北奥法律事務所

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世界遺産

米朝首脳会談にふさわしい「日英の良心が遺したシンガポールの聖地」

6月12日に行われた米朝首脳会談の際、両国首脳がそれぞれ宿泊したホテルのすぐ近くに、世界遺産・シンガポール植物園があります。

かつて、大日本帝国軍がシンガポールを精強な英国軍から電撃的に占領した直後、突如、この島に二戸出身(旧制盛岡中学卒)の田中舘秀三・東北帝大教授が現れ、英国人の研究者らと協力して植物園や博物館などの貴重な学術資産を戦災の混乱から守ったという逸話を、1年半前にブログ等で紹介させていただきました。

植物園のシンボルであるバンドスタンドとその一帯は、今も、英国庭園の面影を残したまま、同国有数の「結婚記念写真スポット」として人気を博しています。

可能なら首脳会談はこのバンドスタンドで行っていただければ、戦争に依らずに物事を解決するとのメッセージを、より世界に伝えることができたかもしれません。

安倍首相の側近にもこのような演出を勧める人材がいればよいのになどと、余計なことを思ったりもします。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

と当時、戯れに一首作ってみましたが、世界中の国家指導者の中で今最もその言葉が向けられるべき2人がこの島で出会いの場を得たということに、少し不思議なものを感じてしまいます。

縄文遺跡群が世界遺産になるために必要なこと

先日、世界遺産の推薦に関する国内審査で、仁徳天皇陵をはじめとする大阪の大規模古墳群が当選し、一戸町の御所野遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」の審査が来年に延期(落選)されたとの報道がありました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20170801_1
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170801-OYT1T50003.html

御所野遺跡は以前から行こうと思いつつ後回しになっており先月にようやく初めて訪れたのですが、環境の良さ(閑寂さ)はさておき、これが世界遺産に選ばれるのかなぁと考えると、率直なところよく分かりません。

ただ、以前も書きましたが、御所野はさておき、日本の縄文文化それ自体は、世界にその価値が理解・伝達されるべきものであり、特に、現時点で日本で登録された古代~中世の世界文化遺産が、京都・奈良・日光・平泉の寺社仏閣群など、弥生期以後に中華文明の強い影響下で生じたものばかりのように感じられ、縄文文化を伝える遺跡で世界遺産とされたものがないことから、その点でも文化遺産として登録を求めること自体は大いに意義のあることだと思います。

それだけに、繰り返しになりますが、「北海道(東部)と北東北」に限定しなければならない理由はなく、「日本列島で成立した縄文文化が世界的に独自の価値があること」というコンセプトに再構成し、他の地域も含めた縄文文化の痕跡が残る遺跡のチャンピオン的な存在を列挙・再構成して世界遺産登録を申請した方がよいのでは?と考えます。

そのように考えれば、三内丸山や大湯環状列石は残るでしょうが、小規模な遺跡群は「関連遺産」扱いでもやむを得ないと思いますし、反面、国宝指定された長野県茅野市の「縄文のビーナス」や「仮面の女神」、或いは亀ヶ岡の遮光器土偶など著名な土器・土偶が発掘された場所などは、小規模でも遺産として申請すべきだ(でもって、現地が貧弱でも発掘された物自体の価値をPRして世界遺産登録を狙う)ということになるのではと思います。

少し調べてみたところ、やはりというか、同じようなことを考える識者の方もおられるようです。

理想論としては、稲作=土木工事により自然を作り替えた弥生文化と異なり、縄文は自然と共に生きる文化というべきでしょうから、アニミズムに基づく自然信仰の文化が残る地域などと連携し、文化・自然の複合遺産的な路線を考えるのも適切なのではと感じる面もあります。

まあ、具体例を挙げろと言われてもすぐに思いつくものではありませんし所詮は素人の戯言ですが、それはさておき、まずは北東北ではなく北奥と改めることから検討していただいても良いのでは、と余計なことを思わないこともありません。

