北奥法律事務所

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短歌・川柳など

鎌倉長谷寺にて、カトリック的仏教とプロテスタント的仏教の歴史と異同に思いを馳せる

鎌倉編のおまけに、長谷寺に赴いた際に考えたことについて書きます。

鎌倉長谷寺は紫陽花の名所として有名であり、どうして文化財指定を受けていないのだろうと感じる、巨大な十一面観音像が本尊となっています。

御仏も鎌倉殿に馳せ参じ
競えど殺さぬ世を導けり

長谷寺の創建時期は不明(伝承では天平期)ですが、一般的理解では鎌倉期から幕府関係者を中心とする時の権力者・有力者の庇護のもとで発展した寺院であり、奈良・平安仏教などと共に、広義の「鎮護国家系仏教」と言えるでしょう。

建物や敷地内には多くの日本の寺院と同様に様々な種類の仏像・地蔵像などが多数入り乱れ、いかにも多神教的な印象を受けます。

ただ、有力者の庇護を受けた寺院に様々な「ランキング」化された仏像などが並べられるのは、それが、貴人(支配階級)の序列社会の光景に馴染む面があるからなのかもしれません。

カネ主たる有力者にとっては、色々な仏様から多様な御利益を受けたいとのニーズもさることながら、偉い仏が沢山いて序列化されている光景を眷属(配下・庶民)に見せて「それが当たり前」とすること(権威化)で、自分達=支配階級の序列社会への服属心を高める効果(ひいては自身の安心感)を期待できたでしょうから。

そう考えると、仏達の序列社会的な表現を伴う鎮護国家系仏教はカトリックに、阿弥陀仏とか妙法蓮華経など特定の如来等を唯一神化する一向宗や日蓮宗などは、プロテスタントに似ているように感じます。

日本のキリシタンも、渡来したのはカトリックですが、この文脈からは、プロテスタント的なものと位置づけられるでしょう。

一向宗などの「プロテスタント的仏教」は一神教的で拝む対象も限られ、排他的傾向がある(あった)のに対し、それ以外(以前)の「カトリック的仏教」の方が多様で寛容な傾向があるようにも感じますが、それは、既存の権威秩序を尊重することが条件である(そのような意味で保守的である)と言えるのかもしれません。

だからこそ、プロテスタント的仏教には、既存秩序を転覆する革命志向的な側面があり、それが一向一揆や同時期の法華宗、キリシタンの弾圧は、弾圧側の担い手たる武家勢力が基本的には旧教(カトリック的仏教)の庇護者であることに照らしても、日本版の宗教戦争にあたるようにも思われます。

日本では新教側が米国のような独立国を作ることはできず、武力闘争としては旧教側が勝利したものの、旧教側も比叡山焼討をはじめ固有武力や政治への制度的な影響力を失い、幕府に庇護された一定の利権を別とすれば、政教分離に近い光景が出現しました。

新教側も、あたかも敗戦後の日本のように、武力(主権)放棄と引き替えに宗教活動の自由を得て、江戸期には戦国期以上に発展したと言えるでしょう。

それらの光景は、基本的にカトリック国であるものの革命時に政教分離が極端に進んだフランスに、似ているようにも見えます(当時、暴力的な教会弾圧もあったのだそうで、宗教利権への反発を含んだ日本の廃仏毀釈や中国の文革に近い面があるかもしれません)。

他方で、かつてプロテスタント的仏教の人々が抱いたであろう「革命の夢」は、我が国では地下深く(人々の抑圧された深層)に眠り、ごく稀に、例えば、オウム真理教のような形で露出することになったのかもしれませんが。

現代日本人が仏像群を拝見しながら宗教心をかき立てることは難しいかとは思いますが、こうした形で社会のありようを考える機会として活かしていただければと思います。

マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(後編)

昨年末の鎌倉来訪に関する記事の後編です。

源氏山を東側から下山し、寿福寺に立ち寄った後、しばらく南下して鶴岡八幡宮に着きました。

鶴岡八幡宮は今回の主要目的地ということで、宝物殿を含め、可能な範囲で神社内を色々と拝見しました(が、話題の大河館は2時間待ちで諦め、国宝館は休館中で残念でした)。

鎌倉の象徴であり武家の守り神とも称されるこの神社は、源頼義により創建され頼朝の手で現在の姿となったもので、蝦夷の末裔たる東北人にとって仇敵の神殿という面があることも、忘れてはいけません。

