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社会全般

米朝首脳会談にふさわしい「日英の良心が遺したシンガポールの聖地」

6月12日に行われた米朝首脳会談の際、両国首脳がそれぞれ宿泊したホテルのすぐ近くに、世界遺産・シンガポール植物園があります。

かつて、大日本帝国軍がシンガポールを精強な英国軍から電撃的に占領した直後、突如、この島に二戸出身(旧制盛岡中学卒)の田中舘秀三・東北帝大教授が現れ、英国人の研究者らと協力して植物園や博物館などの貴重な学術資産を戦災の混乱から守ったという逸話を、1年半前にブログ等で紹介させていただきました。

植物園のシンボルであるバンドスタンドとその一帯は、今も、英国庭園の面影を残したまま、同国有数の「結婚記念写真スポット」として人気を博しています。

可能なら首脳会談はこのバンドスタンドで行っていただければ、戦争に依らずに物事を解決するとのメッセージを、より世界に伝えることができたかもしれません。

安倍首相の側近にもこのような演出を勧める人材がいればよいのになどと、余計なことを思ったりもします。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

と当時、戯れに一首作ってみましたが、世界中の国家指導者の中で今最もその言葉が向けられるべき2人がこの島で出会いの場を得たということに、少し不思議なものを感じてしまいます。

縄文と弥生の数奇で幸運な出逢いとしてのフラガール

今回(昨年)のいわき方面への旅行は、スパリゾート・ハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)に家族を一度は連れて行こうと考えたのが発端になっており、「丸一日プールに入りたい」という同行者の強硬な要求もあって、2泊3日の旅の締めくくりに、この日は朝からハワイアンズに向かいました。

駐車場には、太陽光発電の装置が大規模に設置されていましたが、天候次第では発電以外の面でも有り難いように思われ、現在のコストのことは分かりませんが、もっと普及して良いのではと思いました。

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施設の入口では、中毒性のあるメロディで「連れてって連れてって連れてって~」というテーマソングが延々と流れており、それに倣って、

連れてって連れてって、いわきの駐車場~
日除けと雨除け、発電も兼ねちゃってってって~
ハワイア~ンズ もとい、家族サービス部。

などと歌いたくなりました。
https://www.youtube.com/watch?v=cAvOmmH9Edc

それはさておき、私自身は、旅行では名所旧跡や各種施設を時間の限り訪ね尽くす弾丸志向型で、リゾートとかプールなどという過ごし方は性に合いませんので、ご家族の皆さんお好きにどうぞ状態で同行者に任せたというのが正直なところです。

ただ、以前に映画「フラガール」は観ていましたので、フラ・ミュージアムはきちんと見ておきたいと思って、そこだけは一人で見に行きました。
http://www.hawaiians.co.jp/show/hulamuseum.html

展示は、「フラガールのあらすじ=ハワイアンズ成立の基礎となった常磐炭鉱の閉山と生き残りを巡る人々の闘いの物語」と「フラの本場たるハワイやタヒチ(ポリネシア人)のフラ文化の紹介」の2本立てとなっており、後者ではフラが宗教的・祝祭的な儀式であることなどが説明されています。

このブログでは「縄文の継承者としての東北」という視点を繰り返し強調していますが、ポリネシア人(ハワイやタヒチなどの南方系)と縄文人(北方系)は人種的に同系(古モンゴロイド)とされているのだそうで、常磐炭鉱の人々が起死回生のシンボルとしてフラを選んだ背景には、指導者の知見だけでなく、「底に流れる人種の血」といった観点も考えてもよいのかもしれません。

ただ、常磐炭鉱は「一山一家」を標榜し、ハワイアンセンターの開設(フラガールの物語)も炭坑の人々がそうした一体感を守るために始めた営みとして描かれ、特定の個人の特異な力量ではなく関係者一人一人の役割意識や団結などが重視されているわけで、そうした光景は縄文文化(個人主義)よりも弥生文化(集団主義)に当てはまるもののように思われます。

弥生人は漢民族や朝鮮民族などと同じ新モンゴロイドという人種なのだそうで、縄文人の末裔の一つである蝦夷集団(各部族)が国家と呼べるだけの社会を形成できなかったように、日本という国(ヤマト国家とその前史)はクニという巨大組織を作る力に長けた彼らが大陸から渡ってきたときから始まったと言ってよいのではと思われますし、以前に沖縄に行った際も「琉球王国は土着の縄文人ではなく渡来の弥生人が土着の民を取り込む形で作ったのではないか」と書いたことがあります。

前回述べたとおり、かつて大和国家の最北端(最前線)の役割を担ったいわきの地には縄文と弥生の結合を図る文化があり、それがフラという縄文に似た文化を活かす方法で地域の存続を図る努力が人々により営まれた底流にあるのでは、という見方もできるように思います。

そのことは「フラの本場」であるハワイの民が米国(西欧人=コーカソイド)の侵略に抗しきれずに民族としての主権を失い米国に同化する道を辿った光景や、タヒチはもちろんインドネシアなど他のポリネシア系の民族を見ても、彼らが近世・近代に国家としての強靱さを持たない状況下で西欧の侵略などに晒され苦難の道を辿ったことなどにも視野を広げると、色々と考えさせられる面があります。

ハワイアンズの宣伝によれば「フラの博物館」は世界でここだけなのだそうですが、以上に述べた観点を踏まえれば、いわきの人々がフラ(ポリネシア人の文化)を継承ないし保護振興する姿は、我々が考える以上に意味や価値のあることなのかもしれません。

そんなわけで、激しいフラの踊りの先に、失われた人類の多様な過去、そして禍々しい要塞のような原発に依存することのない未来も垣間見ることができればなどと思って一首。

誇らしく一心不乱に舞う汗は 岩城も穿つ ひとしずくかな

ただ、私自身は同行者の「目当てはプール。ショーは興味なし」との専断的決定のせいで前夜も含めフラのショーをほとんど見ることができず、トホホ感を抱いたまま立ち去ることを余儀なくされましたので、またいつの日か再訪し、改めてフラのショーなどを拝見できればと思います。

宮崎監督(個の解放)と庵野監督(暴走そして社会への収斂)という「平成の風景」

11月に「シン・ゴジラ」がテレビ放送していたので、1年3ヶ月前に映画館で拝見して以来、久しぶりにチラ見すると共に、映画の鑑賞時に書いた文章を読み返しましたが、今回感じたのは、こうした「大組織に属する人々が巨大な災禍を克服するため力を合わせて闘う物語」は、宮崎監督なら絶対に作らないだろうな、という点でした。

映画評論できるほどの力はありませんが、ジブリ作品は個人が組織などの巨大な力からどれほど自由に生きることができるかがテーマになっているとの印象を受ける作品が多いと感じますし、それは、宮崎監督が「あの戦争」に象徴される滅私奉公(全体主義)を嫌悪・敵視していることが背景にあるのだろうと思います。