また、この記事によれば、「北海道・北東北」云々の運動は、関連4県の知事らが地域振興目的で始めたもののように見受けられますが、そのような発想では、何年経っても、イコモスはおろか、文化庁からも「縄文文化がどんなに素晴らしくとも、貴方たちに世界遺産は無理」と言われるだけに終わってしまいそうです。

そうした意味でも、一部の関係者だけの運動ではなく、地元民が、真に縄文文化を自分達のルーツとして価値や意義を理解し、自身のメンタリティに取り込むことができるようになるまでは、世界遺産などという栄誉を得ることは半永久的に望めないことなのかもしれません。

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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第9回 元ネタ(参考文献)のご紹介

秀三博士の足跡に基づく「映画あらすじ案」に関する補足説明(前回は「あとがき」)の続きとして、この物語が詳細に述べられている文献を紹介します。

今回の「あらすじ案」は帰国直後に博士について触れたブログを検索して拝見した記事の幾つかをもとに一気に書いたもので、後記の文献を拝見したのはシナリオを考えた後になります。

参考にさせていただいた個人の方のブログ記事は多数ありますが、ここでは少しだけ紹介させていただきます。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm
http://ameblo.jp/kakek/entry-10796147545.html

あらすじ案を書いているうちに、やはりブログ記事で引用されている下記の文献群を確認すべきと考え、先般、アマゾンで注文して購入しました。文献を読んで少し修正した部分もありますが、余力の関係で放置した部分もそれなりにあり、多少の「(文献記載の)史実」とのズレはご容赦をお願いします。

●E・J・H・コーナー「思い出の昭南博物館~占領下シンガポールと徳川候」中公新書 昭和57年刊 
https://www.asiax.biz/life/7498/

あらすじ案にも登場するコーナー博士が戦争から20年後に自ら執筆し、日本でも翻訳され出版されたもので、今回のテーマを学びたい方は真っ先に読むべき基本文献です。

身柄の安全が微塵も保証されていない、無条件降伏直後の敗残国の植物学者としての著者が、文化・学術資産の保護のため身の危険を顧みずにほとんど単身で立ち上がり、「昭南の奇跡」を支えた秀三博士や徳川侯爵らとの交流で実体験した事実を、日本占領の明暗を余すところなく格調ある文章で詳細に伝え、博士や侯爵らの功績を讃えたものです。

敗れた国(栄光ある大英帝国)の者の悔しさを語ったくだりなども含め、多くの点で心揺さぶらながら読むことができる、必見の一冊ですが、残念ながら現在は絶版らしく、アマゾン(古本)でしか手に入りません。

ただ、最近になってシンガポール紀伊國屋書店で復刊したそうで、同国内では復刻版が手に入るようです。が、私がネット注文しようとしたところ、海外搬送はしてませんとのことでしたので、「古本じゃなく綺麗な本を読みたい」という方は、シンガポールで購入するか、紀伊國屋書店に交渉するなどしていただければと思います。
https://www.asiax.biz/life/39075/

また、盛岡市内や二戸市内の書店の方々におかれては、ぜひ、シンガポール紀伊國屋書店からまとめ買いして、次の荒俣氏の本などと一緒に並べて「田中舘秀三フェア」と題して店頭販売していただきたいものです。

●荒俣宏「大東亜科学奇譚」ちくま文庫 平成8年刊(文庫版)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480032065/

日本近代(明治~大戦期)に科学の分野でユニークな業績を残した異形の奇人変人たちを紹介した本で、その中の一角に「昭南の奇跡」として秀三博士や徳川候爵などの活躍が記されています。

コーナー博士の著作以上に秀三博士の経歴などを詳細に説明しており、荒俣氏の博覧強記と徹底した調査ぶりに驚かされます(経歴を述べた箇所は、二戸や旧制盛岡中学にある程度は詳しくないとついて行けないハイレベルな知識のオンパレードになっています)。

