北奥法律事務所

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田中舘秀三

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第4回 あらすじ案③大戦編2~奇跡の楽園と殺意

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第3回です。

***

秀三の前に現れた男は、リー・クアンユー(李光耀)と名乗り、日本軍政の協力者として報道や翻訳などの業務に従事していること、自分の友人が過去に植物園で働いており、一旦は仕事を離れていたが、以前の仕事に戻りたいと考えているので雇って欲しいこと、但し、待遇は問わない代わりに、今は怪我をしているので、しばらくは園内の人目に付かない場所で寝泊まりさせて欲しいこと、回復後も目立たない場所で仕事をさせて欲しいことなどを申し出てきた。

秀三は、リーの真意を察し、あえて質問をせず、次のように話した。

自分は愛国者であり、誰よりも天皇陛下を崇敬する者である。しかし、軍の馬鹿どもは、偉大な生物学者であり心から学問と平和を愛する陛下のご心中を理解することなく、愚かな戦争を起こしてアジアの人々と文化・学術資産に多大な迷惑を掛けている。

自分は、シンガポール陥落に伴う戦災の混乱から人類共通の宝である文化財や学術資産を守らなければならぬとの思いで、単身この地にやってきたのだ。だから、この目的を達成するためには、軍の意向に反することを行うことも厭わないし、危ない橋を渡る覚悟も持っている、と。

また、秀三は、今、軍の馬鹿どもによる華人への殺戮の嵐が吹き荒れていることは自分も知っている、間違ったことであることはよく分かっているが、自分にはそれを止める力がなく悔しく思っている、だからせめて、植物園や博物館などを守ることを通じて、できることをしたい、とも告げた。

リーも、秀三の言葉もさることながら、様子から通じるものがあったのだろう。自分は表向きは日本の協力者として従事しつつ、実際は市内の抗日華人を支援する活動に従事していることを明かした。

そして、今、助けを求めている男の名はヤン・タイロン(楊泰隆)といい、もとは植物園のスタッフだったが、降伏前から抗日運動に身を投じて活動し、先日、軍に捕まって拷問を受けていたものの、逃げ出してリーに保護され、匿われているのだという。

秀三はヤンの身柄保護を約束し、日中は身を隠しながら植物園のジャングルなどの管理を担当させて、夜は私設秘書のように自分の話し相手として重宝するようになった。

これは、ヤンに会ってみると、ことのほか植物学や園内・島内の植物への知識が豊富で、シンガポール社会への理解も深く、火山や地質の専門家で植物にはさほど明るくない秀三にとって、英国人学者らに匹敵するほど学ぶところが大きい面があったからだった。

そして、コーナーらにも抗日運動関与の点を伏せつつ、ヤンの植物学への知見を研究に生かして欲しいと説明し、3人の間には民族を超えた友情が芽生えるようになった。秀三の運営も軌道に乗り、秀三が管理する植物園や博物館は圧政下の市内におけるユートピアのような様相を呈しつつあった。

秀三が一時帰国して戻った際に、「コーナー君の著作(東南アジアの植物を紹介したもの。当時の一級資料)を天皇陛下に献上して感謝の言葉を賜った」と説明する出来事もあり、秀三の方針のもと、秀三たち日本人、英国人ら研究者、ヤンら現地スタッフが、ほとんど対等な立場で良好な関係を形成していた。

やがて、リーからは、ヤンに限らず、時折、日本軍の追求(拘束手配)から逃走中の抗日華僑を一時的に匿って欲しいなどの要請が秀三のもとに寄せられるようになり、園内では秀三の了解のもとヤンがその対応をするようになっていた。

その頃、華人への虐殺行為に止まらず様々な抑圧政策を指揮していた辻参謀は、植物園などに不穏な様子があるのではないかと感じていた。端的には、秀三が抗日分子と通じているのではと疑っていたのだ。もちろん、そのような行動は、辻にとって国家への反逆行為に他ならず、絶対に許すべきものではない。

しかし、秀三が、曲がりなりにも山下司令官から辞令を受けた日本人高級官吏という手前、証拠なしに粛清することはできない。一度は、口実を作って園内に踏み込むも、様子を察したヤンの気転と、それに連動して秀三が大東亜のあり方を巡って辻と議論を繰り広げた「時間稼ぎ」で危機を乗り切るということもあった。

やむなく、秀三の素性や来島した経緯などを調査し、派遣元から打ち切らせる方向で画策するようになった辻。すると、焦る辻の様子を察した部下が、独断で秀三の暗殺を目論み、トライショー(人力車)で移動中の秀三を狙撃した。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第3回 あらすじ案②大戦編1~舞い降りた男と英国人学者

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第2回です。

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ここで、物語は太平洋戦争(大東亜戦争、15年戦争などと称される一連の戦争の後半戦)の開始から間もないシンガポールに移る。

1942年2月15日、英国領(植民地)であるシンガポールは、マレー半島に上陸した日本軍(大日本帝国軍)の電撃的な侵攻により敢えなく陥落・無条件降伏。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文中将の、英国軍司令官に対する「イエスかノーか」の決め台詞と相俟って、日本国民は熱狂に酔いしれ、戦争の大義や勝利を疑わない者がほとんどという有様だった。

占領を開始した日本軍は、東南アジア最大級の植民都市であるこの街を「昭和に得た南の島」こと昭南島と名付けて日本の領土とする旨を世界に宣言。いわば、島全体を大英帝国から分捕った戦利品のように扱った。

この敗戦は、チャーチル首相をして「英国軍の歴史上最悪の惨事であり最大の降伏」と言わしめたが、現地では続々と軍人が街の主要拠点を占拠する一方、現地住民や一部の軍人などによる様々な問題行動も生じており、混乱の極みにあった。

また、東南アジア侵攻の作戦計画で辣腕を振るった陸軍参謀・辻政信は、この街の繁栄を支える華僑(華人)が中国戦線の抗日活動を多大に支援し、そのことで日本軍の進撃が滞っているとして、華僑の大規模な摘発・処分(殺戮)を提案し、今まさにそれを実行に移そうとしていた。

