北奥法律事務所

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短歌

そして事務所の維持のための徹夜仕事は続く

前回の投稿は単なるご挨拶でしたので、今回が実質的に本年の初めての投稿となります。

昨年も細々とした仕事に追われ、ブログの更新をなかなか行うことができず、12月は恥ずかしながら投稿ゼロの状態になってしまいました。

せめて、年末に平成30年の総括的な投稿をしたかったのですが、仕事納め直後も私事に色々と追われ、投稿できずに終わってしまいました。

その上、1月中~下旬に風邪をひき、欠勤せずには済んだものの10日ほど37~39度の状態が続き(結局、病院で薬の処方を受けた途端に収まりました。いつも、治りかけになってようやく病院に行ってます)、深夜・土日残業が困難で、結局、1月もブログは新年のご挨拶しか掲載できませんでした。

もちろん、裏を返せばそれだけ多くの仕事をいただき、事務所を持続可能な状態にできているものに他ならないというべきで、そのこと自体はご依頼をいただいている皆様に感謝申し上げるほかないのですが、以前は、そのような状況の中でもブログの更新など「あれも、これもできたのでは」と思うところがあります。

端的に申せば、昨年は、これまでになく「昔ほど無理ができなくなってきたのかも」と感じる面がありました。以前は、事務所で深夜から明け方に書類仕事をして朝に僅かな就寝を経て通常業務に臨む生活を繰り返していたのですが(反面、翌日や土日に睡眠負債を取り戻す生活を強いられました)、昨年の後半から、そうした生活をあまり行うことができなくなってきました。

代わって、昨年末には、夕食後、夜のうちに体力が尽きて就寝し早朝に起床して事務所で1~2時間ほど仕事し8時半に一旦帰宅し朝の兼業主夫労働を終えて出勤するという、これまで全く経験のない生活パターンが出現しました。

以前も、深夜に事務所に戻って1~2時間後に力尽きることは多々ありましたので、必ずしも「時間外労働」が激減したわけではないのですが、それでも以前に比べて長時間労働・深夜労働ができなくなってきているかもと感じる面があります。

これまで、日ペンならぬ「永遠の20代、自称・4代目小保内義和」という感覚で生きてきたのですが、いよいよそのように強弁することが難しくなり始めたのかもしれません。

ただ、これまで「当事務所は、人が遊んでいる時間や寝ている時間に私が働き続けることによってのみ運転資金が確保でき存立できる」という実感のもとで生きてきましたので、私が「老い」を受け入れ、人並みの就労時間で仕事を止めて「楽しい余暇」を日常的に過ごしても構わないなどと思い始めた途端、すべてが破綻するのではないかという恐怖心があります。

もちろん、ワークライフバランスなどという絵空事?はさておき、仕事の能率などをあげて、本業以外にもより様々な経験を得ることこそ弁護士にとって必要という気持ちもありますが、「余計な作業を割愛し効率よく仕事をしたい」と思っても、裁判官を筆頭に様々な方から「あれも、これも、それも、どれも」と山のように追加作業が降りかかってくるのが町弁の避けがたい現実であり、自身の能力等の不足を嘆きつつも地道に研鑽を重ねるほかないのでしょう。

日々、運転資金の負担を抱えて小規模な企業を経営する方々は、皆、同じような思いを抱えておられるのかもしれませんが、ともあれ、当方もまだまだ多少の無理が利く程度の気力や体力はあるでしょうから、本年も皆様に頼りにしていただけるよう、挫けることなく頑張っていこうと思います。

と、ここまでは1月中に書いていたのですが、1月下旬に風邪が直った後、突如として、徹夜仕事が可能な体力が戻ってきて、完徹(全く睡眠せず)とまではいかなくとも、半徹(1~2時間ほどの仮眠)で乗り切るという生活が復活してきました。

恐らく、風邪とその治療を通じて体内の何か悪いものを吐き出すことができたのではないかと感じていますが、ともあれ、徹夜仕事ができると「俺もまだまだ捨てたもんじゃない」と感じてしまう面はあります。

まあ、徹夜(深夜~明け方の長時間起案)を余儀なくされるのは、その多くが限られた報酬で膨大な作業を強いられる不採算事案ですので、ある種のマゾヒズムや屈折した達成感に浸っているのかもしれませんが。

風邪の際に「お薬手帳」を見たところ、ここ10年ほど、概ね3年おきに風邪が本格化し病院の処方薬に頼っていることが分かり、今後も2~3年ほどで「溜まった疲れを吐き出すための風邪」がやってくるのでしょう。

ちなみに、今回のタイトルは、平成22年の弁護士白書で日弁連公害対策環境保全委員会が掲載した同委員会の活動報告「そしていのちを守る戦いは続く」から拝借したものです。

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追記。平成24年末に、旧ブログにこのような記事を載せていたのに気づいたので、ついでに再掲しました。

【仕事納めの夜に】 12.28

若い頃は仕事納め直後から正月にかけての時期に、1年の溜まった疲れが吹き出すように風邪を引くことがよくありました。

現在は、妻の実家への帰省などの年中行事の都合上、最も風邪を引くことが許されない時期に様変わりしたせいか、その前後の時期に病を得ることが増えたような気がします。

そんなことや色々なことに思い巡らせながら丑三つ時に辿り着いた一首。

イブに風邪 治す矢先に事務所泊 椅子で寝る背を看る月も無く

今年の業務は本日までで、翌日には否応なしに出発となる予定です。本年は、修習生時代に親しくさせていただいた方に関する悲報に接するなど、前年等に引き続き大きな喪失感を伴う年となりました。来年は、社会に限らず身近なところでも、再生や芽吹きを感じることができる年であればと願っています。

