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二戸

米朝首脳会談にふさわしい「日英の良心が遺したシンガポールの聖地」

6月12日に行われた米朝首脳会談の際、両国首脳がそれぞれ宿泊したホテルのすぐ近くに、世界遺産・シンガポール植物園があります。

かつて、大日本帝国軍がシンガポールを精強な英国軍から電撃的に占領した直後、突如、この島に二戸出身(旧制盛岡中学卒)の田中舘秀三・東北帝大教授が現れ、英国人の研究者らと協力して植物園や博物館などの貴重な学術資産を戦災の混乱から守ったという逸話を、1年半前にブログ等で紹介させていただきました。

植物園のシンボルであるバンドスタンドとその一帯は、今も、英国庭園の面影を残したまま、同国有数の「結婚記念写真スポット」として人気を博しています。

可能なら首脳会談はこのバンドスタンドで行っていただければ、戦争に依らずに物事を解決するとのメッセージを、より世界に伝えることができたかもしれません。

安倍首相の側近にもこのような演出を勧める人材がいればよいのになどと、余計なことを思ったりもします。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

と当時、戯れに一首作ってみましたが、世界中の国家指導者の中で今最もその言葉が向けられるべき2人がこの島で出会いの場を得たということに、少し不思議なものを感じてしまいます。

大河ドラマに登場し損なった「小保内」という二戸人

私は、「徳川家康」以後の大河ドラマは8割がたを見ており、現在、放送中の「花燃ゆ」も、習慣(惰性?)で毎週、ビデオを撮って深夜に見ています。

内容については、まだ助走モードのせいか、或いは「ホームドラマ」云々と銘打っているせいか、早送りしたくなる場面もありますが、今回の主題曲は、音楽が私にとっては十分に満足でき、CG画面も作品のテーマとよく噛み合っているように感じて、個人的にはとても気に入っています。

鷹?と思しき鳥達が、画面の下から次々に現れては猛スピードで飛び立ち、何らかの思想を感じさせる様々な漢字がちりばめられた華やかな空間を縦横無尽に駆け巡りながら弾けていく様子が描かれている光景は、吉田松陰をはじめ、社会を変えることで社会を守ろうと考えて、世に先駆けて急進的な思想を掲げては維新の時代に殉じていった、多くの草莽の志士達を指しているのだろうと感じるのは、私だけではないでしょう。

そして、その画面に響く吉田松陰が遺した言葉をもとにした歌詞のコーラスも、そうした志士達(ひいては現代を生きる視聴者自身)が、松蔭の思想の後継者であることを印象づけようという演出なのでしょうし、そのことが視聴者の心に響く面は、大きいのだろうと思います(ネットでさっと調べた限り、今回のオープニングには好意的なコメントが多く寄せられているように見受けられました)。

ところで、今回の大河は「八重の桜」とは逆に、長州が舞台ということで、東北の人々にとっては馴染みにくい面もあるかもしれませんが、「八重」をご覧になった方であればお分かりのとおり、若者であった頃の吉田松陰が、国防(北方警備=ロシア対策)の実情を見たいなどの理由で東北に視察旅行に来た話に象徴されるように、東北と長州の人々に交流が無かったわけではありません。

そして、世間にはほとんど知られていない話ですが、「花燃ゆ」の登場人物達と直接、間接に多くの関わりを持った二戸人が存在します。

名を「小保内定身」と言い、二戸市の中心部(福岡町)にある呑香稲荷神社の宮司の子であり、ネット情報によれば、若くして江戸に遊学し、その際、久坂玄瑞などと交流して勤王思想を学び、その後、帰郷して郷里で会舗社という政治結社(「北の松下村塾」と呼ばれたそうです)を作り、地域の子弟の教育に従事しつつ、南部藩内も西国列藩に負けずに西洋の文物を取り入れるべしとの活動を行っていたようです。