ノモンハン事件で関東軍がソ連軍に大敗する原因を作りながらも巧みに責任追及を免れた辻は、そのことを知る一部の軍関係者を見返すため、マレー侵攻と華僑粛清を通じて名誉挽回や自身の影響力拡大、ひいては「日本民族による大東亜共栄圏(アジア・太平洋全体)の建国を成し遂げ、自分がその指導者となる」という野望の実現を求めていたのだ。

そのような中、降伏の3日後にシンガポールに現れた、風采はあがらないものの力強い目をした57歳の日本人学者がいた。現在の二戸市(岩手県二戸郡福岡町)出身で東京帝大卒、当時は東北帝大の講師に過ぎなかった、田中舘秀三である。

秀三は、変わり者の地質・火山学者として業界では知られ、直前までベトナムのサイゴン(ホーチミン)で調査研究活動をしていた。そんな秀三がどうしてやってきたのか、その理由かはよく分からないが、突然、シンガポールに訪れたのだ。

秀三は市内に到着してすぐに、軍の指示で行政を統括する者らが詰めている庁舎を訪問した。秀三は、サイゴンを飛び立つ前に「自分は日本学術会議から派遣されてサイゴンにいたが、シンガポール陥落の際に当地の貴重な学術資産や文化財が毀損されるおそれがあり、これを防ぎ保全すべしとの陛下の意向を受け、当地に派遣されることとなった」との電報を打っていた。

そして、行政担当者と面談して現地の様子を確認したところ、担当者から、「植物園の副園長をしていた英国人学者が植物園や博物館、収蔵品や書籍類などの保護を求めているが、対処できる者が誰もおらず困っていた。早速、引き受けて貰えないか」と頼んできた。

実際、シンガポール植物園や博物館、附属図書館などは、この街を無人に近い孤島からアジア有数の都市に作り替えた大英帝国による、長年に亘る東南アジア全域の学術研究拠点であり、植物園はいわゆる観光施設の類ではなく、自然文化資産の保護・保全に加えてゴム産業を初めとする諸産業の支援なども目的とする研究施設でもあった

そうした実情を以前から知り、すべて任せて欲しいと告げた秀三は、すぐに、本来は拘束されるはずの身ながら「シンガポール総督の特別な要請」として危険を顧みず単身で日本側に嘆願し文化財の保護を求めていた、E・J・H・コーナーという若い気骨ある英国人学者と面談した。

そして、コーナーに対して「私が来たからにはもう大丈夫だ」と告げて不思議な安心感を持たせると共に、混乱に乗じて建物や敷地に侵入してきた現地人を怒鳴って追い出した上、山下司令官にも直談判し、「自分は生物学者でもある天皇陛下の名代として、学術資産や文化財の保護のために派遣されたのだ」と啖呵を切って自分を臨時の館長に任命させ、植物園や博物館など貴重な文物の略奪等は軍民問わず一切を許さず、憲兵の護衛を付けると共に、軍人など日本人もみだりに立ち入らせない旨を確約させた。

但し、施設の維持などは軍(国)から一切の費用は出ず、すべては秀三が自己責任で行うとの条件付きで。

かくして、秀三は、コーナーら同じ志のある関係者と協力し、時には軍人や現地住民らと衝突するリスクなども背負いながら、植物園や博物館、図書館の保全をはじめ他の施設などに遺棄された書籍などを含め、多くの学術資産・文化財の保護に奔走した。

秀三は当初こそ金策に窮していたが、東北の寒村の出身で個人的な資産は微塵もないはずなのに、時折どこからともなく大金を調達し、コーナーら仮釈放させた英国人学者を含む現地スタッフの生活費、さらには文化財や施設の修復、研究費用まで賄うようになった。

もちろん、運営に必要な資金や物資はそれだけで賄えるものではなく、時には、英国人建物などから書籍などを収集、保護した際に食糧を発見し、それで急場を凌いだこともあった。

軍政下の市内では、高級軍人や一部の官吏は支配者気分で贅沢を謳歌していたが、秀三は到着以来、一度も着替えることなくボロ服のままで、コーナーらが恐縮したまには着替えをして欲しいと頼むような有様だった。

他方、秀三らのそうした努力が成果を上げつつある姿のすぐ隣では、日本軍が、ナチスのユダヤ人狩りのように、犠牲者は数千人から数万人とも呼ばれるシンガポール市内の華僑の大規模な連行と虐殺を、流れ作業のような冷酷さで実行していた

シンガポール陥落は日本軍にとっても楽な戦争ではなく、戦術的奇策により兵站が尽きる寸前で降伏に追い込んだ薄氷の勝利であり、直前には華僑義勇軍の激烈な抵抗により多数の戦死者も生じていたことなどから、兵士達の中には報復感情などから蛮行への抵抗感が麻痺していた者も少なからずいたのだ。

そうした光景を何もできずに見て見ぬふりをするしかないコーナーや秀三ら。無辜の犠牲者達の中には日本の侵略前にコーナーが世話になっていた人々もおり、コーナーは憤怒と悔しさと無力感で打ちひしがれずにはいられなかったが、秀三もコーナーにかけてやれる言葉もなく、「こんなことをして、国が続くものか」と英語で呟くのが精一杯だった。

もちろん、コーナーは日本軍の侵略や占領を歓迎するはずもなく、できることなら自らも抗日ゲリラに身を投じて同胞の無念を晴らしたいとの思いを時に抑えながら、自らの信念であり総督からの要請でもあった学術・文化資産の保護を最後まで貫きたいとの思いだけを自分の支えに、辛く悲しい気持ちを堪えて、孤独な作業に従事し続けていたに過ぎない。

秀三も、そうしたコーナーの心中を察し、軍などが関係する難しい折衝には関与させず、現地に残された英国の学術資産の確保や保全などに専念できるよう、また、時には気が紛れるような経験もできるよう配慮していた。

