北奥法律事務所

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カッパ淵

遠野からの薫風

今年の連休は山積する仕事や有り難くない雑事に追われて終わりましたが、家族1名の要望で、遠野に日帰りでぶらり旅しました。

最初に、高速を下りてほど近い場所にある、あまり観光客が来ることのない名所に行きました。

周囲はありふれた樹林帯ですが、この谷間だけ、羅漢像が彫られた多数の花崗岩に埋め尽くされています。

花崗岩はいずれも深く苔生した状態なので、羅漢像はほとんど確認できませんが、かえって神秘的な印象を高めていると言えるでしょう。

さしずめ、遠くの苔寺より遠野の五百羅漢、といったところでしょうか。

次に、中心部に赴き、最近オープンした「こども本の森」に行きました。

書籍が整然と本棚に並ぶ光景は、スーパーカミオカンデを彷彿とさせますが、建物の外からは、内部の光景は到底想像できず、古民家活用の新たな可能性を示したものと言えるかもしれません。

この日の遠野の国道沿いのジンギスカン等の著名店はすべて大渋滞で、当方は、ごはん屋「花りん」にて唐揚げカレーをいただきました。ボリュームが多く、盛岡の「とんかつ熊さん」の遠野版という印象です。

その後は、定番の淵で観光客に叫んだカラスの鳴き声を訳して一首。

昨晩に俺達キュウリをかっぱらい やった!カッパ!と闊歩する君

そして、隣接する遠野伝承園。

最深部の部屋は何も怖くありませせんが、部屋に続く通路の蛍光灯の回りには、この時期に限り大量に現れる禍々しい奴らが飛び交っており、恐怖体験に飢えた皆さんにオススメです。

門番のカメムシ怖い オシラサマ

その後、たかむろ水光園(次回に取り上げます)を経て、遠野物語の実質的な作者というべき佐々木喜善の実家や著名な水車などがある山口地区を散策しました。

こちらにも伝承を謳った河童淵がありましたが、近くには帽子が落ちており、河童の襲撃による被害者の遺留品かもしれません。

そして、遠野編の最後に、名勝・続石にて家族の未来を願って一句

少年の大志は続き 風薫る

巨石の下はゲートのようになっており、隙間を通ると異世界に行ける人もいるかもしれません。

この道も 花の入口 裏の道

異世界だけではく、若くして周囲の人々と違う人生を歩んでいる少年達にとっても、花の道が開けてくれればと願っているところです。

というわけで、今回も、どんどはりぇ。
写真をご覧になりたい方はFBをどうぞ。

民話の里の雪の妖精と青春の影

2ヶ月以上も前の話で恐縮ですが、盛岡地裁遠野支部に係属している企業倒産(破産管財)事件の関係で、2月に遠野に出張したときのことを書きます。

今回は少し時間ができたので、カッパ淵のあたりに立ち寄ることとしましたが、周辺には雪原が青空に映える美しい光景が広がっていました。

ふと、大学時代に、いわゆる司法試験受験サークル(研究室)の仲間だったある女性が、大学2年か3年の冬に白いウールのコートを着ていた姿を眩しく感じたことを思い出しました。

遠い昔の報われぬ記憶を懐かしんでも致し方のないことですが、改めて、そうした疼きが成仏できればなどと、年甲斐もなく思わずにはいられませんでした。

白纏う貴女に雪の妖精と言えぬ切なさ とうの昔に

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ちょうど、写真に撮った風景の中央に二本の枯木があり、その木々は、通学時などにささやかながらもその女性と二人きりで話した時間があったことや実ることなく終わった若き日の感情を象徴しているのだろうかなどと、馬鹿なことを思わないでもありませんでした。

続いてカッパ淵に移動し、数年ぶりとはいえ毎度ながらの光景をチラ見して帰路につきました。

大学時代の思い出に浸っていたせいか?或いは脳内の沈静化も兼ねて、ここでもテーマを変えて、もう一首作りたくなりました。

すると、私がその団体(真法会研究室)の入室試験に合格した際に「学生指導の責任者」を務めていらした大物弁護士の方(稲益孝先生)のことを思い出しました。

入室試験の発表直後に合格者(入室者)全員が集められた最初の会合の際、自己紹介で「自分は出生直後の病気のせいで左耳が聞こえません」と述べたところ、稲益先生に「私も片耳が聞こえないが、仕事は問題なくできている。君も挫けずに頑張れ」とのコメントをいただいたせいか、真法会のお歴々の方々の中では親近感というかご挨拶しやすい気持ちがありました。

ただ、稲益先生とは1年に1~2回程度にご挨拶する程度の関わりしかありませんでしたが、お会いするたびに必ず「君は今もあまり勉強してなさそうな顔つきだな」と言われていました。

まあ、そのとおりと言わざるを得ない面はありましたので(在学中の勉強では合格にほど遠い力量しか備わらなかった上、学生時代は高校の反動?で、光栄ゲーム廃人化した時期もありました)、悔しさをバネにして?勉強していましたが、合格した年に「先生、もう同じセリフは言わせませんよ」と申し上げようと心待ちにしていたところ、その年に、先生が病気で亡くなられたという報に接しました。

そうした意味では、冒頭の思い出だけでなく稲益先生との関係でも、ある種の喪失を経験したのかもしれませんし、そうした心情が、その埋め合わせを求めるように戯言じみた一首の形をとって表出している面もあるのかもしれません。

会うたびに勉学足りぬと喝破せし 師は合格の年に身罷る

以前にも遠野に出張すると短歌の真似事をしたくなると書きましたが、この地は人が心の奥底に封じ込めているものと向き合わせようとする力を有しているのかもしれません。