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シンガポール

米朝首脳会談にふさわしい「日英の良心が遺したシンガポールの聖地」

6月12日に行われた米朝首脳会談の際、両国首脳がそれぞれ宿泊したホテルのすぐ近くに、世界遺産・シンガポール植物園があります。

かつて、大日本帝国軍がシンガポールを精強な英国軍から電撃的に占領した直後、突如、この島に二戸出身(旧制盛岡中学卒)の田中舘秀三・東北帝大教授が現れ、英国人の研究者らと協力して植物園や博物館などの貴重な学術資産を戦災の混乱から守ったという逸話を、1年半前にブログ等で紹介させていただきました。

植物園のシンボルであるバンドスタンドとその一帯は、今も、英国庭園の面影を残したまま、同国有数の「結婚記念写真スポット」として人気を博しています。

可能なら首脳会談はこのバンドスタンドで行っていただければ、戦争に依らずに物事を解決するとのメッセージを、より世界に伝えることができたかもしれません。

安倍首相の側近にもこのような演出を勧める人材がいればよいのになどと、余計なことを思ったりもします。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

と当時、戯れに一首作ってみましたが、世界中の国家指導者の中で今最もその言葉が向けられるべき2人がこの島で出会いの場を得たということに、少し不思議なものを感じてしまいます。

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第10回 映画化の実現構想と賛同者の募集について

今回は、これまで延々と述べてきた「あらすじ案」(を参考にした本職の方の原作や脚本など)を、どうすれば本当に映画化できるのかという観点で、思いつきレベルのことを少し書きたいと思います。

もちろん私自身には映画化できるだけの小説や脚本を作る力も実現する力もありませんので、やはり本職の方にこの物語に関心を持っていただき、映画の作り手達の目に耐えるだけのものを作っていただくほかありません。

というわけで、(FBを通じて)「このブログを読んで下さる可能性があり、かつ業界人との繋がりのある方」に、何かの機会に伝えていただくことをお願いする以外には思いつく方法がありませんので(自ら賛同者を募り団体を設立して運動云々などという「オルグする能力」は私には全くありません)、思いつくまま私の個人的な人脈を生かした幾つかのルートを考えてみました。

勝手に名前を出された皆さんは、お気を悪くなさらないようお願いします。なお、順番は「私が思いついた順」です。

①肴町の若大将ことSMさんを通じて、盛岡が輩出した作家・斎藤純氏や高橋克彦氏に小説版を依頼→高橋氏の強力な知名度を生かして映画化に持ち込む。

→高橋氏が、「天を衝く」に続く二戸人小説第2弾の執筆に意欲を燃やしていただけるのなら、一挙に話が進むか?とりあえず、今回のシナリオ案を「街もりおか」に連載させて貰うようお願いするところからスタートし、映画化が無理でも盛岡・二戸合同文士劇上演を目指すか?

②日頃お世話になっている司法書士のF先生や先生と同世代のJC人脈の方々を通じて、盛岡が輩出した映画人・大友啓史監督に依頼し、映画化に持ち込む。

→大友監督が、「旧制盛岡中学出身の知られざる傑物を主人公にした作品を撮りたい!」という意欲を燃やしていただけるのなら、一挙に話が進むか?

③司法研修所の同級生である現役作家・H坂先生に小説版を依頼→H坂先生の強力な知名度を生かして映画化に持ち込む。

→できあがったものが、なぜかハードボイルド法廷ミステリーサスペンスに入れ替わっているリスクあり?ともあれ、H坂君ことH坂先生が「ミステリー系だけでなく大戦を舞台にした歴史ロマン小説も作りたい」との意欲を燃やしていただけるのなら、一挙に話が進むか?

④司法研修所の同級生であるOさんを通じ、九戸政実(九戸戦役)を描いた「冬を待つ城」の著者である作家・安部龍太郎氏に小説版を依頼→安部氏の強力な知名度を生かして映画化に持ち込む。

→安部氏が「冬を待つ城」に続く二戸人小説第2弾の執筆に意欲を燃やしていただけるのなら、一挙に話が進むか?

⑤函館ラ・サールの同期生で、映画産業などにも従事する実業家弁護士・Y君に頼んで、本企画に賛同する大物映画人を探して貰い、映画化に持ち込む。

→Y君人脈を通じて、吉田松陰こと伊勢谷友介氏に売り込むことができれば、松下村塾組と二戸との知られざる繋がりで共感を獲得し一挙に話が進むか?ただ、秀三博士の当時の年齢からすれば、伊勢谷氏が主役になるのは無理があるのが難点かも(辻参謀役はマズいでしょうし)。

⑥盛岡JCのOB先輩を代表する女性起業家にして「あまちゃんツアー」などを通じて「のん」こと能年氏又はその関係者に人脈がある?TMさんを通じ、「のん」氏を主役(千代)に抜擢することを前提としたシナリオ案を「この世界の片隅に」の制作陣など関係者に売り込む。

→監督さんなどに「大戦を舞台とする泣ける物語をもう一度作りたい」とのお考えがあれば熱意が通じるかも。特に「光と影をきちんと描く」との観点から華人虐殺は必ず触れるべき話だが、実写化は悩ましい面があるので、アニメ併用とする作り方などもあってよいのでは。

⑦「街の本屋」業界の雄・さわや書店盛岡フェザン店など市内の書店に本企画を持ち込み、まずは前回紹介したコーナー博士の本の復刊本をシンガポール紀伊國屋書店から大量購入していただき、荒俣氏本や戸川氏本(復刊可能?)と共に秀三博士フェアを行うなどして話題として盛り上げ、最終的に同店などの人脈を通じて原作小説→映画化に持ち込む。

→この路線だと長期戦は必至かもしれませんが、のんこと能年氏を現代パートの主役で抜擢するなら多少遅くなっても大丈夫でしょう。

⑧その他(アイディア随時募集中)

と、思いつくままに私個人のツテで映画化(や小説化)が実現できるかもしれないルートをあれこれ考えてみました。もちろん、私にとっては、秀三博士の物語の映画化(による顕彰)が実現できればそれでよく、そうした意味では「早い者勝ち」だと思っていますので、関心を持っていただいた方は、それ以外のルートも含め、ぜひこの企画をしかるべき業界人の方に売り込んでいただければ幸いです。

まあ、こんなことを延々と書いていても、家族から「寝言と駄文の暇があれば家庭内労働に精励せよ」との上官命令が来るだけというのが、私の恥ずかしい現実ですが。

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第9回 元ネタ(参考文献)のご紹介

秀三博士の足跡に基づく「映画あらすじ案」に関する補足説明(前回は「あとがき」)の続きとして、この物語が詳細に述べられている文献を紹介します。

今回の「あらすじ案」は帰国直後に博士について触れたブログを検索して拝見した記事の幾つかをもとに一気に書いたもので、後記の文献を拝見したのはシナリオを考えた後になります。

参考にさせていただいた個人の方のブログ記事は多数ありますが、ここでは少しだけ紹介させていただきます。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm
http://ameblo.jp/kakek/entry-10796147545.html

