北奥法律事務所

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二戸

最後の電話とお別れの言葉

不思議な話に関心のある方は、一ヶ月前に起きた、以下の実話をご覧下さい。

先日、私の母の小学時代の同級生だと仰る女性から、突然、当事務所にお電話がありました。

いわく、母と話をしたくなったが、母の連絡先が分からない。

当事務所が開業した際、私から挨拶状が届いた。

挨拶状に表示された電話番号をもとに母の連絡先を聞きたくて当事務所に電話をした、というものでした。

私はお名前を失念しましたが、事務局によれば、クボさんと名乗っていたそうです。

当事務所を開設した平成16年秋、私は様々な方に挨拶状をお送りしました。

両親から「ここに送って欲しい」と言われ、何人かの方々の住所氏名が表示されたリストを受け取り、それに基づき挨拶状をお送りした記憶はあります。

ですので、クボさんが作り話をしているわけではないことはすぐに確信しました。

ただ、クボさんなる方にお送りしたか、私には記憶がありません。

クボさんは、平成16年から20年もの長期に亘り、面識のない私からの挨拶状を捨てずに持ち続けていたことになりますが、この20年間、クボさんから連絡を受けたことはありませんし、クボさんなる方の話題が出た記憶もありません。

クボさんと私がこれまで関わりを持ったことがないことは間違いないはずです。

クボさんに限らず、過去数十年間、母が幼少期の地元の同級生と晩年まで交流を持っていたという話も聞いたことがありませんし、私はそのような光景を見た記憶もほぼありません。

ですので、率直に言って奇異の念を抱かざるを得ませんでしたが、商家である私の実家の電話番号は、伝えても何の問題もないと考え(最初に、実家が経営している小さな会社の方々が応答するはずです)、端的にその番号のみを伝えて電話を終えました。

私は、その1~2時間ほど前、兄から実家の件で電話を受けていました。

そのこと(兄から伝えられた内容)をクボさんに伝えるべきか、一瞬だけ迷いましたが、私の口からは伝えるべきでないと思い、その件は話題にしませんでした。

その日は、私は夜に外せない会合があったほか、兄から急いで来なくても良いと言われたこともあり、翌日の朝、私は実家に赴き、母と対面しました。

兄にその件を聞いたところ、やはり、クボさんから電話があったそうですが、兄も対応を考えあぐね、「今、母はいません」とだけ答えて、それで電話を終えたそうです。

それから数日かけて、私と兄は、母を見送りました。

それらを終えた後、念のため、挨拶状の送付先リストが今も残っていないか探しましたが、ざっと調べた限りでは、見つかりませんでした。

ですので、私が本当に挨拶状をクボさんに送ったのか、今も分かりません。

当事務所の電話機は番号が表示されるので、或いは、クボさんの番号を控えるなどしても良かったのかもしれませんが、その際は番号を確認するなどの対応は一切しませんでした。

ですので、クボさんが本当に実在する人なのかも含めて、私には分かりません。

ただ、私は、この世に目に見えない力が存在していることを信じて疑いませんので、結論として、クボさんが実在するにせよ、そうでないにせよ、そうした力が作用したことは、間違いないと思っています。

母は、私が司法試験に合格した頃には身体に様々な支障を来すようになり、パーキンソン症候群と呼ばれる、身体の大半の可動が困難となる病気を抱えた生活を15年以上に亘り余儀なくされました。

最後の5年以上は難聴等も相俟って私とは会話による意思疎通がほとんどできませんでしたが、他方で、認知症は生じることなく脳内の意思疎通能力は保持していた(一方的な筆談等は通じた)ため、なおのこと気の毒だと思い続けてきました。