天台寺に集う魂の華と金田一温泉に命水を求めて

5~10年ほど前から、毎年7月中旬に実家より「草刈りをしに来い」との出頭命令を受けるのが通例となっています。

実家の庭(のような場所)は相応に広さがあり、半日ほど時間をかけて従事しなければならず、しかも電動ではなく手動(剪定に用いる鋏)で延々と作業するせいか翌日から激しい筋肉痛に襲われるのがお約束で、心底迷惑というほかありません。

ともあれ、ただ二戸往復をするのもつまらぬということで、今回は、天台寺の「かつら庵」で蕎麦をいただき、ちょうど紫陽花のシーズンということで、境内を少し散策することとしました。

私自身は、紫陽花について青紫とピンクのイメージしかありませんでしたが、境内には白い紫陽花の群落がありました。

背丈の大きい杉林の下を埋め尽くすように咲いているのですが、木漏れ日を受けて白い紫陽花が輝いている姿は映画「もののけ姫」で森の妖精達が森を白く照らす光景にも似た、神秘的な何かをイメージさせます。

そんなわけで、亡くなった人々の魂が天台寺に集まり紫陽花の姿になって昇天しているのかもしれない、などと思って一首。

身が滅び心は白い紫陽花に集いて光り浄土へと往く

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ともあれ、重労働のあとは兄から金田一温泉センター(「ゆうゆうゆーらく」という日帰施設)の回数券を供給され精神的な回復を果たした後、報酬代わり?に出前の寿司をいただいて帰宅しました。

「ゆうゆうゆーらく」は老朽化のため来年に建替を予定しており、「オガール」で一世を風靡した岡崎正信氏らの関与のもと大がかりな計画が策定中らしいと聞いています。

個人的には、露天風呂が無いことのほか、風呂上がりにタダで飲める冷たい水を楽しみにしている身には、既存施設にそれらがない(レストランの利用者でないと水が飲めない)現状を非常に残念に感じています。

それらを備えている「ユートランド姫神」や山梨県北杜市白州町の「べるが」を、建替に従事される方々も参考にしていただければ幸いです。

元祖「美人すぎる歌人」が名付けた美しき洞内滝と、鉄のまちの今昔

しばらく急ぎの起案が山積しブログの更新ができませんでしたが、少し一息ついたので久しぶりに掲載することにしました。

先日、上記と同じ理由で住田町の滝観洞などを見に行きました。滝観洞は19年前に釜石の峠道を越えて訪れたことがあるのですが、現在は釜石道(仙人峠道路)により遠野市街からあっという間にアクセスできました。

滝観洞は「天の岩戸の滝」という美しい洞内滝(日本には観光可能な洞内滝がほとんどなく、日本で最も見応えのある洞内滝と呼んで差し支えないと思います)を目的地(メインスポット)とする洞窟で、他に大きな見所はありませんが、滝までは相当な距離があり、往復で30分~1時間弱を要するものとなっています。

天の岩戸の滝は、戦前の著名な歌人であり明治末~大正期を代表する美人の一人とも称された、歌人・柳原白蓮により命名されたものだそうです。

近年では、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で平成を代表する美人女優の一人・仲間由紀恵氏が準主役として好演を博したと思いますが、その不遇の生い立ちや当時の時代状況に照らして数奇でドラマチックな人生を送ったことなどを踏まえると、白蓮は、どのような思いを込めてこの美しい洞内滝に名前を授けたのか、色々と考えさせられます。

白蓮は、命名にあたり「神代よりかくしおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ」との歌を詠んだそうですが、或いは、身分の高い家柄の縁者として生まれた女性が様々なものに縛られていた時代に翻弄されつつも自分の気持ちに素直に生きようとした自身の姿を、戦後になって世に出でたこの滝に重ね合わせる面もあったのかもしれません。

というわけで、そんなことを思いつつ一首。

秘められし情が溢れて岩穿ち 人も驚く滝あらはるる

白蓮は啄木とは接点がなかったようですが、もし啄木が長命できれば、当時の人々がもっと自由に、自分の気持ちに沿って生きることができるための何らかの共闘が見られたのかもしれず、その点は少し残念に思いました。

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日本では、ここ以外で観光地化された洞内滝は、浜松市の竜ヶ岩洞(6年前に行きました)くらいではないかと思います。浜松の滝は割と簡単に行けたとの記憶ですが、こちらは、入口で貸与されたヘルメットを被り、ひたすら屈んで向かわなければなりません。そのため、肥満の方には、

滝観洞メタボの君は灰蓮洞

と言わざるを得ないように思われますので、ご注意ください。

滝観洞を拝見したあとは、釜石の鉄の歴史館に行きました。館内は製鉄そのものの歴史や社会での役割などを伝えるコーナーと、橋野から新日鐵住金に至る釜石の鉄の歴史を伝えるコーナーの2つから成り立っており、とりわけ橋野鉄鉱山が世界遺産(の構成資産)に指定されたことで、その点が重点的に取り上げられていました。