と同時に、源氏(河内源氏)宗家はこの地で無惨な最期を迎えたわけで、そのこともまた、この神社の業の深さを感じさせるものと言えます。

ともあれ、千年前に時代に翻弄された人々の鎮魂を祈って一句

しめなわに禍福あざなす鶴ヶ岡

また、源実朝が落命した八幡宮の階段にて、山形県鶴岡市で先日生じた雪害事故も脳裏をよぎって一句。

この坂はまさかの雪が仇となり


その後、私にとっては今回の主要目的地にあたる「頼朝と義時の墓所」(法華堂跡)に行きました。

事前に勉強せず行きましたので、最初に上った頼朝の墓の区画に義時の墓もあるのかと右往左往しましたが、ほどなく、双方は別の場所に設けられており、それぞれ別の階段から上る必要があることが分かりました。

鬱蒼とした頼朝の墓(江戸期に整備されたもの)に比べて義時の墓所(跡地)の方が広々としており、また、頼朝は狭い区画に一人だけの墓となっているのに対し、義時の墓所の奥は三浦一族の供養墓があり、区画上部にも大江広元らの供養墓があるなど様々な施設で賑わっており、ここでも「頼朝のドス黒い孤独」を感じざるをえませんでした。

ともあれ、大河ドラマの様々な場面を思いつつ、鎮魂の丘にて義時が義和に囁く一句

その時は義を以て為し報い待て

***

その後、丘を下りて、鎌倉幕府の終焉の地に向かいました。

北条氏の天下は頼朝の死と義時の権力闘争(勝利)から始まり、東勝寺での高時一族の自刃にて終わる。もって盛者必衰の理をあらはす。

近時の研究(中公新書・亀田俊和「観応の擾乱」など)によれば、鎌倉幕府の倒壊(主要武士群からの支持喪失)は、土地利権をはじめとする武士同士の紛争を解決する役割(訴訟処理機能)を幕府=鎌倉政権が果たしていない(ので政権担当能力がない)と評価された点が大きかったのだそうです。

翻って現代はどうか。

この仕事をしていると、現在の司法制度の残念な部分を否応なしに感じさせられ、当事者の不満や失望を垣間見ることは多々あります。

高時の自刃跡とされる光景は、或いは、裁判所や司法関係者、ひいては立法のための努力をしない国民全体の近未来の姿なのかもしれません。

***

最後に鶴岡八幡宮の小町通り商店街に戻り、通り奥のカフェ・ミルクホールにて名物のプリンを頂戴しながら一服した後、ほどなく帰宅しました。

商店街には「神社のあとはジンジャーで」なるキャッチコピーを付した幟があり、どうせなら、寅さんの口上のように、こんな感じで言葉を並べた方が面白いと思いました。

神社のあとはジンジャーで
お寺で御法度ジントニック
天ぷらアタればテンプルへ
モスクで食べたやモクズガニ

そしてプリンはプリンシプル。

24年前、私が所属していた司法修習52期6組では、地元ご出身のTさんによる「魅惑の日帰り鎌倉ツアー」が開催されました。

Tさんは、数年前から研修所の刑事弁護教官として熱血指導に邁進されつつ、オウム真理教の末端著名信者を巡る刑事事件で無罪判決(実行者との共謀関係を否定)を勝ち取るなどの輝かしい活躍をなさっています。

かたや、当方は今や田舎の片隅で数多の名も無い赤字仕事に追われつつ事務所の運転資金に喘ぐ日々。まさに日暮れて道遠しというほかありません。

湘南の海が眩しく見えるのは、或いは、誰もが可能性に満ちあふれていたのかもしれない、あの日々への執着への裏返しなのかもしれません。

あたかも、この街がかつて武士の都であったように。

皆さんは鎌倉で、何を感じましたか?

ブログでは割愛した写真をご希望の方はFBへどうぞ。

マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(前編)

昨年末の話で恐縮ですが、大河ドラマで注目された鎌倉に帰省先から日帰りで行ってきました。

9時半頃に稲村ヶ崎の駐車場でパークアンドライドを利用し、最初に長谷駅で下車→鎌倉大仏と長谷寺(鎌倉長谷寺)に行きました。

私は司法修習生だった平成10年の夏に鎌倉に日帰り観光をしたことがあり、それ以来、24年ぶりに鎌倉大仏に来ましたが、街の雰囲気も含め、当時とあまり変化がなく古い街並みが保全されている様子に感心しました。

長谷寺は初めて来ましたが、多数の立派な仏像などを拝見しながら、仏教とキリスト教の異同などをあれこれ考えたので、この点は次回のブログに載せます。

その後、鎌倉駅に移動し、同行者の強い希望で西側の銭洗弁天に向かいました。駅から歩いて行ける距離ですが、相応に長い上り坂となっているため、運動不足で根性のない同行者は「タクシーで行きたかった」と不満顔を浮かべていました。