それだけに、冒頭の出来事については、

最後に息子2人と会話をしたくて、あのような措置を講じたのだ。曲がりなりにも、それにより思い残すことなく旅立ったのだろう

と思うほかありませんでした。

父が亡くなった10年ほど前、私は彼に「最後の代表的二戸人」という言葉を添えました。

母にはどのような言葉を添えるべきか、今も腑に落ちるものを見つけることができません。

夫であれ子供達であれイエ(普通ではない様々な労働を強いた私の実家)であれ、多くのものに尽くし、時に搾取され、そして何かを道連れにした人生というべきなのか。

それとも、限られた条件の中で精一杯生き一定の成果を挙げ最後は我が子(兄)に長い間尽くしてもらった、相応に幸せな人生だったのか。

私には最後まで答えを出すことができそうにないように思います。

間違いなく言えることは、「父親の経済力と母親の狂気」なるものは東京などでお受験をしている今どきの方々だけのものではなく、私もその環境のもとで育ち、そのおかげで曲がりなりにも身を立てて実家を卒業し、あくせく生きながら歴史を繰り返している人間の一人だということでしょう。

今は、かつての様々な思い出を時には懐かしみながら、実家の方々への感謝を忘れることなく、残された人生で、何かを繋げていければと思います。

地域の大物達が去って行く光景と託された課題

半年も前の話ですが、当事務所の最初の顧問先になっていただいた会社さんの経営者の方(以下、Aさん)が亡くなられ、葬儀(お別れ会)に伺いました。

この会社さんは二戸を代表する企業の一つであり、Aさんは私の亡父とも大変親しくさせていただいた関係で、開業祝い?として顧問契約をしていただき、以来、良好なお付き合いをさせていただいています。

Aさんは当事務所の開業時点で経営者としては息子さんに代替わりをされており、仕事上のお付き合いはありませんでしたが、二戸の慣行?として、

お盆に付き合いの深い方々の家々を廻って神棚・仏前にお参りする

というものがあり、以前はAさんも例年、私の実家にいらしていただき、留守番担当の私が亡父や兄に代わりAさんをはじめ実家にお越しいただいた方々にご挨拶していました。

その際に限らず、二戸RCの家族会など子供の頃から何度もお会いした方でもあり、祭壇できちんとお別れの挨拶ができたので、その点は何よりでした。

葬儀自体はトンボ返りで事務所に戻りましたが、折角ということで中学の同級生のご実家だと聞いている堀野の食事処に立ち寄り、引用のとおり、鶏丼を大変美味しくいただいて帰りました。

先般もお盆で帰省しましたが、ウイルス禍に加えて世代交代・慣習変化などの影響が重なり、地域の人々がお盆に親しい家々を廻る(拝みに行く)習慣は、十数年前と比べて大幅に減少しているようです。

それ自体は諸々の理由からやむを得ないのだろうとも思いますが、そうした慣行に支えられていた地域社会の相互扶助の精神(人々のつながり)までも大きく後退しているのではと、残念に感じる面もあります。

私は地域の相互扶助・交流等の再構築が現代社会の大きな課題の一つだと思っており、そのような目的のためWeb等が良好に活用されるべきだと感じています(が、社会内でさほど有意な取組がなさているとは感じていません)。

FBも有意義な投稿を拝見する機会が減り、広告や見ず知らずの外国のミニ動画ばかりが表示され、残念に感じていますが、可能なら、そうした精神を支えるツールとして活かされてくれればと願っています。

恐らく、そうした再構築の努力もAさんや亡父から我々の世代が託されたことの一つだと思って、ささやかながら、こうした投稿を細々と続けている次第です。

 

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

なお、お店や食事の写真は撮り損ねたため、代わりに、翌日に赴いた快晴の城岱牧場から望む函館弯・函館山の風景をご堪能下さい。バスク地方にも、似たような景色がありそうですし。

遠野の水光園から二戸の水光苑への追憶とお尋ね

前回も投稿したGW中の遠野巡りの際、観光名所の一つ、たかむろ水光園に行きました。
https://www.tono-suikouen.jp/
https://tonojikan.jp/kanko/suikoen.php

昭和期に作られた人口池ですが、崖上の浄水場から大量の水が滝となって流れ込み、十分に風光明媚な場所と言えるでしょう。

ところで、水光園に関しては、二戸ゆかりの方々にぜひ伺いたいことがあります。

40年前の二戸をご存知の方ならお分かりかと思いますが、現在の二戸ロイヤルパレスが存在している(先般閉鎖されたそうですが)場所には、当時、「水光苑」と呼ばれた宴会施設がありました。

二戸RC(ロータリークラブ)の例会場などで利用されていたせいか、幼少期の私は何度かお邪魔しており、もし現在も存続していれば、昭和レトロ感満載として見直されていたと思える、味わいのある作りだったような記憶が微かにあります。

