北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

シンガポール植物園

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第1回:企画案とあらすじ導入部

前回の投稿で述べたとおり、今回から「田中舘秀三博士の活躍の映画化を目指すべく賛同者や本職の方の参考にしていただくためのシナリオ案を提供する」との見地から、秀三博士の物語について、計11回という当ブログ史上はじめての途方もない?連載を開始します。

末尾の「あらすじ案(導入部)」をご覧になって関心を持っていただいた方は、どうか、呆れ果てることなく、最後までお付き合い下さるようお願いいたします。

なお、「あとがき」でも触れますが、シナリオ案のうち秀三博士らが植物園などを守るため奮闘した光景は概ね参考文献を要約したものですが、今回の主要人物であるシンガポール華人らとの関わりや「悪のカリスマ参謀との対決」などは当方独自の創作ですので、その点はご理解のほどお願いします。

シンガポールに行く前からこんな馬鹿げた?ことを考えていたわけではなく、思い立ったのは帰路の機内です。飛行機では映画を見るより本を読む方が好きなので、往路は本を読んでいたのですが、往路の着陸直前に、それまで拝見する機会のなかった「君の名は」が入っているのを発見したので、復路はひたすら拝見していました。

個人的には幾つかの場面や設定が懐かしのジャンプ作品「きまぐれオレンジロード」を思わずにはいられませんでしたが、それはさておき、秀三博士の顕彰のあり方としては映画が一番よいのでは?と思うようになり、帰国直後に博士を巡る物語についてあれこれ調べたところ、ますますその意を強くしました。

代表的文献であるコーナー博士の本(昭和57年刊の中公新書)では、訳者(石井美樹子氏)が「華々しい戦争シーンもなく、遠い東南アジアの博物館を守った物語なんてニーズはないと出版社に言われ難航した」と仰っていましたが、当時はともかく、今であれば、「縮まる世界」の中でシンガポールは十分に身近な国ですし、秀三博士らの功績も昭和57年当時よりも今の日本人の方が、価値を理解できる人が多いのではないかと思います。

そんなわけで、

→秀三博士の物語(の価値)を世間に伝えるには映画化が一番だ。
→しかし、埋もれた逸話なので、映画化してくれと叫んだだけでは誰もやってくれそうにない。

→いっそ映画化あらすじ案を作って関心を持ってくれる人がいれば、プロの耳に届いて本物を作ってくれる日も来るのでは?

→プロに関心を抱かせるため(素材提供)の「あらすじ原々案」くらいなら、自分でも考えつきそうだ。
→華人虐殺は日本陸軍の「悪のカリスマ」が絡むので、悪玉として対決させれば見応えも増すはず。

→どうせなら、シンガポールを建国した地元民との繋がりも描いた方がウケがいいのでは。
→それなら、「男たちの大和」の真似で現代パートも作り、現代人が過去を回想する展開はどうか。

→他の業界は分からないので、主人公をシンガポールに赴任する岩手出身の渉外弁護士にしよう。
→ラストシーンは、あれをネタ(舞台)にするのがお約束でしょう。

といった発想で、恥も外聞も捨てて?とりあえず作ってみた次第です。

余談ながら、往路で読んでいたのは、著名ブロガー・ちきりんさんの「自分の時間を取り戻そう」という本で、「高生産性シフト時代」を見据え、個々人の作業の生産性の向上を強く提案する趣旨の内容でした。
http://www.diamond.co.jp/book/9784478101551.html

深夜にこんな非生産的な話を書く暇があったら休めと著者に叱られそうな気もしますが、もし本当に映画化が実現するのでしたら、ある意味、とても高生産的な営みをしたことになるかもしれず、後者に化ける日が来ることを願って、とりあえずサイトへの掲載は何を言われようとめげずに行いたいと思います。

【あらすじ案(導入部)】

時は2006年の東京。盛岡出身で東京の大手法律事務所に勤務する若手弁護士・千代は、上司にシンガポールの顧問先企業への半年間の出向を命じられる。出世コースから外れたと落胆する千代を待っていたのは、あの戦争がシンガポールに及ぼした惨禍を知らず観光気分でやってくる日本人を快く思わない顧問企業の直属上司・ヤンによる冷淡で過酷な業務命令だった。

ほどなく、顧問先企業に激震が走るも、対策チームから外され不遇感を託っていた千代。そんな千代がある日、執務机に置いた写真を見て驚いたヤンは、千代に古ぼけた水彩画を見せてくれた。