これに対し、エヴァンゲリオンも、シン・ゴジラも(「トップをねらえ」も?)、異端児たちが組織の中で自分だけが発揮できる力を生かして巨大な災厄を克服することが重視され、その過程の中で、厄介な自我を抱えた個人が内省を深める面はあるにせよ、組織から個人が解放されることはテーマにはなっていないように思われます(「ナディア」は見たことがないので分かりません)。

陳腐な言い方をすれば、昭和=個性が組織にすり潰されていた右倣えの時代の終わりに個人の解放を説いたのが宮崎監督で、平成=組織から多少は自由になったけれど、「こんなに変な私」の価値が皆に理解されたわけでもなく、かえって身の置き場を無くした時代の中で、「私だけが発揮できる力」を社会に還元して居場所を作る道を示したのが庵野監督、という見方もできるのかもしれません。

そういう意味では、庵野作品のテーマは、平成前期に「ニセ学生マニュアル」や小林よしのり氏との関わりなどで注目された浅羽通明氏の言説に近接するような気もします(当時は大学生でしたので、浅羽氏の本はよく読んでいました)。

それが時代の関心事だったなどと雑な括りをするのは愚かなのでしょうが、ともあれ個人が社会に収斂される物語へのニーズはまだ続くのか、また、次の時代に人々が必要とするテーマはどのようなものか(例えば、「そんな私が現実社会の仕組みや人々の意識を変えていく物語」が、メジャー作品として取り上げられることもあるのだろうか)、などという不毛な問いに縋ろうとするメンタリティが、まだ自分にも残っているのかもしれません。

考えないビジネスパーソンより考えるケムール人

最近、ビジネスパーソンとかオンブズパーソンとか、「なんとかパーソン」が日本語でも浸透していますが、どうしても長ったらしいというか、簡にして要を得た言葉を好む日本人の感覚からすれば、使い勝手が悪い感じがします。

特に「ビジネスマン(ビジネスパーソン)」については、昔は経営者などに限って用いられていたようですが、今や「サラリーマン」を含めた就業者の全体を指す言葉として使われるのが当たり前になっていると思いますので余計に目にする機会が多く、「長ったらしくて音が心地よくない」という感覚を抱く機会が増えているような気がします。

「マン」を使いたくないというコンセプト(男女の区別をしないこと)自体は理解できるのですが、そうであれば、いっそ、ビジネス人とかオンブズ人などと、漢字化=短い音で言葉を表記する方法をとって欲しいと思います。

ビジネス人だとケムール人みたいで嫌だというなら、言葉の本質に適合する他の漢字を考えてもよいでしょうから、ビジネス家とかオンブズ民、或いは明治期に倣って「就業者(実務家)」とか「監察者(監察員)」などと新たな訳語を世に問うて普及させても良いはずです。

英語学習の必要性を否定する発想は微塵もありませんが「物事の意味を手短な音で一挙に表現する言葉」としての漢字文化ひいては概念の本質に即した言葉の創造を実践する知的訓練を大切にする文化を保持・再興すべきだと思います。

「パーソン」に限らず、ここ十数年の日本社会に氾濫する他のカタカナ言葉たちも含め、多くの外国語(新たな概念)を学ぶと共に、それを自分達の言葉で咀嚼すること=概念の本質を検討・理解して会得する手段としての翻訳の試み、ひいてはその基盤としての外国語と日本語の両用的な言語文化が盛んになって欲しいと願っています。

米中の狭間で混迷する朝鮮半島と東アジアの近未来

最近の日韓関係と言えば、従軍慰安婦問題でようやく国家間の合意が生じたかと思えば、途端に朴槿恵大統領が失脚の憂き目に遭い、その勢いで、慰安婦像の乱立に見られる示威行動が続いたり、新大統領の有力候補がいずれも反日姿勢の強い方だと報道されるなど、残念な印象を拭えません。

が、その一方で、在韓米軍が北朝鮮向けに(その名目で?)配備した防衛ミサイルシステムについて、中国が自国のミサイル配備なども察知されるのではないかと強硬に反発し、国民に敷地を提供したロッテグループに不買運動をさせるなどのニュースもあるそうで、事態は混迷というか、複雑な様相を呈しているように見えます。
http://www.yomiuri.co.jp/world/20170302-OYT1T50116.html?from=ytop_main5

我が国では、いわゆるヘイトスピーチ問題のほか、最近世間を賑わせている小学校建設問題などでも、胡散臭い愛国心を標榜して韓国(朝鮮半島)嫌いを標榜する方が多く見られるところですが、せっかく?「中韓対立」という事態が生じているのですから、埋設廃棄物や不正取引の臭い(疑惑)がする商売に手を染める暇があれば、こうしたときに支援活動をして中韓の切り離しと対日友好の機運醸成に努める方が、真の愛国者とまで言うかはさておき、少なくともご自身の理念に沿うのでは・・・などと余計なことを思わないでもありませんが、どうなんでしょうね。

それはさておき、私が平成22年に日弁連の廃棄物法制調査として3泊4日でソウルにお邪魔した際、私は当然ながら庶民向けホテル泊でしたが、某大物の先生(大都市圏の産廃協会の顧問などをなさってました)がロッテホテル(当時は1泊3万円くらい)に宿泊されており、その関係で同ホテルが集合場所に指定され、行ったことがあります。

で、せめてものということで、集合時間前に1階のラウンジで一人で1杯1800円くらい?の朝鮮人参ジュースを飲んだのですが、味より健康のための飲料だとはいえ、二杯目は遠慮させていただきいたと強く感じたことを覚えています。

ともあれ、昨年末くらいから、軍人を矢鱈に登用しつつ対露接近を進めるトランプ政権の目的は、イラク戦争を北朝鮮で再現し、軍産複合体の利益を図りつつ戦後復興利権を米露の主導で決めること(日本はカネ担当、中国はなるべく排除)ではないかと感じる面がありますが、上記の事態も、その前哨戦ないし一貫と考えるべきなのかもしれません(ただ、トランプ政権の軍事行動の優先順位としては、朝鮮半島よりもISなどの方が高いかもしれませんが)。

正男氏暗殺事件を引き合いに出すまでもなく、北朝鮮の現体制が今のまま長期に亘り存続できるとは到底思えませんし、そう遠くないうちに、韓国への統合であれ他の形であれ民主的で人権保障の行き届いた政治体制が確立して欲しいと思わずにはいられませんが、戦争以外の形で平和的に物事が進むことを願いたいですし、そのために日本としてできることを模索する努力を、政府や政治関係者などにも強く求めたいものです。

