北奥法律事務所

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田中舘愛橘

大物首相たちの国葬と、それを拒否した原敬の矜持から「税と葬儀のいま」を考える

1週間ほど前、中曽根首相の葬儀に税金から9000万円も拠出する(さらに、自民党も9000万円出して、計2億弱の葬儀を行う)とのニュースが出ており、反自民の立場の方が「中曽根首相は国鉄は民営化したのに自分(の葬儀)は国営化するのか」と批判しているを目にしました。

で、政権側は、「大物首相経験者は同等の葬儀を税金で行っていた(ので前例を踏襲しただけだ)」と説明(反論)しているようで(引用の記事などを参照)、前例に照らせば、特別な取扱をしたわけではないということにはなりそうです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/tarobando/20200928-00200496/

ただ、岩手県民としては、

原敬って、暗殺直後に盛岡に運ばれて大慈寺で葬儀をしており、国の世話に一切ならなかったのでは?

と思って、wikiなどで「国葬」について少し調べてみました。

で、それらの記載によれば、古代云々を別とすれば、皇族以外の者(臣下)を国葬=多額の税金を投じて葬儀するようになったのは維新時の薩長藩主が始まりで、その後は、いわゆる明治の元勲や元帥など=大半は薩長関係者(軍人などを含む)となっており、原敬に限らず、薩長以外の戦前の首相で「国葬」された方はいないようです。

それが、戦後になると、吉田首相を皮切りに、なぜか?大物首相を「国葬」する風習が生じており、出身県で見ると、上州(群馬)が中曽根首相を加えると3名(福田、小渕)でトップで、2位が岸・佐藤兄弟の長州(山口)となっており、特定の地域に集中しているわけではなさそうです。

ともあれ、戦前に首相を「国葬」する習慣が(基本的には)無かったことと比べると、どうして戦後になって生じたのか少し不思議な感じがします。

見方によっては、形式的には天皇、実質的には軍部などとの関係で、戦前の首相には、形式上も実質上も、戦後ほどの力は与えられていなかったことを示すものなのかもしれませんし、そうであればこそ、戦後社会は「国葬」という儀式を通じて首相など(民主主義社会における国家運営の責任者)の権威を高めようとした、というのが「大物首相の国葬」のきっかけだったのかもしれません。

ただ、それはそれとして、現代の庶民感覚からすれば、いかに戦後最大級の大物政治家とはいえ、葬儀に1億も2億もかけるなんて・・(とりわけ税金で)と疑問を感じる面は否めません。

戦後間もない頃はともかく、現代では「大がかりな葬儀をせずとも、首相の権威は国民は十分理解している。それよりも、ここ十数年、社会内で葬儀の簡素化が模索されている(その方がよいと、国民の多くが考えつつある)実情に照らし、大物の葬儀ほど簡素化を追及すべきだ(功労の顕彰云々は、より税金を使わない、別の形で行うべきだ)」という議論はあってしかるべきではと思います。

とりわけ、菅政権は「脱ハンコ化(による行政の効率化=税金節約)」のキャンペーンを掲げたり、日本学術会議の件でも「年間10億が投入される→任命拒否に文句があるなら民営化せよ」との主張が政権寄りの方からなされるなどしており、「税金節減(他分野への配分)のため、従前、当然に税金が使われていた分野にも大ナタを振るう」姿勢を打ち出しているように見受けられます。

それだけに、大型葬儀のようにカットしても(葬儀業者・ホテル関係者以外は)誰も困らなそうな話から先に断行する姿勢を見せないと、ハンコ業者や(産地の)山梨県知事、或いは学者さん達だけでなく、やがて国民一般の「反抗」を招いて、せっかく有意な改革をしようとしても、つまらないところで頓挫してしまうことも危惧されるのかもしれません。

それこそ、菅首相であれ安倍首相などであれ「今回は前例などを尊重した形にしたが、今後は簡素化したい。少なくとも、自分には税金は一切無用」と表明していただければ、支持率アップにつながるのでは?などと、余計なことを思わないでもありません。

