北奥法律事務所

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株主間契約

次期日弁連会長(たぶん)にボロ負けした若僧が、18年後に一矢報いた?話~第2話~

恐らく次期日弁連長に選出されるであろう山岸良太弁護士と駆け出し時代の私が間接的に対決していたことに触れた話の第2話(私の関わり編)です。

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平成12年の春、就職後間もない私が夜に一人で事務所の記録庫を漁っていると(と書くと聞こえが悪いですが、ボスが手がけている事件を自主的に勉強したいとの目的です。たぶん・・)、おおっ、天下の森綜が相手の事件があるのか、しかもガチンコ支配権紛争だ、と興奮したのを今も覚えています。

もちろん自分が後日関わることになるとは微塵も思っておらず、ミーハー感覚で記録をチラ見しただけでしたが、半年ほど経過して、その事件の係属紛争の一つで、1審でB氏が敗訴した事件(相手はA氏ではなくα社。代理人も森綜ではなくα社の顧問弁護士さん)の控訴趣意書を私に起案せよとのお達しがボスからありました。

そして、私でよいのだろうかと思いつつ、多くの新人がそうであるように「巨大事務所を相手とする企業法務の大事件」にある種の憧れを抱いていた平凡な駆け出しイソ弁の一人として、その事件に関われることが嬉しくて、無我夢中で記録や文献を読み漁り、終電仕事を繰り返しながら、長文の控訴趣意書を作成しました。

ただ、その事件の特質(メインの受任者がボスではなく某先生であること等?)のためか、私は受任者(代理人)ではなく、ボス(及び代理人として書面に名を連ねる某先生達)のゴーストライター(起案代行)という立場であり、また、起案にあたりB氏からお話を伺うなどの機会はありませんでした。

当然のことながら、通常は、事務所の依頼者の方と直にお会いしお気持ちを伺ったり事実や証拠を確認した上で起案を始めますので、依頼者から説明を受けず「記録(と文献)だけで起案する」ことに疑問や不安を感じないこともありませんでしたが、私の内気さ(或いはボスの敷居の高さ)もさることながら特殊な事件という認識もあり、敢えて自分からボスに「B氏と会わせて下さい、某先生の事務所で行われる打ち合わせにも同行させて下さい、法廷も傍聴させて下さい」と求めることなく、純然たる「ただの起案屋さん」で終わってしまいました。

自分の名前が出ないこと自体は不満も何もありませんが、やはり、B氏との面談(打ち合わせへの同席など)を一度でもボスにお願いすべきだったのでは(起案担当者が依頼者と会わず肌感覚の心証もとれないというのは、いくら何でも間違っているのではないか)と感じざるを得ない面はありましたし、ボスはもちろん某先生も恐らくB氏も(たぶん、相手方たる山岸先生たちも)私=法廷に来ていない若いイソ弁が起案していることを分かっていたはずで、それだけに「貴方の顔が見たい(お前も出てこい)」という話が全くなかったことには、少し、さびしい面がありました。

その後、天王山というべき事件(もちろん、相手方は山岸先生たちです)の上告趣意書も任せていただいた(私が売り込んだのではなく、ボスから指示された)のですが、株主間契約の法的性質が中心争点であり、私が全く関与していない控訴審では「有効な合意だが当事者の合意から長期の期間が経過したので法的拘束力が失われた」との理由で敗訴していたため、そのような場当たり的な法律論が許されてなるものかとの思いで、東弁図書館などにあった株主間契約などの文献を徹底的に読み漁り、当時の書式(B5)で100頁超の上告受理申立理由書も作成しています。

今でこそ株主間契約は、企業経営に臨む方(とりわけ共同出資者間)の基本的な留意事項の一つですが、平成12~13年当時は、まだほとんど国内では表だった議論がなく、日本の文献ではほとんど触れていませんでした(そのせいか、1・2審の書面でも株主間契約の法的性質に関しさほど議論が行われていませんでした)。

反面、米国では幾つかの州で相応に議論や判例の集積があり、東京弁護士会の図書館にはそれに関する多数の書籍がありましたので、それらを徹底的に読み込み、文献の該当箇所を多数引用しながら「米国諸州では株主間契約に強い法的効力が認められており、米国会社法の影響下で成立した日本の株式会社法も同様の解釈がなされるべきだ」などと主張したため、今なら最高裁にクレームを受けるような長文書面ができあがったのでした(さすがに英文を読む力はなく翻訳書籍限定ですので、たかが知れた内容かもしれませんが)。