屋上からは釜石湾が臨めますが、その光景を遮るように釜石大観音が大きな姿を見せており、大観音がちょうど釜石湾の中央に鎮座していることがよく分かるものとなっています。

釜石大観音の建立は、大戦末期の釜石湾大砲撃(米戦艦群の艦砲射撃と戦闘機の無差別殺戮)で、700人以上の住民等が犠牲になったことへの慰霊という面もあると聞いたことがあるような気がします。

私のような世代は、TV等のせいか大観音が動き出して並み居る米艦群に向かって強力な熱光線を放つ光景を想像してしまいますが、それはさておき、観音像の背中を見ていると平和への祈りの姿を感じることができそうな気もします。

釜石湾 見守り祈る観音像 戦艦倒す砲は無くとも

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その後、釜石市に新たに開設された商業施設に赴いて、ちょうど開催されていた「釜石よいさ」をチラ見しつつ一休みした後、鵜住居地区を経由し橋野に向かいました。

休憩場所で頂戴したパンフレットに鵜住居の根浜海岸の美しい姿が掲載されており、今もこの姿が残っているのかと期待して現地に向かったのですが、やはりというか、残念ながら津波で美しい砂浜は消失していました。

ちょうどワールドカップの競技場が出来上がっていましたが道路などの整備が追いついておらず、迷路のような状態になっていました。

ともあれ、気を取り直して橋野高炉跡に向かったのですが、到着した頃には同行者は全員車内で就寝しており、すでに午後6時近くにもなっていたので、やむなく私一人で駐車場から現地に向かうことにしました。

現地は霧に覆われ、誰一人おらず、静寂な雰囲気に包まれていました。

日が暮れて遺跡も霧に眠るとき熊も狸も車中うたた寝

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その後、笛吹峠を越えて遠野市街を経由して盛岡に戻りましたが、峠の周辺は完全に霧に覆われており、少し前に見た「肘折峠」という不可思議な夢で描かれていた幽界につながる世界を彷彿とさせるものがありました。

ともあれ、皆さんも滝観洞(住田)や釜石エリアを訪れて様々な非日常を体験していただければと思います。

啄木の未完の志とふるさとへの宿題

今年のGWは遠出ができなかったので、せめてものということで啄木記念館に行ってきました。

館内は啄木の生涯を簡潔に説明しつつ関連する様々な資料や写真を展示しており、啄木に対する一定以上の事前知識や関心の深い人にとっては相応に見応えがあるのでしょうが、「啄木とは、どのような人間で、社会に対してどのように意義のある関わり(貢献)をしたのか」についての一般向けの説明をほとんど見かけません。

そのため「ほとんど何の予備知識もなく啄木の名前と歌人であること程度しか知らない人」にとっては、見ても何だかよく分からないものばかり展示しているだけの施設という印象しか受けないのではと感じました。

私の理解では、啄木の意義(功績)は、明治という曲がりなりにも四民平等(身分制とそれに伴う様々な社会的桎梏からの解放)の理念が掲げられた社会において、一般の人々が自分自身の様々な感情(心象風景)を自分の言葉で伝えることの意義・価値を社会に広めた、言い換えれば、そのような営みを、皆がしていこうじゃないかと働きかけたという点だと考えます。

そして、啄木の歌が今なお多くの人に愛されているとおり、啄木が、平易でありながらセンスのよい言葉(言い回し)を用いた短歌を多く残したことは、聞き手に対し、そのような言葉(表現)の心地よさを感じさせ「自分の言葉で自分の気持ちを語る」ことの意義や価値(人々の心の解放)を、社会に浸透させてきたと言えるのではないかと思います。

現代は短歌という文化自体は当時より廃れたかもしれませんが「自分の気持ちを平易な言葉でセンス良く語る」という文化は、この100年以上の期間においてポップミュージックの気の利いた歌詞など様々な形で社会に浸透したとも言えるわけで、そのような意味では、啄木の歌はそれらの源流の一つと位置づけても過言ではないのではと思われます。

記念館の敷地内には与謝野晶子の歌碑もあったのですが、現代人の感覚からみれば、いかにも古めかしいというか、啄木の歌ほどの「現代人から見てもセンスがいい感じ」を受けず、そうした意味でも「100年以上先に残る仕事」を啄木がしたことは間違いないと思います。

このように考えているのは私だけでなく、以前に少し調べたところ、NHK盛岡放送局が同趣旨のことを述べた番組を放送していたようです(引用の記事は、現在は閲覧できない状態になっており、NHKは引用記事を復活させて記念館に掲示するよう働きかけていただきたいものです)。
http://www.nhk.or.jp/morioka/obandesu/newsnohatena/130430/index.html

しかし、以上に述べたようなことを伝える掲示などはこの記念館には全く見受けられません。それゆえ、意地の悪いことを申せば、この施設を運営する人々(お役所?)は、啄木の意義や価値を社会に伝えよう、多くの人に知って貰おうという考えを本当に持っているのだろうかと疑念を感じざるを得ません。

振り返ると、啄木の人生自体、金田一京助や宮崎郁雨など幾人かの理解者に恵まれたものの、自身や父の生活上の至らなさもあって?故郷の人々に「石もて追はるる」ように渋民を去り流浪の人生を送ったわけで、その本質的な意義が地域の大多数の人々に理解されない状態にあるのは、今も昔も同じということなのかもしれません。

