北奥法律事務所

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九戸城

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

なお、お店や食事の写真は撮り損ねたため、代わりに、翌日に赴いた快晴の城岱牧場から望む函館弯・函館山の風景をご堪能下さい。バスク地方にも、似たような景色がありそうですし。

庄内から善政の光景と庶民の魂を考える(象潟・庄内編4)

鶴岡の藩校致道館は、庄内藩の降伏協議の舞台にもなった重要な施設ですが、すぐ隣には、近未来的な外観を備えた鶴岡市民文化会館(荘銀タクト鶴岡)が聳えており、双方が並び立つ光景は、江戸と現代が鋭く交錯しているように見えます。

このような光景は、岩手・盛岡では見たことがなく、稀有なものであると共に、若い世代への教育的な効果という点でも、意義が大きいと感じました。

大戦争で連戦連勝を経て天下に降伏し、城下も藩も保全された庄内藩。
一進一退の中で降伏し、責任者は斬首され多くの辛酸を嘗めた南部藩。
城の包囲戦では負けることなく天下に降伏し、何もかも失った九戸城。

何が三者の運命を分けたのか。
本間家の財や最新の軍備、名将・鬼玄蕃、そして西郷隆盛の有無だけか。

答えの一つは、藩主が領民から強く支持されていた(根底に、善政で領民も相応に豊かに暮らしていた?)ことにあるかもしれません。

その企画展が、致道博物館で行われていました。

藩の転封を反対し既存の藩政を求める大規模な領民運動などというものは、飢饉と一揆が繰り返された南部藩では到底考えられません。

そうした事情も、庄内藩の戊辰の健闘を支える力になったのでしょう。

明治以後も領主(酒井公)が領民により神格化され祀られている荘内神社(鶴岡城址)も、その現れかもしれません。

酒井家よりも遙かに長い歴史を持つ南部藩(南部本家)には、藩主一門を領民が崇敬する思想はついに生じなかったと思います。

盛岡城址の桜山神社も信直公らを祭神としており、「四柱を祀る」という形式の共通性を含め、荘内神社に相当する施設と言えますが、住民の総意で創建されたと強調する荘内神社サイトの紹介文と桜山神社サイトの創建経緯に関する文章を見ると、住民との結びつきに温度差があるように感じます。

「よそ者」の酒井家は地の利(西回り航路)を活かし人の和(地元の豪商や藩士・領民の協力)を得て、天の時(戊辰戦争)にも屈指の足跡を残しました。

その姿は、数百年も北東北に君臨した南部家を擁しながら、平泉以後は、天下に轟く逸話に縁の薄い歴史を続けた岩手の民にとって、眩しく見える面はあるかもしれません。

反面、明治後、庄内からは天下を動かす政治家等がほとんど生じておらず(唯一の例外が石原莞爾でしょうか)、これに対し岩手は宰相など多くの人物を輩出してもいるわけで、そうした対比も興味深いものと言えるでしょう。

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これまで数回に亘り、象潟・鳥海の自然と酒田・鶴岡の栄華や軌跡について、取り上げてきました。

ただ、庄内は、貧困や苦難に生きた「おしん」の舞台でもあります。

私は、弁護士登録直前の平成12年3月、リマの街角で、地元の沢山のペルー人達と一台のテレビを囲んで、「おしん」の最終回を見ていました。

きっと、私の弁護士人生も試練の連続になるのだろうと思いました。

酒田随一のオサレ施設となった山居倉庫内には、今もあの曲が流れています。

私はおしんのテーマ曲を聴くと、身震いがして泣きそうになり、1週間以上、延々と口笛を吹きたくなる症状が生じます。

重度の「おしん病」患者であることは間違いないでしょう。

皆さんも象潟・鳥海や庄内(酒田・鶴岡など)に旅してはいかがでしょうか。

霊峰の麓には、おくりびとに限らず、意外な出逢いや発見があるかもしれません。

芭蕉の足跡から詩情を掻き立てられることもあるかもしれません。

以上をもちまして、象潟・庄内編は終幕です。

多数の投稿にお付き合い下さり、ありがとうございました。

最後に、帰路の川下り街道にて、同行者にもおしんの爪の垢を煎じて飲んで欲しいの一句

さあ勉強、寮へと急かす最上川

~完~

 

