北奥法律事務所

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06月

盛岡を舞台とした映画を制作する方々の光景と、その影裏で?盛岡出身の偉人の物語の映画化を目指す男

先日の盛岡北RCの例会は、当クラブきっての顔の広さ(社交力の凄さ)を誇るTさんのご紹介で、大友啓史監督とタッグを組み同監督の映画作品などのプロデューサーを務めておられる五十嵐真志さんという方(引用サイトの運営企業の役員さん)がゲストとして卓話をして下さいました。

主として、来年上映予定の芥川賞作品「影裏」(綾野剛・松田龍平の共演作品。沼田真佑原作)の制作過程や作り手の方針などに関する説明があり、若干のマル秘話のほか、市内各地のロケや大友監督の作品にかける思いなどを説明されていました。

昨年頃、盛岡の方が近所でロケが行われていたのを発見したとfacebookで投稿されていたのを拝見していますが、ロケ地の写真などもプロジェクターで紹介されていました。

で、スピーチの最後に、この映画は大企業のみがスポンサーとなっていた過去の大友作品と異なり協賛を広く募っており、とりわけ「オール岩手ロケで、岩手の作品として世に送り出したい」とのコンセプトから、盛岡をはじめ岩手県内の企業さんに対応可能な金額で協賛者になって欲しいとの呼びかけがありました。

基本となるコースは、相応の規模の企業や資産家の方でないと気軽にイエスと言える額ではないようですが、エンドロール等に出るだけでなく自社商品に「影裏」の文言を用いて販売等することも了解するほか(すでに県内の某著名酒造メーカーが特製日本酒を販売する方向で準備中とのこと)、大友監督との対談などの特典も付いてくるのだそうです。

そんな額は無理という方でも、多少無理をすればどうにか賄える程度?の協賛口があり、詳細は忘れましたが、そちらもエンドロールで名前が出るほか試写会招待などの特典もあると聞いたような気がします。

というわけで、同作品を応援したいとか、商品展開も含めた宣伝に乗り出したいという方は、ぜひ、五十嵐さんまでお問い合わせ下さい、というか、連絡先知らんぞという方は、名刺をいただきましたので、ご遠慮なく私にお申し出下さい。

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・・と、ここまで、どうして頼まれたわけでもないのに、協賛などの類にはご縁のない「運転資金の調達に日々追われる田舎町弁」の私がこんなことを書いているかというと、そこには一つ、重大な下心がありました。

皆さんお忘れかもしれませんが、3年ほど前「太平洋戦争下のシンガポールに二戸生まれで盛岡出身の変人学者さん(田中舘秀三・後の東北帝大教授)が突如現れ、世界遺産・シンガポール植物園と大英帝国が有する東南アジアの貴重な学術資産群を陥落に伴う戦火や略奪から守った物語(あらすじ案)」を本ブログで延々と連載し、いつか映画化を目指したい!などと恥も外聞もなく途方もないことを書いたことがありました。

もちろん、戦時下に重要な役割を果たした同郷の方を顕彰したいというだけの気持ちからのことでしたが、その後は、何をすることもなく(一度、本格的な研究者らしき方からDMをいただき大変驚いたことはあります)、無為のまま現在に至っていました。

そこで「このあらすじ案を大友監督に渡して映画化して下さい」などと馬鹿なことを申すつもりはありませんが、沼田氏であれどなたであれ、五十嵐さんの人脈に連なる方で、この秀三先生の物語に関心を持っていただける方がいれば、それをとっかかりに、本物の小説家による新たな小説完成→いつかは大友作品へ、という野望もありうるのでは・・との儚い夢を抱かないではありませんでした。

が、さすがに、手ぶらで「あらすじ案」を渡しただけでは「なんだこの変な奴は」の一言でおしまいというか、少年ジャンプの編集者に駄作を持ち込み封も開けてもらえず突っ返されてトボトボ田舎に帰る哀れな高校生並みの話になるでしょうから、せめて、誰か協賛金のお力になって下さる方がおられれば、それを手土産に・・という他力本願なことを思いついた、というのが本投稿の率直な動機です。

というわけで、(私のことはさておき)大友監督作品のエンドロールに載りたい、いや、対談もしたい(かなりお金はかかるけど・・)という方がおられば、ご遠慮なく私までご連絡下さるようお願い申し上げます。

次期日弁連会長(たぶん)にボロ負けした若僧が、18年後に一矢報いた?話~最終話~

恐らく次期日弁連会長に選出されるであろう山岸良太弁護士と駆け出し時代の私が間接的に対決していたことに触れた話の第4話(懇談会編)です。

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前置きが大変長くなりましたが、ようやく懇談会当日の話になります。

過去にも、日弁連会長選の立候補者の方(とりわけ、主流派候補の方)が「告示前の事実上の選挙運動のため全国行脚し各地弁護士会で懇談会を開く件」には、昔お世話になった方(東京で執務する方)から来てくれと言われて何度か参加したことがあります。

今回も、それらと同じく出席者の簡単な自己紹介の後、山岸先生(候補者)が所信表明し、それらを踏まえて質疑応答という形になりました。

自由と正義(ここ数年)の写真を見ていた頃から、この山岸先生は、本当にビジネス弁護士2000に載っている山岸先生と同一人物なのか?と思ってはいましたが、やはり百聞は一見にしかずというか、かつて岩手弁護士会にいらした歴代の会長さん達(当時は候補)と同じく、日弁連の正義や良識を体現していると評すべき誠実さや重みを感じる面はありました。

で、進行役をつとめた岩手会(二弁出身)のY先生から「懇親会(飲み会)に行かない奴はここで当てるから何か述べよ」とのお達しがあり、欠席回答していた私も発言せよということになりました。

