北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

安倍晋三元首相殺害

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第1回)

安倍首相の国葬に関し、主に天皇制との関係で感じたことを幾つか述べます。長文になりましたので、全4回に分けて掲載しますが、骨子は

Ⅰ 今回は過去に国葬の対象とされた典型・類型に当てはまらないやや特殊な例であり、前例や国葬の趣旨・目的という点からは違和感を持つものである。

Ⅱ それにもかかわらず、国葬という形式で葬儀が行われたのは、岸田首相らの思惑もさることながら、国葬の本来の対象者(元首など)の社会的影響力の低下が影響しているのではないか。

Ⅲ さらに言えば、現皇室(ひいては天皇制も?)の終焉の可能性を人々が感じているから、それに代わる権威を求める国家・国民の不安感や依存心が、安倍首相の国葬(国家の威光を用いた顕彰)へと人々・支持者を駆り立てた面もあるのではないか

Ⅳ 今後も、国家統合の象徴としての天皇制の存続への不安・懸念から、有力な首相などを天皇(国民統合の象徴)の代替として権威化しようとする試み(大統領制の議論など?)が生じるかもしれない。

というものです。以下、次の項立てにより詳細を述べます。

1 安倍首相の国葬を巡る論点の整理(第1回)
2 国葬とは何か、何のために行われてきたのか(第1回)
3 国葬を実施してきた類型と、安倍首相の国葬理由の違和感(第2回)
4 現代日本で国葬が行いにくい(盛り上がらない)固有の原因(第3回)
5 それでも今回、国葬が大過なく実施できた、もう一つの理由(第4回)
6 天皇制(権威・権力分立社会)の終わりの始まりか、再構築の入口か(第4回)

***

1 安倍首相の国葬を巡る論点の整理

今回の国葬に関する論点は、大まかに言えば、次のように理解しています。

①安倍首相への評価(国葬に値するか。政権一般の評価のほか統一教会との関係性を含む)や規模(カネ)の相当性

②法的な正当性や根拠があるか(閣議決定だけで可能か等。人権云々を含む)

③国体=天皇制との関係を含む、現代日本で国葬という儀式を行うこと自体の意味・当否・あり方

開催前は、①の議論は盛んにあり、②も訴訟を起こす方がいるなどしたため一定の議論がありましたが(各地の弁護士会で表明された国葬への反対声明も、これを理由としています)、最も肝心というべきはずの③は、当時も今もあまり語られていません。

①は、詰まるところ価値観と多数決の問題でしょうし、それに対する評価は岸田内閣の存続や次回の総選挙の結果などの形で問われるでしょう。

②は、一般的な法律家の感覚からは、内閣府設置法は根拠にならないというべきだと思いますが、国民世論を動かす論点にはなりませんでした(所詮、議院内閣制ですし)。

③に関して、7月頃、反対派の学者さんが国葬自体が民主主義に反するなどと述べるものを見たことがあります。そこでは批判の理由として、山本元帥の国葬のように、戦前の皇族以外の著名人(権力者など)の国葬が政府の世論形成に活用(濫用?)されたことが挙げられていました。

しかし、米国など大統領制の国々では大統領=国家元首が亡くなると国葬が行われているほか、西洋諸国の中には、ごく普通の一般人でも、国の歴史の中で重大又は象徴的な役割を果たしたと認めれ国葬がなされる例もありますので、中身の検討もせずに、儀式としての国葬それ自体が民主主義に反するなどと言えるはずもありません。

そのように思っているうちに色々と考えが浮かんできたのが本稿のきっかけであり、以下では、その「中身」をテーマとして検討していきます。

2 国葬とは何か、何のために行われてきたのか

国葬とは、

国家を代表する者や国家が掲げる価値観などを体現する人物と国家・国民が認めた人間が亡くなった場合に、その者を追悼・顕彰することで、その者が存命中に体現した価値観を承継するよう国民に促し、ひいては国民統合や国家継続の糧としようとする儀式

だと認識しています。

先般のエリザベス女王は言うに及ばず、天皇の葬儀(大喪の礼)もいわゆる国葬にあたることは異論がないと思います。

そもそも、現代日本(戦後憲法下の社会)では、天皇は国家・国民の統合の象徴という価値を体現した存在とされています。

これ=統合の象徴としての機能は、戦後になって始まったものというより、古代から天皇が担っていた役割の核心部分であり、千数百年もの長きに亘り国家・国民に支持されてきた、強固な基盤を持った役割と言えるでしょう。

