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安倍首相

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第2回)

安倍首相の国葬について、各種前例との異同や天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の第2回目であり、今回は、主として世界における様々な国葬との比較を述べます。

3 国葬を実施してきた類型と、安倍首相の国葬理由の違和感

冒頭でも述べたとおり、現代の社会(とりわけ民主主義国家)では、国葬は元首や国家の功臣(有力政治家)に限らず、フランスなどでは「国家統合の象徴的な役割を担った」と社会内で広く認められた一般人にも行われるなどしており、その実施される類型は多様化しています。

ただ、概括的にまとめれば、国葬は、以下の3つの人物(場合)に行われてきたと言えるように思われます。

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①国家そのものを体現すると国家・国民が広く認めた人物。

王制・帝制なら国王・皇帝(日本では天皇=神の依代)、共和制なら大統領だが、形式的には該当しても、「国家の体現者」だという認知が国家・国民から得られない場合は、国葬は否定されたり後者(大統領)では本人が辞退する例もある。

②本来は(肩書=国家組織上の地位自体は)対象者とは言えないが、国家への功績が極めて大きく、果たした役割の重大さから国家の体現者にあたると国家・国民が広く認めた人物。

国家存亡などに多大な貢献をした政治家など=チャーチル首相が典型で、吉田首相(壊滅的敗戦後の国の立て直しと憲法等を通じ戦後体制を確立した功労者としての位置づけ)もこの類型か。

③第2類型ほどの貢献は認めないが、国家の掲げる政策・価値・理念などの体現者として、顕彰が特に必要とされた人物。

この類型では、存命中の功績の軽重のほか現国民(存命者)の動員などの政策的効果が重視されやすく、大戦中の山本元帥が典型。西欧で民主主義の体現者として認められた一般人に国葬がなされるのも、この例に含まれる。

また、国家自体が形成途上にある場合には、国家形成・機構整備などに特に貢献したと認められた者(建国の功臣)にも行われ、戦前の元老の国葬や近代の各国の国葬はその典型。

「靖国合祀」は狭義の国葬ではないが、広義にはこの一種と言える(アーリントン墓地なども同様か)。

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こう整理すると、各類型には次の特徴・傾向があるように思われます。

①は国家それ自体の権威の補強のため行われ、③は国家が掲げる特定の政策・価値観の権威化を目的とした面が強く、②は双方の性質(中間的性格)を持つ。

②は、国家存立の大きな事態が生じて特に貢献した政治家を輩出した場合に行われ、格式は①に劣らないものとなることが多い。

形成途上の国家(特に戦時中の国家)では③が行われやすい。建国の功臣の顕彰(国葬)はその典型。③類型は、国家(元首)・国民総意が「与える」ものとして、格式は①や②に劣るとされるのが通常。

国家(国民統合)の維持に何らかの不安要素を抱えた国家でも、国民統合の儀式(象徴的存在を新たな権威に追加する儀式)として③が行われやすい。

逆に言えば、国家組織・社会が成熟・安定すれば(特定人の葬儀を通じた国家・国民の統合の必要性が乏しい又は葬儀という装置が現在の社会的課題の解決策として役に立つわけではないとの認識が広まれば)、①以外の国葬は、行われなく(行われにくく)なりやすい。

ウクライナ戦争が適切に終結し復興が進めば、ゼレンスキー大統領は救国の英雄ないし象徴として没後に国葬に付される可能性が濃厚だが、今後の業績次第で、②③のいずれになるかは現時点で予測不能。

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このように国葬を整理した場合、安倍首相は、①に該当しないことは議論の余地がありません。

長期の在任や外交での活躍を理由に安倍首相が②に該当すると主張する論者もいますが、「世界大戦の勝利の牽引」「無条件降伏からの奇跡的復興の土台作り」に匹敵するとの評価は無理でしょ、というのが一般の感覚だと思います。

では、③はどうか。長期在任それ自体は国家による顕彰の対象とは言えないでしょうし、外交云々も、国家による特別の顕彰に値するほどの功績かと言えば、少なくとも現時点でそのような評価が確立したとは言えないでしょう。