ともあれ、その事件をはじめ、全部で5~6件ほどの事件(平成13年頃から上級審又は1審で係属した主要な事件)の書面作成をことごとく私が担当することになり、山岸先生らの書面に「それは間違っている、こっちが正しい」と書き続けました。

今も、理屈で負けたとは思っていません。

しかし、皆さんのご想像どおり、結果は全敗でした。上告趣意書に至っては、業界人の誰もが経験することではありますが、最高裁は何も言わずに全部の事件とも三行半(受理しない)の一言で終わらせています。

理由は人によって様々な見方(私自身の力不足も当然含め)があるのでしょうが、根本的には、A氏がB氏を排除できた根本的な理由が、A氏側とB氏側の持株比率ではなく(その点はほぼ対等でした)、支配権の死命を決する役割を担ったのが、グループ本社の主要役員(平取締役)の方々の支持の有無であり、端的に言えば、その方々が一貫してA氏を支持し続けたことが、B氏の敗訴の根底にあるものだと感じられました。

その原因がどのようなものであるのか(B氏又はその父に責められるべき点があるのか、A氏が狡猾に幹部の方々を抱き込むなどという事実でもあったのか)、確証を得るだけの資料等がなく、私には全く分かりませんでした。

ただ、そうした事情が分かるようになってからは、この事件は、そこで勝負ありになっており、それ以上は、どのように理屈や制度をいじくり倒しても、本質的な部分で勝てない構図だ、と感じざるを得ないようになりました。

以前、医療ドラマで「大学病院には、出世コースから外れた若い医者に対し、成功が絶対的に無理=患者が死亡を余儀なくされる手術ばかり担当させる=それによる遺族対応なども押しつけることがあり、敗戦処理係と呼ばれて日陰者扱いされ、失意のまま病院を去っていく」などという話(登場人物)が描かれているのを見たことがありますが、客観的に見れば、当時の私も、敗戦処理係を担当していたのかもしれません(事実、私が関与するようになったのは、主戦場たる事件の控訴審で和解協議が決裂し、敗訴判決が出た後でした)。

もちろん、当時の私は、薄々そのような感覚を抱きつつも、そのような帰結は、父達の期待に応え、それまでの相応に輝かしい人生を捨ててα社に身を投じたB氏にとって、あまりにも酷ではないか、仮に、親世代の二人が合意した内容の拘束力に疑義を呈すべき面があったとしても、せめて、B氏には何らかの救い(一定の金銭給付であれ、それ以外であれ)がなされるべきではないかと感じ、相手方に何か一矢報いなければならない、そして、局地戦で強力な一勝を得て、それをテコに再度の和解協議の素地を作りたいという、「不本意ながら太平洋戦争に臨んだ良識派軍人」のような?思いで、必死に闘っていたつもりです。

しかし、私はその思いを遂げることが全くできないまま、α社事件で敗訴判決を重ねた上、失意のうちに?平成16年に東京を去ることになりました。

もちろん、岩手(盛岡)での開業は私が自分で敷いたレールの核心部分ですので、「すべてのモラトリアムが終わり、ついに人生の本番が始まる」という高揚感はありましたが、「自分は東京で他の人にはできない特別な何かを成し遂げて凱旋したのだ」などという達成感は微塵もありませんでした。

(以下、次号)

会社の後継経営者の選定問題に端を発する兄弟一族間の支配権紛争

先日、盛岡北ロータリークラブの卓話(ミニ講義)を担当することになり、標記のテーマで、同族企業内で数年間に亘り多数の訴訟闘争が起きた実際の事案についてご紹介しました(もちろん、守秘義務の範囲内ですが)。

卓話後にクラブ広報に載せる原稿も作成して欲しいとのご指示があったので下記の文章を作成したのですが、ご了解をいただき、こちらにも掲載させていただきます。

今回は、20分しか時間がないこともあり、駆け足の事案紹介だけで終わってしまいましたが、もともと、10年近く前に岩手大学で講師を務めた際の講義のため作成したものであり、1~2時間程度をいただければ、紛争の内容に関する本格的なお話もできるかと思います。

