北奥法律事務所

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憲法改正・万物の尊厳

尋問の東京出張からキュビズム経由で縄文の思想と近代の超克を考える

昨年末、約20年ぶりに東京地裁で尋問のため出張してきました。本来は色々な意味で尋問などの重い手続には相応しくない親族間の少額の金銭問題に関する事案であり、当方は穏当な解決を目指してきましたが、相手方が強硬な対応に終始し、やむをえず尋問・結審となった事案です。

この件に限らず、ここ数年「親分肌(姉御肌)だが我が強く自分本位な御仁に振り回され、弱者いじめのような扱いを受けた人が、これ以上は耐えられないと思って私に相談し、その後も相手御仁が不当・強硬な要求を続けたため、やむなく訴訟等に至るケース」の受任が多いような感じがします。

その種の事案は受任の時点で何らかの不利な条件が生じていることが珍しくなく、相手方はそれをタテに因業な要求をしてくるのが通例で、絵に描いたような古証文事案も複数あります。

そのうちの一つは、テレビをご覧の岩手県民なら誰でも知っている著名企業の創業者が、子分格の小規模企業経営者を長年いじめていた事案で、都会の豪腕弁護士さんと死闘を繰り広げた末、当方勝訴の心証開示を前提に、ご本人の希望で手打ちのような形で譲歩した勝訴的和解をしています。

昨年は、因業な元街金業者に長年いじめられた「保証人の保証人」たる債務者の代理人として、古証文事案で時効が成立するか激しく争い、無事に当方主張が認められ勝訴確定した事案もありました。

が、私自身も似たような経験を昔も今も余儀なくされている?せいか、この種のご依頼は絶対に負けさせるわけにはいかぬと死に物狂いで取り組む結果、時間給換算で大赤字となるのが通例で、ぢっと手を見るばかりの日々です。

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というわけで、今回も数年ぶりの東京に、「長時間出張でますます大赤字だ」と全く嬉しくもなく行ってきたわけですが、せめてもの悪あがきということで、国立西洋美術館のキュビズム展に立ち寄りました。

私は高校1年次にパリのオルセー美術館でミレーの晩鐘に感動して以来(ここだけ昔の自慢話・・)、モネとかコローなどの素朴で美しい印象派の風景画ばかりを好んで見てきたので、キュビズムに小利口なことを言える身分ではありませんが、それでも、私も年を取ったというか、昔よりも色々と考えたり感じたりできるものがあったように思います。

個人的に一番感銘を受けたのは、キュビズムの源流がアフリカやオセアニアなどのいわゆる未開文化が創り上げた、祝祭や呪術などに用いていたとみられる異形の木像などである、という冒頭の解説でした。

そこで展示されていた西アフリカの木像の目とピカソの「キュビズム直前期」の女性画の目が酷似しており、ああ、これが元ネタなんだと素人目にも分かるものがありました。

企画展の入口で、これまでの絵画は(被写体たる人物や風景の)模倣に過ぎないが、キュビズムとは創造を目指したものである、と書かれていました。

ピカソ達の作品は、当時の西欧社会内で、この木像などと同じ役割・機能を果たすことを目指していたのではないかと思いました。

アフリカやオセアニアなど(いわゆる第三世界)では、意味づけや役割などが判然としない異形の人物像などが多く作られていたことは現代では誰もが知っているところですが、これらの異形の像は、現地の何らかの儀式に使われたり、或いは部族支配者の権威付けに用いられるなど、何らかの呪術的なメッセージを伴っていると考えられていると言って良いと思われます。

ピカソ達は、「なんだこれは」と人々が驚くと共に、知性や悟性(思考能力)では捉えることができない、禍々しさも含むのかもしれない何らかの異形の価値を社会に見せつけることを狙って、ああした異形の作品を送り続けたのではと思いました。

やがて多くの人々がキュビズムに熱狂し、その後、それまでの宗教画や印象派絵画とも全く異なる様々な抽象絵画が生み出されたのは、その絵画等に、自分達がまだ言語化できない、呪具・呪物のような得体の知れぬ価値が宿っていると感じたからなのかもしれません。

そのため、キュビズムひいては現代芸術を理解しようと思うのなら、源流・発祥とも言えるアフリカなど第三世界(グローバルサウス)の呪術文化を理解することから始めなければならないのではないか、しかし、現代社会は、果たしてその努力をどこまでしているだろうか、どこまで成果を挙げているだろうか(それこそ、我々の方が発展途上なのではないか)とも感じました。