さすがにα社事件の話をここでするわけにもいかず「質問ネタ」を何も考えていなかった(既出の話題に即した気の利いた質問も思いつかなかった)ため、一瞬、頭が真っ白にはなりましたが、それまで他の方からあまり言及がなかった震災をネタにしつつ、他の出席者なら絶対に言わないだろう不都合な真実ほど偉い人の前では敢えて言いたいという私のこだわりから、次のようなことを述べました。

「我々、盛岡を中心とする岩手(内陸)の弁護士は、震災以来、何度も何度も、片道2~3時間以上をかけて沿岸被災地に赴き法律相談をはじめとする被災者支援に従事してきました。

震災直後には、東京や阪神などの多くの弁護士さんが現地支援に駆けつけて下さったので、その方々をお連れして避難所に押しかけ相談などを行ったことも何度かありますし、その後は、沿岸各地に設置された相談所の担当として、現地の数名の先生方の補完として1ヶ月に1回などの頻度で被災地への出張を続けてきました。

このようなことを述べると、我々が、毎回、多数の被災者から相談や事件を要請され、具体的な救済や支援の仕事に追われているのだろうと思われるかもしれませんが、残念ながら、そのような事実はありません。

個人差の大きい話でしょうが、私の場合、2~3時間かけて沿岸の相談所に赴いたものの誰も来所者がなく、丸一日、持参したPCで事件の起案や判例学習の内職に終始し空しく帰宅した、などという経験は、過去何年も、そして今も、山ほど余儀なくされています。

もちろん「被災地には本当に困っている人はいないんだ、相談所も無駄な存在だ、被災地なんかもう行きたくない」などと言いたいのではありません。運営サイドの方々を軽々に批判したいのでもありません。

私は個別の事案や相談の対応を通じて、被災地に限らず過疎地などには、弁護士のサービスを必要とする方が多数いるのを知っています。例えば、高齢で心身に様々な問題が生じている一方、不動産をはじめ相応の財産があり、その権利関係や家庭に複雑な法的問題があるなど、弁護士の支援が望ましいケースはそれなりに見てきました。

しかし、そうした方の多くが、相談所であれ個々の事務所であれ、弁護士のもとにアクセスしているわけではなく、或いは、アクセスしたとしても、ご本人のコミュニケーション能力に問題がありすぎて、ご本人と我々だけでは、適切な対応ができないという例もあります。

要は、我々弁護士と法的サービスを必要としている人々をつなぐ役割の方が、圧倒的に不足しているのです。或いは、そもそも、そのような「つなぐ」仕事をする立場にあったり能力を有する方が、ニーズを持った人々と現実につながりをさほど持っていないという面もあるのかもしれません。

それは、地域の人間関係がすでに壊れていることが、大きな原因なのだろうと思っています。だから、本当にサービスを必要とする方々が、様々な形で取り残され、問題が先送りされ、ますます悪化している。

そうであればこそ、人のつながりの回復、地域内の相互扶助の営みの再構築を図ることこそ、日弁連の役割として考えていただきたいのです。

具体的には、当事者と我々とをつなぐ役割を持った組織や団体などとの連携の強化があげられるでしょうし、救済や解決を要する事案と対処による解決の実例について、支援者であれご家族など国民一般であれ、周知する努力も必要なのかもしれません。

また、そのような「つなぐ」業務あるいは作業に適切な対価が支払われず、つなぐ役割を担うことにインセンティブがないという問題もあると思います。これは介護職や保育士さんなどの報酬問題に似ている面があり、弁護士法72条との関係も視野に入れつつ、利用者サイドの適正な費用負担(財源としては、例えば、棚ぼた的な相続財産の活用なども含め)や保険制度なども含めた検討と改善の努力をお願いしたいところです。

ここ数年、弁護士が余っているとかペイする仕事が得られないという話題が業界では盛んに言われています。

今のままでは、少なくとも我々地方の町弁の世界は、ある意味、そのとおりでしょう。しかし、実際にニーズのある、役に立つことができる事案を適切に我々のもとに辿り着かせ、弁護士であれ支援者であれ適切な対価を確保し内実ある仕事ができる仕組みを整えることができれば、言い換えれば、すでに壊れてしまった地域の相互扶助を、弁護士が大きな役割を果たすことを主要な要素に据えて再構築することができれば、様相は一変するはずです。

それは、最近残念な話題が相次ぐ「ひきこもり問題」のように、都会でも、そして全国中に存在している普遍的な問題だと思います。

申すまでもなく、そのことは、この場にいる誰もが分かっていることで、日弁連にとっては長年の課題のはずです。そうであればこそ、皆さんには今、改めてそのことを考えていただければと思っています。」

実際はここまで長々ではなく、3分の1程度に要約?していますが、舌足らずの分も含めて下記のことを述べたものであることは、山岸先生をはじめ同行された大物弁護士さん達には十分ご理解いただけたと思います。

そして、山岸先生からは、司法アクセスの改善は重要なテーマの一つだが、今日はよい話を聞くことができたとの前向きなコメントをいただきました。言葉の一つ一つを覚えているわけではありませんが、声のトーンがそれまでの発言よりも少しうわずっていて、それは、型どおりの挨拶ではなく本気で感じるところがあったというニュアンスを伴っているように感じました。

もちろん、多数の会員(弁護士)との意見交換の場ですので、それ以上、私が山岸先生達とやりとりすることはありませんでしたが、意見交換を終えて、ひっそりと場を後にしようとしていた私のもとに山岸先生がいらして「君の話を聞くことができて良かった」とお声がけいただきました。

一瞬、内心色々な考えが駆け巡ったあと「平成12年頃に先生が手がけておられたα社事件を覚えておられますか。私は相手方代理人の事務所に勤務して、その事件を拝見していました」とだけ述べました。

山岸先生も、α社事件のことはしっかりと覚えていらして、私も自分が起案していましたと面と向かって述べるのは憚られましたので、それ以上何も申さず、本日はありがとうございました、もしお役に立てることがありましたら、ご遠慮なくお声がけください、とだけ述べて辞去しました。