維新期には、新政府への恭順派の立場で重臣の腹心として藩論とりまとめに奔走し、一旦は多数派である抗戦派に敗れ、秋田戦争(戊辰戦争における北東北での両軍の戦争)に至ったものの、その後に南部藩が降伏した際には、藩論とりまとめなどに大きな役割を果たしたとされています。

維新後は、木戸孝允に新政府への出仕を勧められるも、父への孝行などを理由に断り、神職に従事しつつ、会舗社で学んだ子弟の要請で、当時の政府が奨励していた牧羊事業に取り組むなどしていたものの、病気のため50歳で亡くなったと言われています。

そして、定身が父(小保内孫陸)と共に運営していた会舗社ですが、発端は、安政の大獄の直後に、小倉鯤堂(小倉健作)という長州人が捕縛を危惧して二戸まで避難して(旧知の定身を訪ねてきた)、対応した孫陸と意気投合したのがきっかけとのことですが、この人物は、「花燃ゆ」の主人公・杉文が再婚した、小田村伊之助(楫取素彦)の弟なのだそうです。

また、吉田松陰自身が東北遊学の際に二戸を訪れたかは不明ですが、松蔭は、その少し前に起きた「相馬大作事件」(北方の国防の必要を説いていた二戸出身の兵学家・相馬大作が、津軽藩主の襲撃を企んだとして捕縛され処刑された事件。「北の忠臣蔵」と呼ばれて歌舞伎などで大いに取り上げられ、昔は有名人だったようです)に強い関心を持っていたことなどが記されており、そのことも、会舗社などの素地になったと思われます。定身が江戸で薩長の英傑らの知遇を得ることができたのも、相馬大作に縁ある者として、松蔭の後継者などに遇されたという面もあったのだろうことも想像に難くありません。

残念ながら、会舗社自体は、松下村塾と異なり明治政府を主導した人物などを輩出したという話は聞いたことがありませんが、二戸出身で日本の物理学の礎を築いた田中舘愛橘博士は、その頃に二戸で幼少期を過ごしており(なお、博士の自宅は会舗社=呑香稲荷神社の真向かいです)、何らかの形で会舗社の影響を受けていることは間違いないでしょう。

また、会舗社とは関係ありませんが、定身らの尽力で南部藩が会津や長岡のような大戦争を経ることなく恭順した後は、原敬や米内光政をはじめとする多くの元・南部藩士が、そのバトンを継いで明治期等の日本の運営に尽力したことを思えば、そうした形で、定身らの「勤王思想」は継承されたのだろうと考えることもできるのではないかと思います。

なお、小保内定身や会舗社などについて書かれたサイトは多くはありませんが、幾つかのサイトをご参考までにご紹介しておきます。
http://www.shokokai.com/ninohe/kankou/kunohejyou/rekisi.html
http://55768726.at.webry.info/201307/article_22.html
http://ninohe-kanko.com/sightseeing.php?itemid=1056

http://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet/63440728.html

こうして見てくれば、二戸人としては、文(ふみ)ではなく定身(さだみ)を主人公にしてくれればよかったのに、などと冗談を言うつもりはありませんが、長州から遥か遠く離れ、維新の著名なシーンにも全く登場しない辺境に生きた人物が、文に負けないくらい今回の大河の中心メンバー達と関わりを持っていることに、驚かずにはいられないものがあります。

二戸市や観光協会などにおかれては、大河に便乗してキャンペーン企画(長州の関係者やドラマ出演者などを招待してメディアに取り上げて貰うとか、歴史秘話ヒストリアに売り込むとか)などを立ち上げていただきたいところですが、二戸市のHP(観光コーナー)を見ても会舗社は取り上げられておらず、期待するだけ無駄なのかもしれません。
http://www.city.ninohe.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=474

ちなみに、このように、大河ドラマの登場人物と深い関わりを持ちながらも、ドラマに登場する機会に恵まれなかった二戸人は、定身だけに限った話ではありません。

前記の田中舘愛橘博士は、白虎隊士から東京帝大総長まで上り詰めた山川健次郎博士(日本の物理学の創始者的存在)の一番弟子で、「八重の桜」には教授になった健次郎の大学の研究室を八重が訪ねるシーンがあるのですが、そこで登場した「助手の学生さん」は、若き日の愛橘博士に他ならないはずで、私などは、ちゃんと助手に名前を付けて欲しい、二戸市役所はNHKに抗議せよなどと憤懣を抱いたものです。