そうして2週間ほどが経過し、植物園や博物館などへの不正な侵入や略奪の防止の措置も概ね目処が立ち、当初の混乱も落ち着きを見せつつあったある日の晩、ずば抜けた何かを感じさせる、厳しく鋭い眼光をした一人の若い華人青年が秀三のもとを訪ねてきた。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第2回 あらすじ案①現代編1~ふてくされた気持ちの中で

前回に企画構想を述べた、「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」に関するシナリオ案の第1回です。映画化推進に賛同いただける方は、第10回の投稿で予定している構想案をぜひご覧下さい。

作成にあたっては、博士の業績を紹介したブログなど(先日、ブログで紹介されていた幾つかの書籍も入手しました。第9回の投稿で表示します)を参考にしていますが、映画(2時間程度のドラマ)として仕上げる必要や秀三博士と現地シンガポール人との関わりを重視するというコンセプトにしたこと、事実経過に関する私の理解力や文章構成力の問題などから、文献に基づく史実について若干の改変をさせていただいています。

あと、現代華人の人名に関する私の知識(引出し)が極めて薄弱のため、とってつけたように某銀河英雄小説の主要人物のお名前を拝借しています。さすがに世に出す際は同じ名前は無理でしょうから、その点はブログ限りということで、ご容赦下さい(本あらすじ案で作品化できるのなら、コーナー博士の著作に登場するタウケイの名をもとに創作するのがよいかもしれません)。

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物語は2006年の東京からはじまる。主人公・下斗米(しもとまい)千代は、2年前から日本では大手の一角を占める企業法務中心の法律事務所に勤務する若い弁護士である。

千代は、盛岡で小さな町弁事務所を営む父には、「自分は父の事務所は継がない。気鋭の渉外弁護士として名を上げた後、政界に打って出て首相に上り詰めてやる」と豪語しているが、実際のところは事務所のハードな仕事や競争に疲れ果て、先日は、修習生時代からの交際男性(検事)にまで「自分の職場で知り合った若い事務官と恋仲になり結婚することにした」と一方的にフラれてしまうという、公私とも残念な日々を過ごしていた。

ある日、千代は事務所の上司である英国人弁護士トーマスから、シンガポールの顧客企業の法務部門への半年間の出向を命じられる。当時はまだ日本の渉外事務所のアジア進出は盛んではなく、同期の仲間は英米の有名大学への留学や著名法律事務所に出向していた。シンガポールの顧客企業の出向などというのは事務所内でも前例がなく、出世コースから外れると感じざるを得なかった。

辞めて都内の町弁事務所に転職しようかなどと思いながらも、「その前にリゾート生活を楽しんでやる」などと軽い気持ちでシンガポールに赴任した千代を待っていたのは、出向先企業の上司で同国弁護士でもある、ヤン・ウェンリー(楊文里)による冷淡で過酷な業務命令だった。

来星から2週間ほど経過し、同国での生活にも多少は馴染んできた千代が、セントーサ島のビーチで遊んできた話を同僚と話していたところ、ヤンが不快感を露わにして席を立つ一幕があった。同僚は、ヤンの祖父が戦時中に抗日活動をして日本軍から拷問を受けたこと、親族を含む多くの華人が日本軍に虐殺され、セントーサ島のビーチに遺棄されたことなどから、今も日本に不信感を抱いており、セントーサを単なるリゾートにしか思っていない今どきの日本人に怒りを感じていることなどを教えてくれた。

もともと仕方なくシンガポールに来ただけの千代は、そうした過去の戦争の暗い歴史を何一つ学んでいなかったのだ。

それからほどなくして、出向先企業に激震が走る。中国系の大手企業による、敵対的買収工作が発覚したのだ。しかも、その買収を支援している中国の法律事務所には、千代の事務所のライバル事務所であり強欲な仕事ぶりで評判の悪い、日本の別の大手事務所が協力していることも伝わってきた。

買収防止策に懸命に取り組むヤンや同僚たち。しかし、誰よりもその中に入って成果を出したい千代に、ヤンは決して関与を命じようとしない。

レポートを提出しても相手にされず、蚊帳の外に追いやられて他の雑務に追われる千代は、せめてもの慰めに、父の実家である二戸市の名勝・馬仙峡(男神岩・女神岩)が白雪を纏って青空に映える姿を写した、小さな写真立てを執務席の上に置いた。これは、千代が子供の頃に何度か二戸を訪ねていた際に撮影したお気に入りの写真だった。

すると、その写真を見て動揺する男がいた。他ならぬヤンである。ヤンが千代に、その写真はどこか、どうしてそれを持っているのかと聞き、千代が答えると、ヤンなりに思うところがあったようだ。それまで食事などでも千代に全く関わろうとしなかったヤンは、その日の晩、話がしたいと言い、突然、千代を行きつけのホーカーズ(大衆食堂)に誘った。

そのときヤンが見せたのは、千代の写真と同じ「白雪を纏って青空に映える冬の馬仙峡」や昔の日本を描いたと思われる古ぼけた幾つかの水彩画、そして、日本人、アジア人、西洋人と思われる3人の男が談笑する姿を描いた鉛筆画のスケッチだった。

ヤンは、鉛筆画に描かれているアジア人が自分の祖父、ヤン・タイロン(楊泰隆)であり、日本人はヒデゾウ(秀三)という名の日本の学者で、もう一人の西洋人は、E・J・H・コーナーという英国人学者を指しているのだと告げた。

そして、秀三は祖父の大切な恩人であること、自分がこの水彩画と鉛筆画を持っている理由も伝えたいと述べ、ヤンが祖父や父から聞いたという出来事を訥々と語り始めた・・・

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第1回:企画案とあらすじ導入部

前回の投稿で述べたとおり、今回から「田中舘秀三博士の活躍の映画化を目指すべく賛同者や本職の方の参考にしていただくためのシナリオ案を提供する」との見地から、秀三博士の物語について、計11回という当ブログ史上はじめての途方もない?連載を開始します。

