北奥法律事務所

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函館ラ・サール

観応の擾乱と北の「バサラ猿」たちが追いかけた夢

昨年末ころ、亀田俊和「観応の擾乱」(中公新書)を読みました。

最初、この本を書店で見つけたときは、1年ほど前に一世を風靡した中公新書の「応仁の乱」の著者が次回作として書いたものと勘違いし、「二番煎じか、だったらいいや」などと思っていたのですが、よく見たところ著者は違う方だし、応仁の乱は買うかどうか迷っているうちに時間が経ったので古本屋で探そう、それよりも、応仁の乱以上に実情がよく分からないこっちを買ってみよう・・と思って購入したのですが、程なく、驚くべきことに気づきました。

この著者の名前に見覚えがあるような・・と思って末尾の経歴欄を眺めたところ、1973年秋田生まれ、平成9年に京大の文学部卒って、高校の仲間内に似たような奴がいたな・・・と思ってネットで検索したところ、

アアァァッッッ・・!!! と雄叫びを(自宅内で)あげてしまいましたよ。

著者の亀田俊和先生は、紛れもなく私の高校時代(函館ラ・サール)の同期生で、寮(1年生の100人部屋)のベッドも割と近い位置(オとカなので)に住んでおり、私と同じ「北東北の片田舎(彼は小坂町)から出てきたお上りさん?同士」ということで、それなりに仲良くさせてもらっていた方に間違いありません。

2~3年生の頃の彼の成績は記憶がありませんが、少なくとも1年生の頃に関しては、入学直後から数学と理科(化学)で撃沈した私ほどでないにせよ、「日本史は得意だが、他の教科の成績はパッとせず、運動もできない者同士」ということで、多少は連帯感があったような、逆に「鏡に映った自分のように見たくない感じ」もあって互いに敢えて接近しないようにしていたような、「付かず離れず」の微妙な関係性があったという記憶があります。

ただ、卒業のときか後日(大学生の頃?)かは覚えていませんが、彼が京大に合格(入学)したという話を人づてに聞き、高校1年の「どんぐり仲間」の一人だったことしか覚えていない身としては、カメって実はそんなに優秀だったのか、一体いつの間に勉強やってたんだと驚愕したことはよく覚えています。

とまあ、つまらない曝露話?はさておき、彼が、当時から中世史なかんずく南北朝時代に関心が強いことを公言し、歴史研究者志望だと語っていたこと、彼の机に置かれていた幾つかの本の中に、「ばさらの群れ」という本(童門冬二氏の小説)があり、「ばさら大名が好きだ、佐々木道誉とか」などと話していたことは今もはっきりと覚えています。

私自身は、特定の時代(まして、マイナー?な南北朝)に関心(こだわり)がなく、むしろ、歴史の全体をざっと見つつ現在の社会(特に北東北)との関わりを知ることに興味があった上、高校時代は、試験勉強を超えて、学問としての歴史に深い関心を抱くには至りませんでしたので、「佐々木道誉って誰だよ、こっちは足利直義と護良親王くらいまでしか分からんぞ」という体たらくで、亀田君と歴史談義をするなどという関係を築くことはできませんでした(今思えば、惜しいことをしたのかもしれません)。

ともあれ、本書を拝読しながら「~という出来事は興味深い」の言葉遣いが多すぎるぞ(見開きで3カ所くらい出てくる頁あり)とか「寮生(しかも受験期)なのに毎週、大河ドラマを見ていたのか?テレビが1台しかないのに取り合いはなかったのか?」などと余計なことを思いつつ、彼も高校時代に求めた道をこうして実現したのか、と感慨を抱かずにはいられませんでした。

すでに何冊も出版されている石川知裕君(もと衆院議員)も、著書によれば、高校時代から政治家を志していたとのことであり、また、この高校の性質上、医学部を目指して難関校を突破し現在も全国或いは世界で活躍されている(であろう)方々は何人も存じていますが、歴史学者になりたいと述べ、それを実現し、当時から関心を持っていたライフワークというべきテーマで中公新書の出版まで成し遂げたという方は、同期では亀田君だけかもしれませんし、亀田君もまさに「夢を現実とし、今もその過程を駆け抜けている真っ最中」なのだろうと思えば、胸が熱くなるものがあります。