ところで、会舗社で学んだ子弟の一人が、定身の支援を受けて、国内で取り組みが始まったばかりの牧羊事業(蛇沼牧場)に挑戦し、明治天皇の東北行幸の際にお言葉を賜ったという話が伝わっています。事業の際には、まだ国内に棲息していたニホンオオカミの襲撃や伝染病で羊が壊滅する被害に遭うなどの苦難があったそうで、岩手県庁?が子ども向け?の紙芝居で紹介しています。
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0510/kamisibai/sibai-6-1.htm

私の実家は、小保内定身の父か祖父の時代に生じた分家筋なのですが、半信半疑の噂話として、当時の本家は、牧羊事業のため多額の負債を抱え、多くの家財を手放しており、その中には、日本でたった一つの西郷隆盛の写真もあったらしいという話を、子供の頃に聞いたことがあります。

実際、「西郷隆盛 写真」などとネットで検索すれば、小保内定身の弟という人物が西郷の影武者を務めていたという薩摩藩士らと一緒に撮影されている写真なるものを見ることができ、過去にテレビ番組で取り上げられたこともあったようです。

想像でしかありませんが、敢えて歴史の表舞台に出ることなく、地域の子弟教育など地道な活動に己の途を定めた定身は、事業の失敗や病気で、失意のうちに亡くなったのかもしれません(生涯独身で、子も授からなかったようです)。

だからというわけではありませんが、「花燃ゆ」のオープニングで散っていく鳥たちの姿を見ると、その鳥は、長州人ばかりではないよ、と思わないこともありません。

私自身は、短期間ながらも東京に出て、司法研修所という当代の英才が参集する場所に身を置く機会にも恵まれましたが、定身と違って遥かに役不足の身の上のため、英才の知遇を得て交流を深めるどころか、身の置き場もなく小さくなっていたというのが恥ずかしい現実です。

それでも、田舎の地味な町弁として地道な仕事に明け暮れる身にとっては、そうした先人の存在は、何某か、心の支えになるところはありますし、研修所に限らず、若い頃に知り合った方が大きな舞台で活躍されているとの知らせに接したときなどは、自分も、無用な戦争の回避のため力を尽くした先人に倣って県民世論を云々、というのは無理でも、小さな仕事の積み重ねを通じて、社会がより良い方向に変わっていくための下支えができればと感じることができるのではないかと思っています。

歴史を学ぶ意義は、様々な出来事が、最終的には自分自身や自分を中継点とする未来へと繋がっていることを実感し、社会全体に対する地に足のついた責任感や役割意識を持つためにあるのではないかと思います。

大河ドラマは、脚本に関しては色々と議論がありますが、我々庶民がそうした感覚を素朴に学べる教材としては、意味があるのではないかと思っています(NHKからは一銭もいただいていませんが、受信料をまけていただくか、お客さまをご紹介いただければ有り難いです)。

最後の代表的二戸人

1月4日に父が亡くなり、13日の葬場祭まで色々と対応に追われました。葬儀の段取りなど大半の実務は喪主である兄に任せきりで、私は多少の手伝いをした程度ですが、10日間ほど毎日のように自動車で二戸に往復し、心身ともに多少は疲労を感じています。

ともあれ、ご参列、弔電、供花など、父の弔いにご配慮を賜りました皆様には、改めて御礼申し上げます。

この間、HPの更新等も差し控えていましたが、50日間(神道の忌中期間)も差し控えるのもいかがかと思いますので、本日以後、更新を再開させていただくつもりです。

父は、癌のほか、かなり以前から糖尿病や心筋梗塞など様々な病気を患い、生死の境を行き来するようなことも一度ならずありましたので、私達家族にとっては「突然の訃報」ではなく、ここまで生き続けることができたことの方が奇跡的なことであると、私自身は淡々と受け止めているというのが正直なところです。闘病生活に関しては、遠方で生活する私はほとんど役に立つことはなく、兄と母に任せきりでしたので、父への弔いに劣らず、兄と母に感謝の言葉を述べなければならないと思っています。