それと共に、日本で「なんだこれは」と言えば岡本太郎ですが、彼が「発見」した縄文の異形の諸像は、アフリカなどの異形の諸像に通じるものがある、だからこそ、欧州の芸術家は第三世界に惹かれ、同時代の欧州で育った岡本太郎は縄文に惹かれたのだろうと思いました。

第三世界のプリミティブな文化と縄文の思想。

双方の根底には何某か通じるものがあると共に、現代を今も覆っている近代欧州文明の閉塞感を打破する何かが潜んでいるのかもしれません。

本日は企画展の料金で常設展もOKと言われたので、常設展も20年以上ぶりに拝見しましたが、キュビズムのあとに16世紀の宗教画を見ると、あれもこれも同じ「絵」なのか、絵とは何なのか、何のためにあるのか、などと目眩を感じる面があり、そうした感覚にまどろむ意味でも、常設展も併せてご覧になって良いのではと思いました。

あと、地域限定ネタですが、個人的には、ゴンチャロワさんというロシアの画家さんに親近感を持ちました。

余談。

これまで家族で東京に立ち寄る際は、いつも家族の申入で駅のコインロッカーを利用していたので、今回もその習慣で400円を払ったのですが、美術館に入館した直後、ああしまった、ここならタダだった(しかも駅の目と鼻の先なのに)と後悔しました。

というわけで、帰りは贅沢駅弁を諦めて、戒めの500円ニューデイズ唐揚弁当を泣く泣く・・もとい美味しく頂戴しました。

小さなことにクヨクヨしろよ(見城徹語録集より)。

憲法記念日が来るたび、万物の尊厳を掲げる憲法を願って

本日は憲法記念日です。憲法のおかげで司法試験に合格できた私に限らず、皆さんも憲法について何か考えていただければと思っています。

平成後期から現在まで10年以上、世論調査では「憲法改正を経験してみたいが自民党案は支持しない」という状態が続いています。

現下の厳しい国際情勢から、自民党案(自衛隊や緊急事態条項)を諦めのように?受容する比率も増えたようにも見えますが、国民が積極的に望んでいるものとは到底言えず、安全保障であれ災害対策であれ、憲法ではなくまずは個別の政策や政治家等の努力での善処を期待するのが国民世論かと思います。

言い換えれば、国民が歓迎・希望し世界に誇れるような憲法改正案は、今も国民世論には示されていません。

私は、5年ほど前から「憲法の頂点である『尊厳』は、人類(憲法13条)だけのものではない、人にあらざる存在にも個々の特性に応じた尊厳が守られるべきとの規定(万物の尊厳。憲法13条の2)を創設すべきだ」と考え、1年前に述べたものをはじめ、時折、それに関する投稿をしています。

いつの日か、国民世論に改正案を呼びかける書籍を出版したいと思いつつ、毎年のように、今年も余力ありませんでしたと書く有様が続いてはいますが。

過去に何度も書いていますが、日本国憲法が辿った歴史に照らせば、我々が最初に経験すべき憲法改正は、

・日本や世界が希求すべきであるのに現行憲法には定められていない価値に関するものであること

・日本人や日本社会が辿った長い道のりに照らしても、違和感のない価値を掲げるものであること

・判例実務の単なる追認であるとか戦争の備えのような後ろ向きのものではなく、国民や世界人類に向かって日本がよりよい社会を築こうとする姿勢を表明するものであること

言い換えれば、皆が『いいね!』と歓迎し祝福できるような前向きな規定こそが最初に行われるべき憲法改正であり、それを実現するのが、曲がりなりにも戦争を経験せずに済む幸福な時代を生きることができた、我々の責務ではと思っています。

そして、現在の人類が置かれた状況や日本(列島)の歴史風土等に照らしても、万物の尊厳こそが、この付託に応えうる改正案だと確信しています。

宮澤賢治の言葉を殊更に真似ずとも、人類の幸福もまた万物の尊厳のもとでしか成り立たないというのは自明なのですから。

当方は限られた受任費用で膨大な作業を余儀なくされる仕事ばかりが続き、書籍出版など夢のまた夢となっていますが、この言葉を、日本そして世界に、いつの日か広く伝えることができればと願っています。

養育費などの未収問題の天引による解決と憲法改正の前にやるべきこと(下)