小保内一族のルーツを求めて(前)~稲荷神社の公式記録から考える~

皆さんはご自身の先祖を把握されていますか。中には数百年前まで分かるという方がおられるかもしれませんが、ごく少数かと思います。

私の実家は「江戸晩期に本家から別れた後、6代ほど続いた家」で、曾祖父が商家として身を興し、祖父の代に一旦は二戸でも著名な商家の一つとして最盛期を迎えたものの、祖父の晩年から斜陽気味になり、様々な方の支えで現在も何とか存続しています。

本家(総本家)は二戸市にある呑香稲荷神社ですが、本家は神社の正当な伝承に基づき、江戸初期(盛岡南部家2代・利直の時代)に「小保内源左衛門義信」なる御仁が、当時、浄法寺(稲庭岳の麓あたり?)にあった稲荷大神を現在の地(二戸市五日町)に遷座させたのが発祥とされ、以来、数百年も連綿と続いています。
http://tonkouinari.blog.jp/archives/1388136.html

本家は、私が聞いた話では発祥時から現在まで男子直系が続いているわけではないものの、血族(当主の姉妹の子)を養子に迎えるなどしており、血筋は絶えたことがないはずです。

ただ、この「小保内源左衛門義信」については、引用の稲荷神社のサイトをはじめ、Web上の多くのサイトで秋田城之介の家臣と書かれているものの、それ以上の情報が得られず、どこで何をしていた者か(そもそも「秋田城之介」自体、何者なのか)、突き止めることができていません。

上記のサイトでは、この人物(本家の始祖)は秋田出身で江戸初期に、主家没落に伴い南部家に移籍し盛岡市の仙北町(秋田の仙北郡出身者が移住した地)に身を置いたものの、不遇の身に憤慨し二戸に移住したなどと書かれており、他に同種の記載があるサイトも見かけましたが、Web上の情報は全てそこで終わっています。

もし、それ以上の話をご存知の方がおられれば、ぜひご教示をお願いしたいところです。

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で、今回の投稿は、この「小保内源左衛門義信」の出自・正体について、私なりに調べて推測したこと(現在の到達点)を記録に残しておきたい、との目的で書いたものです。

まず、この「秋田城之介」とは、秋田市中心部の千秋公園=久保田城(佐竹氏の居城)ではなく、大和朝廷により創建された古代の秋田城(秋田市北部に遺跡があります)の長官を指すことは間違いありません。

そして、当時=安土桃山~江戸草創期に「没落した秋田城之介」がいたのか調べてみると、以下の理由から、現在の秋田市周辺などに勢力を有していた「安東通季」だと推測されます。

そもそも、北東北は頼朝の平泉征服に伴い甲斐から移住した南部一族が席巻し、鎌倉後期には広い圏域を支配下に収めていましたが、室町期に退潮し、戦国期の秋田県は、安東一族が勢力を伸ばしていました。

安東一族は「奥六郡(狭義は岩手県、広義には北東北全域)の正当な支配者」たる安倍一族の末裔を自称し、かつて北東北随一の港湾と謳われた十三湊を領有していましたが、室町期に一旦没落した後、戦国期に復権し、秋田市のエリアに拠った湊安東氏と、能代市エリアに拠った檜山安東氏に分かれて覇を競っていました。

当初は湊安東氏の方が優勢で、最盛期は秋田県の大半を勢力下に収めていたのですが、戦国後期に檜山安東氏に有力武将が二代続けて出現し(安東愛季・実季父子)、織豊期には檜山安東氏が湊安東氏を併呑してしまいます。

で、その際、湊安東氏が「呑み込まれてなるものか」と秋田の覇権を賭けて檜山安東氏に戦いを挑むものの、敗亡するという出来事(湊合戦)があり、その最後の当主である安東通季のwiki情報を見ると、敗亡後は南部氏のもとへ逃れ、復権運動を行ったものの奏功せず、やがて南部氏の家臣となった、と記されています。