ヤンは、その絵が、日本の占領時にシンガポールの貴重な文化財を戦災から守り、抗日活動に携わるヤンの祖父を日本軍の追跡から守ってくれた、ヒデゾウ(田中舘秀三)という日本の学者から贈られたものだと告げ、祖父と父から聞いた話を語りはじめる。

それは、金もいらず名もいらず、大英帝国が東南アジアの大自然をもとに築き上げた人類の共通資産である膨大な学術資料と貴重な文化財、植物を混乱と略奪から守り抜き後世に遺すことだけを求めて立ち上がった、一人の風変わりな異端学者の物語だった・・・

IMG_0288

博士が守った世界遺産は黄昏と共に~シンガポール編⑤

シンガポール紀行&感想編の締めとして、最終日(3日目)について少し書きます。

この日は、午前中に「アジア最大級のリゾート地(シンガポールの観光立国の象徴)」と言われるシンガポール南部のセントーサ島に行ったものの、諸事情により、水族館「シーアクアリウム」と展望台「セントーサ・マーライオン」を見ただけで本島に戻りました。

セントーサ島はユニバーサルスタジオやウォーターパークをはじめ島全体がリゾート地として開発され、ビーチもあるそうですが、各種娯楽施設を備えた人口リゾート地としてはアジア最大級なのだろうと感じました。

といっても、そうしたものに関心の薄い私は、引率(ケーブルカーを利用したかった等の理由から往路のみH.I.Sのツアーを利用)のガイドさんに「日本軍が戦時中に多くの華人を虐殺した際、この島に多数の遺体を遺棄したという話を聞いたのですが、島内に慰霊碑などはありませんか」と尋ねたところ、慰霊碑などは無いが、シロソ砦に戦争に関する展示があるとの説明を受けました。

帰国後に少し調べてみたところ、以下のようなサイトを拝見し、次に来星の機会があれば、ぜひ訪れたいところだと思いました。
https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/lits-cafe/sato/singapore.html

今回の主要目的地であるシーアクアリウムは、「世界最大級の海洋水族館」とのことでしたが(こちらは海専門で、「川専門」のリバーサファリとの違いを出しているようです)、駆け足で通過せざるを得なかったことやいわゆるショーの類がないせいもあってか(イルカなどは尊厳保護の点からショー禁止が世界的潮流となっていることの影響でしょうか)、鳥羽や名古屋港など日本の著名水族館の方が大きいのでは?との印象はありました。
http://singapore.navi.com/miru/154/

それでも「世界最大の水槽」とされるメインのパノラマ水槽は圧倒的な迫力があるなど、十分に楽しめました。

IMG_0334   IMG_0325

今回は駆け足にならざるを得なかったので、半ば勘違いで行けずに終わった「中世アジアの外洋船の博物館エリア」も含めて、もう一度、見に来たいものです(但し、ポケモンと称する他国の著作物ではなく自国オリジナルキャラで勝負すべきでしょう)。

IMG_0338   IMG_0339

セントーサ・マーライオンからは、現代的な都市と自然が共存するシンガポールの美しい光景を堪能できたように思います。なお、エレベーターの手前には、どういう理由か他の海獣に関する人形とかポスター類などが展示されていましたが、シンガポール・ゴジラ(略して「シン・ゴジラ」)といった感じのものもありました。

IMG_0349   IMG_0353

その後、H.I.Sから頂戴した「チキンライスの名店のタダ券」を何が何でも消化しなければとの思いで、オーチャード通りにある著名店で昼食をとりましたが、店内は同じ魂胆で来店した?日本人だらけだったこと、日本語メニューが最初からテーブルに置いてあり、メニューも定食(セットもの)ばかりで、日本国内のレストランに入ったような感じでしたので、雰囲気という点では、さほど有り難みがありませんでした(もちろん美味しくいただきましたが)。

なお、お店が入っている建物の下層階はアーケードになっていて、日本の著名ラーメン店やトンカツ屋さんなどもありました。

IMG_0366    IMG_0368

そして、ホテルに一旦戻った後、チェックアウトし、ようやく私にとっての第一目的地であるシンガポール植物園に行きました。なお、前日のトラブルの関係で、ホテルの方には果物の差し入れまで頂戴してしまいましたが、追加料金の請求もされず、重ねて恐縮の限りです。