先駆者であると共に成功の果実に接することなく貧困の中で無念の死を遂げた啄木は、渋民そして盛岡に余人には代え難い不朽の香気を遺しつつ、自身は「100年後に生まれたかった、そうすればイケメンの俺様はポップアーティスト(シンガーソングライター)として財を築くこともできたのに」などと不満を述べているかもしれません。そんなことを思いつつ一首。

ふるさとの桜となりし啄木鳥は 春を告げるも春生きられず

ご承知のとおり、私はこのブログで「短歌(や川柳)のまがいものらしきもの」を時々作って掲載しています。これは、静岡県富士市の「ふじのくに田子の浦みなと公園」で山部赤人の歌碑を見て、蝦夷の末裔として返歌を作ってみたくなったというのがきっかけなのですが、「岩手の県北に生まれて、盛岡・函館・東京の3ヶ所を転々とした人間」の一人として、前述した啄木の意義・価値を、私なりの悪あがきで現代の人々に問い続けたいという気持ちの表れかもしれません。

私が訪問したときは、記念館では啄木が「一握の砂」の中で執筆した「林中の譚」と題された寓話をもとに作られた紙芝居が上映されていました。

土木文明に狂奔し乱開発による富貴自慢に明け暮れる人類をサルが嘲笑うという類の話で、現代人にとってはさほどの新鮮味はありませんが、当時そうした問題意識を持っていたのは足尾鉱山事件に関わった田中正造くらいでしょうから、晩年に見られた人民主権的(自由尊重)的な政治姿勢も含め、当時なら先駆的な知見ということになるのではと思われます。

と同時に、そのこと(自然尊重と畏敬)は、北東北の片田舎で育った我々にとっては当たり前の事柄でもあり、そうであればこそ、それらの根底にあるもの=縄文あるいは蝦夷のアイデンティティを何らかの形で再興させていく責任を我々は負っているのではと思わずにはいられませんでした。

町弁のアヤメぬショウブをカキツバタ

私の子供の頃には自宅周辺に池沼が点在しており(田舎育ちだからという面も大きいですが)、小学校低学年の夏季などは生物の採集や観察に明け暮れる日々を過ごしていました。

残念ながら現在の生活ではそのような環境に触れる機会は皆無であり、盛岡圏で「一般人が遠慮なく立ち入ることができる池沼」となると、繋温泉にある尾入野湿性植物園くらいしか思い当たりません(岩手大の植物園にも池があるそうですが、なぜか赴く機会に恵まれません)。

そんなわけで、尾入野がカキツバタ?の名所ということもあり、毎年の6月前後に赴くことが多く、先日も立ち寄ったのですが、まだ咲き始めという状態でした(6月上~中旬頃が最盛期なのでしょう)、

私は植物に知見がなく関心も乏しいので、咲いている花が、カキツバタなのかアヤメなのかショウブなのか全く分かりませんが、花もさることながら、湿地の生物群に接していると何となく癒やされる感じはあります。

いつもどおり帰宅後は事務所に戻り起案と雑務に追われる日々となりますが、ネットで少し調べたところ、これらの花言葉が、いずれも幸運を連れてくるなどというものなのだそうで、「暴力ではなく平和的な手段で紛争の解決を図る仕事」に携わる者として、苦労の末に社会にも私個人にも、よい結果が生じてくれればと思わずにはいられませんでした。そんなわけで一首。

殺めずに理を書き付ける勝負には
幸せを呼ぶ花が咲くらむ

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ところで、以前にも書いたことがあるかもしれませんが、盛岡圏(市の中心地区)に人々(主に子供)が気軽に触れあうことができる池沼・湿地の類がほとんどないのは非常に残念です。本来は湧水の豊富な場所だそうですから、都市開発の際に、そうした空間(親水公園的なもの)を創出する営みがもっとなされるべきではないかと思います。

某RCが開設した「どんぐりの森」についても、池がないというのは寂しい話で、尾入野に棲むドジョウも残念に思っていることでしょうから、どなたかのご尽力で、あの場所に湿地帯を新たに設けていただければなどと願っているところです。

20年間生きたスキー靴

例年、年末から2月にかけて多忙になることが多く、雪解けが近くなってからようやくスキー場に行けるという有様になることが珍しくありません。

今年は2月末に雫石スキー場、その1週間後に網張スキー場に行きましたが、諸事情により丸一日とはいかず、いずれも初級者コースを中心に3時間ほど滑っただけで帰宅しました。

両スキー場とも約20年ぶり?に来た上、当時=修習中は仲間が安比に好んで行きたがり、これらのスキー場(特に網張)には滅多に来る機会がなかったので、懐かしさの反面、ここはこうなっていたのかと再発見のような感覚もありました。

雫石は、出発が遅れて午後2時過ぎに着いたので、やむなくロープウェイで上部に行き初級コースを若干滑った後、下山してナイターで滑ることにしました。

すると、一旦コースを閉めて整備するとのことで30分待たされることになり、喫茶店がないかと探したものの既に営業終了しており、やむなくプリンスホテル2階のレストラン入口ロビーで待っていましたが、すでに夕食を開始している浴衣姿の宿泊客らを横目に見ていると、「自分はそこ(入口)から先には行けないんだ・・」などとプチ格差社会感を抱かずにはいられないものがありました。