大喪の礼は、亡くなった天皇への厳粛な追悼を通じて、「象徴としての価値・役割に敬意を表し、各人に色々と意見や事情はあっても最後は天皇のもとで国民がまとまることができる社会(象徴天皇制)を後世の日本人も継承して欲しい」というメッセージが込められていると理解しています。

象徴天皇制が圧倒的に支持されている現行日本で大喪の礼(という形式で行われる国葬)に異論を唱える人はほとんどいないでしょうし、そのことは、大喪の礼が担う意味が以上のようなものであり、それを大多数の日本人が得心していることに基づくものと思われます。

他方、大日本帝国下の山本元帥や元老などについては、国家中枢が「陛下の股肱の臣であり国家運営の礎」と認定した御仁を臣下の鏡=国家目標の体現者として顕彰することを通じて、その御仁が推進し、又は否応なく担わされた政策(富国強兵であれ対米英戦争であれ)を今後も推奨する目的で、国葬が行われたように見受けられます。

国民=臣下全体がこれを範とし追従・実践させることが目的であり、だからこそ、敗色濃厚の戦時下で、山本元帥の死が、戦争継続のため利用されたと言えます(元老らに関しては、政策推進よりも単純に国家の功労への顕彰の意味合いが強いでしょうが)。

言い換えれば、国家体制の如何にかかわらず、国葬は、国家が掲げる価値観の体現者(求道者)であり代表者として国家・国民に広く認められ、かつ、その者の追悼を通じ、その者が掲げていた(であろう)価値観を、後世の国民も範として実践して欲しいと国家中枢・国民多数が感じる者に対してなされるべきものです。

そうでなければ、国家組織や国民の支持・共感が得られず、儀式として失敗に終わるはずです。

(以下、次号)

安倍もと首相のご冥福を祈りつつ、原敬首相殺害事件や戦前社会との比較を考える

安倍もと首相の突然の悲報に対し、心より哀悼申し上げると共に、事件の全容解明と適切な法執行・責任追及を願っています。

私がこの報道を聞いた直後に感じたのは、戦前で言えば、原敬首相の襲撃(殺害)事件に似ているのではないか、という点でした。

原敬ファン(特にアンチ安倍氏)の方からはお叱りを受けそうな気もしますし、安倍政権の功罪については様々な見解があろうかと思いますが、安倍首相が現代日本で最も存在感のある政治家であること自体は衆目の一致するところでしょうから、存在感=被害者ご本人のインパクトの大きさという点では、戦前に殺害された少なからぬ首相・政治家の中では、原敬首相に準えることは、あながち間違っていないと思います。

今回の犯人の動機や背景の解明は捜査の進展を待つほかないのでしょうが、原敬殺害事件は、背後関係に様々な憶測があるものの、事実としての解明ができず、公式には、一介の駅員の暴発的犯行と認定されています。

今回も、仮に、背後関係が存在しない(解明できない)展開になった場合は、組織犯罪である五・一五事件や二・二六事件などよりも、原敬殺害事件に似ていると形容する余地は十分あろうかと思います。

戦後の事件との比較でも、今回の凶行が純個人的なものなのであれば(背後関係が存在しない・解明できない展開になったときは)、テロという形容よりも、秋葉原事件などのような「不遇感を抱えた個人による通り魔的な暴発」の系譜に位置づけられるように思われます。

***

ところで、安倍首相(主に政権奪回後の第2次安倍政権)については「偉大な功績を残した」という発言が政府与党・経済界などから溢れていますが、アベノミクス(による経済成長・株高等)で財をなした首都圏や大企業などの方々はともかく、そうした恩恵に浴することのなかった田舎の庶民には、必ずしもピンとこない面はあります(故人を殊更に非難したいわけではありませんので、その点はご容赦下さい)。

言い換えれば、安倍政権下(民主党政権壊滅後)の約10年間に庶民の世界で主として生じたことは、富裕層と貧困層の二極化、勝ち組・負け組、上級国民・下級国民、或いはリア充・非リアなどという言葉に象徴される、国民の経済・生活の格差や意識の分断の進行ではなかったかと感じます(発端自体は、小泉政権期ないしそれ以前に求められるのかもしれませんし、民主党政権が解決に貢献したとも特段感じていませんが)。

今回の犯人も、まだ解明されていない点が多々あるにせよ、「リア充」からは遠くかけ離れた生活を送っていた御仁であることは間違いないように思われ、その点で、原敬首相の殺害犯人と似ている面はあります。

報道によれば、犯人は「自分は特定の宗教団体(現時点では実名が徹底的に伏されていますが、従前の報道からは、アレだろうと推測している方は多いだろうと思います)に個人的な恨みがあり、安倍首相が団体と繋がりが深いと思って犯行に及んだ」と述べている、とのことですが、それ自体が安倍首相に凶行に及ぶ理由になるのか?という違和感も含め、犯人の主観・意識とは別のところで、事件を生じさせた「見えざる力」があるのではという印象を受けてしまいます。

