上申したがる市長や弁護士達と憲法そして民主主義の矜持

経歴詐称疑惑?で泥沼の騒動になった静岡県伊東市の市長さんが、辞職した上で再出馬=出直し選挙を図るという記者会見を巡る報道を拝見しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250707/k10014855891000.html

この市長さんを巡る騒動自体には大して関心がないのですが、記者会見で「検察庁に上申します」と仰っている点は、余計な一言を言いたくなってしまいます。

「上申」は立場の下の者が立場の上の者に向かって物申す、という意味の言葉。
自治体首長は、いつから検察官の部下になったのでしょうか。

或いは、刑事告訴された被疑者の立場なので、そのように仰っているのかもしれません。
が、刑事事件の被疑者も、検察官の部下ではありません。

或いは、被疑者は検察官よりも立場が下だから、という理由で、上申と仰っているのかもしれません。
検察官の判断(起訴権)次第で社会から抹殺されかねない?立場だから、と考えるのなら、上下関係という発想にも説得力があるようにも感じます。

事実、検察庁や裁判所に提出する書面に「上申書」と書く弁護士は山ほどいます(私以外のほとんど全員なのかも・・?)
或いは、この市長さんも、依頼している弁護士さんの説明等をもとに、そう仰っているのかもしれません。
有罪であることを争えない?被疑者なら、検察官(権力者)のお情けに縋りたいという気持ちはよく分かりますし。

しかし、そのような考え方は、日本国憲法(現行憲法)の本質に反しているのではないでしょうか?
被疑者が有罪か無罪かは関係ありません。

或いは、検察官や裁判官が様々な権力(前者は起訴権や捜査権、後者は裁判権や訴訟指揮権)を持っているから、「立場が上だ」と考える人は多いのかもしれません。

でも、お役人さん達の権力は憲法の理念に基づき国家・社会を正しく運営するため憲法により付託され行使すべきものであって、権力の受け手(国民?)との関係では上下関係はなく、両者は本質的には対等で、いわば役割分担の問題に過ぎません。
権力の担い手だから「立場が上だ」という考え方は、現行憲法に反しているはずです。

言い替えれば、「権力の担い手だから立場が上だ」という考え方は、お役人さん達(権力の担い手)を、神聖不可侵の存在である「帝国憲法における天皇」の代理人(絶対権力者としての天皇の附属機関)だと捉える思想に根ざすものです。

弁護士に対する書面に「上申書」と書く人はいないでしょう。
上申書という言葉は、官尊民卑(大日本帝国憲法)の思想と不可分一体のものです。

もちろん、凄まじい能力や才覚をお持ちの裁判官も検察官その他も沢山存じていますが、個々人の力量等に対する敬意と「上下」という概念を混同してはいけないでしょう。

なので、私は仕事では、裁判所や検察庁あての書面の表題に「上申書」と敢えて書かないようにしています。
必ず「報告書」「申請書」などと書いており、幸い「上申書」と書き直せと(書記官などに)言われた記憶はありません。

「上申」したがる弁護士さん達は、或いは、口先では在野法曹の矜持などと嘯きつつ、権力者が自分に都合良く動いてくれるためには、貴方は偉いね偉いね、とおもねることが大事だと思っているのかもしれません(そうした同業者は稀に見てきました)。

そのような人達が現行憲法の担い手と言えるのか、残念に感じる面もあります。

「上下」という概念それ自体を否定したいわけではありません。私も数十年に亘り優れた先達の方々から厳しい指導を受けたことで、曲がりなりにも生き残れた(今も修行中・・)と思っており、自身の研鑽を含めて、そうした文化を適切に遺して・続けていくことの大切さは感じています。

ただ、上下とは何か、また、その裏返しとしての「公とは何か、権威や権力とは何か、尊厳や主権とは何か」への理解や思索について、まだまだ日本人は発展途上のような気もしており、「上申」という言葉を今も当然のように使い続けている光景から、そうしたことも考えていただければ幸いです。

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大日本帝国が栄えていた時代、世界で偉そうにしていたのは、白人達と日本人だけと言って過言ではなかったのかもしれません。
「上申」に限らず、戦前社会の方が馴染むのかなぁ、憧れがあるのかなぁ、と感じる人々を最近も様々な場面で見かけます。

みんな、「日本人が今よりも偉かった時代」を懐かしく、或いは羨ましく思っているのかもしれません。
でも、そんな日本人に都合が良かったのかもしれない社会はもう戻ってこない。

だから、日本人ファーストなどと叫びたいなら、日本人が世界で尊敬されるためなすべき努力を国内外で自らなすべきであって、安っぽい排外主義の類はワーストへの道でしかないのでしょう。

私は、この市長さんが返り咲くか否かに関心はありません。

でも、この方に直にアドバイスできる方がおられるのでしたら、市長が検察庁に上申っていうのは、民主主義の担い手として、つまらない詐称?なんかより、はるかに恥ずかしいことじゃありませんかね、とお伝えいただければと司法の片隅で思っています。

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追伸。裁判(司法)という権力作用は、遙か昔の神明裁判の時代から、どうしても「神がかった権威」を必要とせざるを得ず(法服等もその名残でしょう)、司法機関への「上申」という感覚・慣行は、官尊民卑(「公」的権威の担い手は官僚である)という発想だけでなく、そうした宗教めいた感覚の発露ないし残滓と見るべきなのかもしれません。