あらすじ案を書いているうちに、やはりブログ記事で引用されている下記の文献群を確認すべきと考え、先般、アマゾンで注文して購入しました。文献を読んで少し修正した部分もありますが、余力の関係で放置した部分もそれなりにあり、多少の「(文献記載の)史実」とのズレはご容赦をお願いします。

●E・J・H・コーナー「思い出の昭南博物館~占領下シンガポールと徳川候」中公新書 昭和57年刊 
https://www.asiax.biz/life/7498/

あらすじ案にも登場するコーナー博士が戦争から20年後に自ら執筆し、日本でも翻訳され出版されたもので、今回のテーマを学びたい方は真っ先に読むべき基本文献です。

身柄の安全が微塵も保証されていない、無条件降伏直後の敗残国の植物学者としての著者が、文化・学術資産の保護のため身の危険を顧みずにほとんど単身で立ち上がり、「昭南の奇跡」を支えた秀三博士や徳川侯爵らとの交流で実体験した事実を、日本占領の明暗を余すところなく格調ある文章で詳細に伝え、博士や侯爵らの功績を讃えたものです。

敗れた国(栄光ある大英帝国)の者の悔しさを語ったくだりなども含め、多くの点で心揺さぶらながら読むことができる、必見の一冊ですが、残念ながら現在は絶版らしく、アマゾン(古本)でしか手に入りません。

ただ、最近になってシンガポール紀伊國屋書店で復刊したそうで、同国内では復刻版が手に入るようです。が、私がネット注文しようとしたところ、海外搬送はしてませんとのことでしたので、「古本じゃなく綺麗な本を読みたい」という方は、シンガポールで購入するか、紀伊國屋書店に交渉するなどしていただければと思います。
https://www.asiax.biz/life/39075/

また、盛岡市内や二戸市内の書店の方々におかれては、ぜひ、シンガポール紀伊國屋書店からまとめ買いして、次の荒俣氏の本などと一緒に並べて「田中舘秀三フェア」と題して店頭販売していただきたいものです。

●荒俣宏「大東亜科学奇譚」ちくま文庫 平成8年刊(文庫版)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480032065/

日本近代(明治~大戦期)に科学の分野でユニークな業績を残した異形の奇人変人たちを紹介した本で、その中の一角に「昭南の奇跡」として秀三博士や徳川候爵などの活躍が記されています。

コーナー博士の著作以上に秀三博士の経歴などを詳細に説明しており、荒俣氏の博覧強記と徹底した調査ぶりに驚かされます(経歴を述べた箇所は、二戸や旧制盛岡中学にある程度は詳しくないとついて行けないハイレベルな知識のオンパレードになっています)。

また、本書で描かれている秀三博士の人物像は「風変わりな聖者」とでも言うべきコーナー博士の描く秀三像とは異なるもので、「あとがき」で記載したような壮大な野望を実行せんとした山師(怪人)のような様相を感じさせます。

これがまた独特の説得力があり、ぜひご覧いただきたい一作と言えます。

特に、秀三博士の経歴を見ると、世界的物理学者・愛橘博士の女婿(養子)というだけでなく、戦前の新聞で「日本一の同窓会」と謳われた旧制盛岡中学の全盛期の人材群(陸海軍の大将、衆院議長、著名企業(鹿島建設など)の社長、金田一京助、野村胡堂や石川啄木など愛橘博士のwikiに表示された「謝恩会の写真」を参照と同年代でもあり、他方で、東京帝大の出でありながら個性の強い性格が災いしてか?国際的には火山学などで活躍しつつも国内での出世(教授など)が遅れていたように見えます。

ですので、シンガポールの陥落に際し、自分が同窓のライバル達に負けない大きな物事を成し遂げる千載一遇のチャンスとの思いもあったのではと感じずにはいられないものがあります(荒又氏によれば、秀三博士は東北帝大法文学部で地政学=政・経・軍の基礎学問を教えていたのだそうで、なおのこと内に秘めた理想や野心を感じさせる面はあります)。

また、本書に掲載されている晩年期?の秀三博士のドアップ写真でも、大きな目を見開きながら茶目っ気と共に不敵な笑みを見せている様子があり、そうした人物像を印象づけるものとなっています(コーナー博士の著作では秀三博士に関しては小さな集合写真が1枚あるのみで、昭南島物語には写真が掲載されていません)。

●戸川幸夫「昭南島物語(上・下)」読売新聞社 平成2年刊
http://d.hatena.ne.jp/kmtbrmtnb/20041029

コーナー博士の著作に触発された筆者(当時は毎日新聞の記者で後年に小説家・児童文学作家)が、自身の従軍記者としての赴任経験も踏まえて日本軍によるシンガポールの占領時代を総合的に調査し、英軍降伏はもちろん秀三博士らによる学術資産・文化財の保護や華人虐殺などを含む様々なエピソードを詳細に説明しており、冒頭の2作品を補充すると共に「昭南島」時代の全貌を知る資料として、参照価値の高い作品だと思います。

なお、秀三博士についてさらに知りたい方のために「田中舘秀三 業績と追憶」という追悼論文集が出版されているのですが、さすがに古本だと相当に高額のようですので購入は諦めました。

岩手県立図書館に収蔵されているなら閲覧したいと思ったのですが、けしからんことに、岩手県、盛岡市、二戸市のいずれの図書館にも収蔵されていないようです。
http://157.1.42.1/ncid/BN02478818

地元出身の偉人に関する基本文献ですので、これら図書館には予算を獲得していただくなどして、古本の入手に努めていただきたいところです。せめて、岩手県内に1冊くらいは置くべきだと思いますので、同じ思いを共有いただいた方は、県や両市の関係者に働きかけていただければ幸いです。

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(H29.5追記)

上記の追悼論文集は、前記のとおり、1月にネットで調べたときは、岩手県の図書館に収蔵されていないのものと認識したのですが、5月に盛岡北RCのIさんから県立図書館に収蔵されていると教えていただき、先日、借りてざっと読みました(岩手では同図書館のみ)。

よって、次のとおり修正・加筆します。

●田中舘秀三業績刊行会「田中舘秀三 業績と追憶」 昭和50年刊

秀三博士と懇意にしていた学者さん達(山口弥一郎・創価大教授等)が中心になって出版した論文集で、博士自身が執筆した論文群と、シンガポールでの出来事を述べたエッセイである「南方文化施設の接収」、学者さん達による追悼文などで構成されています。火山学などの専門性の強い論文集なので、古本だと相当に高額であり、図書館で閲覧していただければと思います。

「南方文化施設の接収」は博士自身がシンガポールでの経験を綴ったもので、参照価値の高いものですが、若干の落丁があり、肝心?なコーナー博士との邂逅を書いたページなどが欠落しているのが残念です(印刷前の原文自体の散逸でしょうか)。

ところで、本書はコーナー博士の著作(中公新書)よりも7年前に刊行されているため、コーナー博士のことは(上記エッセイを別とすれば)一言も触れていませんし、英国人やシンガポール人などが寄稿しているわけでもありません。また、コーナー博士の著作にも、あとがきなどを含め、本書のことは一切触れられておらず、訳者の方の目に触れる機会が無かったのかもしれません。