銭洗う前に銭取る弁財天
急坂で銭より手汗を洗う人
この道が嫌なら麓で芋洗え

その後、坂を上って源氏山公園に向かいました。

鎌倉の頂点たる源氏山公園の山頂には、鎌倉の創設者というべき源頼朝像が鎮座しています。

多くの武士達の力添えで偉業を成し遂げたにもかかわらず、ここには彼一人の銅像しかなく、その上、当時を偲ばせる構造物は何一つないため、かえって寒々しく、頼朝の悲哀を強調するような空間になっています。

引き替えに たったひとりの玉座かな
上に立つ者の孤独はドス黒く


源氏山の頼朝像は何年も前から一度は来てみたい場所でしたが、実際に来てみると、その空間ならではのものを感じることができるような気がします。

昨年の大河は北条家のホームドラマ(家族の物語)とも称されますが、その一方で、身内同士で疑い、憎み、殺し合い、そして血族が誰もいなくなった、頼朝すなわち河内源氏宗家の悲惨な家族の物語であることにも目を向けるべきかもしれません。

その後、源氏山を下山して鶴岡八幡宮に向かいました。

途中、実朝と政子が眠る、源氏山の麓の寿福寺に立ち寄り、修善寺の頼家にも思いを馳せつつ一首。

さむらいの魂喰らいて実る世に 寄る辺なき身の家いずこにか

以下、次回の後編に続きます。

今年の石割桜と、あの日の花びらを偲んで

全国の盛岡地裁ファンの皆様へお届けする、今週月曜の石割桜です。

昔は、遠方からの相手方代理人に「今日が期日で良かったですね」とお伝えするのがささやかな楽しみでしたが、今年はそのような機会がなく、この日は刑事事件の判決言渡でした。

今週、司法研修所の同級生だった方のFB投稿などを通じて、同級生の方がお二人、亡くなられたとのお知らせに接しました。

遠方のご葬儀などに伺うことはできませんが、この桜の散りゆく花びらを、ご冥福のお祈りと共に捧げたいと思います。

これをFBに投稿した日は雨天でしたが、他の方から、散った花びらが雨で裏側の岩に付着し風情があったとのコメントをいただきました。

ぜひ、次の一句を添えていただければと思いました。

散りてなお桜を偲ぶ巖かな

帰ってきた宮古の法律相談と早春のエセ歌人

今年から宮古市役所の無料法律相談の担当(の一人)になり、先日の木曜が初日でした。

盛岡の河川敷などが満開近くになったので、宮古はすでにピークを過ぎたのかと思いきや、メインの長沢川堤は大半が蕾状態で、満開まであと10日は要しそうでした。

念のため浄土ヶ浜の近くまで赴いたところ、そこそこ桜が咲いていたのがせめてもの救いでした。

帰路は雨天でしたが、岩手に限らず、この国では、それまで晴天続き(で花粉地獄)だったのが、桜が咲き出した途端に曇天や悪天候になることが多いような気がします(翌日の盛岡はその最たるものでした)。

或いは、他の山川草木が、桜に嫉妬しているのかもしれません。

花咲くと空に雲湧き乱るるは 我も愛でよと雨風の声

震災後、数年前まで何度も赴き、毎回ガラガラで内職ばかりしていた県庁(宮古振興局)震災相談と異なり、市役所は満員御礼(予約)になっていました。

当時、何人かの方に、市役所への「満員後はこっちに廻して要請」をはじめ、宣伝努力をしないと制度の意味がないじゃないかとお伝えしたことがありますが、宮古の先生の1人からレスポンスがあっただけで、ほとんど善処が得られなかったことを懐かしく思いました。

長沢川堤の入口の道路では、接触事故を起こした車両同士が離れた位置で互いに誰かに電話をしており、ほどなくパトカーが到着していました。

市役所では受任相当の案件がなかったので(無料相談あるある)、この方々に名刺を渡して「じゃんけんで勝った方(或いは、被害者かつ弁護士費用特約に加入している方)が依頼して下さいね」と営業活動したい衝動に少しだけかられましたが、遺憾ながら自粛しました。

戦勝祈願の聖地・洗足池にて一句

昨年末に東京に数時間だけ赴く機会があり、東急目黒線方面に所用があったので、ついでに、20年前に住んでいたエリアから自転車で行ける距離にあったものの、行き損ねていた洗足池に立ち寄りました。

