北奥法律事務所

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川柳

物干に走る季節ぞ恨めしや

暑さよりも何よりも、夕立のせいで一時帰宅を何度も強要されるこの時期は、兼業主夫にとって一年で一番憂鬱な季節です。

着くまでが豪雨のピークだ手遅れだ
降る前に帰れと服にも詰られて

今日もまた分かってるのに間に合わず
昼下がりズブ濡れなのは服だけか

出る頃にいつも晴れるよ空のバカ
そう思い干したら今日は降り出した

どうにでもなれよと夏をあきらめて

三島由紀夫が呼ぶ夏~南伊豆編その2~

南伊豆旅行編(2年前の夏)の2回目です。

前回あえて省きましたが、1日目の昼は、下田市内のどこで食べるか全く決めておらず、すでに1時半くらいになっていたこともあって、「コインパークに駐めて適当に決めれば良い」との家族の提案に従い、何も考えずに空いていた市街地の駐車場からペリーロードに向かって適当に歩き出しました。

すると、目の前の建物の2階にイタリア料理風のお店があり、「下田湾のペスカトーレ」などと地元料理風のメニューが書かれていたので、そそくさと、そのお店に入って注文し、まずまず美味しくいただきました。

私は食べるスピードが人より早いので、一人食べ終わったあと、家族が食べ終わるまでにお店の内装などを見回していたところ、カウンター近くに半裸の水着姿でショートヘアーで筋骨隆々とした姿を「これでもか」と見せようとする男性の写真が大きく写った書籍が展示されているのに気づきました。

この業界に身を置いていると、「半裸でショートヘアーで筋骨隆々の姿を自らアピールする男性」といえば、かの有名な岡口基一裁判官しか思い当たりませんので、

なぜ岡口さんがこんなところに?っていうか、写真集なんて出していたのか?

と驚いて手にとったところ、その男性は岡口裁判官ではなく、三島由紀夫でした。

私は、小説を読む習慣がほとんどなく、学生時代は少しは(罪と罰とか人間失格などの超著名本を少々)読みましたが、その程度で関心(執着)が終わってしまい、それ以外は、小説といえば、せいぜい司馬遼太郎(と新田次郎の孤高の人、井上靖の氷壁=登山系)くらいで、あとは全て新書本(論説文)しか読む習慣がなく、現在に至っています。

三島作品も業界人らしく?「宴のあと」は昔々読んだことがあり、率直に面白かったとの記憶はありますが、それ以外は読んでいません。本棚には、浪人時代に古本屋(多摩地区といえば伊藤書店)で購入した「仮面の告白」と「金閣寺」が今もありますが、他の多くの本と同様に眠ったままです。

もちろん、あまりにも有名な「三島事件」は知識としては知っていますし、日本文学史はもちろん思想史上も巨大な存在なのだろうという程度の認識はありましたが、私の出生前の出来事であり、その不可解さ(分かりにくさ)などもあって、敢えて関心を持たないようにしていたように思います。

ともあれ、そのように三島由紀夫について、さほどの事前知識も関心も持つことがなかった私ですが、下田まで来て三島由紀夫か、と不思議なものを感じて、その本を黙々と読んでいました。

その本(三島由紀夫の来た夏)は、三島由紀夫が晩年期の数年間、夏になると必ず家族と共に下田のホテルに長期滞留し伊豆の太陽と穏やかな暮らしを満喫して東京に戻っていく、という姿を描いたもので、三島がその味に感激してマドレーヌを買いにたびたび訪れていた洋菓子店の娘であり、当時は中学~高校生であった著者が、ささやかな三島との思い出を交えつつ、自身が「あの夏」と「自身では到底咀嚼できない三島の最期」を噛みしめながら、後年に米国に渡るなどして様々な事柄を経験し、それらを糧とし逞しく生きていく姿を描いて締めくくるものとなっています。

三島由紀夫の話もさることながら、著者の「おんな一代記」としても十分に読み応えのある本でした。
https://www.fusosha.co.jp/Books/detail/9784594063061

そして、私が取り憑かれたように?黙々と頁をめくっていると、お店の主人と思われる熟年女性が話しかけてきて、「それ、私が書いたものなんですよ」と仰ったので、非常に驚きました。

このお店(ポルトカーロというイタリア料理店)の1階には洋菓子店があり、著作で登場する「三島由紀夫が激賞したマドレーヌのお店(日新堂菓子店)」がそのお店で、著者である「女学生」は、今も、この建物で菓子店とレストランを営んでいる方だったのです。
http://www.at-s.com/gourmet/article/yoshoku/italian/126644.html
http://nisshindoshop.weebly.com/

そんなわけで、何か引き寄せられるようなものを強く感じ、ぜひということで、この本とマドレーヌを購入しましたが(お店でも人数分をいただきました)、このマドレーヌ、お世辞抜きで本当に非常に美味しいです。

そして、このご縁に惹かれるようにして宿で本を読み進めていくと、不思議なことに気づきました。今(旅行時)の私はちょうど三島由紀夫が旅立った年と同い年なのです。

冒頭に書いたとおり、今回、下田に来たのは、黒船絡みの観光と南伊豆の海を見るのが目的で、三島由紀夫という知識も想定も全くありませんでした。

それが、この年に、こうした形で巡り会うこと自体、何らかの「呼ばれた感」を抱かずにはいられないものがありました。そのせいか、この本を読むことに決めた瞬間、自分はこれまで、三島由紀夫という存在自体に、どことなく避けてきた面があるのでは、今こそその存在を見直すべきではと感じるようにもなりました。

そんなわけで、帰宅後も(肝心?の三島自身の著作が後回しになるのは相変わらずですが)wikiなどで三島関係の記事を読みまくり、自分なりに、この「事件(邂逅)」を咀嚼したいと思いました。

その続きは次回に少し書きますが、ともあれ、この出来事が、今回の南伊豆旅行の最大の収穫となりました。

余談ながら、改めて三島由紀夫と岡口裁判官(そして、三島事件と岡口裁判官事件)を比べると、このお二人(二つの事件)には、共通点が多いような気もします。この点は、可能であれば別の機会に。

