北奥法律事務所

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誰もが幸せになる社会と自分達だけが幸せになる社会の対立

誰もが才能を開花させる世界を夢見るダンブルドアは、偽善の狭間で孤独を余儀なくされるのか

連休期間中に、映画「ファンタスティックビーストとダンブルドアの秘密」を見ました。

正直、上映中はアクションシーン中心の退屈な映画なのかと思いましたが、後でWebで少し調べて、ようやく面白さが多少は分かってきました。

以下、作品の中身(ネタバレ的な話)とは別な観点から、感想を書きます。

ご承知のとおり、このシリーズは、魔法使いによる人類(マグル=ノーマジ)の支配を掲げるグリンデルバルドに、ダンブルドアとその協力者たる主人公らが立ち向かう物語が骨子となっており、それだけを見れば子供向けの勧善懲悪の作品ということになります。

ただ、前作では、グリンデルバルドも単純な悪党ではなく、彼なりの正義を掲げていたと記憶しています。

本作品の世界では、人類から迫害や何某かの抑圧を受けたり、能力を活かすことができず貧困など何らかの不満を抱えた魔法使いも相応におり、それを「能力の解放(人類への魔法の使用禁止の解除=魔法による支配)」により解決するのだという点が、彼の旗印・求心力として示唆されています(前作で、デップ氏が、そのように述べる下りがあった気もします。勘違いかもですが)。

ただ、今回は、その点=敵方の正義(彼が支持される理由)の説明がなく(作り手にとっては前作で済ませたとの認識かもしれませんが)、「魔法暴力で人類を支配しようとする悪い奴」的な描き方に終始したような印象でした。

そして、それを止めようとする主人公陣営の行動も、単に「相手は悪だ、だから相手の行動や価値観は全否定だ」と述べているようにしか見えず、思想的な葛藤を見出すことができなかったので、上映中は何となく退屈に感じたのでした。

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ところで「自分が抱えた不満や身内の困窮(内部不経済)を解決する手段を、自分達が敵視する他者への暴力や収奪(外部不経済)に求める」というグリンデルバルドの主張は、現在の露国に喩えるまでもなく、暴力を振るう側のありふれた論理で、何の目新しさもありません。

これは露国に限った話ではなく、欧米日などの富裕地域(グローバルノース)も、自分達の社会の安定を図るため貧困地域(グローバルサウス)から様々な搾取を行ったり、海洋ゴミ等を含む汚染など(外部不経済)を転嫁させていると言われて久しく、「露国の方が、グローバルサウスとして、ノースの端(欧州の一員としてのウクライナ)に異議申立しているのだ」と見立てる人もいるかもしれません。

ですので「暴力で人を支配しようとするグリンデルバルドやプーチンは間違っている。倒すべきだ」というなら「構造的暴力を通じて世界中で搾取するグローバル富裕層(富裕諸国)も間違っている。倒すべきだ」という帰結になるべきと言えます。

少し前に一世を風靡した「人新世の資本論」のように?そうした主張をする論者も無いわけではありませんが、戦争やウイルス禍と比べるとインパクトが乏しいのか、或いは実践可能な具体論を欠くせいか、後者の議論は最近はすっかり下火になったようにも感じます。

ともあれ、現代のグローバル社会は、GAFAの創業者など魔法使いのような特別な能力・才能を有する一部の人が、特別な知恵と技術で世界に新たなサービスを提供し巨万の富を築くのを認めつつ、取り残された人々が貧困層に転落するのを防ぐことが大きなテーマであったものの、現実の格差・断絶は深まる一方というのが、ここ20年以上の現実ではないかと思います。

言い換えれば、「特別な力を持った人々が能力を発揮して社会に貢献し、その対価として大きな幸せを得ることができる一方で、そのような力を持たない人々も相応に幸せに暮らせる(酷い目に遭わない)社会」が現代世界の中心テーマですが、現状は、実現したというにはほど遠いと考えられているように思われます。

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それを踏まえて改めて本作を見ると、気になるセリフが見つかるのです。