シンガポール編の初回の投稿でも述べたとおり、同郷の偉人・田中舘秀三博士が数奇な縁?により日本軍の侵略による戦災から守った世界遺産・シンガポール植物園を訪れて、博士の何らかの足跡を感じたいということが、個人的な旅の目的になっていました。

事前にネットで少し調べた限りでは、残念ながら植物園内に博士を顕彰した施設等はなく、シンガポール博物館に当時の写真が残されている程度だということは知っており、時間等の都合で今回は博物館への訪問は困難と思っていたので、せめて、園内の雰囲気だけでも味わいたいということで、地下鉄(MRT)で最近できた植物園に隣接する駅に向かいました。

駅の場所が、本来の正面玄関の反対側(裏門)ということで、メインエリアまでそこそこ歩かざるを得ず、疲労状態の同行家族の文句に耐えつつ、中心施設たる国立ラン園(ナショナル・オーキッド・ガーデン)と、シンボル的存在である「バンドスタンド」(かつて演奏が行われた綺麗な東屋。英国庭園的な上品さに包まれており、非常に雰囲気が良いです)を見ることができました(残念ながら携帯写真は容量オーバーで掲載困難のため、こちらのサイトなどをどうぞ)。
http://tropicalplant.air-nifty.com/top/2006/11/post_1.html
http://singapore.navi.com/special/5029491

ナショナル・オーキッド・ガーデンは、花のメインの季節ではなかったのか、夕方に行ったのが悪かったのか、ネット上の写真で見るほどの華々しさは感じませんでしたが、それでも、ここで数十年ないしそれ以上前に開発された花々が今や日本をはじめ世界中で咲き誇るようになったのだと思うと、感慨深いものがありました。

また、花々もさることながら、熱帯の個性的な多数の木々や巨木などが印象に残り、静閑な雰囲気もあって、しばらくここでのんびりすることができればとの思いにかられました。ちょうど、新婚さんがバンドスタンドや園内の人口滝などで写真撮影をしている光景や小動物にも出くわし、そうしたことも好ましく感じました(明るく写った携帯写真はすべて容量オーバーで掲載できず、デジカメ紛失が悔やまれます)。

IMG_0388

しかし、残念ながら、そこでタイムアウト。実質2日半だけの弾丸旅行は終了し、夜行便で羽田に強制送還されました。

とはいえ、植物園が第一の目的地であり、予定では最初に駆け足で来るはずだったのが、最後に、多少は時間をとって訪れることができたので、黄昏のバンドスタンドを眺めながら、旅のラストにはちょうど良かったと思わないでもありませんでした。

予告どおり、次回から田中舘秀三博士の物語について、映画化を目指した「あらすじ原案」のご紹介を中心に、以下の構成で計11回の連載を行います。

関心をお持ちいただける方は、ぜひ最後までご覧いただくと共に、映画化企画にご賛同いただける方は、それぞれの方法(ご自身で映画制作や原作小説の執筆など)に従事いただければ一番ですが、それは無理という方は、その種の業界に従事する方への「いいネタがあるぞ」というご紹介など。二戸や盛岡などの関係者は自治体などへの働きかけも含め)で、何らかのアクションを起こしていただければ幸いです。

【壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」】

第1回 企画案とあらすじ導入部
第2回 あらすじ案①現代編1~ふてくされた気持ちの中で
第3回 あらすじ案②大戦編1~舞い降りた男と英国人学者
第4回 あらすじ案③大戦編2~奇跡の楽園と殺意
第5回 あらすじ案④大戦編3~引継ぎの時
第6回 あらすじ案⑤大戦編4~学ぶ者たちの平等と誇り
第7回 あらすじ案⑥現代編2~そして花々は今も咲き続ける
第8回 あとがき
第9回 元ネタ(文献)のご紹介
第10回 映画化構想と賛同者の募集について
第11回 おまけ・田中舘父子と小保内家を巡る小話

ところで、2日目に宿泊先ホテル近くのアーケードを歩いていた際、シンガポールには珍しいスキー関係のお店を発見しました。この日のガイドさんは昨年?に札幌に観光に行ったと仰ってましたが、私の知る限り、岩手県(役所)や県民が、シンガポールと特別な結びつきを築いているとか、交流しているなどという話は聞いたことがありません。