末尾の「あらすじ案(導入部)」をご覧になって関心を持っていただいた方は、どうか、呆れ果てることなく、最後までお付き合い下さるようお願いいたします。

なお、「あとがき」でも触れますが、シナリオ案のうち秀三博士らが植物園などを守るため奮闘した光景は概ね参考文献を要約したものですが、今回の主要人物であるシンガポール華人らとの関わりや「悪のカリスマ参謀との対決」などは当方独自の創作ですので、その点はご理解のほどお願いします。

シンガポールに行く前からこんな馬鹿げた?ことを考えていたわけではなく、思い立ったのは帰路の機内です。飛行機では映画を見るより本を読む方が好きなので、往路は本を読んでいたのですが、往路の着陸直前に、それまで拝見する機会のなかった「君の名は」が入っているのを発見したので、復路はひたすら拝見していました。

個人的には幾つかの場面や設定が懐かしのジャンプ作品「きまぐれオレンジロード」を思わずにはいられませんでしたが、それはさておき、秀三博士の顕彰のあり方としては映画が一番よいのでは?と思うようになり、帰国直後に博士を巡る物語についてあれこれ調べたところ、ますますその意を強くしました。

代表的文献であるコーナー博士の本(昭和57年刊の中公新書)では、訳者(石井美樹子氏)が「華々しい戦争シーンもなく、遠い東南アジアの博物館を守った物語なんてニーズはないと出版社に言われ難航した」と仰っていましたが、当時はともかく、今であれば、「縮まる世界」の中でシンガポールは十分に身近な国ですし、秀三博士らの功績も昭和57年当時よりも今の日本人の方が、価値を理解できる人が多いのではないかと思います。

そんなわけで、

→秀三博士の物語(の価値)を世間に伝えるには映画化が一番だ。
→しかし、埋もれた逸話なので、映画化してくれと叫んだだけでは誰もやってくれそうにない。

→いっそ映画化あらすじ案を作って関心を持ってくれる人がいれば、プロの耳に届いて本物を作ってくれる日も来るのでは?

→プロに関心を抱かせるため(素材提供)の「あらすじ原々案」くらいなら、自分でも考えつきそうだ。
→華人虐殺は日本陸軍の「悪のカリスマ」が絡むので、悪玉として対決させれば見応えも増すはず。

→どうせなら、シンガポールを建国した地元民との繋がりも描いた方がウケがいいのでは。
→それなら、「男たちの大和」の真似で現代パートも作り、現代人が過去を回想する展開はどうか。

→他の業界は分からないので、主人公をシンガポールに赴任する岩手出身の渉外弁護士にしよう。
→ラストシーンは、あれをネタ(舞台)にするのがお約束でしょう。

といった発想で、恥も外聞も捨てて?とりあえず作ってみた次第です。

余談ながら、往路で読んでいたのは、著名ブロガー・ちきりんさんの「自分の時間を取り戻そう」という本で、「高生産性シフト時代」を見据え、個々人の作業の生産性の向上を強く提案する趣旨の内容でした。
http://www.diamond.co.jp/book/9784478101551.html

深夜にこんな非生産的な話を書く暇があったら休めと著者に叱られそうな気もしますが、もし本当に映画化が実現するのでしたら、ある意味、とても高生産的な営みをしたことになるかもしれず、後者に化ける日が来ることを願って、とりあえずサイトへの掲載は何を言われようとめげずに行いたいと思います。

【あらすじ案(導入部)】

時は2006年の東京。盛岡出身で東京の大手法律事務所に勤務する若手弁護士・千代は、上司にシンガポールの顧問先企業への半年間の出向を命じられる。出世コースから外れたと落胆する千代を待っていたのは、あの戦争がシンガポールに及ぼした惨禍を知らず観光気分でやってくる日本人を快く思わない顧問企業の直属上司・ヤンによる冷淡で過酷な業務命令だった。

ほどなく、顧問先企業に激震が走るも、対策チームから外され不遇感を託っていた千代。そんな千代がある日、執務机に置いた写真を見て驚いたヤンは、千代に古ぼけた水彩画を見せてくれた。

ヤンは、その絵が、日本の占領時にシンガポールの貴重な文化財を戦災から守り、抗日活動に携わるヤンの祖父を日本軍の追跡から守ってくれた、ヒデゾウ(田中舘秀三)という日本の学者から贈られたものだと告げ、祖父と父から聞いた話を語りはじめる。

それは、金もいらず名もいらず、大英帝国が東南アジアの大自然をもとに築き上げた人類の共通資産である膨大な学術資料と貴重な文化財、植物を混乱と略奪から守り抜き後世に遺すことだけを求めて立ち上がった、一人の風変わりな異端学者の物語だった・・・

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博士が守った世界遺産は黄昏と共に~シンガポール編⑤

シンガポール紀行&感想編の締めとして、最終日(3日目)について少し書きます。

この日は、午前中に「アジア最大級のリゾート地(シンガポールの観光立国の象徴)」と言われるシンガポール南部のセントーサ島に行ったものの、諸事情により、水族館「シーアクアリウム」と展望台「セントーサ・マーライオン」を見ただけで本島に戻りました。

セントーサ島はユニバーサルスタジオやウォーターパークをはじめ島全体がリゾート地として開発され、ビーチもあるそうですが、各種娯楽施設を備えた人口リゾート地としてはアジア最大級なのだろうと感じました。

といっても、そうしたものに関心の薄い私は、引率(ケーブルカーを利用したかった等の理由から往路のみH.I.Sのツアーを利用)のガイドさんに「日本軍が戦時中に多くの華人を虐殺した際、この島に多数の遺体を遺棄したという話を聞いたのですが、島内に慰霊碑などはありませんか」と尋ねたところ、慰霊碑などは無いが、シロソ砦に戦争に関する展示があるとの説明を受けました。

帰国後に少し調べてみたところ、以下のようなサイトを拝見し、次に来星の機会があれば、ぜひ訪れたいところだと思いました。
https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/lits-cafe/sato/singapore.html