 

******

というわけで、残りは、当時FBで書いたものを反復するだけの投稿になりますが、2日目は宿の近くの砂浜で読んだばかりの三島由紀夫の裸身を真似て、いい気になって浜辺で寝転んで過ごしました。

弓ヶ浜の焼けつく砂に寝転びて 
見上げる雲と空の深さよ

太陽が眩しいからと 
市ヶ谷で自決したのか あの才人は

打ち寄せる波に向かいて倒されて 
なすすべもなく身の丈を知る

 

その後、車で南下し石廊崎に向かいました。石廊崎は、大学時代に購入した伊豆のガイドブックで見つけて以来、いつか必ず行きたいと思っていた場所で、ようやく来ることができたと、その点は大満足でした。

石廊崎では最初に岬巡りの観光船に乗船した後(高波を理由に西側のメインコースが欠航とのことで、東側のサブコースとなりました)、ビジターセンターに移動しました。
http://izu-kamori.jp/izu-cruise/route/irouzaki.html

西側のコースは蓑掛岩という名勝(奇岩)を往復するものでしたが、海上に鋭い岩が屹立する蓑掛岩の姿は、浄土ヶ浜(剣山周辺)によく似ているように思いました。

また、石廊崎ビジターセンターの雰囲気も、浄土ヶ浜に最近できたビジターセンターに似ています。ただ、こちらの方が名物を提供する良好な飲食施設等も設置されているので、浄土ヶ浜よりも有り難みがあるように思いました(伊豆ゆえの集客力の違い、という点に尽きるかもしれませんが・・)。

また、石廊崎の石室神社を沖から眺めると、司馬遼太郎の「菜の花の沖」で、外洋に漕ぎ出したばかりの高田屋嘉兵衛が岬の神様を洋上から遙拝する光景が思い起こされます。

石廊崎の先端では、どのようなご事情かは存じませんが、白い衣装を纏った女性が一心不乱に祈りを捧げている姿を拝見しました。

ともあれ、いつかは来たいと思った大学時代から約25年、我ながら、よくぞここまで、このような人生を歩むことができたものだとしみじみ感じて一句。

幾年月たたかう人に慰労崎

 

そして、夕方に最終目的地・西伊豆きっての名勝(奇勝)・千貫門に到着し、無事に全行程を終えました。

旅をして千貫文また消えゆけど 
家族と過ごす日々はプライスレス

おまけ。

弓ヶ浜の焼けつく砂に寝転びて
いたいよ いたいよ 全身いたいよ~

 

「ひらくこと」の聖地・下田の先にある道~南伊豆編その1~

2年も前の夏の話ですが、妻の実家に帰省した後、義父の自動車をお借りして、静岡県の南伊豆エリアに旅行したことがあります。

昔から、ペリー来訪の地である下田には一度は行くべきと思っていたというのが主たる理由でしたが、多忙にかまけてさほど準備もせず、1日目に黒船関係をあれこれ見て水族館に行き、翌日は同行者が強硬に希望する海水浴を行って帰宅、という大雑把な計画で赴くこととしました。

まずは修善寺から天城峠を越えて河津に到着し、ほどなく、次々と現れる南伊豆の美しい海岸を横目にしながら下田の中心部に到着し、とりあえず湾内巡りをする黒船の遊覧船に乗りました。
http://izu-kamori.jp/izu-cruise/route/shimoda.html

湾内から下田市街の眺望に浴しつつ気の利いた一句でも、と思いましたが、オガール紫波の立役者のOさんが、FB上で軽口を投稿されている光景しか思い浮かばず、

人も世も、開く秘訣はシモだよね

といった程度のことしか思いつきません。

 

ともあれ、遊覧船の後、幕府とペリーの交渉の場となった了仙寺と、併設されている黒船ミュージアムを訪れました。
http://www.mobskurofune.com/

黒船ミュージアムで流れていた映像によれば、ペリー艦隊は、この了仙寺にて必死に対幕交渉を行いつつ、独自に日本語用語集を作っていたそうです。

しかし、その映像で表示された「艦隊が作成した?日本語の用語集」には、次の漢字が並んでいたのを私は見逃しませんでした。

「男根、女根、肛門」

やっぱり、人も世も開く秘訣はシモなのかもしれませんが、私には不得意な分野ですので、どうにも困ったものです。

ともあれ、了仙寺には日蓮の銅像も建立されていましたが、日蓮宗の寺院が対米交渉の場になったこと自体は、元寇の光景も重なって、不思議なものを感じてしまいます。

その後、市街地に駐車して市内の飲食店で昼食をとることにしました。この件に関しては、この年になって?下田で三島由紀夫を発見するという予想外の驚きがあり、次回に詳細を述べることとします。

昼食をいただき、ペリーロードを散策して風情のある景色を堪能した後、1日目の最後の目的地である下田海中水族館に向かいました。

ペリーロードは、上陸したペリー艦隊一行の隊列が交渉場所たる了仙寺まで行進した小川沿いの道のりの通称ですが、両岸には当時からの古い建物群が建ち並んで飲食店などとして活用されており、ミニ京都とでも言うべき良好な雰囲気で、京都と違って人が押し寄せることもなく、川岸に密集するカニの群れを静かに眺めることができました。

続々とカニ行進す ペリーロード

 

下田の黒船来航といえば、吉田松陰も欠かすべからざるネタではありますが、今回は時間不足のせいか事前調査の不足のためか、松陰関係の名所旧跡はすべて素通りになってしまったので、次に赴く機会があれば、ぜひ立ち寄りたいものです。

下田海中水族館では、ひととおりの展示を拝見し、最後に定番?のアシカやイルカ等のショーを拝見しましたが、細部は覚えていないものの、登場する生き物たちへの愛情を非常に強調すると共に、海洋プラスチック問題など、人類が海に危険を及ぼしており、そうしたものへの対策が必要だ、といったメッセージも掲げていたように記憶しており、その点は、単なるショーではないというか、好ましいものと強く思いました。
https://shimoda-aquarium.com/

 