そして、安東通季=湊安東氏は秋田市周辺を本拠とし、一時は秋田県の大半を勢力下に置いたことなどから、秋田城介(旧秋田城の長官=秋田県域の正当な支配者)を自称していたと記されています。

以上から、小保内源左衛門義信が仕えていた(と称する)「秋田城之介」とは、安東通季に間違いないと考えられます(義信自身又は他者が創作したかどうかはさておき)。

ちなみに、安東氏ひいては秋田の覇者となった安東実季は、秋田制覇後には秋田氏と名乗るようになりましたが、関ヶ原後は天運に恵まれず、佐竹氏と入れ替わりで常陸の一角に移封された後、子の代には陸奥国三春=現在の福島県三春町に移封され、そのまま三春の小領主として明治を迎えています。

三春は言わずと知れた福島を代表する桜の名所の一つで、現在でも古い建物が点在する小京都的な街ですが、そうした歴史を踏まえて訪れていただければ、また違った光景が見えてくるかもしれません。

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それはさておき、没落した秋田城介こと安東通季については相応にWeb上で分かるものの、さすがに家来?の小保内源左衛門義信のことまでは、Web上で辿ることはできそうにありません。

ただ、私は子供の頃に亡父から「自分が秋田県の旧田沢湖町(現仙北市)の中心部(生保内地区=旧生保内村)に赴いた際、地元の人から『あなたの先祖は、ここの領主だった』と言われた」と聞かされたことがあります。

ここからは憶測になりますが、小保内源左衛門義信(の先祖)は、湊安東氏の最盛期に生保内村の領主をしており、その関係で「小保内」と名乗っていたのかもしれません。

漢字が違うじゃないかと言われそうですが、それこそ、秋田を去って南部(岩手)の人間となることを決めた際、旧領への未練を断ち切るため「生」を「小」に変えたのかもしれません。

ちなみに「内」はアイヌ語で「小さな沢」です。「小保」の由来は不明ですが、古代に東国の有力豪族と言われた「オホ氏」と関係があるかも、という独自説(笑?)もあります

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私は幼少期に亡父から「我が一族の先祖は、田沢湖(生保内村)の領主をしていたが、秀吉の東北征服(奥州仕置)により領地を失い、南部家の食客になった。そして、南部公から『二戸には九戸政実の残党が今も多数あって政情不安であるから、この地を鎮めて欲しい』と頼まれ、神官として二戸にやってきたものである」と聞かされたことがあります。

稲荷神社は、言わずと知れた九戸城(九戸戦争による政実公の敗亡=信直公の入城後は「福岡城」)の敷地内(旧三の丸及び松ノ丸)にあります。ですので、神社の敷地は、福岡城の城主たる南部氏が盛岡に移転した際に、何らかの理由で南部公から引き継いだ(託された)ものと考えるのが合理的だと思います。

ですので「小保内源左衛門義信が南部公の意を受け神官として二戸にやってきた」という父の説明(伝承?)には相応の信憑性があることは間違いないでしょう。

次回は、Web上で偶然見つけた「小保内源左衛門の出自を突き止めることができるかもしれない、もう一つのネタ」から考えたことを書きます。

(追記)
今、Webで少し調べたところ、「オボナイ(小保内、生保内等)」とは、アイヌ語で深い川、或いは深い谷を指すと書いてあるものを拝見しました。

 

知られざる九戸城と白鳥川に還る魂

岩手に戻った翌年である平成17年から現在まで、毎年、お盆期間中の特定の日に「朝から来い」と言われ、晩まで滞在することを余儀なくされています。

これは、私の実家など(地域内で昔から生活する特定の人々?)に地元で親交の深い(神葬祭の関係で付き合いのある?)家々同士(15~20軒ほど?)が、お盆の特定の日に互いの家庭を訪問して神棚を拝んで廻るという習慣が古くからあり、兄(存命中は父も)が他のご家庭を訪問するため、その間、私に実家に滞在して訪問客に挨拶せよ、と命じられていることに基づくものです。