この二戸の水光苑ですが、その名のとおり敷地に大きな池があったような気がするのですが、幼少期の微かな記憶のため勘違いの可能性が高く、全く自信がありません。

また、たかむろ水光園が開設された時期は、二戸の水光苑の最盛期とさほど離れていないはずで、双方の接点があるのかも不明です(なお、水光園(苑)で検索すると、全国に幾つかの施設があることが分かりますが、互いの関係性は無さそうです)。

もし、在りし日の水光苑の姿をご存知の方がおられましたら、コメントを頂戴できれば幸いです。

ともあれ、たかむろ水光園の庭園施設自体は、現在はさほど注目されることもないせいか、寂れ感が目立っており、上部の温浴施設の収益でどうにか維持されているのだろうという印象は否めません。

イベントや映画撮影などで活用できそうな古民家群があり、少し傷んでいる雰囲気が、かえって味わいを醸し出しているので、どうにか活かしていただきたいものです。

 

米朝首脳会談にふさわしい「日英の良心が遺したシンガポールの聖地」

6月12日に行われた米朝首脳会談の際、両国首脳がそれぞれ宿泊したホテルのすぐ近くに、世界遺産・シンガポール植物園があります。

かつて、大日本帝国軍がシンガポールを精強な英国軍から電撃的に占領した直後、突如、この島に二戸出身(旧制盛岡中学卒)の田中舘秀三・東北帝大教授が現れ、英国人の研究者らと協力して植物園や博物館などの貴重な学術資産を戦災の混乱から守ったという逸話を、1年半前にブログ等で紹介させていただきました。

植物園のシンボルであるバンドスタンドとその一帯は、今も、英国庭園の面影を残したまま、同国有数の「結婚記念写真スポット」として人気を博しています。

可能なら首脳会談はこのバンドスタンドで行っていただければ、戦争に依らずに物事を解決するとのメッセージを、より世界に伝えることができたかもしれません。

安倍首相の側近にもこのような演出を勧める人材がいればよいのになどと、余計なことを思ったりもします。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

と当時、戯れに一首作ってみましたが、世界中の国家指導者の中で今最もその言葉が向けられるべき2人がこの島で出会いの場を得たということに、少し不思議なものを感じてしまいます。

大河ドラマに登場し損なった「小保内」という二戸人

私は、「徳川家康」以後の大河ドラマは8割がたを見ており、現在、放送中の「花燃ゆ」も、習慣(惰性?)で毎週、ビデオを撮って深夜に見ています。

内容については、まだ助走モードのせいか、或いは「ホームドラマ」云々と銘打っているせいか、早送りしたくなる場面もありますが、今回の主題曲は、音楽が私にとっては十分に満足でき、CG画面も作品のテーマとよく噛み合っているように感じて、個人的にはとても気に入っています。

鷹?と思しき鳥達が、画面の下から次々に現れては猛スピードで飛び立ち、何らかの思想を感じさせる様々な漢字がちりばめられた華やかな空間を縦横無尽に駆け巡りながら弾けていく様子が描かれている光景は、吉田松陰をはじめ、社会を変えることで社会を守ろうと考えて、世に先駆けて急進的な思想を掲げては維新の時代に殉じていった、多くの草莽の志士達を指しているのだろうと感じるのは、私だけではないでしょう。

そして、その画面に響く吉田松陰が遺した言葉をもとにした歌詞のコーラスも、そうした志士達(ひいては現代を生きる視聴者自身)が、松蔭の思想の後継者であることを印象づけようという演出なのでしょうし、そのことが視聴者の心に響く面は、大きいのだろうと思います(ネットでさっと調べた限り、今回のオープニングには好意的なコメントが多く寄せられているように見受けられました)。

ところで、今回の大河は「八重の桜」とは逆に、長州が舞台ということで、東北の人々にとっては馴染みにくい面もあるかもしれませんが、「八重」をご覧になった方であればお分かりのとおり、若者であった頃の吉田松陰が、国防(北方警備=ロシア対策)の実情を見たいなどの理由で東北に視察旅行に来た話に象徴されるように、東北と長州の人々に交流が無かったわけではありません。