現代で両者が同時期に出版された場合、双方の著者らが互いに博士を語り合うような企画などがあり得たのではと思われ、その点は残念に感じます。

ただ、本書で多くの方々により語られる博士の実像は、コーナー博士の描く「美しすぎる博士像」と荒俣氏が語る「山師のような博士像」を接ぎ木して博士の全体像を理解するのに大いに役立つもので、博士に関心を抱いた方は、ぜひご覧いただいてよいと思われます。

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(H30.1追記)

先ほど、匿名希望の方から当事務所宛てに、「『南方文化施設の接収』は『業績と追憶』掲載版では一部欠部があるらしいですが、(下記のサイトからリンクしている)国立国会図書館の電子文書では全文閲覧できると思います」とのメールをいただきました。

また、その方が執筆されたという下記のサイト(非常に詳細・網羅的な解説になっています)を紹介いただいたので、こちらでも引用させていただきます(ユアペディアというサイト自体も含め、今回初めて知りました)。
https://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A4%A8%E7%A7%80%E4%B8%89

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第8回 あとがき

前回まで「秀三博士の足跡を今、映画化した場合に想定されるシナリオ案」を6回に分けて連載してきました。すべてご覧いただいた皆さんには御礼申し上げます。

今回は「あとがき」を少し書き、次回に参考文献、その次に映画化に関する賛同者募集、最後に私自身のことについて少し書きますので、最後までお付き合いのほどお願いします。

ラストシーンを世界遺産登録の記念式典としたかったこと、博士の顕彰に留めずに現代の日本人とシンガポール人が良好な関係を築く姿も描きたかったことから、「男たちの大和」などを真似して現代編を追加したのですが(「永遠のゼロ」も現代編から始まると聞いていますが、映画も小説も見たことがありません)、現代パートは要らないとか、史実とかなりズレてるとか、色々とご批判はあろうかと思います。

もちろん、「元ネタ」であるコーナー博士の著作には、秀三博士がリー・クアンユー首相と接点があったなどという記載はありませんし(さすがにないでしょう)、本編の「ヤン」のような華人と深い交流を持ったとの話も出てきません。

当然ながら、秀三博士と辻政信・陸軍参謀の対決などという話も、史実とは乖離していると言わざるを得ないでしょう。もちろん、彼らの立場の相違などからは実際にあってもおかしくない話であり、大河ドラマ感覚で言えば許容範囲の脚色だとは思っていますが。

そうした点も含め、あくまで本職の方(作家さんや映画の脚本家など)に博士の物語について手っ取り早く関心を持っていただくための「叩き台の叩き台」に過ぎませんので、「こう書いた方が面白くなる」といった建設的なご意見(他のシナリオ案)がありましたら、ぜひお願いします。

現代パートを割愛するのであれば、端的に、コーナー博士の著作(次回に紹介します)を原作として脚本化するというのも一つの選択肢だとは思います。

ただ、その場合「コーナー博士の視点で秀三博士ら日本人学者や徳川侯爵らの尽力を描く」というも物語になりますが(著書によれば徳川侯爵は今回のあらすじ案のイメージよりもっと早い段階で登場しています)、侯爵ら他の日本人にも相応の力点を置かざるを得ず、「秀三博士の物語」として構成するのが困難になるという問題があります。

また、それ以上の難点として、コーナー博士を起点とする物語だと「旧支配者(英国人)と新支配者(日本人)との交流の物語」になってしまい、華人をはじめとする現地住民らの視点がぼやけてしまいます。

映画を作るなら「現代のシンガポールに継承され国民統合のシンボルの一つにもなっている学術資産・文化財に対する日本との特別な絆の再確認」という形にするのが、現代日本人(及びシンガポール人)向けの映画を作る上では最善と思いますが、コーナー博士の著書のままの物語だと、そのコンセプトに沿ったシナリオを作るのは難しいと考えます。

このような観点から、現代パートを設けた上で、シンガポール侵略による最大の被害者であり建国の立役者となった華人達の中から架空?の「準主役」をもうけるべきだと考えたというのが、私のシナリオ案ということになります。

ただ、せっかく現代編を設けるなら、より社会的なメッセージ性の強い展開を考えるべきなのかもしれず、その辺はプロの方にお願いしたいところです。

また、今回のシナリオ案は、比較的、善良なイメージで博士を構築していますが、次回で紹介する荒俣氏の著作では、博士の姿を学問への真摯さと共に、奇人変人かつ特殊な野心(軍などの干渉を廃した、戦前の理化学研究所のような学者達のユートピア、さらには軍とは異なる別種の「大東亜共栄圏」を自らの政治的手腕で作ろうとしたというもの?)を抱いた山師であるとして描かれています。

そのような見方にも大いに共感する面があるだけに、博士の異形さにもっと焦点をあてたシナリオも考えてよいのではと思います。

いっそ、辻参謀も単純な悪役として描かずに彼なりの大東亜の夢を追い求める姿も示し、辻参謀と秀三博士の2つの理想が対決するような場面に焦点を当てれば、面白みが増すのかもしれません(しかし、彼が主導した華人大虐殺という巨罪も、決して忘れてはいけません)。

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(H29.5追記。博士の敬称について)

ところで、この「あらすじ案(及びあとがき)」では「秀三博士」という呼称で統一していますが、冒頭で述べたとおり、これは厳密には正しくないかもしれません。

というのは、博士号(現在は大学院卒で当然に取得されますが、戦前は「末は博士か大臣か」の言葉に象徴されるとおり、帝国大学の一部の教授にしか授与されず大臣なみに稀少なものです)を授与されたわけではないからです。

コーナー博士の著作(中公新書)で「田中舘教授」と表示されているのは、そのためだと思われますが、博士が実際に「教授」に就任したのはごく短期間であり、本件当時の肩書「講師」ですので、これ(教授)も便宜的な表現だと思います(後記の「業績と追憶」は「先生」で統一し「博士」は一切用いられません)。

ただ「先生」はあまりに一般化した敬称ですし、現代人の感覚からすれば正式名称としての「博士(はくし)」はともかく、学術面で高い業績を収めた人=賢者を顕彰する一般的な敬称としての「博士(はかせ)」が、秀三先生には相応しいと感じ、一連の文章では、これで統一させていただきました(「東方の三博士」などと同じ用語法としてご理解願います)。

或いは、敬称のあり方すら一筋縄でいかない点も、博士の天衣無縫さを示すのかもしれません。

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第7回 あらすじ案⑥現代編2(終章)~そして花々は今も咲き続ける

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の最終回です。

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そして、物話は現代に戻る。

現代の当事者である「孫のヤン」は、ここまで描かれたような詳細な話ではなく、自分が父を経由して断片的に聞いていた話を千代に説明した。

千代は、子供の頃に二戸出身である父が田中舘愛橘博士の話を矢鱈にしていた上、中学校の修学旅行で昭和新山や有珠山などに行ったことから、田中舘秀三博士が昭和新山の名付け親だということを知っていた。秀三博士がシンガポールの植物園や博物館を守ったという話は初めて知ったが、違和感なく了解できる話だった。