ちょうどこの日(8月上旬)、小泉進次郎議員(現・環境相)と滝川クリステル氏の結婚発表のニュースが電撃的に流れてきましたが、滝川氏といえば、著名キャスターであると共に動物愛護運動家としても知られていますので、ちょうど水族館にいたせいか?このニュースを聞いた際、このお二人がタッグを組めば、動物愛護に関して何か大きなことを実現することもありうるかもしれない、と思いました。

端的に言えば、私は3年ほど前から「日本国憲法の根本原理である13条(人間の個人としての尊厳)を改正(追加)し、人間だけでなく人にあらざる存在の尊厳(万物の尊厳)も書き込むべきだ」と思うようになり、そのことをブログでも時々書いていますが、動物愛護運動家であるクリステル氏にとって、この憲法改正案は、悪い話ではありません。

また、憲法改正を党是とする自民党に身を置き、(最近は失速気味と言われていますが)よほどの躓きがない限り、いずれ首相に上り詰めると思われている進次郎にとって「劇的な復活後は安定政権を維持し延々と選挙に勝ち続けて憲法改正の発議が可能な議席数を獲得した」安倍首相すらできなかった憲法改正を実現することは、政治家として最大級の目標になりうるはずです。

そして、仮に、現在の日本国が憲法改正を行うことができるなら、国民の支持は言うに及ばず世界の情勢からも現時点では無理のある9条改正ではなく、他の事柄が選ばれるでしょうし、国民のごく一部しか利害関心を持つことができない些末と位置づけられる類の事柄ではなく、「はじめての歴史的改正」にふさわしい、これまでの国家・国民の関係や位置づけなど、社会全体に変化を及ぼしかねない大きなテーマに関わる壮大な事柄が、目玉として選ばれる(それだけのものでなければ、国民の熱狂・支持は得られない)はずです。

それこそ、国民が「総グレタさん化」するような事態にでもなれば(そのようにならざるを得ない危機的状況が生じれば)、万物の尊厳を憲法改正の事項に掲げることは、国民ひいては世界から熱狂的歓迎をもって受け入れられる可能性がありそうに思います。

それは決して望ましいことではないかもしれませんが、悲観的に予測される近未来の日本そして世界の姿かもしれません。

ともあれ、伊豆の海をこよなく愛し、人と生き物が互いに信頼し合う社会の必要を説く下田海中水族館のメッセージを聞きながら、この日に突如、国民の眼前に出現したビッグカップルは、そのような社会ひいては万物の尊厳を定める憲法改正の実現をこそ目指していただけたらと、思わずにはいられませんでした。

ともあれ、1日目の最初の目的地となった間歇泉(峰温泉大噴湯公園)にて毎度の一句。
http://kankou.town.kawazu.shizuoka.jp/attraction/141/

逆噴射家族は今日も大奮闘

ちなみに、その日の宿は、下田の南(南伊豆町)にある「ちょんまげの宿」と呼ばれる古民家に宿泊しましたが、宿のご主人(ちょんまげの方)に岩手から来たことを伝えたところ、岩手出身の方が宿の運営に関わっているとのことでした。
http://www.e-sankai.jp/

冬の県北と今年のスキー

かなり前の話で恐縮ですが、2月上~中旬ころ、立て続けに二戸の裁判所に仕事がありました。当時、すでに盛岡は全く雪のない毎日晴天の日々でしたが、新幹線のトンネルを抜けて二戸に出ると、そこは地吹雪体験の世界でした。

ある期日の際は、帰りの新幹線に間に合わず、恐らく20年ぶりに銀河鉄道に乗りました。新幹線よりも遙かに秀逸な車窓風景を久しぶりに眺めながら、特急の車内で銀河英雄伝説を読み耽っていた高2の夏を懐かしく感じました。

君のせて銀河の歴史が一ページ

2月下旬になって急を要する仕事が片付き少し余裕ができたので、ようやくスキーに行くことができました。しかし、今年の盛岡圏は雪は降らず晴天ばかりの日々であったせいか、サラサラの粉雪には遠い状態で、

滑りぞめ今年もやっぱり春スキー

という有様でした。

今年は合計で3回のみのスキーで、1回目が岩手高原、2回目は雫石に行きましたが、現行のリフトの終点の先にある、昔のゴンドラ駅の跡のあたりは標高のせいか良質な雪が残っているようで、「ハイシーズンの週末だけでもゴンドラを運行し、そこまで行けるようにして欲しい」と思わずにはいられませんでした。

雫石には修習中に少しだけ行き、第1ゴンドラに乗ってメンズダウンヒルコースを若干滑走したことがありますが、第2ゴンドラ=レディスダウンヒルコースは行く機会がないまま終わってしまい、ゴンドラ自体も無くなってしまった今、あの頃に一度だけでも行っておくべきだったと悲しみを禁じ得ません。

山頂の粉雪恋し雫石  双頭龍も夢のまた夢

ともあれ、雪はグシャグシャ、地面も表出という絵に描いたような春スキー状態のゲレンデ下部を抜けて麓に戻ると、足元の雪まで陽光のため下山中に解けてしまったように見えました。そうした光景に春の訪れを感じつつ、某ジブリ映画にひっかけて一句。

雪しずく春の麓に着きし間に

その翌週(三週目)は、修習中に一度だけでも行きたいと思いながら、安比ばかり行きたがる修習仲間に引きずられ?一度も行けずに終わった夏油高原スキー場に、あれから20年を経て、ついに初めて行きました。

こちらの雪も、ほぼ春スキー状態にはなっていましたが、それでもまずまず快適に滑走でき、ようやく宿願を果たすことができました。

帰路には、思うところあって北上パル(イオン)の「ドムドムバーガー」に立ち寄りました。子供の頃の休日は盛岡には縁が薄く、映画などは八戸に来ることが多かったのですが、当時、本八戸駅にあったドムドムバーガーでマヨネーズたっぷりのテリヤキバーガーを食べて帰ることが何度かあったと記憶しており、久しぶりに食べてみたいと思って立ち寄ったのですが、30~35年ぶり?にいただいたテリヤキバーガーは、思ったほどマヨネーズたっぷりではないようにも感じ、「思い出の味」は追憶の彼方といったところです。