そして、世間にはほとんど知られていない話ですが、「花燃ゆ」の登場人物達と直接、間接に多くの関わりを持った二戸人が存在します。

名を「小保内定身」と言い、二戸市の中心部(福岡町)にある呑香稲荷神社の宮司の子であり、ネット情報によれば、若くして江戸に遊学し、その際、久坂玄瑞などと交流して勤王思想を学び、その後、帰郷して郷里で会舗社という政治結社(「北の松下村塾」と呼ばれたそうです)を作り、地域の子弟の教育に従事しつつ、南部藩内も西国列藩に負けずに西洋の文物を取り入れるべしとの活動を行っていたようです。

維新期には、新政府への恭順派の立場で重臣の腹心として藩論とりまとめに奔走し、一旦は多数派である抗戦派に敗れ、秋田戦争(戊辰戦争における北東北での両軍の戦争)に至ったものの、その後に南部藩が降伏した際には、藩論とりまとめなどに大きな役割を果たしたとされています。

維新後は、木戸孝允に新政府への出仕を勧められるも、父への孝行などを理由に断り、神職に従事しつつ、会舗社で学んだ子弟の要請で、当時の政府が奨励していた牧羊事業に取り組むなどしていたものの、病気のため50歳で亡くなったと言われています。

そして、定身が父(小保内孫陸)と共に運営していた会舗社ですが、発端は、安政の大獄の直後に、小倉鯤堂(小倉健作)という長州人が捕縛を危惧して二戸まで避難して(旧知の定身を訪ねてきた)、対応した孫陸と意気投合したのがきっかけとのことですが、この人物は、「花燃ゆ」の主人公・杉文が再婚した、小田村伊之助(楫取素彦)の弟なのだそうです。

また、吉田松陰自身が東北遊学の際に二戸を訪れたかは不明ですが、松蔭は、その少し前に起きた「相馬大作事件」(北方の国防の必要を説いていた二戸出身の兵学家・相馬大作が、津軽藩主の襲撃を企んだとして捕縛され処刑された事件。「北の忠臣蔵」と呼ばれて歌舞伎などで大いに取り上げられ、昔は有名人だったようです)に強い関心を持っていたことなどが記されており、そのことも、会舗社などの素地になったと思われます。定身が江戸で薩長の英傑らの知遇を得ることができたのも、相馬大作に縁ある者として、松蔭の後継者などに遇されたという面もあったのだろうことも想像に難くありません。

残念ながら、会舗社自体は、松下村塾と異なり明治政府を主導した人物などを輩出したという話は聞いたことがありませんが、二戸出身で日本の物理学の礎を築いた田中舘愛橘博士は、その頃に二戸で幼少期を過ごしており(なお、博士の自宅は会舗社=呑香稲荷神社の真向かいです)、何らかの形で会舗社の影響を受けていることは間違いないでしょう。

また、会舗社とは関係ありませんが、定身らの尽力で南部藩が会津や長岡のような大戦争を経ることなく恭順した後は、原敬や米内光政をはじめとする多くの元・南部藩士が、そのバトンを継いで明治期等の日本の運営に尽力したことを思えば、そうした形で、定身らの「勤王思想」は継承されたのだろうと考えることもできるのではないかと思います。

なお、小保内定身や会舗社などについて書かれたサイトは多くはありませんが、幾つかのサイトをご参考までにご紹介しておきます。
http://www.shokokai.com/ninohe/kankou/kunohejyou/rekisi.html
http://55768726.at.webry.info/201307/article_22.html
http://ninohe-kanko.com/sightseeing.php?itemid=1056
http://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet/63440728.html

こうして見てくれば、二戸人としては、文(ふみ)ではなく定身(さだみ)を主人公にしてくれればよかったのに、などと冗談を言うつもりはありませんが、長州から遥か遠く離れ、維新の著名なシーンにも全く登場しない辺境に生きた人物が、文に負けないくらい今回の大河の中心メンバー達と関わりを持っていることに、驚かずにはいられないものがあります。