金色がお好きな「日米の二人のトップ」に関する共通点と未来

トランプ大統領が就任と同時に行ったのは、TPP離脱宣言だけでなくホワイトハウスの執務室のカーテンを金色のものに取り替えたことだった・・という趣旨の記事が出ていました。
http://www.asahi.com/articles/ASK1Q4QN8K1QUHBI00W.html?iref=comtop_8_01

金色を身にまとうのがお好きな公権力の代表者という話を聞くと、現代日本人が連想するのは「いつも金色ネクタイ」のイメージが強い鳩山由紀夫首相でしょうか。それだけに、素直に考えれば「日本を代表する反トランプメディア」になりそうな朝日新聞の記事だけに、そのイメージを狙った報道かもしれないなどと思わないこともありません。

そういえば、このお二人ですが、キャラ(片や傲慢・豪腕、片や優しそうな異星人)や政治家としての出自(片や政治経験の全くない不動産王、片や首相の孫にして日本有数の政界のサラブレッド)は全く異なるように感じられるものの、共に「大金持ち」であるだけでなく、「公権力の代表者になった経緯」という点で見れば、看過すべきでない共通点もあるような気もします。

というのは、トランプ氏のような御仁を大統領に押し上げた原動力が、オバマ大統領の美しい言葉の影で広がる米国の格差社会で置き去りにされた貧困層や没落中間層の現状(米国経済)への不満や怒りの心情であることは、広く言われていることですが、鳩山政権誕生(民主党への政権交代)の原動力も、それに近い面がないわけではありません。

民主党の政権交代の原因については、第一次安倍内閣で閣僚不祥事が頻発して首相の対応が後手に回って信頼を失ったとか、当時の民主党の主要メンバー(陥落までの主要閣僚陣)がそれなりに政治家としての知名度やブランド力を得ていて、一度は政権を任せてみたいという機運があったこと、小泉政権の郵政解散の反動などなどが挙げられるかもしれませんが、現在との大きな違いとして、倒産が非常に多く、不況と呼ばれた時代だったことは軽視できないと思います(当時は我々「町弁」たちは、クレサラから企業倒産まで多くの債務整理事件に従事していましたが、今は見る影もありません)。

そういえば、鳩山内閣の実質的な意味での「前政権」というべき小泉内閣は、最後まで国民の高い人気を得ていた一方で、自由経済至上主義の印象の強い竹中平蔵経財相の重用など、見方によっては「華々しい光景の陰で、その後に顕在化した格差社会の素地を作った」という批判も当てはまる余地があるような気もします。

だからこそ前哨戦となった参院選で小沢代表(当時)が大勝した際のキャッチフレーズが「国民の生活が第一」だったわけで、小沢氏が西松建設事件や陸山会事件で失脚しなければ、その後も、小沢氏が同様の言葉を掲げて衆院選で大勝し首相となっていた可能性は極めて高いのではないでしょうか。

言い換えれば、「ワシントンのエリート達から政治を普通の国民に取り戻す」と叫ぶトランプ氏と、「自民党の一党支配(及びそれに寄生する官民の各種利権)から日本の政治を取り戻す」と叫んでいた当時の民主党(鳩山政権)は、その支持層も含めて、かなり似ている面があるように思います。

そういえば、民主党の支持層は中年の男性の方が多い(女性に人気が無い)と聞いたことがありますし、逆に、民主党=インテリの支持が多いというイメージがありますが(少なくとも、当時、自民党を引きずり下ろしたかった朝日新聞はじめ?左派色のあるメディアの支持を集めていました)、トランプ候補も意外にインテリ層の支持もそれなりにあったという趣旨の記事を目にした記憶があります。

また、双方(鳩山氏、トランプ氏)とも、親ロシアのスタンスであり(鳩山氏は祖父の鳩山一郎首相が日ソ共同宣言=国交回復を樹立し対米自立志向が強かったことなどに由来)、「米軍による沖縄の防衛(駐留)」を重視していない(ように見える)点も似ています(その政策の当否はさておき)。

決定的な違いは双方の政権発足時の支持率の差でしょうか(鳩山内閣の発足時の支持率は70%以上で、世間の大きな期待を集めていたことは覚えている方も多いでしょう)。

そんなわけで、トランプ政権が「反面教師として参考にすべき存在」があるとすれば、鳩山(由紀夫)政権ではないかと感じているのですが、だからこそ、IT革命とグローバリズムをはじめとする社会経済の大変動により没落を余儀なくされた中間層の健全な復活に寄与する政策を目に見える形で推進できれば、優れた政治家として支持を集めるでしょうし、民主党政権時代の日本のように社会内に不況や政争による閉塞の印象を与えたり、世界を不安と混乱に陥れ、既存中間層のさらなる没落を招くような行動に及べば、彼を相応しくない立場から追い出そうとする力が何らかの形で働くのではないかと思われます。

トランプ政権の閣僚のニュースを聞くと軍人関係者の話が多く、まるで戦争をしたいのか(そのための人材シフトなのか)と不安に感じざるを得ませんが、政治や社会に無用の混乱が蔓延しないよう、何より、暴力(他者の尊厳を蔑ろにする手法)による物事の解決を志向する勢力が跋扈することのないよう、強く願いたいものです。

と、ここまで書いた後、グーグルで両氏のお名前を入力したところ、ここまで延々と書くかどうかはさておき、同じようなことを感じる方が多くおられることがよく分かりました。

南京大虐殺の否定本と戦後世代の「神の左手、悪魔の右手」から現代に続く道

アパホテルの「南京大虐殺否定本」に関する報道が話題になっていますが、先日、旧日本軍によるシンガポールでの華人虐殺の話を知ったことから改めて南京事件のことを勉強したくなり、以前から買うかどうか迷っていた中公新書の「南京事件」を買いに、以前から置いてあった盛岡駅フェザンのさわや書店に行きました。

が、残念ながら売り切れており、代わりに同店の「文庫X」キャンペーンで一世を風靡した清水潔氏が同じテーマを取り上げた本が大々的に売り出されていたのを見つけ、面白そうだったので買って帰りました。もちろん、いわゆる否定本の類でないことは言うまでもありません。
http://hon.bunshun.jp/articles/-/5134

まだチラ見しかしていませんが、本題(裏付けを含めた虐殺の実情の説明)のほか、坂の上の雲では描かれていない?日清戦争時の虐殺を紹介したり、著者自身の原体験(祖父や父の物語)について触れているところなどは、きちんと読んでおきたいと感じました。

余談ながら、(いつの話かは伏せますが)以前、ある宴会の場で円卓の少し離れた席に座っていた私より数十年ほど上の世代の男性同士の談笑が聞こえてきて、ご自身のことかそうでないのかは聞き取れませんでしたが(聞きたくもありませんし)、その世代の男性が少なからず行っていたと言われる、数十年前?の「東南アジアへの買春ツアー」の話題を楽しげに話しているのが分かりました。

