北奥法律事務所

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12月

15年目の弁護士たちの悲喜こもごも

今年の夏に起きた「局部切断事件」は、先日、加害者(被告人)の公判で、犯行経緯に関する検察側の詳細な冒頭陳述が報道され、改めて脚光を浴びていますが、ネット上では、被害者、加害者及び関係者である女性について、様々な生々しい記事が飛び交っており、プライバシーなどの観点からは疑問に感じる面が無いわけではありません。

といいながら、こんな話を書いていいのか逡巡があるのですが、この事件の報道があった直後に、被害者が私と同期修習の方ではないかとの噂話を聞き、知り合いだったらどうしようと思って少し検索したところ、ネット上で名指しされている方(以下「A先生」といいます。イニシャルではありません)がおり、そのA先生に関しては、私と同じ頃に弁護士になり、しかも、年齢も私と同じ(同じ年に合格して弁護士になった)ということが書いてありました。

幸い?私自身はA先生とは面識がありませんが、ご経歴を見る限り、東大などではなく私=中央大と偏差値的には同程度の私大のご出身でありながら、非常に優れた先生が集まっていることで業界では高い評価を受けている(と思われる)事務所に就職され、その後も企業法務などを取り扱う弁護士として、絵に描いたような模範的なキャリアを積んでこられた方だということが分かりました。

中には、ご本人の「ぶっちゃけトーク」的なインタビュー記事が掲載されているサイトもありましたが、ご本人の才気もさることながら、業界人として凄まじい努力を積み重ねてこられたであろうことは間違いなく、それだけに、「隙」の部分も含め、世の中にはこんな恐ろしい落とし穴が存在するのだと感じざるを得ません。

と同時に、私も、曲がりなりにも運良く(何かの間違いで?)卒業2年目という当時の中央大生としては比較的早い時期に合格できた人間として、もし、岩手の弁護士になるという当初の方針を捨てて、東京で生きていく弁護士になっていれば、自分にできたかどうかはさておき、A先生のような道を目指したのだろうか、その場合、自分はどうなっていたのだろうか(やっぱり途中で脱落して鬱病→自殺などのパターンになったのか、突然変異を起こして「大企業や富豪向けのエリート弁護士」になってしまうこともありえたのか)などと、夢想してしまうところはあります。

事実、私が個人的に存じている「卒業2年目で合格した中央大出身の先輩方」は、そうした道で活躍されている方が非常に多く、それだけに自分の身の上を申し訳なく思っている面があることは確かです。

私の場合、東京の小さな事務所で4年半ご指導いただいた後、岩手で開業し、一時は、いわゆる弁護士過疎と債務整理特需の影響で、朝から朝まで仕事する家庭崩壊リスクを抱えた生活と引き換えに分不相応な収入をいただいた年もありましたが、現在は、弁護士大増員と高金利問題の終焉などに伴う町弁業界の零落も相俟って、運転資金に負われつつ細々とやりくりする日々になっています(兼業主夫業のせいか少額の割に作業量が多い案件が増えているせいか、労働時間だけは昔と大差ないのが悲しいですが)。

曲がりなりにも40年以上も生きていると、様々な紆余曲折もなかったわけではありませんが、今のところ、A先生?のような事態には至っていません。

以前も、地方の有力な弁護士の方のご家庭で生じたとされる信じがたい事件について、少し書かせていただいたことがありますが、今も、どうして天があのタイミングで私をこの業界に連れてきてくれたのか、その理由と責任について考えながら、キャリアだけは15年を過ぎた「しがない田舎の町弁」として、地域社会のためできること、すべきことを探していきたいと思っています。

ところで、上記のような特異なニュースばかりでなく、最近では、同期の方が様々な立場で第一線の法律家として活躍されているとの報道などに接することも増えてきました。

例えば、先日、大きな話題になった、長期間逃亡していたオウム真理教の元信者の方に関する無罪判決で主任弁護人を勤めておられる先生は、研修所で同じクラスだった方で、当時からクラス内でリーダーシップを発揮されており、刑事事件に強い関心を持って取り組んでおられる様子があったと記憶しています。