千代がヤンから見せられた3人の男を描いた線画の裏には、次の言葉が付されていた。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ
万国の民が集いし島に建つ 新しき世を目を閉じて見る

千代は、改めて、この会社(出向先の顧問企業)、そしてシンガポールの役に立ちたいと強く思った。そして、ヤンに、敵対的買収からこの会社を守りたい、自分にも手伝わせて欲しいと頼んだ。

ヤンは、先日、千代が提出したレポートを取り出し、評価できる点、的外れな部分などを講評した上で、今この闘いが直面している論点の幾つかについて説明した。

事務所に泊まり込み、大量の書類や文献などに埋もれながら解決について悩む千代。すると、この事件が日本で裁判に持ち込まれた場合、相手企業にとって、ある大きな手続上の問題が発生することに、日本での最近の判例や議論などを通じて気づいた。

ただ、この事件で適用される法律(準拠法)がどこの国のものになるのか、また、その国の法律や判例などでは敵対的買収に対し同じ制約が生じることになるのか、そこまで(特に後者)は千代にも分からない。

ともあれ、千代がそのことをヤンに報告すると、ヤンはその話が今回の件でも通用すると述べて、近日中に予定されている相手企業及び代理人との交渉に、千代も同行するようにと告げた。

そして交渉当日。圧倒的に有利な状況を作って得意満面の相手方陣営に対し、ヤンが針の一刺しのように千代が指摘した問題を指摘し千代も補足説明したところ、相手方陣営は狼狽し、その場は一旦解散となった。恐らく、当方の全面勝利は無理でも、悪くても痛み分けに止まる形での解決は期待できるだろう。

その後、千代は、ヤンの理解・支援のもと、出向先の社内で多くの良質な経験に恵まれた。シンガポール有数の法律事務所とも幾つか関わりを持ち、移籍を誘われたこともあった。

そして帰国。見送りの空港で、ヤンは、あのときに千代に見せた水彩画と鉛筆画を、盛岡の街を描いた1枚の絵だけを除いて千代に手渡した。

これらを生かすには、自分が持っているよりも君が持った方が良さそうだ。ただ、盛岡を描いた1枚は君の故郷でもあるので記念に残しておきたい、と。

帰国した千代を待っていたトーマスは、出向を命じた理由を説明した。一つは、事務所が来年にもアジアの中心拠点としてシンガポール支店の設置を予定しており、その下準備として若い弁護士を派遣して現地の業務に精通させると共に重要顧客である顧問先と強固な信頼関係を築くこと、もう一つは、千代の採用にも関わっていたトーマスが千代を選んだ特別の事情と、その証となる1枚の絵だった。

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物語は2015年にシンガポール植物園が世界遺産登録され、園内で記念式典が行われたところで幕を閉じる。

リー・シェンロン(李顯龍)首相は、ステージ上から居並ぶ要人・招待客たちに向けて登録の意義を語りつつ、次のように述べた。

この植物園はシンガポールの創設者・ラッフルズ卿が開設し、我国の独立後は国家と国民の力により守り育ててきたものである。そこに至るまでには、この植物園が戦争の被害により消滅する危機に直面したこともあった。

しかし、その際、身の危険を顧みず自身の利益を求めることもなく、この植物園をはじめシンガポールの多くの学術資産や文化財がアジア、そして世界人類にとってかけがえのない宝であり、後世に引き継がれるべきであるという純粋な思いから守り抜いた人々がいたことを、世界遺産登録という輝かしい時を迎えるにあたり、すべてのシンガポール人、そして人類全体が銘記すべきである・・・

シェンロン首相の視線の先には、千代の姿があった。

出向を終えて帰国した千代は、ヤンから聞いた話をもとに、自分なりにシンガポールの歴史や大戦時の出来事、秀三らの活躍などを勉強し、自分の経験も交えて秀三の物語を出版したところベストセラーになった。そして、ほどなくシンガポールにも伝わり、「植物園を守った恩人に縁のある者」として、世界遺産登録にあたり、この式典に招かれていたのだ。

千代の隣にはヤンがいた。

ヤンの祖父の戦後の苦闘なども千代の著作を通じてシンガポール国民に知られ、緩やかながらも民主化や国民の自由の拡大を進めるシェンロン首相の方針もあって再評価されるところとなり、政府からヤンも特別に招かれていたのだ。

スピーチを求められた千代は、シンガポールの人々への感謝を交えつつ、このように語る。

私が生まれ育った盛岡は、「我、太平洋の架け橋にならん」と述べて、世界の平和と人々の相互理解を目指し、国際連盟の事務次長まで務めた偉人を輩出した。

秀三博士と共に、その偉人(新渡戸稲造博士)を尊敬する自分も、ささやかながらでも、日本とシンガポール、アジア、ひいては世界全体の人々をつなぐ一人になれるよう、今後も努めていきたい、と。

式典の後のパーティの場で、リー・シェンロン首相が千代に「いいスピーチでしたね。ご存知だと思いますが、私の父も、もとは弁護士でした。貴方も、ぜひ我が父のように次の時代の日本を支えるような生き方を目指して頑張って下さいね。」と語りかけてきた。

千代は御礼を述べると共に首相に向かって「ご褒美をいただけるのでしたら、一つ、おねだりをさせて下さい」と述べた。

植物園の主要施設であるナショナル・オーキッド・ガーデン(国立ラン園)には世界中の著名人の名を冠した新種のランが展示されていますが、秀三博士の名を冠したランはあるのでしょうか?もし未だに存在しないのでしたら、ぜひ新たなランに博士の名を冠すると共に、末永く博士の顕彰をしていただけないか、と。

首相は少しばつの悪い苦笑を浮かべつつ、すぐに快諾し、世界遺産登録記念に相応しい、美しいランを開発し、秀三博士の名を冠して園内の一番立派なところに飾ろうと答えた。

これに対し千代は、いえ、美しい花も立派な場所に飾ることも博士には似合いません、素朴で目立たず道ばたに咲いているような花、でも、周囲の花々を引き立て風景全体を輝かせるような花、そんな花を開発したときに、ぜひ、博士の名を冠していただければ幸いです、と述べた。

千代が、いまどこで何を目指して生きているのか。そのことは劇中では語られず、皆の想像に委ねられている。(おしまい)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第6回 あらすじ案⑤大戦編4~学ぶ者たちの平等と誇り

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第5回です。

***

秀三がヤンに渡した水彩画は5、6枚ほど。そこには幼少期を過ごした福岡町(現・岩手県二戸市)や旧制中学時代を過ごした盛岡、そして岩手山などの風景が描かれていた。

秀三はヤンに語り続ける。

君も華人なら杜甫の春望は知っているだろう。国破れて山河あり。今、イギリスが築き上げて君臨してきた植民地帝国は負け、間もなく日本も負ける。しかし、山河は残る。

70年前、日本では国家の進路を巡って国を二分する争いがあり、私の故郷はその闘いに負け、多くの人が辛酸を嘗めた。しかし、それを乗り越えて、今や国の舵取りに関わっている者も少なくない。