IMG_0312

しかし、せっかく田中舘博士という偉大な触媒があるのですから、盛岡であれ二戸であれ、そのことを武器にしてスキー客誘致や各種交流・販路拡大に取り組むべきで、そうした方が現れないのであれば、とても残念なことだと思います。

岩手県(や盛岡など)は後藤新平などのご縁を通じて台湾との交流(集客)には熱心ですが、ひとつ覚えのように台湾の尻ばかり追いかける発想では、後藤新平も含め偉大な先人達に笑われるばかりでしょう。

あと、もう一つ余談ですが、シンガポールの地下鉄は、駅に着いて扉が開く際に女性の声で「ハピ、ハピ」というアナウンスが聞こえるため、これって「Happy Happy」と言っているのか、だとして、なんでそんなことを言っているのか、不思議に思っていたのですが、同じことを感じた方は多かったようで、「シンガポール ハピハピ」で検索すると、その答えが出てきます(ネタばらしをしても面白くないでしょうから引用はしません)。

最後に地下鉄からの一コマですが、優先席が日本と異なり各シートの脇=出入口に設けられており、こちらの方が良いのではと思いました。

IMG_0373

「世界で最も頑張る都市国家」が伝える75年前の宿題と現在の課題~シンガポール編①

先日、年末年始休暇の一貫として、シンガポールに家族旅行に行かせていただきました。といっても、当方の予算や時間の都合もあり、正月明けに出発し、往路も復路も夜行便で現地に2泊という実質2日半程度の超駆け足旅行になりました。

恥ずかしながら、現在の私(当事務所)の収入では海外旅行などという贅沢に手を染めるだけの力はないのですが、それなりの理由があって、思い切って過去の蓄えを取り崩して行くことにしました(正月を外したので、費用面はかなり助かりました)。

理由というのは、長期休暇の旅にバックパッカーをしていた修習時代と異なり、新婚旅行(エジプト弾丸の旅)以来、平成22年の日弁連の韓国調査を別とすれば十数年も海外旅行がご無沙汰になっていたということもありますが、大きく2つの事情があり、①家族に海外の実体験をさせ視野を拡げると共に、英語学習の必要性などを感じさせたいということと、②シンガポールにこだわるべき2つの特別の理由があったことの2点があります。

②については、ご承知のとおり、シンガポールは、もともと僅かなマレー系原住民しか住んでいなかった小島(淡路島≒東京23区程度)を大英帝国が貿易及び東南アジア支配のための植民都市として開発し、出稼ぎ華人・マレー人・インド人などが入り交じる特異な他民族都市を形成していたところ、大戦を経て過酷な環境で独立を余儀なくされたという事情が影響しています。

すなわち、同国は、アジア有数の貿易都市のアドバンテージを有する一方、周辺国(マレー半島、インドネシア諸島群)とは全く異なるアイデンティティを形成し精神的な繋がりも希薄なため、周辺国が同胞意識を持って接してくれない「独りぼっちの国」という存続リスクも抱えた中で、リー・クアンユー首相らの強固な統制的指導のもと国を挙げて努力を続けて現在の繁栄を勝ち取った国であり、そうした「努力し続けなければならない宿命を負った国」に私も共感する面が多々ありましたので、同国の気風を家族にも学んで欲しかったという点が1つ目となります。

とりわけ、私自身が田舎の小さな商家の次男として、幼少期から「地元や実家に残れない、必死で勉強して自分の力で身を立てて人生を切り開いていなかければならない」ことを母に叩き込まれて育ちましたので、この国が自分と重なる面があるように感じたということも大きいです。

次に、シンガポールにこだわった(来訪に特別の意義を認めた)理由として、「二戸出身の学者さんが大戦期に同国の学術資産・文化財(大英帝国が長年に亘り築いた世界的財産)を守り、その代表例(シンガポール植物園)が世界遺産になった」ということを割と最近に知ったので、同郷人としてその先生(田中舘秀三博士)の足跡を訪ねたい、また、私が同国を訪れてブログなどで紹介するだけでも、博士の顕彰になるのではないかという点がありました。

この点は、帰国後に改めて博士のことを調べたところ、功績の大きさもさることながら、とてもユニークな人物(単なる善人ではない奇人ないし怪人ぶり)が見えてきて「この人の物語はぜひ映画化されるべきだ、誰もその旗を振らないなら俺がやる!」との無謀な感情が爆発し、おって1~2週間後にブログで連載するとおり、映画シナリオ案まで作ってしまいました(ぜひ、ご覧ください)。