その後に行われた懇親会(飲み会)に参加しなかった(事前に欠席を伝えた)のは、やはり、委任状もなく、会ったことすらないが、それでも、自分はB氏のために闘った代理人である、そして、自分の中ではα社事件は今も終わることができていない、そんな中、相手方のボス格である山岸先生と一緒に酒を飲むなんてできないという気持ちからでした。

ですが、さきほどのやりとりで、ようやく、私にとってのα社事件を終えることができたと思いました。

山岸先生から手をさしのべられて握手したとき、何か肩の荷が下りたような、胸のつかえがとれたような実感がありました。

もちろん、ボスからほとんど説明を受けることなく東京を去った身ですので、できることなら、山岸先生に差し支えない範囲でこっそり事件の顛末を聞いてみたいとの欲がなかったわけではありませんが、懇親会はそのような場でありませんし、所詮、下っ端の一兵卒ですので、書面だけで想像を巡らせるのも私らしいことだと思っています。

ただ、何年かに一度、憑かれたようにα社についてネット検索することがあり、B氏はご自身で立ち上げた同種の企業を育て上げ、業界で相応に活躍されている一方、α社は当時以上に発展している様子が窺われるものの、当時から引退が視野に入っていたはずのA氏の息子さんが、何度見てもWeb上で表示された役員欄に入っていない(社長もA氏の退任後は別の方が長年つとめている)のを、半ば不思議な気持ちで眺めてきました。

実は、α社事件で私が関わった最後の頃にα社側から提出された書面では、α社では今後は実子や親族による経営支配を解消したい、そのための準備等をしているのだという主張がなされたこともあり、或いは、そのことが関係しているのかもしれませんが、実情は何も分かりません。もちろん、B氏側のα社側への持株関係が今どうなっているかも、全く分かりません。

当時の私は、敗訴的和解はやむを得ないのだろうとしても、創業者の子弟であり有力な後継候補として一時期は職務に精励していた(であろう)B氏の尊厳に配慮した、適切な和解(持株関係の解消や適正な譲渡対価の支払など)がなされるべきではないかと思っていましたし、それが間違っているとは今も思っていません。

ただ、あれだけの大きな紛争には、私に窺い知ることができない、偉そうなことを言うべきでない諸相があるのだろうと思いますし、結局のところ自分は「何か、一矢報いたかった」だけなのだろうとも思っています。

今回の私のありふれた発言と山岸先生のお返事が、「一矢報いた」などと評価できるものではないことは自分自身が一番よく分かっていますが、それでも、被災地ないし岩手の実情を何らかの形で訴えて日弁連の活動につなげる糧にしていただくことが、私にできるせめてもの、或いは、私に相応しい「一矢」なのだろうと思っています。

選挙のことは何も分かりませんが、山岸先生のますますのご活躍と、日弁連が掲げる人権擁護などへのご尽力を祈念しつつ、18年を経てこうした場が私に与えられたことに、心から感謝したいと思っています。

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(6.13 追記)

この投稿をした後、昨日になってS先生(今回の懇談会をお声がけいただいた方)から「投稿を見て、改めて山岸先生の賛同者(呼びかけ人)に加わって欲しいが、引き受けて貰えないか」とのメールを頂戴しました。

懇談会の少し前にもS先生から同様のご依頼を受けていたのですが、今回記載した理由からその際は辞退申し上げていました。しかし、本文記載のとおり、懇談会を経て、私にはお断りする理由がなくなりましたので、せっかくお声がけいただいたこともあり、謹んで了解させていただきました。

また、S先生への返事を書き終わって送信する直前に山岸先生からも「仲間に勧められて君のブログを読んだよ。改めて、ハコモノの整備だけでない司法アクセスの質の向上について取り組んでいくので、ぜひ見ていて欲しい」とのお電話をいただき、ただただ恐縮したというのが正直なところです。

というわけで、今後、山岸先生の陣営が公表される「賛同者一覧」に私の名前も表示されるのかもしれませんが、上記の経過に基づくものであり、今回の一連の投稿は「賛同者」云々に関係なく本文記載のとおり私自身のこととして記載したものですので、その点はご理解のほどお願いいたします。

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(7.4 追記)

私も最近知ったのですが、次回の選挙では、山岸先生のほか、日弁連事務総長などをつとめた仙台弁護士会の荒中先生(東北では知名度の高い会務の大物先生と理解しています)も出馬なさるのだそうです。

さらに、日弁連などの役職を歴任された東京の別な大物先生の出馬も確実視されているほか、つい最近、事情通の先生に伺ったところでは、他にも出馬を検討している方々が複数おられるのだそうです。

そうなると、次回は従前の「日弁連の枢要役員を歴任した主流派候補vsその種の役職歴のない非主流派の泡沫候補」という構図ではなく、主流派同士?(少なくとも大物同士)の三つどもえ又はバトルロイヤルという、かつて日弁連会長選挙が経験したことのない?大変な状況が出現しているのかもしれません。

どうして、次回に限って?そのような展開が生じたのか全く存じませんが、せっかく本命級の方々同士の対決になるのでしたら、日弁連のあり方や様々な論点について各陣営・先生がたとも質の高い議論を交わしていただき、今後につなげていただければと願っています。

次期日弁連会長(たぶん)にボロ負けした若僧が、18年後に一矢報いた?話~第3話~

恐らく次期日弁連会長に選出されるであろう山岸良太弁護士と駆け出し時代の私が間接的に対決していたことに触れた話の第3話(山岸先生へのこだわり編)です。

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ところで、既述のとおり私はこの事件では一度も出廷したことがなく、当然ながら、当時、山岸先生たちにお会いしたこともありません。

ただ、まだ法律事務所のHPなどもほとんど無い時代、敵方の弁護士さん達の人となりを知りたいと思っていたところ、日経BP社が平成11年に刊行した「ビジネス弁護士2000」という本に、森綜所属の有力弁護士として山岸先生たちの写真や説明文が載っていました。