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ところで、先日、「原敬首相と田中舘愛橘博士(二戸出身で戦前の日本物理学の構築者の一人)の対話という形で、明治・大正の社会が何を目指そうとしていたのか(目指すべきだったのか)を描いた本」を読んでいました。
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-5863-1.htm

この本は色々と学ぶところが多く、ぜひ皆さんにもご覧いただきたいのですが(後日、改めて取り上げたいと思っています)、終盤、原敬の暗殺直後に、遺体を官邸に運ぼうとした立憲政友会の面々に対し、夫人が

「死ねば、もはや私人」

と述べて公の行事を拒み、自宅に連れ帰ったと述べられています。そして、暗殺に備えて生前に準備されていた遺言により葬儀が盛岡で営まれ、氏名のみ表示した墓碑が建立されたことなどは、広く知られているとおりです。

歴史をきちんと勉強した方ならご存知かと思いますが、原敬首相は、明治政権(薩長閥など)の威光に依らぬ政党政治家として、最初に首相に上り詰めた御仁であり、日本の政党政治=民主政治の創設者(原点)の一人と評しても過言ではありません。

そして、原敬の政治手法には様々な議論があるにせよ、米国との対立の回避を重視した政権運営や私益を一切図ろうとしなかった生涯なども相俟って、引用の書籍などに限らず、様々な場で再評価がされており、「彼が暗殺されなければ、あの戦争は回避されたのかもしれない」と論じられることもあるようです。

その御仁が、生前はもとより死後にも位階勲等を拒否し、郷土に強い誇りを抱いた一人の地域人(盛岡人)としてのみ葬られることを望んだことの意義や価値について、いま改めて、現代日本人は学ぶべき点が多々あるのではないかと思っています。

或いは、彼は今も大慈寺から「白河以南の奴らは死んだ後も税金ばかり欲しがってダメだなぁ」と述べているのかもしれません。

まあ、そんなことを言うと、「鈴木善幸首相だって国葬されてるよ」と言い返されるかもしれませんが・・

(R04.8.1追記)

この文章では、「国葬」という言葉を、国(政府)が関与し公費=税金が使用される葬儀という程度の意味で用いていますが、現在の安倍首相を巡る論議によれば、戦後の国葬は吉田首相だけで、他の方々は「内閣・自民党合同葬」などの形をとっているので国葬ではない(官民混葬?)、ということになるのだそうです。

この両者を区別する意味がどれほどあるか分かりかねますが、「亡くなったあとは、夫を国家という軛(権力や栄華と引き替えに滅私奉公を強いる存在)から解放してやりたい、自分だけの家族として死後の世界で一緒に平穏に暮らしたい」という原敬の浅夫人の思いの方に、親近感を感じざるを得ません。

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第11回(終) 田中舘父子と小保内家を巡る不思議な縁

シンガポール及び秀三博士をテーマとする一連の投稿の最後に、個人的なことを少し書かせていただきます。

以前にも書いたかもしれませんが、私の実家は、東大の物理学科の最初の卒業生(創設者である会津藩士・山川健次郎博士の一番弟子)にして日本の物理学の礎を作った人物の一人である世界的研究者・田中舘愛橘博士が、戦時の疎開先として二戸で生活していた自宅のすぐ近くにあります。

で、当時の私の実家は二戸では有数の商家だったそうで(今はすっかり没落しましたが)、自宅の風呂も、当時のご近所さん宅のそれとはグレードが大きく異なるものだったせいか(今も一応残ってますが、私に言わせれば広いだけで寒々とした場所です)、愛橘博士は、頻繁に私の実家に風呂を借りに来ていたのだそうです。

そのため、当時は小学生だった私の父(平成26年亡)は愛橘博士と一緒に風呂に入っていたのだそうで、そのことを生前によく自慢していました。少なくとも、私の実家は、愛橘博士を支援する熱心な二戸人の一人だったことは間違いないはずです(そのご縁で、父は愛橘博士を顕彰するため結成された地元団体の会長を務めたことがあります)