できれば、その次の週にも、修習以来ご無沙汰になっている下倉スキー場に行きたかったのですが、寝坊で行けず来年に持ち越しとなり、昼から仕事に明け暮れるいつもの日々となり、その点は残念でした。

私はゴルフやテニスその他の「大人の社交スポーツ」を全く嗜むことができず、無雪期の唯一の嗜み(生き甲斐?)である登山(トレッキング)も仕事に追われて15年ほどご無沙汰になっているため、せめて、スキーだけでも死ぬまで続けていきたいと思っていますが、残念ながら現在のところ、家族(の一部)以外に同行して下さる方がおらず、どうにかならないものかと思っています。

新宿のシン・ゴジラと「リアル脱出ゲーム~僕のまちの破産からの脱出~」

今年の夏休みは「群馬の保渡田古墳群と埼玉の忍城と吉見百穴に行きたい」との私の提案が無慈悲に却下され、家族の専断的決定により新宿で行われている「東京ミステリーサーカス」の「シン・ゴジラからの脱出」に行くことになりました。
https://mysterycircus.jp/shin-godzilla/

私は「脱出ゲーム」が取り上げられたTV番組は見たことがないためよく分かりませんが、要するに、特定のテーマを素材にして2~4人で一組となり会場内で主催者から様々な課題(謎解き)を与えられ、答えを出して最終問題の解答に辿り着けばゴール、という仕組み(ルール)になっているもののようです。

で、家族が「シン・ゴジラ」を観て過剰に気に入ったため、これをテーマとした脱出ゲームをやってみたいとのことで、私も同行を余儀なくされたものです。

「ネタバレ禁止」なので込み入ったことは書けませんが、要するに、参加者は「巨災対」の一員となってゴジラを停止させる方策を立案するための謎解きゲームを60分の制限時間の中で繰り返し(計6~7個)行うというもので、映画をご覧になった方であれば、概ね問題なく楽しむことができ、大人でも相応に難しいと感じるように思われます(私がその種のものが不得手なだけかもしれませんが)。

そして、進行役となるスタッフの方々は「局長」役の方をはじめ相応に話芸などの訓練をして臨んでおり、終盤のシナリオを含め最後まで飽きさせずに拝見できたように思います(値段も相応のようですが)。

ところで、「何人かが集まって紙を広げてああでもない、こうでもないなどと話をしながら何某かの成果物を作って伝達する」という作業は、JC在籍時に、いわゆる「ワークショップ」で何度か経験しています。

ただ、私が経験した「ワークショップ」なるものは、各人が好き勝手に発言した内容を付箋にペタペタ貼り担当者が何となく内容をまとめて発表して、主催者が「皆さん頑張りましたね~」などと予定調和的にお褒めの言葉を述べるものの、それを起点として社会が何か実際に変わるわけでもなく、私にとっては面白くもなく、あまり有意義とも思えない営みだったというのが正直なところでした。

ですので、どうせ「ごっこ」の類に過ぎないのなら「夢中になって取り組むことができ、最後まで飽きさせない創意工夫が散りばめられている」こちらの脱出ゲームの方が遥かにマシではないか(だからこそ、安くない料金を払ってでも満席盛況の日々となっているのではないか)、言い換えれば、巷に溢れる「ワークショップ」なるものも脱出ゲームを参考にして参加者に様々な共同作業をさせたり謎解きのような娯楽性を備えた手法を開発した方が、結果として参加者にテーマに対し関心をもって取り組む動機付けを持たせることができるのではないか、などと思ったりもしました。

というわけで、「リアル脱出ゲーム~僕のまちの破産からの脱出~」の企画案(導入部)を考えてみました。

それこそ、山崎亮氏や木下斉氏などが脱出ゲームのライターの方と組んで、参加者を熱狂させる「あっと驚く、問題解決のシナリオ案」を擁して、全国の人々に「まちの様々な問題に取り組むマインド」を伝道していただければと思っています。

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君が住むA県B市は、20年前に当時の市長が推進した大規模リゾート構想の失敗などで巨額の債務を抱え、破綻の危機に瀕している。

役所内に飛び交う噂では、今日にもデフォルト(支払不能)宣言をして市内で行われているライフラインの供給や各種行政機能が停止し、多くの市民や企業がこのまちの未来を諦め遠方の大都市に転居・移転することになるかもしれない。

そんな中、若い市長の呼びかけにより、優秀だが地元では有数のはぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児・・(以下略)の面々が秘密裏に集められた。

破綻必至の巨額累積債務対策本部。通称「巨債対」。

君達は、副市長から委嘱された特別チームとして、巨額負債の原因となった市内の様々な問題に解決し、行政、議会、経済そして人々の意識を改革する作業を通じて、市内の社会経済全体の機能停止と破綻を防げ。

制限時間は60分。間に合わなければ、この街は倒産する。」

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余談ながら、新宿では、牡蠣狂いでありながら数年ほど生牡蠣がご無沙汰になっていた同行家族の恫喝と強要により、いわゆるオイスターバーで食事をとりました。

すると、店内入口のガラスケースに「赤崎」などと書いてあったので、大船渡の赤崎かと思ってメニューを見ると、大槌産、米崎産、釜石産などと岩手のオンパレードになっていましたが、それ以上に、夏なのに岩手の牡蠣=真牡蠣が生で食べられる(そうした技術が創出されている)ことに大いに驚かされました。

メニューには岩牡蠣と真牡蠣が数個ずつ掲載され、岩牡蠣は九州などのもの、真牡蠣が岩手と宮城のものと表示されていましたが、真牡蠣も岩牡蠣に負けず十分に美味しくいただくことができたように思います。なお、店内で提供している日本酒も岩手のものでした。

ともあれ、久しぶりに贅沢な食事をしたせいか、お店を出る頃には、

牡蠣喰えばカネが無くなり放心し

というのが正直なところで、幸い当家は現在のところ「巨額債務で破綻必至」にならずに済んでいますが、収益力に見合わない出費が続くことのないよう、財政健全化に努めたいものです。

