北奥法律事務所

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山下貴司議員

菅義偉新総裁と鈴木善幸首相の「あまりにも多い共通点」と、山下貴司外相待望論

大至急の起案が一段落し、久々の政治談義です。

秋田県人初の首相となる菅総裁の誕生については、北東北という括りで見れば、鈴木善幸首相(1980年)から40年ぶりの朗報ということになります。

当時、鈴木首相の「お国入り」があり、理由は分かりませんが二戸にもいらしたため、小学2年生?だった私も、沿道で旗振りをした記憶があります。

菅総裁は、地方出身の割に(横浜の人のせいか)都会的な合理性や効率性を重視する(結果として、高所得が得られる能力の高い人を優遇する政策になりやすい)傾向があると言われたりもしますが、その点を別とすれば、鈴木首相と色々と共通点が多いと言えます。

少し考えただけで、次の10点を指摘できると思われます。

①北東北の出身。

②相応に苦学し学歴もトップ校(東大等)ではない、二世等でもない。

③(菅氏も地方議員出身のため)政治家としては党人派。

④少し前まで首相になる人とは思われていなかったが、自民党の多数派グループに、調整能力を買われて擁立された。

⑤大物たる前任者(鈴木首相の場合は大平首相)との関係で、忠臣かつ重臣とみられている。

⑥前任者には強い存在感を放つ政敵(鈴木首相の場合は福田首相。今回は当然ながら石破氏)がいて、多数派グループ(田中派・宏池会など)は、政敵に権力を渡すまいとの思いで結束した面がある。

⑦外交関係に経験が乏しいと目され、その点を不安視されている。

⑧行政改革に意欲を示している(鈴木内閣では中曽根次期首相を担当大臣に充て、土光臨調を発足させた)。

⑨政界のフィクサーと呼ばれる御仁(田中首相・二階幹事長)の強いバックアップがあると言われている。

⑩おでこが広い(余計な一言?)。

ちなみに、鈴木内閣で自治相(今で言えば、総務相)をつとめたのが石破氏の父君(石破二朗氏)ということで、大河ドラマちっくなものを感じたりもします。

そんなわけで、菅内閣が鈴木内閣のように「外交でミソを付けて(日米安保発言)米国からB級扱いされて失速し後任者が本格政権」という展開になるのか、それとも「化けて」大物宰相の道を歩むことができるのか、隣県人として興味深く拝見しています。

ところで、菅内閣の人事で、国民一般が現時点で最初に注目しているのは、上記⑦=外交対応への不安という点から、外相人事ではないかと思います。

失礼ながら、安倍首相に比べ「華がない」と見られている菅首相にとって、ご自身を補完できる華のある御仁を登用したいのではと思われますが、河野防衛相は経験済みで、進次郎環境相は、たぶん他のポスト又は一休みになりそうですので、他に菅首相が安心して任せられる「華があり力量もある現役世代の議員さん」がおられるのか、少し思い当たりません。

が、たった一人、菅首相にとっても意中なのでは?と個人的に想像するのが、元外交官であり実務能力の高さに定評のある山下貴司もと法務大臣(平成10年頃には盛岡地検三席検事)です。

私も、修習生として当時の盛岡地検の片隅で若干ながらお世話になりましたので(主に、冬の「連れスキー」の末席ですが)、法相1期で終わらないであろう山下議員のさらなるご活躍を期待している一人です。

ご経験と能力など(また、当時も今も非常に華のあるキャラクター)からすれば、少なくともあと5~10年以内には、確実に外相をなさるのではと思っていますので、実務能力が高い人を好む菅首相からすれば、意中の人なのではと推測しても、あながち間違いとは言えません。

ただ、山下議員は今回の総裁選で石破氏陣営の番頭役をつとめており、彼を外相に抜擢するのは菅首相を担いだ方々から猛反発を受ける可能性もあるので、さすがに無理があるのかもしれません。

いっそ「麻生首相が総選挙までの期限付きで副総理兼外相に横滑りし、山下議員が副大臣→総選挙で勝てば、大臣昇格」というパターンもありうるのでは・・と、勝手に期待しています(基本はノンポリ無党派層なので、殊更に総選挙で自民党に勝って欲しいわけではありませんが・・)。

まあ、今朝(14日)のモーニングショーで田崎氏が「記者が大臣の予想をしても絶対外れて恥をかくから言わない」と仰ってましたので、私も田舎者の戯言でおしまい、ということになるかもですが。

ともあれ、法相経験者で後日に首相に上り詰めたのは、明治の草創期を別とすれば、戦前検察の体現者として悪名高い?平沼騏一郎首相ただひとりですので、山下議員には、ぜひ、平沼首相以来の「検事出身の首相」になっていただくと共に、平沼首相の轍を踏むことなく、我が国の社会と未来のためご活躍いただければと願っています。