私も故郷の辛酸を忘れず、また、故郷の美しい風景が心の拠り所だと思って、こうして絵に描いて手元に置いていた。

君たちも、日本の占領による辛酸を乗り越えて、シンガポール人としての郷土愛を育み、アジア、そして世界に大輪の花を咲かせて欲しい。その志を共有する証として、この絵を受け取って欲しい。

秀三は続けて、三人の男を描いた鉛筆画について説明した。その線画は、日本人、アジア人、西洋人と思われる3人の男が談笑する姿を描いたものだった。

お分かりのとおり、これは、私、君、コーナー君を描いたものだ。この絵は、日本人も、イギリス人も、君たちシンガポール人も、皆が対等な関係を築いて仲良くやっていけるという、さほど遠くない未来を描いたものだ。

もちろん、これまで日本人やシンガポール人はイギリス人から多くのことを学んできた。しかし、いずれは逆になるときがくる。学問の前では皆が対等。一生懸命学ぶ者同士が互いに先生だ。ぜひ、そのつもりで君も学問を続けて欲しい。

秀三は、そのように述べた上で、ヤンに自分がこれまでどのようにして植物園や博物館の運営資金を調達したのかを教えた。それは、軍関係者が知れば絶対に許すことができないようなものだった。そして、秀三は続ける。

私が君たちの支援をしていることは、決して誰にも伝えてはいけない。残念ながら戦争が終わった後も、それを日本の社会が理解できるようになるまでは時間がかかり、それまでは、その話は誤った形で伝わり、徳川侯爵をはじめ、この植物園を守ってくれる他の人々にまで迷惑を掛けることもあるかもしれない。

だからこそ、そのことは後任の日本人学者にも伝えてはいけない。君がここ(植物園)に残るなら、抗日活動とは何の関係もない、私とも特別な関わりはない、何も知らない現地スタッフとして振る舞って欲しい。

そのためにも、私がここで成し遂げたことがあれば、それは徳川侯爵や後任の日本人、コーナー君ら英国人学者をはじめ、すべて他の人の手柄にして欲しい。

秀三はそのように告げ、清々しい笑みを浮かべていた。この戦争の題目として掲げられた「八紘一宇」すなわち諸民族の自立と世界の協和。戦争に利用された悲しい言葉。

自分こそが、陛下そして明治日本が目指した本当の「諸民族の自立と世界の協和」のために闘っているとの自負があったのだ。

ヤンは、それに対し「先生の言いたいことは分かりました。しかし、自分はいつの日か先生の真意を社会に伝えます。それが、私の後の世代になったとしても。」と述べた。秀三は何も答えず、静かに微笑むのみであった。

すると、そこにコーナーも現れた。コーナーは「さきほどの話の大半は聞こえていました。水くさいじゃないですか、自分も秘密は守りますから安心して帰国して下さい。ですが、私も本国に戻った後に、必ず先生の功績と変人ぶりだけは書きますよ。」と述べた。

その上で、コーナーは「先生は本当はこの地に止まり、自らの手で、新しいシンガポール、そしてアジアを作りたいのではありませんか?」と尋ねた。

秀三は一瞬ニヤリと不敵な笑みを浮かべつつ、その後、寂しそうな様子を見せながら、私はそんな身の程知らずなことを考えるような人間じゃないよ、まあ、もっと若いうちにここに来ることができれば、別の考えもあったかもしれないが・・・、とだけ語った。

***

徳川侯爵や同行した京大を代表する植物学者・郡場寛教授(青森市出身)らの到着後は秀三は目立つことは極力控え、侯爵や郡場教授らを支えて、まるで昼行灯になったように静かに過ごした。

侯爵や郡場教授らもシンガポールの貴重な文化財を守り植物園や博物館の研究環境を維持するとの志は共有しており、侯爵の資金力や政治力のもと、これまで以上に良好な待遇が得られた英国人学者らもヤンら現地スタッフらも安心して業務を続けることができた。

しかし、侯爵らの到着以来、秀三とヤンは互いに知らん顔をしており、コーナーも研究の補助以外のことでヤンと関わることもなかった。

秀三の出国の日。今も表向きは日本軍の協力者を務めているリーが見送りに来た。

リーは、相変わらず鋭い目をしつつ、ヤンからすべて聞いている、先生のことは忘れないが、先生の頼みだから忘れたことにして頑張る、自分達が新しいシンガポールを作るので安心して帰国して欲しい、日本人はこの地で多くの悪行を重ねたが、先生のような人もいたということは、きっと両国の未来には大切な礎になるだろう、と告げた。

秀三は笑いつつ、リーに、きっと君は、将来のシンガポールを背負って立つ男になるだろう、こんな戦争で命を落とすことがないよう、我が身を大切にして、しっかり勉強して欲しいと告げた。

リーが後のシンガポールの初代首相にして現在の同国を作り上げた大功労者であることは言うまでもない。

日本に戻った秀三は、その後はシンガポールとは何の関わりも持たずに、本業である火山学、地質学の研究活動などに従事しつつ、癌のため67歳で死去した。昭和新山を世に知らしめた三松正夫を支援しその功績を世界に広めたことが、秀三の最後の仕事となった。

コーナー博士はその後も日本人学者らと共に現地で研究を続け、日本軍の降伏時には、英国軍に拘束された郡場教授らの釈放を嘆願するなど、日本人学者らとの友情は一貫して続いた。

帰国後はキノコ類の研究などで世界的権威に上り詰めたが、昭南島での経験を世に伝えるべきとの使命感から、しばしの時を経て秀三や徳川侯爵らの功績を顕彰した書籍を出版し、日本でも翻訳、紹介された。ただ、秀三がヤンたち抗日華人の支援をしていたことは伏せておいた。

ヤンは秀三の帰国後も植物園のスタッフとして従事しつつ目立たないように抗日運動への関わりも続けていた。

日本の敗戦後、リーに協力しシンガポールの国作りのための政治運動にも身を投じたが、多民族国家であるシンガポールにおいて、諸民族の自立と個人の自由を強く唱えたヤンは、強力な指導者による規律と統制を重視するリーと対立するようになり、リーの他の政敵との争いに巻き込まれるような形で政府に身柄を拘束され、社会の表舞台からは姿を消した。その後、植物研究を生かした薬学などの世界に身を投じたが、病を得て失意のうちに60歳ほどで世を去った。

ヤンが秀三から受け取った水彩画や鉛筆画は、ヤンの子や孫に引き継がれた。秀三と過ごした物語と共に。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第5回 あらすじ案④大戦編3~引継ぎの時

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第4回です。

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間一髪、辻の部下による狙撃は失敗に終わり、秀三は軽傷に止まったが、治療が遅れたことなどが原因で高熱を発し、一時は生命も危ぶまれる事態になった。

そんなとき、ヤンが植物園内に自生していたある植物をもとに薬を煎じて飲ませたところ、熱が一気に引いて、急速に体調が回復した。

その薬草はまだコーナーら英国人学者にも知られておらず、一部の地元民しか知らなかった。ヤンの父は漢方の造詣の深い華人医師で、マレー系の地元民との交流を通じ、その薬草を生かすことを知っていたのだ。