二戸市や観光協会などにおかれては、大河に便乗してキャンペーン企画(長州の関係者やドラマ出演者などを招待してメディアに取り上げて貰うとか、歴史秘話ヒストリアに売り込むとか)などを立ち上げていただきたいところですが、二戸市のHP(観光コーナー)を見ても会舗社は取り上げられておらず、期待するだけ無駄なのかもしれません。
http://www.city.ninohe.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=474

ちなみに、このように、大河ドラマの登場人物と深い関わりを持ちながらも、ドラマに登場する機会に恵まれなかった二戸人は、定身だけに限った話ではありません。

前記の田中舘愛橘博士は、白虎隊士から東京帝大総長まで上り詰めた山川健次郎博士(日本の物理学の創始者的存在)の一番弟子で、「八重の桜」には教授になった健次郎の大学の研究室を八重が訪ねるシーンがあるのですが、そこで登場した「助手の学生さん」は、若き日の愛橘博士に他ならないはずで、私などは、ちゃんと助手に名前を付けて欲しい、二戸市役所はNHKに抗議せよなどと憤懣を抱いたものです。

ところで、会舗社で学んだ子弟の一人が、定身の支援を受けて、国内で取り組みが始まったばかりの牧羊事業(蛇沼牧場)に挑戦し、明治天皇の東北行幸の際にお言葉を賜ったという話が伝わっています。事業の際には、まだ国内に棲息していたニホンオオカミの襲撃や伝染病で羊が壊滅する被害に遭うなどの苦難があったそうで、岩手県庁?が子ども向け?の紙芝居で紹介しています。
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0510/kamisibai/sibai-6-1.htm

私の実家は、小保内定身の父か祖父の時代に生じた分家筋なのですが、半信半疑の噂話として、当時の本家は、牧羊事業のため多額の負債を抱え、多くの家財を手放しており、その中には、日本でたった一つの西郷隆盛の写真もあったらしいという話を、子供の頃に聞いたことがあります。

実際、「西郷隆盛 写真」などとネットで検索すれば、小保内定身の弟という人物が西郷の影武者を務めていたという薩摩藩士らと一緒に撮影されている写真なるものを見ることができ、過去にテレビ番組で取り上げられたこともあったようです。

想像でしかありませんが、敢えて歴史の表舞台に出ることなく、地域の子弟教育など地道な活動に己の途を定めた定身は、事業の失敗や病気で、失意のうちに亡くなったのかもしれません(生涯独身で、子も授からなかったようです)。

だからというわけではありませんが、「花燃ゆ」のオープニングで散っていく鳥たちの姿を見ると、その鳥は、長州人ばかりではないよ、と思わないこともありません。

私自身は、短期間ながらも東京に出て、司法研修所という当代の英才が参集する場所に身を置く機会にも恵まれましたが、定身と違って遥かに役不足の身の上のため、英才の知遇を得て交流を深めるどころか、身の置き場もなく小さくなっていたというのが恥ずかしい現実です。

それでも、田舎の地味な町弁として地道な仕事に明け暮れる身にとっては、そうした先人の存在は、何某か、心の支えになるところはありますし、研修所に限らず、若い頃に知り合った方が大きな舞台で活躍されているとの知らせに接したときなどは、自分も、無用な戦争の回避のため力を尽くした先人に倣って県民世論を云々、というのは無理でも、小さな仕事の積み重ねを通じて、社会がより良い方向に変わっていくための下支えができればと感じることができるのではないかと思っています。

歴史を学ぶ意義は、様々な出来事が、最終的には自分自身や自分を中継点とする未来へと繋がっていることを実感し、社会全体に対する地に足のついた責任感や役割意識を持つためにあるのではないかと思います。

大河ドラマは、脚本に関しては色々と議論がありますが、我々庶民がそうした感覚を素朴に学べる教材としては、意味があるのではないかと思っています(NHKからは一銭もいただいていませんが、受信料をまけていただくか、お客さまをご紹介いただければ有り難いです)。

最後の代表的二戸人

1月4日に父が亡くなり、13日の葬場祭まで色々と対応に追われました。葬儀の段取りなど大半の実務は喪主である兄に任せきりで、私は多少の手伝いをした程度ですが、10日間ほど毎日のように自動車で二戸に往復し、心身ともに多少は疲労を感じています。

