので保証はできかねますが)、明治末期にはもっと多い人数を採用しており、昭和初期に一旦は上記の人数まで減ったものの、昭和15年頃からは、大戦の影響と思われますが、双方とも採用数が5倍以上に激増していったようです。

そのため、「平和な時代には500人程度しか採っていなかったのに、時代の変化により一気に採用数を増やした」という点で、ここ数年の司法試験の合格者の激増に似た面があると感じました。

もちろん、司法試験の方は、海兵・陸士ほどの激増にはなっていませんし、現在の合格者数など一連の司法改革が、大戦の敗亡の如き凄まじい負の影響を社会に及ぼすなどと安易に決めつけるつもりもないのですが、「先の大戦」と「司法改革(による対外的なものを含めた法律実務家の活動領域の拡大)」を比較する視点も含めて、何らかの意味で、参考になるところはあるのではと思います。

また、上記の「500人の合格者」の「130:370」という比率も、ちょうど、前者(130人)が、当時の裁判官及び検察官の新任採用者の人数と概ね同様と思われ、裏を返せば370人という数字は、500人時代における年間の弁護士の供給(新規登録)人数と概ね合致すると言えます。

このように考えると、日本の法曹界(官=裁判官・検察官と、民=弁護士)も、官界(個々の裁判官・検察官のほか裁判所や検察庁の組織全体を含む)を海兵(海軍)に、民界(個々の弁護士のほか弁護士会を含む)を陸士(陸軍)になぞらえて本書の言葉を見ると、興味深く感じる面が多々あるように感じます。

例えば、次のような言葉を、上記の観点で日本の法曹界に当てはめて考えてみると、どうでしょうか。

海軍は陸軍よりも所帯が小さい分、人間関係が濃密」(129頁)、「海軍は、内部ではやり合うが、外に向かっては庇い合う。一艦一家主義の体質がある」(170頁)

陸軍は、創設当初は、大山厳や児玉源太郎が大戦略を考えてくれたので、参謀は戦術に徹していればよく、陸士・陸大は、少壮参謀用に教育した戦術中心主義を、総力戦時代に突入した昭和に入っても変えなかったので、視野の狭い人材教育しかできなかった(将帥教育ができなかった)」(39~43頁)

「陸軍は兵站を軽視した」(44頁。兵站は、弁護士で言えば、事務所経営にあたるかもしれませんし、弁護士業界がそうしたもの(個々の会員への経営指導やマネジメントの質の向上)を軽視してきたことは確かだと思います)

「陸軍は、陸大教育でも「独断専行」を重視する」(168頁)、「石原莞爾や辻正信のようなアクの強い人物は、海軍からは出てこない」(同)

「陸軍は、悪行の告発合戦、責任のなすりつけ合い、目を覆いたくなるものがある。海軍は、他人の悪口を言わないサイレント・ネイビーだが、裏返せば組織等のあり方について活発な議論がない、そのことが海軍を肝心なときに機能しない組織にしてしまったと言えるのではないか」(169頁)

「(陸士で育った高級将校が)戦争を観念で考え、精神主義に陥った」(123頁。「戦争」を「憲法」に置き換えて、日弁連などの活動を考えたら、どうでしょう)

「陸軍と海軍はある意味、対照的な性格を持っている。徴兵制で広く兵を集める必要があった陸軍は、必然的に民主主義的な性質を持たざるを得ない(東条英機のように維新の敗戦国の出身者の多くが昭和陸軍の指揮官となったのがその到達点)。他方、海軍は、国際的で開かれた環境を舞台とし高度な技術を駆使する関係で、厳しい階級制に基づく一種の貴族主義的なカルチャーが根底にあった。その違いは、両者のルーツ(陸軍=奇兵隊=四民平等の軍隊、海軍=薩摩閥=身分制度による序列意識)に求められる。その結果、海軍は一般の国民から遊離した存在になり、国民全体の運命に無頓着になったと言われている。」(227~228頁)

ここ1、2年に読んだ本⑥~文化、地域、その他~

前回の投稿に引き続くプチ書評シリーズの第6回(一応の最終回)です。

【文化・芸術・宗教など】

●島田裕巳「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」幻冬舎新書
http://www.gentosha.co.jp/book/b5148.html