山岸先生以外の「森綜ドリームチーム」の方々は、皆さん東大出身らしく?無愛想であったり優等生的な雰囲気の写真で、見ていてあまり気にもなりませんでした。

ところが、山岸先生に関しては、割と若い写真(40歳前後?)で口元に不敵な笑みを浮かべ強い自信や自負が感じられる表情であり、私は敵方の一兵卒という立場だったせいか、「この先生は他の先生達と違って人を喰わんばかりの憎々しいほどニヤリとした表情をしている」と、なぜか記憶に残りました。

この本は今も所持していますので、若い頃の憎々しい?山岸先生を見たいという奇特な方は、ご遠慮なく当事務所までご来所ください。

私はこの写真を見て、その事件で生じた圧倒的な勝敗の差もあって「俺達は天下の森綜だ、貴様のような小物が俺達に勝てるなどと身の程知らずなことを思うなよ」と傲然と言い放たれているように思いましたし、そうした傲然さこそ、かの久保利先生を筆頭にガチンコ企業紛争最強伝説などと称される森綜らしい姿だと感じる面もありました。

α社事件の起案に追われていた頃、私が大変お世話になった業界人としては非常に優れた先生(私と違って、ご本人がその気なら森綜に就職しパートナーになることも間違いなくできた方)から、「森綜と一度闘ったことがあるが、時には、勝つためにえげつないやり方をとってくることがある」と言われたことがあり、そのことで余計に予断偏見が入った面があるかもしれません。

だからこそ、当時の私は、この山岸先生の写真を拝見しつつ、負けっぱなしでたまるか、絶対に一矢報いてやるとの気持ちで?深夜土日の事務所で一人さびしく牛丼や立ち食い蕎麦を喰らいながら、報われない起案に延々と明け暮れていた次第です。

その顛末は前回に述べたとおりですが、それから10年以上を経て、すっかり「大がかりな企業法務にはご縁のない田舎のしがない町弁」になり果てた私の前に届いた日弁連機関誌「自由と正義」で、山岸先生のお名前や顔写真をお見かけする機会が増えました。

そこに表示され、言葉を紡いでいる山岸先生は、あの「ビジネス弁護士2000」に写っていた「優秀だが傲然として少し感じの悪そうなビジネス弁護士」ではなく、人権擁護などの日弁連の典型的な会務活動に熱心に従事されている「真面目で誠実そうな、いかにも日弁連的な大物弁護士」の姿でした。

しかし、私はα社事件の敗北感と「ビジネス弁護士2000」の写真のイメージが強すぎ、「自由と正義」に写った姿はこの先生の本当の姿なのか、何か裏があるのではなどという猜疑心?から自由になることができませんでした。

だからこそ、19年の時を経てS先生から「懇談会に来て欲しい」と言われた瞬間、「ついに山岸先生のご尊顔を拝する機会に恵まれた。この人は聖人君子のような人権擁護の担い手なのか、B氏を非情に追放したα社事件のように?えげつない勝利でも平気で分捕ろうとする強欲な方なのか、どっちが本当か見極めてやりたい」との考えが頭をよぎりました。

α社事件に関わったことで何年経っても捨てられずにいた胸のつかえも含め、それが、今回の山岸先生の懇談会に参加した、私の真の?目的だったのです。

(以下、次号)

次期日弁連会長(たぶん)にボロ負けした若僧が、18年後に一矢報いた?話~第2話~

恐らく次期日弁連長に選出されるであろう山岸良太弁護士と駆け出し時代の私が間接的に対決していたことに触れた話の第2話(私の関わり編)です。

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平成12年の春、就職後間もない私が夜に一人で事務所の記録庫を漁っていると(と書くと聞こえが悪いですが、ボスが手がけている事件を自主的に勉強したいとの目的です。たぶん・・)、おおっ、天下の森綜が相手の事件があるのか、しかもガチンコ支配権紛争だ、と興奮したのを今も覚えています。

もちろん自分が後日関わることになるとは微塵も思っておらず、ミーハー感覚で記録をチラ見しただけでしたが、半年ほど経過して、その事件の係属紛争の一つで、1審でB氏が敗訴した事件(相手はA氏ではなくα社。代理人も森綜ではなくα社の顧問弁護士さん)の控訴趣意書を私に起案せよとのお達しがボスからありました。

そして、私でよいのだろうかと思いつつ、多くの新人がそうであるように「巨大事務所を相手とする企業法務の大事件」にある種の憧れを抱いていた平凡な駆け出しイソ弁の一人として、その事件に関われることが嬉しくて、無我夢中で記録や文献を読み漁り、終電仕事を繰り返しながら、長文の控訴趣意書を作成しました。

ただ、その事件の特質(メインの受任者がボスではなく某先生であること等?)のためか、私は受任者(代理人)ではなく、ボス(及び代理人として書面に名を連ねる某先生達)のゴーストライター(起案代行)という立場であり、また、起案にあたりB氏からお話を伺うなどの機会はありませんでした。

当然のことながら、通常は、事務所の依頼者の方と直にお会いしお気持ちを伺ったり事実や証拠を確認した上で起案を始めますので、依頼者から説明を受けず「記録(と文献)だけで起案する」ことに疑問や不安を感じないこともありませんでしたが、私の内気さ(或いはボスの敷居の高さ)もさることながら特殊な事件という認識もあり、敢えて自分からボスに「B氏と会わせて下さい、某先生の事務所で行われる打ち合わせにも同行させて下さい、法廷も傍聴させて下さい」と求めることなく、純然たる「ただの起案屋さん」で終わってしまいました。

自分の名前が出ないこと自体は不満も何もありませんが、やはり、B氏との面談(打ち合わせへの同席など)を一度でもボスにお願いすべきだったのでは(起案担当者が依頼者と会わず肌感覚の心証もとれないというのは、いくら何でも間違っているのではないか)と感じざるを得ない面はありましたし、ボスはもちろん某先生も恐らくB氏も(たぶん、相手方たる山岸先生たちも)私=法廷に来ていない若いイソ弁が起案していることを分かっていたはずで、それだけに「貴方の顔が見たい(お前も出てこい)」という話が全くなかったことには、少し、さびしい面がありました。