また、本書で描かれている秀三博士の人物像は「風変わりな聖者」とでも言うべきコーナー博士の描く秀三像とは異なるもので、「あとがき」で記載したような壮大な野望を実行せんとした山師(怪人)のような様相を感じさせます。

これがまた独特の説得力があり、ぜひご覧いただきたい一作と言えます。

特に、秀三博士の経歴を見ると、世界的物理学者・愛橘博士の女婿(養子)というだけでなく、戦前の新聞で「日本一の同窓会」と謳われた旧制盛岡中学の全盛期の人材群(陸海軍の大将、衆院議長、著名企業(鹿島建設など)の社長、金田一京助、野村胡堂や石川啄木など愛橘博士のwikiに表示された「謝恩会の写真」を参照と同年代でもあり、他方で、東京帝大の出でありながら個性の強い性格が災いしてか?国際的には火山学などで活躍しつつも国内での出世(教授など)が遅れていたように見えます。

ですので、シンガポールの陥落に際し、自分が同窓のライバル達に負けない大きな物事を成し遂げる千載一遇のチャンスとの思いもあったのではと感じずにはいられないものがあります(荒又氏によれば、秀三博士は東北帝大法文学部で地政学=政・経・軍の基礎学問を教えていたのだそうで、なおのこと内に秘めた理想や野心を感じさせる面はあります)。

また、本書に掲載されている晩年期?の秀三博士のドアップ写真でも、大きな目を見開きながら茶目っ気と共に不敵な笑みを見せている様子があり、そうした人物像を印象づけるものとなっています(コーナー博士の著作では秀三博士に関しては小さな集合写真が1枚あるのみで、昭南島物語には写真が掲載されていません)。

●戸川幸夫「昭南島物語(上・下)」読売新聞社 平成2年刊
http://d.hatena.ne.jp/kmtbrmtnb/20041029

コーナー博士の著作に触発された筆者(当時は毎日新聞の記者で後年に小説家・児童文学作家)が、自身の従軍記者としての赴任経験も踏まえて日本軍によるシンガポールの占領時代を総合的に調査し、英軍降伏はもちろん秀三博士らによる学術資産・文化財の保護や華人虐殺などを含む様々なエピソードを詳細に説明しており、冒頭の2作品を補充すると共に「昭南島」時代の全貌を知る資料として、参照価値の高い作品だと思います。

なお、秀三博士についてさらに知りたい方のために「田中舘秀三 業績と追憶」という追悼論文集が出版されているのですが、さすがに古本だと相当に高額のようですので購入は諦めました。

岩手県立図書館に収蔵されているなら閲覧したいと思ったのですが、けしからんことに、岩手県、盛岡市、二戸市のいずれの図書館にも収蔵されていないようです。
http://157.1.42.1/ncid/BN02478818

地元出身の偉人に関する基本文献ですので、これら図書館には予算を獲得していただくなどして、古本の入手に努めていただきたいところです。せめて、岩手県内に1冊くらいは置くべきだと思いますので、同じ思いを共有いただいた方は、県や両市の関係者に働きかけていただければ幸いです。

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(H29.5追記)

上記の追悼論文集は、前記のとおり、1月にネットで調べたときは、岩手県の図書館に収蔵されていないのものと認識したのですが、5月に盛岡北RCのIさんから県立図書館に収蔵されていると教えていただき、先日、借りてざっと読みました(岩手では同図書館のみ)。

よって、次のとおり修正・加筆します。

●田中舘秀三業績刊行会「田中舘秀三 業績と追憶」 昭和50年刊

秀三博士と懇意にしていた学者さん達(山口弥一郎・創価大教授等)が中心になって出版した論文集で、博士自身が執筆した論文群と、シンガポールでの出来事を述べたエッセイである「南方文化施設の接収」、学者さん達による追悼文などで構成されています。火山学などの専門性の強い論文集なので、古本だと相当に高額であり、図書館で閲覧していただければと思います。

