北奥法律事務所

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書評

思想や情念が対立する社会の中で、君たちはどう生きるか

大学2~3年頃の私は、浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」シリーズを片手に、同書が薦める膨大な書籍群を古本屋に探しに行くような日々を送っていました。

そのリスト群に「君たちはどう生きるか」も含まれており、当時購入していましたが、後回しにしたまま現在に至っています。

ただ、昨年頃、久しぶりに浅羽氏の著作が読みたくなり、

「君たちはどう生きるか」集中講義

なる本を見つけたので、購入して一気に読んでしまいました。

私は数年前に一世を風靡した「君たちは~」の漫画版も読んでおらず(子供に見せようと思って買ったものの誰も読んでない、がっかり家族・・・)、プレイ前に攻略本ばかり買いたがる、駄目ゲーマーのような人生というほかありません。

ともあれ、浅羽氏の本は、

「このマンガは、主人公にとって色々な意味で「萌え~」になる原作の憧れのヒロインを登場させなかった、ろくでなしのク○本だ!」

との一喝から始まり、諸々の理由から、

「君たちはどう生きるか」とは、子供のいじめや悔恨だけをテーマとするような、底の浅い(説教じみた)物語なんかじゃない、

ロマン溢れる革命思想(皇帝推戴を到達点とするボナパルティズム?)≒ナチス等に悪用される以前の善良?なファシズムの代弁者としてのヒロインと、人類社会全体の調和を目指す理性的な合理主義=ソ連等のインチキ共産主義ではない、本物のマルクス主義?の担い手としてのおじさんの二人が、主人公コペル君(戦前日本の進路)を取り合って争う、天才達の壮大な恋愛頭脳戦・・・もとい、思想対決の物語だ

(そして、それは、たぶん、今も形を変えて続いている)

という、独自?の解釈を展開したものとなっています。

このような話を聞いて興奮する人はどこにもおらず、大半はドン引きするか、珍獣として面白がるか、というのが世の常かとは思いますが。

ともあれ、先般公開された巨匠制作の同名タイトルの映画を今後ご覧になる方々も本書を一読されてみてはと思い、田舎の珍獣のはしくれとして、紹介させていただきました。

 

インターネットを通じて著名人からブログにコメントを頂戴した件

2年前、事務所Webサイトの仕様変更(http→httpsの切替)を依頼した際、副作用?で、検索で相応に登場していたブログの記事がWeb上で全く検索されなくなり、Web世界の彼方に消えてしまうという悲しい出来事がありました。

自称・代表作であるJCIクリードと日本国憲法の関係を書いた記事など、検索上位に表示される投稿が幾つかあったため、しばらくは枕を涙で濡らす日々を送りました。

で、せめてもの悪あがきとして、昨年、昔書いた記事を読み返した際、誰か見てくれればと思ってツィッター上に掲載するセコい作業をこっそり行ったことがあります。

すると、宮崎監督と庵野監督の作品思想の違いについて論じた記事で引用した、ある著名人の方(浅羽通明氏)からツィッター上でコメントをいただいたので、大変仰天しました(1年以上前の出来事で、当時、FBには載せたのですが、ブログに掲載するのを失念していました)。

同世代の方で、若い頃、思想・哲学など「知の世界」に憧れを抱いたことがある方なら、浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」三部作などをご覧になったこともあるかもしれません。

私は学生時代にこの本に強い影響を受け、今も、歪な自我を抱えた者だからこそ社会に役立てる「何か」もあると信じて、町弁のはしくれとして田舎の片隅で地を這うような悪戦苦闘の日々を送っています。

面識等はもちろんありませんが、私にとっては知の世界に触れる機会を与えていただくと共に、学生時代に道を違えずに済んだ、或いは真っ当な路線に辿り着く原動力を頂戴した恩人のような方だと思っており、それだけに

「長生きはしてみるものだ、たまにはいいこともある」

と、天に感謝した次第です。

先日も、浅羽氏が執筆された「『君たちはどう生きるか』集中講義」を拝読し、マルクス思想をテーマとする点では「人新世の資本論」と共通するものの、総論ばかりで有意な各論(実践論)が伴わないと感じた後者よりも遙かに具体的・実践的で面白い(マルクス思想は革命=権力闘争の思想と実践が伴わなければならず、そのことに正面からきちんと触れている)と、改めて浅羽氏の「読ませる力」に圧倒されました。

また、浅羽氏が現代の様々な社会事象に鋭い分析・解釈を示した新たな書籍を世に送り出して下さる日を、心より楽しみにしています。

 

三島由紀夫が問う虚無と抗いの海、そして真っ赤な僕~南伊豆編おまけ~

前回までの南伊豆編のおまけ(後日譚?)です。

1泊2日の旅行は無事に終わりましたが、前回述べたとおり、これまで全く考えたこともなかった三島由紀夫という存在が、偶然手にした本の影響で気になるようになり、帰宅後もあれこれ調べるなどしていました。

ただ、当然ながら、調べれば調べるほど、どうして彼があのような最期を選んだのか、もったいないというか訳が分からないというか、

自我に何らかの脆弱さを抱えた御仁が、自分自身の存在(肉体改造云々)を含む創作活動による一定の達成感のあとに強い虚無感に襲われ、それに抗うように命を絶った、他方で、優れた知性の持主として、どうせ命を絶つなら後世への問題提起をかねて、強い非難を浴びるのを覚悟の上で、人々が関心を持たずにはいられないような、大きな見せ場、舞台を作った

などと、一応の説明はつきそうな気がするものの、そのことに得心する気にもなれず、とりあえず深夜の「息抜き(仕事の気力切れ)時間」にネット上で気になった記事を読み漁るような日々が続きました。

相変わらず、文体の流麗さで知られた三島作品を読みたいという気はさほどに起きず(今も読んでません)、現象としての三島由紀夫の人生という面にのみ、固執していたように思います。

その理由は、自分の中では、はっきりと分かっています。

今の私には自殺願望は恐らく全くありませんが、何か本質的な部分で「もう、終わりたい(自分という存在は、もう終わってもよいのではないか、或いは、もう終わったのではないか)」という囚われのようなものがあり、早熟な華々しい成功のあと、突如、強烈かつ不可解な印象を残して45歳で人生に幕を閉じた三島の姿に、ある種の憧憬を感じたからなのだと思います。

私は大卒2年目で奇跡的?に司法試験に合格し、数年ほど東京で修行した後「自分で敷いたレール」のとおり盛岡で開業し、色々と悪戦苦闘はありましたが、十数年に亘り、どうにか事務所を維持存続させてきました。別に、有名人になったわけでもなく、人に自慢するような業績をあげたわけでもないでしょうが、本業で粛々と積み上げてきたことについては、誇りがないわけではありません。

田舎の小さな商家の次男として生まれ、運動能力には極端に恵まれず、その一方で、小さな田舎町には収まりきれない自我を抱えた自分は、幼少期から、家でも学校でも地域でも、「要らない子、皆にとって、持て余す(いない方が楽でいい)子」でしたし、そのことは、今もほとんど全く変わっていません。

だからこそ、思うのです。

先ほど、三島事件の「とりあえずの総括」として述べた、

「自我に何らかの脆弱さを抱えた御仁が、自分自身の存在を含めた知的活動による一定の達成感のあと、強い虚無感に襲われる姿」

とは、何のことはない、私自身のことではないかと。

であれば、自分も同じような結末、末路を心の中で望んでいるのか、それができないのは、単に、私が彼ほどの知的能力や人望などを欠いているだけのことに過ぎないのか、それとも、そうではないのか。

前回「自分が45歳になって、また、私的領域では相応の達成感を得た反面、これ以上、本質的な部分で、自分の人生では実現できる何事もないのではと感じるようになった中で、このような形で三島由紀夫と出会ったのは、何らかの意味があるのではないか」と感じたのは、こうしたことが、その背景にあるように思います。