その後、天王山というべき事件(もちろん、相手方は山岸先生たちです)の上告趣意書も任せていただいた(私が売り込んだのではなく、ボスから指示された)のですが、株主間契約の法的性質が中心争点であり、私が全く関与していない控訴審では「有効な合意だが当事者の合意から長期の期間が経過したので法的拘束力が失われた」との理由で敗訴していたため、そのような場当たり的な法律論が許されてなるものかとの思いで、東弁図書館などにあった株主間契約などの文献を徹底的に読み漁り、当時の書式(B5)で100頁超の上告受理申立理由書も作成しています。

今でこそ株主間契約は、企業経営に臨む方(とりわけ共同出資者間)の基本的な留意事項の一つですが、平成12~13年当時は、まだほとんど国内では表だった議論がなく、日本の文献ではほとんど触れていませんでした(そのせいか、1・2審の書面でも株主間契約の法的性質に関しさほど議論が行われていませんでした)。

反面、米国では幾つかの州で相応に議論や判例の集積があり、東京弁護士会の図書館にはそれに関する多数の書籍がありましたので、それらを徹底的に読み込み、文献の該当箇所を多数引用しながら「米国諸州では株主間契約に強い法的効力が認められており、米国会社法の影響下で成立した日本の株式会社法も同様の解釈がなされるべきだ」などと主張したため、今なら最高裁にクレームを受けるような長文書面ができあがったのでした(さすがに英文を読む力はなく翻訳書籍限定ですので、たかが知れた内容かもしれませんが)。

ともあれ、その事件をはじめ、全部で5~6件ほどの事件(平成13年頃から上級審又は1審で係属した主要な事件)の書面作成をことごとく私が担当することになり、山岸先生らの書面に「それは間違っている、こっちが正しい」と書き続けました。

今も、理屈で負けたとは思っていません。

しかし、皆さんのご想像どおり、結果は全敗でした。上告趣意書に至っては、業界人の誰もが経験することではありますが、最高裁は何も言わずに全部の事件とも三行半(受理しない)の一言で終わらせています。

理由は人によって様々な見方(私自身の力不足も当然含め)があるのでしょうが、根本的には、A氏がB氏を排除できた根本的な理由が、A氏側とB氏側の持株比率ではなく(その点はほぼ対等でした)、支配権の死命を決する役割を担ったのが、グループ本社の主要役員(平取締役)の方々の支持の有無であり、端的に言えば、その方々が一貫してA氏を支持し続けたことが、B氏の敗訴の根底にあるものだと感じられました。

その原因がどのようなものであるのか(B氏又はその父に責められるべき点があるのか、A氏が狡猾に幹部の方々を抱き込むなどという事実でもあったのか)、確証を得るだけの資料等がなく、私には全く分かりませんでした。

ただ、そうした事情が分かるようになってからは、この事件は、そこで勝負ありになっており、それ以上は、どのように理屈や制度をいじくり倒しても、本質的な部分で勝てない構図だ、と感じざるを得ないようになりました。

以前、医療ドラマで「大学病院には、出世コースから外れた若い医者に対し、成功が絶対的に無理=患者が死亡を余儀なくされる手術ばかり担当させる=それによる遺族対応なども押しつけることがあり、敗戦処理係と呼ばれて日陰者扱いされ、失意のまま病院を去っていく」などという話(登場人物)が描かれているのを見たことがありますが、客観的に見れば、当時の私も、敗戦処理係を担当していたのかもしれません(事実、私が関与するようになったのは、主戦場たる事件の控訴審で和解協議が決裂し、敗訴判決が出た後でした)。

もちろん、当時の私は、薄々そのような感覚を抱きつつも、そのような帰結は、父達の期待に応え、それまでの相応に輝かしい人生を捨ててα社に身を投じたB氏にとって、あまりにも酷ではないか、仮に、親世代の二人が合意した内容の拘束力に疑義を呈すべき面があったとしても、せめて、B氏には何らかの救い(一定の金銭給付であれ、それ以外であれ)がなされるべきではないかと感じ、相手方に何か一矢報いなければならない、そして、局地戦で強力な一勝を得て、それをテコに再度の和解協議の素地を作りたいという、「不本意ながら太平洋戦争に臨んだ良識派軍人」のような?思いで、必死に闘っていたつもりです。

しかし、私はその思いを遂げることが全くできないまま、α社事件で敗訴判決を重ねた上、失意のうちに?平成16年に東京を去ることになりました。

もちろん、岩手(盛岡)での開業は私が自分で敷いたレールの核心部分ですので、「すべてのモラトリアムが終わり、ついに人生の本番が始まる」という高揚感はありましたが、「自分は東京で他の人にはできない特別な何かを成し遂げて凱旋したのだ」などという達成感は微塵もありませんでした。

(以下、次号)

次期日弁連会長(たぶん)にボロ負けした若僧が、18年後に一矢報いた?話~第1話~

先日、次回の日弁連会長選挙に立候補を予定されている山岸良太弁護士が、選挙運動の一環として岩手弁護士会の会員を対象に行った懇談会に参加してきました。

山岸先生は第二東京弁護士会の会長をはじめ日弁連などの要職を歴任されてきた方で、いわゆる主流派と呼ばれる方々が擁立した候補であり、来年2月頃?の選挙に当選して、次期=令和2年及び3年度の日弁連会長をつとめる可能性が非常に高いと思われます(私に認識違いがあれば、ご指摘ください)。

ちなみに、日弁連会長選は、昔から主流派と非主流派の対立があり、次回の選挙も対立候補の方が出馬されるとのことですが、非主流派が勝ったのは、民主党政権の時期に「反主流旋風」を受けて宇都宮健児弁護士が当選された1回だけだと聞いており、あとは、主流派=長年、単位会(自身の所属会)や日弁連(本山)で重職を歴任されてきた方々から選出されるのが通例となっています。