その頃、秀三の負傷を知った山下司令官は「陛下の名代」が軍人に狙撃されたことに狼狽し、黒幕と目される辻を転出させることにした

辻は「そんなのは虚言でしょう。陛下の言葉を偽ることこそ許し難い大罪」と抗議するも、山下は「私は陛下が生物学に造詣が深いことを知っている。田中舘が私心なく文化財などの保全に奔走する姿も見た。だから、私はあの男の言うことを信じる。たとえ、順番が逆だったとしても、だ。」と告げた。

辻は転出が決まり、それと共に華人の弾圧は以前より多少は緩和されるようになった。

他方、軍に遺恨を生じさせた状態を続けるのは秀三の本意でなく、秀三と違って豊富な財力を持ち、危うい方法ではない形で資金提供をして施設や人材の維持ができ、かつ軍と融和できるだけの人物に後任を委ねるべきだと当初から考えていた。

その人物として白羽の矢を立てたのが「虎狩りの殿様」こと尾張徳川家の当主・徳川義親侯爵である。

秀三は、銃撃の少し前に一時帰国した際、義父である貴族院議員・田中舘愛橘(もと東京帝大教授にして、地球物理学の権威であり、日本の物理学の創始者の一人。二戸市出身)に、シンガポールの学術・文化資産の保全を託す政界の大物を動かすことができないかと相談していた。

そして、愛橘博士が推薦したのが、博士と同じ貴族院議員仲間で、ジョホール王国のスルタン(マラッカ海峡の本来の領主)とも懇意にするなどマレー社会への造詣も深いと聞いていた徳川侯爵であり、秀三にとっても意中の人であった。

かくして、秀三は愛橘博士の斡旋で徳川侯爵と面談し、かねてより同じ思いを共有していた侯爵の快諾を得て、あとは侯爵が相応の人材を選抜し派遣するのを待つばかりとなっていた。

やがて、秀三の回復後、侯爵が自ら植物学・博物学の権威である学者らを引き連れてシンガポールに赴任するとの連絡が届いた。

秀三の役割は終わった。シンガポールを去るべきときが来たのだ。また、辻が軍関係者を通じて学会にまで手を回し、秀三をシンガポールから駆逐しようとしているとの噂も秀三には聞こえてきた。これ以上、軍と表だって事を構えるのは得策ではない。

侯爵が到着する直前のある夜、秀三は、植物園内にある執務室のバルコニーにヤンを呼び、ヤンに語りかける。

この戦争は間違いなく負ける。植民地の解放を謳うこと自体は間違っていないが、言っていることとやっていることが全く合っていない。シンガポールでマレー人やインド人を優遇し華人を弾圧しているのも、詰まるところ軍の都合で行っているに過ぎず、植民地の主が入れ替わっただけの話に過ぎない。

こんな状態は長くは続かない。きっと、あと3年もすれば日本は負ける。その際、シンガポールもマレー半島も一旦はイギリスの植民地に戻るかもしれないが、日本に惨めに負けたイギリスにもはや威光はなく、それも長くは続かない。すぐにアジア人の自立の時代が来る。

その上、この街は華人やインド人など移民だらけの特殊な都市で、マレー半島など周辺地域と一緒にやっていくのも難しいだろう。間違いなく、この街の人々が、シンガポール人として自立して国を営んでいかなければならない時が、あっという間に訪れる。

だからこそ、君達は「シンガポール人とは何か、どうして自分達は周辺国から独立・自立し、多民族が力を合わせて国を運営していかなければならないのか」という国家・国民のアイデンティティと統合の問題に直面せざるを得ず、それを解決しなければならない。

この植物園や博物館に保存されている貴重な文化財や学術資産、美しい花々は、間違いなく、その解決に役立つはずだ。日本人学者やコーナー君達が去った後も、君達はこの志を忘れることなくこれらを保全し、国づくりに生かして欲しい。

そう述べて、秀三は、幾つかの水彩画と三人の男を描いた鉛筆画をヤンに渡した。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第4回 あらすじ案③大戦編2~奇跡の楽園と殺意

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第3回です。

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秀三の前に現れた男は、リー・クアンユー(李光耀)と名乗り、日本軍政の協力者として報道や翻訳などの業務に従事していること、自分の友人が過去に植物園で働いており、一旦は仕事を離れていたが、以前の仕事に戻りたいと考えているので雇って欲しいこと、但し、待遇は問わない代わりに、今は怪我をしているので、しばらくは園内の人目に付かない場所で寝泊まりさせて欲しいこと、回復後も目立たない場所で仕事をさせて欲しいことなどを申し出てきた。

秀三は、リーの真意を察し、あえて質問をせず、次のように話した。

自分は愛国者であり、誰よりも天皇陛下を崇敬する者である。しかし、軍の馬鹿どもは、偉大な生物学者であり心から学問と平和を愛する陛下のご心中を理解することなく、愚かな戦争を起こしてアジアの人々と文化・学術資産に多大な迷惑を掛けている。

自分は、シンガポール陥落に伴う戦災の混乱から人類共通の宝である文化財や学術資産を守らなければならぬとの思いで、単身この地にやってきたのだ。だから、この目的を達成するためには、軍の意向に反することを行うことも厭わないし、危ない橋を渡る覚悟も持っている、と。

また、秀三は、今、軍の馬鹿どもによる華人への殺戮の嵐が吹き荒れていることは自分も知っている、間違ったことであることはよく分かっているが、自分にはそれを止める力がなく悔しく思っている、だからせめて、植物園や博物館などを守ることを通じて、できることをしたい、とも告げた。

リーも、秀三の言葉もさることながら、様子から通じるものがあったのだろう。自分は表向きは日本の協力者として従事しつつ、実際は市内の抗日華人を支援する活動に従事していることを明かした。

そして、今、助けを求めている男の名はヤン・タイロン(楊泰隆)といい、もとは植物園のスタッフだったが、降伏前から抗日運動に身を投じて活動し、先日、軍に捕まって拷問を受けていたものの、逃げ出してリーに保護され、匿われているのだという。

秀三はヤンの身柄保護を約束し、日中は身を隠しながら植物園のジャングルなどの管理を担当させて、夜は私設秘書のように自分の話し相手として重宝するようになった。

これは、ヤンに会ってみると、ことのほか植物学や園内・島内の植物への知識が豊富で、シンガポール社会への理解も深く、火山や地質の専門家で植物にはさほど明るくない秀三にとって、英国人学者らに匹敵するほど学ぶところが大きい面があったからだった。

そして、コーナーらにも抗日運動関与の点を伏せつつ、ヤンの植物学への知見を研究に生かして欲しいと説明し、3人の間には民族を超えた友情が芽生えるようになった。秀三の運営も軌道に乗り、秀三が管理する植物園や博物館は圧政下の市内におけるユートピアのような様相を呈しつつあった。

秀三が一時帰国して戻った際に、「コーナー君の著作(東南アジアの植物を紹介したもの。当時の一級資料)を天皇陛下に献上して感謝の言葉を賜った」と説明する出来事もあり、秀三の方針のもと、秀三たち日本人、英国人ら研究者、ヤンら現地スタッフが、ほとんど対等な立場で良好な関係を形成していた。