それはさておき、ナイターの開始直後に滑り出したところ、圧雪車で整備された直後のため、非常に滑りやすくなっており、ある意味、ここ数年で一番気持ちのよいコンディションで滑ることができました。

20年前、修習生仲間と雫石のナイターに一度だけ来たことがあり、今回のナイターはそれ以来でしたが、あのときも爽快に滑ることができたので、とても懐かしく感じました。

ジャンプ大好きのI君(東京地裁で活躍中)は段差で跳びまくり、K君(S市の大物弁護士)はショートスキーで蝶のように舞い(蜂のように女心を刺す光景は残念ながらゲレンデでは拝見できませんでした)、さほど上手ではない地元出身の私(しがない田舎の町弁)とKさん(巨大事務所を経て名門企業のインハウスローヤー)は、彼らの華麗な光景を横目にマイペースで滑っていましたが、4人全員がかけがえのない楽しい時間を過ごすことができたことは間違いありません。

これに対し、その1週間後に訪れた網張スキー場は雪の状態があまり良くなく、途中から雨になり靴にしみこんでくるなど、散々なコンディションでした。昔、一人で網張に来たことが一度だけあり、その際も大雪で快適に滑ることができませんでしたので、どうも網張とは相性がよくありません。

その上、なんということでしょう。

雨が染みてきたスキー靴に目を向けたところ、ヒビ割れががあることに気づきました。20年間使い続けた愛着ある一品だけに(平成17年から26年頃は一度もできませんでしたが)、ついにそのときが来てしまったというか、残念この上ない限りです。

このスキー靴とスキー板は、平成10年の夏頃に検察修習のお昼時間に我々(修習生4人)が指導検事のお供で大通りのレストランで昼食をとった帰りに、当時は大通りにあった石井スポーツで、「これ、お勧めだよ」とO検事からアドバイスを受けて購入したものです。

そして、頻繁にスキー場に行っていた修習時代(24歳頃)から東京で過ごした30歳近くまでの時期に、新人時代に同業の方に誘っていただいたスキー旅行などを含め、ほぼ毎年、何らかの形でお世話になってきたもので、私にとっては二度と戻らない眩しい日々を一緒に過ごした仲間のような存在と言っても過言ではありません。

それだけに、改めて、一つの時代が終わり、新たな時代が次の世代により始まっていくのだろうなどと、感傷に浸らずにはいられない面がありました。

そんなわけで一首。

老靴が役目を終えて懐かしむ夢の続きは弧らに託して
私にも青春の日々あったねと伝える靴のヒビの愛しさ

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縄文と弥生の数奇で幸運な出逢いとしてのフラガール

今回(昨年)のいわき方面への旅行は、スパリゾート・ハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)に家族を一度は連れて行こうと考えたのが発端になっており、「丸一日プールに入りたい」という同行者の強硬な要求もあって、2泊3日の旅の締めくくりに、この日は朝からハワイアンズに向かいました。

駐車場には、太陽光発電の装置が大規模に設置されていましたが、天候次第では発電以外の面でも有り難いように思われ、現在のコストのことは分かりませんが、もっと普及して良いのではと思いました。

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施設の入口では、中毒性のあるメロディで「連れてって連れてって連れてって~」というテーマソングが延々と流れており、それに倣って、

連れてって連れてって、いわきの駐車場~
日除けと雨除け、発電も兼ねちゃってってって~
ハワイア~ンズ もとい、家族サービス部。

などと歌いたくなりました。
https://www.youtube.com/watch?v=cAvOmmH9Edc

それはさておき、私自身は、旅行では名所旧跡や各種施設を時間の限り訪ね尽くす弾丸志向型で、リゾートとかプールなどという過ごし方は性に合いませんので、ご家族の皆さんお好きにどうぞ状態で同行者に任せたというのが正直なところです。

ただ、以前に映画「フラガール」は観ていましたので、フラ・ミュージアムはきちんと見ておきたいと思って、そこだけは一人で見に行きました。
http://www.hawaiians.co.jp/show/hulamuseum.html

展示は、「フラガールのあらすじ=ハワイアンズ成立の基礎となった常磐炭鉱の閉山と生き残りを巡る人々の闘いの物語」と「フラの本場たるハワイやタヒチ(ポリネシア人)のフラ文化の紹介」の2本立てとなっており、後者ではフラが宗教的・祝祭的な儀式であることなどが説明されています。

このブログでは「縄文の継承者としての東北」という視点を繰り返し強調していますが、ポリネシア人(ハワイやタヒチなどの南方系)と縄文人(北方系)は人種的に同系(古モンゴロイド)とされているのだそうで、常磐炭鉱の人々が起死回生のシンボルとしてフラを選んだ背景には、指導者の知見だけでなく、「底に流れる人種の血」といった観点も考えてもよいのかもしれません。

ただ、常磐炭鉱は「一山一家」を標榜し、ハワイアンセンターの開設(フラガールの物語)も炭坑の人々がそうした一体感を守るために始めた営みとして描かれ、特定の個人の特異な力量ではなく関係者一人一人の役割意識や団結などが重視されているわけで、そうした光景は縄文文化(個人主義)よりも弥生文化(集団主義)に当てはまるもののように思われます。