著者はオウム事件でバッシングを受けたこともある宗教学者の方ですが、その後は、一般向けに宗教の基礎を分かり易く解説する書籍を多数刊行されており、本書は、そのシリーズの「主要な仏教編」とでも言うべきものです。

私は、島田氏の文章が性に合っているのか、てっとりばやく宗教団体などを概観できる本が助かるというイージーな感覚なのか、他に「葬式は、要らない」も「日本の10大新宗教」も読んでおり、未読ですが神道関係の本も買ったような記憶です。

本書では、日本で最もメジャーな仏教の諸宗派を取り上げ、発祥や思想の違いなど教科書的な話に加え、各宗派ごとに葬式をはじめとする様々な儀式等の違いがあることやそれぞれの意味・由来など、主要仏教に関する基礎的な知識、理解を得るには、また、そうしたことを見据えつつ現代の宗教組織、或いは個々の寺院などの社会での意義、役割を考える上で、格好の一冊だと思います。

【岩手全般・その他の地域】

●小和田哲男「もっと知りたい 岩手県の歴史」洋泉社
http://www.yosensha.co.jp/book/b193538.html

岩手県の歴史に関するトピックについて、史跡、信仰、事件、人物、文化・生活の5類型に分けて話題を整理し取り上げた本で、一緒に書店に並んでいた「あなたの知らない 岩手県の歴史」(今、読んでます)と共に、衝動買いしてしまったものです。

このシリーズは、岩手県だけでなく様々な県をテーマにしているようですので、それぞれの県の書店で、自県に関するこのシリーズの本が販売しているのではないかと思われます。

個人的に一番印象に残ったのは、敗戦直後の食糧危機の際に米国から届けられて大規模な飢餓を防いだ援助物資(ララ物資)の提供を始めた人物(ララ運動の創設者)が、岩手(盛岡)の出身で、原敬の書生から中央大学に進み、新聞記者を経て大正期に渡米して戦中は強制収容所にも監禁されていた人物(浅野七之助氏)であり、その方に、同じく一戸町出身でサンフランシスコ長老教会の牧師をしていた方(川守田英二氏)が協力して運動が展開されたという話でした。

大戦と岩手人、という観点で見ると、主戦派(板垣征四郎や東条英機)、反対派(米内光政)とも、軍指導者の存在感が際だっていますが、敗戦後の貧困救済という場面でも重要な役割を果たした岩手人がいたことは、広く認識されるべきだと思います。

皆さんも、どのエピソードが心に残ったか、反芻しながらご覧になるのも良いのではと思います。

●JCC出版部「絵で解る琉球王国~歴史と人物~」
http://www.jcc-okinawa.net/books/

この本については書きたいことが多くなりましたので、稿を改めて取り上げます。

ここ1、2年に読んだ本⑤~ビジネス~

前回の投稿に引き続くプチ書評シリーズの第5回です。

【ビジネス全般】

円谷英明「ウルトラマンが泣いている」講談社現代新書

ゴジラやウルトラマンをはじめとする「特撮の神様」円谷英二の孫である筆者が、偉大な祖父の死から一族全員が経営から排除された最近の出来事まで、円谷プロの同族経営を巡り生じた様々な出来事や問題点を、ご自身の実体験をベースに赤裸々に述べたものです。

筆者は長男家の子で、英二氏の死後、最初に経営を継いだ長男の一(はじめ)氏は、良質な作品の供給と経営との両立に苦しみながら若くして夭折し、続いて社長となった次男の皐(のぼる)氏は、経営存続を重視し作品の質より既存の名作を商売に生かし(著作権・キャラクタービジネス)、制作も自前ではなく外注とする路線をとったものの、経営手法などに問題があり、最終的には不祥事などを伴う内部対立が生じ、良質な作品を作る力を失ったまま、資金繰りに窮した挙げ句、怪しげな人物が救済名目で介入し、経営権を奪取されて大企業に転売され一族が放逐されたという形で、円谷プロが辿った道を説明しています。

この本は、①経営(カネ廻りの確保)への十分な配慮もなく制作に巨額の費用を投ずることの怖さ、②経営理念・手法を異にする者同士が強力なコンテンツを持つ企業を共同或いは承継して経営する場合に生じるリスク、③独裁的な権力を持つオーナー経営者が経営権を濫用した場合に生じる問題など、企業経営に関して生じうる様々な論点を学ぶケーススタディとしても、大いに参考になると思います。