で、役職に長年縁の無い岩手弁護士会きっての窓際族たる私が、なんでそんな行事に参加したのかと言えば、10年ほど前に私が破産管財人を手がけた県南の規模の大きい企業さんの申立代理人を担当されていたS先生(東京のビジネス弁護士さんで、選対の中心とのこと)から電話で呼出・・・もといお声がけいただき、その事件で大変勉強になった(スケールが大きく裁判所から過分な報酬もいただいた)こともあって、めんどくさいから行かない、では忘恩の輩になってしまいそうだ、というのが直接のきっかけなのですが、実は、もう一つ、隠された?理由がありました。

平成12年に東京で弁護士登録したばかりの私は、実は2~3年ほど、山岸先生率いる「天下の森綜合法律事務所の企業法務エース級チーム」の方々と、典型的な企業支配権紛争事案で対決したことがあります。

などと書いても誰も信じてくれないでしょうから、17年以上も前の話なので時効でご容赦下さいということで、差し支えのない?範囲で補足します。

あれこれ書いたところ、全4話の大作になってしまいましたが、昔話に興味はないよ、という方は今回の懇談会について触れた第4話まで飛ばしていただいてもよいかもしれません。

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時は平成10年頃、世界規模で業務展開し本社の従業員は数百人・グループ全体では数千人規模?を擁するα社で、経営の中心を担っていたA氏と、A氏のもとで後継候補として修行中であったB氏との間で不和が生じ、経営を掌握するA氏がB氏を会社から放逐するという事態が生じました。

自身の経営陣復帰(と将来の継承など)を希望するB氏は、企業法務で著名な某先生に依頼したのですが、私の勤務先のボスは某先生と盟友関係にあり、顧問格としてその事件に参画していました。

これに対し、A氏が自身を当事者とする紛争の代理人として依頼したのが、このようなガチガチの企業紛争の対決力では日本トップクラスとも呼ばれる森綜合法律事務所(現在は、もう少し長い名前になっています)であり、4名の弁護士さんが対応していましたが、その筆頭格(期が一番上)の方が、山岸良太先生でした。

ちなみに、4名の方とも、当時(現在も?)日経新聞が行うビジネス弁護士ランキングの類でトップクラスに入っている方々で、支配権紛争のエース級が集結したドリームチームと評しても過言ではありませんでした。

最終的に、10件以上?の訴訟等が生じるのですが、紛争の核心は、B氏の父とA氏が若い頃に約束した「α社を共同して経営する」旨の約束(株主間契約)であり、その中には互いの子を入社させ後継者とするような定めがあったため、B氏は、A氏によるB氏の放逐が合意違反だとして様々な法的救済を求め、会社法関係を中心に多様な訴訟が生じたのです。

(以下、次号)

黄川田もと議員の知事選出馬で生じる旧小沢氏勢力のラグナロクと、三陸の中心で「防潮堤をぶっ壊す」と叫ぶ誰か

次回の岩手県知事選挙が告示まで3ヶ月を切ったものの、報道によれば達増知事を含め現時点で誰も出馬表明をしておらず、どうなることやらという記事を散見します。

青森県では現職が5選されたとのことで、まあ岩手も同じ展開になるのだろうとは思いますが、達増知事が初当選時に「原則2期」と仰っていたことや、この12年間、震災対応などで尽力されたことは窺われるものの、最近の報道などを見る限り、知事をさらに続けたいとの強い意欲(まだ途上の政策があるなどという発言)を拝見する機会がなく、或いは達増知事自身も辞めたい(国政に戻りたい)のではと感じる面もあります。

達増知事以外に泡沫候補しか出ない選挙なら、不要(無投票4選でも仕方がない)なのでしょうが、それでは民主政治が機能していないとの批判もあるでしょうから、私はいっそ、先日に参院選擁立の断念が決まったばかりの黄川田徹・もと衆院議員に知事選に出馬いただいた方がよいのではと思っています。

政治から引退なさるにはまだ年齢的にも早いでしょうし、今、達増知事以外で、知事選への出馬が現実的に可能で(期待でき)、かつ知事として一定以上の県民の支持(得票)を受けることができる方(知名度や相応の実績が認知されている方)といえば、黄川田氏以外にはいないのではと思われます。

それ以上に、黄川田氏が出馬した場合、達増知事が対決を選ぶのか、敢えて対決を回避し衆院選を選ぶのか(岩手一区なのか、それ以外なのか)、その点は、非常に興味深く感じます。

達増知事が「元祖・小沢チルドレン」であること、黄川田氏が小沢氏と袂を分かった状態にあることは、県民なら誰でも知っていることでしょうから、達増知事としては、以前に小沢氏から離反し自民党に接近した平野達男参院議員を「裏切りの政治」などと批判したように、闘争心を剥き出しにして対決に臨む、という展開になるかもしれません。

その場合、自前の候補者擁立に失敗した自民党岩手県連にとっても、黄川田氏は「達増知事に勝てるかも知れない唯一の候補」であり、黄川田氏が出馬したときは、自主投票などの名目をとりつつ、事実上、黄川田氏の支援勢力に廻る可能性が高いのではと思われます。

もちろん、黄川田氏の盟友的存在であり、黄川田氏が出馬するときは選挙の要となる階猛議員は、細野議員を意識してか「圧倒的与党としての自民党には絶対に行かない。自分なりの方法で非自民勢力の糾合を目指す」と掲げていますので、自民党岩手県連が黄川田氏を表立って支援するなどというのは迷惑千万でしょう。

