北奥法律事務所

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盛岡城

NYタイムズを巡る報道や反応と、見落とされた幾つもの視点

先般から、NYタイムズで盛岡市が紹介されたとの記事で報道やSNSが賑わっており、今後も観光等への波及効果が期待されます。
ニューヨーク・タイムズ「行くべきは盛岡」 世界2番目の旅先に: 日本経済新聞 (nikkei.com)

この記事では、「2位だ」と歓喜する文章を拝見することが多いですが、掲載直後にFBで紹介されていた本文(英文)をチラ見した限り、番号は紹介順であり順位を示したものではないのではと感じました。

もちろん、2番目に紹介されること自体、順位に匹敵するほど優先的に注目されることを意図して掲載したのだろうとは思いますが。

また、本文(英文)では盛岡城を紹介する下りが「ancient castle」になっており、これは適切ではない(medieval castle=中世の城が正しい)と思います。

鶴ヶ池の写真を用いながら志波城を推奨しているわけではないでしょうし。

記事賛美も結構ですが、地元民がそうした点をきちんと指摘し来訪者などに伝える力を持つ方が、記事自身が期待していることではと思います。

ともあれ、私自身は、盛岡は昔から、パリのような街だ(旧市街たる河南周辺=盛岡城以西と新市街たる大通など=盛岡城以東に分かれている)と思っており、双方(旧市街・新市街)の特色が際立つように整備・開発すれば良いのにと思ってきました。

が、市民は旧市街の保全や新市街への現代建築の集約にさほど熱心とはいえず、新市街側の開発がさほど進まない一方で、旧市街に次々とマンション等が立ち並んでいたのを残念に感じていました。

今回の件が、そうした傾向に歯止めをかけることができるなら、それ自体は望ましいとは思っています。

他にも、このブログでも過去に触れてきた「まつろわぬ者(蝦夷など)たちの本拠地」という歴史的な観点も含め、記事で言及されていない多くの特色が見直されるきっかけになればと願っています。

(R05.4.1追記)

先般、盛岡市の「みそ、つゆ・たれ、ホウレンソウ、ワカメ、中華麺」の購入額が全国1位だとのニュースがありましたが、豆腐が2位(昔は1位)などという話も踏まえて、盛岡駅の看板も、

大豆をダイズにスてます 緑あふれる麺都もりおか

などと書き換えた方が、NYタイムズに続き、さらに世間の注目を得られるかもしれません。

南部人は犬山城に盛岡城の夢を見る~愛知編①~

今年の夏は、愛知県方面に2泊3日で旅行しました。もともと、愛・地球博記念公園の「サツキとメイの家」に一度は行ってみたいと思っていたので、それを軸に、愛知県の幾つかの観光名所を絡めることにしました。

当初の計画では、初日に犬山市にある「博物館明治村」に行く予定でしたが、現地に到着すると、本日休館となっていました・・

そのため、急遽、犬山城に向かいましたが、翌日、明治村は丸一日を要する施設だと思い知った上、初日は午後7時から木曽川の鵜飼見物をする関係で、4時までには犬山城の河畔の宿に到着する必要があったので、結果として、明治村が2日目になったのは天恵というほかありません。

それはさておき、犬山城では、晴天に恵まれ、天守閣(望楼)からの景色も大いに満足することができました。

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犬山城は木曽川を臨む小高い丘の上に造られた平山城で、国宝に指定されている日本最古?の現存天守閣であるほか、江戸期の思想家・荻生徂徠が、三国志の英雄・劉備の終焉の地である蜀の白帝城に似ていると称したことでも有名です。

私は、平成11年の夏に、中国の三峡下り(長江三峡)に行ったことがあり、中国人向けの大型客船に三泊四日の船旅で乗り込んだのですが、その船は白帝城には泊まってくれなかったものの、早朝に白帝城のすぐそばを横切り、朝霧の中かすかに目にしたことを覚えています。そんな訳でとりあえず一句。

本物は朝もやに消ゆ白帝城

ところで、犬山城は羽柴秀吉と徳川家康が激突した「小牧・長久手の戦」(柴田勝家を滅ぼした秀吉が織田宗家の簒奪を完成させ天下取りの基盤を確立させる契機となった、天下分け目の戦い)の舞台の一つになっており、戦の号砲を告げるような役割を担っています(徳川軍に討ち取られた羽柴方の池田恒興が犬山城を占領したのが戦端だそうです)。

そのように考えると、犬山城(秀吉)も、本家・白帝城(劉備)と同様に、一国の支配者となった人物に深い関わりのある城ということで、見た目だけでない共通点もあるように感じます。

さらに言えば、秀吉も劉備も卑賤の身から曲がりなりにも天下人に上り詰め、存命中も人望を集め、死した後も長年に亘り庶民の人気を得てきた点で共通するほか、二代目で国が滅ぼされたことまで重なっています。