構造的暴力などという古い政治学用語を引用するまでもなく、圧倒的な経済格差や極端な貧困などに起因する半強制的な買春は、対象女性の尊厳を決定的に破壊するという点で「魂の殺人」と称される強姦とさほどの違いはないというべきで、詰まるところ、戦中も戦後も、日本人が一定の貢献(戦中には植民地独立の端緒、戦後には現在の経済発展の下支えなど)と被害(各種の暴力)の双方をアジアにもたらしてきたことは否定し難いのだと思います。

もちろん、それぞれの時代に各人が帰属していた社会の常識なるものがある上、何より、私たちの世代は、そうした上の世代の方々の「悪魔の右手」だけでなく、敗戦などの反省を踏まえた平和的な手段での戦後復興・経済成長の努力という「神の左手」にも庇護されて育ってきたことを踏まえるべきで、紅衛兵のように勘違いして上の世代を軽々に糾弾するような営みもまた、愚劣なことなのでしょう。

我々の世代は、安倍首相らのご尽力のおかげ?で「謝罪を続ける宿命」はないのかもしれませんが、それだけに「正しい事実を知り、伝え、それをもとに行動する努力を続ける宿命」はより一層強まっており、それを放棄する者には相応のペナルティが待っているのではないのかなと感じたりもします。

それと共に南京事件で諸説入り乱れる様を見ていると、相応の根拠を示されてもバイアスのある見方ないし立場を固守せざるを得ない(せずにはいられない)という、人間の心理などの難しさを感じます。虚心坦懐にものを見ることができるメンタリティを養うための社会基盤や教育などのあり方について、もっと問題意識が深まればと思っています。

WHAM! とSMAPが示した時代の節目と平成日本の未来

先日(12月25日)、80年代のポップ・ミュージックの巨星というべきワム(WHAM! )のジョージ・マイケル氏が死去したとの報道がありました。

私は兄の影響で小中学生の頃にWHAM! の曲を何度も聴いたことがあり、司法試験受験生時代にもCDを借りてカセットやMDに編集してよく聴いていました。

WHAM! は、日本では「ラスト・クリスマス」が最もポピュラーかと思いますが、個人的には「The Edge of Heaven」という作品が一番好きです。

そんなわけで、制作者ご本人が天に召されたこともあり、追悼として、歌詞の一部を意訳(超訳?)してみました。

 Take me to the edge of heaven
 Tell me that my soul’s forgiven
 Hide you baby’s eyes and we can,
 Take me to the edge of heaven
 One last time might be forever
 When the passion dies,
 It’s just a matter of time before my heart is
 Looking for a home
・・・
And don’t you think that I know it , know it , know it , know it !

天国の端にある雲海を見下ろす断崖に連れて行き
僕が赦されるに値するか、突き落とされるのが相応しいか、
答を示してくれないか

貴方の目は閉じられてしまったけれど
僕たちにはまだ、できることがある

あの素晴らしい時間は永遠の彼方に過ぎ去り
情熱も二度と戻ることはないけれど
満たされることのない僕の心は
今も安住の地を求めて彷徨っている

(中略)
考えるまでもない、それは分かりきったことなのだから。

私には洋楽の歌詞を翻訳できるような語学力など微塵もありませんが、大学時代などに週に1度のペースでCDレンタル→編集という日々を送っていた頃、それなりに気に入った曲を聴いていた際は、説明書に付された翻訳歌詞に納得ができず、自分なりの意訳文を妄想することが時折ありました。

英語の解釈や想像力の問題かもしれませんが、洋楽の歌詞には日本の楽曲に見られない思想の深さを感じる言葉が多く、心に染みる曲を収録したCDの解説文に付された歌詞の翻訳が安っぽいものになっていると、憤慨して自分なりにその曲や歌詞(作者の意図)に相応しい日本語を探さずにはいられないと感じることがあります。

個人的には、ブログ等を通じてそうした「意訳」を発表して良質な作品の再評価を求めるような試みが、もっと盛んになればよいのではと願わないでもありません。

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ところで、その翌日(12月26日)には平成日本を代表するアイドルグループであるSMAPが、看板番組の最終回と共に大晦日を待たずして事実上の解散を迎えました。

私も最後の場面(代表曲「世界に一つだけの花」の歌唱シーン)などは拝見していましたが、改めて、SMAPが平成日本を象徴する何かを体現していたということと、SMAPの解散は今年の夏から議論が開始された今上天皇の生前退位問題と共に、「平成の終わりの始まり」を示す出来事だということを強く感じました。

とりわけ、SMAPが全員で番組の最後に震災向けの募金を呼びかけるコメントを行い締めくくったことは、普段この番組を見ない(SMAPのファンでもない)私でも、このコメントが毎回行われていたことやSMAPの被災地への熱心な支援活動などを知らないわけではありませんので、感慨を持たずにはいられない面はありました。

誤解を恐れずに言えば、そうした積み重ねは両陛下が被災地と共に歩む姿勢を示し続けていることと通じるものがあるようにも思われ、「被災地をはじめ社会に明るくエールを送り続けた存在」という意味で、SMAPは平成日本の社会で発揮した存在感(象徴としての役割)という点で、今上天皇に匹敵すると評しても過言ではないと感じます。

とりわけ、彼らが昭和63年(平成の前年)に結成されたという時的な側面もさることながら、「前任者」たる「光GENJI」が「昔(昭和)のアイドル」の最後というべき「ファン層にとって手の届かないスーパースター」として君臨していたのに対し、SMAPが独自の努力で「親しみやすいアイドル像」を構築し受け入れられてきたという点も、昭和・今上の両天皇と重なる面があるように感じます。

すなわち、昭和天皇が「もと現人神」としての圧倒的な権威を最後まで身に纏い続けたのに対し、今上天皇は、各地の訪問や国民との交流などを通じて「親しみやすい信頼される天皇像」を構築し、昭和天皇以上に国民から地に足のついた敬愛の念を集めてきたと評して良いのではと思われ、そうした今上天皇の歩みと最も類似する道を辿った社会的存在がSMAP以外にいるかと考えると、なかなか思いつかないように思います。

それだけに、今上陛下のご高齢に伴い平成が終わらんとしている現在、それと軌を一にするようにSMAPが終焉を迎えたことには、時代の転換期というものを強く感じざるを得ません。

そのような視点を踏まえつつ、SMAPの代表曲となり締めくくりの曲として選ばれたのが槇原敬之氏が制作した「世界に一つだけの花」となった光景を見ると、平成という時代は「個人の多様性と尊厳(に対する社会の包容力)」という日本国憲法の最高規範(根源的価値)がようやく日本社会に浸透していく過程を描いた時代だったのかもしれないと感じるところがあります。

