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映画評

神も依代もやがて去りゆく社会の中で、君たちはどう生きるか。

先日、宮崎監督の最新(最後の?)映画を拝見してきました。

ラピュタのような爽快で分かりやすい冒険活劇を期待する方には不満が残るかもしれませんが、トトロ以降の宮崎作品の系譜に沿う文学的なメッセージを期待する方には満足できるもので、世間で広く言われる集大成としての演出表現や映像美なども含め、TVで見るよりも劇場でご覧になった方が良い作品だと思います。

以下、ネタバレを避けつつ、未見・既見の双方に向けた、「Web上、まだ誰も言っていない(かもしれない)考察」を含めた感想を書きます。

ここでは、小難しいことを色々と書きますが、最初に述べておくと、監督は、あくまで、この作品を

子供達が、自身の内的世界(子供心の空想等)を大事にしつつ、最終的には社会に前向きに向き合い、社会内で自分らしさを発揮し活躍すること

を願って作ったものである(そのメッセージがメインである)ことは間違いないと思います。

が、爽快な活劇ではなく全般的に不穏で文学的な空気が漂い、後記のとおり、現実社会での大きなテーマを様々な隠喩を用いて問うものとなっており、私自身は従前の作品より文学・思想としてのテーマ性が強調されているように感じました。

***

この作品が前半部分と中~後半部分に分かれている、という程度のことは、ここで書いても叱られないと思いますが、前半部分の多くが、よく言えば穏やかで落ち着いた、悪く言えば間延びした印象を受けるもの(あの映画の第三村のような感じ)となっています。

ただ、非常にセリフ・説明が少なく、言いたいことは映像表現で読み取って下さいと言わんばかりのシーンが続く上、全般的に不穏な空気が漂っているので、私は、この前半パートは

盛岡を舞台とする芥川賞作品の映画「影裏」

に、雰囲気が似ている感じがしましたし、「この作品は純文学です」と随所で述べているように思いました(なので、小さな子供はここで脱落するかも・・と少し思いましたが)。

そして、前半の最後、ある登場人物が、なぜそんなことをしてるの?という行動を始めてから(及び主人公があるモノに接してから)物語が一気に動き出すのですが、私は、これを見た瞬間

この作品の元ネタって、○○(仮称・古典A)なのでは

と思いましたし、その後(中盤~後半の展開)も、その印象どおりと言ってよい流れになりました。

(本文では名称を省略します。日本人なら誰もが知っているはずですが、ほとんど誰も読んだことがないアレです。知りたい方は、末尾を見て下さい)

ですので、事務所に戻ってから真っ先に映画名と古典Aで検索したところ、予想どおり、同種の感想を書いていた人が多数いました(他に、元ネタとされる外国小説?もあるようですが、私は全く存じません)。

***

ただ、古典Aが元ネタだと言うだけでは、この映画が詰まるところ何を言いたい作品だったのか、何の説明にもなりません。

この点、先日、小説「君たちはどう生きるか」について、思想家の浅羽通明氏が、

これは、近代から戦前までの世界を覆った二つの潮流のいずれを戦前日本が選択すべきかという思考実験を、知的エリートたる若者達に問うた作品である。

すなわち、仏革命思想に起因するボナパルティズム(中世ヒエラルキーを否定し、民衆の熱量で指導者を推戴し社会を再構築する思想=下からの支配)の延長又は変異体としてのファシズムと、共産主義(知的エリートの叡智を結集し、社会的不合理を是正する理想社会を構築しようとする思想=上からの支配)のどちらを世界が選択すべきかという知的闘争を描いた物語なのだ。

と論じていたことを、ブログでも紹介しました(引用記事)。
思想や情念が対立する社会の中で、君たちはどう生きるか | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

その話を宮崎監督がご存知だったか(原典たる吉野氏作品に対し、そのような解釈をしていたか)は全く不明ですが、私は、この映画の制作が発表されたときから、少なくとも、

君たちはどう生きるかというタイトルを冠する以上、監督は、原典に何らかの思想性があることを熟知した上で、ご自身なりの思想的テーマを必ず掲げようとするはずだ

と思っており、それを見抜きたい、というのが私の本作の鑑賞目的でした。

***

で、最後まで拝見した上で、私が結論として思ったのは

この作品は、国体すなわち天皇制の存続(象徴天皇制の終焉)をテーマとしているのでは?