今回の主要目的地であるシーアクアリウムは、「世界最大級の海洋水族館」とのことでしたが(こちらは海専門で、「川専門」のリバーサファリとの違いを出しているようです)、駆け足で通過せざるを得なかったことやいわゆるショーの類がないせいもあってか(イルカなどは尊厳保護の点からショー禁止が世界的潮流となっていることの影響でしょうか)、鳥羽や名古屋港など日本の著名水族館の方が大きいのでは?との印象はありました。
http://singapore.navi.com/miru/154/

それでも「世界最大の水槽」とされるメインのパノラマ水槽は圧倒的な迫力があるなど、十分に楽しめました。

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今回は駆け足にならざるを得なかったので、半ば勘違いで行けずに終わった「中世アジアの外洋船の博物館エリア」も含めて、もう一度、見に来たいものです(但し、ポケモンと称する他国の著作物ではなく自国オリジナルキャラで勝負すべきでしょう)。

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セントーサ・マーライオンからは、現代的な都市と自然が共存するシンガポールの美しい光景を堪能できたように思います。なお、エレベーターの手前には、どういう理由か他の海獣に関する人形とかポスター類などが展示されていましたが、シンガポール・ゴジラ(略して「シン・ゴジラ」)といった感じのものもありました。

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その後、H.I.Sから頂戴した「チキンライスの名店のタダ券」を何が何でも消化しなければとの思いで、オーチャード通りにある著名店で昼食をとりましたが、店内は同じ魂胆で来店した?日本人だらけだったこと、日本語メニューが最初からテーブルに置いてあり、メニューも定食(セットもの)ばかりで、日本国内のレストランに入ったような感じでしたので、雰囲気という点では、さほど有り難みがありませんでした(もちろん美味しくいただきましたが)。

なお、お店が入っている建物の下層階はアーケードになっていて、日本の著名ラーメン店やトンカツ屋さんなどもありました。

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そして、ホテルに一旦戻った後、チェックアウトし、ようやく私にとっての第一目的地であるシンガポール植物園に行きました。なお、前日のトラブルの関係で、ホテルの方には果物の差し入れまで頂戴してしまいましたが、追加料金の請求もされず、重ねて恐縮の限りです。

シンガポール編の初回の投稿でも述べたとおり、同郷の偉人・田中舘秀三博士が数奇な縁?により日本軍の侵略による戦災から守った世界遺産・シンガポール植物園を訪れて、博士の何らかの足跡を感じたいということが、個人的な旅の目的になっていました。

事前にネットで少し調べた限りでは、残念ながら植物園内に博士を顕彰した施設等はなく、シンガポール博物館に当時の写真が残されている程度だということは知っており、時間等の都合で今回は博物館への訪問は困難と思っていたので、せめて、園内の雰囲気だけでも味わいたいということで、地下鉄(MRT)で最近できた植物園に隣接する駅に向かいました。

駅の場所が、本来の正面玄関の反対側(裏門)ということで、メインエリアまでそこそこ歩かざるを得ず、疲労状態の同行家族の文句に耐えつつ、中心施設たる国立ラン園(ナショナル・オーキッド・ガーデン)と、シンボル的存在である「バンドスタンド」(かつて演奏が行われた綺麗な東屋。英国庭園的な上品さに包まれており、非常に雰囲気が良いです)を見ることができました(残念ながら携帯写真は容量オーバーで掲載困難のため、こちらのサイトなどをどうぞ)。
http://tropicalplant.air-nifty.com/top/2006/11/post_1.html
http://singapore.navi.com/special/5029491

ナショナル・オーキッド・ガーデンは、花のメインの季節ではなかったのか、夕方に行ったのが悪かったのか、ネット上の写真で見るほどの華々しさは感じませんでしたが、それでも、ここで数十年ないしそれ以上前に開発された花々が今や日本をはじめ世界中で咲き誇るようになったのだと思うと、感慨深いものがありました。

また、花々もさることながら、熱帯の個性的な多数の木々や巨木などが印象に残り、静閑な雰囲気もあって、しばらくここでのんびりすることができればとの思いにかられました。ちょうど、新婚さんがバンドスタンドや園内の人口滝などで写真撮影をしている光景や小動物にも出くわし、そうしたことも好ましく感じました(明るく写った携帯写真はすべて容量オーバーで掲載できず、デジカメ紛失が悔やまれます)。

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しかし、残念ながら、そこでタイムアウト。実質2日半だけの弾丸旅行は終了し、夜行便で羽田に強制送還されました。

とはいえ、植物園が第一の目的地であり、予定では最初に駆け足で来るはずだったのが、最後に、多少は時間をとって訪れることができたので、黄昏のバンドスタンドを眺めながら、旅のラストにはちょうど良かったと思わないでもありませんでした。

予告どおり、次回から田中舘秀三博士の物語について、映画化を目指した「あらすじ原案」のご紹介を中心に、以下の構成で計11回の連載を行います。

関心をお持ちいただける方は、ぜひ最後までご覧いただくと共に、映画化企画にご賛同いただける方は、それぞれの方法(ご自身で映画制作や原作小説の執筆など)に従事いただければ一番ですが、それは無理という方は、その種の業界に従事する方への「いいネタがあるぞ」というご紹介など。二戸や盛岡などの関係者は自治体などへの働きかけも含め)で、何らかのアクションを起こしていただければ幸いです。

【壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」】

第1回 企画案とあらすじ導入部
第2回 あらすじ案①現代編1~ふてくされた気持ちの中で
第3回 あらすじ案②大戦編1~舞い降りた男と英国人学者
第4回 あらすじ案③大戦編2~奇跡の楽園と殺意
第5回 あらすじ案④大戦編3~引継ぎの時
第6回 あらすじ案⑤大戦編4~学ぶ者たちの平等と誇り
第7回 あらすじ案⑥現代編2~そして花々は今も咲き続ける
第8回 あとがき
第9回 元ネタ(文献)のご紹介
第10回 映画化構想と賛同者の募集について
第11回 おまけ・田中舘父子と小保内家を巡る小話