私自身、過去に、中堅企業の同族紛争を巡る訴訟や、「質の高い作品を作るものの経費を掛けすぎてしまう制作畑の方が、大企業(元請)の担当者との間で十分にカネなどの協議をせずに仕事を請け負った後、多数の作業スタッフを集めて質の高い作品を作り上げたものの、元請側の提示額を大幅オーバーしてしまい、元請とスタッフ(孫請)の双方との間で厄介な紛争が生じた事件」に関わったことがあり、そうした事件との異同を考える上でも、色々と感じるところがあったと思います。

●見城徹・藤田晋「人は自分が期待するほど自分を見てはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」講談社

角川の大物編集長から一代で大手出版社を作り上げた見城徹氏が、サイバーエージェントの藤田晋氏と組んで平成23年に出版してベストセラーになった「憂鬱じゃなければ仕事じゃない」は、私も買って読みましたが、曲がりなりにも「たたかう仕事」をしている身にとっては色々と身に染みるところが多く、満足して読み切ることができました。

本書はその続編として刊行された本で、前作と同じように、見城氏がご自身の人生哲学的なことを短文で述べ、藤田氏が同じ分量でご自身の実体験などに基づく感想や見解を述べるという構成が中心になっています。

私の場合、facebook上でブログで書いた記事を紹介したり考えたことを即興で投稿することもありますが、実社会で様々なネットワークを持ち「らっきょが転んだ、あはは」と書いても「いいね」が怒濤のように付くような著名人や地元アイドル(?)の方々と異なり、長文を書いてもほとんど「いいね」をいただけないことも珍しくありませんので(冗長だからかもですが)、それだけに、タイトルに用いられた言葉を痛感せずにはいられないところはあります。

今後も、経営者、表現者は皆、孤独だという気持ちで、腐ることなくたった一人でも熱狂し、その積み重ねで、いつかは私なりの「ヒット」を目指そうと思っています。

ここ1、2年に読んだ本④~歴史系~

前回の投稿に引き続くプチ書評シリーズの第4回です。

【歴史系・歴史小説など】

司馬遼太郎「播磨灘物語1~4」講談社文庫

言わずと知れた、大河ドラマ「軍師官兵衛」の原作的な位置づけというべき作品であり(相違点は幾つかあります)、とても読み応えのある本です。恥ずかしながら、大河ドラマは「徳川家康」以降の8割ほどの作品を見ているのですが、原作を読んだことがほとんどなく、下手をするとこれが初めてかもしれません。

ちょうど、ドラマの放映初期の頃に読んでいましたので、小説とドラマの違いなども楽しみながら拝読しました。また、小説の最後も、官兵衛と家康の統治者としての路線の違い(商業的合理主義=ゼニ(商人・流通)の経済と、土着的な封建体制=コメ(農民・土地)の経済)と、それぞれが時代にどのように選ばれたか(戦国の混乱を終結させる力として前者が必要とされ、長い平和の時代を迎える際に後者が必要とされたこと)を印象づける内容となっており、現代に応用する上でも、色々と考えさせられるものがあったように思います。

また、3巻で、「戦では敵によい最後を飾らせよ」という記載があるのですが、この部分などは、勝ち筋の事件を受任した代理人にとって要諦の一つのように思われ(敗北する運命にある相手方に、尋問では裁判官の面前で言いたいことをそれなりに言わせるなど、ある程度、華を持たせるようなことをして和解などの逃げ道も作った上で、それすら拒否した場合に、やむなく判決で結果を徹底的に知らしめる、といった類です)、そうした観点からも参考になるところが、司馬遼本の魅力だろうと感じています。

余談ながら、この本も、学生時代に古本屋で買い込み、約20年も積ん読状態を続けてきたもので、配偶者の度重なる「捨てろコール」を無視し続けて良かったと思いました(笑)。

呉善花「韓国併合への道 完全版」文春新書

幕末から日露戦争後に生じた韓国併合までの朝鮮史を、激動の時代に国家と民族を守ることができなかった李氏朝鮮の国家や政府、社会全体への批判的な視点を交えて説明した作品です。