というものです。

これも、抽象的なことしか書けませんが、私は、ラストシーン(直前を含む)は、単に、

あの出来事が終わった

ことを示すだけでなく、現代を生きる我々にとって天皇制を続けることができるか(続けてよいのか)を問うメッセージが含まれているのではないか、というのが、私の解釈となります。

なぜなら、この物語では、

「世界の安定や安寧を守るための存在」

が登場しますが、これは、日本においては、天皇以外にはあり得ません。

そして、この物語では

「その立場を引き継がされるかもしれない人達」

が登場しますが(敢えて複数にしています。既見の方は、ぜひお考え下さい)、それって、将来、天皇の立場を引き継ぐことを宿命づけられた方々(現実の特定のどなたかではなく、一般名詞としての)の隠喩ではないでしょうか。

そして、現代を生きる我々は、天皇が、(敢えて戦前の言葉を使えば)崇高で神聖不可侵な権威(現人神)としての意味を持つ存在であると同時に、

社会(国民総意・国民統合)のため様々な役割を強いられる、気の毒な依代(人柱)

という面が否めないことを、よく分かっているはずです。

そのことと、本作の後半に描かれた主人公と主要人物を巡る葛藤ないし対決は、どことなく親和性があるように思われるのです。

そのような観点から本作を改めて思い返すと

我々日本人が、天皇制を続けることができるか・続けるべきなのかという、現代日本で最も重く、誰もが直視せず先送りしようとするテーマに取り組んだ作品なのではないか

という印象を受けますし、主人公が最後に行った選択も、現代日本人からは、当否云々はさておき非常に重いもののように感じる面もあります。

それゆえ、上記の浅羽氏の解釈に照らせば、本作は原典=吉野本に勝るとも劣らぬ、現代に相応しい重い思想的テーマを扱い、描ききった力作なのでは、ということができそうに感じました。

まあ、私がそう思いたいだけなのかもしれませんが。

***

ちなみに、本作では擬人化された生物による様々な醜悪ないし滑稽な場面が描かれていますが、これも、戦中(戦後も?)日本の隠喩だと捉えれば、

実社会パートで当時の美しい日本を描きつつ、背後にある(日本人の)醜悪さも擬人化の手法で描いた作品

と解釈することができるでしょう。

この文章では、主人公が前半で行った「彼はなんでそんなことしたの?」という場面についての解釈などは何も触れていませんし、あのシーンが上記の解釈と関係するのかそうでないのかも分かりません。

というわけで、上記の妄想とは異なる説得的な作品の解釈がありましたら、ぜひ伺ってみたいものです。

君たちはどう生きるか。

ご覧になった皆さんの心には、何が残りましたか?

ちなみに、我々が天皇制を続けることができるか、というテーマでは、昨年末に安倍首相の国葬を題材に大長文を投稿したこともあり、興味のある方は、こちらもご覧いただければ幸いです。
安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第4回) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

(追伸)
この投稿を掲載した後、旧ツィッターで「君たちはどう生きるか 天皇」と検索したところ、本作品と天皇(制)との関係性を指摘した投稿が幾つかあるのを拝見しました。映画を拝見した直後には、同じ文言で検索しても記事は全く出てこなかったので、Web上で誰も言っていないと書きましたが、案外そうではありませんでしたね・・

ただ、現代における天皇制の存続との関係性を論じた投稿は見当たりませんでしたので、その点は、私の解釈にオリジナリティがあるかも?です。

ともあれ、リアルな世界でこうした議論を交わせる相手に恵まれない日々を送っていますので、自分が考えたキーワードで検索し、同種のことを投稿されている方を発見したときは、多少とも嬉しくなりますね。