それに対して我が身は・・となると、大卒2年で司法試験に合格できたまでは良かった?のかもしれませんが、今や、うだつのあがらないちっぽけな田舎の町弁として、雑多な仕事に従事しつつ事務所の存続(運転資金=売上確保)に追われるだけの日々という有様に堕してしまったように思わないでもありません。

私の高校のときの夢は、弁護士とか医師とか学者とか、具体的なイメージを抱くレベルには至っておらず、ただ、学力をはじめ、自分が到底及ばない強い力(オーラ)を持った凄い人達に会いたい、その背中を追いかけながら、いつしか「高校時代から外の凄い世界を見てきた人間」として、郷土に意義のある何らかの貢献をしなければならない(そうでなければ、岩手を離れて函館に来た意味がない)、という漠とした気持ちを持ちながら、現実には授業を追いかけるので精一杯という日々でした。

そうした初心に立ち返り、改めて自分ができること、すべきことを見つめ直すという意味では、今、亀田君の著作に出会えたことは、幸いなことというべきなのかもしれません。

ところで、ここまで書いてきて「書評」的なものを全然書いていないことに気づきましたので、一言触れておきますと、本書は、観応の擾乱の全体像(高師直の失脚を中心とする第1幕と、尊氏vs直義の決戦と南朝勢力などを巻き込んだ大混乱を中心とする第2幕)を様々な事象を紹介しつつ説明しており、その点は中公新書らしい?マイナー知識のオンパレードというか、中世史を相応に勉強した人でないと、スラスラ読むのはしんどい(また、末尾に人物や制度などの索引が欲しい)という面はあります。

ただ、擾乱の主要な原因について、単純な(師直と直義の)路線対立というより、幕府(足利勢力)が北条氏や建武政権の打倒に伴う論功行賞(恩賞)やそれに付随して生じた紛争(訴訟)の処理を円滑に進めることができなかった(紛争解決制度が未整備だった)ため、それを担当した責任者(最初は師直、次いで直義)が結果として多くの武士(御家人)の反感を買った(信望を失った)ことが、失脚(その前提としての混乱)の原因であり、擾乱の過程を経てそれが整備されたことが、義詮・義満期の室町幕府の安定・興隆の基盤となったと説明している(ように読み取れる)点は、紛争解決という観点からは、興味深いものを感じます。

本書は、冒頭から足利政権(発足直後の幕府)の紛争解決制度(訴訟など)に関する説明に大きな力点が割かれており、当時、土地を巡る紛争が多発して政権がその処理に負われていたこと、また、鎌倉幕府の訴訟は判決=宣言をするだけ(下文)で、執行力がない=自助努力を要求された(判決は自力執行を正当化する根拠として機能するに過ぎなかった)が、足利政権の発足後、徐々に、判決を強制執行する制度(執事施行状)が用いられるようになったことなどが説明されており、建武新政の破綻要因の一つが新政権が迅速・適正な紛争解決ができず多くの人々の失望を買ったためとされていることと相俟って、色々と考えさせられるものがあります。

また、師直は執行(執事施行状)を通じた迅速な紛争解決を優先したものの、不満も多く寄せられたため、長期の慎重審理=理非究明を重視して師直と対立した直義に支持が寄せられたことが擾乱第1幕の主因の一つであるとか、その後は逆に直義の手法が支持を失い、尊氏・義詮政権のもとで迅速解決型の手法が整備されて安定期に向かったという記載も見受けられ、そうした「紛争解決制度の未整備による混乱が政争の大きな要因になった」という指摘は、紛争解決の実務に携わる者にとっては学ぶところがあるように思います。

ともあれ、いつの日か亀田先生に再会し、私の手元に保管しているご著書にサインをおねだりできる日を楽しみにしています。

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石川知裕・もと衆院議員の捲土重来と奥様のご健闘を願って

今年の4月頃、陸山会事件で一世を風靡した石川知裕・もと衆院議員が、現在携わっているお仕事の関係で盛岡に用事があるとのことで、少しばかり当事務所に立ち寄って行かれました(アポ無しだったので、たまたま在室し来客もなく幸いでした)。

