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郡山

矢巾町と郡山市の共通点と蝦夷の怨霊

平成25年3月に、矢巾町の歴史民俗資料館に立ち寄ったところ、タイヤが雪道に嵌まり脱出に難儀した件に関する旧ブログの投稿を再掲しました。

岩手における矢巾町の歴史的特殊性(中央政権によって作られた街としての面)を福島県郡山市との類似性も交えて述べており、矢巾や郡山の方のほか、興味ある方はご覧いただければ幸いです。

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この日、久しぶりに紫波警察署に接見に行ったので、先日、「蝦夷の古代史」という本(平凡社新書)を読んでいたこともあり、帰りに矢巾町の歴史民俗資料館に立ち寄りました。

この施設は、大和朝廷の東北侵略事業(領土化)における最後の前線拠点とされる徳丹城跡(の隣)に建てられており、国道4号線からすぐ(100m位)のところにあります。

ただ、冬期は訪れる人もほとんどいないようで、管理人さんが1名のみ、しかも、どういう理由か、建物内ではなく、建物正面の駐車場に車両を駐車させて待機していた(外出先から戻ったばかりなのかもしれませんが…)という状態でした。

しかも、昨夜から本日にかけての大荒れの天気のせいか、国道から入る道も全然除雪されておらず、入館者向けの記帳をするように言われたので見てみると、最後の入館者は1月初旬とのことで、雪のない時期に来ればよかったのかも…と少し後悔しながら見学を開始しました。

ちなみに、本日の4号線は、「上空は晴天なのに、暴風で田畑の雪が強烈に舞い上がって地吹雪体験となり、時速某㎞(自粛)で走っているのにホワイトアウトが間断なく訪れる」という恐ろしい状態で、その上、後述のように、悲惨な目にも遭いました。

資料館そのものは、徳丹城と矢巾町の集落遺跡などを説明するコンパクトな施設ですので、すぐに見終わってしまうのですが、私が感じたのは、「この施設(展示)は、徳丹城を造営した大和朝廷の立場・視点から作っている」ということでした。

というのは、文章等もさることながら、徳丹城コーナーの最初のエリアに「蝦夷軍と戦う大和朝廷軍を描いた絵」というのがあるのですが、絵の目線が完全に朝廷側になっていて、「武具に身を包み勇ましく戦う朝廷の戦士」と「斬り殺されてムンクないしアベシ顔になっている蝦夷の賊徒」といった様相になっているのです。

ですので、蝦夷側の視点でこの地を見るのを好む私としては、けしからんと言いたくもなりましたが、それはさておき、数年前、福島県郡山市でこれと似たような感慨を抱いたことを思い出しました。

郡山市の中心部に「開成山公園」という名所があり、そのすぐ近くに「開成館」という郡山市の歴史を伝える施設(確か、昔の役所跡だったはずです)があるのですが、開成館の展示は、東北にありがちな「土着勢力と中央政府との抗争や苦闘の歴史」を描くものではなく、「郡山が、維新政府による大規模開拓(安積疎水)を礎として築かれた都市であることを確認し、開拓を推進した政府の元勲等を顕彰する」ことを目的とした内容となっており、東北の都市としては、異色さを感じずにはいられませんでした。

そして、矢巾町は、蝦夷をはじめ土着勢力の拠点となった歴史がない一方で、徳丹城という、大和朝廷(中央政府)の重要な出先機関(拠点都市)となった歴史があるため、郡山市と同様に、「中央政府寄り」のメンタリティを持ちやすい自治体であり、それが、「底流に流れるもの」として、上記のような展示にも反映されたのではないかと感じた次第です(矢巾という地名も、前九年の役=源氏侵略に由来するようです)。

余談ながら、矢巾町の吸収?合併は、盛岡市にとっては(ほぼ断念に追い込まれた)滝沢村(滝沢市)と並んで、長年の悲願の一つとされ、矢巾町がこれに応じてこなかった理由は、主として経済的なもの(巨額?税収の基盤となる流通センター)と言われることが多いと思います。

が、土着勢力の拠点都市としての長い歴史を持つ盛岡市(南部家は言うに及ばず、古くは安倍氏の本拠地とされています)と、中央政府の拠点都市としての歴史ないしアイデンティティを持つ矢巾町とでは、ある意味、相容れないというか、共感しあう土台づくりに工夫を要する面が隠されているのではないかと、妄想を逞しうせずにはいられないところがあります。

