北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

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雑談・戯言など

顧問先とのやりとりと弁護士の不養生

先般、ある顧問先から破産管財手続中の不動産の購入に関する問い合わせ受けて、実務の一般的な見通しなどを説明しました。

当方は顧問契約を月額3300円からお引き受けしており、年2時間は電話・メールを含む相談に無料対応(超過時間は追加料金ですが柔軟な運用となっています)としていますので、

富裕層や大企業のような高額な顧問契約なんか出来ないけれど、年に1回~数回は弁護士に聞きたいこと・聞くべきことが生じる

という方には利用価値があると思いますが、他の同業の方々に比べるとさほど多くの申込を頂戴したわけでもなく、目立つ広告でも出した方が良いのかなぁと思いつつ何もできていない状態が延々続いています。

***

で、宣伝はこの辺にして、ここからが毎度の本題?です。

上記の有様ですので、何年もお世話になっている昼飯割引帳(昨年12月から本年3月末までの版)を、今年の4月1日に開いたところ

最終頁のグルメスタンプラリーの投函締切日が、前日(3月末)だった!

ということに気づきました。ちなみに、2月末までにはハンコを全部揃えて、郵送だけ忘れてました。

これぞ、ホントのエイプリルフール(4月1日のバカ)。

で、次号では同じ過ちは犯さないぞと固く決意し、4月の最新版も6月頃にはハンコを全部揃えていました。

が、昨日、パスポ終了。

で、昨日、今回のグルメスタンプラリーの投函締切日・・

というわけで、たった今気づいた我が身に捧げる一首。

俺バカと自分で言うバカ言わんバカ
二度あることは三度ありなむ

というわけで、ご祝儀・・ではなく慰めの顧問申込募集中!

なんて書いていると既存の顧問先の皆様にまで逃げられそうなので、止めておきましょうね・・・

ともあれ、一仕事終えたあとの戯言はほどほどに、普段は仕事に邁進しておりますので、ご容赦のほどを。

あと、本業では期限徒過(一発懲戒)したことはありませんので、念のため。

新人時代に、やらかした大センセイの尻拭い(後始末)を担当し大変な目に遭ったことはありますが・・

中央大学岩手支部OB会と刑事事件に関心を示す方々

先日は、中央大卒業生の岩手支部の総会があり、参加(諸事情で懇親会のみ)してきました。

柄にもなく参加者の方々に若干挨拶回りをしたところ、若くて活きのいい方が何人かいて、盛岡JCにお入りになってはどうですか、と話したところ、関心を持っていただいたようでした。

ただ、後日、現役会員の方の要請に応じて再度問い合わせたところ、色よいご返事はいただけなかったので(企業オーナーではない勤務者の方には入会のハードルが高いのかもしれません)、なかなか現実は厳しそうです。

私が盛岡JCに入会したときは、現在も本学OB会の中心を担っておられる元理事長さんや役員等で活躍されていた方々が多数おられたのですが(万年ヒラ会員は私だけ・・・)、どういわけか、後の世代では中央大出身の盛岡JC関係者がほとんど聞かなくなり、残念に感じています。

潜在的?には中央大卒の方は盛岡にもウジャウジャいるでしょうが、何人かの同業の方を除き、同世代や若い同窓の方と接点を持つ機会がほとんどないので、引き籠もり気味の当方も他人様のことを言える立場ではありませんが、こうした機会をもっと活かしていただければ幸いです。

ところで、挨拶回りをしていたところ、

刑事事件も色々やってるんですか

と、民事よりも妙に刑事の方に関心を示すご年配の方々が多かったのが不思議に思いました。

最近、お年寄りが暴力沙汰を起こして捕まる案件が多いんですよ。特に、お酒のせいで。

などと余計な一言は間違っても口にすることなく、ヘラヘラ・・・もとい無難な相槌に終始したことは、申すまでもありません。

 

雨に翻弄される日印の自転車たち

今から少し前、梅雨明け直前の時期の話です。

その日は相談担当のため弁護士会に赴かなければならず、毎度ながら20年前に購入した登山用雨具を着用して豪雨の中、自転車で向かいましたが、そういうときほど、滅入る気分を吹き飛ばすため、

ガンガンいぐべ ぶっ放すべ~♪
センジョーコウスイタイ!