私が所属していたクラスだけでも、同業のかたわら小説家としても活躍されている方、国際派のマラソンランナーとして世界融和に貢献されている方、司法研修所の教官をなさっている方や日弁連の中枢で活躍されている方など、当時からしかるべき時期に大きな舞台に出てくるのだろうと思っていた方々が、予想通りないしそれ以上の活躍をなさっている光景を拝見する機会が増えてきており、それだけでも早めに合格できた甲斐があったと思わないでもありません。

正直なところ、今の自分が何を目指して努力すべきか、抽象的な目標(地域云々)はさておき、「司法試験合格」とか「事務所開業」のような、即物的?で分かりやすい目標のようなものが見あたらず、いささか自分(のありかた)を見失っているような面もあり、しばらくは、同世代・同期の方々などのご活躍に学びながら、新たな暗中模索の日々という感じがしています。

余談ながら、冒頭の事件については、身体の他の部位と比べて「被害者の性を壊す犯罪」というべき面があり、その意味では(また、性が人格的実存と直結しているという点でも)、強姦罪などと似たような面があるのではと思います。

もちろん、この件では被害者の落ち度が相当にあるのではとの議論はあるでしょうが、加害者側の心情なども含め、人間(個人)の尊厳に直結するものとしての性という厄介なものとの関わり方、ひいては「裁きのあり方」について、良質な思索と議論が深まればと思っています。

ラーメンのトッピングには依頼主の笑顔と事件解決を添えて。

昨日は大船渡(法テラス気仙)でしたが、今日は仕事で由利本荘に行きました。色々な難しさを抱えた離婚訴訟の期日でしたが、本日、依頼主が納得できる相当な内容での和解が成立して終了しました。

この件では、今年の3月まで在籍していた辻弁護士が、子の引渡というハードルの高い論点に挑んで、多大な奮闘の末に大きな成果を成し遂げた後、残務処理を私が引き継いだのですが、決裂か和解かの瀬戸際が相当あり、どうにか解決に至ったという案件でした。

11時半に開始した和解協議が2時半過ぎにようやく成立したのですが、裁判所の近くに、3時まで営業している、本荘を代表する?ラーメン店の一つと思われるお店があり、ギリギリセーフということで、大変美味しくいただきました(残念ながら、12月下旬に閉店となるそうです)。

ちなみに、第1希望だった本荘ナンバーワンとされる有名店は、2時半までの営業時間なので泣く泣く諦めました。依頼主はこの話を聞いて苦笑していましたが、裁判官にも和解成立時に同じ話をしたところ、軽口トークに慣れておられないのか、きょとんとしていました。

事案の中身は申せませんが、当方依頼主は、紛争を通じて2年ほど様々な艱難辛苦を余儀なくされており、最初にお会いした頃と比べて、とても強く、逞しくなられたと感じます。

この種の紛争は、弁護士にとっては不採算になることが通例で、この件も時間給ベースなどで見ると経済的には泣きそうな面はありますが、純然たるビジネス上の紛争などでは学びにくい、人間の業や人として生きることの深さを否応なく考えされられることが多いことは確かです。

ロータリーの標語に「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」というものがありますが、この事件も、その言葉を事実の重みをもって考えさせられるものがありました。

業界には「弁護士報酬と書いて、いしゃりょうと読む」という有名な言葉があり、この事件でも、私や辻先生に限らず担当事務局を含め今日までに色々と苦心惨憺がありましたが、今後もこうした事件を手掛けることができるだけの売上をいただけるよう、めげずに頑張っていきたいと思います。

最後に、締めの一句ということで。

その果てに 味わいを知る 和解麺

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当事者として申し立てる、はじめての原発ADR

先般、当方が破産管財人をお引き受けしている企業さんについて、福島原発事故に基づく被害があるものの賠償問題が未解決ということで、一旦は東電に請求したものの芳しい対応が得られなかったので、現在、原発ADR(損害賠償紛争解決センター)の申立を準備している案件があります。