表記のテーマで平成25年に旧ブログに掲載した投稿の続きです。憲法改正論議の現状などは2年ほど前に加筆しており、掲載にあたり少し修正しています。

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養育費をテーマとした前編とは話は大きく変わりますが、平成30年頃には、憲法改正を悲願とする安倍政権(自民党)のもと、あと1~2年で「自衛権(自衛隊?)の明文化」を目的とした発議をするのではないかとも目されていました。

(現在=令和4年末は、この議論は退潮しましたが、ロシア・ウクライナ戦争の長期化や台湾海峡の緊迫化・北朝鮮の活発化などに伴い、先の見通せない状況が続いています)。

と同時に、同業者のうち左派色の強い方を中心に、そうした傾向に強く反発する投稿も、FBなどではお見かけするところです。

私自身は、現在検討されている憲法改正について、直ちに賛否を明確にできる状況にありませんが、少なくとも、左右どちらにせよ、一方の価値観が勝ちすぎている(左右双方の価値観が混在することによる悩みを感じさせない)タイプの主張には、どんなに論理力が駆使されていても、なかなか得心することができません。

私の日本国憲法に対する印象を一言で表せば、「とても良い子だが、出自がいささか不幸な子」です。

戦後70年近くを経てもなお、憲法が掲げている価値、理想を社会の様々な具体的場面で実現しようとする行動(前編=養育費の支払強化の問題も、その一つだと思います)が広がりを持たないのも、憲法の価値、理想が相応に認知されている反面、出自の不幸さから、憲法が社会の中で腫れ物のように扱われてきたことの証だと思っています。

だからこそ、日本国憲法には出自の不幸さに挫けることなく、出自に関してハンデがある(自分の存在が社会内で物議を醸したり、レーゾンテートルにつき正しい理解を得るのに苦労している面がある)という現実に即しながらも、自身が背負った理想を実現する途を地道に貫いて欲しいと感じています。

その上で、仮に、現在の社会状況などに即して憲法自身に新たな生き方が求められていると言えるなら、不磨の大典の如く扱い生き方を縛り付けることはせず、適切な生き方をさせてあげたいと思います(もちろん、現在そのような状態が生じていると言えるかどうかはさておき)。

このような理由から、戦前回帰色を感じさせる強硬な改正論者に対しては、亡国の敗戦に対する反省が感じられないという点もさることながら、憲法が理想主義を高らかに謳っている面を軽視する(そうした理想を追求したり、そのような観点から社会の様々な問題点を直視することから目を背けている)ように見えてしまい、良い印象を持ちません。

言うなれば、とても良いものを持っているのに出自に気の毒な面がある子について、その良さを見ようとせずに出自の不幸さにばかり目を向けてその子の価値を否定しようとしているような、偏狭さを感じずにはいられないものがあります。

同様に、いわゆる護憲派の人達にも、無条件降伏により敵国(戦勝国)の主導で生まれたという現実(その点が国民や国家に与えているであろうトラウマ)から目を背けて、憲法典の綺麗な面ばかりを見ようとしているように感じて、どうにも好きになれません。

そのせいかは分かりませんが、この方々が、戦後数十年を通じて、さほど「憲法の価値」を社会内で実現してきたとも見えないと感じたり、トラウマに起因するであろう国や社会(公的なもの)への不信を助長するようにも見える言動が多いと感じることも好きになれない理由の一つです。

さきほどの例で言えば、いわゆる護憲派の方々が「養育費等に関する上記の天引制度を通じて、両性の実質的平等や子供の福祉を実現しよう」などと立法運動を展開しているなどという話を、私は存じません(勉強不足かもしれませんが)。

むしろ、「給与分割や情報管理を通じて市民生活に国が干渉するのに反対!」と元気よく仰るのが通例(典型的なイメージ)ではないかと理解しています。

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私自身は、いずれか一方のみの価値観に染まりたくはないものの、左右それぞれが掲げる理念自体を否定する気持ちはないため、必然的に左右どちらとも接触を持ちたがるコウモリ的なスタンスになってしまいます。

そのため、日本国憲法の価値を明確に認識しつつ、出自の不幸さ・活かしにくさとも向き合い、憲法の理想を社会の現実の中で具体的に実現とする観点から憲法ひいては社会のあり方を説得的に論じる方がいれば、9条であれ96条であれ、殊更に反対しようとまでは思いません。

ただ、少なくとも、野党時代の自民党の憲法草案などを見る限り、そうしたものを感じることはできず、憲法学者の知識などという話を申すつもりはありませんが、憲法学をもっと勉強してから物事を論じていただきたいなぁと残念に感じてしまいます。