やがて、リーからは、ヤンに限らず、時折、日本軍の追求(拘束手配)から逃走中の抗日華僑を一時的に匿って欲しいなどの要請が秀三のもとに寄せられるようになり、園内では秀三の了解のもとヤンがその対応をするようになっていた。

その頃、華人への虐殺行為に止まらず様々な抑圧政策を指揮していた辻参謀は、植物園などに不穏な様子があるのではないかと感じていた。端的には、秀三が抗日分子と通じているのではと疑っていたのだ。もちろん、そのような行動は、辻にとって国家への反逆行為に他ならず、絶対に許すべきものではない。

しかし、秀三が、曲がりなりにも山下司令官から辞令を受けた日本人高級官吏という手前、証拠なしに粛清することはできない。一度は、口実を作って園内に踏み込むも、様子を察したヤンの気転と、それに連動して秀三が大東亜のあり方を巡って辻と議論を繰り広げた「時間稼ぎ」で危機を乗り切るということもあった。

やむなく、秀三の素性や来島した経緯などを調査し、派遣元から打ち切らせる方向で画策するようになった辻。すると、焦る辻の様子を察した部下が、独断で秀三の暗殺を目論み、トライショー(人力車)で移動中の秀三を狙撃した。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第3回 あらすじ案②大戦編1~舞い降りた男と英国人学者

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第2回です。

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ここで、物語は太平洋戦争(大東亜戦争、15年戦争などと称される一連の戦争の後半戦)の開始から間もないシンガポールに移る。

1942年2月15日、英国領(植民地)であるシンガポールは、マレー半島に上陸した日本軍(大日本帝国軍)の電撃的な侵攻により敢えなく陥落・無条件降伏。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文中将の、英国軍司令官に対する「イエスかノーか」の決め台詞と相俟って、日本国民は熱狂に酔いしれ、戦争の大義や勝利を疑わない者がほとんどという有様だった。

占領を開始した日本軍は、東南アジア最大級の植民都市であるこの街を「昭和に得た南の島」こと昭南島と名付けて日本の領土とする旨を世界に宣言。いわば、島全体を大英帝国から分捕った戦利品のように扱った。

この敗戦は、チャーチル首相をして「英国軍の歴史上最悪の惨事であり最大の降伏」と言わしめたが、現地では続々と軍人が街の主要拠点を占拠する一方、現地住民や一部の軍人などによる様々な問題行動も生じており、混乱の極みにあった。

また、東南アジア侵攻の作戦計画で辣腕を振るった陸軍参謀・辻政信は、この街の繁栄を支える華僑(華人)が中国戦線の抗日活動を多大に支援し、そのことで日本軍の進撃が滞っているとして、華僑の大規模な摘発・処分(殺戮)を提案し、今まさにそれを実行に移そうとしていた。

ノモンハン事件で関東軍がソ連軍に大敗する原因を作りながらも巧みに責任追及を免れた辻は、そのことを知る一部の軍関係者を見返すため、マレー侵攻と華僑粛清を通じて名誉挽回や自身の影響力拡大、ひいては「日本民族による大東亜共栄圏(アジア・太平洋全体)の建国を成し遂げ、自分がその指導者となる」という野望の実現を求めていたのだ。

そのような中、降伏の3日後にシンガポールに現れた、風采はあがらないものの力強い目をした57歳の日本人学者がいた。現在の二戸市(岩手県二戸郡福岡町)出身で東京帝大卒、当時は東北帝大の講師に過ぎなかった、田中舘秀三である。

秀三は、変わり者の地質・火山学者として業界では知られ、直前までベトナムのサイゴン(ホーチミン)で調査研究活動をしていた。そんな秀三がどうしてやってきたのか、その理由かはよく分からないが、突然、シンガポールに訪れたのだ。

秀三は市内に到着してすぐに、軍の指示で行政を統括する者らが詰めている庁舎を訪問した。秀三は、サイゴンを飛び立つ前に「自分は日本学術会議から派遣されてサイゴンにいたが、シンガポール陥落の際に当地の貴重な学術資産や文化財が毀損されるおそれがあり、これを防ぎ保全すべしとの陛下の意向を受け、当地に派遣されることとなった」との電報を打っていた。

そして、行政担当者と面談して現地の様子を確認したところ、担当者から、「植物園の副園長をしていた英国人学者が植物園や博物館、収蔵品や書籍類などの保護を求めているが、対処できる者が誰もおらず困っていた。早速、引き受けて貰えないか」と頼んできた。

実際、シンガポール植物園や博物館、附属図書館などは、この街を無人に近い孤島からアジア有数の都市に作り替えた大英帝国による、長年に亘る東南アジア全域の学術研究拠点であり、植物園はいわゆる観光施設の類ではなく、自然文化資産の保護・保全に加えてゴム産業を初めとする諸産業の支援なども目的とする研究施設でもあった

そうした実情を以前から知り、すべて任せて欲しいと告げた秀三は、すぐに、本来は拘束されるはずの身ながら「シンガポール総督の特別な要請」として危険を顧みず単身で日本側に嘆願し文化財の保護を求めていた、E・J・H・コーナーという若い気骨ある英国人学者と面談した。

そして、コーナーに対して「私が来たからにはもう大丈夫だ」と告げて不思議な安心感を持たせると共に、混乱に乗じて建物や敷地に侵入してきた現地人を怒鳴って追い出した上、山下司令官にも直談判し、「自分は生物学者でもある天皇陛下の名代として、学術資産や文化財の保護のために派遣されたのだ」と啖呵を切って自分を臨時の館長に任命させ、植物園や博物館など貴重な文物の略奪等は軍民問わず一切を許さず、憲兵の護衛を付けると共に、軍人など日本人もみだりに立ち入らせない旨を確約させた。

但し、施設の維持などは軍(国)から一切の費用は出ず、すべては秀三が自己責任で行うとの条件付きで。

かくして、秀三は、コーナーら同じ志のある関係者と協力し、時には軍人や現地住民らと衝突するリスクなども背負いながら、植物園や博物館、図書館の保全をはじめ他の施設などに遺棄された書籍などを含め、多くの学術資産・文化財の保護に奔走した。

秀三は当初こそ金策に窮していたが、東北の寒村の出身で個人的な資産は微塵もないはずなのに、時折どこからともなく大金を調達し、コーナーら仮釈放させた英国人学者を含む現地スタッフの生活費、さらには文化財や施設の修復、研究費用まで賄うようになった。

もちろん、運営に必要な資金や物資はそれだけで賄えるものではなく、時には、英国人建物などから書籍などを収集、保護した際に食糧を発見し、それで急場を凌いだこともあった。

軍政下の市内では、高級軍人や一部の官吏は支配者気分で贅沢を謳歌していたが、秀三は到着以来、一度も着替えることなくボロ服のままで、コーナーらが恐縮したまには着替えをして欲しいと頼むような有様だった。

他方、秀三らのそうした努力が成果を上げつつある姿のすぐ隣では、日本軍が、ナチスのユダヤ人狩りのように、犠牲者は数千人から数万人とも呼ばれるシンガポール市内の華僑の大規模な連行と虐殺を、流れ作業のような冷酷さで実行していた