前置きが長くなりましたが、私が大学3年か4年の頃、司法試験に合格するまでは「この道」から下りられないとの思いで、父に卒業後も30歳くらいまでは援助を考えて貰えないかと頼んだ際、父から次のように言われた記憶があります。

「自分が旧制福岡中学(現・福岡高校)を卒業するとき、愛橘博士の親族で法政大の教授をしている方がいて、自分の父(私の祖父=先代)に自分(父)を法政大に進学させないかと誘ったのだが、父(先代)は商家の子に学問は無用であると述べて断った。そして、自分は父の命で簿記学校に進学し、短期間で東京から実家に戻り、その後は商売の道だけで生きてきたことは知ってのとおりである。だからこそ、貴方(私)には好きなだけ勉強をさせたい。司法試験をやりたいのなら、最後まで面倒を見るつもりである。」

私は卒業2年目(23歳頃)で運良く合格できましたが、浪人生活を続けることができたことはもちろん、学費(生活費)の不安を考えずに済んだことも勉強に集中できる生活を得たという点で大いに有り難いものでした。

その「法政大学の教授」が誰だったか明確な記憶がなく、愛橘博士の義理のお子さんと言われたような気もするのですが、第9回で紹介した荒俣宏氏の著作によれば、父が旧制中学を卒業する頃にちょうど、東北帝大を退官した秀三博士が法政大で地理学を教えていたとの記載があり、恐らく秀三博士のことを指していたのではないかと思われます。

父は、私に言わせれば、学問の世界に関心を持っている人とは到底思えませんでしたが、高校から実家を離れ、司法浪人までした私の人生に口を出さず、司法修習生になるまでの学費・生活費の面倒は全て見てくれたことは間違いありません。

その根底には、ひょっとしたら上記のような「大学に行きたかったけど行けなかった」という自己の経験があるのかもしれず、その意味では私も秀三博士に恩義を受けた者の一人なのかもしれません。

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もう一つ余談があるのですが、秀三博士が愛橘博士の娘・美稲氏との間に授かった一人娘さんは法政大学教授の松浦四郎博士と婚姻し、その末裔(お孫さん=愛橘博士の曾孫)である松浦明さんという方は、愛橘博士を顕彰する地元団体(愛橘会)などの要請に応じて愛橘博士の業績の紹介などを長年に亘り続けてこられたようです。

そのため、私も今回の一連の文献と共に、松浦氏の「田中舘愛橘ものがたり~ひ孫が語る「日本物理学の祖」~」という著作もアマゾン購入したのですが、この本には、どういうわけか秀三博士のことが一言も触れられていませんでした。
http://ginsuzu.shop-pro.jp/?pid=102657848

で、不思議に思っていたところ、荒俣氏の著作に秀三博士が「(美稲氏と)おそらく生活観の違いのため離婚し長い独身生活の後、52歳頃に再婚した」とあり、また、秀三博士の追悼論集にも秀三博士の娘さん(但し、美稲氏ではなく後妻さんとの子)が「父は家族を犠牲にして自分の生きたいように勝手に生きた人だ」と酷評した一文が掲載されており、そうした事情が関係しているのでは、などと想像しないこともありません。

ただ、美稲氏との離婚後も愛橘博士と離縁せずに養子関係を続けた(互いに離縁を求めなかった?)という点については、秀三博士の人生を見る限り、愛橘博士の威光を狩った栄達が目的ではなく、世界人類の平和と尊厳のための活動を続けた愛橘博士と同じ志を共有しているという「心の拠り所」として田中舘姓を名乗ることにこだわりや誇りがあったからなのではないか、それは、秀三博士のシンガポールでの獅子奮迅の働きや自身の栄達を求めず功績を誇ることもなく静かに世を去ったことと、よく整合するのではないかと感じられます。