おんな達を人間にした、山と医療の光と影

6月末から遠野物語に着想を得た映画「山女」が公開されるとのことで、幾つかのWeb記事を拝見しましたが、できれば見てみたいと思いました。
福永壮志監督 × 山田杏奈主演、『遠野物語』から着想した「山女」。本予告など公開(キネマ旬報WEB) – Yahoo!ニュース

舞台が早池峰山の麓なので、岩手の寒村と言った方がよいのではと思いましたが、敢えて東北と表現したい理由があったのかもしれません(設定された時代が明治以前だからという理由なら、幕末に成立した東北という言葉ではなく、奥州=陸奥国と呼んでいただきたいですが)。

それはさておき、この記事では、予告編で主人公が死亡した嬰児に「次は人間に生まれないで」と告げながら川に流す映像が紹介されていました。

死因は予告編からは分かりませんでしたが、私が映像を見て思い浮かべたのは、当時の岩手の農村部では乳幼児の死亡率が著しく高く、それを昭和初期~前期の時代に様々な方が苦労して克服した、という点でした。

そのテーマでは沢内村の深沢村長が有名ですが、同じ時期に岩手では小規模自治体を含めて多数の県立病院が県内各地に建てられており、これは岩手県の初代民撰知事(戦後の知事)である國分謙吉(二戸出身)が推進したとも言われています。

医療の普及は、病苦からの解放というだけでなく、迷信等に由来する悪しき民間療法のような様々な不合理・非科学的な習慣を克服する面もあったでしょうから、県立病院の整備などを通じて「田舎の集団心理(ムラの論理)に起因する悪しき旧弊」が解消される効果があったと思われます。

この映画では「この山で私は人間になれた」というキャッチコピーが用いられていますが、当時のムラ(里)の世界が、多くの不合理な因習を抑圧的に強要する面があった(反面、服従の対価として集団内では位階に応じた庇護を受け相互扶助に浴した)ことは間違いないはずです。

ですので「山女になる」とは、ムラの論理から解放される=剥き出しの厳しい自然に独力で対峙を余儀なくされる代わりに、自然固有の論理(合理性)を理解し使いこなせるのなら、ムラ(帰属集団)よりも遙かに自由に、心のままに生きることができることを、このコピーは意味しているのでしょう。

そして、その言葉は、当時のムラに限らず、現代社会に生きる我々も、自身が帰属する様々な集団内に生じた非合理な抑圧(集団心理)に晒され、或いは依存したり、主人公のような内部の異端児を排除抑圧し、または自身が排除抑圧されながら生きているのではないですか?(貴方はそれでいいですか?)というメッセージも含んでいるのだと思います。

***

ところで、以前に投稿したとおり、私は現在、旧岩手県立病院が行った医療系廃棄物の大量埋設を原因とする岩手県庁などへの損害賠償請求訴訟を原告代理人として担当しており、その訴訟を通じて、今から数十年前に県内各地で行われた旧県立病院群での病院廃棄物埋設問題について、同種被害の再発を防止するため本格的な実態調査などが必要ではないかと提案しています。
岩手県立病院の跡地群での医療系廃棄物の大量埋設問題に関する県民への問題提起 | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

(岩手弁護士会が会長声明なり意見書なりを公表すべき問題だとは思いますが、当事者代理人の私が要請しても無用の誤解を招きそうなので差し控えています。お偉いさんの後押しでもあれば、訴訟に触れない形で起案するのですけどね・・)

そのため、私が旧県立病院を敵視しているように感じる方もおられるかもしれませんが、上記のとおり、当時の県庁が旧県立病院群の大量設置を行ったのは、医療の普及と人命保護などは言うに及ばず、山村の人々を様々な陋習から解放するのに役立ったと考えており、そうした役割・成果は強く認識されるべきでしょう。

だからこそ思うのです。
光あるところ影あり。光強ければ影もまた濃し。

当時の時代背景に由来する旧県立病院の医療廃棄物の大量埋設問題とは、詰まるところ旧県立病院の果たした役割と表裏一体ではないかと。

そうであれば、現在の社会でも、社会や人命などを守る掛け声のもと行われ有意義なものと称賛された大規模公共事業などが、後年に巨大な負の遺産として人々を苦しめるという展開も生じてくるのかもしれません。