そんな中、社会学者として著名な大澤真幸氏が三島由紀夫を論じた本を出版されたと知り、1年半前(旅行の半年後)の年末年始にようやく読みました。
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0955-f/

この本(「三島由紀夫 ふたつの謎)」は、「戦後日本の最大の知性の一人である三島由紀夫は、一見すると愚行の極みにも見える割腹自殺をなぜ行ったのか」と「最期の大作であり、自決と同じ日に書き終えたと表示されている『豊穣の海』は、なぜあのような破壊的・破滅的な終わり方をしているのか」という2つの疑問への答えを述べることを主眼に、多数の三島作品を様々な哲学的見地から著者なりの論理を駆使して読み解いた内容となっています。

大澤氏の著作や文章は、司法試験受験生時代にも少しだけ読んだ記憶がありますが、思想・哲学に関して「これでもか」と言わんばかりの圧倒的なネタが登場し、少し癖のある文体も相まって、門外漢には敷居の高さを感じる面がありますが、ともあれ、今の自分が知りたいことへの相応の答えが書いてある本なのではと思い、むさぼるように読みました。

筆者が提示した問いへの答えについては実際に本書を読んでいただくとして、私なりに受けた印象としては、当初から、強い虚無感と厄介な自我を抱えて生きてきた三島由紀夫は、自我の奥に潜む光景を洗練された文章で描くことで虚無に抗っていたものの、やがて、執筆ではなく自身の行動の形で「自分が望む洗練された美しいものを描き出すことで、虚無に抗う」ことを求めるようになり、模索(迷走?)の末に一連の活動に行き着いた、しかし、最期には、それらの清算と「海」として観念された虚無への回帰(波打ち際から海へと引きずられ連れて行かれること)を願い、それを二つの形で実行した、というのが、著者が描いた三島の姿のように見受けられました。

もっとも、著者は「自決は虚無への抗いである」と述べていますので、そのような読み方は間違っているのかもしれません。私自身は、抗うのならば生き続けなければならないのと思うので、その総括に違和感を感じているのかもしれませんが。

その上で、著者は、海(それは、宮沢賢治の言葉を借りれば「世界全体」というべきものかもしれません)を不毛の海、虚無の海とみるのであれば、それに抗うために「火や血」という手段(それは、自我の発露ないし表現と見るべきかもしれません)により自決を伴う政治的主張をすることには、その行為(破壊)による幻想の出現という効果に照らし、相応の理由があると感じることはできるとしつつ、それは三島が本当に望んでいたことではない、彼は、枯渇することのない本当の『豊穣の海』を望んでいたはずであるし、その豊穣の海、それは、決して居心地のいい場所ではなく、掴み所のない、訳の分からない世界(本書の表現を借りれば、「一があるわけでも、ないわけでもない」世界)かもしれないが、それゆえに無限の可能性がある世界なのであり、我々はそれをこそ追い求めるべきではないのか、という(そのように読み取れる)趣旨のことを述べて本書を締めくくっています。

その総括を受けて、今、私が何を考えるべきか、何を書き、行動すべきか、まだ答えは出ません。結局はいつもどおりの「終わらない日常」に回帰していくだけかもしれません。

それでも、まだ人生を終えたいと思っているわけではない自分のこれからを考える上で、このタイミングで、このような思索の機会を与えられたことは、大いに意味があったのだと思います。

なお、本書では晩年の三島が天皇制や自衛隊(と憲法改正)に固執した件についてはほとんど触れていませんが、現在の天皇家が、国民の強い支持を得る一方で「男系男子による承継」という点では厳しい状況を迎えている(女系天皇も旧宮家も現時点で国民の支持が得られるのか不透明で、そのような意味では日本は国体維持の危機を迎えたと言って過言ではない)光景は、三島の戦後天皇制批判と微妙な連関があるように感じ、そのような観点から「三島による天皇論」を再検討する論考などに接することができればと思ったりもしました。

余談ながら、三島由紀夫の作品群のあらすじなどをWeb上で読んでいたところ、代表作(人気作品)の一つである「潮騒」の内容が、その雰囲気も含めて、前年に読んだ司馬遼太郎の「菜の花の沖」の冒頭部分(高田屋嘉兵衛と妻おふさとのなれそめの下り)とそっくりだと感じました。

菜の花の沖は1979年から執筆された作品ですので、ひょっとしたら司馬氏は潮騒から強い影響を受けて、二人の馴れ初めを書いたのかもしれません。

ともあれ、大澤氏が分析する「厄介で難解な三島由紀夫」も噛み応えがありますが、前回ご紹介した横山郁代氏が描いた「颯爽とした暖かい三島由紀夫」、言い換えれば、潮騒(≒菜の花の沖の第1巻?)のような瑞々しい青春小説を描くことができる三島由紀夫もまた、我々には、かけがえのない価値があるように思います。

そうした意味で、この二つの著作をワンセットで読むことも、大いに意義があるのではと思いました。

最後に、南伊豆から帰宅した直後に日焼けに苦しみながら作った替え歌を載せ、一連の投稿を締めくくることとします。

【真っ赤な僕】

真っ赤だな 真っ赤だな
日焼けのし過ぎで 真っ赤だな
全身痛いよ バッカだな
伊豆の日射しを 侮って
真っ赤に成り果てた 白い肌
バッカな僕を 自嘲している

真っ赤だな 真っ赤だな
クリーム塗らずに 真っ赤だな
風呂にも入れず バッカだな
焼け付く砂に 寝そべって
真っ赤な上半身 赤鬼さん
痛みは業の 深さぞと知る

真っ赤だな 真っ赤だな
きれいごとって 真っ赤だな
戦後の平和も 真っ赤だな
三島由紀夫が そう言って
真っ赤になり問うた この世界
真っ赤な嘘は まだそこにある

三島由紀夫が呼ぶ夏~南伊豆編その2~

南伊豆旅行編(2年前の夏)の2回目です。

前回あえて省きましたが、1日目の昼は、下田市内のどこで食べるか全く決めておらず、すでに1時半くらいになっていたこともあって、「コインパークに駐めて適当に決めれば良い」との家族の提案に従い、何も考えずに空いていた市街地の駐車場からペリーロードに向かって適当に歩き出しました。

すると、目の前の建物の2階にイタリア料理風のお店があり、「下田湾のペスカトーレ」などと地元料理風のメニューが書かれていたので、そそくさと、そのお店に入って注文し、まずまず美味しくいただきました。

私は食べるスピードが人より早いので、一人食べ終わったあと、家族が食べ終わるまでにお店の内装などを見回していたところ、カウンター近くに半裸の水着姿でショートヘアーで筋骨隆々とした姿を「これでもか」と見せようとする男性の写真が大きく写った書籍が展示されているのに気づきました。

この業界に身を置いていると、「半裸でショートヘアーで筋骨隆々の姿を自らアピールする男性」といえば、かの有名な岡口基一裁判官しか思い当たりませんので、

なぜ岡口さんがこんなところに?っていうか、写真集なんて出していたのか?