少なくとも、愛橘博士のことを多少は勉強した二戸人はそれなりにいるでしょうが、秀三博士の物語を愛橘博士に置き換えても違和感ない(秀三博士も、山師かどうかはさておき、愛橘博士と同じく、欲がなく人間的魅力に溢れた方だったようです)と感じる方は少なくないと思います。

そうであればこそ、今回の無謀?な映画化企画が実現して、秀三博士や愛橘博士の業績や人柄などに日が当てられて欲しいと強く願わずにはいられません。

改めて、賛同いただける方のお力添えを心よりお願い申し上げます(H29.5に微修正)。

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南部人たちの桜

平成25年1月に盛岡の先人(明治~戦前に活躍した方々)について少し書いたものを再掲します。

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平成25年に放送された大河ドラマ「八重の桜」で、明治維新期における東北の苦闘の歴史に光があてられていますが、旧南部藩に身を置く者としては、岩手方面も取り上げていただきたいと思っているところです。

岩手県二戸市は、八重から少し遅れて出生し、東京帝大物理学科の第1期生となり、日本の物理学、地震学等の父と言われた田中舘愛橘博士を輩出しているのですが、現在(※この投稿の掲載時)、盛岡市中ノ橋通の「盛岡てがみ館」では、愛橘博士の業績や親交などをとりあげて展示をしています。

本日、弁護士会の相談担当日だったので、遅まきながら、昼食の合間に見に行ってきました。

盛岡市の事業という性質もあり、盛岡の同時代人と博士との親交に関する展示が多いのですが、その中に、「博士と親交があった旧制盛岡中学(現・盛岡一高)の先生(既に高齢の方)を教え子達が祝う会の写真」というのがありました。

で、そこに写っている面々なのですが、愛橘博士とその先生を真ん中に、蒼々たるという言葉を超えて、物凄い面々が取り囲んでいました。

まず、両隣を板垣征四郎(大戦当時の陸軍大将でA級戦犯として刑死)と米内光政(海軍大将から首相となり、海軍の対米穏健・戦争回避派の筆頭格)が座っており、その横には、鹿島(岩手発祥の日本最大の建設会社)の社長や三井物産?の役員(社長?)、金田一京助(国文学者)などが並んでおり、解説には、既に亡き石川啄木も彼らの同級生(又はその前後)であった旨の記載がありました。

恐らくは、大戦の数年前に撮影された写真と思われますが、当時の陸海軍、財界、学界に大きな力を持っていた人々が一堂に会した場と評して差し支えなく、もし、原敬(旧盛岡藩家老職の家柄に生まれた元首相。愛橘博士と同世代で仲も良かったものの、暗殺で死亡)も存命でその席に加わっていたなら、改めて、「南部にとっての明治維新は、この場をもって完全に終わったのだ」と高らかに述べたのかもしれません。

いずれ、大河ドラマなどで、「南部人たちの桜」とでも題して、こうした人々の群像劇を取り上げていただければと思っています。

余談ながら、ネットで色々見ているうちに、こんな本も見つけたので、読んでみたいと思いました。

盛岡市(岩手県)は、ウルシ(国際電波科学連合)の総会を誘致すべき

先月の日経新聞「私の履歴書」は、前・京大総長で現・理化学研究所の理事長である松本紘氏が執筆されていたのですが、6月20日の記事で、ウルシ(URSI。国際電波科学連合)という団体の会長を務めていたという話が取り上げられていました。

このウルシ(国際電波科学連合)という団体は、電磁波の研究者による国際的な学術団体とのことですが、エレクトロニクスや電波天文学、医療用電磁気学など、電磁波ないし電波に関する様々な領域を扱う団体で、宇宙研究とも関わりが深いのだそうです(そもそも、松本氏ご自身が我が国の宇宙科学の第1人者のようです)。