素人目には、防潮堤やメガソーラーなどが、その例になりそうな不安を感じますし、これからもそうした話が出てきそうな気もします。社会内で膨大に使用されるプラスチック関連製品なども、その典型なのでしょう。

今の社会を運営したり公金などを動かしている方々には、そうした事柄も考えて対処いただければと思っています。

 

東大全共闘が問うた三島由紀夫の自然観と、豊饒の海へのもう一つの道

先日(11月25日)は三島由紀夫の命日(三島事件の勃発日)とのことですが、数ヶ月前、彼と東大全共闘の討論を収録した映画を拝見しました。

冒頭で、三島由紀夫が人間の意思とエロティシズムの関係性を論じる一幕があり、そのあたりは言葉としても分かりやすく、それが三島文学の核心ではと感じていたこともあり、エロティシズムなんて言葉を聞いた懐かしさ(大学以来)もあって、聞いていて心地よい面がありました。

(要は、互いに相手を尊重し自由に生きたいはずの人間同士が、一方が他方を抑圧したり相手もそれを受け入れずにはいられない精神性を抱えており、そうした倒錯や奇形が出現する光景の中に潜む人間の心をゾクゾクと刺激し時には美しいとすら感じさせる得体の知れない何かを追求しているのが三島文学では、との理解によるものです)

反面、その次のパートで、「人間と自然との関係について論じて欲しい」という学生からの要望があったのですが、それに対する三島の回答は、「風光明媚な光景だけでなく都会のビル群もまた自然だ」「機動隊の制圧行為(のような人間の営み)も自然の姿の一つだ」などというもので、陳腐というか、はぐらかしているだけのような、聞いていてつまらないと感じるものでした。

そのため、東大全共闘側は、討論で打ち負かしたいとの気概で招聘したのでしょうから、ぜひ、このテーマ(自然観)を深掘りすることで三島を追い詰めて欲しかったのですが、上記の質問をした肝心の学生さんからはその後に発言がなく、そのテーマはそこで終わりとなったので、その点は残念でした。

その後は、全共闘随一の論客を自負する御仁が、いかにも当時流行りのマルクス主義的な用語を連発して別の議論を始めて、三島もそれに応戦して論客氏との難解(あるいは不毛・グダグダ)な討論が続いたので、パフォーマンスはともかく中身の面では感銘を受ける面は少なかったと思いました。

(論客氏はインタビューで現在も壮健な姿を披露されており、言説云々はさておき行動の面では三島と同じ「自分の看板で世間と闘う」人生を続けたのはこの方のみでしたので、その点は大いに感銘を受けましたが)

終盤の三島の天皇論は引き込まれるもので、学生側が内実ある応戦ができず独壇場となったことも含め、相応に見応えがありました。

ともあれ、作品を通じて最も感じたのは、人間や人の営み(国家など)の精神性に対する故人の洞察の深さ・感性の鋭さと、それと対をなす「人にあらざる存在への関心の低さ(のようなもの)」という点でした。

三島文学は、しばしば高度に技巧的であるとか、悪く言えば人工的で作り物のような印象を受けるなどと言われますが、そのことと、映画で受けた故人への印象には、通じる面があるように感じました。

それと共に、三島由紀夫が、いびつさ・厄介さを何らかの美意識と共に抱えずにはいられない人間の精神と、それらを包み込む「人にあらざる存在の世界」との関連性、後者が前者を包摂し、時に後者が前者を生み出し、苦しめ、救済し、或いは双方が互いを刺激し、新たな可能性を切り開くような光景にもっと着目していただければ、彼はあのような結末を迎えることなく、別の形で「豊饒の海」に辿り着くこともあり得たのではと感じる面がありました。