「南方文化施設の接収」は博士自身がシンガポールでの経験を綴ったもので、参照価値の高いものですが、若干の落丁があり、肝心?なコーナー博士との邂逅を書いたページなどが欠落しているのが残念です(印刷前の原文自体の散逸でしょうか)。

ところで、本書はコーナー博士の著作(中公新書)よりも7年前に刊行されているため、コーナー博士のことは(上記エッセイを別とすれば)一言も触れていませんし、英国人やシンガポール人などが寄稿しているわけでもありません。また、コーナー博士の著作にも、あとがきなどを含め、本書のことは一切触れられておらず、訳者の方の目に触れる機会が無かったのかもしれません。

現代で両者が同時期に出版された場合、双方の著者らが互いに博士を語り合うような企画などがあり得たのではと思われ、その点は残念に感じます。

ただ、本書で多くの方々により語られる博士の実像は、コーナー博士の描く「美しすぎる博士像」と荒俣氏が語る「山師のような博士像」を接ぎ木して博士の全体像を理解するのに大いに役立つもので、博士に関心を抱いた方は、ぜひご覧いただいてよいと思われます。

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(H30.1追記)

先ほど、匿名希望の方から当事務所宛てに、「『南方文化施設の接収』は『業績と追憶』掲載版では一部欠部があるらしいですが、(下記のサイトからリンクしている)国立国会図書館の電子文書では全文閲覧できると思います」とのメールをいただきました。

また、その方が執筆されたという下記のサイト(非常に詳細・網羅的な解説になっています)を紹介いただいたので、こちらでも引用させていただきます(ユアペディアというサイト自体も含め、今回初めて知りました)。
https://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A4%A8%E7%A7%80%E4%B8%89

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第7回 あらすじ案⑥現代編2(終章)~そして花々は今も咲き続ける

映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の最終回です。

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そして、物話は現代に戻る。

現代の当事者である「孫のヤン」は、ここまで描かれたような詳細な話ではなく、自分が父を経由して断片的に聞いていた話を千代に説明した。

千代は、子供の頃に二戸出身である父が田中舘愛橘博士の話を矢鱈にしていた上、中学校の修学旅行で昭和新山や有珠山などに行ったことから、田中舘秀三博士が昭和新山の名付け親だということを知っていた。秀三博士がシンガポールの植物園や博物館を守ったという話は初めて知ったが、違和感なく了解できる話だった。

千代がヤンから見せられた3人の男を描いた線画の裏には、次の言葉が付されていた。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ
万国の民が集いし島に建つ 新しき世を目を閉じて見る

千代は、改めて、この会社(出向先の顧問企業)、そしてシンガポールの役に立ちたいと強く思った。そして、ヤンに、敵対的買収からこの会社を守りたい、自分にも手伝わせて欲しいと頼んだ。

ヤンは、先日、千代が提出したレポートを取り出し、評価できる点、的外れな部分などを講評した上で、今この闘いが直面している論点の幾つかについて説明した。

事務所に泊まり込み、大量の書類や文献などに埋もれながら解決について悩む千代。すると、この事件が日本で裁判に持ち込まれた場合、相手企業にとって、ある大きな手続上の問題が発生することに、日本での最近の判例や議論などを通じて気づいた。

ただ、この事件で適用される法律(準拠法)がどこの国のものになるのか、また、その国の法律や判例などでは敵対的買収に対し同じ制約が生じることになるのか、そこまで(特に後者)は千代にも分からない。

ともあれ、千代がそのことをヤンに報告すると、ヤンはその話が今回の件でも通用すると述べて、近日中に予定されている相手企業及び代理人との交渉に、千代も同行するようにと告げた。