県内の中小企業さんの経営者団体などで、こうした話を聞いてみたいという方がおられれば、一声お掛けいただければ幸いです。

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今回は「父が創業した会社を引き継いだ兄弟が、互いに協力して大規模な企業を育て上げたものの、どちらの子を後継者とするかに端を発して不和になり、従業員取締役の支持を得て主導権を握った弟側が兄側を経営陣から追放したため泥沼の紛争が生じ、多数の訴訟が起きた事例」をご紹介しました。

本稿では、当日の卓話を踏まえつつ、お伝えできなかったことなどを含めて記載します。

当日は、次の項立てで、私が平成13年頃に東京で従事した事件の内容を抽象化してお伝えしましたので(それでも、事案説明だけで数頁になります)、欠席された方でレジュメをご覧になりたい方がおられれば、私までご連絡下さい。

第0 株式会社などの支配権確保や意思決定に関する基本的ルール
第1 事案の概要
第2 会社の支配権の当否を巡る裁判(会社法上の訴訟)
第3 経営から放逐された側から放逐した側に対する賠償請求
第4 関連して生じた紛争について
第5 教訓ないし内部紛争の予防に関する視点

紙面の都合上、事案の詳細(若干の脚色等をしています)は省略しますが、要するに、特殊な製品を取り扱う甲社をはじめ企業グループ4社(従業員数百名規模)を作り上げた兄X1(社長)と弟Y1(専務)は、対等に経営する見地から同一比率で株式を保有し(但し、X1・Y1のほか、甲社の株式の一部を乙社が持ち、乙社の株式の一部を丙社が持つなどしています)、両者の合意がないと企業グループ全体を経営できない仕組みを作ってきました。

両名は、昭和62年に、互いの子X2・Y2を中核企業の甲社に入社させ、数年内に取締役、その後に二人とも代表取締役としてX1・Y1と交代する旨を合意しました。

そして、社長もY1に交代し、X2・Y2も入社しましたが、数年後、甲乙各社の従業員取締役がY1支持の姿勢を示したため、Y1は約束を反故にして、平成9年頃から甲社・乙社の株主総会でX1とX2の取締役再任を拒否し、X側を甲社らの経営から追放してしまいます。

これに対し、X側は、合意違反を理由に、株主総会決議の取消等やY1に対する巨額の損害賠償を求める訴訟を提起すると共に、対抗措置として、株式持ち合いの根幹に位置する丁社の取締役会で、特殊な手法によりY1を解任する決議をしました。これに対し、Y1はその決議が無効だと主張しX側に訴訟提起しています。

また、これに関連して、Y側が、乙社が有する甲社の株式をY1の知人に譲渡する出来事があり、X側が、当該譲渡は無効だなどと主張する訴訟や株主代表訴訟も起こしました。

レジュメで省略した訴訟や仮処分なども含め、10件以上の泥沼の訴訟闘争を数年間に亘り繰り広げたのです。

この事件では、結局、X側が起こした訴訟は全て退けられ、丁社に関してX側が行った決議も法律違反だとして無効となり、Y側の全面勝訴という展開になりました。

中心となる訴訟の最中には、XY間で企業分割などの協議も行われたものの不調に終わり、私が関与していた期間(平成15年頃まで)は、従前の株式の持ち合い状態のまま、従業員サイドの支持を受けたY1がX側を排除して甲社らの経営権を保持する状態が一貫して続いていました。

そのため、X2は甲社グループとは別に、一部の元役員の方と共に同種企業を他に設立し、現在も活動を続けています。

他方、Y2はY1の社長職を承継せず平成15年頃には経営陣から姿を消し、現在は別の方が社長となっています。

正確な理由は分かりませんが(訴訟内では、Y側の方針として同族経営を止めたいとの発言はありました)、XY双方とも自身の子に経営を託すことができない事態になったわけです。

精緻な持ち合い構造を作っても泥沼の対立劇が生じることや、株主間合意だけによる経営権確保の限界、従業員取締役の支持が死命を制することになったことなど、企業経営に携わる方には学ぶところが大変多い事案です。本来は、裁判所の考え方を含め、2時間以上かけてお伝えすべき事柄ですので、もし、他団体の会合などで改めて話を聞きたいとのご要望がありましたら、お声をお掛けいただければ幸いです。

最後になりますが、こんな日に限って?メイクアップで出席された吉田瑞彦先生(盛岡西RC前会長。日頃より大変お世話になっております)から、机を叩いて「異議あり!」コールを受けたらどうしようと恐怖していましたが、暖かく見守っていただき、安堵しております(笑)。