このように、「ウルシ」と「宇宙学」の2つを聞くと、二戸人としては、沸き立つような感情を抑えることができません。

すなわち、「ウルシ」は、偶然だとは思いますが、「漆」に通じるところ、二戸(浄法寺)が漆の日本一の産地であることは地元民は当然知っている(べき)事柄です。この点は関係者のご尽力もあり、その知名度は確実に上がってきていると思います。

そして、「宇宙」「電磁波研究」ですが、このブログでも何度か取り上げたとおり、我が国の物理学の創業者の一人である田中舘愛橘博士は、二戸の出身であり、とりわけ、宇宙学・地震学や後進の育成などで多大な功績を残したとされています。

例えば、松本氏のこの日の記事には、日本最初の文化勲章受章者である長岡半太郎博士(戦前の宇宙研究の第一人者)がウルシの副会長を10年間務めたとありますが、長岡博士は(wikiによれば)若い頃は愛橘博士のもとで学んだのだそうです。また、愛橘博士のwiki情報にも電磁気学の研究が取り上げられており、何らかの形で愛橘博士もウルシとも関わりを持っていたのではないかと思われます。

このように、二戸は、「ウルシ(漆)」と「宇宙学・電磁波研究」の双方に、大きな関わりがあるわけで、このような街が、ウルシ(国際電波科学連合)と何の繋がりも持たないのであれば、地元民(出身者)の素朴な感情としては、恥ずべきことだと言っても過言ではありません。

とはいうものの、さすがに、国際的な学術団体の世界会議(総会)を、二戸市が誘致できる力があるはずもありません(少し調べたところ、京都で開催されたことはあるのだそうで、松本氏が京大出身であることも影響しているのでしょう)。

これに対し、隣県の宮城(仙台)では、先般、国連防災世界会議という世界的な会合を誘致して成功を収めており、ウルシの総会の規模などはまったく分かりませんが、多分、仙台であれば、誘致先としては何の問題もないのだろうと思います。長岡博士は東北帝大の創設にも関わっているそうで、その点でも繋がりがありそうです。

しかし、二戸人ないし岩手県民としては、可能なら盛岡での誘致を目指して活動していただきたいところです。ウルシには10もの分科会があるそうですから、被災地(沿岸)なども含め、主会場と10の分科会を両県で分散させる形の開催も提案してよいのではと思います。

とりわけ、岩手・宮城は長年に亘りILCの誘致活動をしているわけですから、電磁波とILCにどこまで学問的な繋がりがあるかは分かりませんが、「宇宙つながり」或いは世界中の宇宙研究に取り組む科学者を誘致することの前哨戦という点で、両県が協力して取り組む意義が大いにあると思います。

さらに言えば、松本氏の連載によれば、宇宙に関する電磁波の実践的研究の一環として、「宇宙太陽光発電」というものが研究、計画されているのだそうで、これが実用可能になれば、原発や火力に代わる有力な電力調達の手段になるのかもしれず、脱原発という福島も絡めた形(被災地3県の連携開催)でも、話を膨らませることができるのかもしれません。

松本氏の記事によれば、ウルシの総会は、内部のプレゼンと投票により決定し、日本は(当時)米国に次ぐ票数を有しているのだそうです。二戸市も、大がかりな話は県庁などにお願いするにしても、例えば、浄法寺漆器を多数調達して、松本氏をはじめ、世界中のウルシの役員さんに贈答することから初めても良いのでは?などと思わないでもありません(当家でも愛用している夫婦椀や箸くらいなら、FIFAと違って?ワイロというほどの額でもないと思いますが・・)。

また、岩手県知事選・盛岡市長選の候補者(や支援者)の方々におかれては、ウルシの総会誘致を公約の一つに取り上げることも検討なさってはいかがでしょうか。

かくいう私も、亡父の命令で、二戸市の「田中舘愛橘会」の名ばかり会員になっているのですが(盛岡でいう、タマちゃんならぬ原敬を想う会のようなものです)、愛橘会の方々にとっても、活動内容(目標)の一つとして考えていただければと思っています。