元祖「美人すぎる歌人」が名付けた美しき洞内滝と、鉄のまちの今昔

しばらく急ぎの起案が山積しブログの更新ができませんでしたが、少し一息ついたので久しぶりに掲載することにしました。

先日、上記と同じ理由で住田町の滝観洞などを見に行きました。滝観洞は19年前に釜石の峠道を越えて訪れたことがあるのですが、現在は釜石道(仙人峠道路)により遠野市街からあっという間にアクセスできました。

滝観洞は「天の岩戸の滝」という美しい洞内滝(日本には観光可能な洞内滝がほとんどなく、日本で最も見応えのある洞内滝と呼んで差し支えないと思います)を目的地(メインスポット)とする洞窟で、他に大きな見所はありませんが、滝までは相当な距離があり、往復で30分~1時間弱を要するものとなっています。

天の岩戸の滝は、戦前の著名な歌人であり明治末~大正期を代表する美人の一人とも称された、歌人・柳原白蓮により命名されたものだそうです。

近年では、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で平成を代表する美人女優の一人・仲間由紀恵氏が準主役として好演を博したと思いますが、その不遇の生い立ちや当時の時代状況に照らして数奇でドラマチックな人生を送ったことなどを踏まえると、白蓮は、どのような思いを込めてこの美しい洞内滝に名前を授けたのか、色々と考えさせられます。

白蓮は、命名にあたり「神代よりかくしおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ」との歌を詠んだそうですが、或いは、身分の高い家柄の縁者として生まれた女性が様々なものに縛られていた時代に翻弄されつつも自分の気持ちに素直に生きようとした自身の姿を、戦後になって世に出でたこの滝に重ね合わせる面もあったのかもしれません。

というわけで、そんなことを思いつつ一首。

秘められし情が溢れて岩穿ち 人も驚く滝あらはるる

白蓮は啄木とは接点がなかったようですが、もし啄木が長命できれば、当時の人々がもっと自由に、自分の気持ちに沿って生きることができるための何らかの共闘が見られたのかもしれず、その点は少し残念に思いました。

DSC06540

日本では、ここ以外で観光地化された洞内滝は、浜松市の竜ヶ岩洞(6年前に行きました)くらいではないかと思います。浜松の滝は割と簡単に行けたとの記憶ですが、こちらは、入口で貸与されたヘルメットを被り、ひたすら屈んで向かわなければなりません。そのため、肥満の方には、

滝観洞メタボの君は灰蓮洞

と言わざるを得ないように思われますので、ご注意ください。

滝観洞を拝見したあとは、釜石の鉄の歴史館に行きました。館内は製鉄そのものの歴史や社会での役割などを伝えるコーナーと、橋野から新日鐵住金に至る釜石の鉄の歴史を伝えるコーナーの2つから成り立っており、とりわけ橋野鉄鉱山が世界遺産(の構成資産)に指定されたことで、その点が重点的に取り上げられていました。

屋上からは釜石湾が臨めますが、その光景を遮るように釜石大観音が大きな姿を見せており、大観音がちょうど釜石湾の中央に鎮座していることがよく分かるものとなっています。

釜石大観音の建立は、大戦末期の釜石湾大砲撃(米戦艦群の艦砲射撃と戦闘機の無差別殺戮)で、700人以上の住民等が犠牲になったことへの慰霊という面もあると聞いたことがあるような気がします。

私のような世代は、TV等のせいか大観音が動き出して並み居る米艦群に向かって強力な熱光線を放つ光景を想像してしまいますが、それはさておき、観音像の背中を見ていると平和への祈りの姿を感じることができそうな気もします。

釜石湾 見守り祈る観音像 戦艦倒す砲は無くとも

IMG_0931

その後、釜石市に新たに開設された商業施設に赴いて、ちょうど開催されていた「釜石よいさ」をチラ見しつつ一休みした後、鵜住居地区を経由し橋野に向かいました。

休憩場所で頂戴したパンフレットに鵜住居の根浜海岸の美しい姿が掲載されており、今もこの姿が残っているのかと期待して現地に向かったのですが、やはりというか、残念ながら津波で美しい砂浜は消失していました。

ちょうどワールドカップの競技場が出来上がっていましたが道路などの整備が追いついておらず、迷路のような状態になっていました。

ともあれ、気を取り直して橋野高炉跡に向かったのですが、到着した頃には同行者は全員車内で就寝しており、すでに午後6時近くにもなっていたので、やむなく私一人で駐車場から現地に向かうことにしました。

現地は霧に覆われ、誰一人おらず、静寂な雰囲気に包まれていました。

日が暮れて遺跡も霧に眠るとき熊も狸も車中うたた寝

IMG_0938

その後、笛吹峠を越えて遠野市街を経由して盛岡に戻りましたが、峠の周辺は完全に霧に覆われており、少し前に見た「肘折峠」という不可思議な夢で描かれていた幽界につながる世界を彷彿とさせるものがありました。

ともあれ、皆さんも滝観洞(住田)や釜石エリアを訪れて様々な非日常を体験していただければと思います。

みちのくの境界で郷土愛を叫ぶ

いわき編(昨年GW)の2日目は滝桜に立ち寄った後いわき市に向かい、まずは白水阿弥陀堂を訪問しました。

白水阿弥陀堂は中尊寺金色堂の建立者たる藤原清衡公の娘がいわき地方の有力者に嫁ぎ、その財力で建立されたもの・・と思っていたのですが、それは伝説の類なのだそうで、実際は地元の有力武士らが支援を持ち寄って建立したものの、平泉との繋がりがあったこと自体は間違いないため、それを権威ないし正統性の証として宣伝する中で、上記の伝説が形づくられたのではないか、という趣旨の話がパンフに書いてありました。

阿弥陀堂自体はコンパクトな建物でしたが、毛越寺によく似た浄土式庭園があり、後背の山林を借景として相応に見応えのある雰囲気だと感じました。

パンフによれば、全盛期~江戸時代はこの数倍の規模があったものの、明治の廃仏毀釈騒動で多数の伽藍などが被害に遭ったため阿弥陀堂だけが残ったとのことで、「廃仏毀釈被害に関する北の横綱」というべき?浄法寺の天台寺と同様に、残念な思いを禁じ得ませんでした。