とまあ、そんなことを考えながら、資料館を後にしたのですが、すぐに、とんでもないハプニングに見舞われました。

前記のとおり、4号線から資料館に入る細い道は、冬期来訪者の少なさもあって分かりにくく、積雪も多い状態になっていたのですが、轍に沿って走っていたつもりが、あれよあれよという間に(氷に滑って?)、道路脇の積雪にはまって動けなくなってしまったのです。

幸い、資料館の管理人の方がスコップを持って救援に駆けつけて下さったので、2人であれこれ雪かきをしたのですが、それでも動きません。

しかたなく、6年強ぶりにJAFに出動をお願いしたところ、到着まで3時間半を要するとの返事。

ガーンということで、とりあえず要請はした上で、その後も管理人さんの支援を得つつ地道に鉄製のスコップで氷雪と闘い続けたところ、約40分ほどして、ようやく脱出できました。

終わりよければすべてよしで、雪国暮らしらしくない文明の恩恵に浴した生活を送っている身には、たまには肉体労働に勤しむのも良しと思ったものの、反面、「1200年以上も前に、この地で徳丹城造営に駆り出された蝦夷の人々の呪いだろうか」と思わずにはいられませんでした。

というわけで、矢巾町民の皆さんはもちろん、盛岡広域圏その他の皆さんも、徳丹城に末永いご愛顧をいただければと思います。

(2013年3月2日)

安積疎水と朝河貫一、そして新渡戸稲造 ~H21再掲~

前回と同様、平成21年に郡山を訪れた際に作成した旧HPの日記の再掲です。

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前日分の続きですが、「開成館」を出た後、少し離れたところにある「安積歴史博物館」に行きました。ここは、旧制安積中学の校舎を博物館化した建物で、鹿鳴館の様式を模して作った?とのことで、相応に価値のある建物だそうです。旧制中学は現在の安積高校の前身だそうで、隣接して高校の施設がありました。

展示内容は、開成館と重なっている部分があったり、OB向けの展示等もあり、概ね地味な印象でしたが、安積中学の出身者である歴史学者の朝河貫一博士に関する展示については、強く惹きつけるものがありました。

朝河博士は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した歴史学者で、若いうちに米国に渡り日本人初の米国大学(エール大)の教授になり、学者として業績を残しただけでなく、日露戦争の際、「調停役」となった米国内で日本の立場や米国が調停をなすべきことなどについて盛んに説いて廻るなどして、戦争終結を背後で支えたり、太平洋戦争直前には、要人向けに開戦回避の努力を重ねていたなど、多大な功績があったのだそうです。

私も、お名前はどこかで聞いたことがあるような気がするのですが、業績等について知ったのは初めてで、その点は大変有意義に感じました。

朝河博士は、開拓途上にあった安積平野の一角の貧しい家庭に生まれたものの、早くからその才能が見出され、篤志家等の支援もあって、旧制安積中学から早稲田大学に進み、海外に亘って才能を開花させたとのことですが、明治新政府の集大成が日露戦争であるとの観点に立てば、明治政府が尽力した安積疎水による開拓が、巡り巡ってこうした形でも花開いたのかと、歴史の深さ、さらには郡山という街が歴史の中で果たした役割というものを感じずにはいられませんでした。

ところで、朝河博士とほぼ同時代に活躍し、同様に日露戦争などの際に米国内で尽力したとされている国際人として、盛岡出身の新渡戸稲造博士の存在を挙げないわけにはいきませんが、残念ながら、上記の博物館では、朝河博士と新渡戸博士との交流の有無等に関する記述は見受けられませんでした(この点は帰宅後に気づいたことなので、見落としたかも知れませんが)。

明治政府が造った開拓地郡山から生まれた朝河博士と、明治政府に散々な目に遭わされた敗戦国盛岡から生まれた新渡戸博士。同時代に国際人として活躍するという点では、同じような生き方をし、同じような業績をあげながら、その2人のバックグラウンドは、対極そのものということができます。