平成10年頃の盛岡修習の様子と思い出

半年ほど前の話で恐縮ですが、岩手弁護士会の広報にエッセイを投稿せよとのことで、以下の文章を寄稿しました。勝手ながら、本ブログにも転載させていただきます。

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1 はじめに

先般、K先生よりエッセイを投稿せよとのご指示を受けました。内容は自由とのことですが、私の場合、共働きなどの事情から本業と兼業主夫業に追われて会務等にほとんど参加しておらず、若い先生方には「あなた誰?」と思われているでしょうから、自己紹介的な文章を書かせていただくことにしました。

ただ、単なる自己紹介ではつまらないでしょうから、私が盛岡で修習生をしていた平成10年頃の様子を題材にすることにします。私は修習生のお世話を仰せつかることがなく、現在の修習制度や修習生活の実情などを伺う機会がありませんが、当時と今では大きな違いがあるでしょうし、不快に感じる面もあるかもしれませが、法曹養成制度のあり方なども視野に入れて?お気軽に読んでいただければ幸いです。

2 実務修習開始まで

私は二年修習制の最後の年である52期の修習生でしたが、当時は7月中旬に前期修習を終え、下旬に実務修習が始まりました。私は二戸市の出身ですが県外の高校に進学したこともあり、修習先は盛岡を第1志望としましたが、そのような変わり種は私だけで、書いていないのに配属されたと嘆いていた地元出身の方もいました。

この年の盛岡配属は4名で、2名が現役、2名が卒業2年合格(男性3名、女性1名)となっており、出身大学も、私が中央で他の3名が東大、早稲田、慶応という綺麗?な組合せで、各人のキャラも、「地味で地道」の私をはじめ、各大学のカラーを体現しているような印象を受けました。

3 検察修習

盛岡に限らず当時の小規模庁は検察修習から始まりました。地裁での開始式のあと、地検に移動するのかと思いきや、反対側の岩手医大に引率され、いきなり遺体解剖に立ち会うことになりました。さすがに、その晩の歓迎会では刺身を見ながら複雑な思いを禁じ得ませんでしたが。

4人だけの修習生が4ヶ月間も地検のお世話になるため、修習生向けとも言える一般的な窃盗、傷害、覚せい剤自己使用の類だけでなく、殺人や嘱託殺人、金融機関での業務上横領など、重大ないし複雑な事案が個々の修習生に配点され、取り調べ等をさせていただく機会がありました。

また、三席検事が手掛けていた元大物県議による特別背任事件の強制捜査を盛岡地検総出で行うことになり、我々も現地に同行して差押物件の確保や整理などに従事したことも、強い印象に残りました。

この頃は修習生4人だけで行動することが多く、私の実家に全員が泊まりに来て、翌日に一緒に北山崎をはじめ沿岸の名所を廻って盛岡に戻ったことなど、楽しい思い出も沢山あります。指導検事(四席)の方も、厳しくも面倒見のよい親分肌の方で、公私とも大変お世話になりました。

4 弁護修習

私はI先生のご指導を受け、訴状など幾つかの起案を担当させていただきました。修習生の指導担当であるK先生、O先生にも、様々な行事や他の先生方からの講義の引率等をはじめ、大変お世話になりました。

ただ、12月から3月というスキーシーズンと重なる上、とりわけ弁護修習は勉強よりも見聞・体験することが重視されたせいか?全員が週末はスキー三昧の日々で、K先生や若手の検事の方々に大変お世話になりました。

一度、私がI先生の事務所で朝方まで境界絡みの訴訟の控訴趣意書を起案して帰宅した後、徹夜明けで皆と一緒に安比に行ったのですが、帰りの温泉で気を失って倒れ、ご一緒した三席に盛楼閣で焼肉を奢っていただく話がフイになってしまったことがあり、今も申し訳なく思っています。

余談ながら、三席は検察庁の飲み会で、「クリントンをはじめ弁護士が国を牽引している米国に見習い、君達が政治の世界に打って出て、法の理念に基づく正しい社会が形成されるよう頑張るべきだ」と仰っていたのですが、予想通りというか、我々ではなくご自身が霞ヶ関を「脱藩」して、政治の道で活躍されています(岡山2区選出の山下貴司議員です)。

また、クリスマスの際、まだ弁護士登録されて間もないS先生から「お一人さま」の面々(4人全員だったかは忘れました)に声をかけていただき、ご自宅でご馳走になったこと(大葉を刻んだ豆腐のサラダが強く印象に残り、その後も自分で作って食べていました)なども懐かしい思い出です。