併合後の日本の統治や従軍慰安婦を巡る議論など近時の問題についても触れており、筆者のスタンス(韓国の出身の方ですが、敢えて自国に厳しい視線を向けています)への留意も必要かもしれませんが、「隣国・日本は欧米列強と肩を並べることができたのに、どうして朝鮮は国際社会の渦に呑み込まれてしまったのか」を知る上で、また、「国家の存立を米国の軍事力に依存している」という点で、当時の朝鮮に近い面がないとは言い切れない現代の日本であれ他の国であれ、同じ轍を踏まないようにするには何に留意すべきかという点について、色々と参考になる一冊だと思います。

半藤一利ほか「昭和陸海軍の失敗」文春新書

この本については、長くなりましたので、稿を改めてご紹介します。

磯田道史「天災から日本を読みなおす」中公新書

映画化された「武士の家計簿」(私は本も映画も未見ですが)の原作者である歴史学者の方による著作で、古代や中世に我が国で生じた大きな災害(大地震、噴火、津波など)が当時の社会にどのような影響を及ぼし、人々がどのように行動したか、資料などに基づき興味深く論じている一冊です。

秀吉政権の倒壊や佐賀藩の軍事大国化に天災が影響していることなど、歴史上の大きな出来事に災害が強い影響を及ぼしているという説明には、関心をそそられずにはいられない面がありますし、津波に関して詳細に述べられている最後の2章は、震災を経験した岩手県民には、色々と考えさせられる箇所が多々あると思います。

「富士山が噴火すれば火山灰が何日も降り注ぐので、ゴーグルは必須」という下りは、岩手山の場合、私をはじめ多くの人がスキー道具を持っているので大丈夫ですが、関東・東海(富士)や鹿児島(桜島)などの方は、留意しておいた方がよいかもしれません。先日、桜島を巡って緊迫感のある報道がありましたが、その際、「ゴーグルを買い占めて現地で売れば儲かるのでは?」と思わずにいられないものがありましたが。
上記のほか、井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズも、大学3年頃に初めて読んで、語り口の見事さもさることながら、それまで放置していた歴史系の関心を掘り起こしてくれたことなどから、今も最新刊が出版されるたびに、購入して読んでいます。

このシリーズは、私の周囲にも「実は愛読者」という方が何人かおられるようで、先日、盛岡北RCの飲み会で、Kさんが「歴史上戸」と化して、「逆説」や高橋克彦氏の著作などにつき熱く熱く語っておられました。

余談ながら、ここで取り上げた4冊を見ると、「播磨灘」が安土桃山、「韓国併合」が明治~戦前、「昭和陸海軍」が大戦期、「天災から」が古代や江戸期(と現代)などを主に取り上げており、偶然の産物だと思いますが、我ながら、日本史に関しては、各時代をまんべんなくフォローするバランスの良い?読書生活を送っているような気がしてしまいます(自画自賛)。

ここ1、2年に読んだ本③~様々な法分野・実務など~

前回の投稿に引き続くプチ書評シリーズの第3回です。

【税務・税法系】

楢山直樹「相続のための生前対策」あさひ出版

盛岡市内の税理士の方が、平成27年1月からの相続税法の改正を踏まえて、生前贈与など相続税の節税対策や生命保険による相続税確保、さらには遺言など紛争予防策も含め、税理士さんの立場で相続について留意すべき基本的な事柄を幅広く取り上げ、分かりやすく説明した一冊です。

著者の楢山先生とは面識がありませんが、市内でも規模の大きい税理士事務所を経営されているほか、ロータリークラブのガバナー(1年交代で任命される岩手・宮城地区の各クラブの責任者)を経験されていることなどから、ご挨拶できる機会があればと思っています。

本書については、税理士の方が従事されている分野、事柄については、様々な制度や論点などが取り上げられていると感じる反面、審判や訴訟などを見据えた様々な紛争予防や紛争対策などの問題、言い換えれば、弁護士が取り扱う領域に関する制度や論点については、あまり触れられていないとも思いました。

そんなわけで、もし、先生が改訂版を執筆される際には、ぜひ共著のお声を掛けていただければと、安直な期待を抱かずにはいられないところですが、自分の研鑽を深めるのが先だとお叱りを受けてしまいそうです。

飯田真弓「税務署は見ている」日経プレミアシリーズ

もと国税調査官の方(女性の第1期生だそうです)の著作で、税務署や調査官が調査対象(事業者など)をどのように定め、事前調査を行うか、面談の際にはどのようなことに関心をもって質問しているか、さらには、もと調査官の視点での税理士(OBと試験組)の見方(付き合い方)などが述べられています。