憲法絡みの投稿をFBその他で拝見すると、左右どちらの投稿にせよ、内容や論理の当否はさておき、どうしても自派の匂いがきつすぎるというか、反対側の感覚の人からは共感を得られないだろうなぁと感じる対話性のないものが多く、その点は、どうしても残念に感じてしまいます。

何度も書いていることですが、このような状況だからこそ、立場や理念の異なる者同士が対話や生産的な喧嘩を交わすような憲法談義が、もっと盛んになればよいと感じています。

私は司法試験の勉強を初めて間もない頃、相対立する正しい理念同士が衝突する場面で、いかに落としどころ(調和点や弁証法的止揚)を探すかこそが法律学なかんずく憲法学の醍醐味である(そのような対立と調和に溢れているのが日本国憲法の最大の魅力である)と教わりましたので、具体的な論点・場面を前提に左右など対立する複数の価値観の狭間で悩み抜く言説こそが、本当の意味で憲法の理念に沿うと信じています。

また、それと同様に、左右の立場を問わずに問題意識が共有され、国論を二分しなくて済むような問題に優先的に取り組むこともまた、日本国憲法の穏健的な性格(漸進主義)に見合っているように思います。

養育費についても、かつては家庭の問題に社会(国)は干渉しないという考え方が強く、離婚給付や養育費に関する我が国の制度の貧弱さは、そうしたことが底流にありました(右側ないし保守系の色合いの強い価値観と言ってよいのだと思います)。

が、現在では、社会構造の変化等に伴いそうした考え方は相当に廃れており、冒頭の主張(養育費等の実効性確保の制度の強化)は以前なら相当に反対論もあったかもしれませんが、現在では、憲法観の違い(左右)に関係なく、社会の賛意を得られるのではないかと思います。

そんなわけで、憲法改正に反対する方々も、叫び声のボリュームばかりを上げることが無党派層のシラケ感を招き、結果的に安倍首相を利するというリスクも危惧していただき、それよりは、「憲法改正よりも先に実現すべき立法問題が多々あるぞ」といったように、改正論議を世間の話題から吹き飛ばすような、もっと実需に適合する、かつ現在の日本国憲法の理念に即した立法問題を、テーマに取り上げてもよいのではないかなぁと感じているところです。

もちろん、賛成派の方々も、単なるムード先行の改憲論などという気味の悪い(胡散臭い目で見られやすい)展開に止めることなく、どのような憲法を制定したいのか、それが現在の国家や国民にとって本当に必要、適正なものであるか(現在の日本国憲法で真にその価値観が実現できないと言えるのかも含め)を真剣に考えるなど、大多数の国民を得心させるだけの努力を示していただきたいところです。

養育費と債権回収の話だけを書くつもりが発作的な大長文になってしまいましたが、「扶養義務者が負うべき債務の不払を阻止するため、事前に給付を分割して受給権者に直接交付する制度」については、平成28年にも「給与分割提唱の辞」として載せたことがありますので、そちらもご覧いただければ幸いです。

万物の尊厳を掲げる憲法を世に問えるのはいつの日か

半年前にFB投稿した文章をブログに転載する作業が一旦完了したので、最近書いた文章を載せます。

以下は、憲法記念日(5月3日)にFBに掲載した文章ですが、この日は例年、憲法改正絡みのニュースを目にする機会が多いかとは思います。

というわけで、今年も「万物の尊厳を掲げる憲法改正」について書きます。といっても、いつかは出版したいのに、今年も余力がなくて書けそうにない愚痴のようなものですが。

ここ何年もの世論が、「憲法改正は体験したいが、(自民党が長年呼びかける)9条改憲には消極的」という状態にあることはご承知のとおりです。

現在は、ロシアの西境(ウクライナ)侵攻の影響で、中台戦争どころか次は東境(北海道)侵略ではとの恐怖も吹聴され、軍備強化に期待する声が高まっていますし、それ自体は私もやむを得ないと思いますが、それでも、世論では9条改憲(現在案は自衛隊明文化)が多数を占めるまでには至っていません。

私は、9条はいつかは手を付けざるを得ないのだろうけれど、軍備強化目的で9条が最初の改正対象になるのは「戦争を止めた」と謳ったはずの日本人にとって不幸なことではないか、また、日本が米国・米軍の広義の属国となった戦後秩序に特段の変化が生じていない以上、9条改憲の持つ実質的意味はほとんどない(だからこそ、自衛隊設立から集団的自衛権に至るまで、解釈で足りる扱いが延々続いた)、自衛隊の明文化は「格上化(による文民統制逸脱)のリスク」があるなどの理由で、現時点では賛成ではありません。