5 民事裁判修習

裁判修習は、民裁と刑裁で二人ずつに分かれ、2ヶ月交替で1人の裁判官(部長と単独専門の判事)のご指導のもと、起案などに明け暮れます。

さすがに、民裁修習ではそれなりに勉強漬けの日々でしたが、ご夫婦で判事をされていたOさん(ご主人)が、「小保内君は、この点の勉強が足りないね」と仰ると、間髪入れずに「これを読んでみて」と、裁判官室の本棚から本を5冊以上取り出して山積みにされることが何度もありました。

しかも、申し合わせたように?家裁にいらした奥様(判事)にも、「小保内君の顔は、いつ見ても勉強してなさそうに見える」と言われ、トホホと思いながらも、勉強モードに頭を切り換えないと大変なことになると恐怖し悪戦苦闘していたのをよく覚えています。

おかげさまで、弁護士登録以来、今も、法律論で勉強不足と感じたときは、文献等を山積みにして色々と読みながら起案する習慣が染みついています。

この頃、K先生のご結婚と独立開業が重なり、結婚式の二次会や新事務所での開業パーティに呼んでいただいたことも、懐かしい思い出です。

6 刑事裁判修習

恥ずかしながら、私は諸事情(一応、不祥事の類ではありません)によりこの時期に急遽、東京で就職活動を開始することになりました。幸い、一度お会いしただけで内定をいただける先生もおられましたので、2度ほどの上京で就職先を確定できたのですが、その間は全くと言ってよいほど修習に身が入らず、折角、無罪判決を予定している事件の起案を勧めていただいたものの、起案できず簡易なレポートの提出で終わってしまったことが、今も悔やまれます。

5年以上前にお会いした修習生の方から、当時すでに、地方に配属された修習生の多くが何度も上京を余儀なくされ、重い負担を強いられているとの話を伺ったことがありますが、就職活動と修習の両立を修習生に強いるのは無理があり、修習開始までに就職先を内定させるなど、修習中は修習に専念できる文化が根付いて欲しいと思っています。

刑裁修習の最後に、現在と同様に修習生による模擬裁判がありましたが、当時は前後の期の修習生と一緒に行っており、1年目と2年目の2回、経験できました。

1年目で検察官を担当した際は、被害事実を法廷で否認した被害者証人の特信性立証(被告人の知人から金品を受け取った等の証言の引き出し)ができず、弁護人を担当した51期の方々に惨敗したものの、2年目で弁護人を担当した際は、被告人役を担当した53期のOさんの熱演もあり、無罪判決をいただくことができました。

被害者立会の実況見分調書に被害者の証言と相反する記載があり、法廷でその点を指摘したものの同期で検察官役のI君の剣幕に圧倒されるという一幕があったのですが、53期の裁判官役の方からその件を考慮したとのコメントをいただき、法廷は迫力だけで決まるものではないと感じたのを覚えています(ただ、監督役のK裁判官からは、どうして有罪じゃないのと言われて自信を無くしましたが)。

7 その他、最後に

私の誤解でなければ、当時と現在の修習制度の大きな違いとして、前後の期と交流できる機会ないし程度の有無が挙げられると思います。

当時は盛岡に一緒にいる期間が数ヶ月もありますので、私は51期の盛岡修習の方々から感銘を受ける機会が多々ありましたし、53期の方からも、(私はさておき)52期の面々から良い影響を受けたという話を頂戴したことがあります。現在の仕組みを把握できていませんが、修習生が前後の期の方々と継続的に交流できる機会は、必ず設けていただきたいものです。

当時は、「弁護士になった後は、どうせ仕事漬けの毎日になるのだから、今のうちに遊んでおくように」と言われ、私自身、己の至らなさもあって概ねそのような日々を送ってきました。

それだけに、長期休暇など、ここでは省略した他の出来事も含め、修習生の頃の様々な思い出が、その後の自分の支えになった面も大きいと感じています。

現在の方々は、修習開始前に多少ともそうした機会を持つことができるのだろうとは思いますし、修習直後の弁護士の眼前に広がる世界自体が、当時と今とでは様変わりしていますが、実務修習が法曹養成の根幹である(べき)ことは微塵も変わりないと思います。

指導等に携わっておられる諸先生方におかれても、盛岡配属の全ての修習生が岩手に来て良かったと思って法曹人生をスタートできるよう、OBの一人としてご尽力をお願い申し上げる次第です。

私の読書歴

私は今でこそ読書が趣味のようなものですが、もともと、さほど読書習慣があったわけではありません。

小学生の頃は各種少年漫画と歴史マンガ・伝記マンガばかり読んで活字書籍をほとんど読んでおらず、中学時代も、読書感想文で学校から推奨される類の本が面白いと思えなかったこともあり、三国志経由の中国かぶれ?で母の本棚から「世界の名著」シリーズの孫子や老子(どちらも短い)を取って読みましたが、荘子や墨子はすぐに挫折し、それ以外はアルセーヌ・ルパンの本くらいしか読んだ記憶がありません。