ともあれ、前置きが長くなりましたので、以下では旅行の概略を説明します。

まず、夜行便で早朝に到着し、直ちにシンガポール植物園に向かうつもりだったのですが、夜行に慣れない家族からギブアップ宣言(爆睡状態)が出て昼過ぎまで足踏み状態を余儀なくされ、宿泊先ホテルから歩いて行けるラッフルズホテルに向かったものの、すぐに時間切れとなり、午後3時から夜間まで、予約していたリバーサファリとナイトサファリのツアーに参加しました。

2日目は駆け足の市内観光ツアーに参加し、最後に解散場所のマリーナ・ベイ・サンズの展望台に行きましたが(あの有名なプールは宿泊者専用ですので庶民には無理)、その後、ちょっとしたトラブルが発生し、ヒヤヒヤしながら一晩を過ごしました。

3日目はアジア最大級のリゾートエリア・セントーサ島に行き、諸般の事情により水族館とセントーサ・マーライオンだけを駆け足で拝見した後、H.I.Sから頂戴した「チキンライスの名店のタダ券」を何が何でも消化しなければとオーチャード通りにある店舗で昼食をとり、ホテルに一旦戻った後、チェックアウトして、ようやく私にとっての第一目的地であるシンガポール植物園に行きました。

そして、そのまま時間切れとなり夜行便で羽田に強制送還されたという次第であり、とても海外に来たとは思えない、某「週末のシンデレラ」番組に負けないほどの超駆け足旅行でした。

たったそれだけの滞在とはいえ、海外に来ると感じることも多く、今回、何が何でも取り上げることにした「田中舘秀三博士の物語」以外にも、書きたいことは山ほどありますが、余力の問題もありますので、まずは簡単な紀行&感想編を3回取り上げ、4回目に今回の最終目的地となったシンガポール植物園に触れます。

そして、それを導入部として、「壮大感動巨編・シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」の映画シナリオ案及び企画説明等を全11回の連載で行うつもりですので、ぜひ最後まで温かい目でお付き合い下さるようお願いいたします。

で、早速ですが、今回は1日目の観光について少し触れます。

まず、午前中にホテルで足止めを余儀なくされた際、どうせ待つならH.I.Sから頂戴した「トーストボックス」という同国で数十店舗を展開するコーヒーチェーンのタダ券を使いたいと考え、ホテルから一番近い地下モール内のお店に向かい、道に迷った末、同国名物「カヤトースト」とコーヒーのセットなどを購入し、家族の起床まで私も半眠状態でダラダラ過ごしました。

お店からホテル(詳細は次回)に戻る際、「日本占領時期死難人民記念碑」が帰路の途中にありましたので、手を合わせてきました。これは、大戦時に旧日本軍がシンガポールを侵略、陥落させ征服者として敗戦時まで君臨していた時代に行った華僑虐殺などの蛮行により命を落としたシンガポール人を慰霊するために1967年に建立された施設です。

半年前に沖縄に初めて行った(那覇地裁での尋問)際も到着後に真っ先に「ひめゆりの塔」と平和記念公園に行きましたが、今回もできればここに来て手を合わせたいと思っていたので、その点は何よりでした。

IMG_0243 IMG_0241

そして、午後になって家族が起床したため、前記のとおりラッフルズホテルに行きましたが、リバーサファリのツアーの集合時刻が午前3時前のため、シンガポール・スリングで有名な「ロングバー」を外からチラ見しただけで終わってしまい(店内にアジア人の姿は見えず、白人でぎっしりでした)、その点は残念でした。

DSC05217 DSC05219

リバーサファリは当家しか参加者がいなかったようで、日本語が堪能でおしゃべり好きなガイドさん(その方に限らず、同国は熟年女性がごく当たり前に仕事をなさっている光景をよく目にします)から色々とお話を伺いながら園内を歩きました(ガイドさんと話した内容などは、次々回に少し書きます)。

リバーサファリは、シンガポール動物園やナイトサファリと同じ地区にある(ので入口は皆、隣接しているという親切設計の)、平たく言えば「川の水族館(水辺の生物の動物園)」であり、ボートに乗船して動物を見たりクルーズ船もありますので、遊園地的要素も加味されている面があります。
http://singapore.navi.com/miru/155/

