北奥法律事務所

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寮生

もう一つの「寮生はどう生きるか」の物語と、黄昏の中で止まった時間

先日、函館ラ・サール学園の保護者向けの通信誌に寄稿する機会があり、思うところあって、私の昔話、それも、華やかな自慢の類とは真逆の、苦い思い出話を敢えて書くことにしました。

といっても、通信誌では、字数の制約もさることながら、言葉をかなり選んで書かなければならないでしょうから、踏み込んだ記載は避けて、かなりぼかした内容にしています。

ただ、現在も、何らかの形で寮生活に不適合を起こすなどして、気の滅入る暮らしを余儀なくされている生徒さんは一定程度いるのでしょうし、お子さんにそうした問題が生じた親御さん達も、辛い思いを余儀なくされているのだろうとお察しします。

私の経験やその後に辿った道は、そうした方々に何らかの参考になるかもしれないと思い、敢えて、具体的な事実関係を書くことにしました。

ちなみに、通信誌に寄稿したタイトルは、次のとおりです。

【落ち込むこともあったけど、盛岡支部はまだ元気です。たぶん。】

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33年前、私は100人部屋にいました。
何かと美化されやすいこの空間が、希薄な人間関係の中で育った私は苦手でした。

自習室(2室。当時は計7室くらいありました)は40人ほどで、1年次の最後に室内(生徒達)で行った「何でも投票」があり、十数個の質問の中にあった「面白くない人」ランキングで、私は2位でした。

こんな投票(アンケート)を2室の人達が行った理由は、今も分かりません。
当時の私への評価自体には、異議はありませんが。

自習室の私の目の前には、爽やかという言葉のエッセンスを抽出して具現化すれば、こんな若者が造形されるのだろうと感じた、美しい心と容貌の持ち主のA君が座っていました。入寮当日に打ち解け、100人部屋時代は一番の仲良しだったと思います。

入寮から半年以上を経て4人部屋に移行する時期になりました。

この学校では、「メンバー決め」は原則として生徒の自主性(自助努力)に委ねられています。

号令が下された直後に、私とA君、次いで、飄々或いは泰然自若としたB君が組むことになりましたが、あと1人が決まりません。

やがて、顔役の同級生から、少し離れたエリア(他の自習室)で暮らすC君が、仲間を作れず困っているので入れてやって欲しいと頼まれ、3人とも快諾しました。

***

4人部屋の生活が始まり、最初は4人とも関係は良好で、消灯時間後も深夜まで談笑する日々が続きました。
が、間もなく、C君は何かにつけて、私1人を執拗に非難するようになりました。

私はC君が一年次に他の同級生から寮内で「いじめ未満」の被害を受けるのを垣間見たことがあり、人としての未熟さを色々と抱えた「面白くない人」の私が、人望のあるA君やB君と仲良く暮らす光景を、面白くないと感じていたのかもしれません。

C君の言動は、その種の経験に慣れた私には半ば平気なものでしたが、暖かい家族と暮らした優しいA君には、その光景が耐えられなかったようです。

ほどなくA君は3人だけの場で私やB君に愚痴を述べるようになり、仕舞いには自身の退寮希望まで仄めかすようになってしまいました。

私もB君も事態悪化を回避したく、A君を説得すると共にC君との調和に努めたつもりですが、状況はさらに深刻となり、我々3人で、C君と困難な協議をせざるを得なくなりました。

最初に切り出した瞬間以外は、誰が何を話したのか、覚えていないことも多いのですが、事実上のリーダー役となったA君が、君と一緒にやっていくのは難しいという趣旨のことをC君に述べたのだろうと思います。

結果、C君は「君達に迷惑はかけたくない」と言って下宿に移りました。

私の記憶では、我々3人がC君に退寮を求めたことはありません。
しかし、寮教諭に相談するなど「C君の退寮を避けるための方策」を何か講じたこともありませんでした。

今ならそうした幾つかの方法が思いつきますが、当時、そこまでの知恵がなかったか、私に当事者意識・責任感が欠けていたか、C君ひいてはA君の立場に立って考える姿勢が足りなかったか、全ては未熟さによるものとしか言いようがありません。

ともあれ、5月か6月の時点で、4人部屋は3人だけの部屋になりましたが、その後も部屋に笑顔が戻ることはありませんでした。

A君は、それ以来、その出来事に強い自責の念を抱くようになり、1~2ヶ月ほど鬱々とする生活を続けた後、寮生活の継続を望まず、自ら下宿に移っていきました。

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夕暮れに沈んだ暗い室内で退寮の意思を告げたA君が、そのとき何と言ったのか覚えていません。