弥生人は漢民族や朝鮮民族などと同じ新モンゴロイドという人種なのだそうで、縄文人の末裔の一つである蝦夷集団(各部族)が国家と呼べるだけの社会を形成できなかったように、日本という国(ヤマト国家とその前史)はクニという巨大組織を作る力に長けた彼らが大陸から渡ってきたときから始まったと言ってよいのではと思われますし、以前に沖縄に行った際も「琉球王国は土着の縄文人ではなく渡来の弥生人が土着の民を取り込む形で作ったのではないか」と書いたことがあります。

前回述べたとおり、かつて大和国家の最北端(最前線)の役割を担ったいわきの地には縄文と弥生の結合を図る文化があり、それがフラという縄文に似た文化を活かす方法で地域の存続を図る努力が人々により営まれた底流にあるのでは、という見方もできるように思います。

そのことは「フラの本場」であるハワイの民が米国(西欧人=コーカソイド)の侵略に抗しきれずに民族としての主権を失い米国に同化する道を辿った光景や、タヒチはもちろんインドネシアなど他のポリネシア系の民族を見ても、彼らが近世・近代に国家としての強靱さを持たない状況下で西欧の侵略などに晒され苦難の道を辿ったことなどにも視野を広げると、色々と考えさせられる面があります。

ハワイアンズの宣伝によれば「フラの博物館」は世界でここだけなのだそうですが、以上に述べた観点を踏まえれば、いわきの人々がフラ(ポリネシア人の文化)を継承ないし保護振興する姿は、我々が考える以上に意味や価値のあることなのかもしれません。

そんなわけで、激しいフラの踊りの先に、失われた人類の多様な過去、そして禍々しい要塞のような原発に依存することのない未来も垣間見ることができればなどと思って一首。

誇らしく一心不乱に舞う汗は 岩城も穿つ ひとしずくかな

ただ、私自身は同行者の「目当てはプール。ショーは興味なし」との専断的決定のせいで前夜も含めフラのショーをほとんど見ることができず、トホホ感を抱いたまま立ち去ることを余儀なくされましたので、またいつの日か再訪し、改めてフラのショーなどを拝見できればと思います。

みちのくの境界で郷土愛を叫ぶ

いわき編(昨年GW)の2日目は滝桜に立ち寄った後いわき市に向かい、まずは白水阿弥陀堂を訪問しました。

白水阿弥陀堂は中尊寺金色堂の建立者たる藤原清衡公の娘がいわき地方の有力者に嫁ぎ、その財力で建立されたもの・・と思っていたのですが、それは伝説の類なのだそうで、実際は地元の有力武士らが支援を持ち寄って建立したものの、平泉との繋がりがあったこと自体は間違いないため、それを権威ないし正統性の証として宣伝する中で、上記の伝説が形づくられたのではないか、という趣旨の話がパンフに書いてありました。

阿弥陀堂自体はコンパクトな建物でしたが、毛越寺によく似た浄土式庭園があり、後背の山林を借景として相応に見応えのある雰囲気だと感じました。

パンフによれば、全盛期~江戸時代はこの数倍の規模があったものの、明治の廃仏毀釈騒動で多数の伽藍などが被害に遭ったため阿弥陀堂だけが残ったとのことで、「廃仏毀釈被害に関する北の横綱」というべき?浄法寺の天台寺と同様に、残念な思いを禁じ得ませんでした。

ともあれ、都人のエゴを発端とする悲惨な抗争と犠牲の末に平泉文化を開いた清衡公に縁を持ち、近代には薩長の威を借りた文化財破壊の被害に遭いつつ、現代もなお浄土を願い静かに祈りを続けているという点で、この地(白水阿弥陀堂)もまた、みちのくの歴史を凝縮したような面があると言ってよいのではと思います。

そんなわけで、現代に生じた福島の苦難なども踏まえつつ、阿弥陀如来のご尊顔を拝して一首。

みちのくの御仏が知る血と涙 浄土は今もなすべきを問う

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次に、阿弥陀堂から自動車ですぐの場所に常磐炭坑の往時の様子を展示した「みろく沢炭鉱資料館」があることが分かったので、そちらに向かいました。

資料館は小屋にビニールハウスを接続させた渋い施設で、小規模ですが味わいたっぷりの、ぜひ訪れていただきたい場所だと思います。

炭坑の入口跡がすぐ隣にありますが、注意を呼びかける男性が妙にニヤケ顔になっているのが気になりました。

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次いで、いわきのメイン施設の一つというべき複合水族館施設「アクアマリンふくしま」に行きました。私は昔から動物園よりも水族館の方が好きな性格らしく、浅虫・男鹿・松島(仙台)をはじめ、遠出すると動物園を素通りして水族館ばかり優先してしまう傾向があります。

それはさておき、さすがにGWのため大混雑しており魚介類より人垣を見た記憶しかないような気もしますが、施設の規模や充実度などは東北随一でしょうから、人の少ない時期に再訪しじっくりと拝見したいものです。

アクアマリンの建物は水上に浮かぶ潜水艦のような姿ですが、水族館の向こうには造成中の人工島と陸地を結ぶ巨大なベイブリッジ(小名浜マリンブリッジ)があり、水族館(潜水艦)とベイブリッジが海に向かって進もうとしているような光景は、周囲の「東北ばなれ」したアーバンリゾート的な光景(昨年に訪れた名古屋港周辺に似ています)も相まって、その先に福島の明るい未来と希望が続いているかのような印象を受けました。

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その後、県境を越えて、茨城県の北茨城市にある五浦(いづら)海岸六角堂に向かいました。