***

故人は最後に、私は諸君の熱情を信じます、これだけは信じます、と言い残して去って行きます。

この言葉が作品のハイライトでもあり、今もなお、様々な立場にかかわらず三島を思い、何かを語るという形で人々を共闘に導いているのだと思います。

十数年前、詩のボクシングという番組がTVで取り上げられていたのを見たことがありますが、本作はそれに類するように感じました。

東大全共闘は三島由紀夫と熱情をぶつけ合うことを通じ、多くの面々が当たり前の日常、真っ当な人生に回帰できた。その機会を得られなかった多くのロシア人は、プーチン達に言われるがまま今も悲惨な戦場に盲目的に赴いている。

この二つの落差を次の世代に伝えていくことも、我々に課された役割の一つなのかもしれません。

作品をご覧になった皆さんの心には、何が残りましたか?

 

芥川賞受賞作「影裏」の映画試写会の感想と、現代に甦る三島文学の世界?(改)

昨日、芥川賞受賞作を原作とする大友啓史監督の映画「影裏」の完成披露試写会が盛岡市内で行われ、とある事情により招待券をいただいたので、拝見してきました。司会の方によれば、一般向けの試写会はこれが初めてとのことです。
https://eiri-movie.com/

冒頭に主演のお二人と監督のご挨拶もあり、ご本人達のオーラもさることながら、職人気質の優等生的な綾野氏と不思議ちゃんキャラの龍平氏が対照的というか、作品とも通じる面があり、興味深く感じました。

作品の説明は省略しますが、純文学そのものという印象の原作を忠実に映画化した作品という感があり、(見たことがありませんので何となくですが)昔でいうところの小津映画のような作品なのだろうと思います。

言い換えれば、ブンガクの世界に浸ることができる人には見応えがあり、そうでない人にはとっつきにくい面はあるかもしれません。

ただ、(ネタバレは避けますが)冒頭の主人公の自宅の描写(映像)にやや面食らうところがあり(作品のテーマを暗示しているわけですが)、綾野氏ファンの方や「筋肉体操の方々よりも細身の男の生々しいカラダが見たい」という方(おばちゃんとか?)にとっては、必見の作品ということになるかもしれません。

全くそうではない私のような者には冒頭は少ししんどいですが、目のやり場に困ったときは、カルバンクラインの文字だけご覧ください。

この作品では主人公が抱えた特殊な事情が重要なテーマになっていますが(原作を読む前からWEB上で散々見ていたせいか、初稿では自明の話と思ってストレートに書きましたが、同行者から「それこそネタバレだ」とクレームを受けましたので、一応伏せることとしました)、小説よりもその点が生々しく描かれているというか、主人公のキャラクターや振る舞いは、流行りのアルファベットよりも、その点について日本で昔から使われている言葉に馴染むような気がしました。

と同時に、もう一つの軸は、震災というより、相方である龍平氏演じる男性の特異なキャラと生き様であり、それを一言で表現すれば、「虚無(又は滅びへの憧憬ないし回帰)」ということになるかと思われます(この点も書きたいことは山ほどありますが、一旦差し控えます)。

で、それらのテーマからは、かの三島由紀夫が思い浮かぶわけで、小説版ではその点を意識しませんでしたが(そもそも、私は三島作品を読んだことがほとんどありません)、映画の方が「三島文学ちっく」なものを感じました。

とりわけ、本作が「主人公たちが無邪気に楽しむ岩手の自然や街並みの風景」を美しく描くことにこだわっているだけに、「文学的な美」という観点も含めて、この映画は、意図的かそうでないか存じませんが、「生きにくさを抱えた美しいものたちと、それらが交錯する中で生まれる何か」といった?三島文学的な世界観を表現しようとしているのではないかと思う面はありました。

もちろん、「若者は、本当に好きな人とは結ばれず、折り合いがつく相手と一緒になるだけ」というオーソドックスな(ありふれた?)恋愛映画との見方も成り立つでしょうから、そうした感覚で気軽に楽しんでもよいのではと思います。