シンガポール陥落は日本軍にとっても楽な戦争ではなく、戦術的奇策により兵站が尽きる寸前で降伏に追い込んだ薄氷の勝利であり、直前には華僑義勇軍の激烈な抵抗により多数の戦死者も生じていたことなどから、兵士達の中には報復感情などから蛮行への抵抗感が麻痺していた者も少なからずいたのだ。

そうした光景を何もできずに見て見ぬふりをするしかないコーナーや秀三ら。無辜の犠牲者達の中には日本の侵略前にコーナーが世話になっていた人々もおり、コーナーは憤怒と悔しさと無力感で打ちひしがれずにはいられなかったが、秀三もコーナーにかけてやれる言葉もなく、「こんなことをして、国が続くものか」と英語で呟くのが精一杯だった。

もちろん、コーナーは日本軍の侵略や占領を歓迎するはずもなく、できることなら自らも抗日ゲリラに身を投じて同胞の無念を晴らしたいとの思いを時に抑えながら、自らの信念であり総督からの要請でもあった学術・文化資産の保護を最後まで貫きたいとの思いだけを自分の支えに、辛く悲しい気持ちを堪えて、孤独な作業に従事し続けていたに過ぎない。

秀三も、そうしたコーナーの心中を察し、軍などが関係する難しい折衝には関与させず、現地に残された英国の学術資産の確保や保全などに専念できるよう、また、時には気が紛れるような経験もできるよう配慮していた。

そうして2週間ほどが経過し、植物園や博物館などへの不正な侵入や略奪の防止の措置も概ね目処が立ち、当初の混乱も落ち着きを見せつつあったある日の晩、ずば抜けた何かを感じさせる、厳しく鋭い眼光をした一人の若い華人青年が秀三のもとを訪ねてきた。

(以下、次号)

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第2回 あらすじ案①現代編1~ふてくされた気持ちの中で

前回に企画構想を述べた、「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」に関するシナリオ案の第1回です。映画化推進に賛同いただける方は、第10回の投稿で予定している構想案をぜひご覧下さい。

作成にあたっては、博士の業績を紹介したブログなど(先日、ブログで紹介されていた幾つかの書籍も入手しました。第9回の投稿で表示します)を参考にしていますが、映画(2時間程度のドラマ)として仕上げる必要や秀三博士と現地シンガポール人との関わりを重視するというコンセプトにしたこと、事実経過に関する私の理解力や文章構成力の問題などから、文献に基づく史実について若干の改変をさせていただいています。

あと、現代華人の人名に関する私の知識(引出し)が極めて薄弱のため、とってつけたように某銀河英雄小説の主要人物のお名前を拝借しています。さすがに世に出す際は同じ名前は無理でしょうから、その点はブログ限りということで、ご容赦下さい(本あらすじ案で作品化できるのなら、コーナー博士の著作に登場するタウケイの名をもとに創作するのがよいかもしれません)。

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物語は2006年の東京からはじまる。主人公・下斗米(しもとまい)千代は、2年前から日本では大手の一角を占める企業法務中心の法律事務所に勤務する若い弁護士である。

千代は、盛岡で小さな町弁事務所を営む父には、「自分は父の事務所は継がない。気鋭の渉外弁護士として名を上げた後、政界に打って出て首相に上り詰めてやる」と豪語しているが、実際のところは事務所のハードな仕事や競争に疲れ果て、先日は、修習生時代からの交際男性(検事)にまで「自分の職場で知り合った若い事務官と恋仲になり結婚することにした」と一方的にフラれてしまうという、公私とも残念な日々を過ごしていた。

ある日、千代は事務所の上司である英国人弁護士トーマスから、シンガポールの顧客企業の法務部門への半年間の出向を命じられる。当時はまだ日本の渉外事務所のアジア進出は盛んではなく、同期の仲間は英米の有名大学への留学や著名法律事務所に出向していた。シンガポールの顧客企業の出向などというのは事務所内でも前例がなく、出世コースから外れると感じざるを得なかった。

辞めて都内の町弁事務所に転職しようかなどと思いながらも、「その前にリゾート生活を楽しんでやる」などと軽い気持ちでシンガポールに赴任した千代を待っていたのは、出向先企業の上司で同国弁護士でもある、ヤン・ウェンリー(楊文里)による冷淡で過酷な業務命令だった。

来星から2週間ほど経過し、同国での生活にも多少は馴染んできた千代が、セントーサ島のビーチで遊んできた話を同僚と話していたところ、ヤンが不快感を露わにして席を立つ一幕があった。同僚は、ヤンの祖父が戦時中に抗日活動をして日本軍から拷問を受けたこと、親族を含む多くの華人が日本軍に虐殺され、セントーサ島のビーチに遺棄されたことなどから、今も日本に不信感を抱いており、セントーサを単なるリゾートにしか思っていない今どきの日本人に怒りを感じていることなどを教えてくれた。

もともと仕方なくシンガポールに来ただけの千代は、そうした過去の戦争の暗い歴史を何一つ学んでいなかったのだ。

それからほどなくして、出向先企業に激震が走る。中国系の大手企業による、敵対的買収工作が発覚したのだ。しかも、その買収を支援している中国の法律事務所には、千代の事務所のライバル事務所であり強欲な仕事ぶりで評判の悪い、日本の別の大手事務所が協力していることも伝わってきた。

買収防止策に懸命に取り組むヤンや同僚たち。しかし、誰よりもその中に入って成果を出したい千代に、ヤンは決して関与を命じようとしない。

レポートを提出しても相手にされず、蚊帳の外に追いやられて他の雑務に追われる千代は、せめてもの慰めに、父の実家である二戸市の名勝・馬仙峡(男神岩・女神岩)が白雪を纏って青空に映える姿を写した、小さな写真立てを執務席の上に置いた。これは、千代が子供の頃に何度か二戸を訪ねていた際に撮影したお気に入りの写真だった。

すると、その写真を見て動揺する男がいた。他ならぬヤンである。ヤンが千代に、その写真はどこか、どうしてそれを持っているのかと聞き、千代が答えると、ヤンなりに思うところがあったようだ。それまで食事などでも千代に全く関わろうとしなかったヤンは、その日の晩、話がしたいと言い、突然、千代を行きつけのホーカーズ(大衆食堂)に誘った。

そのときヤンが見せたのは、千代の写真と同じ「白雪を纏って青空に映える冬の馬仙峡」や昔の日本を描いたと思われる古ぼけた幾つかの水彩画、そして、日本人、アジア人、西洋人と思われる3人の男が談笑する姿を描いた鉛筆画のスケッチだった。

ヤンは、鉛筆画に描かれているアジア人が自分の祖父、ヤン・タイロン(楊泰隆)であり、日本人はヒデゾウ(秀三)という名の日本の学者で、もう一人の西洋人は、E・J・H・コーナーという英国人学者を指しているのだと告げた。

そして、秀三は祖父の大切な恩人であること、自分がこの水彩画と鉛筆画を持っている理由も伝えたいと述べ、ヤンが祖父や父から聞いたという出来事を訥々と語り始めた・・・

(以下、次号)

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