六角堂は太平洋に面した小さな崖の上にあり、明治期に日本美術や東洋美術などの復権に尽力したことで有名な岡倉天心が後半生を過ごした邸宅の敷地内に天心自ら設計して建てられたもので、ご本人が一人で自由な時間を過ごし思索を深める場として用いられていたようです。

六角堂は東日本大震災津波のため流失し近年に再建されたことでも有名で、そのニュースを見ていた関係もあり、ぜひ見たいと思って立ち寄りましたが、周辺の雰囲気もよく(男鹿半島や松島に近い雰囲気があります)、今度は岡倉天心美術館と名物のアンコウ鍋を食べに来たいものだと思いました。

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西欧列強による侵略・植民地化などの暴風が吹き荒れた時代にアジアの文化・芸術の復権に力を注いだ岡倉天心の運動ないし思想は、大日本帝国の躍進と共に社会の理解を得たものの、戦争の時代には侵略の正当化に悪用されたこともあり、その後は「アジアを一つに」という天心の思想は腫れ物のように扱われて不遇の時代が続いたようにも思われます。

しかし、中国の強大化や北朝鮮を巡る緊張などアジアが改めて世界規模の紛争の震源地になりうる状況になっている今、改めて天心の思想の再評価と運動の現代的な継承が図られるべきではないかと思います。

それこそ、この地(六角堂ないし北茨城市)が原発事故のため良くも悪くも世界の注目を集めた福島に隣接していることを前向きに捉えて、アジアないし世界の結束に向けた取り組みをしていただければと思います。

訪問時に初めて知ったのですが、震災後に復興支援映画と題して岡倉天心の苦闘を描いた「天心」という映画が制作・上映されたのだそうで、隣接する五浦岬公園には撮影のため再現した当時の建物(日本美術院)や映画の説明資料などが残されており、いずれ映画も拝見できればと思いました。
http://eiga-tenshin.com/official/

このブログでは、二戸出身の田中舘秀三・東北帝大教授が大日本帝国軍の侵攻に伴う大戦の混乱からシンガポールなどの学術資産を守った出来事を紹介し、その物語の映画化を期待する目的でシナリオ案の連載をしたことがありますが、今それが実現できるのであれば、竹中氏は秀三先生を演ずるに最も相応しい御仁の一人と思われ、そうした意味も含め、この地の方々を羨ましく感じました。

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その後、本日の宿泊地であるいわき湯本温泉に向かうためいわきに戻りましたが、折角なので、県境のある勿来の関の跡(擬定地)に立ち寄ることにしました。

勿来関は、白河関(4号線)、鼠ヶ関(日本海側=新潟・山形県境)と並んで古代にあっては大和国家の北限(蝦夷領域との国境)となった場所であり、平安朝から近代に至るまで、多くの歌人に歌枕として詠まれたことでも知られています。

といっても、頼朝(鎌倉軍)による征服までは大和国家に対する自治独立を保った北東北(北奥)とは異なり、いわき(磐城国)は飛鳥時代ころには既に大和国家の一部として、その統治体制に組み込まれていたようです。

そうした意味では、「化外の地」として大和国家とは独自の道を歩んだ北奥と異なり、福島は、古代には磐城国、中世は会津(秀吉・徳川政権による東北の監視役)、近代は郡山(明治政府の巨大開拓地)、現代は原発(首都圏への電力供給地)という形で、常に時の中央政府と強い関わりを持ちながら歩んできた歴史があると言ってよいでしょう。

それだけに北奥とは異なった形で中央権力のエゴに翻弄される面があるのだとしても、反面、北奥よりも遙かに「日本を動かす」チャンスに恵まれているのではと思いますし、現代の福島が「苦闘をバネに日本を変えるために打って出る」ような展開があれば、北奥の人々もそれを支えることができればと願わないでもありません。

私自身はこのまま静かでちっぽけな九度山のような日常に埋没してしまうのでしょうし、それが分相応とも思いますが、それで終わってよいのだろうかと余計なことを考えてしまうときもあります。

そんな悲哀?を感じつつ、丘の上の遊歩道に並べられた多くの歌碑の真似事をしたくなって一首。

さむらいは名こそ惜しみて身を捨てて 志遂ぐ死地を待つべし

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その日にお世話になった宿は家族向けにリーズナブルなサービスを提供していただきましたが、夕食に関しては質より量の印象は否めず、私には珍しく、遺憾ながら食べきれずに残してしまいました。そんなわけで、

くいだおれ家族そろって呻く夜

といった有様の方が私にはお似合いのようです。

滝桜に向き合う「ここにしか咲かない一つだけの花」

1年前の話で恐縮ですが、昨年のGWは、いわき方面に2泊で旅行しました。いわき市は(磐越道や常磐道も)今回が初訪問になります。

東北自動車道を南下した後、最初に二本松ICで下りて二本松城を訪問し、その後、田村市の「あぶくま洞」に向かいました。

二本松城は、安達太良山などの眺望が素晴らしく、平山城の広大な敷地内を散策したかったのですが、時間不足のため裏口から本丸周辺を拝見したほか、大手門(三の丸)の入口をチラ見しただけで終わってしまいました。

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その後、二本松市内で移転(避難)営業をなさっている「浪江やきそば」の名店に来てみたのですが、大行列で泣く泣く諦め、あぶくま洞に向かいました。