安倍首相の在任中に政治的権力闘争による社会の混乱があまり見られず社会が安定し経済が相応に繁栄したことは確かですが、それ自体、歴史の評価が定まっていません(成長戦略や痛みを伴う改革が実践されず、日銀を利用しツケを先送りしただけでは、との批判が根強くあると思います)。

また、③類型は、既述のとおり特定の政策や理念の推進のため行われるのが通例ですが、安倍首相を顕彰することで特定の政策や理念を牽引したい、というメッセージ性は実施前後はもちろん現在までほとんど見えてきません。

首相を長期歴任し現在も政界に強い影響力を持つ現役の有力政治家が凶弾に斃れたというショッキングな事件のため、「テロに負けない」とのメッセージも当初は掲げられました。

しかし、加害者の凶行の原因となった統一教会による凄まじい被害と、岸・安倍家三代の長年に亘る統一教会との蜜月関係、それに起因するとみられる清和会・自民党を中心とする多数の議員が統一教会に選挙運動などで依存していた光景などから、「凶行は是認しないが、背景となった統一教会による社会悪を放置することは許されない」という世論の方が遙かに強くなり、「テロに負けない」というメッセージは萎みました。

敢えて言えば、統一教会に関する現在の政府の対応(質問権行使など解散命令請求を視野に入れた行政権行使と、異常献金等に対する予防や救済に関する特別立法など)に見られるように、事件後の社会には、「現代を代表する大物政治家たる安倍首相を暗殺に追いやる原因となった統一教会には、相応の落とし前を付けさせるべき」という国民合意が相応に形成されていると思います。

そして、その合意形成の方法の一つとして国葬という儀式が活用されたという見方はできると思います(岸田首相にとっては、それ自体が目的というだけでなく、それを掲げることで自身の政権存続の糧にしたいのかもしれませんが)。

少なくとも、支持率が低下し続ける岸田内閣ですが、法律案の中身や実行力の問題はさておき、「統一教会に落とし前をつけさせるべき(そのための権力行使をすべき)」という政策の方向性自体は、今も広く支持されていると思います。

ただ、それ(統一教会をぶっ潰す、アベ政治ならぬ統一教会による社会悪を許さない)は、他ならぬ被葬者の殺害犯人が求めてきたことであり、ある意味、「テロを許さない」という表層的な言葉からは、真逆の話でもあります。

ですので、被葬者自身が生前に現在の光景を求めていたのかという点も含め、そうした「ねじれ感」が、この国葬は特定の政策の推進のためのものなのか?という違和感或いはヘンテコ感(居心地の悪さ)を感じさせるような気がします。

それこそ、大戦回避や早期収束を望んでいたとされる山本元帥の戦死による国葬が、国民総動員という真逆の政策目的のため用いられたとされることと似ている面があるのかもしれません。

或いは、色々とややこしいことを考えるよりは、「存命なら令和の妖怪として政界に隠然たる力を行使したであろう安倍首相の無念の斃死に起因する現実世界への祟り(怨霊化)を恐れた人々による鎮魂」と考えた方が、分かりやすいのかもしれませんが。

(以下、次号)

三島由紀夫の自決事件から安倍首相の殺害事件を考える

3年前に、三島由紀夫事件からの着想で、以下の替え歌を投稿したことがあります。安倍首相殺害後の一連の報道を見る中で、この歌を思い出しました。

真っ赤だな 真っ赤だな
きれいごとって 真っ赤だな
戦後の平和も 真っ赤だな

三島由紀夫が そう言って
真っ赤になり問うた この世界
真っ赤な嘘は まだそこにある

***

一連の報道で、安倍・岸家三代と強い関わりのあった勝共連合=統一教会が多くの日本人に災禍を及ぼし、国民から搾取された富が文鮮明ファミリー(ひいては韓国社会?)に還元されていたことと、安倍首相の代名詞とも言われていた朝鮮両国(韓国・北朝鮮)への強硬姿勢との間に、強烈な矛盾・不整合を感じずにはいられなかった人は、少なくないのだろうと思います。