その点は、今上天皇の歩みが「国民主権の憲法下において、国民と共にあゆむ天皇制のあり方を確立させる」というものであったことと重なるのではないかとも思います。

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ここで冒頭のジョージ・マイケル氏に戻りますが、同氏と槇原氏には共通点が多く見られるように感じているのは、私だけではないと思います。

申すまでもなくポップ・ミュージックの世界で多くの人の心を揺さぶった偉大なシンガーソングライターであることが主たる共通点ですが、お二人とも薬物犯罪での摘発歴があること、公言しているジョージ氏はもちろん、槇原氏もネット情報などからLGBT(性的少数者)の方とされていることなども共通点として挙げられるでしょう。

単純化するのは適切ではないでしょうが、お二人ともLGBTであることを含め様々な生きにくさを抱えていたことが、創作活動や薬物依存などの背景にあったのかもしれないとの一般的な推測はできるかと思います。

WHAM!の解散は1986年(昭和61年)であり、いわば「昭和の終わりの始まり」の時期に解散したと言うこともできます(誤解を恐れずに言えば、SMAPの解散と重なる面があるのかもしれません)。

解散後、ソロとして大きな栄光と挫折の双方を経験したジョージ氏のような歩みを今後のSMAPの面々が辿るのかどうかはともかく、ここ数年、LGBTなど様々な少数者の尊厳の擁護が強調されはじめたように、社会全体としては、次の十数年に「個人の多様性と尊厳」という平成日本が示したテーマをより深める動きが進むことは間違いないだろうと思います。

反面、トランプ氏の台頭(や安倍政権?)のような「古き良きナントカを取り戻す」とのスローガンで、多様化(による社会のバラバラ感)に抵抗する人も多く出るでしょうから、「90年代・00年代の世界」で「80年代の世界」と異なり民族運動など(米ソ冷戦の終焉)に起因する幾つかの武力紛争が生じたように、今後の日本国内でも「多様性(個人主義)vs反多様性(集団主義・復古主義)」、「寛容だがバラバラな社会vs偏狭だが身内と認定した者だけは守ろうとする社会」などという形で、何らかの軋轢・社会内対立などが生じてくる(抑圧されていた火種が勃発・先鋭化し何らかの対決を余儀なくされる「ギスギスした社会」になる)のかもしれません。

もちろん、その先には破滅ではなく新たな調和の模索がなされるものと願っていますが。

米国大統領が、戦争回避・調和志向型のリーダー(オバマ氏)から実力行使と「身内のための成果獲得」の意欲を旺盛に見せる闘争指向型のリーダー(トランプ氏)に交代したという事態も、その象徴的な現れのように感じないこともありません。

ともあれ、現在が時代の転換期であることは疑いようもなく、社会の行く末に思いを巡らせつつ、身近な方々が社会の奔流に呑み込まれることなく平穏な生活と尊厳を確保できるよう、「戦争(武力解決)放棄をした(すべき)社会における紛争解決手段としてのフェアな闘争の担い手」たる弁護士(法律実務家)の末端として、地道な努力を続けながらも先を見通す目を養うことができればと思っています。

最後に、当事務所の開設時に尊敬する親族の方からいただき今も私の机の前に掲げている油絵の画像を載せますが、これもまた「世界に一つだけの花」なのかもしれません。

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学童保育を巡る時代の交錯と「スタンダード」のいま~名古屋編①~

諸事情により盛岡市内の某学童保育所の役員を拝命しているのですが、責任者の方からの御下命で、10月29・30日に名古屋市で開催された「全国学童保育研究会」に参加してきました。2ヶ月弱も前の話で恐縮ですが、その件について少し書きたいと思います。
http://gakudou.me/zenkokuken/

といっても、私自身が何か作業や発表などをすることはなく、会場の様子を拝見しているだけ(で構わないので行ってきて欲しいと言われた)というお気楽なもので、毎度ながら書類仕事が溜まってるんですけどと思いつつ諸事情からお断りすることもできず、名古屋まで出張してきた次第です。

そもそも、「全国学童保育研究会」とは、全国学童保育連絡協議会という団体(以下「保連協」といいます)が年に1回、全国各地で開催している大会で、保連協とは、Webサイト情報によれば1967年(学童という存在の草創期でしょう)に保護者や指導員ら(全国各地の「父母会」形式の小規模な学童群らと捉えるべきでしょう)により結成された団体とのことです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/Gakudou/

強制加入団体ではないため(後述のとおり、企業が経営する学童はほとんど加入していない?ように見えます)同一視はできないものの、弁護士業界における日弁連のような存在(全国研は日弁連の人権擁護大会に相当)と考えてよいと思います。

弁護士業界は当方のような1人事務所=零細企業が今も多いのですが、保連協に参加している学童は「父母会」という任意団体(法人格を有しない、権利能力なき社団)で運営されているものが中心なのだそうで(盛岡市内の学童の大半も同様だそうです)、その点でも弁護士業界に似た面があるかもしれません。

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当日は、29日の1時半から名古屋城二の丸の愛知県体育館で全体会があり、子供達の出し物(演舞)、来賓のスピーチ、保連協の会長さんの基調報告、学者さんの講演がありました。主催者発表では5000人が会場にいると仰っていましたが、私の感覚でも、2000~2500人程度はいそうな感じは受けました。

ただ、配布された資料では、岩手からは47人も来ているとのことでしたが、宮城14、青森2、秋田ゼロ?(記載なし)などと、どうしたんだ東北という感じの数字もありました。青森や秋田には、連絡協議会(支部組織)自体がないようですので、そのことも影響しているのかもしれませんが。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Gakudou/

30日は金城学院大学で分科会があり、案内によれば約30もの分科会があり、最低でも一つには出るようにとのことでしたので、当方の現状と関係しそうな「運営主体の多様化が進む学童保育~実態と改善の課題」と題する分科会に参加してきました。

一般教室1つ分の会場でしたが、収容人数を大幅に超える参加者があり満席状態で、午前は、自己紹介タイムのあと神奈川県某市で熱心に活動なさっている方から「市内の学童の運営を巡る役所らとの闘いの歴史」について熱いトークがありました。で、午後は、①役所との関係(補助金云々?)に関心がある人、②NPO化など運営形態に関心がある人、③他の学童などとの交流に関心がある人に分けて、グループ協議をせよということになりました。

私は、弁当をいただいた後は徳川園(と美術館)に向かうつもりで数ヶ月前から固く決意していたのですが、諸々の理由で泣く泣く徳川園を断念し、3時前までグループ協議に参加してきました。

グループ協議では、法人化して経営されている方々や利用者(父母)の方々からの「法人化した学童の現状報告」などが聞けるのかと思っていたのですが、そのような話はなく、集まってきたのも法人化していない(父母会形式の?)学童の方々ばかりで、父母というより指導員っぽい感じの方が多く、法人化云々というより、役所などに対するものを中心に、現在の運営状況への不満や不安などに関するお話が多かったように感じました。