というわけで、長年行ってみたかった近所の名所にようやく訪れ、余計なことも考えつつ一句

洗足池 ボクの専属どこへやら
風と雲 鏡に映す 先祖供養

洗足池には、源義家にゆかりがある千束八幡神社がありました。昨年は大河ドラマの関係で「武衛」が流行語になりましたが、佐藤浩市氏は「炎立つ」で源義家を演じていました。

旗揚げは今も昔も千束で

敷地内の神社の説明によれば、千束は、源平合戦の華の一つ、宇治川の先陣争い(名馬・池月と磨墨の物語)と深い繋がりがあるのだそうです(引用した、個人の方?のブログを参照)。
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/ikeduki-douzou/
https://www.yoritomo-japan.com/ikegami/senzoku-ikeduki.htm

年の瀬に勝ちどき願う池の月

ともあれ、来年もその先も、私も家族も、それぞれの闘いに全力を尽くしていきたいものです。写真をご覧になりたい方は、FBをどうぞ。

今年の石割桜が見届けた事件たち

盛岡も石割桜が満開となり、快晴の中、多くの観光客が訪れていました。

そんな日に限って午前に調停期日があり、諸事情により直ちに調停が成立し終了するかと思ったのですが、毎度ながら延々と待たされ、結局、毎度ながら2時間以上(うち1時間半くらいが待ち時間・・)という有様でした。

色々と悩ましい事件で、依頼主が複雑な思いを伏せつつ窓の外を向いていた横顔に、代理人として何をすべきか、何ができるか(できたか)、考えずにはいられないものがありました。

午後には、盛岡圏内で生じたビジネス上のトラブルに絡んで、ある大企業に契約違反などを理由とする損害賠償請求をしている裁判の期日がありました。

軽口好きの身には、盛岡地裁が1年で一番華やぐ日に東京から出廷した相手方代理人に対しては、訴訟での対決はさておき、とりあえずラッキーでしたねと言わずにはいられない面があります。そんなわけで一首。

先方に今日が期日でよかったねと毎年述べる地元弁護士

ただ、去年の同じ頃に期日があった事件で遠方から出廷した相手方代理人は、そんな私のセリフに破顔一笑していましたが、今年の相手方代理人の方からは「お前は何を言っているんだ」と言わんばかりの仏頂面でサクッと黙殺されてしまいました・・

で、法廷の帰りに「桜に興味がないのかなぁ、これだから企業法務中心の大事務所の人は・・」などと独り呟いたところ、危うく裁判所の階段を踏み外しそうになりました。

私がもっと元気よく話せば言わんとすることが伝わったのかもしれませんが、ともあれ、つまらない愚痴などを言っても我が身に跳ね返ってくるばかりなのでしょうから、なるべく前向きに生きたいと思います。

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このおうちの変と北奥のボソっと道

本ブログを何度もご覧いただいている方はご存知かと思いますが、私は時折、短歌(狂歌?)や川柳(俳句?)の真似事をするのが現在のささやかな楽しみになっており、奥のほそ道に倣って多少の文章を書いた上で一句(一首)を載せるのを常としています。

といっても、学校の国語の時間以外に短歌や俳句などを勉強したことはもちろんなく完全な自己流なので、その種の教養のある方にとっては見苦しい限りなのかもしれません。

ただ、短歌であれ川柳・俳句であれ、特別な技量や素養のある方々の世界を大切にしつつ、「防人の歌」のように一般大衆が素朴に感じたこと、考えたことを表現したり、そのことにより時代を何らかの形で映し出すような営みが盛んになって良いのではないかと思っており、そうした理由から、敢えて厚顔無恥ぶりを発揮して、今後も気に入ったものが出来上がれば、懲りずに投稿し続けたいと思っています。

今も昔も、功成り名遂げた立派な弁護士さんが回顧録などを出版なさる光景をよく目にしますので、いつの日かそうした方々に対抗?して「北奥のボソっと道」などと題し、ブログで掲載した短歌や川柳を文章を添えて出版してみたい・・などと妄念に囚われないこともありませんが、一笑に付されるだけというのが関の山でしょう。

というわけで、連歌?を気取るわけではありませんが、先日思いついたものを何点か。

家事はいま 私せんたく 妻はネコ 鈴の音で知る このおうちの変

カビ落つる クーラーの風せきとめて

網戸ふき 今年の手相も黒一色

教育の抗弁 こちらに勝ち目なし

今宵また家と事務所の天の川 共にソファで仰ぐ星空

余談ながら、5月に旅先で芸能人の方々が俳句の腕を競い合う「プレバト!!」なる番組を始めて知りましたが、夏井先生の添削シーンを拝見しながら、私はどうしても理屈がちで言葉がほとばしるような作品は作れないので、せいぜい凡人2位止まりだろうと痛感せざるを得ませんでした。