余談ながら、「今太閤」と呼ばれ、最近は語録が注目されている田中角栄もと首相も、二代目である真紀子氏が満身創痍で落選・引退した後、跡を継いで政治の世界に身を投ずるお孫さんはおられないようで、何か通じるものを感じずにはいられない面があります。

そんなわけで、眼前にある秀麗な城を含め、人の身には余りあるものを手にすることの怖さを感じながら浮かんできた一首。

古城告ぐ つわものの夢の恐ろしさ 劉備秀吉二代で滅びる

ところで、この日は、犬山城を木曽川を挟んで望む対岸にある、「みづのを」さんという旅館に宿泊しました。宿の方によれば、犬山城を訪れる中国人は増えているものの当館へ宿泊する人は多くないとのことでしたが、私の知る限り、本家・白帝城を望みながら温泉などに浸かれるという宿は当地には存在しないはずで、「白帝城を河上に望む湯」として良識ある中国人の勧誘に力を入れてもよいのではと、露天風呂で犬山城の雄姿を独り占めしながら思いました。
http://www.mizunowo.co.jp/

また、早めに夕食を済ませ、7時に乗船して夜の木曽川鵜飼も拝見し、終了後には10分ほどでしたが船上から8月上旬のみ行われているという本格的な打ち上げ花火も堪能できました。
http://kisogawa-ukai.jp/

私自身は事前にほとんど調べておらず、偶然このような行程になったのですが、犬山城を訪れる方は、8月上旬(但し、特別の理由がない限り宿泊料が跳ね上がる花火大会の日は避ける)に夜の鵜飼見物付きで宿泊すれば、概ね晴天+鵜飼+夜の犬山城の船上見物+終了後の花火という豪華セットを堪能できますので、とても良いのではと思います。

ところで、木曽川から犬山城を見ているうちにふと思ったのですが、盛岡城は、築城当初は北上川が現在の位置ではなく大通三丁目→同一丁目→菜園(城の堀沿い)→中津川・雫石川とと合流という流れになっており、江戸初期に氾濫対策を理由に現在の位置に移動されています(盛岡市民は大半の方がご存知だと思います)。

もし、北上川がその位置を変えることなく、盛岡城本丸などが現在もその姿を留めることができていれば、北上川から望む盛岡城は、犬山城に負けない秀麗な姿であったであろうことは、間違いないところでしょう。

残念ながら、現代では北上川を元の位置に戻すことがあり得ないことはもちろん、盛岡城の本丸も正確な図面がないことなどから復元困難と言われており、盛岡城の本来の雄姿は「夢のまた夢」と考えられています。

それだけに、とりわけ岩手・盛岡の方々は、木曽川に浮かぶ犬山城に在りし日の盛岡城を懐かしみつつ、盛岡が何を得て何を失ったのかといったことなども考えてみるのも、一興ではないかと思います。

この日は、ライトアップされた犬山城と木曽川を月が照らしていましたが、私が三峡を通過した平成11年8月上旬の夜も、終点である西陵峡のあたりでは満月が大渓谷を美しく照らしていました。それに魅せられ、船上で漢詩の真似事を作ったことなどを思い出しました。

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盛岡城の遺構と中央大学

10月に、盛岡城の建物の一部(勘定所など)を廃城時に買い取り、移築等した建物を今も保存、使用されている企業(徳清倉庫さん)が、震災で破損した建物の修復を完了した、という記事が盛岡タイムズに掲載されていました。 http://www.morioka-times.com/news/2013/1310/10/13101001.htm

ここで紹介されている佐藤社長さんは中央大のOBで、私も白門会岩手支部などでお世話になっています。

盛岡城は現在は石垣しか残っておらず、往時をしのばせる建物をこのような形で守っていることは意義が大きいことだと思いますし、記事にも「市民の企画に応えることは可能」とありましたので、このような営みがもっと知られたり、それを適切に活かすことができる方がおられればと思い、勝手にご紹介させていただいた次第です。

余談ながら、白門会岩手支部では、年1回、講演会兼交流会をやっており、今年は前学長の永井先生の講演でしたが、可能であれば、徳清倉庫さんで、一般参加も可能な見学会兼プチ講演会的なものをやっていただき、それからバスで懇親会場に移動する、といったこともご検討いただければと思ったりもします。

見学は随時対応可とのことですが、現に仕事で使われている建物でもあり、一般人が気軽に立ち寄るのは気が引けますので、そのような企画があれば、ぜひ参加したいと思っています。

私の実家にも、徳清倉庫さんとは比較の対象にはなりませんが、それなりに古くて立派な蔵があり、大戦末期に軍?の命令で墨塗りさせられたものの、数年前、純白の壁に塗り替えてもらったことがあります。この修復の記事を拝見しながら、そのことも思い出されました。