単なる賠償に止まらない色々な論点がある一方で、会社のご担当がご年配とか他の問題でそれどころでなかった等の事情で、当方の関与時まであまり話を進めることができないまま今年に至ったようです。

平成25年春頃、岩手県の企業も風評被害の賠償請求ができるという第三次追補が出されたことや弁護士会の公害環境委員会が相談窓口を仰せつかったことをきっかけに、当時、県内の事業者の方などから多くのご相談をいただいたのですが、ADR等の手続を私に依頼したいという方には残念ながらお会いする機会がなく、その後は、岩手でも被害対策弁護団が立ち上がり、運営を他の先生方にお任せしたことなどもあって、原発被害問題からはすっかり遠ざかってしまいました(この点は、今年の1月に書いた別の投稿もご覧いただければ幸いです)。

そのため、福島からの避難者の方なども含め、この手続にご縁がない状態が続いていたのですが、まさかこんな形で原発賠償問題にご縁ができ、当時収集した資料に出番がくるとはということで、不思議に思っています。

さきほど、センターの和解解決例を久々に見たところ、当時ご相談を受けた会社さんが申立人と思われる事案を見つけ(ご相談の内容に特徴があり、すぐ分かりました)、ご相談の際に仰っていた希望も採用されたという趣旨の解説が付されていました。

その件の注釈を見ると弁護士費用の計上がされていないので、恐らく(私がイヤで他の先生に頼んだという類ではなく)ご担当の方が自ら作成して申立をなさったのだと思いますし、お会いした際のご担当の方の事務処理能力が高かったことも覚えていますので、その件ではそれがベストの対応だったのだと思います。

ただ、企業さんによっては、自ら申立書を作成するのが困難であるとか、作成はしたものの内容について確認を受けた方が望ましいという例もあるでしょうから、そうした方々は、適宜、原発被害向けの無料相談制度などをご利用いただければと思います(個人も企業も利用可能です)。

さすがに事故(震災)から4年以上を過ぎて、少なくとも「風評」に関しては通常であれば新たな被害は考えにくそうですし、私自身、ご縁がないまま終わると思っていた矢先に、こうした事案の配点を受けて驚いているというのが正直なところですが、冒頭の会社さんのように、何らかの事情で先送りの状態が続いている方もおられるかもしれませんので、そうした方には、上記の制度などをお伝えいただければ幸いです。

その事件は、損害賠償以外にも岩手でその問題に詳しいのは私を含めごく少数という特別な論点(詳細は差し控えますが、地域や公の利害にも関わります)が潜んでいる事案ということもあり、久々に「呼ばれた」という感覚を禁じ得ませんでしたが、ADRを成功させないと先に進むこともできませんので、まずは優しい仲介委員や調査官の方に配点していただけるよう、精一杯お祈りしようと思います。

平成10年頃の盛岡修習の様子と思い出

半年ほど前の話で恐縮ですが、岩手弁護士会の広報にエッセイを投稿せよとのことで、以下の文章を寄稿しました。勝手ながら、本ブログにも転載させていただきます。

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1 はじめに

先般、K先生よりエッセイを投稿せよとのご指示を受けました。内容は自由とのことですが、私の場合、共働きなどの事情から本業と兼業主夫業に追われて会務等にほとんど参加しておらず、若い先生方には「あなた誰?」と思われているでしょうから、自己紹介的な文章を書かせていただくことにしました。

ただ、単なる自己紹介ではつまらないでしょうから、私が盛岡で修習生をしていた平成10年頃の様子を題材にすることにします。私は修習生のお世話を仰せつかることがなく、現在の修習制度や修習生活の実情などを伺う機会がありませんが、当時と今では大きな違いがあるでしょうし、不快に感じる面もあるかもしれませが、法曹養成制度のあり方なども視野に入れて?お気軽に読んでいただければ幸いです。