冒頭、グリンデルバルドは、ある重要人物に対し「お前はかつて俺の同志だった(が、今はそうではない)」という趣旨のことを語ります。

そして、終盤、その人物に対し「お前は俺としか分かり合えない、いつまでも孤独だ」とも語っています。

本作では、魔法使い達(魔法界)の伝統的な政策として、人類(マグル)に関わらずに生きるべきとされていますが、自らが強大な力を持つこの人物が、その政策の当否について見解を表明する場面があったか、記憶にありません。

グリンデルバルドのセリフからは、この人物=ダンブルドアは「魔法使いを解放しつつ人類を支配しない(魔法使いも人類も、魔法の力で共に力を合わせて幸せになる)社会」、言い換えれば、「特別な力を持った人々=魔法使いが能力を発揮して社会に貢献し、その対価として大きな幸せを得ることができる一方で、そのような力を持たない人々も、相応に幸せに暮らせる(酷い目に遭わない)社会」を理想としているのではないかとも思えてくるのです。

それは、理想主義的なユートピア思考ではあるものの、魔法と人類との隔絶よりも、グリンデルバルドの論理への対抗軸として、魅力的に感じるものと言うことができます。

平たくいえば、「強者(魔法使い)が自由に生きて(自己実現して)、それにより皆が幸せに暮らせる社会」と「強者が自由に生きて、それゆえに限られた者だけが幸せに暮らせる社会」という二つの世界観の対立という構図です。

ダンブルドアの思想をそのように捉えた場合、それを否定して「お前は孤独だ」と述べるグリンデルバルドは、グローバル社会なんて弱肉強食の搾取社会だ、能力主義(知価社会)はヒエラルキーが不可避なのに、皆が幸せになって欲しいなどというのは不可能かつ欺瞞だ、そんなことを吹聴する奴は自己矛盾に嫌気が差して孤独に沈むだけだ、というリアリズムを代弁しているようにも感じます。

乱暴に言えば、ダンブルドアはグローバル社会の勝ち組としての英米などの富裕層を、グリンデルバルドは、グローバル富裕層が作り上げた秩序に対し暴力により挑戦するロシア(や中国?)などの比喩という見方も可能かもしれません。

そして、そのようなダンブルドア(米国の勝ち組)に対し、グリンデルバルド(露国の独裁者)は、「お前は(どうせ勝っても)一人ぼっちだ。俺だけがお前のことを分かってやれる」といい、現に、ダンブルドアは(ハリーポッターシリーズで描かれるように)、さらなる圧倒的強者(ヴォルデモート)との関わり・対決もあったとはいえ、ある意味、孤独な人生を歩む(歩んだ)ようにも見受けられます。

であればこそ、ダンブルドアの今後の行動を垣間見ながら、このリアリズムにどのように抗うのか、グローバルノースの社会に生きる鑑賞者自身の実践が問われているのかもしれないというのが、最終的に私が抱いた本作への感想ということになります。

それはそれで、ハリウッド映画としては陳腐なメッセージというべきなのかもしれませんが、単なる勧善懲悪よりは、続きも見ようと感じることができそうな気もします。

一般的には、グリンデルバルドのセリフは別の意味で理解されるのでしょうが、私自身は、上記のような意味(思想的対立)も含めて解釈した方がより面白いのではと感じました。

と、あれこれ書きましたが、敵役の方は他作品で拝見したことが少なかったせいか、上映中は何度見ても松重豊氏に似ている・・と感じていました。

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余談ながら、私は1年ほど前、エヴァンゲリオンの最終回(映画)を見に行っており、それ以来の映画鑑賞でした。

私は平成9年の司法試験・最終合格発表の当日(発表直前)に、当時のエヴァンゲリオン最終回(映画)を見ており、このシリーズにはそれなりに思い入れもあったので、しみじみと拝見しました。

鑑賞直前、昼食をとりながら、このようなことを考えていました。

「平成9年の映画は、アスカをヒロインとするような終わり方だった。今回のシリーズは、前回までの流れだとアスカとの関係が希薄だが、他の登場女性と懇ろになるような終わり方をするのだろうか。それだと、まるで『なんとかルート』みたいな、恵まれない男性諸氏のためのゲームのような感じになってしまうな。」

多くの方がすでに映画をご覧になったかとは思いますが、鑑賞後の感想はあえて割愛します。