ただ、私やB君の慰留を寂しそうな笑顔で断ったA君が、C君の件で責任を取りたいとの気持ちだったことは、間違いないと思います。

しばらくして、多少とも明るさを取り戻したA君は、下宿生同士でもあるC君と行動を共にすることもあったようです。

私が事態の打開にできた・したことは何もなく、力不足を彼らや親御さんに申し訳ないと思いつつ、他人事のように状況を眺めることしかできませんでした。

私自身は、その後、高校時代に誰かと一緒に出かけるなどした記憶が基本的にありません。大学時代も、そうした経験はほとんどありませんでした。

高校1年生の頃、私はA君と一緒に出かけたり二人だけで時間を過ごしたことが何度かあり、そのことは、私にとっては、他の友人・同級生と過ごした時間とは何かが違う、眩しさを含む思い出になっています。

もしかすると、それは、映画「影裏」の光景に、ほんの少し通じるものがあるかもしれません。

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残った私とB君は、2年次の後半は他の4人部屋で生じた不和のため行き場をなくしたD君を受け入れて欲しいと寮の先生に言われ、D君と3人で互いに干渉しない静かで淡々とした日々を過ごし、3年次には、新たな仲間を見つけたD君に代わり、B君のほか別の4人部屋から分かれたE君・F君と組みました。

北大医学部に現役合格したE君の勉強姿勢に強い感銘を受けることも多く、3年次には、この4人で一貫して良好な寮生活を過ごすことができました。

私は、入学直後から理系科目で断崖を乗り越えることができなかった影響もあり、大学入試では、この学校への進学を活かし切ったと言えるだけの十分な成果を出すことはできませんでした。

しかし、E君やB君(旭川医大現役合格)の背中から学んだことが、その後の司法試験で、当時の実力に照らし分不相応なスピードでの合格という形で、顕著に生きたことは間違いありません。

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それから30年を経た今、田舎のしがない町弁の宿命として多数の赤字仕事に追われる日々を送っていますが、採算が取れなくとも人々の力になる真っ当な仕事をすることが、あの光景への、自分なりの贖罪かもしれないと思うことはあります。

もちろん、未熟な高校生同士の話ですし、C君やA君に対しては、誰かが一方的に悪いという構図は存在しないと思っていますが、C君やA君の親御さんに対しては、あのような事態になってしまい力不足で申し訳ありませんでしたとお詫びしたい気持ちを今も持ち続けています。

どうしてこんな昔話をダラダラ書くのか、だから、お前は「面白くない人」と言われるんだろうと、お叱りを受けるかもしれません。

今も昔も、この学校・寮で暮らす子供達は、多くの不安やストレスを抱えながら生きています。中学生なら、尚更だと思います。

私も、何か彼らの力になることができればとは思いつつ、希薄な人間関係に安住してきた報いなのか、意義のある役割は何一つ果たすことができていません。

ただ、人には歴史があります。

ここに書いていない事柄を含め、本校・寮で、決して楽しいとは言えない経験もしたのは、貴方だけではないこと、そして、そんな経験でも、いつか前向きに生かせるときが来るのではと伝えることで、私にも皆さんの役に立つことがあるかもしれません。

困難な問題を抱えた生徒さん達に対し、直に力になることはできないかもしれませんが、口先だけの励ましに代えて私の経験談をお伝えした次第です。

当事務所のブログには、他にも、ご迷惑にならない範囲?で本校や函館のことを書いています。気が向いた方は、そちらもご覧いただければ幸いです。

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ちなみに、今回のタイトルは、本校ご出身の作家さんの作品にちなんだもので、私の手元にも1冊ありますが、まだ読めていません。そろそろと思ってはいますが・・

函館ラ・サールの小鍋の昇天

先日、高校(函館ラ・サール)に入学・入寮した平成元年4月に寮生活の必需品として勧められ購入した小鍋(ミルクパン。値段は1000円前後?)を、誤って空焚きし昇天させてしまいました(末尾の写真参照)。

この小鍋は、卒業後も延々と使用を続け、特にここ10年ほどは家族の味噌汁を作る際のメインの鍋として毎日のように使っていましたので、残念というほかありません。

ところで、この小鍋は、当時、函館ラ・サールの寮に入る人(函館市外から進学する生徒の大半)の恐らく5割以上(ほぼ全員?)が購入していたのではないかと思います。

というのは、この小鍋は、夜(特に土日)に袋ラーメン(サッポロ一番など)を作って食べる目的で購入するものですが、私の微かな記憶では、寮で面識のある人のほとんどがこの小鍋を持っており、1年生のときは、袋ラーメンを食べることができる地下1階の休憩室に沢山の人が集まり、コンロ周辺が順番待ちのような状態になっていたという光景を何となく覚えているからです(余談ながら、その中には、10年近く前に国政に出馬し国会議員になったかと思えば、それを皮切りに激動の人生を送っている方もおられます)。

当時の函館ラ・サール高校は、私の記憶では、約3割が函館及び近隣自治体からの進学者(通学生)で、7割がそれ以外となっており、その大半は寮に入っていました。

入寮は任意ですが、寮費がかなり安いのに三食風呂付きで毎日洗濯していただけるとのことで、ほぼ全員が入寮しており、母から「学費と寮費(生活費)を併せて勘定すれば、盛岡よりも函館に進学した方が安上がり」と言われたのを覚えています(もちろん、私のように集団生活に向いていない人間には、それなりの苦労がありましたけど)。