などと脳内熱唱して走行することにしています。

・・・などと書くと不謹慎だなどとお叱りを受けるのかもしれませんが、歌詞に防減災や避難、自然の猛威への畏敬などを盛り込めば、世評に十分耐えうる作品ができそうな気もするので、どなたかチャレンジいただければ幸いです。

ともあれ、被災された秋田の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

最近の担当日(弁護士会に行かなければならない日)は雨天率が高く、よほど会内で歓迎されているのかなぁと涙が出そうですが、新規のご依頼をいただける(かもしれない・・)貴重な機会でもありますので、めげずに失踪・・ではなく疾走し続けたいと思います。

ところで、その日の朝、事務所付近を走行していたところ、インド系(ドラヴィダ人?)と思しき濃いめの肌の男性が多数、自転車で北上しているのを見かけました。

ちょうど小雨から本降りになりかけたタイミングでしたが、彼らの誰も雨具を着ておらず、日本で自転車通勤するなら雨具が必要ですよ、濡れると身体に悪いですし(勤務先で調達してあげたらどうですか、ワークマンとか)と思わずにはいられませんでした。

震災以前に市内に大増殖したインド系レストランは最近はあまり見かけなくなったので、あの自転車の男性達がどのような仕事や生活をなさっているのか皆目見当もつきませんが、彼らにせよ日本人にせよ、互いに地域社会内で安全・安心に暮らしていくためにも、もっと法制度や実務の整備が必要なのではないかと改めて感じました。

 

義理に生きる日本人と、正義に生きる偏屈者

私の名前は「義和」ですが、亡父から、祖父が「義勝」と名付けようとしていたのを父が「義和」案を推して決まったという話を聞いたことがあります。

どうして「勝」ではなく「和」にしたのかという肝心の点を聞きそびれてしまったのですが、私自身は自分の名前を非常に気に入っています。

というのは、私にとって、「義」とは正義の義、「和」とは平和の和を指し、2つの言葉=理念は相対立するものの、だからこそ私の人格や生き方に決定的な役割を果たしていると感じるからです。

もとより、争いは正義を主張する者同士の間に起こるものであり、平和とは、暴力・抑圧による欺瞞の平和を別とすれば、正義と正義の衝突の後の相克と調和・止揚の先にこそ存するものです。

よって、正義と正義(光と影の双方を背負う者同士)の対立と調和という問題(ひいては対決と調和の双方を創出する営み)は、正義や平和を扱う全ての職業人にとって、要諦というべき事柄だと思います。

それが弁護士という職業の本質に関わることは申すまでもないことでしょうし、そのことを弁えず自派の利害ばかりに目を向けて他方の正義や調和に視野が及ばない者は、法律家としては良質な仕事をしているとは言い難いと思います。

そんなわけで、私は、自分の名前を他人様に説明する際は、「正義の義と、平和の和」と必ず述べています。

ところが、これまで他の方が私の名前を説明するのを聞いていると、「義理の義と、平和の和」と仰ることが非常に多くありました。

それを聞くと、その方にとって「正義」よりも「義理」の方が身近な(親和性がある)言葉・概念なのだろうと思わずにはいられませんでしたし、そうした方が多いため、正義という言葉・概念は、まだまだ日本人には馴染めない面があるのだろうとも感じました。

感覚的な話になりますが、義理は、一対一であれ多数であれ、対人関係を前提とした言葉であり、多くの方には「世間」(最近は「空気」と呼ばれる)という日本的な概念と非常に親和性のあるものと言ってよいと思います。

言い換えれば、世間(空気)や義理の根底には自分に身近な者で形成されたコミュニティ(帰属集団)による集団的な明示・黙示の意思決定を重視する思想(広義の集団主義)が存するはずです(このような考え方は、「菊と刀」などでも触れられているようです)。