隠すような話でもありませんが、彼は函館ラ・サール高校1学年の同級生で、入学時には(席替えの記憶がないので1年間ずっと?)、私の斜め少し前の席に座っており、相応に仲良くさせていただいていました。

やんちゃ者ではありましたが、当時から「人の心を掴むコーディネーター的なリーダーシップ」には格段に秀でており、同学年の中でも特に豊富な人脈と人望を築いていた方の一人だと認識しています。

1年次の学園祭にはクラスの有志5人くらいでバンド風のパフォーマンスでブルーハーツの替え歌を披露し、「女子校に向かって走る~あの列車に乗って行こう~」と歌って会場を沸かせていたのをよく覚えています。

同期内では2年次の妖怪人間の方が有名ですが、クラスが違ったせいか私は拝見し損ねたようで、ステージ終了後にベラ?の姿(全身緑色ながら割烹着姿だったような・・)でその辺を歩いていたのを見たかもしれないという記憶が微かにある程度です。

入学直後も、すぐに私が座っていた座席の周辺の男ども(6~7人くらい)のまとめ役的な感じになり、担任の先生の指示でクラスの「なんとか委員(係)」を決める際、何かの委員にすぐに立候補すると共に私を含むその面々にも「みんな何か一役やろうぜ」と声を掛け、隅っこで小さくなっていた私も彼のおかげで何かの係をやっていた記憶であり、そうした力を天性に持って生まれた人なのだろうと感じています。

私自身は高校卒業後は彼とは全く接点がなく、彼が初めて国会議員になった(繰り上げ当選)報道を見た際に、大変驚いたのを覚えています。その後も、残念ながらお会いできる機会はなく、陸山会事件で時の人になった際にも、報道でお名前を拝見するのみでした(この業界に身を置く者として、多忙を言い訳にせず、激励の手紙の1つでも出すべきだったのではと忸怩たるものがありますが)。

石川議員が在職中であった平成23年の春から夏の頃、彼が小沢一郎氏の秘書として平成10年前後に岩手に居住していたこともあってか、沿岸各地に視察に訪れ、そのついでに被災地支援に取り組む地元弁護士の取り組みを聞きたいということで当事務所にお立ち寄りいただいたことがあり、それが高校卒業以来の再会となりました。

はっきりとは覚えていませんが、同級生で新聞記者をしている方(岩手支局に赴任経験があり少しだけ話をしたことがありました)がいて、その方から私が岩手で弁護士をしていることを聞いたと、来訪を告げる電話で告げられたような記憶です。

その後、そのお礼とご挨拶(及びご著書へのサインのおねだり)を兼ねて、その年の秋に日弁連の関係で上京した際、1度、お言葉に甘えて議員会館を表敬訪問させていただいたことがあります。もちろん、議員会館なんて一生に1度も行く機会はないだろうから冥土のみやげにという下心があったことは申すまでもありません。

その後は、都内で行われた彼の結婚披露宴に呼んでいただいたことはあったものの(同期が在京の方を中心に30~40人ほど集まっていました。ご夫婦のスピーチも見事なものでしたが、小沢氏、鈴木宗男氏、佐藤優氏のスピーチや松山千春氏の歌声など、非常に中身の濃いエンターティナー性に溢れた式でした)、その後は接点もなく現在に至っていたというのが正直なところです。

今回は目的地に赴くついでに久しぶりに顔を見に来たとのことで、少しばかり雑談をした程度でしたが、捲土重来を期して努力を積み重ねている様子は伝わりましたし、高校時代のささやかな思い出に照らしても、然るべき形で多くの方の期待と信頼を集めて相応の舞台に戻ってくるのだろうと確信していますので、遠い岩手の地からではありますが今後も応援を続けていきたいと思います。