と驚いて手にとったところ、その男性は岡口裁判官ではなく、三島由紀夫でした。

私は、小説を読む習慣がほとんどなく、学生時代は少しは(罪と罰とか人間失格などの超著名本を少々)読みましたが、その程度で関心(執着)が終わってしまい、それ以外は、小説といえば、せいぜい司馬遼太郎(と新田次郎の孤高の人、井上靖の氷壁=登山系)くらいで、あとは全て新書本(論説文)しか読む習慣がなく、現在に至っています。

三島作品も業界人らしく?「宴のあと」は昔々読んだことがあり、率直に面白かったとの記憶はありますが、それ以外は読んでいません。本棚には、浪人時代に古本屋(多摩地区といえば伊藤書店)で購入した「仮面の告白」と「金閣寺」が今もありますが、他の多くの本と同様に眠ったままです。

もちろん、あまりにも有名な「三島事件」は知識としては知っていますし、日本文学史はもちろん思想史上も巨大な存在なのだろうという程度の認識はありましたが、私の出生前の出来事であり、その不可解さ(分かりにくさ)などもあって、敢えて関心を持たないようにしていたように思います。

ともあれ、そのように三島由紀夫について、さほどの事前知識も関心も持つことがなかった私ですが、下田まで来て三島由紀夫か、と不思議なものを感じて、その本を黙々と読んでいました。

その本(三島由紀夫の来た夏)は、三島由紀夫が晩年期の数年間、夏になると必ず家族と共に下田のホテルに長期滞留し伊豆の太陽と穏やかな暮らしを満喫して東京に戻っていく、という姿を描いたもので、三島がその味に感激してマドレーヌを買いにたびたび訪れていた洋菓子店の娘であり、当時は中学~高校生であった著者が、ささやかな三島との思い出を交えつつ、自身が「あの夏」と「自身では到底咀嚼できない三島の最期」を噛みしめながら、後年に米国に渡るなどして様々な事柄を経験し、それらを糧とし逞しく生きていく姿を描いて締めくくるものとなっています。

三島由紀夫の話もさることながら、著者の「おんな一代記」としても十分に読み応えのある本でした。
https://www.fusosha.co.jp/Books/detail/9784594063061

そして、私が取り憑かれたように?黙々と頁をめくっていると、お店の主人と思われる熟年女性が話しかけてきて、「それ、私が書いたものなんですよ」と仰ったので、非常に驚きました。

このお店(ポルトカーロというイタリア料理店)の1階には洋菓子店があり、著作で登場する「三島由紀夫が激賞したマドレーヌのお店(日新堂菓子店)」がそのお店で、著者である「女学生」は、今も、この建物で菓子店とレストランを営んでいる方だったのです。
http://www.at-s.com/gourmet/article/yoshoku/italian/126644.html
http://nisshindoshop.weebly.com/

そんなわけで、何か引き寄せられるようなものを強く感じ、ぜひということで、この本とマドレーヌを購入しましたが(お店でも人数分をいただきました)、このマドレーヌ、お世辞抜きで本当に非常に美味しいです。

そして、このご縁に惹かれるようにして宿で本を読み進めていくと、不思議なことに気づきました。今(旅行時)の私はちょうど三島由紀夫が旅立った年と同い年なのです。

冒頭に書いたとおり、今回、下田に来たのは、黒船絡みの観光と南伊豆の海を見るのが目的で、三島由紀夫という知識も想定も全くありませんでした。

それが、この年に、こうした形で巡り会うこと自体、何らかの「呼ばれた感」を抱かずにはいられないものがありました。そのせいか、この本を読むことに決めた瞬間、自分はこれまで、三島由紀夫という存在自体に、どことなく避けてきた面があるのでは、今こそその存在を見直すべきではと感じるようにもなりました。

そんなわけで、帰宅後も(肝心?の三島自身の著作が後回しになるのは相変わらずですが)wikiなどで三島関係の記事を読みまくり、自分なりに、この「事件(邂逅)」を咀嚼したいと思いました。

その続きは次回に少し書きますが、ともあれ、この出来事が、今回の南伊豆旅行の最大の収穫となりました。

余談ながら、改めて三島由紀夫と岡口裁判官(そして、三島事件と岡口裁判官事件)を比べると、このお二人(二つの事件)には、共通点が多いような気もします。この点は、可能であれば別の機会に。

 

******

というわけで、残りは、当時FBで書いたものを反復するだけの投稿になりますが、2日目は宿の近くの砂浜で読んだばかりの三島由紀夫の裸身を真似て、いい気になって浜辺で寝転んで過ごしました。

弓ヶ浜の焼けつく砂に寝転びて 
見上げる雲と空の深さよ

太陽が眩しいからと 
市ヶ谷で自決したのか あの才人は

打ち寄せる波に向かいて倒されて 
なすすべもなく身の丈を知る

 

その後、車で南下し石廊崎に向かいました。石廊崎は、大学時代に購入した伊豆のガイドブックで見つけて以来、いつか必ず行きたいと思っていた場所で、ようやく来ることができたと、その点は大満足でした。

石廊崎では最初に岬巡りの観光船に乗船した後(高波を理由に西側のメインコースが欠航とのことで、東側のサブコースとなりました)、ビジターセンターに移動しました。
http://izu-kamori.jp/izu-cruise/route/irouzaki.html

西側のコースは蓑掛岩という名勝(奇岩)を往復するものでしたが、海上に鋭い岩が屹立する蓑掛岩の姿は、浄土ヶ浜(剣山周辺)によく似ているように思いました。

また、石廊崎ビジターセンターの雰囲気も、浄土ヶ浜に最近できたビジターセンターに似ています。ただ、こちらの方が名物を提供する良好な飲食施設等も設置されているので、浄土ヶ浜よりも有り難みがあるように思いました(伊豆ゆえの集客力の違い、という点に尽きるかもしれませんが・・)。

また、石廊崎の石室神社を沖から眺めると、司馬遼太郎の「菜の花の沖」で、外洋に漕ぎ出したばかりの高田屋嘉兵衛が岬の神様を洋上から遙拝する光景が思い起こされます。

石廊崎の先端では、どのようなご事情かは存じませんが、白い衣装を纏った女性が一心不乱に祈りを捧げている姿を拝見しました。

ともあれ、いつかは来たいと思った大学時代から約25年、我ながら、よくぞここまで、このような人生を歩むことができたものだとしみじみ感じて一句。

幾年月たたかう人に慰労崎

 

そして、夕方に最終目的地・西伊豆きっての名勝(奇勝)・千貫門に到着し、無事に全行程を終えました。

旅をして千貫文また消えゆけど 
家族と過ごす日々はプライスレス

おまけ。

弓ヶ浜の焼けつく砂に寝転びて
いたいよ いたいよ 全身いたいよ~

 

芥川賞受賞作「影裏」の映画試写会の感想と、現代に甦る三島文学の世界?(改)

昨日、芥川賞受賞作を原作とする大友啓史監督の映画「影裏」の完成披露試写会が盛岡市内で行われ、とある事情により招待券をいただいたので、拝見してきました。司会の方によれば、一般向けの試写会はこれが初めてとのことです。
https://eiri-movie.com/

冒頭に主演のお二人と監督のご挨拶もあり、ご本人達のオーラもさることながら、職人気質の優等生的な綾野氏と不思議ちゃんキャラの龍平氏が対照的というか、作品とも通じる面があり、興味深く感じました。

作品の説明は省略しますが、純文学そのものという印象の原作を忠実に映画化した作品という感があり、(見たことがありませんので何となくですが)昔でいうところの小津映画のような作品なのだろうと思います。

言い換えれば、ブンガクの世界に浸ることができる人には見応えがあり、そうでない人にはとっつきにくい面はあるかもしれません。

ただ、(ネタバレは避けますが)冒頭の主人公の自宅の描写(映像)にやや面食らうところがあり(作品のテーマを暗示しているわけですが)、綾野氏ファンの方や「筋肉体操の方々よりも細身の男の生々しいカラダが見たい」という方(おばちゃんとか?)にとっては、必見の作品ということになるかもしれません。

全くそうではない私のような者には冒頭は少ししんどいですが、目のやり場に困ったときは、カルバンクラインの文字だけご覧ください。

この作品では主人公が抱えた特殊な事情が重要なテーマになっていますが(原作を読む前からWEB上で散々見ていたせいか、初稿では自明の話と思ってストレートに書きましたが、同行者から「それこそネタバレだ」とクレームを受けましたので、一応伏せることとしました)、小説よりもその点が生々しく描かれているというか、主人公のキャラクターや振る舞いは、流行りのアルファベットよりも、その点について日本で昔から使われている言葉に馴染むような気がしました。

と同時に、もう一つの軸は、震災というより、相方である龍平氏演じる男性の特異なキャラと生き様であり、それを一言で表現すれば、「虚無(又は滅びへの憧憬ないし回帰)」ということになるかと思われます(この点も書きたいことは山ほどありますが、一旦差し控えます)。