私の実家は今は昔日の勢いはありませんが、曾祖父が商人として成功し、少なくとも数十年前は二戸でも有数の商家と目されてきました。父も、先代までに築かれたものを引き継ぎ、流通業に押し寄せた荒波から家業を守り抜くと共に、地域社会や所属業界等の様々な役職等をお引き受けし、その責任を全うしてきたことは間違いありません。

その点では、誰にも恥じることなく往生を遂げたものと、遺族としては理解しています。

父は昨年末頃、やり残したことが幾つかあるので、あと3年は生きたいと申していましたが、心はともかく身体が燃え尽きてしまったというほかなく、その点は致し方ないものと認識しています。

父をご存知の方なら共感いただけると思いますが、父は、単に地域の小企業の経営者であっただけでなく、朴訥・愚直な性格であると共に、里山の枯れ木に話の花を咲かせるような「田舎の気さくな好々爺」という一面もあり、様々な意味で、「質実剛健」などの言葉に代表される二戸の気風を体現する人でもありました。

以前、某社の二戸支社にお勤めの方と親しくなった際、「二戸の三悪」という言葉があると教えて貰ったことがあります。いわく、①福岡高校出身者、②野球部出身者、そして、③「だんなさま」(地域の有力者)が地域に隠然たる力を持ち、それが北東北の田舎にありがちなある種の閉鎖的体質と相俟って、様々な弊害を地域に生じさせている、というものでした。

「悪」かどうかはさておき、地元で著名な商家の後継者であると共に、旧制福岡中学の最後?の入学者にして発足間もない新制福岡高校野球部のレギュラー選手でもあり、長期間に亘って福高野球部のOB会長を務めていた父は、二戸のキーワードというべき上記の三大要素のすべてを強く備えた人であったことは確かです。

そして、数十年前、福高・野球部そして二戸の社会が、恐らく今よりも強い輝きを放っていた「古き良き二戸」の時代をよく知る者の一人として、その誇りと価値を守り、ささやかながらも次代に語り継ぐ役割を懸命に果たしてきたと思います。

反面、幼少期の私の実家は昼夜とも多くの人が出入りする特殊な家であり、私達家族はそうした「普通の家庭にはない光景」と否応なく向き合わなければならなかった上(母をはじめ家の者の負荷も決して軽いものではありませんでした)、当時の父は多忙等を理由に家族を顧みることがほとんどなかったことなどから、少年時代の私は、正直なところ父とは良い関係を持つことはできませんでした。

父が背負うものが「古き良き二戸」であればこそ、光には影が伴い、光強ければ影もまた濃しというように、私自身は古い商家には避けがたく生じる光と影の双方に時に翻弄され、複雑な感情を抱きながら育った面もありました。

とりわけ、中学卒業後に郷里を遠く離れ、運動能力に極端に恵まれず、家業とも無縁の道を歩んだ私にとっては、未熟なまま郷里を遠く離れて生きる身の支えとして郷土の様々なものに強い執着を持ちつつ、他方で、それと対をなすように、自分は郷土で生きることができず故郷に居場所を持てなかった人間だという屈折した思いもあり、郷里に対するそうした愛憎のような思いが父への感情と重なる部分があったことは確かだと思います。

幸い、私も成人した頃には父とは良い関係を持つことができるようになり、また、父も新旧の価値観の挾間で時に悩み、父なりに色々と犠牲も払って家業と郷土を支えてきたことも多少は理解できるようになりましたが、私も自分のことで精一杯の日々が続いたこともあり、結局、子供の頃の断片的な思い出とは別に、大人同士としての父子の交流や共に何かを作り上げるような機会を持つことはほとんどできませんでした。