不正な行為、やましい営みに対する基本的な調査の仕方を勉強する(特に、カネの流れの調査という観点から)ことはもちろん、事実関係の調査や立証に関する資料収集など弁護士業務への応用という点でも、大いに参考になる本だと思います。

と同時に、徴税部門の現場の方々が公平の旗印のもと必死の思いで集めてきた税金が、非常に残念な形で浪費されることがあるという現実もあるわけで、それだけに、税金の使われ方や使用に関する意思決定のプロセスについて、国民の関心、関与を含む改善の必要性を感じずにはいられません。

それこそが、この本の隠れたメッセージではないかと感じています。

【環境法・環境保護実務など】

原科幸彦「環境アセスメントとは何か」岩波新書

国際影響評価学会の会長などを歴任され、アセスの実務では恐らく我が国の第一人者と思われる工学系の先生による著作で、アセスの意義や歴史、今後の制度のあるべき姿について、詳細に述べられています。

「アセスのあるべき姿」については、対象・規模の拡大(幅広い事業での簡易アセスの早期実施)などの喫緊の課題のほか、科学技術的な観点からの自然や住居環境などへの影響(環境基準の適合性の調査に代表されるような、工学系の専門家の仕事)だけでなく、対象地域の文化、社会、歴史の過去・現在・将来のあるべき姿など(文系の専門家の仕事)も視野に入れた分析や提言、反映がアセスを通じて行われるべきとの主張が強く述べられており、大いに共感できるものとなっています。

アセスの本質はコミュニケーション(ひいては、その前提として、対象事業が行われる地域やそれを前提とした社会全体のあるべき姿について、個々が思索を深めるべきこと)という原則論の大切さを感じさせてくれる一冊で、岩手で問題となっているILCをはじめ、大規模事業と何らかの形で関わりを持つことを余儀なくされる方など、環境アセスメントについて勉強したいと考える方は、読んでおくべき一冊だと思います。

ここ1、2年に読んだ本②~政治・政策系~

前回の投稿に引き続くプチ書評シリーズの第2回です。

【政治学・政治系】

國分功一郎「来るべき民主主義」幻冬舎新書

私は、現代の社会では、間接民主制(議会制)は色々と限界や弊害を示している点が多く、現代に適合した形で、一定の直接民主主義的な契機(一人一人の特性に即した政治過程や行政などの統治作用への参加)の促進が求められると感じています。

道路の拡張を巡る住民投票への取り組みなどを通じて、現代の民主政治のあり方について、気鋭の若手政治学者らしい理論的な分析などを交えて述べられており、読み応えのある一冊だと思います。

常井健一「誰も書かなかった自民党」新潮選書

平成23年から同25年まで自民党の青年局長を務めた小泉進次郎議員の活動ルポを皮切りに、「総理の登竜門」とも目される自民党青年局長の活動の実情について取材、説明した本です。

一読した印象として、青年局に所属し出世していく議員さんは、いわゆる「党人派」の方が多く、裏を返せば、官僚など別業界で重きをなした後に政界に進出した方とは権力闘争などで(ひいては政策ないし政治理念も)、一線を画した行動をとることが多いのだろうと思いました。

また、政治家として生き残っていくためのマインドやノウハウ(仲間・同志の作り方)という意味でも、その業界で生きる方(或いは、弁護士を含め、ご自身の業界内での「権力闘争」に身を投じている方)には大いに参考になる本だと思います。現在の政治状況にあっては、民主党をはじめ野党勢力にもっと頑張っていただきたいので(支持者ではありませんので、現有議席差や目下の争点を踏まえた政治活動の質の向上という意味です)、民主党の若手関係者の方々には、ぜひお勧めしたい一冊です。

余談ながら、「あとがき」で、著者の祖父が長年に亘り政治活動(県会議員?)に身を投じた方で、引退後は、自宅で「抜け殻のような余生」を送ったとの記載があり、私の祖父も、僅かな期間ですが、岩手県議会議員を務めたことがある(その関係で私の実家は大変な思いをしたそうですが)ことと重なり、著者ひいては本書にも、ある種の共感(と、私自身は、そうした世界に身を投じずに生きることができた(適性もなかった)ことへの、安堵感や申し訳なさなど)を感じることができたように思います。