ともあれ、ご参列、弔電、供花など、父の弔いにご配慮を賜りました皆様には、改めて御礼申し上げます。

この間、HPの更新等も差し控えていましたが、50日間(神道の忌中期間)も差し控えるのもいかがかと思いますので、本日以後、更新を再開させていただくつもりです。

父は、癌のほか、かなり以前から糖尿病や心筋梗塞など様々な病気を患い、生死の境を行き来するようなことも一度ならずありましたので、私達家族にとっては「突然の訃報」ではなく、ここまで生き続けることができたことの方が奇跡的なことであると、私自身は淡々と受け止めているというのが正直なところです。闘病生活に関しては、遠方で生活する私はほとんど役に立つことはなく、兄と母に任せきりでしたので、父への弔いに劣らず、兄と母に感謝の言葉を述べなければならないと思っています。

私の実家は今は昔日の勢いはありませんが、曾祖父が商人として成功し、少なくとも数十年前は二戸でも有数の商家と目されてきました。父も、先代までに築かれたものを引き継ぎ、流通業に押し寄せた荒波から家業を守り抜くと共に、地域社会や所属業界等の様々な役職等をお引き受けし、その責任を全うしてきたことは間違いありません。

その点では、誰にも恥じることなく往生を遂げたものと、遺族としては理解しています。

父は昨年末頃、やり残したことが幾つかあるので、あと3年は生きたいと申していましたが、心はともかく身体が燃え尽きてしまったというほかなく、その点は致し方ないものと認識しています。

父をご存知の方なら共感いただけると思いますが、父は、単に地域の小企業の経営者であっただけでなく、朴訥・愚直な性格であると共に、里山の枯れ木に話の花を咲かせるような「田舎の気さくな好々爺」という一面もあり、様々な意味で、「質実剛健」などの言葉に代表される二戸の気風を体現する人でもありました。

以前、某社の二戸支社にお勤めの方と親しくなった際、「二戸の三悪」という言葉があると教えて貰ったことがあります。いわく、①福岡高校出身者、②野球部出身者、そして、③「だんなさま」(地域の有力者)が地域に隠然たる力を持ち、それが北東北の田舎にありがちなある種の閉鎖的体質と相俟って、様々な弊害を地域に生じさせている、というものでした。

「悪」かどうかはさておき、地元で著名な商家の後継者であると共に、旧制福岡中学の最後?の入学者にして発足間もない新制福岡高校野球部のレギュラー選手でもあり、長期間に亘って福高野球部のOB会長を務めていた父は、二戸のキーワードというべき上記の三大要素のすべてを強く備えた人であったことは確かです。

そして、数十年前、福高・野球部そして二戸の社会が、恐らく今よりも強い輝きを放っていた「古き良き二戸」の時代をよく知る者の一人として、その誇りと価値を守り、ささやかながらも次代に語り継ぐ役割を懸命に果たしてきたと思います。

反面、幼少期の私の実家は昼夜とも多くの人が出入りする特殊な家であり、私達家族はそうした「普通の家庭にはない光景」と否応なく向き合わなければならなかった上(母をはじめ家の者の負荷も決して軽いものではありませんでした)、当時の父は多忙等を理由に家族を顧みることがほとんどなかったことなどから、少年時代の私は、正直なところ父とは良い関係を持つことはできませんでした。

父が背負うものが「古き良き二戸」であればこそ、光には影が伴い、光強ければ影もまた濃しというように、私自身は古い商家には避けがたく生じる光と影の双方に時に翻弄され、複雑な感情を抱きながら育った面もありました。

とりわけ、中学卒業後に郷里を遠く離れ、運動能力に極端に恵まれず、家業とも無縁の道を歩んだ私にとっては、未熟なまま郷里を遠く離れて生きる身の支えとして郷土の様々なものに強い執着を持ちつつ、他方で、それと対をなすように、自分は郷土で生きることができず故郷に居場所を持てなかった人間だという屈折した思いもあり、郷里に対するそうした愛憎のような思いが父への感情と重なる部分があったことは確かだと思います。

幸い、私も成人した頃には父とは良い関係を持つことができるようになり、また、父も新旧の価値観の挾間で時に悩み、父なりに色々と犠牲も払って家業と郷土を支えてきたことも多少は理解できるようになりましたが、私も自分のことで精一杯の日々が続いたこともあり、結局、子供の頃の断片的な思い出とは別に、大人同士としての父子の交流や共に何かを作り上げるような機会を持つことはほとんどできませんでした。