今回はクルーズ船(湖状の広大な貯水池を周遊するもの)は乗れませんでしたが、ボートには乗りました。これは、ディズニー(千葉のD国)のジャングルクルーズに似ていますが、当然のことながら人形の類ではなく本物の動物達を見ながら進みますので、D国のそれよりも遥かに乗船し甲斐があります(個人的には、激流下り的要素も足していただければなお良いのにとは思いましたが、少しだけその要素があります)。

また、展示中の生物の生息域の地図が図示されるなど、英語が分からなくともある程度のことは分かるため、とても良いと思いました。さほど金がかかることでもないでしょうし、その生物のことを知ったり関心を持つ最初の手がかりになることでもありますので、日本の動物園や水族館なども生息域の図示を必ず行うべきではないでしょうか。

DSC05223

あと、ハイライトの一つである、マナティ達が泳ぐ「アマゾン浸水の森」は、まるで腐海の底ではないかと思いました。きっと、こうして人々の汚れた心を浄化し続けているのでしょう。

DSC05235 DSC05238

リバーサファリのあと、夕方から開演となるナイトサファリに移動しました。こちらは、多くのツアー参加者と一緒に行動することになり、最初に円卓での「チリクラブ」付きの簡単な夕食をとった後、夜行性の小型~中型動物がまとまって展示されているエリアを30分ほど歩き、次いで、幾つかの動物のパフォーマンスを紹介するショーを30分ほど見た後、最後にトラム(周遊車両)に乗り大型動物の展示エリアを45分ほどで廻って終了、というツアーでした。
http://singapore.navi.com/miru/11/

チリクラブはシンガポールの名物料理の一つで、味自体は良好ですが、私はカニの殻を自分で処理するのがとても苦手で、「最初から剥いて出してくれればいいのに・・」などと文句を言いながら美味しくいただきました(ネットで調べると、皆さん同じことを仰っています)。

DSC05240

動物のパフォーマンスショーは、当然のことながら英語で行われ、英語能力が皆無の面々が雁首を揃えた当家は全く司会者の軽妙トークを理解できないまま終わってしまいました。

IMG_0260

司会者は冒頭で「この国(語圏)の人は来てますか~」と声を掛けており、日中韓の三国からいずれも多数の人が参加していましたが、これらの三国には私と同レベルの方は大勢いるでしょうし、小さい子供も多く来ていますので、「言葉の壁」に関する対策を考えていただきたいとは思いました。

欲を言えば、イヤホンを支給して同時通訳をしてくれればベストでしょうが、それが無理でも、毎回の司会者の説明(プログラム内容)は大体同じでしょうから、美術館のような補助解説テープを希望者に支給して、それを聞きながら拝見できれば、理解度が大分違うと思います。

これは、日本に来る外国人観光客など、世界中に当てはまる話でしょうから、日本の旅行会社がソニー?などと組んで開発して各国の外国人旅行者向けに提供すれば、日中韓人はもちろん世界中で喜ばれるのではと思いますが、いかがでしょう。もちろん、最後に「次は英語を勉強してまた来てね」の一言を添えれば、親が家庭でわめくよりも子供への教育効果がありそうですし。

トラムは、ネット情報では「見えない動物も多く、イマイチだった」などと酷評する意見も幾つか見られるようですが、私自身はそれなりに見応えがあったと思います(もちろん、動物を適切な方法でトラムに近づけるような工夫は園側にも考えていただきたいとは思いますが)。あと、「どうして北東北人が南国に来てツキノワグマを見なけりゃならんのだ」との不条理感を抱いた場面もありました。

最後に、こんな容器に入ったマンゴージュースを買って、飲みながらホテルに戻りました。理由は分かりませんが、現在の同国ではこのタイプの容器が流行しているようで、マーライオンの近くの売店などでも同タイプのもの(象さんは付いてませんが)を拝見しました。

IMG_0422

個人的には、注射器の類のように見えますし、ゴミの量も多くなるので、デザイン的にも環境面でもセンスが良いとは思いませんが・・

その他、書きたいことはまだまだ尽きませんが、まあ、あまり詳しいことを書くと今後に旅行される方にとって面白味が減るでしょうから、ぜひ、ここに書かれていない多くの醍醐味を現地でご覧になっていただきたいと思います。