他方、「正義」という概念には、「千万人といえど我行かん」という、自分が信じる理念のためなら徹底した孤独にも耐えて闘う覚悟も要求する面があり、個人主義に馴染むことは間違いありません(だからこそ相対立する正義が殺し合いをせず共存・調和できるよう、裁判や選挙などを通じた対決・決着のための法制度があると言えます)。

そもそも、正義という言葉(概念)は、日本よりも、中国(関羽でおなじみ)や西洋(いわゆる法の正義)の方で確立した概念だと思いますが、双方とも、日本よりも遥かに個人主義思想の強い風土だと思います。

そう考えると、義理よりも正義という言葉に馴染んでいる私は、日本人的ではない偏屈さの持ち主ということになるのかもしれませんし、そうした面も含め、この名が授けられた瞬間から、法律家という生き方が天職になったのかもと思うところはあります。

ただ、名付け親である私の父は、日本的な親父の最たる御仁で、およそ西洋或いは中国的な個人主義にはほど遠い、世間様と共に生きる人でしたので、人の世は実に不思議なものだと感じないでもありません。

或いは、父にとっては「義理の義と平和の和」だったのかもしれませんが、作者の意図はどうあれ、私は頑なに「正義の義と平和の和」として生き続けたいと思っています。

 

裁判所の電気代の無駄遣いを誰も咎めない光景

先日、事務局のお使いで昼に裁判所に行きましたが、電気代の激増による生活苦が報道されるご時世なのに、1階ロビーで誰も見てない「裁判所の手続案内(や裁判員案内)ビデオ」を大型TVで延々と常時上映している光景を何年も見させられ続けていると

こういう無駄のせいで庶民の電気代が激増しました。
官はたらふく喰ってるゾ

などと書いた貼り紙を人知れず画面に張りたい誘惑にかられます。

が、テロ行為に及ぶ度胸はありませんので、代わりに飯テロ・・もとい、物価高になる前に美味しくいただいた頃の美麺画像を投稿し、電気その他の無駄遣い抑制を通じた物価沈静の機運向上を祈念する次第です。

ともあれ、盛岡地裁も、付けっぱなしではなく、せめて、その辺の博物館みたいに、見たい人がいるときだけ自分で付けて(去るとき消して)見る、という程度の改善ができないものでしょうかね・・

なお、敗訴の腹いせとか、取扱事件の担当裁判官から虐待されたとか、そういう理由ではありませんのでヨロシクです(たぶん)。

アクセントの平板化に抗い続けて幾年月

先日逮捕された元参院議員の方のお名前(芸名)について、ニュースその他では全て、アクセントのない平板化された形で発声されています。

が、私はどうしてもこの発声に馴染めず(「ギロッポン」のようにエセ芸能界ちっくで胡散臭い印象を受けてしまいます)、第二音(または第一音)にアクセントを置いた

がアしぃ (アクセント位置をカタカナ表記しています

という発音でしか発声できません。

この御仁に限らず、私は子供の頃から

どラえもん
のブなが
ひデよし
いエやす

という発音を墨守し、周囲への迎合?を頑なに拒否して生きてきました。

これは、いわゆる「田舎訛り」なのだろうか?と一人悩んだ?こともありますが、下記の記事を拝見する限り、要するに、昔々は都会でもこの発音が主流だったのに、ここ数十年、一部のオサレ感のある業界の仲間内の人々に大衆が追随する形で生じてきたものと考えられることが分かりました。

最近、日本語を平たく言うアクセントが気になります。誤りではないでしょうか – ことばの疑問 – ことば研究館 (kotobaken.jp)

そうであればなおのこと、私はそうした業界人の仲間に入れる人間ではありませんし、ひとりで我が道をゆく生き方に適合しているとも思いますので、今後も自信をもって

がアしぃ 

などと発声し続けたいと思います(聞いてくれる相手もいませんけどね・・)