ただ、その話は決して今に始まった・露見したことではなく、戦後政治や統一教会被害問題に多少とも知識のある人なら、半ば分かりきったことでした。それでも、安倍首相の在任中に限らず、その前後も含めて、「反アベ」を標榜する方々すらもキャンペーンすることなく、誰もが忘却していたと言ってよいと思います。

今回の事件は、忘れられた世界で塗炭の苦しみを強いられた御仁による、強烈な異議申立と見ることもできるのかもしれません。

***

米国にはラストベルトで忘れられた没落中級層の代弁者としてのトランプ大統領が出現しましたが、日本では同氏に匹敵する存在は現れていません。

そんな中、誰よりも同氏と懇意にしていたと言われる安倍首相が半ばとばっちりのような形で「忘れられた日本人」の凶弾に斃れる光景も、皮肉というのか、得体の知れない恐るべき何かを感じざるを得ません。

我々が経験してきた「戦後の平和」にも「戦後レジームの脱却(の先にあるとされる平和)」にも何らかの嘘や欺瞞があるのだろうと感じつつ、何が真実なのかと問われても答えに窮する方は、少なくないと思います。

或いは、我々自身がそれらに依存する面が大きいがゆえに、真実を見ることも困難な状況にあるのかもしれません。

今回の事件で誰が問うたのか・何が問われたのかはさておき、真っ赤な嘘がはびこる社会には、真っ赤な光景をもって、その嘘を問おうとする人が、出現せざるを得ないのかもしれません。

三島由紀夫は自決直前の演説で、戦後社会には欺瞞が溢れているという趣旨の社会批判をしていたようですが、或いは、そのメッセージは、今回の事件に限らず、数十年を経た現在の社会に対する批判としての意味も持ちうるようにも感じています。

3年前のブログ記事は、今回の文章とはあまり関係ありませんが、末尾に替え歌の全文を収録しています。

安倍もと首相のご冥福を祈りつつ、原敬首相殺害事件や戦前社会との比較を考える

安倍もと首相の突然の悲報に対し、心より哀悼申し上げると共に、事件の全容解明と適切な法執行・責任追及を願っています。

私がこの報道を聞いた直後に感じたのは、戦前で言えば、原敬首相の襲撃(殺害)事件に似ているのではないか、という点でした。

原敬ファン(特にアンチ安倍氏)の方からはお叱りを受けそうな気もしますし、安倍政権の功罪については様々な見解があろうかと思いますが、安倍首相が現代日本で最も存在感のある政治家であること自体は衆目の一致するところでしょうから、存在感=被害者ご本人のインパクトの大きさという点では、戦前に殺害された少なからぬ首相・政治家の中では、原敬首相に準えることは、あながち間違っていないと思います。

今回の犯人の動機や背景の解明は捜査の進展を待つほかないのでしょうが、原敬殺害事件は、背後関係に様々な憶測があるものの、事実としての解明ができず、公式には、一介の駅員の暴発的犯行と認定されています。

今回も、仮に、背後関係が存在しない(解明できない)展開になった場合は、組織犯罪である五・一五事件や二・二六事件などよりも、原敬殺害事件に似ていると形容する余地は十分あろうかと思います。

戦後の事件との比較でも、今回の凶行が純個人的なものなのであれば(背後関係が存在しない・解明できない展開になったときは)、テロという形容よりも、秋葉原事件などのような「不遇感を抱えた個人による通り魔的な暴発」の系譜に位置づけられるように思われます。

***

ところで、安倍首相(主に政権奪回後の第2次安倍政権)については「偉大な功績を残した」という発言が政府与党・経済界などから溢れていますが、アベノミクス(による経済成長・株高等)で財をなした首都圏や大企業などの方々はともかく、そうした恩恵に浴することのなかった田舎の庶民には、必ずしもピンとこない面はあります(故人を殊更に非難したいわけではありませんので、その点はご容赦下さい)。

言い換えれば、安倍政権下(民主党政権壊滅後)の約10年間に庶民の世界で主として生じたことは、富裕層と貧困層の二極化、勝ち組・負け組、上級国民・下級国民、或いはリア充・非リアなどという言葉に象徴される、国民の経済・生活の格差や意識の分断の進行ではなかったかと感じます(発端自体は、小泉政権期ないしそれ以前に求められるのかもしれませんし、民主党政権が解決に貢献したとも特段感じていませんが)。