1年のときの国語の授業の際に、雑談好きで見識の深い担当の先生と彼が何か話をしている途中で、彼のご家族(お父さん?)が町議会議員など政治に関わる仕事をしていて、その関係で彼も政治の世界に思い入れがあるという話をしていたのを聞いた記憶があります。

私も祖父が1期のみとはいえ県議会議員をしていましたので、彼の話を覚えているのかもしれませんが、反面、私は亡父から祖父が政治(選挙)に関わったせいで実家は酷い目にあったという話を何度も聞かされ、私自身、その呪いのせいか?人望が全くなく集団内では常に小さく黙っている「政治家(リーダー)に適性がない人間の典型」というキャラに育ちましたので、政治の世界に挑んで頑張っている石川君には、憧憬という言葉だけでは表現し尽くせない特別な感慨を抱く面があるのかもしれません。

恥ずかしながら私にはオバマ大統領の当選を支えたルース大使のような貢献はできそうにありませんが(日本でも自民党の高村副総裁を地元で支えた中央大の大先輩がおられます)、せめて、自分より才能豊かな方が凄まじい努力をしているのに、それに匹敵する努力をしなければ我が身を嘆く資格もないという受験生時代の気持ちを忘れず、彼の圧倒的な努力に負けずに精進し続けたいと思っています。

今回は、陸山会事件に基づく立候補の制限期間の満了直前の選挙になり残念ですが、奥様も結婚式の際、ご自身のご家庭が辿った数奇な運命を交えつつ「東京地検特捜部が私たちを巡り合わせ、結婚させてくれたのだと(今は前向きに)考えています!」と情熱的なスピーチをなさっていましたので、来る選挙当日をはじめ、今後もご夫婦二人三脚での日本や十勝地方へのご貢献と大願成就を祈念しています。

24年ぶりの函館と、あの日みた景色

今年のGWは、前半に1泊2日で函館に行きました。私は平成元年4月から3年間、函館ラ・サール高校の生徒として函館に住んでいましたが、卒業以来ご無沙汰になっており、訪れるのは24年ぶりになります。

家族は初めての来函ですので、函館駅に到着後、朝市→ベイエリア→元町界隈や函館山、五稜郭など観光客向けの典型コースばかりを巡って帰宅しました。

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今の函館のB級グルメと言えば、ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーということになるでしょうし、昭和62年創業とのことで、私の高校時代から存在していたのでしょうが、恥ずかしながら当時は全く知らず、今回はじめて食べました。

五稜郭も、中学の修学旅行で行ったせいかもしれませんが、高校時代はどういうわけか敢えて行きたいという気になれず(GWに帰省していたせいもあるでしょうが)、今回、修学旅行以来はじめて五稜郭に行きました。

函館は中韓などからの観光客も非常に多く、函館随一のデパートというべき「丸井今井」(盛岡の川徳に相当。なお、函館駅前の「棒二森屋」はフェザンと中三を一つにしたようなものでしょうか)にも、中国語の広告が大々的に掲載されていました。

五稜郭の桜は文句なしの満開状態で、タワーも奉行所も満足して巡ることができました。

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事前にネットで調べていましたので、街並みの変化にさほど心揺さぶられるところはありませんでしたが、それでも、和光や大門商店街のアーケードが無くなっているのを見ると、思うところはありました。

また、私自身は在学中はほとんど外食はしていませんが、例外として函館山の麓にある「カール・レイモン」が当時はレストランを経営しており、落ち着いた店内でドイツソーセージのランチを年に1、2回ほど食べるのがささやかな楽しみになっていたので、同社がレストランを閉鎖し物販と軽食に特化してしまったのは、少し残念に思っています。

折角なのでラ・サールも見に行こうということになり、湯の川温泉の宿から出発し、校舎や寮、グラウンドの外観だけをチラ見して戻りました。

ラ・サールは、私の在籍時は、開校以来の「港町らしい?ピンクに塗装した木造校舎(でもって、網走刑務所のように建物が放射状。冬は石炭ストーブ)」というアヴァンギャルドな建物でしたが、私が卒業した直後に現在の立派な校舎に全面建替となり、寮も現在は立派なものに建て替えられていますので(高校の寮は函館山からも確認できます)、良くも悪くも郷愁をそそられる要素は微塵もありません。