といっても、中学卒業と同時に実家を出て遠方で長く暮らした私には、地元の方々とのお付き合いは(子供の頃にお世話になり現在もご健在のごく僅かな方などを除いて)ほとんどなく、大半の来客が「すいません、どなたでしょうか(毎年この日だけ拝顔していますが、未だに貴方のお名前も素性も何も存じないんです)」状態で、その点は来訪される方々も同様でしょうから、互いに簡単に挨拶(お辞儀)をして終了、という程度のやりとりしかありません。

以前は実家に「来訪者チェックリスト(話題ネタ帳)を作って欲しい」と申し入れていたのですが、何年経っても行ってくれる気配がありませんでしたので「来訪の方々を把握しようとする努力」も諦めて、今は単なる挨拶ロボットになり果ててしまいました。

そんなこともあり「相方の実家にも行かなければならず、起案が山積みで仕事時間が1秒でも惜しい日々が続いているのに、こんな程度のことのために二戸くんだりまで丸一日来なければならないなんて」と無駄にイライラが募り、同行者とも無用の軋轢ばかり増してしまいます。

というわけで、子供の頃は「こんな家はイヤ」と思って飛び出した(近所を手短に放浪した)ことが珍しくありませんでしたので、今回も実家を少々家出することにしました。

で、まずは九戸城周辺に赴き、これまで歩いたことのないエリアを散策した後、穴牛大橋まで歩いて川又方面にUターンした後に実家まで戻ったので、約2時間半ほど、昼間の炎天下の中を散歩したことになりました。

久しぶりに訪ねた九戸城は、いつの間にか本丸の真下(盛岡地裁二戸支部から二の丸の入口までの地元民のための細い生活道路の付近)が整備されており、昔は畑だったところが遊歩道になっていました。ただ、それほどカッチリとした整備はされておらず、そばに少々の湧水が流れてヤンマ類の大型トンボも飛び交っていましたので、相応に爽やかな散歩道と言ってよいでしょう。

で、裁判所の建物のすぐ奥に整備(発掘?)された(昔は多分ありませんでした)道を通って正面部分(二の丸の中心エリア)に来たのですが、そのまま城を出るのも面白くないと思い、これまで立ち入ったことのない石沢館(北東の広場)エリアなどに立ち寄ってみました。

二の丸や本丸は、25年ほど前からの九戸城整備事業により「明るく爽やかな城址公園」になり、昔日の「荒城の月」そのものといった幽玄な様相がなくなってしまったのですが、石沢館はそのような整備(とりわけ地面の草刈りなど)がほとんどなされておらず、霊気あふれる雰囲気を残していたため、好ましく、また懐かしく感じました。

ただ、昔は、二の丸と石沢館の間にある細い道から白鳥川に下って川を渡り川又地区(福岡小学校や二戸市役所などの真下)に向かう小さな道があったのですが、残念なことに、この道が途中で途切れて白鳥川に下ることができなくなっていました。

小学3~4年の頃、人生に疲れたかどうかはさておき、何らかの理由で旧国道(通学路)に沿って帰宅するのが嫌で、この道を通って九戸城に行き、周辺を彷徨ってから帰宅する、ということが少なからずありました。

当時から「九戸城は、上方軍(秀吉・家康連合軍)に戦闘では負けなかったのに、謀略で騙されて城中皆殺しにされた怨念の宿る城」と認識しており、そうした特殊な空間に身を置くこと自体が自身の精神的な安定(回復)と何らかの形で結びついていたのではないかと思っています。

九戸城をざっと廻った後、山中に向かって穴牛大橋を目指しましたが、車ではあっという間に着く距離も歩くとさすがに長かったものの、久しく山登りから遠ざかっている身には「ジョギング好きの人がしばらく走らないと気分が悪くなる(ので、走るとスッキリする)」という感覚が分かるような気はしました。

途中には、田圃の道端にカモ(雁?)の群れが並んで座っている光景もあり、相応に癒やされました。

穴牛大橋を越えたあとは、割とあっという間に川又に戻ったのですが、折角なので白鳥川を見に行くことにしました。

最初に下りたところでは、対岸(川又側)に若干の護岸工事はあったものの、九戸城側は全く人の手が加えられておらず、森の中を渓流が音もなく静かに流れる姿を光がキラキラと包むような、幻想的な光景が広がっていました。