恥ずかしながら、小中学生時代は、活字本よりマンガとファミコン(と一応の勉強)という同時代人のありふれた少年期を過ごしたというのが実情です。

高校に入り、男子校で娯楽の乏しい寮生活ということもあり、ようやく多少の本を読むようになりましたが、「異邦人」などの古典的な小説を数冊ほど読んだだけで、あとは、アガサ・クリスティや銀河英雄伝説、ロードス島戦記といった「読んでも国語の先生には誉められない本」を多少読んだ程度に過ぎないと記憶しています(余談ながら、数年前に、高校1年のクラスメートである元衆院議員の方の著作を読んだ際、彼の当時の質量とも凄い読書内容が書かれている部分を読んで、あまりの落差に泣きたくなりました)。

それが、大学に入ると、受験勉強の合間や通学時などに本を読んでばかりいるような生活になったと思います。自分としては、きっかけが2つあり、1つは、1年の秋頃に、高校の国語の先生が授業で激賞していた岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」(とその関連本)を読んで自分のアイデンティティを深く考えるきっかけを得たこと、もう1つが、大学1年の終わりか2年の頃に浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」を読んで、「知の世界」への理解や関心或いは執着を自分なりに深めることができたことが、大きかったように感じています。

ただ、このような経緯もあり、文芸書の類はほとんど読まず、岩波や中公などの新書本、政治や経済絡みなどノンフィクション関連の本、哲学・思想が絡んだ基礎的な本など(本格的なものは無理で、フロイトの精神分析学入門もすぐに挫折しました)が中心でした。受験勉強の合間に息抜き的に読むというコンセプトもあり、私の読書人としてのレベルも含めて、それが精一杯だったと思います。

大学4年の頃、それまでの電車通学(京王線の百草園から多摩動物公園駅の往復)から原付通学に切り替えたのですが、これに伴って、中央大の正門の上り坂の麓にある巨大中古書店(伊藤書店)に入り浸るようになり、いつの間にか、浅羽氏の本で推奨されていたものや司馬遼太郎氏の著作をはじめ気になった文庫本など様々な本を買い漁る日々になり(原付で、中央線や川崎方面の伊藤書店まで遠出したこともありました)、それが受験生活のささやかな息抜きという感じになりました。

そのため、6畳の自宅ワンルームマンションは古本が溢れかえってさながら古本屋の一角のようになり、さらに大量の「買いたい本リスト」を日々持ち歩いて書店内を彷徨うという陰気な生活をしていましたが、運良く卒業2年目で司法試験に合格したため、修習生時代は狭義の勉強のほか様々な修習生としての付き合いごとにも追われ、一旦は、そうした日々が終わりました。

ただ、修習生の頃も、当時の盛岡地検の三席検事(現在は霞ヶ関を「脱藩」して衆院議員をなさっている方)が、当時取り組んでいらした大型事件の息抜きで、盛岡地検内の修習生部屋を訪ねては、必ずといって良いほど数冊の書籍(山口組など犯罪組織絡みのものや当時話題になった「北朝鮮がテロ攻撃を仕掛けてきた場合を想定した小説」など、大物検察官の方が関心を持ちそうな話をテーマとするものが多かったと記憶しています)を持参され、「法律家は本を沢山読んで思索を深めなきゃダメだ。君らも読め」と熱く語っておられたので、もう一度、「本を読む男」にならないとと思ったことはよく覚えています(結局、私も他の面々も、色々と一杯一杯のせいか積ん読状態でしたが)。

その後、東京で弁護士として就職した後は、通勤などの合間に細々と本を読む生活に戻りましたが、結婚以後は、諸事に追われ(というか優先して)読書時間を確保できないことが多く、まして、岩手に戻って以後は通勤等もありませんので、読書ペースはかなり落ちたと思います(読書という面では、自動車で移動せざるを得ない生活は大きなハンディと言えます)。

で、何のためにこのような話を長々と書いてきたかと言えば、読んで面白いと思った書籍については、ブログで簡単な感想を書きたいとの希望があり、少しだけ実践したこともありますが、今も諸事に追われ、そうした時間も割けないまま、読み終わった本ばかりが机の近くに溜まってしまいました。

そのため、さすがに既読本の本棚に移さなければという状態なのですが、せめて、「ここ1、2年に読んで学ぶところが多かった(ように感じる)本のリスト」を投稿したいと思い、その前置きとして、読書歴を書いてみることにした次第です。よって、本題というべき「リスト集」を、次回に投稿させていただきます。