ところで、2日目に宿泊先ホテル近くのアーケードを歩いていた際、シンガポールには珍しいスキー関係のお店を発見しました。この日のガイドさんは昨年?に札幌に観光に行ったと仰ってましたが、私の知る限り、岩手県(役所)や県民が、シンガポールと特別な結びつきを築いているとか、交流しているなどという話は聞いたことがありません。

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しかし、せっかく田中舘博士という偉大な触媒があるのですから、盛岡であれ二戸であれ、そのことを武器にしてスキー客誘致や各種交流・販路拡大に取り組むべきで、そうした方が現れないのであれば、とても残念なことだと思います。

岩手県(や盛岡など)は後藤新平などのご縁を通じて台湾との交流(集客)には熱心ですが、ひとつ覚えのように台湾の尻ばかり追いかける発想では、後藤新平も含め偉大な先人達に笑われるばかりでしょう。

あと、もう一つ余談ですが、シンガポールの地下鉄は、駅に着いて扉が開く際に女性の声で「ハピ、ハピ」というアナウンスが聞こえるため、これって「Happy Happy」と言っているのか、だとして、なんでそんなことを言っているのか、不思議に思っていたのですが、同じことを感じた方は多かったようで、「シンガポール ハピハピ」で検索すると、その答えが出てきます(ネタばらしをしても面白くないでしょうから引用はしません)。

最後に地下鉄からの一コマですが、優先席が日本と異なり各シートの脇=出入口に設けられており、こちらの方が良いのではと思いました。

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「世界で最も頑張る都市国家」が伝える75年前の宿題と現在の課題~シンガポール編①

先日、年末年始休暇の一貫として、シンガポールに家族旅行に行かせていただきました。といっても、当方の予算や時間の都合もあり、正月明けに出発し、往路も復路も夜行便で現地に2泊という実質2日半程度の超駆け足旅行になりました。

恥ずかしながら、現在の私(当事務所)の収入では海外旅行などという贅沢に手を染めるだけの力はないのですが、それなりの理由があって、思い切って過去の蓄えを取り崩して行くことにしました(正月を外したので、費用面はかなり助かりました)。

理由というのは、長期休暇の旅にバックパッカーをしていた修習時代と異なり、新婚旅行(エジプト弾丸の旅)以来、平成22年の日弁連の韓国調査を別とすれば十数年も海外旅行がご無沙汰になっていたということもありますが、大きく2つの事情があり、①家族に海外の実体験をさせ視野を拡げると共に、英語学習の必要性などを感じさせたいということと、②シンガポールにこだわるべき2つの特別の理由があったことの2点があります。

②については、ご承知のとおり、シンガポールは、もともと僅かなマレー系原住民しか住んでいなかった小島(淡路島≒東京23区程度)を大英帝国が貿易及び東南アジア支配のための植民都市として開発し、出稼ぎ華人・マレー人・インド人などが入り交じる特異な他民族都市を形成していたところ、大戦を経て過酷な環境で独立を余儀なくされたという事情が影響しています。

すなわち、同国は、アジア有数の貿易都市のアドバンテージを有する一方、周辺国(マレー半島、インドネシア諸島群)とは全く異なるアイデンティティを形成し精神的な繋がりも希薄なため、周辺国が同胞意識を持って接してくれない「独りぼっちの国」という存続リスクも抱えた中で、リー・クアンユー首相らの強固な統制的指導のもと国を挙げて努力を続けて現在の繁栄を勝ち取った国であり、そうした「努力し続けなければならない宿命を負った国」に私も共感する面が多々ありましたので、同国の気風を家族にも学んで欲しかったという点が1つ目となります。

とりわけ、私自身が田舎の小さな商家の次男として、幼少期から「地元や実家に残れない、必死で勉強して自分の力で身を立てて人生を切り開いていなかければならない」ことを母に叩き込まれて育ちましたので、この国が自分と重なる面があるように感じたということも大きいです。

次に、シンガポールにこだわった(来訪に特別の意義を認めた)理由として、「二戸出身の学者さんが大戦期に同国の学術資産・文化財(大英帝国が長年に亘り築いた世界的財産)を守り、その代表例(シンガポール植物園)が世界遺産になった」ということを割と最近に知ったので、同郷人としてその先生(田中舘秀三博士)の足跡を訪ねたい、また、私が同国を訪れてブログなどで紹介するだけでも、博士の顕彰になるのではないかという点がありました。

この点は、帰国後に改めて博士のことを調べたところ、功績の大きさもさることながら、とてもユニークな人物(単なる善人ではない奇人ないし怪人ぶり)が見えてきて「この人の物語はぜひ映画化されるべきだ、誰もその旗を振らないなら俺がやる!」との無謀な感情が爆発し、おって1~2週間後にブログで連載するとおり、映画シナリオ案まで作ってしまいました(ぜひ、ご覧ください)。

ともあれ、前置きが長くなりましたので、以下では旅行の概略を説明します。

まず、夜行便で早朝に到着し、直ちにシンガポール植物園に向かうつもりだったのですが、夜行に慣れない家族からギブアップ宣言(爆睡状態)が出て昼過ぎまで足踏み状態を余儀なくされ、宿泊先ホテルから歩いて行けるラッフルズホテルに向かったものの、すぐに時間切れとなり、午後3時から夜間まで、予約していたリバーサファリとナイトサファリのツアーに参加しました。

2日目は駆け足の市内観光ツアーに参加し、最後に解散場所のマリーナ・ベイ・サンズの展望台に行きましたが(あの有名なプールは宿泊者専用ですので庶民には無理)、その後、ちょっとしたトラブルが発生し、ヒヤヒヤしながら一晩を過ごしました。