いずれ時代が逆転し、こっちのアクセントの方がもてはやされる社会が到来する・・・などということは、たぶん無いのでしょうね。

わしの家の神の君

今を去ること十数年前、当家にも、天が神の君を授けて下さったのでございます。

光り輝く神の君、その大きなお姿は、狭いマンションには大層もったいなく、領民は日々、君を崇め奉り、間違っても「誰だ、こんなかさばるものを贈ってきたのは。出し入れ大変だし、物置の大半も占拠して」などという怨嗟の声は、微塵も上がることなど無かったのでございます。

ところが愚かなる領民どもは神の君への感謝を忘れ、君は岩戸にお隠れになる年が続き、天下は諍いが絶えず暗く悲しい有様となったのでございます。

すると、なんということでしょう。今年の大河で神の君が敵軍の的に・・・もとい、似たような鎧を纏って我々の前に現れたのでございます。

かくして、当家の神の君も長い年月を経て岩戸からお出ましになり、天下は再び太平に包まれることになったのでございます。

おしまい(オチなし)。

たぢから男より一言「重いのヤダ。やりたきゃ自分で物置から出して。」

(今回は、現在の大河ドラマを踏まえた戯言です)

マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(後編)

昨年末の鎌倉来訪に関する記事の後編です。

源氏山を東側から下山し、寿福寺に立ち寄った後、しばらく南下して鶴岡八幡宮に着きました。

鶴岡八幡宮は今回の主要目的地ということで、宝物殿を含め、可能な範囲で神社内を色々と拝見しました(が、話題の大河館は2時間待ちで諦め、国宝館は休館中で残念でした)。

鎌倉の象徴であり武家の守り神とも称されるこの神社は、源頼義により創建され頼朝の手で現在の姿となったもので、蝦夷の末裔たる東北人にとって仇敵の神殿という面があることも、忘れてはいけません。

と同時に、源氏(河内源氏)宗家はこの地で無惨な最期を迎えたわけで、そのこともまた、この神社の業の深さを感じさせるものと言えます。

ともあれ、千年前に時代に翻弄された人々の鎮魂を祈って一句

しめなわに禍福あざなす鶴ヶ岡

また、源実朝が落命した八幡宮の階段にて、山形県鶴岡市で先日生じた雪害事故も脳裏をよぎって一句。

この坂はまさかの雪が仇となり


その後、私にとっては今回の主要目的地にあたる「頼朝と義時の墓所」(法華堂跡)に行きました。

事前に勉強せず行きましたので、最初に上った頼朝の墓の区画に義時の墓もあるのかと右往左往しましたが、ほどなく、双方は別の場所に設けられており、それぞれ別の階段から上る必要があることが分かりました。

鬱蒼とした頼朝の墓(江戸期に整備されたもの)に比べて義時の墓所(跡地)の方が広々としており、また、頼朝は狭い区画に一人だけの墓となっているのに対し、義時の墓所の奥は三浦一族の供養墓があり、区画上部にも大江広元らの供養墓があるなど様々な施設で賑わっており、ここでも「頼朝のドス黒い孤独」を感じざるをえませんでした。

ともあれ、大河ドラマの様々な場面を思いつつ、鎮魂の丘にて義時が義和に囁く一句

その時は義を以て為し報い待て

***

その後、丘を下りて、鎌倉幕府の終焉の地に向かいました。

北条氏の天下は頼朝の死と義時の権力闘争(勝利)から始まり、東勝寺での高時一族の自刃にて終わる。もって盛者必衰の理をあらはす。

近時の研究(中公新書・亀田俊和「観応の擾乱」など)によれば、鎌倉幕府の倒壊(主要武士群からの支持喪失)は、土地利権をはじめとする武士同士の紛争を解決する役割(訴訟処理機能)を幕府=鎌倉政権が果たしていない(ので政権担当能力がない)と評価された点が大きかったのだそうです。