(この点は、直近の報道で、家族が宗教団体に搾取され家庭崩壊したことへの復讐として、団体と繋がりが深いとされる安倍首相を狙ったと犯人が供述していると述べられており、なるほどと思う面もありますが、その動機だけでこのような犯行を容易に実現できるとは思えず、その点でも見えざる力のようなものを感じざるを得ません。そうしたことも含め、政治家という職業ないし地位の恐ろしさ、難しさということに尽きるのかもしれませんが)。

安倍首相も、政権の主な功績が「政治や経済の長期安定」と評され、ご自身も岸信介首相の国家社会主義(政府が経済を統制して国民全体の福利を実現し、その求心力を足がかりにして国家目的の実現のため国民を動員する思想)に親和性を持っていたのではと感じられること、「働き方改革」など労働者保護・弱者保護の政策も行われていたことなどから、恐らくご本人の主観では「富裕層の優遇」は本意でなく、国民各層の福利を目指していたこと自体は間違いないのだろうとは思います。

(余談ながら、原敬首相も政友会の政策としての富裕層優遇との批判を強く受けましたが、ご本人は「国民各層の結集を通じた藩閥政治=明治レジームからの脱却」を目指していたのでしょうから、在任中にそれを果たすことができなかった点を含め、両者は似ている面はあります)

しかし、社会経済の実情ないし国民側の意識として、中流層の没落(分断)に伴い「負け組感」を強めている人々が増えたことは否めず、「そのような社会を生じさせたのに、今も強い影響力・存在感を放っている」ものを象徴する存在としての安倍首相に、結果として怨嗟の矛先が向かわれやすい状況にあったのかもしれない(そのような意味で、見えざる力が働いたのかもしれない)と感じる面はあります。

***

ともあれ、私は安倍首相の悲報は原敬殺害事件に似ていると感じた直後から、今後、何が起こるのか、それは、原敬首相の死後に戦前社会に生じた出来事と類似することがあるのだろうか?という点に関心を持つようになり、昨晩は、wikiなどで、大正後期や昭和初期のことについて若干調べていました。

ご承知のとおり、その時代に日本で起きた最大の事件は昭和恐慌(世界恐慌)であり、それが、満州事変に始まる転落(暗い時代)の最大の原因と言われています。昭和恐慌の最大の被害地が東北などの農村とされていることも、忘れてはいけません。

また、この時期に政府が取り組んだことの一つに軍縮強化があり、当時の状況からは、それ自体は間違っていないと思いますが、結果として軍人の社会的没落をはじめ軍関係者の強い恨みを買ったと言われています。

そして、それが、昭和恐慌により没落した各層の恨み(社会変革=没落からの回復の期待など)と相俟って、回復期待(幻想?)を国民に抱かせることに成功した軍部への支持(戦争の時代)に繋がったというのが一般的な理解かと思います。

もちろん、今は「軍部」はありませんし、現在の自衛隊を当時の旧軍と同一視するのは適切でなければ現実的とも言えないと思います。

他方、軍縮ならぬ「国費からの支出の大幅な抑制が長年期待されている項目(これを放置すれば国家財政が破綻すると言われている事項)」は、現代社会にも間違いなく存在しています。

言うまでもなく、年金・医療など社会保障関係の財政支出です。また、アベノミクスは「国土強靱化」の名目のもと公共事業の復活という面も多分に持っていたかと思いますが、これを続けることができるのか?という局面も、これから生じてきそうな気がします。また、現在の日銀が抱えている状況も、金融に関する何らかの危機の導火線になるのかもしれません(金融は完全素人なので偉そうなことは言えませんが)。

ですので、仮に「昭和恐慌のような経済危機」と「社会保障費や各種の公共事業などの圧縮(現代の軍縮)」という二つの事象が今後、同時に生じることがあれば(政府が取り組まざるを得なくなれば)、不平勢力による大きな社会の混乱・動乱に繋がるかもしれない、という危惧は、持っておいてよいのではと感じています。

ともあれ、生者には自身の現場でできることがあること、形だけの追悼言葉をメディアやFBなどで延々と並べ立てるよりも国民各自がその危機に立ち向かうことこそが、安倍首相が望んでいることは、間違いないはずです。

長文になりましたが、故人のご冥福をお祈りしつつ、今後もできる限りのことはしていきたいと思います。

かの「アベノマスク」は今も手元にありますが、今後も、出番がくるまで大切にとっておこうと思います。