あぶくま洞は、龍泉洞と違って地下水脈が通っていないため、龍泉洞を何度も見ている岩手県民としては、少し物足りない面もありましたが、鍾乳石の造形美という点では、龍泉洞よりも多様で大規模な光景を楽しむことができたほか、入口の大岩壁に見応えがあるように思いました。

若干の追加料金で探検コースに立ち入ることができるのですが、かなり狭い空間を辿らなければならず、肥満の方には無理があるほか、汚れても構わない格好で入った方がよいのではと思いました。

その後、この日の宿を予約した三春町に向かいましたが、途中で、田村市にある「小沢の桜」という名所に立ち寄りました。「はつ恋」という映画のロケ地だそうで、すでに大半は散っていたものの、十分に見応えがありました。

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そして、宿に着く前に、三春といえばということで、滝桜にも立ち寄ってきました。満開から3週間を過ぎていましたので完全に葉桜でしたが、周辺もよく整備され、日本有数の銘木としての風格を感じました。

幸い、町内の山桜などは散りきっておらず、ちょうど滝桜と丘の坂を挟んで向かい合っている名もない山桜は、まだ美しい姿を見せていました。

そうした光景を見ていると、ここ数年、かつて司法研修所で一緒に勉強した方々の多くが、著名な事件を手掛けて大きな成果をあげたり司法の重要な部門で活躍されているとのニュースなどに接し、彼らが滝桜のように咲き誇っているのに比べ、私自身は震災前後から何年もぱっとしない停滞状態が続いている、そんな光景を感じずにはいられないところはあります。

ただ、私がそうした華々しい方々に遠く及ばないにせよ、滝桜の後に咲く目立たない山桜のように、いつの日か地域社会で地味でも意義や価値のある役割を果たすことができるよう、その機会が与えられる日まで地道に研鑽を積んでいこうと思います。

と、そんなことを考えつつ一首。

そびえ立つ国の誉れの散る頃に 遅咲きの花 愛でる神あり

この日は夕方に訪れたこともあり、写真映えのしない薄暗い状態でしたが、翌朝にもう一度訪れた際は、快晴の空に滝桜も周辺の山桜も、共に美しい姿を見せていました。

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民話の里の雪の妖精と青春の影

2ヶ月以上も前の話で恐縮ですが、盛岡地裁遠野支部に係属している企業倒産(破産管財)事件の関係で、2月に遠野に出張したときのことを書きます。

今回は少し時間ができたので、カッパ淵のあたりに立ち寄ることとしましたが、周辺には雪原が青空に映える美しい光景が広がっていました。

ふと、大学時代に、いわゆる司法試験受験サークル(研究室)の仲間だったある女性が、大学2年か3年の冬に白いウールのコートを着ていた姿を眩しく感じたことを思い出しました。

遠い昔の報われぬ記憶を懐かしんでも致し方のないことですが、改めて、そうした疼きが成仏できればなどと、年甲斐もなく思わずにはいられませんでした。

白纏う貴女に雪の妖精と言えぬ切なさ とうの昔に

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ちょうど、写真に撮った風景の中央に二本の枯木があり、その木々は、通学時などにささやかながらもその女性と二人きりで話した時間があったことや実ることなく終わった若き日の感情を象徴しているのだろうかなどと、馬鹿なことを思わないでもありませんでした。

続いてカッパ淵に移動し、数年ぶりとはいえ毎度ながらの光景をチラ見して帰路につきました。

大学時代の思い出に浸っていたせいか?或いは脳内の沈静化も兼ねて、ここでもテーマを変えて、もう一首作りたくなりました。

すると、私がその団体(真法会研究室)の入室試験に合格した際に「学生指導の責任者」を務めていらした大物弁護士の方(稲益孝先生)のことを思い出しました。

入室試験の発表直後に合格者(入室者)全員が集められた最初の会合の際、自己紹介で「自分は出生直後の病気のせいで左耳が聞こえません」と述べたところ、稲益先生に「私も片耳が聞こえないが、仕事は問題なくできている。君も挫けずに頑張れ」とのコメントをいただいたせいか、真法会のお歴々の方々の中では親近感というかご挨拶しやすい気持ちがありました。

ただ、稲益先生とは1年に1~2回程度にご挨拶する程度の関わりしかありませんでしたが、お会いするたびに必ず「君は今もあまり勉強してなさそうな顔つきだな」と言われていました。

まあ、そのとおりと言わざるを得ない面はありましたので(在学中の勉強では合格にほど遠い力量しか備わらなかった上、学生時代は高校の反動?で、光栄ゲーム廃人化した時期もありました)、悔しさをバネにして?勉強していましたが、合格した年に「先生、もう同じセリフは言わせませんよ」と申し上げようと心待ちにしていたところ、その年に、先生が病気で亡くなられたという報に接しました。

そうした意味では、冒頭の思い出だけでなく稲益先生との関係でも、ある種の喪失を経験したのかもしれませんし、そうした心情が、その埋め合わせを求めるように戯言じみた一首の形をとって表出している面もあるのかもしれません。

会うたびに勉学足りぬと喝破せし 師は合格の年に身罷る

以前にも遠野に出張すると短歌の真似事をしたくなると書きましたが、この地は人が心の奥底に封じ込めているものと向き合わせようとする力を有しているのかもしれません。