3日目はアジア最大級のリゾートエリア・セントーサ島に行き、諸般の事情により水族館とセントーサ・マーライオンだけを駆け足で拝見した後、H.I.Sから頂戴した「チキンライスの名店のタダ券」を何が何でも消化しなければとオーチャード通りにある店舗で昼食をとり、ホテルに一旦戻った後、チェックアウトして、ようやく私にとっての第一目的地であるシンガポール植物園に行きました。

そして、そのまま時間切れとなり夜行便で羽田に強制送還されたという次第であり、とても海外に来たとは思えない、某「週末のシンデレラ」番組に負けないほどの超駆け足旅行でした。

たったそれだけの滞在とはいえ、海外に来ると感じることも多く、今回、何が何でも取り上げることにした「田中舘秀三博士の物語」以外にも、書きたいことは山ほどありますが、余力の問題もありますので、まずは簡単な紀行&感想編を3回取り上げ、4回目に今回の最終目的地となったシンガポール植物園に触れます。

そして、それを導入部として、「壮大感動巨編・シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」の映画シナリオ案及び企画説明等を全11回の連載で行うつもりですので、ぜひ最後まで温かい目でお付き合い下さるようお願いいたします。

で、早速ですが、今回は1日目の観光について少し触れます。

まず、午前中にホテルで足止めを余儀なくされた際、どうせ待つならH.I.Sから頂戴した「トーストボックス」という同国で数十店舗を展開するコーヒーチェーンのタダ券を使いたいと考え、ホテルから一番近い地下モール内のお店に向かい、道に迷った末、同国名物「カヤトースト」とコーヒーのセットなどを購入し、家族の起床まで私も半眠状態でダラダラ過ごしました。

お店からホテル(詳細は次回)に戻る際、「日本占領時期死難人民記念碑」が帰路の途中にありましたので、手を合わせてきました。これは、大戦時に旧日本軍がシンガポールを侵略、陥落させ征服者として敗戦時まで君臨していた時代に行った華僑虐殺などの蛮行により命を落としたシンガポール人を慰霊するために1967年に建立された施設です。

半年前に沖縄に初めて行った(那覇地裁での尋問)際も到着後に真っ先に「ひめゆりの塔」と平和記念公園に行きましたが、今回もできればここに来て手を合わせたいと思っていたので、その点は何よりでした。

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そして、午後になって家族が起床したため、前記のとおりラッフルズホテルに行きましたが、リバーサファリのツアーの集合時刻が午前3時前のため、シンガポール・スリングで有名な「ロングバー」を外からチラ見しただけで終わってしまい(店内にアジア人の姿は見えず、白人でぎっしりでした)、その点は残念でした。

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リバーサファリは当家しか参加者がいなかったようで、日本語が堪能でおしゃべり好きなガイドさん(その方に限らず、同国は熟年女性がごく当たり前に仕事をなさっている光景をよく目にします)から色々とお話を伺いながら園内を歩きました(ガイドさんと話した内容などは、次々回に少し書きます)。

リバーサファリは、シンガポール動物園やナイトサファリと同じ地区にある(ので入口は皆、隣接しているという親切設計の)、平たく言えば「川の水族館(水辺の生物の動物園)」であり、ボートに乗船して動物を見たりクルーズ船もありますので、遊園地的要素も加味されている面があります。
http://singapore.navi.com/miru/155/

今回はクルーズ船(湖状の広大な貯水池を周遊するもの)は乗れませんでしたが、ボートには乗りました。これは、ディズニー(千葉のD国)のジャングルクルーズに似ていますが、当然のことながら人形の類ではなく本物の動物達を見ながら進みますので、D国のそれよりも遥かに乗船し甲斐があります(個人的には、激流下り的要素も足していただければなお良いのにとは思いましたが、少しだけその要素があります)。

また、展示中の生物の生息域の地図が図示されるなど、英語が分からなくともある程度のことは分かるため、とても良いと思いました。さほど金がかかることでもないでしょうし、その生物のことを知ったり関心を持つ最初の手がかりになることでもありますので、日本の動物園や水族館なども生息域の図示を必ず行うべきではないでしょうか。

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あと、ハイライトの一つである、マナティ達が泳ぐ「アマゾン浸水の森」は、まるで腐海の底ではないかと思いました。きっと、こうして人々の汚れた心を浄化し続けているのでしょう。

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リバーサファリのあと、夕方から開演となるナイトサファリに移動しました。こちらは、多くのツアー参加者と一緒に行動することになり、最初に円卓での「チリクラブ」付きの簡単な夕食をとった後、夜行性の小型~中型動物がまとまって展示されているエリアを30分ほど歩き、次いで、幾つかの動物のパフォーマンスを紹介するショーを30分ほど見た後、最後にトラム(周遊車両)に乗り大型動物の展示エリアを45分ほどで廻って終了、というツアーでした。
http://singapore.navi.com/miru/11/

チリクラブはシンガポールの名物料理の一つで、味自体は良好ですが、私はカニの殻を自分で処理するのがとても苦手で、「最初から剥いて出してくれればいいのに・・」などと文句を言いながら美味しくいただきました(ネットで調べると、皆さん同じことを仰っています)。

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動物のパフォーマンスショーは、当然のことながら英語で行われ、英語能力が皆無の面々が雁首を揃えた当家は全く司会者の軽妙トークを理解できないまま終わってしまいました。

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司会者は冒頭で「この国(語圏)の人は来てますか~」と声を掛けており、日中韓の三国からいずれも多数の人が参加していましたが、これらの三国には私と同レベルの方は大勢いるでしょうし、小さい子供も多く来ていますので、「言葉の壁」に関する対策を考えていただきたいとは思いました。

欲を言えば、イヤホンを支給して同時通訳をしてくれればベストでしょうが、それが無理でも、毎回の司会者の説明(プログラム内容)は大体同じでしょうから、美術館のような補助解説テープを希望者に支給して、それを聞きながら拝見できれば、理解度が大分違うと思います。