ともあれ、都人のエゴを発端とする悲惨な抗争と犠牲の末に平泉文化を開いた清衡公に縁を持ち、近代には薩長の威を借りた文化財破壊の被害に遭いつつ、現代もなお浄土を願い静かに祈りを続けているという点で、この地(白水阿弥陀堂)もまた、みちのくの歴史を凝縮したような面があると言ってよいのではと思います。

そんなわけで、現代に生じた福島の苦難なども踏まえつつ、阿弥陀如来のご尊顔を拝して一首。

みちのくの御仏が知る血と涙 浄土は今もなすべきを問う

DSC05543     DSC05550

次に、阿弥陀堂から自動車ですぐの場所に常磐炭坑の往時の様子を展示した「みろく沢炭鉱資料館」があることが分かったので、そちらに向かいました。

資料館は小屋にビニールハウスを接続させた渋い施設で、小規模ですが味わいたっぷりの、ぜひ訪れていただきたい場所だと思います。

炭坑の入口跡がすぐ隣にありますが、注意を呼びかける男性が妙にニヤケ顔になっているのが気になりました。

IMG_0527  DSC05553

次いで、いわきのメイン施設の一つというべき複合水族館施設「アクアマリンふくしま」に行きました。私は昔から動物園よりも水族館の方が好きな性格らしく、浅虫・男鹿・松島(仙台)をはじめ、遠出すると動物園を素通りして水族館ばかり優先してしまう傾向があります。

それはさておき、さすがにGWのため大混雑しており魚介類より人垣を見た記憶しかないような気もしますが、施設の規模や充実度などは東北随一でしょうから、人の少ない時期に再訪しじっくりと拝見したいものです。

アクアマリンの建物は水上に浮かぶ潜水艦のような姿ですが、水族館の向こうには造成中の人工島と陸地を結ぶ巨大なベイブリッジ(小名浜マリンブリッジ)があり、水族館(潜水艦)とベイブリッジが海に向かって進もうとしているような光景は、周囲の「東北ばなれ」したアーバンリゾート的な光景(昨年に訪れた名古屋港周辺に似ています)も相まって、その先に福島の明るい未来と希望が続いているかのような印象を受けました。

DSC05559

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その後、県境を越えて、茨城県の北茨城市にある五浦(いづら)海岸六角堂に向かいました。

六角堂は太平洋に面した小さな崖の上にあり、明治期に日本美術や東洋美術などの復権に尽力したことで有名な岡倉天心が後半生を過ごした邸宅の敷地内に天心自ら設計して建てられたもので、ご本人が一人で自由な時間を過ごし思索を深める場として用いられていたようです。

六角堂は東日本大震災津波のため流失し近年に再建されたことでも有名で、そのニュースを見ていた関係もあり、ぜひ見たいと思って立ち寄りましたが、周辺の雰囲気もよく(男鹿半島や松島に近い雰囲気があります)、今度は岡倉天心美術館と名物のアンコウ鍋を食べに来たいものだと思いました。

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西欧列強による侵略・植民地化などの暴風が吹き荒れた時代にアジアの文化・芸術の復権に力を注いだ岡倉天心の運動ないし思想は、大日本帝国の躍進と共に社会の理解を得たものの、戦争の時代には侵略の正当化に悪用されたこともあり、その後は「アジアを一つに」という天心の思想は腫れ物のように扱われて不遇の時代が続いたようにも思われます。

しかし、中国の強大化や北朝鮮を巡る緊張などアジアが改めて世界規模の紛争の震源地になりうる状況になっている今、改めて天心の思想の再評価と運動の現代的な継承が図られるべきではないかと思います。

それこそ、この地(六角堂ないし北茨城市)が原発事故のため良くも悪くも世界の注目を集めた福島に隣接していることを前向きに捉えて、アジアないし世界の結束に向けた取り組みをしていただければと思います。

訪問時に初めて知ったのですが、震災後に復興支援映画と題して岡倉天心の苦闘を描いた「天心」という映画が制作・上映されたのだそうで、隣接する五浦岬公園には撮影のため再現した当時の建物(日本美術院)や映画の説明資料などが残されており、いずれ映画も拝見できればと思いました。
http://eiga-tenshin.com/official/

このブログでは、二戸出身の田中舘秀三・東北帝大教授が大日本帝国軍の侵攻に伴う大戦の混乱からシンガポールなどの学術資産を守った出来事を紹介し、その物語の映画化を期待する目的でシナリオ案の連載をしたことがありますが、今それが実現できるのであれば、竹中氏は秀三先生を演ずるに最も相応しい御仁の一人と思われ、そうした意味も含め、この地の方々を羨ましく感じました。

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その後、本日の宿泊地であるいわき湯本温泉に向かうためいわきに戻りましたが、折角なので、県境のある勿来の関の跡(擬定地)に立ち寄ることにしました。

勿来関は、白河関(4号線)、鼠ヶ関(日本海側=新潟・山形県境)と並んで古代にあっては大和国家の北限(蝦夷領域との国境)となった場所であり、平安朝から近代に至るまで、多くの歌人に歌枕として詠まれたことでも知られています。

といっても、頼朝(鎌倉軍)による征服までは大和国家に対する自治独立を保った北東北(北奥)とは異なり、いわき(磐城国)は飛鳥時代ころには既に大和国家の一部として、その統治体制に組み込まれていたようです。

そうした意味では、「化外の地」として大和国家とは独自の道を歩んだ北奥と異なり、福島は、古代には磐城国、中世は会津(秀吉・徳川政権による東北の監視役)、近代は郡山(明治政府の巨大開拓地)、現代は原発(首都圏への電力供給地)という形で、常に時の中央政府と強い関わりを持ちながら歩んできた歴史があると言ってよいでしょう。