ただ、グラウンド(体育館も?)は概ね昔のままであるほか、旧校舎の一部が移築されており、その点はさすがに懐かしさを禁じ得ませんでした。

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在学中は函館山に登ることはほとんどありませんでしたが、高1か高2の晩秋の頃、夕方に学校から北側に片道30分か40分ほど、住宅街から荒地のような丘の上まで走って、いわゆる「函館の裏夜景」を見に行ったことがあります。

当時は、「裏夜景」を観光名所として口にする人はほとんどなく、それだけに、黒色の函館山と夕闇を背にした街並みの裏夜景は心に染みる眩しさがあり、そこに吹く海からの強風と共に、よく覚えています。

高校では「勉強もできず運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」でしたので(日本史の成績だけが救いでした)、心中は身の置き場もなく鬱々とした日々を送っていたように思いますが、それだけに、一人だけでも特別な時間、光景を持てることを心の命綱にしていたのかもしれません。

そんなわけで、当事務所の近所で短い新婚生活を送った石川啄木に敬意を表しつつ?その時のことを懐かしんで一首。

黄昏の裏夜景こそかなしけれ 十六の胸 癒やす木枯らし 

函館ラ・サールには、英国の軍歌?に由来すると言われる「It’s a long way to La Salle High School」という学生歌があり(鹿児島も同様とのこと)、校歌は出だししか覚えていないがこの歌なら今もほとんど全部歌えるという卒業生は、私だけではないと思います。

高校1年のときは「商社に入りヨーロッパの駐在員として人知れず死にたい。日本(人)と関わりたくない」という厭世願望がありましたが、やがて社会との関わりを持って生きたいという方向に気持ちが傾いてきて、高校を卒業する頃に、ようやく司法試験を意識するようになりました。

もちろん、どのような法律家になりたいか、どのように社会と関わり何を尽くしたいかということまで深く考えていたわけではありませんが、暗中模索の日々は、今もさほど変わらないのかもしれません。

そんなわけで、次に訪れるときには何か答えのようなものを持ち帰ることができればと願って、最後に一句。

旅立ちの 夢は今なお ロング・ウェイ

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日吉の丘のラ・サールと函館山のカール・レイモン

盛岡の川徳デパートでは、例年、11月頃に北海道フェアを行うことが多いのですが、その際、「函館カール・レイモン」のソーセージ等が販売されるときは買物に行くようにしており、今年も何点か購入して帰りました。

私は平成元年から4年まで函館ラ・サールで高校生活を過ごしましたが、以前にも書いたとおり、勉強もダメ、運動もダメと、何一つ取り柄のない、のび太以下の有様という鬱屈とした日々を送っていました。

そのせいか、高校(及び併設の寮)は、函館中心部の東端にある湯の川温泉から北側の丘を20~30分ほど歩いたところにあるのですが、1、2年生の頃は、高校のある日吉町から逃げるようにして、日曜の朝に丘を下って湯の川温泉の停留所から市電に乗り込み反対側の函館山の麓まで行き、フラフラと散歩しては日暮れ頃にやむなく寮に帰る、ということが何度かありました。

その際、気に入って昼食利用をしていたのが、当時はレストランとして営業していたカール・レイモンのお店(レイモンハウス)でした。

私は、高校に進学(合格)した際、母から「褒美に海外旅行に連れて行ってやる」と言われ(海外経験のない母自身の希望でもあったとは思いますが)、高校1年の夏に、母と二人でドイツなどヨーロッパ数カ国を巡る10泊程度のパックツアーに参加したことがあります。

その際、主要な行き先になった西ドイツ南部(ロマンチック街道のローテンブルクほか)の光景が懐かしくて、それと同じ外観・内装になっているレイモンハウスのレストランで、ドイツ料理(実際に注文したのは800円程度のソーセージ等のランチセットでしょうけど)を食べ、ハリストス正教会など元町界隈の異国情緒に接するのが、ささやかな精神衛生の手段になっていたように思います。