今回の犯人も、まだ解明されていない点が多々あるにせよ、「リア充」からは遠くかけ離れた生活を送っていた御仁であることは間違いないように思われ、その点で、原敬首相の殺害犯人と似ている面はあります。

報道によれば、犯人は「自分は特定の宗教団体(現時点では実名が徹底的に伏されていますが、従前の報道からは、アレだろうと推測している方は多いだろうと思います)に個人的な恨みがあり、安倍首相が団体と繋がりが深いと思って犯行に及んだ」と述べている、とのことですが、それ自体が安倍首相に凶行に及ぶ理由になるのか?という違和感も含め、犯人の主観・意識とは別のところで、事件を生じさせた「見えざる力」があるのではという印象を受けてしまいます。

(この点は、直近の報道で、家族が宗教団体に搾取され家庭崩壊したことへの復讐として、団体と繋がりが深いとされる安倍首相を狙ったと犯人が供述していると述べられており、なるほどと思う面もありますが、その動機だけでこのような犯行を容易に実現できるとは思えず、その点でも見えざる力のようなものを感じざるを得ません。そうしたことも含め、政治家という職業ないし地位の恐ろしさ、難しさということに尽きるのかもしれませんが)。

安倍首相も、政権の主な功績が「政治や経済の長期安定」と評され、ご自身も岸信介首相の国家社会主義(政府が経済を統制して国民全体の福利を実現し、その求心力を足がかりにして国家目的の実現のため国民を動員する思想)に親和性を持っていたのではと感じられること、「働き方改革」など労働者保護・弱者保護の政策も行われていたことなどから、恐らくご本人の主観では「富裕層の優遇」は本意でなく、国民各層の福利を目指していたこと自体は間違いないのだろうとは思います。

(余談ながら、原敬首相も政友会の政策としての富裕層優遇との批判を強く受けましたが、ご本人は「国民各層の結集を通じた藩閥政治=明治レジームからの脱却」を目指していたのでしょうから、在任中にそれを果たすことができなかった点を含め、両者は似ている面はあります)

しかし、社会経済の実情ないし国民側の意識として、中流層の没落(分断)に伴い「負け組感」を強めている人々が増えたことは否めず、「そのような社会を生じさせたのに、今も強い影響力・存在感を放っている」ものを象徴する存在としての安倍首相に、結果として怨嗟の矛先が向かわれやすい状況にあったのかもしれない(そのような意味で、見えざる力が働いたのかもしれない)と感じる面はあります。

***

ともあれ、私は安倍首相の悲報は原敬殺害事件に似ていると感じた直後から、今後、何が起こるのか、それは、原敬首相の死後に戦前社会に生じた出来事と類似することがあるのだろうか?という点に関心を持つようになり、昨晩は、wikiなどで、大正後期や昭和初期のことについて若干調べていました。

ご承知のとおり、その時代に日本で起きた最大の事件は昭和恐慌(世界恐慌)であり、それが、満州事変に始まる転落(暗い時代)の最大の原因と言われています。昭和恐慌の最大の被害地が東北などの農村とされていることも、忘れてはいけません。

また、この時期に政府が取り組んだことの一つに軍縮強化があり、当時の状況からは、それ自体は間違っていないと思いますが、結果として軍人の社会的没落をはじめ軍関係者の強い恨みを買ったと言われています。

そして、それが、昭和恐慌により没落した各層の恨み(社会変革=没落からの回復の期待など)と相俟って、回復期待(幻想?)を国民に抱かせることに成功した軍部への支持(戦争の時代)に繋がったというのが一般的な理解かと思います。

もちろん、今は「軍部」はありませんし、現在の自衛隊を当時の旧軍と同一視するのは適切でなければ現実的とも言えないと思います。

他方、軍縮ならぬ「国費からの支出の大幅な抑制が長年期待されている項目(これを放置すれば国家財政が破綻すると言われている事項)」は、現代社会にも間違いなく存在しています。