著者は、「若い時代から地道な政治家活動に身を投じて生きてきた人々の世界」を描くことで、亡き祖父と向き合えたと述べておられますが、私が、政治的な事柄についてブログなどであれこれ書いたり考えたりしているのも、祖父とそうしたことについて対話できなかったこと(私の祖父は、私が3歳位の頃に亡くなっています)が、その背景にあるのかもしれません。

【地方政治・地域社会・まちづくり系】

増田寛也編「地方消滅」中公新書

山下祐介「地方消滅の罠」ちくま新書

人口減少問題の警鐘本として一世を風靡した増田もと岩手県知事の本と、同書(或いは、地方の中核都市の機能強化など同書で提言されている幾つかの政策)への批判とアンチテーゼの提言を目的に書かれた本です。

増田氏本は、総論やその前提としての人口状況などの分析には注目すべき点が多々あるのですが、「解決策に関する各論」については、首肯しかねるように感じる点も幾つかあります。

他方、山下氏本は、総論部分或いは増田氏本への批判を述べている箇所は、ちょっと言葉がきつすぎるというか、価値判断ありきで首肯しかねる部分もありますが(特に、増田氏本が「数字の裏付け」を強調している分だけ、理屈中心で裏付けが乏しいという印象を受ける面があります)、各論については、住民票の二重登録(複数の地域に基盤を持つ多重的生活を営む人を保護するための制度づくり)の下りなど、具体的で共感できる点も多くあるように思いました。

総じて、増田氏本は、もっと踏み込んだ記載が欲しい、山下氏本は、もっと抑制したトーンで書いて欲しい、という正反対の読後感がありましたが、今後の社会のあり方を考える上では、補完的な関係にあるものとして双方とも読まれるべき本だと思いました。

木下斉「稼ぐまちが地方を変える」NHK出版新書

今年の7月頃に読んだ本で、この本については稿を改めて書くことにします。
稼げない町弁が地方の司法を変える?~裁判を活かす10の覚悟~

山崎亮「コミュニティデザインの時代」中公新書

無縁社会などと言われる現代で、地域に新たなコミュニティを創造して活性化させることを目的とした事業に携わっている筆者が、そうした仕事が必要とされるようになった背景やご自身の経験、コミュニティ作りの手法的なことなどを説明した一冊です。

私は、盛岡JC在籍時に何度か「ワークショップ」と称する会合に出席したことがあるのですが、集まった大人達が付箋紙に雑多なことを書いて大きな紙にペタペタ貼り付けて談笑するという営みになじめず、辛辣な言葉が飛び交うシビアな紛争で相手方の主張と闘うため事務所で事件記録や文献と睨み合う孤独で陰鬱とした作業の方が性に合っているせいか、本書で描かれている「コミュニティデザインの現場」には、正直なところ、強い苦手意識があります。

ただ、地域社会が置かれた状況に関する著者の認識を説明されている箇所や、その解決策として新たなコミュニティを、社会づくりの思想という観点も交えて設計し、そこに建築家をはじめとする各種の専門家がサポートしていくという観点は、大いに共感しますし、それだけに、「よもやま話のメモのペタペタ作業などで終わるような空しいイベント」ではなく、私自身が培った技能などを大いに生かし、現に社会に役立つものを残すことができるような形で、「コミュニティデザイン」というものに関わることができればと感じています。

ここ1、2年に読んだ本①~法律学・裁判実務系~

前回の投稿に引き続き、ここ1、2年に読んで学ぶところが多かった(ように感じる)本のうち何点かについて、紹介を兼ねて投稿します。プチ書評を入れてはいますが、中身を忘れてしまったものも多く、ある程度雑になっているのはご容赦下さい。

長くなったので、6回ほどに分けて投稿します。

【法律学・裁判実務系】

内田貴「民法改正」ちくま新書

現在も議論ないし制定作業が進行中(大詰め?)となっている、民法(債権法・契約法分野)の改正の必要性や改正案の概要などを、我が国の民法学の第一人者と目されている方(の一人)が説明した本です。

著者は、平成6年頃から大学の法学部生向けの民法学の教科書を刊行され、私に限らず、当時の司法試験受験生にとっては、かつての我妻栄先生の本に匹敵するといって過言ではないほどの必読の本という位置づけになっていました(現在も、その状況は変わっていないのだろうと思います)。