ただ、1月2日、私の出身中学(二戸市立福岡中)の歳祝いの会(同窓会)があったため、2日と3日に帰郷し、昨年末に病院から帰宅した父も含め、家族4人だけの時間を過ごすことができ、その点は私にとっては最後の良い思い出になりました。

3日には、朝に盛岡に戻るつもりでしたが居間で寝付いてしまい、気が付くと居間に敷いた布団で寝ている父を含む家族4人が居間で一緒に雑魚寝するような状態になり、小学生の頃、親子4人で夜に麻雀をした頃のような懐かしさを感じることができました。私には、恐らくそれで十分なのだと思っています。

ともあれ、私にとって、父は故郷を象徴するような存在であり、現に、身内が申すのも恐縮ながら、父が二戸に多くの足跡を残してきたことは確かだと思います。それと共に、私が幼い頃に憧憬と反感を抱いた、様々な方が絶えず集まってくる古い我が家、それは、多くの方が、家業の名称でもあり、曾祖父以来、祖父と父が襲名した名前をもとに「小岩」と呼んできた場ですが、私の知る「古き良き小岩」は、父の死により、名実ともに終焉を迎えたのだとも思っています。

しかし、「古き良き小岩」が終わっても、家業と私の実家が終わったわけではありません。兄は些か出不精(引っ込み思案?)なところがあるものの、相応の商才と父の持つ地域のリーダーとしての将才(器)を受け継いでおり、父の遺志を踏まえつつ、兄なりの方法で実家と家業を盛り立ててくれるものと信じています。

実家の家業に関わっておられる皆様や二戸の皆様におかれては、末永く兄と家業をご支援下さるよう、深くお願い申し上げます。

私は、次男という、ある意味、家にとっては「出番が来ないことが幸せ」というべき立場に生まれ育ちました。そんな自分が、法律家という、これもある意味、「(弁護士が必死に主張立証を尽くさなければならない深刻な法的紛争という)出番が来ないことこそが社会にとっての幸せ」というべき仕事に就いたのですから、不思議なものを感じますし、それが自分らしいのではないかと思っています。

私にとっては実家の円満な存続と精神的なものを含めた次代への継承こそが実家に対する最後の望みですので、今後も私の出番が来ないことを祈って、私なりに公のためにできることを模索しながら、遠くから静かに実家と二戸の社会を見つめ続けたいと思っています。

明治の思想家・内村鑑三の著作に「代表的日本人(Representative Man of Japan)」という作品があります。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人などの人物とその思想を海外に紹介する内容となっており、明治期の日本が、海外(欧米)に対し、日本の伝統的な精神文化の積み重ねと価値(キリスト教の精神文化に劣らぬ深さを持っていること)を理解して欲しいとの思いで書かれた作品と言われています。

諸説あるものの、ケネディ大統領が、この本を読んで「自分が尊敬する政治家は上杉鷹山である」と述べたとの逸話があり、同時代に記された新渡戸稲造の「武士道」と同様に、多くの影響を当時の欧米社会に与え、新参者たる明治日本が当時の国際社会に加わっていく上で、大いに資するところがあったと考えられます。

仮に現代の我々が「代表的二戸人」という本を作るとすれば、多くの方が、九戸政実、田中舘愛橘、国分謙吉、相馬大作といった方々を挙げるでしょう。二戸の歴史をきちんと勉強した方なら、私達の本家が維新期に輩出した偉人である、小保内定身氏も入れてくれるかもしれません。

しかし、私にとっては、父こそが、その本の締めくくりを飾るに相応しい、最後の代表的二戸人です。

今、その大きな星が天に召されました。しかし、その光は最後に弾け、身内に限らず二戸を愛する多くの方々の胸に、光の欠片が届いているはずです。

ぜひ、その光を手にとって受け継いでいただき、それを踏まえた新たな価値を二戸の社会に届けていただければというのが、郷土愛を支えに生きてきた父を知る、遺族としての願いです。

大変な長文になりましたが、最後までご覧いただいた方に御礼申し上げます。