そして交渉当日。圧倒的に有利な状況を作って得意満面の相手方陣営に対し、ヤンが針の一刺しのように千代が指摘した問題を指摘し千代も補足説明したところ、相手方陣営は狼狽し、その場は一旦解散となった。恐らく、当方の全面勝利は無理でも、悪くても痛み分けに止まる形での解決は期待できるだろう。

その後、千代は、ヤンの理解・支援のもと、出向先の社内で多くの良質な経験に恵まれた。シンガポール有数の法律事務所とも幾つか関わりを持ち、移籍を誘われたこともあった。

そして帰国。見送りの空港で、ヤンは、あのときに千代に見せた水彩画と鉛筆画を、盛岡の街を描いた1枚の絵だけを除いて千代に手渡した。

これらを生かすには、自分が持っているよりも君が持った方が良さそうだ。ただ、盛岡を描いた1枚は君の故郷でもあるので記念に残しておきたい、と。

帰国した千代を待っていたトーマスは、出向を命じた理由を説明した。一つは、事務所が来年にもアジアの中心拠点としてシンガポール支店の設置を予定しており、その下準備として若い弁護士を派遣して現地の業務に精通させると共に重要顧客である顧問先と強固な信頼関係を築くこと、もう一つは、千代の採用にも関わっていたトーマスが千代を選んだ特別の事情と、その証となる1枚の絵だった。

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物語は2015年にシンガポール植物園が世界遺産登録され、園内で記念式典が行われたところで幕を閉じる。

リー・シェンロン(李顯龍)首相は、ステージ上から居並ぶ要人・招待客たちに向けて登録の意義を語りつつ、次のように述べた。

この植物園はシンガポールの創設者・ラッフルズ卿が開設し、我国の独立後は国家と国民の力により守り育ててきたものである。そこに至るまでには、この植物園が戦争の被害により消滅する危機に直面したこともあった。

しかし、その際、身の危険を顧みず自身の利益を求めることもなく、この植物園をはじめシンガポールの多くの学術資産や文化財がアジア、そして世界人類にとってかけがえのない宝であり、後世に引き継がれるべきであるという純粋な思いから守り抜いた人々がいたことを、世界遺産登録という輝かしい時を迎えるにあたり、すべてのシンガポール人、そして人類全体が銘記すべきである・・・

シェンロン首相の視線の先には、千代の姿があった。

出向を終えて帰国した千代は、ヤンから聞いた話をもとに、自分なりにシンガポールの歴史や大戦時の出来事、秀三らの活躍などを勉強し、自分の経験も交えて秀三の物語を出版したところベストセラーになった。そして、ほどなくシンガポールにも伝わり、「植物園を守った恩人に縁のある者」として、世界遺産登録にあたり、この式典に招かれていたのだ。

千代の隣にはヤンがいた。

ヤンの祖父の戦後の苦闘なども千代の著作を通じてシンガポール国民に知られ、緩やかながらも民主化や国民の自由の拡大を進めるシェンロン首相の方針もあって再評価されるところとなり、政府からヤンも特別に招かれていたのだ。

スピーチを求められた千代は、シンガポールの人々への感謝を交えつつ、このように語る。

私が生まれ育った盛岡は、「我、太平洋の架け橋にならん」と述べて、世界の平和と人々の相互理解を目指し、国際連盟の事務次長まで務めた偉人を輩出した。

秀三博士と共に、その偉人(新渡戸稲造博士)を尊敬する自分も、ささやかながらでも、日本とシンガポール、アジア、ひいては世界全体の人々をつなぐ一人になれるよう、今後も努めていきたい、と。

式典の後のパーティの場で、リー・シェンロン首相が千代に「いいスピーチでしたね。ご存知だと思いますが、私の父も、もとは弁護士でした。貴方も、ぜひ我が父のように次の時代の日本を支えるような生き方を目指して頑張って下さいね。」と語りかけてきた。