また「学童のプロ」の方々の込み入った話が多く、私のような素人には即時理解が難しいものも多かったように思います。

グループ長さんが埼玉の方で、さいたま市は、数年前に市の方針で全学童をNPO法人化させる?といった話があったそうで、「法人化はこれからの社会の潮流だ」と仰っていました。

さいたま市ではNPO法人が複数の学童を運営するスタイルが多いとの話もありましたが、私が時間の都合で途中退席せざるを得なかったこともあり、その辺の詳細までは聞けませんでした。

ただ、「市役所に、学童を作りたいんだけど、運営をやってくれる人を紹介してくれませんかと頼んでくる運営意識のない無責任な父母がいて困っちゃうよね」といったお話もあり、人ごとと思えないというか、私が関与している学童も、これまで設立や運営を担ってきた方々が引退すると、盛岡市役所に同じ陳情をせざるを得ないのでは?と思わずにはいられませんでした。

そんなわけで、所期の目的である「NPO法人の設立・運営の先輩方から、運営の苦労話やキモになる留意点などを聞くこと」はほとんどできませんでしたが、それはそれとして、ほとんど存じなかった保連協のことがある程度は分かってきた面がありましたので、その点は大いに意味があったと思っています。

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全体を通じて感じたのは、保連協は学童保育の草創期から当時の方々が負ってきた課題と向き合う形で形成されてきた団体であり、良くも悪くも「古き良き学童」の利害を代弁している面が強いという点でした。

少し具体的に言うと「学童は少額の料金で利用できるのと引き換えに父母が信頼関係を形成して和気あいあいと運営に携わる(ので、その結果として低コスト経営にする)のが、あるべき姿である。よって、運営に携わろうとしない父母は好ましい存在ではないし、学童の文化や歴史を学ばず企業が安易に参入するのも間違っている。同様に高い料金で塾云々を提供するようなタイプの学童も自分達とは異質の存在である。そうした学童の「和気あいあい文化」を守った上で、指導員の待遇改善や施設の維持向上を(値上げの選択肢は避けたいので、役所の補助金などを通じて)図りたい」という考え方で運営されているのだろうとの印象は強く受けました。

それで、そのようなアイデンティティを守ることが「運動」の一つの目的になっていて、それが、良くも悪くも保連協の性格を決定づけているのだろうとも感じました。

なお、学童保育の世界では利用者たる監護者等を「父母」と呼び、「利用者(顧客)」と呼ぶことを避けているのですが、そのことも、単に「父母会形式=全利用者による共同経営」がこれまでの中心スタイルになってきたというだけでなく、そうした歴史・文化が影響しているのだろうと思われます。

そうであればこそ、すべての利用者=親と子が同じ思いを共有していれば、「保連協の理念」と利用者のニーズとの蜜月関係は今後も続くのでしょうが、果たしてそうなのだろうか、とも感じるところはあります。

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かつて日本は中流社会で、その主流派は専業主婦+堅実収入のサラリーマンか三世代同居などであり、学童を必要とするのは共働きに「ならざるを得ない」低所得者層と一人親家庭などのみで、それゆえ「子供の居場所を低料金で提供する」というサービスに切実な必要があり、かつ利用者層全体がそのニーズを概ね共有していたのではないかと思います。

これに対し、現在は、お医者さん夫婦や大企業夫婦のような(公務員夫婦や学者さん夫婦なども?)、「両親併せて(一人だけでも)相応の収入があり、親自身も相応の学歴があるので子供に習い事や教育を仕込みたいが、自分達には時間がない。よって、安くない料金を支払ってでもそのサービスをしてくれるところに頼みたい」という「中・高収入の暇なし夫婦(実家の労働力も得られず)」が相応に存在していることは間違いないでしょうし、私が関与している学童の利用者にも、そうした方々が一定数おられるのではと感じています。

報道やwikiなどを見ても、大都市では、そうしたサービスが広まりつつあるそうですが、そうした方々(利用者・運営側双方)のプレゼンスは、ここ(保連協ないし全国研)には全く感じませんでした。

果たしてそれでいいのか(そうした方々も取り込んだ、総合的な「学童全体=すべての子供達の利害」に取り組む団体は存在しなくてよいのか)という余計なことを感じる面はありました。

もちろん、現在も(或いは昔以上に)、非正規雇用の拡大などの事情から、高額な利用料なんて無理ですという共働き家庭は山ほどあるわけで、詰まるところ、学童のサービスを求める利用者(家庭)側に、昔は存在しなかった利用者層の格差ないし利害対立が潜在化しているということに尽きることだと思います。

その上で、都市圏にはそれを満たす「高料金の塾・習いごと学童」が存在するのに対し地方には伝統スタイルの学童のみという構図は、あたかも私立中(とその進学のためのお受験予備校)が都市に集中している光景に似ているような感じはあります。

これからの日本は「都市と地方が、諸インフラの差などのため別の国であるかのような社会になるのでは」とも言われていますが、「学童」という切り口からもそうした光景が現出しているのかもしれません。

分科会の講師の方は「学童は補助金がないと存続困難なビジネスモデルだ。自分は民間企業のエンジニアをしているが、その目線から見てそう思う」と仰っていたのですが、施設(学童)=供給側に税金を払うのではなく、利用者側(子供)に、いわゆるバウチャーを発行する方式などについて保連協は「運動」しなくてよいのだろうかと、ある意味、不思議に思いました。

学童という存在の公的性格は現在ますます強まっていると思いますが、「学童が公的存在だ」というのは、施設自体が「公的」なのではなく、「利用者たる子供が居場所を必要としていること」が、人口減少や少子化云々と相俟って公的なニーズ(税金を使ってでも対処すべき事柄)になっているので、その受け皿たる学童に公的性格が認められていることを指すと言うべきなのだと思います。

だからこそ、あるべき「税金の届出先」は本来は供給側でなく利用者側ではないかという感じがしますし、その上で、地域内に複数の学童(的なもの)が存在し、利用者は、それぞれのニーズ等に応じて、学童を選んで、「伝統スタイルで低料金の学童」をタダ(同然)で利用するか「塾・習い事型の学童」に追加料金を払って利用するか、選択できる社会が望ましいのでは?と思います(組み合わせ型を含め)。

少なくとも、過去に主流だった「(所得の少ない)親が低料金で子を預けるのが学童だ」という文化のうちは、子供向けの様々なサービスが花開くということは難しいかもしれませんが、例えば「バウチャー」のような方法で親の負担を誰かに転嫁しつつ施設側が十分な売上を得て学童を運営できる社会になるのであれば、利用者たる家庭にとっては、伝統的な「和気あいあい学童」から新しい「バリバリ学童」まで、地方都市の住民も含めて色々と選択肢が広がるのではと感じています。