75年前のシンガポールに咲いた二戸と名古屋の不思議な縁~名古屋編③~

10月の名古屋出張(学童保育の全国大会の出張)に関する投稿の3回目です。今回は出張とは関係のない話題について少し触れておきたいと思います。

1回目(全国研の参加報告)の投稿で少し触れましたが、本当は、2日目の午後は分科会を途中でサボり、会場から電車で1本のところにある「徳川園」に行くつもりでした。これは単なる物見遊山だけではない徳川園へのちょっとしたこだわりがあったからなのです。
http://www.tokugawaen.city.nagoya.jp/

私の出身地である岩手県二戸市は何人かの著名人や学識者を輩出していますが、その中に、昭和新山の名付け親にもなった「戦前から戦後にかけて活躍していた博物学・地質学の第一人者」である田中舘秀三博士(東北帝大教授)がいます。
http://airinjuku.jp/kikou/kikou32.html

秀三博士(義父であり東大物理学部の礎を作った世界的物理学者・田中舘愛橘博士と区別するため、このように表示します)は、大日本帝国が戦争に突入しシンガポールを侵略した直後(どのような経緯等かは存じませんが)シンガポールに赴任し、すぐにシンガポール市内の植物園や博物館の貴重な文化財を強い熱意や私財を投じて保護する活動を行い、捕虜にされた英国人研究者の支援などもしていたのだそうです。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm

ただ、資産家でもない秀三博士が長期の支援活動を行うのは困難ですので、ほどなく、シンガポールの旧宗主国(ジョホール王国)と交流があり植物学などの学者でもあった、尾張徳川家の当主である徳川義親侯爵に支援を要請し、保護等の引き継ぎを受けることができた(これに伴い秀三博士は帰国)のだそうです。

ちなみに、徳川侯爵は多彩な活動で知られており、徳川園の創設などのほか「北海道みやげの定番・木彫りの熊の発案者」としても有名です。

かくして旧日本軍の侵略に伴う混乱や散逸から文化財は守られ、旧日本軍の撤退後は英国、そして独立したシンガポールへと引き継がれ、現在のシンガポール国立博物館及び植物園に至っています。ちなみに、シンガポール植物園は平成27年に登録された、同国では現在のところ唯一の世界遺産です。
http://singapore.navi.com/miru/6/

私の知識の範囲内では二戸の人間が名古屋の著名人と関わりを持ったという話はこれしか存じませんが、「二戸と名古屋の人間が協力し戦災から人類が後世に遺すべきものを守った」という物語を知るのと知らないのでは、二戸人が名古屋に訪れたり名古屋と関わりを持つ意味・価値も全く異なってくると思っています。

とりわけ、米国(小ブッシュ政権)主導で行われたイラク戦争では米国にもイラクにも現地の文化財保護に従事する者がおらず、フセイン政権の崩壊時に現地の無法者による略奪が横行したと言われており、最近は「IS」によるパルミラ遺跡の破壊など、文化財の戦災はいまなお続く深刻な問題です。

願わくば、徳川園の庭園や美術品などを鑑賞しながら、文化財や名勝などが暴力から守られることの意義や価値を再認識できればと思っていたのですが、その点は、「また、名古屋を訪れる口実ができた」と前向きに考えることにします。

先般「固有のアドバンテージ(アジア貿易の中心)と存続のリスクの双方を抱えながら、繁栄と生き残りのため血眼になって努力し続けてきた国」としてのシンガポールに関心を持つようになり、少し前には、岩崎育夫氏の「物語 シンガポールの歴史」(中公新書)も拝読し、色々と考えさせられました。

残念ながら二人の日本人の尽力は現代のシンガポールではほとんど忘れ去られているようですが、これらの文化財が「華人をはじめとする出稼ぎ寄せ集め移民を強引にまとめた国家」であるシンガポールの国民・国家の統合に生かされていることは間違いないはずで、そうした観点から「大戦時の日本は、シンガポールに迷惑をかけた(凄惨を極めた大陸戦争に起因する華人への報復としての虐殺等)だけでなく同国の役に立った日本人もおり、自分の地域の先人こそがその担い手であった」ことを知ることは、現代の日本と同国との交流のあり方を考える上でも、大いに意義のあることだと思います。

そんなことを思いつつ一首。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

私も、いつの日かシンガポール植物園などを訪れて先人の足跡を辿ると共に、その際はラッフルズ・ホテルのバーで「シンガポール・スリング」でもいただきながら、二戸と名古屋の先人が異国の文化を守り、それが同国の現代の繁栄にも通じていることの奥深さや有り難さなどに思いを馳せることができればなどと夢想しないこともありません。