千代は御礼を述べると共に首相に向かって「ご褒美をいただけるのでしたら、一つ、おねだりをさせて下さい」と述べた。

植物園の主要施設であるナショナル・オーキッド・ガーデン(国立ラン園)には世界中の著名人の名を冠した新種のランが展示されていますが、秀三博士の名を冠したランはあるのでしょうか?もし未だに存在しないのでしたら、ぜひ新たなランに博士の名を冠すると共に、末永く博士の顕彰をしていただけないか、と。

首相は少しばつの悪い苦笑を浮かべつつ、すぐに快諾し、世界遺産登録記念に相応しい、美しいランを開発し、秀三博士の名を冠して園内の一番立派なところに飾ろうと答えた。

これに対し千代は、いえ、美しい花も立派な場所に飾ることも博士には似合いません、素朴で目立たず道ばたに咲いているような花、でも、周囲の花々を引き立て風景全体を輝かせるような花、そんな花を開発したときに、ぜひ、博士の名を冠していただければ幸いです、と述べた。

千代が、いまどこで何を目指して生きているのか。そのことは劇中では語られず、皆の想像に委ねられている。(おしまい)

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縄文の遺跡群と北東北のオリジナリティ

「太陽の塔」などで有名な芸術家・岡本太郎は、縄文文化とその出土品などに対し高い芸術的価値を認め、その息吹を伝える北東北や沖縄の人々にも、特別な思いを感じていたことは、よく知られています。

私も、10年ほど前に東北新幹線の車内誌で「岡本太郎が発見した北東北」といった内容の特集を読んでから、岡本太郎への関心が深くなり、ちょうど岡本太郎の再評価の動きが高まってきたこともあって、平成23年にはNHKで放送されていた自伝的なドラマを見たり、東京に泊まりがけで行く機会があったので、青山の岡本太郎記念館に立ち寄るなどしていました。

さきほど、昨年8月10日の日経新聞に掲載されていた縄文文化特集で、パリで民俗学の泰斗に師事した後に欧州から帰国した岡本太郎が、日本独自の文化を求めて最初に京都・奈良を訪問したものの、京都は過去の遺物の集積で奈良は中国のコピーに過ぎないと失望し、縄文土器に接してはじめて、日本独自の文化を感じたという趣旨のことが書かれているのを見ました。

その記事を読んで、ふと思ったのは、京都・奈良については既にその価値が広く認められ、何年も前に世界遺産登録がされているのに対し、縄文文化に関しては、その痕跡を残している場所などが世界遺産登録されたという話を聞いたことがない、そのことは、岡本太郎に言わせれば、真に日本独自と言える文化が世界に紹介され価値が認められていないものに他ならず、とても嘆かわしいことではないか、ということでした(沖縄については琉球王国の文化は世界遺産登録されているものの、縄文文化絡みの登録は無かったと思います)。

そのように考えると、現在、世界遺産登録を目指している「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、縄文文化に関し世界遺産登録を目指している唯一の存在という意味では、これを成就させることは岡本太郎の遺志にも沿うことではないかと思います。

これまで、上記遺産群の運動をしている方々が、岡本太郎(の関係者)側に協力を要請するといった話はあまり聞いたことがありませんが、芸術的な観点を交えて文化の価値への理解を広めるという意味では、大いに意味のあることで、ぜひ、取り組んでいただきたいと思っています。

ところで、上記の記事で取り上げられていた土偶は、長野県茅野市や群馬県で発見されたものでしたが、それらの地域が世界遺産登録を目指しているなどといった話はこれまで聞いたことがないと思って検索してみたところ、最近になって、そのような動きが出てきたようです。
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=33288

私見としては、信州などで著名な土偶が発見されていることは確かですし、地域おこしではなく縄文文化の価値を世界に認めて貰うことが目的でしょうから、「明治の産業遺産群」で北九州などと釜石(橋野高炉跡)が一括りになっているように、北海道・北東北とタッグを組んで、一緒にまとめて世界遺産登録を目指して良いのではと感じますが、いかがでしょう。