ただ、その程度のことは長年、学童に携わってきた方々ならとっくの昔にご存知のことでしょうし、その上で、敢えて「運動」の方針にバウチャーのような「利用者の補助(選択権の拡大)」という項目をお見かけしないのは、それが、この団体の方々の理念と合わないからなのだろうか、でも、それが「いいこと」なのだろうかと、感じる面はありました。

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ちなみに、今回の「研究集会」が報道されてないかと検索したところ、唯一、「しんぶん赤旗」の記事を見つけました。

ただ、全国研には他政党の来賓の方もいらしていましたし(蓮舫代表は秘書の方が紹介されていましたが、民進党愛知2区の古川元久議員はご本人がいらしてました。自公の方が来ていたかは分かりません)、集会では共産党に限らず特定政党云々という話は全くありませんでした。

詳しい方にお話を伺ったところ、保連協は草創期はさておき相当以前から政党色がなく、近年では自民党の政権復帰後に学童向けの予算が増えた(ので有り難い)などと仰る方も珍しくないそうです。

ですので、ネットで保連協の検索をすると見かける記事の類は「かつての光景」なのでしょうし、上記の記事も取り上げていただいたマスコミが赤旗のみだったという程度のことだと思いますが(岩手なら地元紙にも載るのでしょうけど)、それ自体はケチを付けるべきことではなく、学童保育の歴史的な経緯などの関係から、やむを得ないというか、ごく真っ当なこととして理解すべきことなのかもしれません。

ただ、さきほども書いたとおり、現在は「自分達が長年背負ってきた価値を守るための運動」だけでなく、自分達とは異質な他者のニーズをどのように取り込んでいくか(それにより自分達をどのように変容させ、次代にも必要な存在として生き残っていくか)という適者生存的な発想が必要ではないかと感じていますので、そうした面があまり見えなかったのは、「運動ちっく」というか、少し残念に感じました。

とまあ、余計なことばかり山のように書きましたが、他の方がご覧になれば全く違う印象、感想をお持ちになることもあるでしょうし、こうした光景を一生に一度拝見するだけでも大いに意義はあろうと思います(私は1回でおなか一杯ですので、今年で卒業とさせていただくつもりです。たぶん・・)

ともあれ、こうした貴重な機会を与えていただいた関係者の皆様に御礼申し上げます。

公務員制度改革と「大きな政府・小さな政府」を巡る5年前の議論といま、そして末端現場の光景から

自民党の復権(第2次安倍政権誕生)以来、「安倍1強」というべき状態が続いていることに、政治状況の安定の反面、アンチでなくとも閉塞感や社会問題に関する議論の不活発さを感じているという方は少なくないと思います。

最近の社会経済を巡る話題としては、トランプ政権誕生や英EU離脱などで世界経済及び政治が閉鎖的・抑圧的な方向に向かうのではないかとか、人口減少(国内生産・需要縮小)やこれに伴う移民やインバウンドなど「外国(或いは地域の圏外)との関わり」をテーマとするものが多いように思いますが、「自分達の内部(既存の主要部門)の問題点をどのように抽出し変えていくべきか」についての議論は、あまり熱心になされていないように思わないこともありません。

平成24年1月に消費税の増税や公務員制度改革に関する古賀茂明氏と高橋洋一氏との対談記事をもとに、あれこれ書いて旧ブログに載せたことがあり、勿体ないので微修正の上で再掲することにしましたが、双方とも議論も具体的な改革等も先送りになったまま現在に至っているように思われます。

そうしたテーマに関心のある方は、引用している対談記事も含め何らかの参考にしていただければと思います。

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私のfacebookの「友達」には、ネット上の論文などを頻繁に紹介(コメント投稿)する方もいますので、その方を通じて普段は接する機会のない社会経済・政治システムなどに関する論文を拝見することが時折あります。

平成23年の記事ですので多少古いですが、以前、その方の投稿で「脱サラならぬ脱省?(脱官僚だと別の意味になりますので)した方としては日本有数の有名人」である古賀茂明氏と高橋洋一氏との対談が紹介されていたので、興味深く拝見しました。

http://diamond.jp/articles/-/13257
http://diamond.jp/articles/-/13376

私自身は国家公務員制度改革を巡る詳細な議論に立ち入った発言をする能力はありませんが、読んでいて、次の感想を持ちました。

まず、古賀氏らは、「消費税増税を推進してきた勢力(財務省)や政治家は、古賀氏ら=安倍首相(第1次)や渡辺喜美元行革相が推進していた公務員制度などの行政改革に対し反対或いは消極的な立場をとり、逆に、行政改革推進派は、消費税増税に反対或いは消極的な立場をとってきた」と述べています。

そういえば、死語となった「上げ潮派」(渡辺氏、中川秀直氏ら)は消費税増税に反対し民営化や国有資産売却等により財政再建を図るべきだと主張していましたし、当時、民主党内で増税やむなしと主張する方々(野田・菅もと首相、仙石氏ほか)からは行政の制度改革に関する熱心な声はあまり聞こえてきませんでした。

ちなみに、野田首相の腹心の一人?である蓮舫行刷相(現代表)は、行政が運営する特定の事業(スパコンや宇宙研究など)には合理化(無駄削減)や規模縮小を要求していたことで強いインパクトを残しましたが、行政のカタチの変革(例えば、国が福祉などに広範に関与するのを止めるべきという「大きな政府・小さな政府」の議論)に言及されているのを拝見した記憶がなく、この点は現在も同様のように感じます。

「無駄排除」は政府の規模・指向に関係なく当然に要求されるものですから、民主党政権が実施した「事業仕分け」が行政の仕組みの変革を伴わない、個別事業の費用対効果のチェックに止まるものであれば、福祉国家(大きな政府)の維持への支持を確保するため、無駄排除・費用対効果の検証をしたもののようにも見えます(もともと民主党は福祉国家=大きな政府派の方が多い政党ではないかと思われます)。

対談を見る限り、古賀氏も高橋氏も天下りの禁圧などを通じた行政組織のスリム化を指向すると共に、それを現実に実行できる力を持つ権力機構(としての内閣府人事局)の実現(それが「公務員及び関連利権業界」と対決すること)を求め、それを通じて、消費税増税(一般国民の負担強化)をせずに財政再建(行政コストの節減)を図るべきだとしていますので、基本的には「小さな政府」派なのだと思います。

自民党時代、福田首相や麻生首相が公務員改革に不熱心だったとの指摘もありましたが、このお二人に共通する政治哲学も、「大きな政府=福祉・積極国家」と言えると思います。

というのは、福田首相が創設に情熱を注いだ消費者庁は、行政(役所)が消費者保護に関する様々な事業を行うというものですし、麻生首相が熱心に取り組んだ事業も、高速道路無料化やいわゆるアニメの殿堂など国の出費を要するものや、中小企業向けの返済猶予法(金融円滑化法)など私経済活動に対する国の干渉を伴うものが多かったように思われるからです。