それだけに北奥とは異なった形で中央権力のエゴに翻弄される面があるのだとしても、反面、北奥よりも遙かに「日本を動かす」チャンスに恵まれているのではと思いますし、現代の福島が「苦闘をバネに日本を変えるために打って出る」ような展開があれば、北奥の人々もそれを支えることができればと願わないでもありません。

私自身はこのまま静かでちっぽけな九度山のような日常に埋没してしまうのでしょうし、それが分相応とも思いますが、それで終わってよいのだろうかと余計なことを考えてしまうときもあります。

そんな悲哀?を感じつつ、丘の上の遊歩道に並べられた多くの歌碑の真似事をしたくなって一首。

さむらいは名こそ惜しみて身を捨てて 志遂ぐ死地を待つべし

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その日にお世話になった宿は家族向けにリーズナブルなサービスを提供していただきましたが、夕食に関しては質より量の印象は否めず、私には珍しく、遺憾ながら食べきれずに残してしまいました。そんなわけで、

くいだおれ家族そろって呻く夜

といった有様の方が私にはお似合いのようです。

町弁が久慈に来たりて じぇじぇ歌人

昨年末頃から業務と私用で一杯一杯の状態が続き、とりわけ2月になって書面の締切が続いたことから、ブログの投稿が困難となっています。

久しぶりに少し一息ついたので、1月下旬に弁護士会の企画で久慈商工会議所での相談会を担当したときのことについて載せることにします。

午後1時から午後3時まで2時間(30分ごと計4人)の枠が設けられていたのですが、前日の昼の時点で予約ゼロと報告されたので、応募するんじゃなかったと後悔したのですが、夕方になって1件予約ありとの連絡があったので、エア宅急便だけは免れたと思いつつ、久慈に向かいました。

この日は東京は大寒波に見舞われていましたが往路は順調そのもので、想定より1時間近く前に到着したので、思い切って小袖海岸に向かうことにしました。

小袖海岸のシンボルの一つである「つりがね洞」は昔から存在だけは知っているのですが、これまで訪れるたびに通行止め(工事)やら時間切れやらで赴くことができず、今回こそはと思って行くことにしたものです。

で、最初の「行けなかった日」である修習生のときから数えて足かけ20年ほどを経て、ついに、つりがね洞に辿り着きました。

昔は「洞」の内部に岩が鐘のようにぶら下がっていたそうですが、今は鐘を無くした空洞がその名称と共に欠落を強調するかのように存在感を訴えているように見受けられます。

そんな光景を眺めつつ自分の心にも開いた穴があるのだろうかなどと思って一首。

人生の峠を越えて見る海は 夢の隙間を埋める旅路か

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小袖海岸の海女センター周辺は、1~2年前に大手生保会社さんのご依頼で相続セミナーを久慈で行った際に山側ルートでチラ見だけしましたが、折角なのでそこまでは行くことにしました。途中の海岸線は、内陸部とは違った冬の厳しさ、美しさを感じさせる見応えのある光景になっていました。

荒磯の波と雨雪 あのひとの涙と思い寒さかみしむ

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なんだか短歌というより演歌みたいな感じですが、ともあれ、ゴールの夫婦岩まで到着し、去り際にまた一句。

おらおらで じぇじぇじぇの浜に ひとりいぐ

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商工会議所に到着した際は目の前のお寿司屋さんにも行きたかったですが、悲願?の小袖海岸を優先したため、昼食は、泣く泣く寿司を諦めてコンビニサンドで済ませました。

で、会場に戻ったところ予約の1件のほか新たにもう1件追加申込があり、2件分の相談対応をしてきました。

双方とも弁護士への相談が必要相当な案件で、うち1件は訴訟受任などの可能性を含めた会社業務に関する様々なご相談があり、1時間近くも要するものでしたので、結果として久慈まで往復した甲斐はあったと思います。

午後3時過ぎに終了となり、道の駅でウルイやサメの切り身など「自分用の土産」を買い込んで久慈を出発しました。九戸ICまでの北上高地は降雪で白一色に染まった森を微かな陽光が照らす幻想的な姿に包まれており、その光景に溶けてしまいたいと思いながら、快適に走行することができました。

銀世界 白に消えんと願う身の 胸の残り火 そを妨げる

ところが、なんということでしょう。

浄法寺ICに辿り着くと通行止めを理由に強制退場を余儀なくされました。盛岡では大雪状態という情報は得ていましたが、浄法寺の空は何の問題もない薄曇りの晴天で、これで通行止めと言われても納得できません。

ただ、どうせ安比~安代周辺=奥羽山脈の吹雪が原因だろう、松尾ICに着けば高速に戻れるだろう、吹雪が終わったのなら安代ICで復帰できるかもと淡い期待を抱いて、4号線に戻らず、そのまま安代=高速沿いに県道を南下することにしました。

すると、少し調べたところ、滝沢ICまで通行止めになっているとのことで、これでは途中で高速に戻ることもできず、並行路(国道282号)は同じ境遇の車両で大渋滞は不可避と思い、いっそ一戸に戻り国道4号線で南下する方が賢明かとも思いましたが、すでに安代IC近くまで来てしまったので、今更と思い、やむなくそのまま南下を続けました。

やはり、安比が近づくにつれ国道は混雑気味になり、これでは1時間で足る帰路が3時間以上になるかも、と意気消沈せざるを得ません。そんなわけで、安比の温泉地帯を横目に峠道を上り下りしながら一首。

高速が止まりまさかの大迂回 雪見温泉 寄る金もなく

結局、安比(竜ヶ森)の峠を越えて松尾八幡平ICの手前に辿り着いた時点で、ちょうど通行止めが解除され、無事に高速で盛岡に戻ることができ、通常の1時間遅れで済みました。

帰宅後、朝には晴天だったとはいえ、こんな日に洗濯物を外に干した我が身の愚かさを呪ったことは申すまでもありません。

女子高の夏のみやげは

半年前の話ですが、岩手女子高に少しだけお邪魔してきました。

もちろん不審者の類ではなく、岩手女子高が私の所属する盛岡北ロータリークラブの「インターアクトクラブ」になっており(相互交流の協定のようなもの)、私が担当委員長を拝命している関係で、会長さんから「学園祭の招待状が来たので付き合え」とお達しを受け、伺った次第です。