で、それらのテーマからは、かの三島由紀夫が思い浮かぶわけで、小説版ではその点を意識しませんでしたが(そもそも、私は三島作品を読んだことがほとんどありません)、映画の方が「三島文学ちっく」なものを感じました。

とりわけ、本作が「主人公たちが無邪気に楽しむ岩手の自然や街並みの風景」を美しく描くことにこだわっているだけに、「文学的な美」という観点も含めて、この映画は、意図的かそうでないか存じませんが、「生きにくさを抱えた美しいものたちと、それらが交錯する中で生まれる何か」といった?三島文学的な世界観を表現しようとしているのではないかと思う面はありました。

もちろん、「若者は、本当に好きな人とは結ばれず、折り合いがつく相手と一緒になるだけ」というオーソドックスな(ありふれた?)恋愛映画との見方も成り立つでしょうから、そうした感覚で気軽に楽しんでもよいのではと思います。

私は昨年に原作を読みましたので、原作との細かい異同を垣間見ながら拝見しましたが、同行者は全く原作を読んでおらず、「一回で理解しようとすると疲れる映画」と評していました。この御仁が「ここはカットしても(した方が)よい」と述べたシーンが幾つかあり、それが悉く原作にはない映画オリジナルのシーンでしたので、その点は、同行者の感性を含めて興味をそそられました。

個人的に1点だけ不満を感じた点を述べるとすれば、龍平氏(日浅)にとってのクライマックスシーンで、「あれ」を全面的に描かないのは、ストーリーの性質上やむを得ないとは思うのですが、できれば、直前ギリギリまで、言い換えれば、引き波が姿を現す光景までは、主人公の想像という形で構わないので、描いて欲しかったと思いました。

原作には、主人公が、日浅の根底にあるメンタリティ(倒木の場面で交わされた言葉と思索)を根拠に、日浅は「その瞬間を自らの目で見たいと思うはずだ」と語り、その瞬間を目にした(直に接したのかもしれない)日浅が浮かべたであろう恍惚の表情を想像したシーンがあったと記憶しています。

私は、巨大な虚無を抱えた日浅が圧倒的な光景の前で恍惚の表情を浮かべる光景(そこには虚無の救済という三島文学論で語られていたテーマが潜んでいるはずです)こそが本作のクライマックスではないかと思っていましたので、その点が映画の中でストレートに描かれていないように感じたことには、映像化に難しい面があるのだとしても、少し残念に思いました(日浅の思想自体は、映画のオリジナルシーンで、ある人物が代弁しています)。

とはいえ、「性的な面が意識的に描かれる主人公と、全く性の臭いを感じない日浅」という点も含め、作品全体を通じて不穏・不調和な雰囲気が漂う本作は、通常の社会内では品行方正に生きているのであろう主人公が抱えた「本当はこの社会が自分には居心地の悪い世界だということ」、そして、主人公にとっての平穏ないし救いもまた、社会の側(映画を見る側の多数派)にとって、どこか居心地が悪く感じるものなのだろうということを、主人公のコインの裏側のような存在であるもう一人の人物(本当は社会と不調和を起こしている主人公の代弁者のような役割を担っているように見えます)にとってのそれも含めて映像として描いている作品であることは間違いなく、大人向けの純文学の映画としては、十分に見応えがあるのではないかと思います。

ちなみに、この映画は、とある理由で、中央大学法学部のご出身の方には、ぜひご覧いただきたいと思っています。そして、この大学(学部)のカラーが「やるべきことを地味に地道に積み上げて、あるべき場所に辿り着く職人」だということを知っている人には、この映画のあるシーンを見たとき、敢えてウチの看板が使われたことの記号的意味に想像を巡らせながら、苦笑せざるを得ないものを感じるのではと思います。

原作では、大学名が出ず法学部政治学科とだけ書かれていましたが(映画では学科の表示があったか覚えていません)、それだけに、中央大学法学部政治学科卒で、しかも心に何らかの虚無を抱えて生きるのを余儀なくされている?ホンモノの岩手人としては、余計なことをあれこれ考えさせられる面があったように思います。

あと、せっかくなので、ご覧になる際は、エンドロールを最後の方まで目を凝らしてご覧くださいね、というのが当事務所からのお願いです。

余談ながら、試写会なるものに参加したのは初めてですが、終了時に関係者の方から「これで終了です。ご来場ありがとうございました」のアナウンスがあった方がよいのでは?と思いました(終了後も何かあるのか、そうでないのか分からず、帰って良いかそうでないのか判別しかねますし、試写会なので、最後に関係者の一言で皆で拍手する?といったやりとりもあった方がよいでしょうから)。

最後に、私の密かな野望である「大戦の戦渦からシンガポール植物園等を救った田中舘秀三教授の物語」の映画化は、いつになったら実現できるのやらという有様ですが、大きな代償と引き換えに?、某プロデューサーさんによれば、企画案自体は監督にも伝わったとのことです。願わくば、「男達の熱い物語」の作り手として現代日本に並ぶ者がないであろう大友監督の作品として、いつか世に出る日が来ればと、今も岩手の片隅で願っています。

観応の擾乱と北の「バサラ猿」たちが追いかけた夢

昨年末ころ、亀田俊和「観応の擾乱」(中公新書)を読みました。

最初、この本を書店で見つけたときは、1年ほど前に一世を風靡した中公新書の「応仁の乱」の著者が次回作として書いたものと勘違いし、「二番煎じか、だったらいいや」などと思っていたのですが、よく見たところ著者は違う方だし、応仁の乱は買うかどうか迷っているうちに時間が経ったので古本屋で探そう、それよりも、応仁の乱以上に実情がよく分からないこっちを買ってみよう・・と思って購入したのですが、程なく、驚くべきことに気づきました。

この著者の名前に見覚えがあるような・・と思って末尾の経歴欄を眺めたところ、1973年秋田生まれ、平成9年に京大の文学部卒って、高校の仲間内に似たような奴がいたな・・・と思ってネットで検索したところ、

アアァァッッッ・・!!! と雄叫びを(自宅内で)あげてしまいましたよ。

著者の亀田俊和先生は、紛れもなく私の高校時代(函館ラ・サール)の同期生で、寮(1年生の100人部屋)のベッドも割と近い位置(オとカなので)に住んでおり、私と同じ「北東北の片田舎(彼は小坂町)から出てきたお上りさん?同士」ということで、それなりに仲良くさせてもらっていた方に間違いありません。

2~3年生の頃の彼の成績は記憶がありませんが、少なくとも1年生の頃に関しては、入学直後から数学と理科(化学)で撃沈した私ほどでないにせよ、「日本史は得意だが、他の教科の成績はパッとせず、運動もできない者同士」ということで、多少は連帯感があったような、逆に「鏡に映った自分のように見たくない感じ」もあって互いに敢えて接近しないようにしていたような、「付かず離れず」の微妙な関係性があったという記憶があります。

ただ、卒業のときか後日(大学生の頃?)かは覚えていませんが、彼が京大に合格(入学)したという話を人づてに聞き、高校1年の「どんぐり仲間」の一人だったことしか覚えていない身としては、カメって実はそんなに優秀だったのか、一体いつの間に勉強やってたんだと驚愕したことはよく覚えています。

とまあ、つまらない曝露話?はさておき、彼が、当時から中世史なかんずく南北朝時代に関心が強いことを公言し、歴史研究者志望だと語っていたこと、彼の机に置かれていた幾つかの本の中に、「ばさらの群れ」という本(童門冬二氏の小説)があり、「ばさら大名が好きだ、佐々木道誉とか」などと話していたことは今もはっきりと覚えています。

私自身は、特定の時代(まして、マイナー?な南北朝)に関心(こだわり)がなく、むしろ、歴史の全体をざっと見つつ現在の社会(特に北東北)との関わりを知ることに興味があった上、高校時代は、試験勉強を超えて、学問としての歴史に深い関心を抱くには至りませんでしたので、「佐々木道誉って誰だよ、こっちは足利直義と護良親王くらいまでしか分からんぞ」という体たらくで、亀田君と歴史談義をするなどという関係を築くことはできませんでした(今思えば、惜しいことをしたのかもしれません)。