言うまでもなく、年金・医療など社会保障関係の財政支出です。また、アベノミクスは「国土強靱化」の名目のもと公共事業の復活という面も多分に持っていたかと思いますが、これを続けることができるのか?という局面も、これから生じてきそうな気がします。また、現在の日銀が抱えている状況も、金融に関する何らかの危機の導火線になるのかもしれません(金融は完全素人なので偉そうなことは言えませんが)。

ですので、仮に「昭和恐慌のような経済危機」と「社会保障費や各種の公共事業などの圧縮(現代の軍縮)」という二つの事象が今後、同時に生じることがあれば(政府が取り組まざるを得なくなれば)、不平勢力による大きな社会の混乱・動乱に繋がるかもしれない、という危惧は、持っておいてよいのではと感じています。

ともあれ、生者には自身の現場でできることがあること、形だけの追悼言葉をメディアやFBなどで延々と並べ立てるよりも国民各自がその危機に立ち向かうことこそが、安倍首相が望んでいることは、間違いないはずです。

長文になりましたが、故人のご冥福をお祈りしつつ、今後もできる限りのことはしていきたいと思います。

かの「アベノマスク」は今も手元にありますが、今後も、出番がくるまで大切にとっておこうと思います。

 

アベノマスクに「今さらジロー」と言いたい貴方に捧げる唄

てっきりGW前にはいただけるものかと思っていたアベノマスクこと首相マスクは、聞くところでは、5月末までには、今も感染ゼロ記録更新中?の岩手県民を含め、全国民に届く予定だそうです。

諸々の事情でやり場のない鬱憤が溜まっている方は、私が子供の頃に一世を風靡した小柳ルミ子氏の「今さらジロー」の曲に沿って次の替え歌でも熱唱していただき、届いたマスク自体は決して捨てることなく、大事に使用又は保管等していただければ幸いです。

【今さらマスク】

あれは確か 4月初めの 憂鬱な夜に
ブーイング 振り払って 言い出したっけ

家のテレビ 何度も見た あなたの会見
苛立ちで わめいた日も あったっけ

今さらマスク ありがたがれと言わないでよね
すぐに届けられないと知って 頼んだくせに
今さらマスク 来るの遅いよ あたしのもとへ

あのあと買って・・ いま余る

ルルララルルララ ルルラララ
しゃぼん玉だね  支持率は

元気ですか? ひとりですか? どうしてますか?
仲間たちと 机並べて 話もできず

さりげなく消えてゆく 街かどの店
楽しかった 想い出が 胸をつく

今さらマスク 布でごめんと あやまらないで
あたしの身を 案じるなら  別なことして
今さらマスク 戻せやしない しないわきっと

賑わう日々が 今はもう・・

ルルララルルララ ルルラララ
しゃぼん玉だね  この街も

今さらマスク ありがたがれと言わないでよね
あたしたちの 行き詰まり 分かったくせに
今さらマスク 罪つくりよ あたしにとって

昔は昔・・・ 今は今・・・

ルルララルルララ ルルラララ
しゃぼん玉だね  この世界

安倍首相談話と小沢氏談話から学ぶ、法の支配と民主主義

安倍首相の「戦後70年談話」を巡っては色々と議論もあるようですが、内容についての論評はさておき、文章としての読み応えや読みやすさ、一読了解性という点では、過去の2首相談話よりも遥かに秀逸だと思いますし、それは首相個々の資質の差というより、現在と当時の日本の置かれた状況の違いによる面が大きいのだろうと思っています。

他方、ネット上で流れていた小沢一郎氏の「70年談話」も拝見しましたが、安倍首相の談話に引けを取らず、読み応えのある文章だと思いました。また、双方を読み比べてみると、互いの政治理念の差(ひいては、民主政治のあり方や統治機構に関する憲法観の違い)が見えてくる面があるという点でも、興味深いと感じました。
http://blogos.com/article/128288/

なお、安倍首相談話については、仙台の小松亀一先生のHPに、村山首相・小泉首相の談話と共に掲載されているのが参考になりますので、ご紹介します。
http://www.trkm.co.jp/syumi/15081501.htm