個人的な経験でも、司法試験の論文試験に合格した前後の時期(平成9年9月頃)に、内田先生の民法で「複合契約(或いは、契約対象たる事業の特性に基づく本体的な給付義務に付随する特則的な債務)」が書かれた部分を読んで、頭に残っていたのですが、ちょうど、口述試験でそのテーマがズバリ問われてスラスラ答えることができた(ので、会場を出た瞬間、心の中でガッツポーズと内田先生への感謝をした)ことをよく覚えています。

本書の後半部分は、現在の判例実務の到達点の明文化に関する説明という面が多く、現役の法律実務家にとってはさほど刺激的な部分ではありませんが(裏を返せば、そうしたものを勉強したい方にとっては、極めて重要な基礎本ということができ、民法の初学者にとっても意義が大きいでしょう)、国際的な「法というインフラ産業に関する国際的、歴史的な輸出競争」を大きな視野で論じた前半部分は大いに刺激的で、強く共感できます。

否応なく弁護士の激増(と、町弁業で食うことが難しい)時代を迎えた現在、そうした法制度インフラの輸出に関する実務は、人的資源の確保という点でも、実現可能な面が強まっていると思います。

まして、「非欧世界で最初に近代化を成し遂げ、現代では、法の支配に基づく人権尊重の社会も作り上げ、そのことが、経済的繁栄の基礎をなしている国」が、世界にそうした理念=インフラを広めていくことは、戦後社会の平和と繁栄を享受する現代日本人の重要な責務ではないか(裏を返せば、その責務を果たさなければ、遠からず日本人は厳しいペナルティを科されるのではないか)と思います。

そうした意識を涵養する意味でも、必読の一冊と思います。

海渡雄一「原発訴訟」岩波新書

著者は原発に関する建設阻止や稼働停止などを求める訴訟に長年従事された第一人者と言うべき方で、数年前は、日弁連の「反主流派」とされる宇都宮健児会長時代に事務総長もつとめています。

平成23年11月に刊行された本ですので、福島第一原発事故に関する説明は多くはありませんが、それだけに、福島事故に至るまでの「我が国の反原発訴訟の歴史と法律上の議論の到達点」を知る上では、基本文献と言ってよい一冊だと思います。

瀬木比呂志「絶望の裁判所」講談社現代新書

もと裁判官が、裁判所の組織や人事、及びそれと関わりの大きい司法制度などを批判的に論じたものです。民事手続法の分野では現役時代から著名な方で、私も幾つかの実務家向けの書籍を拝読したことがあります。

いささか語気が強く、割り引いて考えた方が無難に感じる箇所もありますが、裁判所という空間が、社会人としての価値観や振る舞いといった点に関して、ある種の同調(同化)圧力を伴う職場であり、筆者のような個性の強い方には生きにくい組織であることは、修習生時代の経験や多くの裁判官の方々と接した印象として、私もそれなりに感じています。そうした観点から司法制度(ひいては国家統治システム)のあり方を考える上では、参考になると思います。

高中正彦・市川充ほか「弁護士の失敗学」ぎょうせい

中堅世代の東京の弁護士の方々が、「ヒヤリ・ハット事例」を中心とするご自身の経験談や公刊された懲戒事例などをテーマごとに整理し列挙したもので、著者の方々の中に、私の司法研修所の同期・同クラスの方が2人、含まれています。

私が弁護士になりたての頃にも、同じような若手向けの中堅世代の体験談をまとめた本が刊行されており、その本を読んだことや、私自身のヒヤリ・ハットの経験なども思い出しながら拝読しました。

法律実務家向けの本ではありますが、若手の弁護士は言うに及ばず、リスクのある職人仕事をしている他業界の方にも、参考になる点はあると思います。

私の読書歴

私は今でこそ読書が趣味のようなものですが、もともと、さほど読書習慣があったわけではありません。

小学生の頃は各種少年漫画と歴史マンガ・伝記マンガばかり読んで活字書籍をほとんど読んでおらず、中学時代も、読書感想文で学校から推奨される類の本が面白いと思えなかったこともあり、三国志経由の中国かぶれ?で母の本棚から「世界の名著」シリーズの孫子や老子(どちらも短い)を取って読みましたが、荘子や墨子はすぐに挫折し、それ以外はアルセーヌ・ルパンの本くらいしか読んだ記憶がありません。