ともあれ、本書を拝読しながら「~という出来事は興味深い」の言葉遣いが多すぎるぞ(見開きで3カ所くらい出てくる頁あり)とか「寮生(しかも受験期)なのに毎週、大河ドラマを見ていたのか?テレビが1台しかないのに取り合いはなかったのか?」などと余計なことを思いつつ、彼も高校時代に求めた道をこうして実現したのか、と感慨を抱かずにはいられませんでした。

すでに何冊も出版されている石川知裕君(もと衆院議員)も、著書によれば、高校時代から政治家を志していたとのことであり、また、この高校の性質上、医学部を目指して難関校を突破し現在も全国或いは世界で活躍されている(であろう)方々は何人も存じていますが、歴史学者になりたいと述べ、それを実現し、当時から関心を持っていたライフワークというべきテーマで中公新書の出版まで成し遂げたという方は、同期では亀田君だけかもしれませんし、亀田君もまさに「夢を現実とし、今もその過程を駆け抜けている真っ最中」なのだろうと思えば、胸が熱くなるものがあります。

それに対して我が身は・・となると、大卒2年で司法試験に合格できたまでは良かった?のかもしれませんが、今や、うだつのあがらないちっぽけな田舎の町弁として、雑多な仕事に従事しつつ事務所の存続(運転資金=売上確保)に追われるだけの日々という有様に堕してしまったように思わないでもありません。

私の高校のときの夢は、弁護士とか医師とか学者とか、具体的なイメージを抱くレベルには至っておらず、ただ、学力をはじめ、自分が到底及ばない強い力(オーラ)を持った凄い人達に会いたい、その背中を追いかけながら、いつしか「高校時代から外の凄い世界を見てきた人間」として、郷土に意義のある何らかの貢献をしなければならない(そうでなければ、岩手を離れて函館に来た意味がない)、という漠とした気持ちを持ちながら、現実には授業を追いかけるので精一杯という日々でした。

そうした初心に立ち返り、改めて自分ができること、すべきことを見つめ直すという意味では、今、亀田君の著作に出会えたことは、幸いなことというべきなのかもしれません。

ところで、ここまで書いてきて「書評」的なものを全然書いていないことに気づきましたので、一言触れておきますと、本書は、観応の擾乱の全体像(高師直の失脚を中心とする第1幕と、尊氏vs直義の決戦と南朝勢力などを巻き込んだ大混乱を中心とする第2幕)を様々な事象を紹介しつつ説明しており、その点は中公新書らしい?マイナー知識のオンパレードというか、中世史を相応に勉強した人でないと、スラスラ読むのはしんどい(また、末尾に人物や制度などの索引が欲しい)という面はあります。

ただ、擾乱の主要な原因について、単純な(師直と直義の)路線対立というより、幕府(足利勢力)が北条氏や建武政権の打倒に伴う論功行賞(恩賞)やそれに付随して生じた紛争(訴訟)の処理を円滑に進めることができなかった(紛争解決制度が未整備だった)ため、それを担当した責任者(最初は師直、次いで直義)が結果として多くの武士(御家人)の反感を買った(信望を失った)ことが、失脚(その前提としての混乱)の原因であり、擾乱の過程を経てそれが整備されたことが、義詮・義満期の室町幕府の安定・興隆の基盤となったと説明している(ように読み取れる)点は、紛争解決という観点からは、興味深いものを感じます。

本書は、冒頭から足利政権(発足直後の幕府)の紛争解決制度(訴訟など)に関する説明に大きな力点が割かれており、当時、土地を巡る紛争が多発して政権がその処理に負われていたこと、また、鎌倉幕府の訴訟は判決=宣言をするだけ(下文)で、執行力がない=自助努力を要求された(判決は自力執行を正当化する根拠として機能するに過ぎなかった)が、足利政権の発足後、徐々に、判決を強制執行する制度(執事施行状)が用いられるようになったことなどが説明されており、建武新政の破綻要因の一つが新政権が迅速・適正な紛争解決ができず多くの人々の失望を買ったためとされていることと相俟って、色々と考えさせられるものがあります。

また、師直は執行(執事施行状)を通じた迅速な紛争解決を優先したものの、不満も多く寄せられたため、長期の慎重審理=理非究明を重視して師直と対立した直義に支持が寄せられたことが擾乱第1幕の主因の一つであるとか、その後は逆に直義の手法が支持を失い、尊氏・義詮政権のもとで迅速解決型の手法が整備されて安定期に向かったという記載も見受けられ、そうした「紛争解決制度の未整備による混乱が政争の大きな要因になった」という指摘は、紛争解決の実務に携わる者にとっては学ぶところがあるように思います。

ともあれ、いつの日か亀田先生に再会し、私の手元に保管しているご著書にサインをおねだりできる日を楽しみにしています。

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二戸に残された西郷隆盛?の写真と歴史の彼方に消えた弁護士のルーツ

以下は6年前に旧ブログに投稿した記事ですが、今年の大河ドラマ主人公が西郷隆盛とのことで、便乗目当て?で再掲することにしました。

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以前、日本中世史の研究で有名な網野善彦氏の「日本の歴史をよみなおす(全)」を読んだことがあります。

学生時代に浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」を読んでいたので網野史学なるものに昔から関心はありましたが、なかなか手が出ず、ようやく最初の1冊という体たらくです。読みながら色々なことを考えてはすぐに忘れてしまうのですが、少し考えたことを書いてみようと思います。

230頁あたりに、奥能登で江戸時代に大きな力を持っていた「時国家」という豪農兼商家のことが取り上げられており、その一族は、かつては農業経営者(豪農)として考えられていたが、実際には農業よりも日本海ルートの交易事業を中心に、製塩・製炭・山林・金融など当時の日本で行われていた様々な産業に携わっていた「地方の大物実業家(多角経営者)」として捉える方が正しいことが分かった、という趣旨の記載があります。

そして、それが決して例外的なものでないとの説明を踏まえ、「以前の歴史学は、江戸時代を農業(食料生産)中心に捉え、農業以外の事業に従事する人々の役割を過小評価していたが、実際は他の産業も盛んであり、そうした産業に従事した人々が社会や文化の維持・形成に果たした役割を再評価すべきだ」という趣旨のことが論じられています。

網野史学は、商業、金融、芸能さらには死や性に関連する仕事など、古代には聖的な位置づけを受けていたのに中世或いは近世以後に差別或いは卑賤視されることが多くなった諸産業或いはそれに従事する人々に光をあて、日本の歴史(社会形成に関する物の見方)を再構築することを目的としており、その一環として、上記の例が挙げられているようです。

その下りを読んでいて、我が国では明治維新後、政府や財閥、渋沢栄一などの実業家の力により、工業を中心とする産業が急激に発展したとされていますが、それは何ら素地のないところ(農業中心の社会)から突如として勃興したのではなく、相応に産業や商業を盛んにしていた社会の素地があり、それが社会構造の転換や欧米からの新技術の導入などという触媒を得たため、一気に花開いたのではないかと感じました。

まあ、その程度の認識は、今や陳腐というべきなのかもしれませんが。

ところで、私の実家は6~7代前に本家(一族の総本家である地元の神社)から分かれているのですが、本家は伝承(或いは父の戯言)によれば、戦国時代に秋田県田沢湖(旧・生保内町)の領主をしていたものの、秀吉の東北征服戦争(いわゆる奥州仕置に服従せず反抗した各勢力の討伐戦。代表例は九戸政実の乱こと九戸戦役)の際に所領を失い南部氏を頼って二戸に移転したのだそうで(それ以来?本家は代々、地元の由緒ある神社の神官職を継承しています)、歴史学者の方に調査研究していただければと思うだけの奥行きがあったりします。