他方で、圧倒的な集票力を持つ達増知事に黄川田氏が勝つためには、やはり自民党勢力の基礎票を手に入れることが必要です。

例えば、自民党側が表向きは「我々は候補を擁立できず自主投票に追い込まれました」と静かにしつつ、裏側では打倒・達増知事の実現のため、階氏・黄川田氏に平身低頭・三顧の礼を取り、自分達の姿を表に出さずに基礎票はしっかりと固め、無党派層向けに「震災で家族を失う悲劇に耐えて復興支援に長年従事した黄川田氏が知事になって陣頭指揮を執り内陸(県央・県南)と沿岸・県北の格差解消に努めることこそ、岩手が真に一つになる道だ」などとキャンペーンを張ることができれば、達増知事に勝つことも夢ではないと思います。

他方、そこまでの態勢を黄川田氏側が整えることができれば、賢明な達増知事は、敢えて、黄川田氏との対決を避けるかもしれません。

さすがに、黄川田氏・階氏陣営が露骨に自民党側と手を組む光景が現出してしまうと、達増知事も後には引けないでしょうが、少なくとも最初の時点では自民党の姿は絶対に出さないでしょうから、もし達増知事の本音が「衆院に戻りたい(そして、小沢氏の引退時には勢力の禅譲を受けたい)」というのであれば、かえって、黄川田氏の出馬を渡りに船として、衆院選の準備を始めるのかもしれません。

その場合、達増知事の向かう道は、恐らくは岩手1区でしょうし、達増知事としても「最も落とし前を付けるべき相手(旧小沢氏勢力仲間)」は、自身の後継である(はずの)階議員でしょうから、そうした展開になれば、お二人の宿命の対決が、ついに実現することになります。

それこそ、巷間ささやかれる衆参同一選などという展開になれば、今年中にその展開がやってくることになるかもしれません。

黄川田氏であれ階議員であれ、達増知事にとって十分に闘い甲斐のある相手でしょうからし、達増知事自身、小沢氏の後継者としての認知を受けるためにも政敵を選挙で倒すことを希望しているでしょうから、見応えのある「岩手の小沢チルドレンたちの最終決戦(ラグナロク)第1章」とでも言うべき光景が出現するのではと期待したいですが、黄川田氏の知事選出馬という「最初の一手」がなければ、何も始まりません。

裏を返せば、仮に、階議員が「達増知事とだけは闘いたくない」と考えておられるのでしたら、このまま延々と知事を務めていただいた方が都合がいいわけで、黄川田氏擁立の意見には反対の急先鋒になるのでしょう。

しかし、衆院議員としては引退した黄川田氏が次回の総選挙で再出馬というのも無理がある話でしょうから、政治の舞台で他に黄川田氏に活躍の場を提供することが難しい(私には思い当たりません)以上、知事選こそ黄川田氏の登場の舞台として最も相応しいことは、階議員も十分に理解されているのではないでしょうか。

階議員の人柄からも、ご自身の保身を黄川田氏の活躍(花道)に優先させるような方ではないでしょうから、現在の岩手政界の沈黙は、黄川田氏の知事選擁立に向けた「嵐の前の静けさ」と期待したいところです。

それこそ、黄川田氏の出馬会見に同席した階議員が達増知事に向かって「知事としての仕事はもう十分なさいました。あとは、総選挙で私と決着を付けましょう」くらいのことを仰っていただければ、男気という表現が当てはまるか分かりませんが、ある意味、しびれるような気がします。

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ところで、達増知事であれ黄川田氏であれどなたであれ、次の岩手県知事になる方には、ぜひとも考えていただきたい政策があります。

先日、カラ相談こと誰もこない振興局相談の担当で宮古に赴いた際、山田町に向かう海沿いの道路をドライブして唖然としたのですが、宮古市南部の海沿いの道路に沿って、巨大防潮堤が長城のように完成しており、無機質なコンクリートの壁が延々と続く姿は、まさに収容所群島そのものという光景でした。

数年前、法テラス気仙(大船渡)の相談担当をしていた最後の時期にも、そうした刑務所のような光景を目にして残念に感じていたのですが、こちらの方が遙かにスケールが巨大で、こんな場所にいたくない、一刻も早く通り過ぎてしまいたいと思わずにいられませんでした。

かつて、そこには、のどかで相応に美しい海岸の風景があっただけに、なおのこと、悲しさが募りました。

もちろん、防潮堤は嫌がらせのため作られたのではなく、そこで多くの人命や財産などが失われたことの証でしょうし、そこに暮らしている方々(防潮堤の内側たる道路沿いに、幾つかの人家なども拝見しています)には、命の危険に脅えずに済む暮らしの方が遙かに大事なのでしょうから、安易に防潮堤を否定したいわけではありません。

しかし、この光景が未来永劫続くのだとすれば、それは、どう考えても恥じ入るべきというか、大地への冒涜であると共に、三陸の「海と人が交わる誇りある暮らし」を続けてきた先人や子孫にも申し訳がないのでは、と思わざるを得ませんでした。

何より、あんな空間で生活を余儀なくされる人々、とりわけ子供がかわいそうだと思わずにはいられません。

やはり、たとえ困難な道であっても、刑務所或いはベルリンの壁のような防潮堤に頼るのではなく、50年、100年かかっても、海沿いには基本的に居住せず、業務等のため(津波が来れば待避できる形で)海沿いを利用するとの前提で、高台移転などを実施し、その上で、醜悪な防潮堤は全てぶっ壊すことが、震災後の時代を生きる現代岩手人には求められているのでは?と思わざるを得ませんでした。

ですので、次の知事には、「いずれ必ず防潮堤をぶっ壊す、ぶっ壊しても大丈夫な三陸をつくる!」と叫んでいただきたいと願ってやみません。

そうしたことを含め、今、議論されるべき多くの論点があるはずなのに、我々現役世代の大人達を筆頭に、日々の仕事や生活に追われているのか遊び呆けているのか分かりませんが、問題とすべきことを問題とせず、誰かが何かやってくれるさといった風潮が蔓延しているのが今の岩手の実情なのでは、などと偉そうなことを呟いてみたりもします。