逆に、第1次安倍政権が熱心に取り組んだ政策と言えば教育改革と公務員制度改革が思い浮かびますが、いずれも福祉や国の財政出動とは関係が薄い(又は逆のベクトル)ように思われます。

消費税に話を戻すと、私自身は国が潰れたら困るという単純な発想や所得税と比べた消費税の公平性(捕捉面での)などから、相応の行政改革がなされるのであれば、国を守るため一定の増税は避けられないのかなと素朴に思ってきました。

ですが、私自身は「公(パブリック)のサービス」は可能な限り利用者・供給者双方にとってペイするシステム(赤字にならず収奪もしない経営)にまとめ上げるべきで、それを前提に、公営(役所の税金経営)ではなく、民間が担う(民間の経営努力を最大限活用する)方向に導くべきだと考えており、そうした意味で、どちらかと言えば小さな政府派だと思っています。

そのため、「消費税増税の議論ばかりしていては、それで財源を賄えば足りるとする勢力に押し切られ現在の肥大化した行政機構が温存されてしまう」という主張には、共感せずにはいられないものがあります。

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もちろん、私は行政機構や国家統治の世界に何らの関わりも持っていませんが、仕事上、役所が実施する無料法律相談事業などの末端(現業)レベルで、行政の方々と関わることがあります。

ほんのちっぽけな話ですが、その中にも行政のあり方について疑問を感じざるを得ないことがないわけではありません。

例えば、ここ数年、県内で国や自治体が開催する無料相談事業には、広報等の積極的な集客努力をしなければ、担当者(弁護士)の拘束時間の半分にも満たない来所者(相談者)しか得られないものが増えています(この点は平成28年末現在も状況は全く変わらず、むしろ悪化しているとすら言えます)。

震災や債務整理特需の終焉の影響もあって、一種の相談事業デフレ(供給過多)が生じているのですが、行政(主催者)には自ら集客の努力をする姿勢が希薄で、集客が得られず事業としては失敗しているように見えても、早めにテコ入れ(単なるチラシ等ではない、効果的な広報等)や中止しようとする動きもなければ、誰かが責任を取ることもないように見えます。

そのため、準備の手間や長い移動時間等をかけて嬉しくもない内職時間を与えられる身としては、集客や設営等を民間委託して、実績(集客力や顧客満足度)に応じた報酬を受託者に支払う形式に変更し、それでも集客等が得られないなら無料相談事業(いわばニーズの乏しい公共事業)そのものを再検討(事業仕分け?)する方向に考えて欲しいと思わずにはいられません。

役所の無料相談事業は、弁護士にとっては、相談者の数が多ければ、相談そのものの意義もさることながら、中には単価や能率の面で受任価値のある(仕事として意義があり経済的にもペイする)事件に巡り会える確率が高くなるというメリットがあります。

他方、せっかく会場に赴いても相談者が来所しなければ、時間と労力の無駄であることはもちろん、行政(納税者)にとっても、少額とはいえ弁護士に支払う日当の費用対効果も低くなりますし、事務を担う公務員等の点でも行政資源の無駄遣いと言わざるを得ません。

よって、この種の相談業務も、役所(お役人)に営業努力(集客等の努力)が望めないのなら、イベント設営等のノウハウや意欲のある企業に設営や集客業務を引き受けてもらった方が、良いのではないかと感じています。

この場合、受託企業がインターネットやメディアを活用するなどして集客努力を図ったり、弁護士の相談対応の仕方等についても弁護士の過度の負担や出費増を避けつつ顧客満足度を高める新たなサービス(設営)を創出するなどの展開が期待できる余地はあるでしょう。

さらに言えば、「お役所が無料法律相談事業を行う」というのは、同一のサービスを供給する事業者から見れば、民業圧迫という面が否定できません。

正当な理由(弁護士過疎地の供給不足の補完や低所得者向け事業の必要等)があれば否定されるべきではないと思いますが、現在では、弁護士過疎の解消等によって行政が広範・反復的に無料相談事業を展開する意義が薄れつつあるように思われますし、実施するとしても、役所を経由しないサービス供給の仕方も検討、普及されてよいと思います(例えば、コールセンター等が受付業務を担い実際の相談業務は弁護士の事務所に誘導して対応するなど)。

消費税に比べれば、ちっぽけな話ではありますが、こうした話もまた「大きな政府(役所による公的サービス供給)vs小さな国家(民業による公的サービス供給)」に関わる話であり、財源の問題も伴う以上、税金とも関係することだと思います。

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何のためにこんな話を延々と書いたのかと言えば、我々、一般人は、古賀氏らが議論するようなスケールの大きい議論は拝見する程度のことしかできないのが通例です。

ですが、各人が関わっている各論の中に大所高所の議論と関わる事項があるのですから、それを語ることなら各人に出来ますし、それを積み上げていくことが「改革が潰されないように、議論を骨太に仕上げ推進力を維持する」ためには必要なのではないかと思います。

国民自身が進んで身を切る努力をしなければ他者(役人)に変革を促す資格がないという面もあるとは思いますが、税金支払以外にも努力の道があると思われ、そうした取り組みが活性化すればと願っています。

ところで、橋下市長の引退までの数年間に亘り一世を風靡している大阪維新の会ですが、その主張を見ていると、基本的には「小さな政府」指向に見えますし、橋下市長の現役時には、労働組合を中心に公務員勢力との対決姿勢を鮮明にしていました。

現在では何を目指している政治勢力なのかよく分からなくなりつつ面はありますが、過去の経緯から、改めて、橋下氏の復帰であれ新たなシンボル人材であれ、何らかのカリスマを立てて、その点を大きなテーマとして国政に打って出ることはあるでしょうし、その際、何らかの形で「大きな政府か、小さな政府か」が争点になるのであれば、この種の議論を好む者としては、歓迎する面はないわけではありません。

これに対し、消費税反対の一方の雄である小沢氏らは「大きな政府か、小さな政府か」という視点で見ると、どのような立場に立っているのか今のところよく分かりません。

大まかには、「増税を回避するが子ども手当や所得補償などは維持する」というスタンスのように見えますが、具体的な財源捻出策が提示されないまま時間ばかりが経過したように思われ、残念に思います(善解すれば幹事長時代に行った自民系の支持団体への予算カットなど、既得権益の破壊を想定されているのでしょうから、権力再奪取までは手の内を見せにくいということかもしれませんが)。

「安定的な民主党(小沢派)政権の実験場」たる達増知事の県政運営を見る限り、相応に財政健全化を意識されており(震災の関係で予算自体は膨張しているようですが)、財政を危うくしてまで福祉サービスを優先するとのスタンスではないと感じていますが、国のカタチを巡る立場について、より分かりやすい政見を示していただければと思います。