で、何のために当方の話を持ち出したかと言えば、父によれば本家は明治の始め頃に現在の二戸市の西部に広がる広大な高原で日本でも珍しい牧羊事業に携わったものの、今や絶滅したニホンオオカミの襲撃などが災いして失敗し、破産寸前の憂き目に遭ったのだそうで(現在も本家は存続してますので、真偽はよく分かりません)、そうした本家の苦労も、網野史学の観点から何らかの再評価ができないのだろうかと思ったのでした。

その牧羊事業については、本家と共同で?事業を担った方が二戸の先人として顕彰されており、興味のある方は、岩手県庁の紙芝居もご覧いただければと思います。
http://www.pref.iwate.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/007/300/07bokuyou.pdf

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ところで、この文章の表題に挙げた「西郷隆盛の写真」について、そろそろ取り上げたいと思います。

西郷隆盛は本人のものと確定された写真が存在しない(ので、どのような顔立ちであったか現在も知ることができない)ことで有名ですが、その話題に当方の本家も登場してくることは、ほとんど知られていません。

「西郷隆盛 写真 小保内」などと入力して検索してみて下さい。

敢えて特定のサイトを引用しませんが、「西郷隆盛?と(西郷の影武者を務めたとされる)永山弥一郎が二戸の神社の神主である小保内孫陸の子(定身又はその弟?)と一緒に撮影したと称する写真を郷土史家が紹介した」などと記載された記事を発見できると思います。

私には真偽のほどは分かりません(まあ「西郷が写真嫌いの人物だった」というのなら、そのときに限って撮影を了解する理由が分かりませんので、別人の可能性の方が高いとは思いますが)。

ただ、私は子供の頃、亡父から「本家は、(上記の)倒産の際に借金返済のため様々な家宝を手放したが、その中に日本で唯一とされる西郷隆盛が写っている写真があった」と聞いたことがあります。

その際は、そんな話はインチキに違いないと思っていたのですが、確実な話として、当時の本家は「会舗社」という郷土の子弟を教育するための私塾を開設し多数の蔵書を擁して尊皇攘夷的な教育活動をしていたため、当時はそれなりに名声があり、当時の本家の長男(小保内定身)が江戸に遊学した際、薩長などの攘夷の志士達と交遊を深めていたことは間違いないようです(この点は、平成27年に投稿したブログでも触れていますので、ご覧いただければ幸いです)。

当時、二戸市出身で対露防衛の必要などを説いていた「志士」の一人である相馬大作が、津軽藩主襲撃未遂事件を起こし江戸で捕縛・処刑されたものの、「みちのくの忠臣蔵」と呼ばれて一世を風靡し、藤田東湖・吉田松陰などに強い影響を与えたとされており、そのことも「志士たちとの交流を希望する二戸人」にとっては有利に働いたことは想像に難くありません。

そうした事情からは「本家には、かつて西郷隆盛(かもしれない御仁)の写真があった」という亡父の話も、あながちインチキとは言えないのかもしれません。

「小保内某と西郷隆盛?や永山弥一郎が写ったもの」とされる写真が、亡父が語った写真と同一なのかは全く分かりませんが、少なくとも、その写真で「小保内某」と表示された御仁の顔立ち(目元や口元)は、現在の本家のご当主(神主さん)に割と似ているように感じます。

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網野史学とは全然関係のなさそうな話ばかり書きましたので、少しそちらに戻ったことを書こうと思います。

我が弁護士業界は自分達のことを「サムライ業」と好んで称することが多く、「武士道」と相まって、弁護士という職業を、武士的なものになぞらえ、そのことを美点として強調することがよくあります。

弁護士の仕事は、ある意味、傭兵であることを本質とする面がありますし、「法の支配の担い手」という点や職業倫理的なことも含め、そうした見方が間違いだとは思いません。

ただ、武士という存在の捉え方にもよるでしょうが、幕藩体制下の武士は公権力を支える公務員であり、現代で言えば官僚に見立てる方が素直で、民間業者である弁護士と繋げて見ることには若干の違和感を覚えます。

ですので、弁護士の本質(或いはルーツ)を中世や近世の社会に求める際は、武士よりも(武士だけでなく)、公権力と一定の距離を置いた他の職業に(も)求める(光をあてる)方が適切でないかと思うのです。

ところで、我国における弁護士業界の萌芽として通常語られている事柄は、「明治時代は官僚国家なので弁護士の地位は低かった」とか、「弁護士の制度や各種法制が構築されるまでは、質の低い紛争介入業者がデタラメな仕事をしており、三百代言などと言われた」などといった否定的なものが多く、少なくとも明治より前の時代に、現代に連なる弁護士のルーツとして、輝かしい先人がいたという話を聞いたことがありません。

しかし、冒頭で記載した網野史学が描く中世や近世は、当時の技術水準を前提に、農業だけでなく様々な産業や交易が行われ、それなりに人や産物が自由に行き来されていた社会だそうなので、そうであれば、当時も人々の社会経済上の活動を巡って多様な紛争があり、紛争を解決する(欲する解決を得るよう支援する)ことについて、専門的技能を駆使して当事者を支援し正当な報酬を得て生活を営んでいた職能集団が存在していてもよいのではないか(存在しない方が変ではないか)という感じがしてくるのです。

さらに言えば、「かつて聖的な存在として特別視された職業(職能集団)の多くが、社会構造の変化に伴うパラダイムシフトにより卑賤視されていった(ので再評価すべき)」との網野史学の基本的な目線からすれば、「明治初期に、民間の紛争解決?業務従事者達が、まがい物として卑賤視されていた」という話は「そうした人々は、以前は社会内で相応の権威を与えられ活躍していたが、社会の価値変動に伴い卑賤視され不遇な立場に追いやられるようになったのではないか」という推論と、とても親和的であるように感じられます。

少なくとも、紛争解決という分野は、古代から中世であれば宗教的或いは神秘的権威の助けを大いに必要としたはずで、「かつては畏怖された職能」という網野史学の射程範囲に明らかに収まるように思われますし、争点に対する当否の判断(裁判)の機能は国家=時の公権力が独占したのだとしても、紛争当事者の支援という役割を武力以外の方法で担った職能集団が存在してもよいのではないかと思われます。

私が知らないだけで、相応に研究が進んでいるのかもしれませんが、古代から近世にかけての「その時代の社会のルールや社会通念に基づく紛争解決・処理業務に従事した人(特に、公権力から食い扶持を得るのではなく利用者から対価を取得し支援業務等に従事していた民間人)」の実像を明らかにし、そのことを通じて、現代の紛争解決(ひいては社会そのもの)のあり方にも生かしていただければと願っています。

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余談ですが、平成24年頃は、尊皇攘夷ならぬ大阪維新?の旋風が国内に吹き荒れていましたが、当時もその後も、東北の社会ないし政治の世界には、そうした時流に連動したり新たな社会革新の震源地になりそうな営みや蠢きは生じていません。

大阪維新の会に対する肯否や現在(H29~30年)の沈滞ムードはさておき、通信や交通が著しく不便であった150年も前に、二戸という辺境の地にも新時代を切り開いた西国の方々と価値観を共有し懇意にしていた人々がいた(ものの、天運などに恵まれず大きな存在感を発揮するには至らなかった)という事実は、北東北の人々に知っていただく機会があればと思っています。

小規模弁護士会という「地域法務の大企業」と田舎の町弁の未来の働き方

半年ほど前から、著名ブロガーのちきりんさんのブログを読むようになり、その関係で著書も読んでみたいと思って、10月頃に「マーケット感覚を身につけよう」を読み、正月は、文庫本化された「未来の働き方を考えよう」を読みました。今回は後者について少し書いてみようと思います。

本書は、20代で大企業に就職するなど従前の社会で典型的な生き方を選んだ(そこに収まった)方も、40代でそれまでの経験などを踏まえて個としての可能性をより追求する新たな生き方(職業人生)にチャレンジすべきという趣旨のことを、まさにそうした生き方を辿ったご自身の経験や詳細な社会分析を踏まえて語った本です。

