掛川城と静岡の「明日に架ける橋」たち

今年の正月は静岡県中西部に足を伸ばしました。まずは、島田市にある「世界で最も長い木造橋」とされる蓬莱橋に行きました。

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個人差はあるでしょうが、片道10~15分程度で、終点(橋の向こう側)に小さな祠があり、広大な大井川や遠方に見える富士などの眺望もよく、気軽に散策できる場所としても、訪れてよいところだと思います。

島田市は、岩手県民には震災後、放射線風評被害に負けずに真っ先に「三陸の被災廃棄物の広域処理に手を挙げた自治体」として覚えている方も少なくないと思いますが、私の知る限りでは、その後、島田市が県内ニュースなどに登場したとの記憶がありません。

同市が受入を表明した理由が、日本茶の一大産地たる同市にとって岩手が上得意という事情があったと報道されていましたので、今後も、相互交流や両県での各種物産品の販売、共同企画商品の開発と全国展開など、折角のご縁を豊かにしていく営みがもっとなされればと思っています。

次に、掛川城に行きました。こちらは、今川氏の統治時代に大物重臣の一人(朝比奈氏)が居城として築いたのが発祥とのことですが、言わずと知れた、山内一豊が「初めて本格大名に出世した城」として著名であり、現在の城郭も、(対徳川氏の防御目的で)一豊公により拡張・整備されたものとされています。

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そのため、「大河バカ」の私が「巧妙が辻」のテーマ曲を口笛で吹きながら散策していたことは、申すまでもありません。

現在の城は、江戸末期に地震で倒壊した後、現代になって地元の熱意で再建されたとのことで、東北で言えば、片倉景綱が統治した白石城に似ているのかもしれません。

数年前に浜松に行ったときには、浜松城が年末休業になっていたのですが、こちらは有り難いことに年末年始も休まず営業されているとのことで、入口にはご年配?の忍者まで出勤されており、南アジア系?の外国人ご家族ともフレンドリーにカタコト英語で会話をなさっていました。

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残念ながら二の丸美術館だけは休館でしたが、他の施設はすべて拝観可能とのことで、二の丸の御殿(藩の政庁)や城郭の一部「竹の丸」に地元の豪商が明治期に建築した邸宅跡を拝見し、二の丸茶屋で一服いただいて帰りました。

竹の丸の邸宅は、明治の廃城の際に地元の豪商が土地を取得し建築したとのことで、盛岡でいえば徳清倉庫さんのお屋敷に通じるものがあるかもしれません。ただ、外観ないし雰囲気については、青森県平川市の盛美園(「借り暮らしのアリエッティ」の屋敷のモデルになった館)に少し似ているような気がします。

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邸宅は「竹の丸」だけに本丸(天守)の直下にあり、徳清倉庫さんも、どうせなら城から離れた場所ではなく下ノ橋の袂あたりに建てていただければ、今頃は「盛岡城址の定番周遊コース」になっていたのにと、少し残念に思いました。

また、竹の丸と二の丸との間にステンドグラス美術館があり、折角なので立ち寄ってきました。

館内の解説によれば、作品自体はヴィクトリア王朝期のイギリスで作られて英国国教会に設置されたものが中心とのことですが、1960~70年代の英国で、「反王朝文化」の風潮が起きて国教会の多くが閉鎖され、協会内のステンドグラスの多くも無惨に破壊される中、たまたま日本に収集家がいるとの話があって、その方が多数を買い集めて保存されていたものを公開しているのだそうです。

館内はさほど広くはありませんが、教会に飾られていた同一サイズのステンドグラス群が聖堂のような雰囲気で並んでいる様は、かえって上品で荘厳な印象を与え、心地よい空間を演出しているように感じます。

ところで、「1960~70年代のイギリス」は、現代欧州史は不勉強なのでさほど知識はないものの、ビートルズを生んだイギリスであり、サッチャー時代の前史=英国病と後日に非難された時代であり、王朝時代への反感や国教会の衰退などという点からしても、それまで社会で抑圧されていた労働者達(の利害を代表する労働党)が、保守党(の支持者たる富裕層)に代わって社会の主役に躍り出た時代でもあるのだと思います。

だからこそ、そうした社会の光と影がステンドグラスの向こう側に垣間見えるようにも感じますし、そんな時代の荒波に晒された文化財を日本の愛好家が保護して現代に価値を繋いだということにも、大いに意義があるように感じます。

館内の解説では、ヴィクトリア王朝文化は日本の浮世絵等の影響を受けており、その原因は幕末~明治の混乱期に日本の美術品が大量に国外流出したことによるのだと記載されており、そうした「洋の東西でそれぞれ生じた美術品の受難と伝播の交錯」も、歴史や文化の深さを感じさせるものがありました。

最後に立ち寄った「二の丸茶屋」では良心価格で抹茶と和菓子をいただき(城の拝観と竹の丸や茶屋がセット券になっていました)、ちょうど休憩が欲しくなるミニ周遊の最後ということもあり、大変ありがたく思いました(茶菓子は、地元の和菓子屋さんのものを使っているそうです)。

盛岡城址には、このようなサービスを提供する庭園等を備えた施設等はない(そもそも、和菓子と抹茶を気軽に堪能できる店舗自体が城跡公園の周辺にない)ように思われ、改めて残念に感じます。

例えば、建替中の教育会館や亀ヶ池などの周辺に、そうした施設ないし店舗を設置してはいかがかと思うのですが、どうでしょうか。

掛川城周辺は、民家や公共施設なども、掛川城の景観を壊さないよう、多くの建築物が、瓦屋根や白い壁のような外観にするなど、非常に配慮された街並みを形成しており、その点もとても心地よく感じました。

盛岡は、城の建築物はおろか武家屋敷などが全く残っておらず、その原因は、南部氏が戊辰の敗戦で転封の憂き目に遭い、その際に家臣団が根こそぎ移転し家屋敷を売り払ったからだという話を聞いたことがあります。そうした「旧支配層たる公権力の喪失」は、一方で、民間活力の勃興や明治期の人材輩出に繋がった面もあるかもしれませんが、他方で街全体の香気を損なってしまったような印象もあります。

盛岡の人々も、「盛岡ブランド宣言」などと称するのであれば、公園の名称改変などという子供騙しの話ではなく、一人一人が「南部の殿様」になったつもりで、城を取り囲む風景について都市規模に相応しい歴史と現代の双方の美と用途を備えた都市計画を練り、ハードとソフトの双方を100年かけてでも作っていく努力こそが必要というべきではないかと思いますし、それが、「主権者」たる地域住民のあるべき姿ではないかと思います。

掛川城は、山内氏の性質上、ご夫婦で裸一貫から事業を興す方にとっては何かと御利益がありそうな気もしますし、そうでない方にとっても、様々な思索の源泉となる場所として、一度は訪れてよいところではないかと思います。