私は昨年に原作を読みましたので、原作との細かい異同を垣間見ながら拝見しましたが、同行者は全く原作を読んでおらず、「一回で理解しようとすると疲れる映画」と評していました。この御仁が「ここはカットしても(した方が)よい」と述べたシーンが幾つかあり、それが悉く原作にはない映画オリジナルのシーンでしたので、その点は、同行者の感性を含めて興味をそそられました。

個人的に1点だけ不満を感じた点を述べるとすれば、龍平氏(日浅)にとってのクライマックスシーンで、「あれ」を全面的に描かないのは、ストーリーの性質上やむを得ないとは思うのですが、できれば、直前ギリギリまで、言い換えれば、引き波が姿を現す光景までは、主人公の想像という形で構わないので、描いて欲しかったと思いました。

原作には、主人公が、日浅の根底にあるメンタリティ(倒木の場面で交わされた言葉と思索)を根拠に、日浅は「その瞬間を自らの目で見たいと思うはずだ」と語り、その瞬間を目にした(直に接したのかもしれない)日浅が浮かべたであろう恍惚の表情を想像したシーンがあったと記憶しています。

私は、巨大な虚無を抱えた日浅が圧倒的な光景の前で恍惚の表情を浮かべる光景(そこには虚無の救済という三島文学論で語られていたテーマが潜んでいるはずです)こそが本作のクライマックスではないかと思っていましたので、その点が映画の中でストレートに描かれていないように感じたことには、映像化に難しい面があるのだとしても、少し残念に思いました(日浅の思想自体は、映画のオリジナルシーンで、ある人物が代弁しています)。

とはいえ、「性的な面が意識的に描かれる主人公と、全く性の臭いを感じない日浅」という点も含め、作品全体を通じて不穏・不調和な雰囲気が漂う本作は、通常の社会内では品行方正に生きているのであろう主人公が抱えた「本当はこの社会が自分には居心地の悪い世界だということ」、そして、主人公にとっての平穏ないし救いもまた、社会の側(映画を見る側の多数派)にとって、どこか居心地が悪く感じるものなのだろうということを、主人公のコインの裏側のような存在であるもう一人の人物(本当は社会と不調和を起こしている主人公の代弁者のような役割を担っているように見えます)にとってのそれも含めて映像として描いている作品であることは間違いなく、大人向けの純文学の映画としては、十分に見応えがあるのではないかと思います。

ちなみに、この映画は、とある理由で、中央大学法学部のご出身の方には、ぜひご覧いただきたいと思っています。そして、この大学(学部)のカラーが「やるべきことを地味に地道に積み上げて、あるべき場所に辿り着く職人」だということを知っている人には、この映画のあるシーンを見たとき、敢えてウチの看板が使われたことの記号的意味に想像を巡らせながら、苦笑せざるを得ないものを感じるのではと思います。

原作では、大学名が出ず法学部政治学科とだけ書かれていましたが(映画では学科の表示があったか覚えていません)、それだけに、中央大学法学部政治学科卒で、しかも心に何らかの虚無を抱えて生きるのを余儀なくされている?ホンモノの岩手人としては、余計なことをあれこれ考えさせられる面があったように思います。

あと、せっかくなので、ご覧になる際は、エンドロールを最後の方まで目を凝らしてご覧くださいね、というのが当事務所からのお願いです。

余談ながら、試写会なるものに参加したのは初めてですが、終了時に関係者の方から「これで終了です。ご来場ありがとうございました」のアナウンスがあった方がよいのでは?と思いました(終了後も何かあるのか、そうでないのか分からず、帰って良いかそうでないのか判別しかねますし、試写会なので、最後に関係者の一言で皆で拍手する?といったやりとりもあった方がよいでしょうから)。

最後に、私の密かな野望である「大戦の戦渦からシンガポール植物園等を救った田中舘秀三教授の物語」の映画化は、いつになったら実現できるのやらという有様ですが、大きな代償と引き換えに?、某プロデューサーさんによれば、企画案自体は監督にも伝わったとのことです。願わくば、「男達の熱い物語」の作り手として現代日本に並ぶ者がないであろう大友監督の作品として、いつか世に出る日が来ればと、今も岩手の片隅で願っています。