私にとって「日本で一番美しい渓流」は、山登りを始めたばかりの頃に渓谷途中で断念し引き返した、奥秩父の笛吹川東沢渓谷にある「千畳のナメ」だと思っているのですが、この日の白鳥川も水量が少なく川底がナメ状になっていたせいか、千畳のナメに少し通じるものがあるのではと感じました。

また、上述の「福岡小などから九戸城の二の丸に向かう道」も残っており(但し、橋を渡ってすぐに藪になり、そこから城には進めません)、周囲が鬱蒼としているため最初に下りた河岸ほどの美しさはありませんでしたが、相応に渓流美を感じることができる(少し整備すれば、できそうな)様相を呈していました。

九戸城は、四方(主に北面と西面)を断崖に囲まれているにもかかわらず、二戸市役所などには崖下の河川との繋がりを「景観形成(観光PR)としての城郭整備」に活かそうとする姿勢が感じられず、その点は残念に思います。

本丸や二の丸からは白鳥川は臨めませんが、石沢館からは白鳥川に真っ直ぐ落ちる断崖が藪の中に広がり、対岸(川又地区)に布陣した信直軍との在りし日の攻城戦などをイメージできそうな気もしました。

白鳥川は上流にダムもなく増水時には近寄ってはいけない川なのでしょうから、そうしたことも「廃道」の原因となっているのかもしれませんが、「川との繋がり(要害としての利用と、それに伴う中世末期の巨城としての壮観)があってこその九戸城」だと思いますので、二戸市役所などの関係者におかれては、白鳥川の景観を活かした九戸城の整備のあり方、という視点を大切にしていただければと思います。

というわけで、陳腐なキャッチコピーのような一首。

人生に疲れた貴方に九戸城 そして心を漱ぐ白鳥

九戸城は、近年盛んにPRされている「天下統一の最終戦」という位置づけだけでなく、岩手の人々にとっても「盛岡などはここから始まった」と言うべき場所であり、より多くの方に、その意義を理解していただければと思っています。

残念ながらカメラを持参せずに放浪したため写真を添付できませんが、ぜひ現地を訪れて体感していただければと思います。

八戸支部の出張と根城南部氏

珍しく青森地裁八戸支部に提訴した事件があり、訴状陳述のため行ってきました。

帰りはバスに乗り遅れて流しのタクシーに乗ったのですが、どこから来たかと聞かれて盛岡と答えたところ、郷土史に並々ならぬ思い入れをお持ちの運転手さんで、10分ほど「甲斐(鎌倉期)から始まり遠野(江戸期)に終わる根城南部氏の盛衰と、南部家跡目争いと九戸戦役を中心とする桃山時代の北東北の一大騒乱の物語」をノンストップで熱く語っておられました。

「すいません、二戸の人間なのでその話の大半は知ってるんです」という言葉が何度も頭の中をよぎりましたが、言い出せるはずもなく、やむなく延々と相づちを打っていたことは、申すまでもありません。

ところで、我が国の裁判所の大半は、城跡付近に好んで建てられていますが、八戸支部は、江戸期の八戸を統治した八戸南部氏(盛岡南部氏の兄弟筋)の居城跡ではなく、根城南部氏(鎌倉~桃山期に統治)の居城跡の近くに建てられています。

誰が、どのような理由でそのような選択をしたのか分かりませんが、二戸の人間が盛岡南部氏ではなく九戸氏をもって領主と仰ぐのと近い感覚があるのかもしれないなどと、興味深く感じました。

根城跡は現在、本丸等がある程度、復元されていますが、桃山期の遺構を考証して再現したのだそうで、九戸城と同時代の遺構を再現したということができます。

九戸城の再現は難しいでしょうし、すべきとも思いませんが、根城跡を訪れ風景に接することで、在りし日の九戸城や、そこに生き天下の大軍と戦った人々の姿を、多少なりとも感じることができるのかもしれません。
http://www.hachinohe.ed.jp/haku/hiroba.html