といっても、当クラブのため特別に作成した招待状ではなく同校と何らかの繋がりのある方々に向けて広く配布したもので、お邪魔した際も、引率があるわけではなく学園祭を自由にご覧下さいね、という形でしたので、インターアクトクラブの運営主体である「JRCクラブ」さんの活動発表に関する部屋を拝見し、お茶コーナーの1杯無料券をいただいたあとは、ほどなくお暇させていただきました。

私は、現在では女子高はもちろん学校の類に立ち入ることはほとんどありませんが、東京の勤務時代(H12~13頃)、東京弁護士会の有志が行っていた「中学・高校に出張して学校の授業で模擬裁判を行う(設営・指導する)企画」に加わり、何度か都内の高校にお邪魔したことがあります。

もともと元締め役の方が盛岡修習の先輩であったため、折角のご縁ということで加わっただけなのですが、男子校出身者ですので「こんな機会でもきゃ女子高には行けないよ」という勧誘に屈した?面も(激しく)あったかもしれません。

それはさてき、その際は、その元締め先生が作成されたシナリオをもとに、弁護人や検察官を担当する生徒さんとシナリオに記載された尋問事項をどのようにアレンジし被告人役に話して貰うか(追い詰めるか)を話し合ったり、新シナリオ作成チームに参加して議論や作業をしたこともあり、色々と懐かしい思い出となっています。

岩手に戻ってからは、私の多忙さや出不精などのため岩手弁護士会のその種の企画に加わる(誘われる)こともなく、高校にお邪魔したのは約15年ぶりのことでした。といっても、学園祭の様子を少し拝見しただけですので、「訪問」というほどのことでもありませんが・・

ロータリーの「インターアクトクラブ」という制度は、社会奉仕活動を目的とした特定の学校(中学・高校)の活動を特定のロータリークラブが支援し交流する(そのことによりロータリーとして青少年奉仕を行う)ことを目的ないし理念としているようですが、当クラブに関しては、年末のクリスマス会(例会場であるホテルニューウィングでの会食)に招待し、出し物(歌など)を披露いただくという程度の関わりに止まっているように思われ、そのままでよいのかと残念に思うところはあります。

現在の若年者は、核家族化などの影響で、昔に比べて地域の様々な大人達と接して様々な考え方などを学ぶ機会が乏しくなっており、そのことが、若年層が犠牲になる一部の残念な事件や社会現象の背景にあると考えます。

ロータリー会員の大半は、地域内の相応の規模の企業を長年に亘り真面目に経営してきた方々ですので、1年に1回程度(せいぜい1~2時間程度)でも、生徒さんが有志を募り各人の希望に応じて会員企業などを訪問し様々な仕事の有り様や背中を学ぶ機会があってもよいのでは、と思わないでもありません。

岩手女子高の生徒さんは看護や介護の道に進む方が多いとのことで、弁護士の話を聞きたいという人はほとんどいないでしょうが(何年も前に、法律実務家を目指しているという盛岡一高の生徒さんから、授業の一貫として職場訪問の要請を受けたことはあります)、4年後?には、高校で「現代社会」に代えて「公共」なる必修科目を設けるそうなので、法律や裁判の実情などについて実務家の話を聞いて学ぶ機会があってもよいのでは、などと思わないでもありません。

まあ、私自身にその準備のため汗をかけと言われると、日々の仕事等に追われて・・というのが恥ずかしい現実ではありますが。

ところで、その日の訪問は往路は概ね好天だったので事務所から自転車で赴いたのですが(予報も一日晴天)、見学中にどしゃ降りとなり、やむなく、会長さんと15分ほど玄関で時間つぶしをしたものの、止む気配がないということで、仕方なく雨天のまま自転車で帰宅しました。

で、お約束どおりというか、帰宅直後に雨が止んで晴天となりましたが、私の精進が足りないのでバケツの水でも被って出直しなさいとの見えざる力が働いたのかもしれません。そんなわけで一句。

女子高の夏のみやげは どしゃぶり刑

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このおうちの変と北奥のボソっと道

本ブログを何度もご覧いただいている方はご存知かと思いますが、私は時折、短歌(狂歌?)や川柳(俳句?)の真似事をするのが現在のささやかな楽しみになっており、奥のほそ道に倣って多少の文章を書いた上で一句(一首)を載せるのを常としています。

といっても、学校の国語の時間以外に短歌や俳句などを勉強したことはもちろんなく完全な自己流なので、その種の教養のある方にとっては見苦しい限りなのかもしれません。

ただ、短歌であれ川柳・俳句であれ、特別な技量や素養のある方々の世界を大切にしつつ、「防人の歌」のように一般大衆が素朴に感じたこと、考えたことを表現したり、そのことにより時代を何らかの形で映し出すような営みが盛んになって良いのではないかと思っており、そうした理由から、敢えて厚顔無恥ぶりを発揮して、今後も気に入ったものが出来上がれば、懲りずに投稿し続けたいと思っています。

今も昔も、功成り名遂げた立派な弁護士さんが回顧録などを出版なさる光景をよく目にしますので、いつの日かそうした方々に対抗?して「北奥のボソっと道」などと題し、ブログで掲載した短歌や川柳を文章を添えて出版してみたい・・などと妄念に囚われないこともありませんが、一笑に付されるだけというのが関の山でしょう。

というわけで、連歌?を気取るわけではありませんが、先日思いついたものを何点か。

家事はいま 私せんたく 妻はネコ 鈴の音で知る このおうちの変

カビ落つる クーラーの風せきとめて

網戸ふき 今年の手相も黒一色

教育の抗弁 こちらに勝ち目なし

今宵また家と事務所の天の川 共にソファで仰ぐ星空

余談ながら、5月に旅先で芸能人の方々が俳句の腕を競い合う「プレバト!!」なる番組を始めて知りましたが、夏井先生の添削シーンを拝見しながら、私はどうしても理屈がちで言葉がほとばしるような作品は作れないので、せいぜい凡人2位止まりだろうと痛感せざるを得ませんでした。