この点の比較研究をすれば、面白い本が一冊書けると思いますので、どなたか頑張っていただきたい(すでにあるということであれば、ぜひ教えていただきたい)ところです。

余談ついでに、7月上旬の岩手日報の夕刊に、朝河博士の特集記事があり、メジャー級といってよい新渡戸博士と同様、もっと知られるべき人だと改めて思いました。

東北の異端児、郡山の夢と現在(いま)~H21再掲~

先日の日経新聞(プラス1)で、郡山の温泉や安積歴史博物館が取り上げられていました。私は、平成21年に一度だけ、郡山の中心部に行ったことがあり、その際、上記の博物館などを見た感想を、2回に分けて旧HPの日記に掲載したことがあり、折角なので、再掲することにしました(少しだけ表現を修正しています)。

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平成21年7月に東北弁連の定期大会が郡山市のホテルで開催され、東北弁連の公害対策環境保全委員会も実施されることから、岩手枠の委員となっている私も、参加してきました。委員会そのものは、各県の現在のトピックスを簡単に出席者が説明した程度のものですが、他の委員の先生方の出席率が非常によく、私=岩手会ばかりがすっぽかすのも後が怖いことなどから、半ば仕方なく行っているというのが正直なところです。

で、いつもは新幹線で通過するばかりの郡山の街に初めて踏み入れたということで、4時間程度とはいえ、郡山観光に勤しむことにしました。

まず、弁連大会の会場のホテル「ハマツ」から徒歩10分ほど、市役所に面した場所に「開成山公園」という大きな公園と大きな神社があり、そのすぐ近くに、「開成館」という歴史的建造物があったので、そちらを見てきました。恥ずかしながら郡山についてはほとんど知識がなく、郡山にゆかりがある「安積疎水」という言葉だけを聞いていたので、そのことについて知りたいというのが目的でした。

詳細は省略しますが、安積疎水というのは、人口の巨大水路を造り猪苗代湖の湖水を郡山方面に送り込んで水田開発をしたという大規模灌漑施設であり、明治初期に巨費を投じて着工されたのだそうです。開成館をぜひ訪れて見て頂きたいですが、水利の乏しい郡山一帯(安積平野)に大規模開拓を行いたいという当時の人々の切実な要望があり、これが、当時の失業武士対策や富国強兵策等に追われていた大久保利通らを動かして実現にこぎ着けたとのことで、なかなか壮大なドラマがあったのだと初めて知りました。

また、私がこれまで郡山という都市のことをあまり知らなかった理由も、そうしたことと関係があるのだろうと得心できました。私のような多少とも歴史に関心のある東北人にとっては、盛岡、仙台、米沢、会津若松といった武士の時代に拓かれた都市には馴染みがありますが、郡山や青森のような、明治後に開拓された都市には、あまり馴染みがありません(その点は、東北人の根底にある、明治政府へのある種の反発心もあるでしょう)。

ただ、一方で、その都市で現に努力してきた住民からすれば、開拓を推進した明治政府の要人こそが自分達の生みの親なわけで、盛岡などでは到底考えられない「大久保利通や政府から派遣された開拓に尽力した県令等に対する顕彰」が盛んになされていることに、とても東北とは思えないと驚くと共に、感慨深いものがありました。

と、同時に、自らの都市を米国西海岸の主要都市になぞらえて、開拓精神の大切さを強調し市民を鼓舞しようとする開成館の解説パネルの筆者(市役所の関係者でしょうか)の熱い文章を読んでいると、盛岡のような、良くも悪くも歴史の重みが街を沈滞化させていると言えないこともない街の住人からすれば、羨望を禁じ得ない面もありました。

戦後日本が、米国との戦に負けたからこそ得たものがあるように、郡山という都市は、東北が薩長新政府に負けたからこそ得たものという面は否定しがたいように思われます。だからこそ、そうした歴史を郡山だけではなく東北全体の資産として東北人が共有し、複眼的視野をもって開拓精神というものを学んでいく必要があるのではないかと感じさせられました。

開成館の後、後述(次回記載)の「安積歴史博物館」に立ち寄り、そのまま30分くらい歩いて駅まで戻り、駅前の高層ビル「ビックアイ」から展望を楽しんで、帰途に就きました。盛岡と違って街の中心部に水と緑が溢れる公園が点在しており、最近できたらしい「21世紀公園」では子供達が芝生を走ったり遊具を楽しんでいた点や自転車向けの道路整備がなされていた点なども、非常に好ましく感じました。

ただ、駅前はシャッターが目立つなど、ご多分に漏れず郡山も経済的にはそれなりに苦労しているようでもあり、開拓精神を発揮して頑張って欲しいと思わずにはいられませんでした。