平成25年に出版された本ですが、内容は全く陳腐化しておらず、賛否両論ありそうな記載も幾つか見受けられますが、多くの方にとって学ぶところの多い一冊だと思います。

私自身40代に突入して間もない上、25歳で弁護士になり、15年以上、東京と岩手で町弁として生き、「公」はさておき「私」の部分では一定の達成感もある一方で、弁護士業界自体が大増員などで非常に混沌とした状況にあり、弁護士として生きていく場合でも従前と異なる新たな生き方が求められている(そうでなければ生き残れない)という点で本書がターゲットにしている層そのものと言え、そうした点でも大いに参考になりました。

また、本書では、近時の家電大手の凋落や過去に生じた幾つかの伝統的な重厚長大型の大企業の凋落などを例に、大企業に依存する生き方はリスクが大きくなりつつあるという点が強調されているのですが、そこで描かれている大企業像は、地方の弁護士にとって見れば、地元の弁護士会の姿と重なる面が大きいように思いました。

少し具体的に言うと、岩手(なかんずく盛岡)では、私を含む若い世代の弁護士が訴訟などの仕事を受任したいと思えば、独自に自分の事務所の宣伝をするよりも、弁護士会(盛岡の相談センター)で行っている法律相談を担当するのが最も近道である(それだけ弁護士会の相談には強力な顧客吸引力があり、委任希望のご依頼が集まってくる)という面があります。

私は平成17年から事務所のWebサイトを開設しており、平成20年頃までは他にサイトを開設する事務所は県内にはなく、盛岡市に限っては平成23年頃からようやく他の先生も開設をするようになったのですが、岩手はネットで弁護士を探すという文化については需給とも「周回遅れ」の面があるせいか、かつては債務整理以外の相談依頼を受けることはさほど多くはありませんでした。

近年そうした文化がようやく普及し始めたのかなと感じた矢先、債務整理の需要が激減した上、ここ1、2年は市内の有力な先生もWeb上で熱心に宣伝をなさっているせいか、数年前と比べてもHPルートでの依頼を受ける機会はかなり少なくなったように感じます。

これに対し、弁護士会の法律相談は後述のとおり10年前に比べて担当回数が半減しましたが、毎回、概ね満員となっています(震災前の時期は他県と同様に有料相談が廃れそうな様相も呈していましたが、震災無料相談が導入されたことで、劇的に息を吹き返しました)。

もちろん、私が担当日に弁護士会に行くのも事務所で相談を受けるのも「小保内が担当する相談」という点では何ら違いがなく、むしろ、必要に応じ書籍等を確認して回答し時間なども融通が利く当事務所での相談の方が、利用者にとっては利便性が高いことは確かだと思います(私に限らずですが)。

また、岩手弁護士会(盛岡)の相談センターは、盛岡市内の弁護士が交代制で担当しているため、数年前は概ね1ヶ月に1回、新人が急増した現在は2ヶ月に1回程度の頻度で担当しているのですが、相談者にとっては「当たりはずれ」のリスクは否めません。

現に、これまで依頼を受けた方から何度か、法テラスや弁護士会の相談で、年配の弁護士から酷い対応を受けたとか若い弁護士が要領を得ない説明を受け、私と話をして初めて得心できたというお話をいただいたことは何度かあります(かくいう私自身が、逆のように言われることもあったかもしれません。そこは、私の研鑽の問題を別とすれば、相性というほかありませんが)。

それでもなお、多くの方が個々の事務所にアクセスするよりも弁護士会の相談センターの門を叩く方を選ぶのは、個々の弁護士(法律事務所)よりも「相談や仕事を頼みにいく先」として県民・中小企業にとって圧倒的なブランド力があると認知されているからなのだと思います。

そのような光景に接していると、県民(利用者)の多くは、弁護士会が実施する相談事業を、あたかも田舎の県立病院のような「地域で圧倒的な規模を持つ一個の大病院(への通院)」のような感覚で捉えているのかもしれない、という印象を受けます。

また、そのように感じるだけに、激増による競争の深刻化と「利用者が自ら弁護士(受注者)を調べて選ぶ文化の未成熟」という2つの事象の組合せによる結果として、個々の弁護士(町弁)が、仕事の供給源たる「地域の大企業」としての弁護士会に対し、ますます依存度を深めていくのではないかと感じるところがあります。

とりわけ「若い弁護士が会務を一生懸命行うと、要職を歴任し豊富な人脈を有するベテランの先生から引き立てられ、様々な仕事・チャンスを紹介して貰える」ということは昔から言われていることで、そうした文化(ひいては弁護士会への依存)という傾向は、今後むしろ強まっていく面はあるのかもしれないと感じるところはあります。

恥ずかしながら、私の場合、東京時代から会務など(東京の場合、弁護士会とは別に派閥云々もありますが)への関わりが薄かった上、岩手に移転後は、債務整理特需の全盛期+家庭の事情で弁護士会の会合・飲み会に足が遠のいていたところ、いつの間にか、すっかり窓際族で定着してしまった感があり、最近は、私よりも何年も後に弁護士になった方が、遥かに「弁護士会の重鎮」として活躍されているようです。

もともとそうしたキャラではあるのですが、上記の事情から、事務所経営者としては、遅まきながら会務に積極的に関わらないと事務所の存立そのものも危ういかもしれないと、恐怖を感じるところはあります。

但し「弁護士の盛岡一極集中」という岩手の特殊性の裏返しとして、盛岡以外の他の地域で開業されている方はもともと弁護士会に仕事の供給を依存する必要が乏しく裁判所からダイレクトに受注する面も大きいので、以上に述べたことは盛岡=県庁所在地に限った現象というべきかもしれません。

ちなみに、本書98頁では「大組織に(幹部候補生として)就職することは、これだけ良いことずくめだったが、今やそのメリットは毀損されている」として、高給や安定、キャリア形成のチャンスなどが上記のメリットとして説明され、他方で「大企業を辞める人が重視する価値」として、様々な自由や「組織の序列、くだらない形式的な仕事」に人生を奪われないことなどが挙げられていますが、それらは、地方の弁護士における「一匹狼でいるより弁護士会に積極的に関わるメリット、敢えて関わらないメリット」と、重なるような気がします。

ちきりんさんのブログでは「大企業に依存する社会・人生」の減退ないし終焉・脱却(とこれに伴う個の復権)が現在の社会のトレンドになっているということが繰り返し強調されているのですが、地方の弁護士会は「周回遅れ業界」に相応しく?これまでは「個」が中心ないし基本であったものが、かえって弁護士会が地域の大企業(受注と供給の受け皿)としての性質をますます強めている(個々の弁護士の依存の度合いが深まる)かもしれない感じ、それを前提に、組織での出世に微塵も向いていない私が何に活路を求めていくべきか、悩んでいるというのが正直なところです。

基本的には、もはや後戻りは困難として弁護士会に依存しない形での仕事の獲得に力を入れたいのですが、地方の弁護士業界の「市場化」はまだまだ文化としては未成熟との感は否めず、そういう意味では周回遅れの宿命を負った業界で、伝統的な手法に依存せざるを得ない面は強く感じます。

もともと、我が国は、「平家、海軍、国際派」は出世できず、「源氏、陸軍、国内(内務)派」が主流を占める社会とされ、異質な他者(国外)と自由に幅広く接するよりも、同質的な身内を秩序で固めていく方が好ましいとされてきた組織ないし社会の文化があります(岩手弁護士会に関しても、そうした傾向を感じる面は率直に言ってあります)。

ちきりんさんは前者そのものといった感がありますが、私は、キャラは地味(後者)なのに生き方や志向は前者派という感は否めず、そうした「生き方の分裂」が生じているせいか、どこに行っても集団内の路線(多数派)との関係で不適合が生じたり「場の空気」に馴染めず内部で厄介者扱いされてしまう面があるように思います。