寮生の内訳は、(上記の7割を前提に)約6割(寮生の8割以上)が函館以外の北海道各地の出身者で、自圏内に有力校のある札幌・旭川の出身者はほとんどおらず(当時の北海道は地区外2%とのこと)、特に小規模自治体の出身者が多かったとの印象です。

残りの1割の内訳は、東北各県(青森を中心に北東北三県がほとんど)出身者が5割弱で、他の4割強が全国各地から集まっており、関西出身者の比率が非常に高かったと記憶しています(私に関しては、大阪出身の友人・知人は何人もいましたが、関東や中部出身の方に知り合いがいたか記憶にありません)。

ちなみに、関西出身の方が多いのは、函館ラ・サールが、伝統的に医学部の進学に定評があり、特徴的な寮のシステムなども理由になって、病院を経営されている方が遠方から子弟を進学させる例が多いからなのだそうで、私は面識がありませんでしたが、西国某県で最大級の病院を経営する医師のお子さんが入寮しており、その方に関する「ロレックス(数十万円の高級時計)の紛失騒動(の噂話)」を聞いたことがあります。

寮生は、1学年で概ね200人程度でしたが、1年生は、ワンフロアに100人を収容する、二段ベッドとロッカーが延々と並んだ大広間(言うなれば「100人部屋」)になっている二階建の建物に収容されて寝泊まりする制度になっています。

そして、50音順に約30人ほどで構成される勉強部屋(私の場合は、「う」から「か」で始まる名字の生徒が集まる部屋)に割り振られて、部活等を別とすれば、夕方~夜間はそこで勉強する日々を余儀なくされます。

で、数少ない娯楽として、漫画雑誌の購入(又は立ち読み、廻し読み)やカード麻雀等のほか、土日(主に土曜)の夜に、地下1階の休憩室で袋ラーメン等を作って食べ、休憩室のテレビで夜9時からの映画(番組)を見て過ごすというものがあったと記憶しています。

ですので、その際の必須アイテムである冒頭の小鍋については、有り難くもないけれど、それなりに懐かしい記憶が甦る触媒になると感じる卒業生は、私だけではないだろうと思います。

私の場合、お湯を沸かしてカップ焼きそばを食べることも多かったのですが、北海道では「焼きそばバゴォーン」が売っておらず、「焼きそば弁当」という、やや小振りなカップ焼きそばが主流でした。そのため、実家から「バゴォーン」を箱で送られていた私は珍しがられ、物々交換のほか、時には強奪されるように「お裾分け」を強請られていたような気もします。

上記の「100人部屋」は1年次だけであり、2年に進級する際に、仲良しの人を見つけて4人グループ(原則)を組み、2、3年次は4人部屋(原則)で生活することになります。 もちろん、4人組を作るのが難しい人(2人或いは3人だけ、或いは誰とも組めないままの人)が出現するのは避けられず、寮の先生などが仲介等して(そうした面々を組み合わせるなど)、どうにか全員が4人部屋に移行できるようにします。

ただ、「自分達の自主的な判断で4人グループを作る」というスタイルが逆に仇となるのか、4人部屋に移行した2年次になると、不和が生じて同じ面々での生活を営むのが難しくなる部屋も幾つか生じてきます。

かくいう私自身、2年次に4人部屋を組んだ面々に不和が生じ、私の至らなさもあって同室者が2人も自主退寮(アパートに転居)するという痛恨事を経験しています。幸い3年次に4人部屋を組んだメンバー(2年次に残ったもう1人を含む)とは全員、終始、平穏かつ良好な関係のまま卒業できましたが。

私のことを、他者との距離を詰めるのがかなり下手な人と認識されている方は多いと思いますが、能力の偏りの大きさ(バランスの悪さ)のほか、そうした過去も影響しているのかもしれません。

余談ながら、2年の進級時に相部屋仲間を見つけることが全然できなかった4人の「おひとりさま」だけで組んだ部屋が、卒業まで2年間を平穏に維持できたという話を聞いたこともあり、案外、物事はそのようなものではないかと感じています。

恥ずかしながら、高校時代は 「勉強もできず、運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」(日本史の成績だけは良かったですが)として、場違い感(劣等感というよりも、自分がここにいていいのだろうかという感覚で、疎外感といった方が適切だろうと思います)を常に抱きながらの鬱屈とした日々を送っていました(その点は、司法研修所時代も同じようなものだったと思いますが)。

ただ、真摯に勉強に打ち込んで難関校突破という栄冠を勝ち取っていく同級生の方々の背中を日常的に拝見できたことが、司法試験受験生時代に大いに糧となったことは間違いなく、自分の未熟さ、至らなさを悔いる点は山ほどありますが、あの学校を選んだこと自体は、間違いではなかったと思っています。