そんな岩手をぶっ壊す、と叫んでくれるリーダーの登場を待ち望むこともまた、無責任な他力本願の極みなのかもしれませんが。

殺傷事件から考える、ひきこもり問題の解決のあり方

川崎市の無差別殺傷事件で、犯行中に自殺したとみられる被疑者(犯人)が長期のひきこもり状態だったとのニュースが取り上げられていますが、私も以前、長期間のひきこもり問題を抱えていた方に関する傷害事件に携わったことがあります。

詳細は差し控えますが(無差別系の事件ではありません)、他者と社会生活上の関係を築くことができない状態が長く続くと、家族など周囲の方を含め、残念な悪循環が様々な形で生まれる一方、破局的な事件が生じるまで第三者が解決に関与しない展開になりがちであることは確かだと思われます。

それだけに、早い段階で本人を「陽の当たる場所、暖かいと感じることができる場所」に連れ出し、その人なりの居場所や生きがいを社会内に見出すことができる程度に心を温める営みが、公的機関など第三者の関与のもとで行われるのが望ましいでしょうが、私の知る限り、そのような制度や営みなどというのは、ほぼ聞いたことがありません。

私が関与した事件でも、行政その他が自宅訪問その他の関与を行ったという話は全くなく、私が関わった後も、第三者の関与・支援という話は、限定的なものに止まりました。

また、私の関与(の原因となった件)を機にご本人を心療内科などの医師に診て貰った方がよいのではとご家族にお願いしましたが、医師からは治療対象ではなく来る必要はないと言われたとのことで、ひきこもり問題には、医療以外のアプローチが必要となる方も多いのかもしれません。

少なくとも私が関与した事件では、就労や人間関係の構築のトレーニングができる通所施設(サービス)のようなものを本人が早期に利用できれば、その後に深刻な対人トラブルを生じさせることもなかったのでは(簡単ではないにせよ、ご本人は、社会適応が全くできないタイプの人ではない)と感じる面はありました。

いわゆる池田小事件を契機に心神喪失者等医療観察法が制定された(と言われる)ように、あまりにも犠牲の大きい今回の件を機に「支援法」に止まらない一定の強制措置も伴う「ひきこもり対策法」制定の動きが生じるかもしれないと感じていますが、幾つかのネット記事などで言及されているように、当事者にとって北風ではなく太陽となりうる施策を図っていただければと思っています。

この仕事の性質上、「その後」に全く関わっていませんので、あの方々は、今、どうなっているのか、どのような思いでこのニュースを眺めているのか、ふと思ったりしました。

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と、FBに書いて投稿したところ、他の方から、秋田県藤里町の取組みをご紹介いただきました。
http://fujisato-shakyo.jp/hikikomori

今回の事件のように暴力性向が進んでしまったように見受けられる方だと、若い頃に適切なフォローができないと現時点での対処に難しい面が伴うとは思いますが、ご本人に社会復帰の意思が十分あるケース(大半はそうだと思いますが)なら、藤里町が行っているような取組で、一定の成果を上げることができそうな気がします。

藤里町の現在も含め、健全な方向で議論や取組が深められることを願っています。

また、問題を抱えた方とのコミュニケーションに奮闘した経験をお持ちの方から、厳しいご意見もいただきましたが、すでに社会現象化して久しい状態を放置してよいのかという問題はあり、とりあえず、ちょっとだけでも太陽のもとに多少無理にでも引っ張り出してくる制度(担い手)は、あってよいのではと思っています。

少なくとも、限られた人間との不自然なコミュニケーションだけが続くのは望ましいことではなく、子供についてしばしば言われるように「家族以外の良識ある多くの他者と接触する機会」を持たせることが望ましいと思います。

言動が不安定で暴力リスクを感じる方をどこかに長期隔離するようなものは、昔に保安処分制度という形で散々議論されたように賛成できるものではありませんが、通所的なものなら、精神科の保護入院制度のように、親族などの希望に応じて、ある程度の(緩やかな?)義務づけはあってもよいのではと思ったりもします。

もちろん、そのためには、なるべく平穏に家から連れ出す必要があり、暴力リスクのある方だと最後は警察云々の出番になるかもしれませんが、可能であれば、民間(地元)の屈強かつ良識ある有志による説得、といったような営みがあれば有り難いのでは、と感じています。

ひきこもり支援(就労対策など)を民間の「善意」に丸投げするようなことになってしまうと、良心的な支援者が本人の職場放棄や社内トラブルなどを抱えて疲弊したり、中には搾取などの問題が生じることもあるでしょうから、担い手支援や公的関与など透明性の確保を図る工夫が必要かとは思いますが、そうしたことも視野に入れて、取り組みや制度が深化するのを願っています。

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余談ながら、川崎市の事件では、被疑者が家庭環境に恵まれず養育先となった家庭で自身が公立小学校、養育先の同世代のお子さんが標的となった小学校に進学したとのことで、そのことが犯行動機に影響している(要は、不遇な少年時代の代償を求める趣旨で、その小学校の通学児童を標的に選んだ)のではないかと推測されるものとなっています。

この仕事をしていると、犯罪行為に及ぶ人の中には、長期に亘り不遇な日々を余儀なくされた方が、まるでその日常ないし人生の代償(いわば、その人にとっての「ハレの日」)を求めるような形で、たまたま社会の隙を見つけたときに犯罪に流されてしまうという光景を垣間見ることがあります(私が刑事弁護人として関わったのは、主として、凶悪な殺傷ではなく窃盗絡みの事件ですが)。

ですので、社会が許容・容認或いは(可能なら)歓迎できる形で、不遇感を余儀なくされる日々を過ごした(過ごしている)方に、人々に迷惑を掛けないまっとうな形での「ハレの日」(一部の成人式のように、人によっては多少の違和感や見苦しさなどがあったとしても、そうしたものへの寛容さを含めて)を提供できるように、社会側に様々な工夫や努力が求められるのではと思っています。