現代の急激な社会の変化の中で、そうした日本の風潮が多少でも変わるか、それとも、やっぱり「平家」は社会の閉塞感が高まっているときに一時的にもてはやされても短期間で退潮していくのか、また、変容の源とされる情報通信技術(コミュニケーション技術)の変革(IT革命)が日本社会の中で本当に「革命」と言えるか、それとも単なるクーデター=体制内権力者の交替の手段に止まるのかという視点も交えながら、弁護士会ひいては遠からず大変容を余儀なくされるであろう弁護士業界と向き合っていきたいと思っています。

「まちの本屋さん」が語る、法律事務所の営業と未来

私は盛岡駅フェザンのカード(常時5%引)を所持している関係で、一般書籍は盛岡駅のさわや書店で購入することが多いのですが、そこの店長をなさっている田口幹人さんが「本屋道」を熱く語った本を上梓され、店内でも販売されていたので、さっそく購入して一気に読み終えました。

本書は、田口さんがフェザン店の店長になるまでの軌跡(山間部にあるご実家の書店で読書を愛する人々に囲まれて育ったこと、盛岡市にかつてあった第一書店の勤務時に、業界では著名なさわや書店の名物店長さんと出逢い薫陶を受けたこと、ご実家を継ぐも時代の変化により経営環境があまりにも厳しく閉店を余儀なくされたことなど)が語られた上で、さわや書店の取り組みを通じて世に知られていなかった名著に光があたり新たな営みが生じたこと、地域で活躍する方への出版の支援や地域の様々な方を巻き込んだイベントと書籍販売との連動などが、幾つかの書籍を例にして説明されています。

全体として、地方都市に進出する巨大店舗やネット直販などの「書店を巡る現代的事象」と前向きに相対しつつ現代の「まちの本屋」の果たすべき役割や生きる道を模索する内容になっており、書店・出版業界に限らず、弁護士業界を含め、同じような激動に晒されている様々な業界のあり方などを考える上でも、参考になるところが多い一冊だと思います。

とりわけ、「本」を「弁護士が提供するリーガルサービス」に置き換えると、例えば、「本は、新刊の際に売れるとは限らない、その本に合った旬があり、それを捉えて売り出すタイミングを見極めるべき」という下り(26頁)は、新たな法律や判例などが直ちに社会に広まり、それを巡って弁護士の出番が来るわけではない(社会の熟度を見極めるべき)ということに繋がり、それを自身の業務や「営業」に活かしていくかを考える上で、参考になる面が大きいように思われます。

また、「本を置けば売れた時代があった、工夫すればさらに売上を伸ばすことができた、現在は、手を掛けても、成果を得るまでに要する時間と労力が、売上と釣り合わないところまできている」(160頁)というのは、恥ずかしながら極端な供給過小から供給過剰(と需要の縮小?)に向かっている過去と現在の町弁業界が置かれた状況そのものと述べても過言ではなく、それだけに、よりシビアな社会で生き残るため、地域に根を張り様々な工夫で苦闘を続けている「まちの本屋」の取り組みから学ぶべきことは多いのではないかと思います。

また、弁護士は「本」との比較では、サービスの中身を担う張本人(いわば、著者)であると共に、自らサービスの販売を行わなければならない(出版社ないし書店員)上、お店(法律事務所)の経営者でもあるという点で多面性があります。

そのような観点から出版・書店業界の様々な当事者の取り組みを参考にしたり、その文脈だと「書店員」に近い立場と言えそうな法律事務所の職員について、営業面をはじめ、今後、業界の活性化のため、どのように役割(活躍の場)を拡大させていけるか(さらに、誤解を恐れずに言えば、地位を向上させることができるか)という点でも、考えさせられるところがあります。

と同時に、「本屋は文化を売っているのではなく商売をしているのだ、だからこそ「今日行く」と「今日用」=現に顧客の役に立つことを通じて社会貢献(教育と教養)を図るべきだ」という下り(107頁)も、ともすると、現実的な権利救済や利害調整などからかけ離れた「高邁な理想」を強調しがちな弁護士業界としては、特に留意すべきことではないかと思っています。

私は、著者の田口さんのお父さんと面識があり、本書でも描かれているように、過疎地での書店経営の傍ら、本を通じて地域の文化を向上させたいとの強い思いを持って、色々と活動をなさっていたというお話を伺ったことがあります。

かくいう私自身、二戸という田舎町で育ち、少年漫画と歴史漫画中心という有様とはいえ、子供の頃は近所の書店に入り浸って少年時代を過ごした人間でもありますので、それだけに、田口さんの実家のような「田舎町の小さな書店」の存立が困難になっている現代で、過疎地に生まれ育つ子供達などの交通弱者にどのようにして「知の世界」への親和性を育んでいけるかという点は、大いに気がかりなところです。

田口さんは、私とは同じ年のお生まれとのことですが、本屋さん達に限らず、私も含め、地域に根を張る様々な立場の方が、そうした問題意識を共有し、それぞれの現場を守り、より良いものに磨き上げながら、社会のためにできること、すべきことを地道に実践していければと思っています。

マイノリティとして生きていくということ

ここ1年ほど、LGBT(各種の性的マイノリティ)がメディアに取り上げられる機会が非常に増えたように思います。

3年ほど前、性的マイノリティの方に関する事件を取り扱ったことがあり、その際、依頼主の背景に関する理解を深めるべきと考えて、以下の本を読んだことがあります。併せて、次の投稿をしており。再掲することにしました。

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先日、上川あや「変えてゆく勇気」という岩波新書の本を読みました。

筆者は性同一性障害(MtF)の方であり、まだ、この障害がほとんど社会に認知されていなかった時代に生まれ育ち、様々な辛酸をくぐり抜けた後、区議会議員に立候補して当選し(現在も現職)、性同一性障害性別取扱特例法(特定の条件を満たせば、戸籍上の性別を変更=人格に適合させることができる法律)の制定運動にも携わった方です。

性同一性障害については、人格の一種であって障害と位置づけるのは適切ではないとの見方もあると思われ、本書でも、トランスジェンダーなどの言葉が紹介されており、この障害(人格)について勉強する上で、入門書として大いに参考になります。

ところで、私自身は、性に関しては典型的なマジョリティですが、ささやかな障害(左耳の聴力が皆無で左側からの会話が困難)があるほか、人格に関しては衆と交わることができない変わり者の典型という面があり、様々な場面で、自分がマイノリティだなぁと感じて生きているように思います。

本書は、性同一性障害のような重い問題を背負っていなくとも、何らかの生きにくさを抱えマイノリティ意識を感じて生活している方にとっても大いに共感できる本であり、多くの方にご一読をお勧めしたいと思いました。

また、本書は、性同一性障害性別取扱特例法の制定に関するロビー活動(立法支援運動)を詳しく取り上げているため、何らかの法(法律、条例等)を作るための運動をしたいという方にとっても、大いに参考になるように思われます。

本書では、立法を支援したキーマンとなる政治家として南野千恵子議員(元法務大臣)の尽力が紹介されているほか、議会での折衝などが紹介されており、当時の国会で強い影響力を持っていた、青木幹雄・自民党参院会長との面談のシーンは、その象徴的なものと思われます。

また、大前提として、どうしてその法を作りたいのか、そのことによって誰を(或いは自分を)、どのように救いたいのかといったことについて、切実な必要性や深い思索、それを実現しようとする強固な意思がなければ、これまでの社会通念を変えていくような法の創造などというものは到底できないし、できたとしても様々な苦闘や紆余曲折が必要になるのだということも、当事者ならではの言葉として伝わってくるものがあります。

JCなどに絡んで、「まちづくり」的なことに関わっている方から条例などについて尋ねられることもあったのですが、曲がりなりにも法の運用に携わる身としては、様々な方に、社会を活性化させる正しい法の創造に積極果敢に取り組んでいただきたいと思う反面、上記のような重みにも、よく思いを致していただければと思ったりもします。