2 実務修習開始まで

私は二年修習制の最後の年である52期の修習生でしたが、当時は7月中旬に前期修習を終え、下旬に実務修習が始まりました。私は二戸市の出身ですが県外の高校に進学したこともあり、修習先は盛岡を第1志望としましたが、そのような変わり種は私だけで、書いていないのに配属されたと嘆いていた地元出身の方もいました。

この年の盛岡配属は4名で、2名が現役、2名が卒業2年合格(男性3名、女性1名)となっており、出身大学も、私が中央で他の3名が東大、早稲田、慶応という綺麗?な組合せで、各人のキャラも、「地味で地道」の私をはじめ、各大学のカラーを体現しているような印象を受けました。

3 検察修習

盛岡に限らず当時の小規模庁は検察修習から始まりました。地裁での開始式のあと、地検に移動するのかと思いきや、反対側の岩手医大に引率され、いきなり遺体解剖に立ち会うことになりました。さすがに、その晩の歓迎会では刺身を見ながら複雑な思いを禁じ得ませんでしたが。

4人だけの修習生が4ヶ月間も地検のお世話になるため、修習生向けとも言える一般的な窃盗、傷害、覚せい剤自己使用の類だけでなく、殺人や嘱託殺人、金融機関での業務上横領など、重大ないし複雑な事案が個々の修習生に配点され、取り調べ等をさせていただく機会がありました。

また、三席検事が手掛けていた元大物県議による特別背任事件の強制捜査を盛岡地検総出で行うことになり、我々も現地に同行して差押物件の確保や整理などに従事したことも、強い印象に残りました。

この頃は修習生4人だけで行動することが多く、私の実家に全員が泊まりに来て、翌日に一緒に北山崎をはじめ沿岸の名所を廻って盛岡に戻ったことなど、楽しい思い出も沢山あります。指導検事(四席)の方も、厳しくも面倒見のよい親分肌の方で、公私とも大変お世話になりました。

4 弁護修習

私はI先生のご指導を受け、訴状など幾つかの起案を担当させていただきました。修習生の指導担当であるK先生、O先生にも、様々な行事や他の先生方からの講義の引率等をはじめ、大変お世話になりました。

ただ、12月から3月というスキーシーズンと重なる上、とりわけ弁護修習は勉強よりも見聞・体験することが重視されたせいか?全員が週末はスキー三昧の日々で、K先生や若手の検事の方々に大変お世話になりました。

一度、私がI先生の事務所で朝方まで境界絡みの訴訟の控訴趣意書を起案して帰宅した後、徹夜明けで皆と一緒に安比に行ったのですが、帰りの温泉で気を失って倒れ、ご一緒した三席に盛楼閣で焼肉を奢っていただく話がフイになってしまったことがあり、今も申し訳なく思っています。

余談ながら、三席は検察庁の飲み会で、「クリントンをはじめ弁護士が国を牽引している米国に見習い、君達が政治の世界に打って出て、法の理念に基づく正しい社会が形成されるよう頑張るべきだ」と仰っていたのですが、予想通りというか、我々ではなくご自身が霞ヶ関を「脱藩」して、政治の道で活躍されています(岡山2区選出の山下貴司議員です)。

また、クリスマスの際、まだ弁護士登録されて間もないS先生から「お一人さま」の面々(4人全員だったかは忘れました)に声をかけていただき、ご自宅でご馳走になったこと(大葉を刻んだ豆腐のサラダが強く印象に残り、その後も自分で作って食べていました)なども懐かしい思い出です。

5 民事裁判修習

裁判修習は、民裁と刑裁で二人ずつに分かれ、2ヶ月交替で1人の裁判官(部長と単独専門の判事)のご指導のもと、起案などに明け暮れます。

さすがに、民裁修習ではそれなりに勉強漬けの日々でしたが、ご夫婦で判事をされていたOさん(ご主人)が、「小保内君は、この点の勉強が足りないね」と仰ると、間髪入れずに「これを読んでみて」と、裁判官室の本棚から本を5冊以上取り出して山積みにされることが何度もありました。