翻って現代はどうか。

この仕事をしていると、現在の司法制度の残念な部分を否応なしに感じさせられ、当事者の不満や失望を垣間見ることは多々あります。

高時の自刃跡とされる光景は、或いは、裁判所や司法関係者、ひいては立法のための努力をしない国民全体の近未来の姿なのかもしれません。

***

最後に鶴岡八幡宮の小町通り商店街に戻り、通り奥のカフェ・ミルクホールにて名物のプリンを頂戴しながら一服した後、ほどなく帰宅しました。

商店街には「神社のあとはジンジャーで」なるキャッチコピーを付した幟があり、どうせなら、寅さんの口上のように、こんな感じで言葉を並べた方が面白いと思いました。

神社のあとはジンジャーで
お寺で御法度ジントニック
天ぷらアタればテンプルへ
モスクで食べたやモクズガニ

そしてプリンはプリンシプル。

24年前、私が所属していた司法修習52期6組では、地元ご出身のTさんによる「魅惑の日帰り鎌倉ツアー」が開催されました。

Tさんは、数年前から研修所の刑事弁護教官として熱血指導に邁進されつつ、オウム真理教の末端著名信者を巡る刑事事件で無罪判決(実行者との共謀関係を否定)を勝ち取るなどの輝かしい活躍をなさっています。

かたや、当方は今や田舎の片隅で数多の名も無い赤字仕事に追われつつ事務所の運転資金に喘ぐ日々。まさに日暮れて道遠しというほかありません。

湘南の海が眩しく見えるのは、或いは、誰もが可能性に満ちあふれていたのかもしれない、あの日々への執着への裏返しなのかもしれません。

あたかも、この街がかつて武士の都であったように。

皆さんは鎌倉で、何を感じましたか?

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鎌倉殿の14番目の秘密と「禍々しい陽光」の正体

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が今度で最終回とのことで、先日は、オープニング映像に様々な仕掛けが含まれていることを説明した特集番組が放送されていました。

ただ、この映像の核心の一つである「主人公(北条義時)を指すのであろう、佇立する武士の背後から巨大な太陽?が照らす光景(冒頭部分)」については何も説明がなく、その点は不思議に思いました。

この部分は、少し検索すれば「これから武士の時代が到来することを陽光で表現しているのだ」といった評釈を見かけますが、私は、そのような見方をすることに違和感を抱いていました。

というのは、太陽が大きすぎ、陽光が強すぎる感じがする上に、照らされる武士も生身ではなく石像という「異様さ」もあって、なんとなく怖いというか気味が悪い感じがして「さぁ、俺たちの時代だ!」的な明るさがなく、むしろ否定的な印象を受けていたからです。

そのため、このオープニング映像や主題曲が(初見で気に入った「麒麟が来る」などと比べて)最初はあまり好きではありませんでした。

が、最近になって、これは意図的に「異様で嫌な感じのする強すぎる太陽」にしたのではないかと感じるようになり、今では映像も音楽も気に入っています。

ご承知のとおり、本作は、平家を倒し天下を取ってハッピーになったはずの鎌倉武士団が、主君(源氏嫡流)殺しをはじめとする陰惨な内部抗争に明け暮れる光景を描いた作品です。

その上、主人公は若い頃から様々な汚れ仕事を担わされた末、自分は社会のため誰よりもそれを引き受けざるを得ない存在だとの境地に至り、そして、最もなすべきこと(かつて朝廷・貴族=旧支配者に隷属を強いられた存在としての武士が、立場をひっくり返した出来事)を終えた直後に退場する人生となっています。

こうした骨格を踏まえると、この物語は「新たな時代を切り開いた武士達が、栄光の代償として激しい光に焼け尽くされる姿を描いた物語」であり、武士を照らす強すぎる光は、映像の最後に石像群が滅んでいく光景と相俟って、それまで田舎で安閑と暮らしていた関東武士達(や頼朝ら)が社会の中心に躍り出るのと引き替えに強烈な試練に晒される禍々しさを意味しているのではないかと感じるのです。

ただ、そのように「旧勢力から権力を奪取し新たな時代を劇的に切り開いた人々が、強烈な試練に晒され次々に命を落としていく光景」は源平時代に限った話ではなく、幕末維新期はもちろん、戦国時代も含め、日本の歴史の中では時折みられる話だと思われますし、それだけに、生身の殺し合い云々はさておき、社会では相応に普遍性のある事柄のようにも思われます。