双方の違いとして私が感じたことを少し具体的に述べると、小沢氏の談話では、大日本帝国が草の根の民主主義を軽視し庶民を残酷に取り扱っていた(大戦直前の混乱はその帰結である)ということが強調されており、これは、満州事変以後に大日本帝国が道を誤ったという観点を強調しているように見える安倍首相の談話では、ほとんど指摘されていない視点だと思います。

韓国が「植民地支配を謝罪しろ」と言い続けることに抵抗感を感じる方も多いと思いますし、そのことを安易に批判するつもりもないのですが、帝国内に重いヒエラルキーがあり、朝鮮人であれ日本人であれ、ピラミッドの下の方に属する人にとっては非常に抑圧的な体制があったことは、理解、認識が必要なのだろうと思います。

また、小沢氏が、現在の課題について、「内実ある民主政治の定着」を強調しているのに対し、安倍首相談話が「今後の課題」を列挙した後半部分では、その点(民主主義)はほとんど強調されていません。むしろ、憲法学を勉強した人間からは、「民主主義と緊張関係を持つ原理」としてすぐにピンと来る「法の支配(自由主義)」の言葉が重要なタームとして登場し、女性の人権や自由主義経済体制など、自由主義と親和性のある話題が主に取り上げられているように感じます。

ですので、アンチ安倍首相の人が批判的に談話を解釈すれば、「自由や平和、福祉を強調するが、民主主義(その実現の過程における、民主的な意思決定)を強調していない。これは、国権主義・官僚主義的な政治思想が背後に潜んでいるからではないのか」という見方も出来るのかもしれません。

少なくとも、法の支配=自由主義は、多数決を排斥してでも国の力で一定のルールを守る・守らせるという点で、官僚主義的な側面があることは確かだと思います。また、国権主義云々が、安保法案などを巡って安倍首相が批判されるキーワードであることは、しばしば語られるところだと思います。

裏を返せば、アンチ小沢氏の人が批判的に同氏の談話を解釈すれば、「法の支配=自由主義に関する話題が一切出てこない、金権問題で司法と対決し失脚した小沢氏(ひいては田中角栄系)らしい談話だ」などという見方も出来るのかもしれません。

私は、大学で憲法の勉強を最初に始めたとき、その年に司法試験に合格された大先輩の方から、「憲法学、なかんずく統治機構の本質は、自由主義(法の支配)と民主主義という、相対立する2つの基本原理の対立と調和である。主要な論点では必ずこの問題が出てくるので、常に意識するように」ということを強調されました。

もちろん、どちらの理念を重視するかは、個人の思想良心(主権者としての政治的決断)の問題であり、双方の理念にヒエラルキーを付けるのが憲法学の発想でないことは、申すまでもありません。

安倍首相と小沢氏の双方の談話を読み比べることで、ご自身が、現在、自由主義と民主主義のどちらに重きを置いて社会と向き合っているか考えてみるのも、意義があるのではないかと思います。

また、民主党全盛の当時を含め、小沢氏の主張を見ていると、三権分立の中でも議会の影響力を優先(優位)に考える発想の強い方(「国権の最高機関」に関する統括権能機関説。憲法41条参照)と認識しており、三権を同格に考える通説的見解(政治的美称説)とは一線を画しています。

こうした、当否ないし支持の是非はどうあれ、「憲法学も視野に入れた政治哲学を感じさせる国会議員さん」は、残念ながら我が国には実に少ないように感じており、小沢氏の引退が視野に入ってきている現在、そうした「憲法=国家統治などのあり方を巡る視野の大きい議論」ができる人材を国政の場に送り出すことができているのかという点で、今こそ、国民に問題意識が広く共有されるべきではと感じています。

余談ながら、先日、オレオレ詐欺に従事する若者達の内幕などを論じた「老人喰い」という本を読んだのですが、小沢氏談話に登場する青年将校のテロと同一視するのは行き過ぎであるにせよ、主として貧困層出身の若者によるテロ行為という面で、通じるものがあるように感じました。
http://president.jp/articles/-/15501

岩手県知事選の顛末と安易になぞらえるつもりはありませんが、仮に、現在の自民党政権が、民主政の過程を軽視する側面があるのだとしたら、或いは、格調高い安倍首相談話をあざ笑うような事態が、水面下で進むということも危惧されるのかもしれません。