恥ずかしながら、小中学生時代は、活字本よりマンガとファミコン(と一応の勉強)という同時代人のありふれた少年期を過ごしたというのが実情です。

高校に入り、男子校で娯楽の乏しい寮生活ということもあり、ようやく多少の本を読むようになりましたが、「異邦人」などの古典的な小説を数冊ほど読んだだけで、あとは、アガサ・クリスティや銀河英雄伝説、ロードス島戦記といった「読んでも国語の先生には誉められない本」を多少読んだ程度に過ぎないと記憶しています(余談ながら、数年前に、高校1年のクラスメートである元衆院議員の方の著作を読んだ際、彼の当時の質量とも凄い読書内容が書かれている部分を読んで、あまりの落差に泣きたくなりました)。

それが、大学に入ると、受験勉強の合間や通学時などに本を読んでばかりいるような生活になったと思います。自分としては、きっかけが2つあり、1つは、1年の秋頃に、高校の国語の先生が授業で激賞していた岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」(とその関連本)を読んで自分のアイデンティティを深く考えるきっかけを得たこと、もう1つが、大学1年の終わりか2年の頃に浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」を読んで、「知の世界」への理解や関心或いは執着を自分なりに深めることができたことが、大きかったように感じています。

ただ、このような経緯もあり、文芸書の類はほとんど読まず、岩波や中公などの新書本、政治や経済絡みなどノンフィクション関連の本、哲学・思想が絡んだ基礎的な本など(本格的なものは無理で、フロイトの精神分析学入門もすぐに挫折しました)が中心でした。受験勉強の合間に息抜き的に読むというコンセプトもあり、私の読書人としてのレベルも含めて、それが精一杯だったと思います。

大学4年の頃、それまでの電車通学(京王線の百草園から多摩動物公園駅の往復)から原付通学に切り替えたのですが、これに伴って、中央大の正門の上り坂の麓にある巨大中古書店(伊藤書店)に入り浸るようになり、いつの間にか、浅羽氏の本で推奨されていたものや司馬遼太郎氏の著作をはじめ気になった文庫本など様々な本を買い漁る日々になり(原付で、中央線や川崎方面の伊藤書店まで遠出したこともありました)、それが受験生活のささやかな息抜きという感じになりました。

そのため、6畳の自宅ワンルームマンションは古本が溢れかえってさながら古本屋の一角のようになり、さらに大量の「買いたい本リスト」を日々持ち歩いて書店内を彷徨うという陰気な生活をしていましたが、運良く卒業2年目で司法試験に合格したため、修習生時代は狭義の勉強のほか様々な修習生としての付き合いごとにも追われ、一旦は、そうした日々が終わりました。

ただ、修習生の頃も、当時の盛岡地検の三席検事(現在は霞ヶ関を「脱藩」して衆院議員をなさっている方)が、当時取り組んでいらした大型事件の息抜きで、盛岡地検内の修習生部屋を訪ねては、必ずといって良いほど数冊の書籍(山口組など犯罪組織絡みのものや当時話題になった「北朝鮮がテロ攻撃を仕掛けてきた場合を想定した小説」など、大物検察官の方が関心を持ちそうな話をテーマとするものが多かったと記憶しています)を持参され、「法律家は本を沢山読んで思索を深めなきゃダメだ。君らも読め」と熱く語っておられたので、もう一度、「本を読む男」にならないとと思ったことはよく覚えています(結局、私も他の面々も、色々と一杯一杯のせいか積ん読状態でしたが)。

その後、東京で弁護士として就職した後は、通勤などの合間に細々と本を読む生活に戻りましたが、結婚以後は、諸事に追われ(というか優先して)読書時間を確保できないことが多く、まして、岩手に戻って以後は通勤等もありませんので、読書ペースはかなり落ちたと思います(読書という面では、自動車で移動せざるを得ない生活は大きなハンディと言えます)。

で、何のためにこのような話を長々と書いてきたかと言えば、読んで面白いと思った書籍については、ブログで簡単な感想を書きたいとの希望があり、少しだけ実践したこともありますが、今も諸事に追われ、そうした時間も割けないまま、読み終わった本ばかりが机の近くに溜まってしまいました。

そのため、さすがに既読本の本棚に移さなければという状態なのですが、せめて、「ここ1、2年に読んで学ぶところが多かった(ように感じる)本のリスト」を投稿したいと思い、その前置きとして、読書歴を書いてみることにした次第です。よって、本題というべき「リスト集」を、次回に投稿させていただきます。