そんな物語を送り出した三谷氏の意図は、現代社会にあっても、旧勢力(既得権益)を打破して新たな時代を切り開きたいなら、様々な汚れ仕事や恐るべき試練に己が焼け尽くされる覚悟と深慮遠謀をもって立ち向かえ、というメッセージを若者達に届けることなのかもしれません。

***

ところで、冒頭で紹介した「オープニング映像の解説番組」では、コーラスを担当しているのがハンガリーの方々だ(作曲家の判断で決まった)と説明する一幕がありましたが、ハンガリーと言えばフン族の末裔であり、フン族といえば「ゲルマン民族大移動とローマ帝国崩壊を引き起こしたアッティラ帝国」であり、謎に包まれた?フン族の正体は、モンゴル民族の祖先というべき匈奴だと推定する説が有力と言われています。

そうしたことを想起すれば、武士の時代を切り開いた主人公達と繋がる面があるように思われ(人種的にも、モンゴル人と日本人は近いと言われます)、ハンガリー人のコーラスが起用されたことが、そこまでの意図があったとは思えないだけに、不思議なものを感じざるを得ませんでした。

私自身は「天下の闘争の渦中に飛び込み汚れ仕事に明け暮れる」こととは無縁な、身近な社会(弁護士会とかJCとか)ですら権力闘争に関わることなく末端で小さくなっている「安閑と暮らすだけの村はずれの奇人」で終わる人生となりました。

せめて、こうしたドラマを拝見しつつ、次の時代を担う方々に何らかの役に立てるような最後のご奉公ができればと願うばかりです。

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ところで、ここまで書いてきて、武士達を焼き尽くす「強烈な太陽」とは何を意味しているのか、取り上げるのを失念したことに気づきました。

ただ、この点は、皆さんも薄々感じているはずです。

日本国の存立に必要不可欠な存在と考えられる一方、近づき過ぎると(権威を笠に着て専横しようとすれば)身を滅ぼすことになりかねず、敬して遠ざけるのが賢明と考えられ、現に幾つもの武家政権などにはそのように扱われてきた存在。

「日出づる処の天子」こと天皇ないし天皇制という仕組みそのものが、もしかすると、今は野に埋もれている人々に、チャンスと強烈な試練を与え、世を作り替える原動力となる一方、そうした時代の転換を受け入れることができなければ、主要な担い手(後鳥羽上皇など)であっても転落を強いる、そうした側面を持っているのかもしれません。

じっと手を見るカソ弁の悲哀と漆妻

3年ほど前の話です。

とある日曜に浄法寺の里山で出張仕事があり、折角なら旅行を兼ねてということで、仕事を昼までに終えて、岩手青森県境不法投棄事件の現場視察→田子の名瀑「みろくの滝」→感動の十和田湖ゴール、という計画を立て、不在者投票など万全の準備をしていました。

が、土曜になって家族にドタキャンされ、一人寂しく浄法寺ICそばのドライブインで「漆の実コーヒー」をいただき、事務所に戻って仕事(とゴロ寝)してました。

その日は司法修習52期の方々の20周年大会があったそうですが、そうしたイベントに参加する力もなく、今となっては運転資金の捻出に追われるだけの過疎地の下層弁護士(略してカソ弁、訛ってカス弁?)というのが正直なところです。

ともあれ、めげずに毎度の一句。

カソ弁の悲哀を知るは漆のみ

などと書くと「もののけ姫」のテーマ曲が脳内を駆け巡ってしまいます。

というわけで?さらに余計な一句。

かぶれたのは皮膚か心か うるし妻

残念ながら、ご本人にはこの句の大意(愛情表現?)がご理解いただけなかったようです。

なお、この事件では、裁判所との関係で想定外の塗炭の苦しみを強いられましたが、最近になって、ようやく大きな峠を越える目処が立ちそうになっています。

その峠を越えた後も、まだまだ完全決着までの道のりが長い(むしろ、それからが本番)のですが、数十年間放置された辺境の大事件を決着させ、当方依頼者が背負うことを余儀なくされた重荷を解き放つため、大赤字仕事に背中で泣きながら、最後までやり抜きたいと思っています。