これは、日本に来る外国人観光客など、世界中に当てはまる話でしょうから、日本の旅行会社がソニー?などと組んで開発して各国の外国人旅行者向けに提供すれば、日中韓人はもちろん世界中で喜ばれるのではと思いますが、いかがでしょう。もちろん、最後に「次は英語を勉強してまた来てね」の一言を添えれば、親が家庭でわめくよりも子供への教育効果がありそうですし。

トラムは、ネット情報では「見えない動物も多く、イマイチだった」などと酷評する意見も幾つか見られるようですが、私自身はそれなりに見応えがあったと思います(もちろん、動物を適切な方法でトラムに近づけるような工夫は園側にも考えていただきたいとは思いますが)。あと、「どうして北東北人が南国に来てツキノワグマを見なけりゃならんのだ」との不条理感を抱いた場面もありました。

最後に、こんな容器に入ったマンゴージュースを買って、飲みながらホテルに戻りました。理由は分かりませんが、現在の同国ではこのタイプの容器が流行しているようで、マーライオンの近くの売店などでも同タイプのもの(象さんは付いてませんが)を拝見しました。

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個人的には、注射器の類のように見えますし、ゴミの量も多くなるので、デザイン的にも環境面でもセンスが良いとは思いませんが・・

その他、書きたいことはまだまだ尽きませんが、まあ、あまり詳しいことを書くと今後に旅行される方にとって面白味が減るでしょうから、ぜひ、ここに書かれていない多くの醍醐味を現地でご覧になっていただきたいと思います。

75年前のシンガポールに咲いた二戸と名古屋の不思議な縁~名古屋編③~

10月の名古屋出張(学童保育の全国大会の出張)に関する投稿の3回目です。今回は出張とは関係のない話題について少し触れておきたいと思います。

1回目(全国研の参加報告)の投稿で少し触れましたが、本当は、2日目の午後は分科会を途中でサボり、会場から電車で1本のところにある「徳川園」に行くつもりでした。これは単なる物見遊山だけではない徳川園へのちょっとしたこだわりがあったからなのです。
http://www.tokugawaen.city.nagoya.jp/

私の出身地である岩手県二戸市は何人かの著名人や学識者を輩出していますが、その中に、昭和新山の名付け親にもなった「戦前から戦後にかけて活躍していた博物学・地質学の第一人者」である田中舘秀三博士(東北帝大教授)がいます。
http://airinjuku.jp/kikou/kikou32.html

秀三博士(義父であり東大物理学部の礎を作った世界的物理学者・田中舘愛橘博士と区別するため、このように表示します)は、大日本帝国が戦争に突入しシンガポールを侵略した直後(どのような経緯等かは存じませんが)シンガポールに赴任し、すぐにシンガポール市内の植物園や博物館の貴重な文化財を強い熱意や私財を投じて保護する活動を行い、捕虜にされた英国人研究者の支援などもしていたのだそうです。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm

ただ、資産家でもない秀三博士が長期の支援活動を行うのは困難ですので、ほどなく、シンガポールの旧宗主国(ジョホール王国)と交流があり植物学などの学者でもあった、尾張徳川家の当主である徳川義親侯爵に支援を要請し、保護等の引き継ぎを受けることができた(これに伴い秀三博士は帰国)のだそうです。

ちなみに、徳川侯爵は多彩な活動で知られており、徳川園の創設などのほか「北海道みやげの定番・木彫りの熊の発案者」としても有名です。

かくして旧日本軍の侵略に伴う混乱や散逸から文化財は守られ、旧日本軍の撤退後は英国、そして独立したシンガポールへと引き継がれ、現在のシンガポール国立博物館及び植物園に至っています。ちなみに、シンガポール植物園は平成27年に登録された、同国では現在のところ唯一の世界遺産です。
http://singapore.navi.com/miru/6/

私の知識の範囲内では二戸の人間が名古屋の著名人と関わりを持ったという話はこれしか存じませんが、「二戸と名古屋の人間が協力し戦災から人類が後世に遺すべきものを守った」という物語を知るのと知らないのでは、二戸人が名古屋に訪れたり名古屋と関わりを持つ意味・価値も全く異なってくると思っています。

とりわけ、米国(小ブッシュ政権)主導で行われたイラク戦争では米国にもイラクにも現地の文化財保護に従事する者がおらず、フセイン政権の崩壊時に現地の無法者による略奪が横行したと言われており、最近は「IS」によるパルミラ遺跡の破壊など、文化財の戦災はいまなお続く深刻な問題です。

願わくば、徳川園の庭園や美術品などを鑑賞しながら、文化財や名勝などが暴力から守られることの意義や価値を再認識できればと思っていたのですが、その点は、「また、名古屋を訪れる口実ができた」と前向きに考えることにします。

先般「固有のアドバンテージ(アジア貿易の中心)と存続のリスクの双方を抱えながら、繁栄と生き残りのため血眼になって努力し続けてきた国」としてのシンガポールに関心を持つようになり、少し前には、岩崎育夫氏の「物語 シンガポールの歴史」(中公新書)も拝読し、色々と考えさせられました。

残念ながら二人の日本人の尽力は現代のシンガポールではほとんど忘れ去られているようですが、これらの文化財が「華人をはじめとする出稼ぎ寄せ集め移民を強引にまとめた国家」であるシンガポールの国民・国家の統合に生かされていることは間違いないはずで、そうした観点から「大戦時の日本は、シンガポールに迷惑をかけた(凄惨を極めた大陸戦争に起因する華人への報復としての虐殺等)だけでなく同国の役に立った日本人もおり、自分の地域の先人こそがその担い手であった」ことを知ることは、現代の日本と同国との交流のあり方を考える上でも、大いに意義のあることだと思います。

そんなことを思いつつ一首。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

私も、いつの日かシンガポール植物園などを訪れて先人の足跡を辿ると共に、その際はラッフルズ・ホテルのバーで「シンガポール・スリング」でもいただきながら、二戸と名古屋の先人が異国の文化を守り、それが同国の現代の繁栄にも通じていることの奥深さや有り難さなどに思いを馳せることができればなどと夢想しないこともありません。