仙北の中心・払田柵で秋田への愛と蝦夷の魂を叫ぶ
秋田県大仙市には、ヤマト政権による奥州侵略の一大拠点と目されている払田柵があります。盛岡の志波城より古い時代でしょうが、雰囲気は似ています。
但し、こちらは本殿(跡地)が丘の上に設けられており、志波城などと比べ、平山城やアクロポリスのような?風格があります。そうした舞台装置としての効果を企図して丘の上に本殿を設けたのかもしれません。
遺跡の入口には、公式ゆるキャラ?の柵麻呂(さくまろ)の顔看板があります。
しかし、自称・蝦夷の末裔としては、色々と疑義を呈したい面がないわけではありません。
少なくとも40年前は、払田柵をはじめ、岩手・宮城側の鳥海柵や渟足柵などは、「柵=き」と読んでいたはずですが、いつの間にか「さく」に変更されたようです。
その理由はちっとも分かりませんが、私の考察では「柵」は和語である「き」と呼ぶべきで、漢語の「さく」読みは正しくないのでは?と考えます。
少し調べたところ、当時=古代期に朝廷勢力の奥州征服に伴い西国などから多くの屯田兵(開拓武装農民)が移住しており、それらの人々を当時は柵戸(きのへ)と読んだそうです。
当時の漢字=漢語の普及率は、一握りの高級官吏などごく僅かに限られるでしょうから、多くの人は漢語=音読みの「さくこ」ではなく、和語=やまとことば=訓読みの「きのへ」と呼んでいたはずです。
北岩手から東青森にかけて、一戸から九戸までの地名が現存していますが(欠番あり)、これも、柵戸=屯田兵の駐屯拠点ごとに番号を付けて呼称したことの名残ではと推察できましょう。
もちろん、私の故郷は「にのへ」であって「にこ」ではありません。ニコニコ。
結論として、当時の人々は、重要拠点を意味するであろう「柵」を「き」と呼んでいたと思われ、払田柵も「ほったのさく」ではなく、以前のように「ほったのき」と呼ぶべきではないかと考えます。
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その上で、柵麻呂に話を戻しますが、「麻呂」は払田柵に赴任するため平城京?からやってきた朝廷官人の名前をイメージしたものであることは明白で、いわば(父親と一緒に越前国に来た紫式部のように)家族連れで赴任した宮廷貴族の子供という設定で、柵麻呂というキャラを考えたことは容易に推察できます。
しかし、これは現代風に言えば、総務省や警察庁から秋田県庁・県警に2~3年だけ赴任しすぐに秋田を去って行くキャリア官僚の息子さんを、地元のシンボルとして顕彰しているようなものです。
秋田県民よ、それって変だと思いませんか?
秋田で生まれ、秋田で育ち、生涯を秋田の大地で力強く生きていく、そんな人物像こそが、地元を象徴する、ゆるキャラに相応しいのではないでしょうか。
或いは、私が知らないだけで、本当は柵麻呂にもそうした設定があるのかもしれません。例えば、父親の赴任後に秋田で生まれ、そのまま平城京に帰らず秋田の社会で在地の人々と共に生き、古代秋田の平和に尽くしていく物語があるのかもしれません。
でも、そうであればなおのこと、柵麻呂と対峙し共闘する存在として、生粋の秋田っ子、言い換えれば地元民(蝦夷)の代表となるキャラも欲しいところです。
そこで、高級官吏の子・柵麻呂と共に、蝦夷の子・柵太郎(きたろう)を登場させるのはどうでしょう。
自然を友とし大地に愛され不思議な力を持つ、ゲゲゲならぬダべべの柵太郎です。風の又三郎の二番煎じではありません。
同じ年に共に秋田で生まれた二人は、幼少期に深い絆を結ぶものの、官人と地元民に深い亀裂が生じ、やがて大人達の諍いに翻弄される。そして、それぞれの道を進む中で、時に激しく対立しつつも、やがて明るい豊かな秋田を築くために再び手を取り合う・・
そして、二人の間で心揺れる秋田美人のヒロインは、どちらと結ばれるのか?
などという物語を地元JCあたりの方々が作ってみても良いのではないでしょうか。
近江や肥後の成功事例を猿マネするだけの安易なキャラ作りではなく、地元固有のネタを生かし尽くして深い物語を創出し全国・世界から注目を集め、それを通じて郷土の物語の価値を天下に認めさせる努力を、秋田であれ岩手であれ、蝦夷の末裔の人々には、もっと頑張っていただければと願っています。