その上で、初めての改憲は「国民が世界に誇れる改憲」を体験したい、技術的な改憲などではなく、戦後の9条がそのような意味を持ち得たのと同じく、日本人にとって地に足のついた思想であると共に、世界に向けて現代に相応しい理想を掲げる改憲が望ましい、というのが国民の意識だと思っています。

或いは、大戦の敗亡国として徹底的に自尊心を傷つけられた裏返しとして、世界に「日本スゲぇぜ」と世界に認められるような改憲を期待する国民感情があるのかもしれません。

9条改憲は、見方によっては対米独立どころか米軍従属の強化に過ぎないのかもしれず、どちらの見方が正しいのか判別しにくいこと、双方の当否自体も判断し難いことも、国民が逡巡する(法のお墨付きを得る前に、実務関係者の努力で望ましい安保環境を作って欲しいと思う)理由の一つかもしれません。

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「万物に神が宿り、人間だけが特別な存在ではない(だからこそ、自然を畏れ敬い、共存しながら果実を得ていく)」という緩やかな自然崇拝・汎神論は、縄文以来、日本人にはごく当たり前の感覚ではと思います。

そのことは、古くは神仏習合、現代では12月24日をはじめ他文化の習俗も取り込むなど、何でも融合させる「日本の思想」に通じている(根底にある)と思っています。

そして、そのせいか、かえって、その思想(感覚)は、法の世界には取り込まれてきませんでした。

欧米や中国では、奇岩など自然の名勝に、数百年又はそれ以上前の時代に人の手が大きく加えられた光景を目にすることが多くあります。

欧米(キリスト教)や中国(儒教)は、人間が自然に優越する(ので、人が自然に手を加えることに基本的に躊躇がない)との思想(人間中心主義)があり、これが、日本国憲法の基盤(人間の尊厳)でもある近代人権思想の根底にありますが、神が宿る自然の造物に人が干渉することを好まない日本人の感覚とは多少の違いがあると思います。

日本人も、汎神論の縄文人が3割、人間中心主義の弥生人が7割なので、汎神論一色では全くありませんが、地球の持続可能性が問われている現代では、縄文人(古モンゴロイド)の思想に目を向けることで、行き過ぎた人間中心主義の修正を呼びかけるのが、現代日本人に求められていることの一つだと思っています。

言い換えれば、西欧文明や帝政ドイツの思想を基盤に大日本帝国憲法を策定した明治政府や「これが戦争放棄した日本に望ましい理想だ」と思って現行憲法を作成した敬虔なキリスト教信者達(GHQ)が取りこぼした(見落とした)、「自然(人にあらざる存在)との関わり」という日本固有の思想を、世界と未来に役立つ形で掲げていくことが、現代の憲法論として、求められることではないかと思っています。

私が4~5年前に突如、思い立った「万物の尊厳」(現行憲法に新設13条の2を単純に追加する改正案)は、このような考えに基づくものです。

このような話は、恐らく今の日本で誰も吹聴する人がいません。環境訴訟などに従事する法律家の方からも、聞いたことがありません。

私が日本の他地域よりも縄文の血が濃いであろう岩手の人間であることも、影響しているのかもしれません。

仮に、私が本を出したとしても、変人の世迷い言として、大型書店の片隅から短期間で消えていく運命なのでしょう。

それでも、仮に、この憲法改正が実現すれば、いわゆる自然の権利訴訟など環境保護を目的とした訴訟で、原告適格を理由に訴訟が門前払いされることは劇的になくなり、人間が自然を代弁し政策の合理性を厳しく問うことが、容易になるのではと思っています。

愛玩動物を家族のように感じている方々はもちろん、最近流行の「動物福祉」を掲げる方々にとっても、現行実務の改善の原動力になる憲法改正であり、相応の方々が取り上げていただければ大きな世論のうねりもありうるかもしれません。

何より、この改正案こそが、「世界から日本が祝福される、日本人が初めて経験すべき憲法改正」であると、信じて疑いません。

なお、「明日から肉が食えなくなる」ことはありませんので、その点はご安心ください(私も動物の肉の味を覚えた人間の1人として、そこから逃げられません)。

ともあれ、最近は出版費用を稼ぐ力も無くなってきましたので、まずは山積みの赤字仕事を片付け、今年こそ最初の一行だけでも書いてみたいものだと願っています。