南部跡目戦争を「九戸一揆」と呼ぶ方々への異議申立(後編)と一揆概念の再考要請

前回の投稿をFB上に載せたところ、歴史通の某先生から、「九戸一揆」の言葉が用いられている公的サイト(弘前市立図書館の解説文)を紹介いただき、「皆が心を一つにして秀吉に反抗した点を捉えて一揆と評したのではないか(和賀・稗貫や葛西・大崎も一揆と呼ばれているし))」という趣旨のコメントをいただきました。

岩手県南~北宮城の諸勢力(在地豪族群)と秀吉勢力との武力闘争は「和賀・稗貫一揆、葛西・大崎一揆」などと昔から(少なくとも私の幼少期から)呼ばれており、「九戸一揆」もそれに名称を合わせるべきだと考えた、というのが恐らく近時?の研究者の方々の「穏当な見解」なのだと思います。

他方、「心を一つにして反抗したから一揆だ」というのは、一揆の定義で昔から言われることではありますし、引用文章は、それを強調することで、あたかも美しい事象?だと言おうとしているように見えますが、それは一揆という現象(への評価)の本質ではないことは間違いありません。

少なくとも、家康勢力とその賛同者が心(利害)を一つにして三成らを滅ぼした戦争を一揆とは誰も言いませんし、西国諸藩云々が心(利害)を一つにして彼ら(新体制)に従わない幾つかの東国諸藩をいじめ抜いた?戦争も、誰も一揆とは言いません。

「皆が心(利害)を一つにして行う戦争」を一揆だというのなら、それらも「一揆」でないとおかしいのに。

というわけで、「一揆」の本質は、やはり「身分(今風に言えば立場)の低い=本来は従うべき(とされる)者の、高い者(同)に異議申立する集団的行為=相互が対等な関係ではないとの評価が前提となっている現象」ではないかと思います。

ちなみに、一揆をwikiで調べると、「百姓一揆は反体制運動(体制変更要求)ではなく自分達の負担(税金)が重くなるのを拒否したいだけ」との著名学者さん(呉座氏、我那覇氏)のコメントがありますが、九戸・和賀稗貫・葛西いずれも、税金(支配者による待遇悪化)への拒否闘争の類ではないので、本質が異なります(加賀国一向一揆は体制転覆なので、むしろ似てますが)。

九戸戦役は南部の跡目争いが入口(田子信直の承継が確定した=反乱だという認識は、少なくとも政実側がそれを承認しておらず流動的=紛争化した当時の状況かでは正しくないという認識です)なので、「信直を引っ込めて俺達(九戸実親?)に跡目を継がせるなら秀吉に従うよ」という「体制変更要求」があり得たはずですし、それが「独立勢力としての自分達を維持したい」に転化したのなら、主権=支配のあり方を巡る闘争なので、政治的センスのなさ(独立等を果たした津軽氏などとの落差)はともかく、いずれにせよ一揆というべきものではありません。

それ(主権闘争)は、和賀稗貫・葛西大崎など(の本質)も同様ではないでしょうか(不勉強なのでよく存じませんが)。

北東北と同じく秀吉(中央権力)との主権闘争=征服の舞台となった九州・四国・中国は、昔から「征伐」という秀吉(中央)寄りの言葉が使用されましたが、地元?では、それへの異議として「(九州の)役」という言葉が用いられてきたと認識しています(「役」は比較的短期間で収束する局地戦を意味する漢語で間違いないはずです)。

だったら東北征服も、秀吉側からは「征伐」、地元側は「侵略戦争」、中立的用語としては「戦役」など(戦役と呼ぶに相応しくない小規模な軍事行動は、制圧その他の表現)と称するのが一番正しいと思います。

敢えて西日本と北東北との違いを挙げれば、後者は秀吉の惣無事令(戦争停止命令)の発表後であり、引用文も「惣無事令(天下人=統一国家ニッポンの支配者が発した命令)への反抗だ」という趣旨で一揆と表示しているように見受けられます。

この点(惣無事令への反抗)は昔から言われており、葛西大崎一揆などは、だから一揆だと言われたと認識していますし、西日本でも、佐々成政の没落原因となった地元勢力の大反乱が「肥後国人一揆」と呼ばれているのと同じ発想かと思います。

そう考えれば、和賀稗貫一揆は統治権を付与された信直への反抗で、葛西大崎一揆は政宗の転封前に秀吉から封じられた木村吉清への反乱と言えますが、いずれも実質は軍事的空白域(占領未了地)への征服戦争=和賀稗貫以外は秀吉に命じられた征服に失敗し軍事司令官として解任された(葛西大崎は新司令官の政宗が征服に成功した)、というのが正しい見方でしょうね。

色々と考えているうちに大長文となり恐縮ですが、要は「天下人(統一国家支配者)の惣無事令への不服従だから、民衆一揆(主権闘争を目的としない重税等への異議申立)と同じだ」との発想(何でもかんでも一揆呼び)は、「中央政府に従わない奴は十把一絡げに反抗者だ」という思想が根柢にあるように思われ(それは国家主権などと呼ばれた戦前の法制・思想と軌を一にするものでしょう)、それは現代では批判的な再検討が学術的には必要なのではないか(一揆概念の整理と再検討が必要なのではないか、当時の歴史の書き手が一揆と表現したからといって、現代人が同じ言葉を用いるべきとは言えず、現代人からみて=日本国憲法の理念なども踏まえて、事象の本質を理解するのに相応しい適切な名称を付すべきではないか)、というのが私の見解です。