そんなわけで、私にとっては、レイモンハウス(レストラン)が函館時代の数少ない「思い出の場所」で、最もお気に入りの場所と言っても過言ではないのですが、残念ながら、建物の外観こそ維持されているものの、何年も前にレストランは閉鎖され、現在は売店兼軽食コーナーという設えになっているようです。
http://www.raymon.co.jp/brand/pavilion.php

ただ、それだけに、「子供の頃の故郷の自然の風景」と同じく、失われたゆえにいつまでも美化?されたまま心に残る光景となっている面もありますし、「カール・レイモン」が盛岡に来ると買いにいかずにはいられなくなるのも、「高校時代を懐かしんで」という一語だけでは片づかない、あの頃の自分への屈折した執着のようなものがあるのかもしれないと思ったりもします。

そういえば、中学時代から世捨て人志向があったせいか、高校1、2年生の頃は、語学に強い大学に進学し、ドイツに留学してそのまま現地で仕事をする人間になりたい(日本には帰りたくない)と思っていました。今も、そんな自分はどこに行ってしまったのかと寂しくなることもあります。

恥ずかしながら、高校卒業後、函館には一度も足を踏み入れない状態が続いており、そろそろ家族連れでとは思っていますし、どうせ行くのなら、その頃に行かなかった観光地だけでなく、高校から1時間ほど坂道を上って垣間見た「函館の裏夜景」なども見に行けたらと思っているのですが、いざ足を踏み入れてみると、ふとしたきっかけで、封じ込めていた幾つかの感情が溢れてくるなどということも、あるのかもしれません。

函館ラ・サールの小鍋の昇天

先日、高校(函館ラ・サール)に入学・入寮した平成元年4月に、寮生活の必需品として勧められ、購入した小鍋(ミルクパン。値段は1000円前後?)を、誤って空焚きし、昇天させてしまいました(末尾の写真参照)。

この小鍋は、卒業後も延々と使用を続け、特にここ10年ほどは家族の味噌汁を作る際のメインの鍋として毎日のように使っていましたので、残念というほかありません。

ところで、この小鍋は、当時、函館ラ・サールの寮に入る人(函館市外から進学する生徒の大半)の恐らく5割以上(ほぼ全員?)が購入していたのではないかと思います。

というのは、この小鍋は、夜(特に土日)に袋ラーメン(サッポロ一番など)を作って食べる目的で購入するものですが、私の微かな記憶では、寮で面識のある人のほとんどがこの小鍋を持っており、1年生のときは、袋ラーメンを食べることができる地下1階の休憩室に沢山の人が集まり、コンロ周辺が順番待ちのような状態になっていたという光景を何となく覚えているからです(余談ながら、その中には、10年近く前に国政に出馬し国会議員になったかと思えば、それを皮切りに激動の人生を送っている方もおられます)。

当時の函館ラ・サール高校は、私の記憶では、約3割が函館及び近隣自治体からの進学者(通学生)で、7割がそれ以外となっており、その大半は寮に入っていました。

入寮は任意ですが、寮費がかなり安いのに三食風呂付きで毎日洗濯していただけるとのことで、ほぼ全員が入寮しており、母から「学費と寮費(生活費)を併せて勘定すれば、盛岡よりも函館に進学した方が安上がり」と言われたのを覚えています(もちろん、私のように集団生活に向いていない人間には、それなりの苦労がありましたけど)。

寮生の内訳は、(上記の7割を前提に)約6割(寮生の8割以上)が函館以外の北海道各地の出身者で、自圏内に有力校のある札幌・旭川の出身者はほとんどおらず(当時の北海道は地区外2%とのこと)、特に小規模自治体の出身者が多かったとの印象です。

残りの1割の内訳は、東北各県(青森を中心に北東北三県がほとんど)出身者が5割弱で、他の4割強が全国各地から集まっており、関西出身者の比率が非常に高かったと記憶しています(私に関しては、大阪出身の友人・知人は何人もいましたが、関東や中部出身の方に知り合いがいたか記憶にありません)。