しかも、申し合わせたように?家裁にいらした奥様(判事)にも、「小保内君の顔は、いつ見ても勉強してなさそうに見える」と言われ、トホホと思いながらも、勉強モードに頭を切り換えないと大変なことになると恐怖し悪戦苦闘していたのをよく覚えています。

おかげさまで、弁護士登録以来、今も、法律論で勉強不足と感じたときは、文献等を山積みにして色々と読みながら起案する習慣が染みついています。

この頃、K先生のご結婚と独立開業が重なり、結婚式の二次会や新事務所での開業パーティに呼んでいただいたことも、懐かしい思い出です。

6 刑事裁判修習

恥ずかしながら、私は諸事情(一応、不祥事の類ではありません)によりこの時期に急遽、東京で就職活動を開始することになりました。幸い、一度お会いしただけで内定をいただける先生もおられましたので、2度ほどの上京で就職先を確定できたのですが、その間は全くと言ってよいほど修習に身が入らず、折角、無罪判決を予定している事件の起案を勧めていただいたものの、起案できず簡易なレポートの提出で終わってしまったことが、今も悔やまれます。

5年以上前にお会いした修習生の方から、当時すでに、地方に配属された修習生の多くが何度も上京を余儀なくされ、重い負担を強いられているとの話を伺ったことがありますが、就職活動と修習の両立を修習生に強いるのは無理があり、修習開始までに就職先を内定させるなど、修習中は修習に専念できる文化が根付いて欲しいと思っています。

刑裁修習の最後に、現在と同様に修習生による模擬裁判がありましたが、当時は前後の期の修習生と一緒に行っており、1年目と2年目の2回、経験できました。

1年目で検察官を担当した際は、被害事実を法廷で否認した被害者証人の特信性立証(被告人の知人から金品を受け取った等の証言の引き出し)ができず、弁護人を担当した51期の方々に惨敗したものの、2年目で弁護人を担当した際は、被告人役を担当した53期のOさんの熱演もあり、無罪判決をいただくことができました。

被害者立会の実況見分調書に被害者の証言と相反する記載があり、法廷でその点を指摘したものの同期で検察官役のI君の剣幕に圧倒されるという一幕があったのですが、53期の裁判官役の方からその件を考慮したとのコメントをいただき、法廷は迫力だけで決まるものではないと感じたのを覚えています(ただ、監督役のK裁判官からは、どうして有罪じゃないのと言われて自信を無くしましたが)。

7 その他、最後に

私の誤解でなければ、当時と現在の修習制度の大きな違いとして、前後の期と交流できる機会ないし程度の有無が挙げられると思います。

当時は盛岡に一緒にいる期間が数ヶ月もありますので、私は51期の盛岡修習の方々から感銘を受ける機会が多々ありましたし、53期の方からも、(私はさておき)52期の面々から良い影響を受けたという話を頂戴したことがあります。現在の仕組みを把握できていませんが、修習生が前後の期の方々と継続的に交流できる機会は、必ず設けていただきたいものです。

当時は、「弁護士になった後は、どうせ仕事漬けの毎日になるのだから、今のうちに遊んでおくように」と言われ、私自身、己の至らなさもあって概ねそのような日々を送ってきました。

それだけに、長期休暇など、ここでは省略した他の出来事も含め、修習生の頃の様々な思い出が、その後の自分の支えになった面も大きいと感じています。

現在の方々は、修習開始前に多少ともそうした機会を持つことができるのだろうとは思いますし、修習直後の弁護士の眼前に広がる世界自体が、当時と今とでは様変わりしていますが、実務修習が法曹養成の根幹である(べき)ことは微塵も変わりないと思います。

指導等に携わっておられる諸先生方におかれても、盛岡配属の全ての修習生が岩手に来て良かったと思って法曹人生をスタートできるよう、OBの一人としてご尽力をお願い申し上げる次第です。