ただ、1月2日、私の出身中学(二戸市立福岡中)の歳祝いの会(同窓会)があったため、2日と3日に帰郷し、昨年末に病院から帰宅した父も含め、家族4人だけの時間を過ごすことができ、その点は私にとっては最後の良い思い出になりました。

3日には、朝に盛岡に戻るつもりでしたが居間で寝付いてしまい、気が付くと居間に敷いた布団で寝ている父を含む家族4人が居間で一緒に雑魚寝するような状態になり、小学生の頃、親子4人で夜に麻雀をした頃のような懐かしさを感じることができました。私には、恐らくそれで十分なのだと思っています。

ともあれ、私にとって、父は故郷を象徴するような存在であり、現に、身内が申すのも恐縮ながら、父が二戸に多くの足跡を残してきたことは確かだと思います。それと共に、私が幼い頃に憧憬と反感を抱いた、様々な方が絶えず集まってくる古い我が家、それは、多くの方が、家業の名称でもあり、曾祖父以来、祖父と父が襲名した名前をもとに「小岩」と呼んできた場ですが、私の知る「古き良き小岩」は、父の死により、名実ともに終焉を迎えたのだとも思っています。

しかし、「古き良き小岩」が終わっても、家業と私の実家が終わったわけではありません。兄は些か出不精(引っ込み思案?)なところがあるものの、相応の商才と父の持つ地域のリーダーとしての将才(器)を受け継いでおり、父の遺志を踏まえつつ、兄なりの方法で実家と家業を盛り立ててくれるものと信じています。

実家の家業に関わっておられる皆様や二戸の皆様におかれては、末永く兄と家業をご支援下さるよう、深くお願い申し上げます。

私は、次男という、ある意味、家にとっては「出番が来ないことが幸せ」というべき立場に生まれ育ちました。そんな自分が、法律家という、これもある意味、「(弁護士が必死に主張立証を尽くさなければならない深刻な法的紛争という)出番が来ないことこそが社会にとっての幸せ」というべき仕事に就いたのですから、不思議なものを感じますし、それが自分らしいのではないかと思っています。

私にとっては実家の円満な存続と精神的なものを含めた次代への継承こそが実家に対する最後の望みですので、今後も私の出番が来ないことを祈って、私なりに公のためにできることを模索しながら、遠くから静かに実家と二戸の社会を見つめ続けたいと思っています。

明治の思想家・内村鑑三の著作に「代表的日本人(Representative Man of Japan)」という作品があります。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人などの人物とその思想を海外に紹介する内容となっており、明治期の日本が、海外(欧米)に対し、日本の伝統的な精神文化の積み重ねと価値(キリスト教の精神文化に劣らぬ深さを持っていること)を理解して欲しいとの思いで書かれた作品と言われています。

諸説あるものの、ケネディ大統領が、この本を読んで「自分が尊敬する政治家は上杉鷹山である」と述べたとの逸話があり、同時代に記された新渡戸稲造の「武士道」と同様に、多くの影響を当時の欧米社会に与え、新参者たる明治日本が当時の国際社会に加わっていく上で、大いに資するところがあったと考えられます。

仮に現代の我々が「代表的二戸人」という本を作るとすれば、多くの方が、九戸政実、田中舘愛橘、国分謙吉、相馬大作といった方々を挙げるでしょう。二戸の歴史をきちんと勉強した方なら、私達の本家が維新期に輩出した偉人である、小保内定身氏も入れてくれるかもしれません。

しかし、私にとっては、父こそが、その本の締めくくりを飾るに相応しい、最後の代表的二戸人です。

今、その大きな星が天に召されました。しかし、その光は最後に弾け、身内に限らず二戸を愛する多くの方々の胸に、光の欠片が届いているはずです。

ぜひ、その光を手にとって受け継いでいただき、それを踏まえた新たな価値を二戸の社会に届けていただければというのが、郷土愛を支えに生きてきた父を知る、遺族としての願いです。

大変な長文になりましたが、最後までご覧いただいた方に御礼申し上げます。