ちなみに、関西出身の方が多いのは、函館ラ・サールが、伝統的に医学部の進学に定評があり、特徴的な寮のシステムなども理由になって、病院を経営されている方が遠方から子弟を進学させる例が多いからなのだそうで、私は面識がありませんでしたが、西国某県で最大級の病院を経営する医師のお子さんが入寮しており、その方に関する「ロレックス(数十万円の高級時計)の紛失騒動(の噂話)」を聞いたことがあります。

寮生は、1学年で概ね200人程度でしたが、1年生は、ワンフロアに100人を収容する、二段ベッドとロッカーが延々と並んだ大広間(言うなれば「100人部屋」)になっている二階建の建物に収容されて寝泊まりする制度になっています。

そして、50音順に約30人ほどで構成される勉強部屋(私の場合は、「う」から「か」で始まる名字の生徒が集まる部屋)に割り振られて、部活等を別とすれば、夕方~夜間はそこで勉強する日々を余儀なくされます。

で、数少ない娯楽として、漫画雑誌の購入(又は立ち読み、廻し読み)やカード麻雀等のほか、土日(主に土曜)の夜に、地下1階の休憩室で袋ラーメン等を作って食べ、休憩室のテレビで夜9時からの映画(番組)を見て過ごすというものがあったと記憶しています。

ですので、その際の必須アイテムである冒頭の小鍋については、有り難くもないけれど、それなりに懐かしい記憶が甦る触媒になると感じる卒業生は、私だけではないだろうと思います。

私の場合、お湯を沸かしてカップ焼きそばを食べることも多かったのですが、北海道では「焼きそばバゴォーン」が売っておらず、「焼きそば弁当」という、やや小振りなカップ焼きそばが主流でした。そのため、実家から「バゴォーン」を箱で送られていた私は珍しがられ、物々交換のほか、時には強奪されるように「お裾分け」を強請られていたような気もします。

上記の「100人部屋」は1年次だけであり、2年に進級する際に、仲良しの人を見つけて4人グループ(原則)を組み、2、3年次は4人部屋(原則)で生活することになります。 もちろん、4人組を作るのが難しい人(2人或いは3人だけ、或いは誰とも組めないままの人)が出現するのは避けられず、寮の先生などが仲介等して(そうした面々を組み合わせるなど)、どうにか全員が4人部屋に移行できるようにします。

ただ、「自分達の自主的な判断で4人グループを作る」というスタイルが逆に仇となるのか、4人部屋に移行した2年次になると、不和が生じて同じ面々での生活を営むのが難しくなる部屋も幾つか生じてきます。

かくいう私自身、2年生の夏に一緒に4人部屋を組んだ面々に不和が生じ、私の至らなさもあって同室者が立て続けに2人も自主退寮(アパートに転居)するという痛恨事を経験しています(幸い3年次に4人部屋を組んだメンバー(2年次に残ったもう1人を含む)とは全員、終始、平穏かつ良好な関係のまま卒業できましたが)。

私のことを「他者との距離を詰めるのがかなり下手な人」と認識されている方は多いと思いますが、能力の偏りの大きさ(バランスの悪さ)のほか、そうした過去も影響しているのかもしれません。

余談ながら、2年の進級時に相部屋仲間を見つけることが全然できなかった4人の「おひとりさま」だけで組んだ部屋が、卒業まで2年間を平穏に維持できたという話を聞いたこともあり、案外、物事はそのようなものではないかと感じています。

恥ずかしながら、高校時代は 「勉強もできず、運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」(日本史の成績だけは良かったですが)として、場違い感(劣等感というよりも、自分がここにいていいのだろうかという感覚で、疎外感といった方が適切だろうと思います)を常に抱きながらの鬱屈とした日々を送っていました(その点は、司法研修所時代も同じようなものだったと思いますが)。

ただ、真摯に勉強に打ち込んで難関校突破という栄冠を勝ち取っていく同級生の方々の背中を日常的に拝見できたことが、司法試験受験生時代に大いに糧となったことは間違いなく、自分の未熟さ、至らなさを悔いる点は山ほどありますが、あの学校を選んだこと自体は、間違いではなかったと思っています。

 

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